鹿兒島縣史 第一巻/第三編 國司時代/第四章 國司の職制と民政一班

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第四章 國司の職制と民政一班

 律令制度に於ては、諸國は大國・上国・中國・下國の四等に分たれて、地方官たる國司は中央から派遣され、一般施設に當つてゐたが、西海道は外交上特殊の地位にあるを以て、特に太宰府を置いて九國三島を管せしめ、その長官を帥といひ、次官には大貮・少貮があつた。 故に大隅・薩摩の兩國及び多褹國等は何れも太宰府の管轄に屬してゐた譯である。

 國には國司として守・介・掾・目の四部官と、史生・博士・醫師等が置かれてゐたが、國の大小によつて其の員數が違つてゐた。 大隅・薩摩の兩國は中國であつたから、令の規定に據れば、守一人、掾一人、史生三人と、國博士・醫師が各一人で、多褹国は下國であつたらうから、守一人、目一人、史生三人であつた筈である。然るに續日本紀天平寶字四年八月の條に據れば、多褹國にも掾が置かれたらしく考へられ、律書残篇には、「薩摩國 守、介、掾、大 少目、五位以下也。 大隅國 守、掾、大目、五位以下也」と載せてゐるが、三代實録貞觀七年、中國に介を置くの條にも、大隅・薩摩の兩國は、中國たりと雖、介を置かないと見えるから、大體令制通りであつたに違ひない。 たゞ、律書残篇の記載に據つて考へるに、或る時代には薩摩國には守・介・掾・大 少目が置かれ、大隅國には守・掾の外に大目が置かれたことがあつたであらう。 但し律書殘篇は編述年代を詳にしないのみならず、その國司四部官の記載はやゝ明瞭を缺き、その記録も後よりの附加のもので、早くも仁壽三年を昇らざるものと説かれてゐるが、續日本紀の多褹國の記事と併せ考へて、恐らく或る時代の薩・隅兩國の國司の實際を記述したものと解してよいであらう。次に権員では承和九年七月、主殿首淡海豊守が大隅権掾に、主膳正丹墀繩足が薩摩権掾になつたが、これは承和の變に、伴健嵜・橘逸勢等に連坐して左遷されたものである。 一般に國司の員數は歳月の經過に伴ひ、令制よりも増加し、國司時代の末には第九章で述べる如く、同時に幾人かの権介・介掾があり、更に大目・目代等が専ら國勢を左右するに至つた。 博士・醫師は薩・隅二國の外、多褹にもあつて、何れも、終身不替の職であつたが、寶龜二年十二月に至り、八年遷替として榮達の途を開かれた。

 右の外、軍團には大毅一人、少毅二人、主帳一人、校尉五人、旅師十人、隊正廿人があつた。 郡にもその大小によつて郡司の員數に相違があり、大郡には大領・少領各一人、主政・主帳各三人、上郡には大領・少領各一人、主政・主帳各二人、中郡には大領・少領・主政・主帳各一人を置き、下郡には大領・少領・主帳各一人、小郡には領一人、主帳一人であつたに過ぎぬ。 なほ國府には學生・醫生が居り、令制に從へば、薩・隅兩國には學生は卅人、醫生廿四人居た譯であり、多褹には學生廿人、醫生十六人とある。 正倉院文書天平八年の薩摩國正稅帳には、釋奠の際、國司以下學生以上三十六人と見え、元日拜朝には國司以下少毅以上六十八人と載せて居る。又國には書生數十人があつた。 貞觀十八年五月廿一日の太政官符に據れば、薩摩國には書生四十人と見えるから、大隅も大體同様であつたらう。

 國司の主席である國守の職掌は、祠社・戶口・簿帳を掌り、百姓を字養し、農桑を勸課し、所部の糺察、貢擧・孝義・田宅・良賤・訴訟・租調・倉廩・徭役・兵士・器仗・鼓吹・郵驛・傳馬・烽候・城牧・過所・公私の馬牛・闌遣の雜物及び寺・僧尼の名籍の事を掌つて居たのであるが、特に薩摩・大隅の二國壹岐・對馬・日向等の國と同じく、鎭捍・防守及び蕃客歸化の事にも預つたのである。 其の他、毎年一回屬郡を巡回して政刑の得失を明にし、庶民の疾苦を察し、敎化を垂れ、豊功を勸め、郡司の邪正治績を考へる事になつて居る。 而して大領は所部の撫養と郡事の檢察とを掌り、また裁判を行ひ、殊に訴訟は郡司の裁判を以て第一審とし、直接人民に接するものとして重大な關係を有した。 まして郡司は多く、地方譜第の者を採用する方針で、郡司とその管下の人民とは利害を共にし、互に親密な關係を維持してゐたから尙更の事であつた。

