A.D.1,577.年、メンノー派・メノナイツ・ウォーターランド・信仰告白

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ウォーターランディアンの最初の信仰告白[編集]

信仰告白の注釈解[編集]

信仰告白の追随は多分最も古いアナバプテスツ-メノナイツの伝統である。そこには多数から成るA.D.1,577.年前からの信仰の声明であり;シュライトハイムの箇条、1,527.年からのピルグラム・マーペックのRechenschaftの1,532.年からのペーター・リーデマンのRechenshaftの1,545.年、そして他の。どんな最後の二つの第一に来る個人的な声明そして、もっとはっきりと、三つの公式化した神学の完成である。初期のオランダのメノナイツの同様に導き出した主な声明で特定の教義である、実質体で、書かれたまたは書かれない神の御言葉、バプティズム、その禁止。1,577.年の信仰告白はどんな意味でその重大なただ一つでないと言う理由の内容なので、しかしその意味する教会の声明と言う理由なのでそして引き上げ延ばされて、最も教役者の請うようなその年からの会議であり、五人の教役者の指揮による事である。
……………

アルクマアル(オランダ北西部ノールト・ホラント州北海沿岸平野に位置する都市)1,577.年、9月22日。[編集]

続く箇条は、わたしたちによって書かれた、署名された、神の御言葉に根拠のあるものである。わたしたちは一つの信仰によって下に署名する、一つの心の内側によって、一つのそれらの箇条の関係する感触であり、主の栄光と讃美に結合された。もっとそれ以上の、わたしたちは純粋に追随する人たちと神の前で自供告白箇条する、永遠に、そして永遠の真理に於いて。9[1]

I.その神について[編集]

わたしたちは聖書と一緒に信じ告白するそれはそこからしかし一つの神、全能で、聖なる、正義の、そして慈悲深い、初めと終わりの両方無い、そして、[その彼は]永遠者で、十分に理解できない、神的の、そして霊的存在の、そう、父、子、そして聖霊。彼らは他と混合し無いし、永遠から彼は前へ彼の子を持って来て十分に理解できない、言語に絶する仕方で;彼らを全く通して、彼をそのように善く見える、神は順番の世界を造ってから、持続させそして支配している彼の喜ぶ所に従がって。

II.そのイエス・キリストについて[編集]

わたしたちは聖書と一緒に信じ告白するそれはイエス・キリスト、彼の人間的な自然と一緒に、真の神と、神の御子、永遠より父は前に儲け持って来た、分かれた存在の父の外側に彼は場所を一緒の仕方の中では無くしかし、言語に絶する純粋な仕方で存在し、彼は[:決してそれからではない]父の中に留まっている訳では無く、何故ならこのようにして永遠の内に生れ彼はただ独り儲けられ、神の子として最初に生まれ、一人父と聖霊の一人としていまし、一つの実質として、真に神で。父と、子と、そして聖霊が一つとして、神的の、十分に理解出来無い、永遠者で、霊的実体で10[2]、わたしたちは父と子と聖霊は一つの意志で、一つの内心で、一つの存在で、その故に、一つ、真の、生命、全能で、そして永遠の神で。

III.その聖霊について[編集]

わたしたちは聖書によっても信じ告白する、それは聖霊が一つの実体であることを、それ故に、わたしたちは告白する父と子の神と一緒の方として。わたしたちはまたそうそれは、霊は一つの神髄で、[:原注:存在し]父と子と一緒に、分かれず、彼はそれにもかかわらず父と子から前進して発生する。11[3]

IV.その受肉について[編集]

わたしたちは聖書と一緒に信じ、告白する、それは満たされた時に神に送られて儲けられてのみ、最初の生まれは子が処女マリアに祝福されお生まれになり、彼の天の父が選びを取られて、準備して、そして聖別され。このようにそれは彼女に中に生まれ、力と全能性を通して、世界の救い主、神の彼は約束の下に女の胤(:原注:創世記、3章)、アブラハムの胤、イサク、そしてヤコブの胤。神の満ちた時の彼の約束の、まったくそれは使徒が教え、キリストは肉によって父の一族と言われ、神の祝福のすべての永遠性で、それからわたしたちはキリスト・イエスは真の神でそして永遠から来た神の子だと告白する;それは時の満ちた時、彼は完全な人として生まれ、そしてそれは彼がこのように神と人間の両方の自然に両方の属性を持たれた。(:カルケドン?

