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50の霊的講話/講話36

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マカリオス50の霊的講話

講話36

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<< 魂と肉体の二重の復活、そして復活した者たちの異なる栄光について >>


1. 死んだ魂の復活は今この時にも起こっていますが、肉体の復活はあの終わりの日に起こるものです。しかし、天に据えられた星々がすべて同じではなく、その輝きや大きさが互いに異なるように、同じ"霊"による霊的な成長においても、信仰の度合いに応じて違いがあり、ある者は他の者よりも豊かな実りを示します。聖書には「異言を語る者は、神の霊によって語る」(コリント人への手紙第一 14章2節)とあり、神と語り合うその人は霊的な者です。しかし、「預言する者は教会を築き上げる」(同 14章4節)のであり、その人は豊かな恵みを備えています。なぜなら、前者は自分自身を築き上げるだけですが、後者は自分自身と隣人の双方を築き上げるからです。すなわち、地にかれた一粒の麦のように、彼は一つの心から多種多様な実りを生み出すのです。さらに、麦の穂そのものも大きさが異なり、大きいものもあれば小さいものもありますが、それらはすべて同じ脱穀場へ、そして同じ倉へと集められます。そして、それらは互いに異なってはいても、それらから一つのパンが作られるのです。


2. あるいは、人々であふれかえる都市を思い浮かべてみてください。そこには幼い子供もいれば、成人や若者もいますが、誰もが同じ水源の水を飲み、同じパンを食べ、同じ空気を吸っています。あるいは、ともしびを想像してみてください。二つの燭台しょくだいを持つものと七つの燭台しょくだいを持つものとでは、より多くの光を放つものの方が、その輝き方も異なります。火と光の中に住む人々も同様です。彼らがやみの中にいることはあり得ませんが、その間には大きな違いがあるのです。もし父親に二人の息子――一人は幼子、もう一人は若者――がいるとすれば、彼は若者を都市や地方へと送り出しますが、幼子には常に自ら付き添います。なぜなら、その子はまだ何もできないからです。神に栄光あれ!アーメン。


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