 今天平八年の薩摩國正稅帳に據ると、郡司の部內巡行は次の如くである。先づ第一に正稅の出擧幷に收納の爲に三度巡行して居る。 出擧とは正稅の一部を民間に貸付けて利殖を圖り、其の利稻を以つて諸種の經費に充てるのである。 次に計帳の手實とて、部內各戶の戶主より、戶內の人數・容貌・年齢及び課不課等を書き記したる帳簿を徴する爲に、守が目・醫師を隨へて部內を巡つて居る。 次に庸の蓆の製造を檢校する爲に、醫師が部內を巡行し、次に百姓の損田を檢校する爲に目・醫師が巡行し、次に賑給とて水旱・災蝗に遭つて不熟となつた地を視察し、又鰥寡・孤獨・貧窮・老疾で自存し能はざる者に米を施す爲に、一度は醫師、一度は史生、又一度は守が目を從へて巡行して居る。

 次に國司は、毎年部內の政績を中央に上申するために、大帳使・正稅帳使・貢調使及び朝集使等の所謂四度の使として、また其の他の理由で上京した。 天平十年の例を、同年の周防國正税帳に據つて見るに、六月廿六日に大隅左大舎人大隅直坂麻呂、薩摩國人右大舎人薩摩君國益が都より國に下つて居る、これは續日本紀和銅三年正月に日向國は采女を貢し、薩摩國は舎人を貢すと見ゆるが如く、隼人名族の子弟であつて、都にて官仕して居たものである。 同じく周防國正税帳に、同年九月十五日に薩摩國史生雄山田連綿麻呂が下國し、十月十一日には大隅國掾土師宿禰山麻呂が上京し、翌十二日には薩摩國目次田赤染造上麻呂が上京し、十月十四日には大隅國史生日置造三立が下國し、廿日には大隅國守大伴宿禰國人が下國して居る。 斯様な際、經由する國では食料として、米・酒・鹽等を給する事となつてゐた。

 又薩・隅及び多褹は當時大宰府の管轄に屬する上から、種々府との關係が深かつたことは言ふまでもなく、往復する必要も多かつた。 天平十年の筑後國正税帳に據ると、多褹島人二十八人が牛馬の皮を大宰府に納めて歸途についてゐる事や、得度の爲に來府した多褹島僧二人のあつた事が窺はれる。

 次に年中行事の重なるものを云ふと、天平八年の薩摩國正税帳によれば、元日には朝廷を拝する儀式があり、國司以下少毅以上六十八人が出席し、次に、正月八日より十四日まで一七日の間、八巻の金光明經と十巻の金光明最勝王經とを轉讀する式がある、當時は未だ國分寺の無かつた時代で、讀僧十一人が居たのであつた。 次に春秋二季には先聖先師四座を祀る釋奠が行はれ、國司以下學生以上三十六人が式に列し、稲の外、脯三十一斤(稲一束脯一斤の割)・鰒三十六斤(稲一一斤束鰒の割)・雑腊一斗五升(稲一束腊ニ升五合の割)・雑菓子三斗(稲一束雑菓子一斗の割)・酒八斗を賜はつて居る。

 諸國の國司は史生に至るまで、郡司は主政、主帳に至るまで職分田を賜はつて居た。 薩・隅兩國は中國であるから守ニ町、掾一町二段、目一町、史生六段、多褹は下國で、守一町六段、目一町、史生は六段であつたらう。 郡司の職分田は大領六町、少領四町、主政・主帳共に二町であつた。 國司の職分田は事力が耕作するのである。 事力とは部内の人民中、中以上の戸から一年交替で探るもので、その數は、令に據れば、中國の守には六人、掾には四人、目には三人、また史生も二人を賜はり、下國では守に五人、目に三人、史生に二人であるが、和銅二年七月、太宰帥以下の事力の數を半減されたが、薩摩・多褹の兩國司及び國師僧等の分は減じてゐない。

 次に國司の食料は、薩摩國の正税帳に年料一千五百束と載せて居る。これPage:Kagoshima pref book 1.pdf/88Page:Kagoshima pref book 1.pdf/89Page:Kagoshima pref book 1.pdf/90Page:Kagoshima pref book 1.pdf/91Page:Kagoshima pref book 1.pdf/92Page:Kagoshima pref book 1.pdf/93Page:Kagoshima pref book 1.pdf/94Page:Kagoshima pref book 1.pdf/95Page:Kagoshima pref book 1.pdf/96Page:Kagoshima pref book 1.pdf/97Page:Kagoshima pref book 1.pdf/98Page:Kagoshima pref book 1.pdf/99Page:Kagoshima pref book 1.pdf/100つて、臺明寺竹と云ひ、古くから朝廷に奉獻し、平治元年七月十一日の國牒以下、此の笛竹に關する文書多く、應保二年十月廿九日の大宰府下文には、「箆竹を御所に貢するは、天智天皇の御代以來」と載せ、嘉應元年十月九日の臺明寺住僧等の解には「神武天皇御宇之時、被箆竹貢御所」と云つて居る。


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