V.その神に帰することについて[編集]

わたしたちは聖書と共に信ずるそれは彼が存在し、神が目に見えない12[4]しかし霊者で、霊的存在で、初めと終わりを持たない。[:原注:わたしたちは信ずるのはそれは彼が]見えない存在で、測れない、包括的でない、すべての上に、不変のそして永遠の;いつも完全に愛の中を、長く忍び、優しい、親切な、慈悲深い、正義で、そして全能で、生命の泉で、彼から善き賜が来る。一つの他の前を好むことなしに、それは彼の一つも願うことが無くなる、しかし沢山もっと全てを救いそして生きる。

VI.その神の摂理について[編集]

わたしたちは聖書と一緒に神がすべての永遠の事がらを知りそれから偶然に起こされたことを信ずる、偶然を持たれ、そして意志は偶然、善き事或いは悪しきことの両方。[:原注:それにもかかわらず]この予知は無理やり一人も罪にさせることはない。わたしたちは告白するそれは彼はすべてを予知されたが、それは偶然すべてが起こらないことをすべて彼の意志で働かない。彼の生命の泉でさえも、光の父、そして彼自身のただ一人の真の善きこと、そうそしてすべての事がその進んでそして彼から注がれる、意志も、あらかじめ運命づけることも、そして彼からの働きで、善き、聖なる、正義そして光、永遠の神のための出来ない意志、僧職階級に任命する、前へ少しも何かを逆に持って来る彼の自らの神的自然に。それからわたしたちは神とその統治された世界の美徳にそれを告白する、善き、そして彼の摂理を永遠の意志を通して地上に正義を。わたしたちはさらに遠くへ告白する、それは何でも神の目に生意気なおこがましい者が現れる、彼からの命令によって出発させること;すべて不従順はすべて罪、すべて悪意そして邪悪は人々の間の前へ持ち込まれ、彼の意志及び彼の働きしかし彼に反対する者は、彼は見ているだろうけれど彼の苦しみを許す。要約すると、わたしたちは告白すると神は罰する時があり人々を彼の正義化にする力もある、邪悪な者たちの目を見てだけれども、正義は神の御前で。それらは彼のそう順番である、そして善きことの終わりを持って来る、と邪悪な働きも神無しで。

VII.原罪の転落と裁きと滅亡に落ちる事[編集]

わたしたちは信じるそれはアダムは神に造られたが全世界の人々は救われ永遠の命を受けるであろう、しかし人は転落しそして彼の出発は永遠の善き生命の神はあらかじめ彼の子が恩寵の座で始めることを運命づけられた、時が満ちた時点で僕からなる彼を送られた。彼の生命で救いを通してすべての人々に布告した、全く多くの彼の言葉は全く受け入れられ、後悔している、そして彼を信じている。(:原注:わたしたちは古い一人に話している)それからわたしたちは告白するそれは神に看られ、世界の土台の前に、彼は彼の子の言葉を聞かれ、彼の教えを受け取られ、そして彼の信仰によって受け入れた。13[5]この先見の明により彼に約束された、彼の恩寵で、彼の栄光の明らかは彼の子を通してである、永遠の生命の受領者である。それから、彼でさえ服従をそれらのを見てそう全く彼は信ずることを予知した、そうまた信じ無いことを予知され、計画的な不従順で、ひねくれた者で、心を堅くし、神に[:原注:対して]恩知らずで、自由意志で服従を肉にし、幾らかの人々にそれをし、それは、不信仰者で、それからまた、なぜなら彼ら自らの有罪でひねくれもので、何故なら彼らは彼ら自身神の御意志を外に置き、そしてなぜならば彼らは固執し貫き、回心なしで、地獄の深みを走り、彼は[:原注:彼らに]約束で永遠の切断の罰を受けた。

VIII.その人の体と魂について[編集]

わたしたちは神は人を二重の人に造られたことを信じる、体と魂の構成に、魂と体の、魂は体では無い、そのように体は魂ではない。からだは家のように、神殿、かまたは魂は生きている天幕の中に、しかし魂は体に霊のように住んでいる、自然の生命または支配で、聖書は様々な場所で霊を呼んでいる、息、かまたは生命。すべての人はただ一つの体を持ってでさえ、その全くすべての個人は一つの魂を持ち、二つの一緒に、体と魂、が完成されて人を造る。

IX.その不滅性について[編集]

わたしたちは人が、このように体と魂に構成されていることを信じる、一回の死に運命づけられた、それは死から体からの魂から出発した。からだは自然の生命と魂の亡くなった体を失う事により、体は死の[裁きの]下にある、その魂は生命の力を保持することと矛盾して死ぬなら、不滅と不死になる。

X.その永遠の生命について[編集]

わたしたちはそのような魂が信者の、後の体を離れるなら死ぬ事を信じる、魂は天使たちによって幸福と喜びを味わう場所に運ばれることを、その場所はわたしたちが便利よくしないで名前を知ることを除いて聖書がそれ自身が教えるところである、アブラハムの懐と命じて言うか、パラダイスと言う。それはわたしたちはそれに反して不信者の魂は死の体の分離からの後は、痛みと恐怖の苦しむ[:ところへ]運ばれ。この単純な信仰告白はそれらの場所を必ず告白する。

XI.その原罪について[編集]

わたしたちはアダムは彼の違反を通して彼の生命が破滅したことを信ずる、14[6]彼自身は彼の後世の現世に永遠の死をもたらしたことを。そう、彼に於いて神の肖が失われたことを、[:原注:彼はもたらした]邪悪な贈り物を通して、神ご自身が失われたことを。まだなおわたしたちは同じ人が神の光の形を全く奪ったことをと告白する、彼は全く闇に悪魔のその他にもたらしたと、わたしたちは告白する、どんなにしようともその彼の慈悲は、神は彼のアダムの末裔が光から転落したことを左から。この彼が幾らかの美徳を為し遂げる事が出来る事を通してそのようにそして幾らかの罪を避けるように、そしてできる、感受性を通して[:原注:この光に]そして神の恩寵に、来て共に歩むように[:原注:神と共に]。


わたしたちは関係する原罪を告白し信ずる、そのキリストはその人類の血統の(:遺伝の原罪の)力から全く自由であった、その人が死に。そこからわたしたちは子供たちに全くそれからのだから、前の時に人は故意に意志し内部の欠点を追求した。それからわたしたちは人が再建から等しく転落したことを告白する。15[7]

XII.その教会について[編集]

わたしたちは神の教会と関係していることを告白する、それは地上の顔のすべての人々によって成り立っているその人は、神の力を通し、人の内部の恩寵によって革新されたことを、彼の内に真のキリストのような内側が住んでいることを、そして彼は真の服従を神に捧げる、すべてのそれらのわたしたちは告白する、信ずる、そしてイエス・キリストの教会の掴んでいる真の仲間である。

XIII.その奉仕と任務について[編集]

わたしたちは関係していることを告白し任務と召しについての教役者たち、長老たち、奉仕者たち、の教会の僕たちについて、必要なその時の16[8]会衆の早いそれと祈り手のと一緒にの神はそれ自身で備えるであろう、彼の上の助けのための召し--彼のためただ一つ彼の収穫時に僕たちが正しく送る事が出来た--それはわたしたちが天の父の彼の名前が栄光あるものとされ会衆の間の僕たちが正しく用意する事が出来るなら;僕たちが誠実に彼の聖なる御言葉を警告できるなら、そしてクリスチャンの間の真の愛によって、彼の喜びとするところによって、飢えた魂が、[:全くよく]秘跡礼典と破門を正しく処理できるなら。それらの僕たちが選ぶ会衆の使徒たちの慣行により、全くわたしたちは読む、使徒、6章

XIV.その律法と法について[編集]

わたしたちはシナイ山でモーセが受けた命令の御言葉のその律法と法について、全能者の意志がわたしたちに宣言しているのである。

XV.その福音について[編集]

わたしたちは福音について関係していることについて告白する、それは神の恩寵と善い知らせとがある、キリストの中の公約が作られることに関し、永遠の救いの祝福と布告とそしてキリストの流血とを通して人類の種族が全く生命が救われるように、その下の信仰の構成が上にあるように。17[9]

XVI.そのバプティスマについて[編集]

わたしたちはバプティスマに関して関係していることを告白するそれはそれらの人が教役者の言葉を受け入れるように、彼が後悔と福音の信仰を会衆の中の水のバプティスマによって受けるように、神の使者のまことの言葉によって、父なる神の名前と、子と、聖霊のキリストによる教えに於いて、使徒たちによって実行するように。

XVII.その主の夕食(:晩餐)について[編集]

わたしたちは主の晩餐(:夕食)に関係していることを告白する、それは神の恩寵による徴である、神の契約の永遠の小さな徴である、礼儀式典の布告は目に見えるものである、神の会衆におけるイエス・キリストの設立されたものである。それはパンと葡萄酒と一緒に設立されたものである、パン裂きはキリストの死を記念するためのものであり、ぶどう酒は彼の血が注がれたことを記念し、それは受け入れられる、クリスチャン信仰の主の晩餐夕食のこの点が真に思い現わされるように彼ら自身が探すように。それはいつも聖書で主の晩餐夕食の教えをさらに進んでそれとその意味を、わたしたちは信じる。

XVIII.その禁令排斥について[編集]

わたしたちは破門についてクリスチャンの罰を与えることに関して告白するそれは警告するためにほかならない、キリストの教えにより伝えられていて、マタイ、18章(:15-17節)において、信仰の兄弟たちについて、他の点について違反を通して、転落か罪に留まることについて、彼らが順番に於いて再び勝利について回復することを彼等は見るであろう、それは彼の魂を勝利させるため、彼らがそれを聞き、彼らの違反を覆ってそして忘れる兄弟の愛により訓戒の設立をするため、他の手の上で、わたしたちは罪人及び違反者は熟考し頑固なことを告白する、教会により訓戒された十分の後、神の誉れからキリストの体から切り断たれ離されてしまった者(:破門排斥懲らしめでも生きているが?!)は、彼の教会会衆で純粋に留まり、そして転落から(:懲らしめられて、良心の悔い改めの)転向の手段である。

XIX.その告白について[編集]

わたしたちはもし罪の中に転落する兄弟の事を告白する、全くわたしたちはそれらの上を言及する、それと一緒にこれが起きた場合、か知るために来る場合、共通の人々は、教会の前に有罪とされるものは公けに告白し、それと一緒にそのような懲戒懲らしめを受けるようにすべきである。彼の提供述した違反を二人もしくは三人の証人で実証されるべきである。

XX.その忌避について[編集]

忌避について関することであるが、背教者の兄弟について、わたしたちは告白する、一人を全てが故意に忌避した場合罪人は情欲の生活を続ける人を教会が切り捨てる(:破門排斥する)場合、彼らと一緒に食べかまたは飲むこともしてはならない、それは彼らが恥じ事を正すようにするため。決して破門者がいやしに導かれないようにわたしたちはこの追随が希望されないように必要な時に背教の彼が否定されるように、かまたはその時に背教者がそのような食べることそして飲むことを通して罪人がくいあらため無いまま好転換されないように背教のまま背教が再び勝利されないようにすべきである。

XXI.その洗足式について[編集]

洗足式について聖徒の間に関して、わたしたちは告白する全てがまばらに軽蔑する場合兄弟たちに関して、それらの彼は必要な圧迫から耐えていてそれを通して迫害が私たちに来る場合、はい、すべての兄弟たちが来て[:それは彼らが]愛の内に[わたしたちの]家を受け入れるなら、それはすべての適したクリスチャン愛が、はい、また愛のしるしで、追随者と、旧約聖書の聖徒たちが例として伝えるによりみすぼらしいおとなしい者たちが、キリストの例に倣って教えるなら、それは彼らが洗足式と一緒に受け入れるべきである、またも新約に於いて信者たちの間で実行すべきであったこと、ティモテ8[:??]。18[10]

XXII.その結婚について[編集]

わたしたちは結婚について告白する神の設立に於いて。夫または妻のその時、純潔の内に結婚のために状態で結合させるべきである、この結婚は結合が離れるのは淫行によること以外にはない、キリストの言葉による、マタイ、19章

XXIII.その誓いについて[編集]

わたしたちは告白するその全ての軽はずみな誓いはクリスチャンには禁じられている;またもや偽りの誓いはあるいは神の名前で、あるいは聖徒の名前で為されたか、どんなにしようとも、クリスチャンの愛でそれが必要な請われた時、神を賛美して、わたしたちがひとりの上に神の証人で真理を声明するのを許す時、パウロでさえそうした。

XXIV.その死からの復活について[編集]

わたしたちは告白する、信ずるためにそして正しい者と正しく無い者の復活を予期するために。終わりの日にすべての人々が、今や、または起きそうになる時、死から復活する時、それらは彼らが起こされ体が離れていた魂が結合する時、体は他とは同じでない、しかし偶然は変わる。このようにすべての人々は裁きの神の御座の前に立つであろう、善き者は永遠の生命へ悪しき者は拘束(:バサノス)のに。


Jacop Jans S.19[11]

[Simon Michelssoon]

[Simon Jacobssoon]

[Albert Verspeck]

[Hans de Ries]

出典[編集]

,. "Confession of Faith(Waterlander,1577)." Gloval Anabaptist Mennonite Encyclopedia Online.1577. Web 7 Janu 2020.

きゃくちゅう[編集]

  1. 9. Note the "us" and "we" the undersigned in support of multiple authorship as suggested. References such as this, i.e, "the pure, etaernal, and everlasting truth," undoubtedly refer to the doctrines discussed, rather than to the articles themselves, Nevertheless, the impression is somewhat more dogmatic than has frequently been assumed with regard to teh Duch conffessions
  2. 10. The Duch term wesen may also be translated "essence." However, since the preceding sentence does refer to "substance," and in the light of the context, the term "Being" seems to be more nearly the intension of the writers
  3. 11. We note the absence of references to the Holy Spirit as the third Persion of the Trinity.
  4. 12. "Niet grijpelyck noch tastelyck,"i.e., cannot be laid hold of nor touched.
  5. 13. Themeaning of this parenthetical reference is obcure. It is possible that the writers had in mind the eternal state of the patriarchs who lived before the Incarnation.
  6. 14. "Syn leven verdorven heeft." The word leven has been changed, by another hand, to selven; i.e., Adam "spoiled himself," or "ruined homself."
  7. 15. Derhalve bekennen wij des menschen oprechtinge also synen val to syn." Synonyms for rehabilitate (oprechtinge) are: to erect, to lift up, to establish. In modern Duch the spelling has been changed to oprichting.
  8. 16. The statement "in times of need" refers to the need for ministers and church workers, not to particular emergencies.
  9. 17. The reference is undoubtedly to the "following" articles of faith, affirming the importance of the doctrines discussed, for salvation. the manuscript actually breaks off as indicated.
  10. 18. While most Anabaptist-Mennonites based the practice of footwashing strictly upon the example of Jesus(John 13) and the words of Paul(1 Timothy 5), the Duch Mennonites, as here, also emphasize the Old Testament pattern of footwashing as sign of hospitality(Genesis 18:4, 19:2, 1 Samuel 25:20, et al.).The reference to timothy 8 may have been intended to be 1 Timothy 5:10.
  11. 19. That this and other subsequent confessions of faith were not taken to be final is seen, for example, from the instructions given to Hans de Ries at a gathering of many Mennonite ministers in Amsterdam, March 4-7, 1581, to draft anew confession of faith. Simon Michelsson and Jacob Jam S. were to assist him. It was to be published as soon as the congregations had given their approval. Archief 1(Amsterdam, 1883), No. 475.


個人訳


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