青木繁書簡 明治43年11月22日付 青木鶴代、たよ子宛

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十一月二十ニ日  岡市東中洲松浦病院
岡県八女郡岡山村 青木鶴代、たよ子殿(姉妹)


 先度ハ御手紙難有存候。小生ハ其後海邊の方へ轉地療養候處、左肺疾患に加へて右方肋膜炎を

併發し、呼吸頗困難に陷ゐり歩行も數歩にして息切れ、病勢大に進み、致方なく當病院へ入院の

身と相成申候。

 爾來病褥の上へかつぎ上けられたる儘、前後左右の身動もならず、一兩日は付添人も有之候へ

ども其後ハ不來、食膳痰壺たんつぼ持つにも息切れ便通にも必死の苦痛、とても斯くては永かるまじくと

心念候處、醫師の介抱と友人の篤志とは漸く此難症を和らげ候ものか、さしもに衰弱せし喀血後

の弊軀も稍元氣出で、食慾付き、肋膜炎も全快、喀血も吐血も全くとまり、前後の身動きも稍自

由を得、昨今は牛乳も食膳も一人にて飲み食らひ、飯も三杯を平らげ候。又方々よりの見舞物も

ドシ食べて了ひ候。醫師も大に安心候樣子、或は此分なれば再び浮世の風に當る事もやと力

なき萬一の希望も出で候心を哀れと思召被下度候。

 去り乍ら左肺を全く犯し今又右肺を漸犯候事にて、此惡疾の到底不治の相場ときまり候もの、

稍氣分よしとて宛になるものにあらず。過日來の如くんば到底筆取りて一字も書く事ならず、此

寒さにむかひて何時又惡るくなるかも知れず、小生も今度はとても生きて此病院の門を出る事と

は期し居らず、深かく覺悟致居候に付、今の中に皆樣へ是迄不孝不悌の罪を謝し倂せて小生死後

のなきがらの始末ニ付一言御願申上置候。

 小生も是迄如何に志望の爲めとは言ひ乍ら皆〻へ心配をかけ苦勞をかけて未だ志成らず業現は

れずして茲に定命盡くる事、如何ばかりか口惜しく殘念には候なれど、諦めれば是も前世よりの因

緣にても有之べく、小生が苦しみ拔きたる二十數年の生涯も技能も光輝なく水の泡と消え候も、是

不幸なる小生が宿世の爲劫にてや候べき。されば是等の事に就て最早言ふべき事も候はず唯殘

るは死骸にて、是は御身達にて引取くれずば致方なく、小生は死に逝く身故跡の事は知らず候故

よろしく賴み上候。火葬料位は必らず枕の下に入れて置候ニ付、夫れにて當地にて燒き殘りたる

骨灰は序の節高良山の奥のケシ山の松樹の根に埋めて被下度、小生は彼の山のさみしき頂よ

り思出多き筑紫平野を眺めて、此世の怨恨と愤懣と呪詛とを捨て、靜かに永遠の平安なる眠りに

就く可く候。是のみは因緣ありて生れたるそなた達の不遇とあきらめ此不運なりし繁が一生に對

する同情として、是非〻〻取計らひ被下候樣幾重にも御願申上候。過日義雄が思懸けなく大學前

の旅館に見舞に来てくれ大に生長して又他人の中にある故にや、何事も遠慮勝ちに應接したる體

度、彼は一通りの思慮もありどうやら間違なく行きさうに存ぜられ、斯く病疾の身となれば一層

感情に脆く相成り淚のみ先立ち大に泣かされ候。又丁度喀血の最中にて感情亢奮の結果、胸をチ

剌して鮮血を喀く事疲壺に三杯、義雄も定めて驚ろきて歸へり候事と存候。

 一時は喀血四千グラムに上ぼり、瘦身貧血旣に危篤に陷ゐり候て小生も全く死の近づくを待ち

候處、其後の經過はよろしき方前述の如くに候。母樣には其中によろしく申して被下度願上候。

又御見舞に御出の事は全然やめにして被下度、一時危篤なりし故電報も差立候ものゝ、今考へれば、

御見舞も看護も受くる程の男にあらず。不幸な者は何處が何處迄も不幸にて、是が奇しき繁が運

命の跋なるべく候。却て御見舞に预かり感情興奮候時は、又〻喀血して大事に至るやも知れず、

たよ殿の志ばかりにて滿足して目を閉づ可く候。不一。

十一月二十二日
病褥にて 繁
つる代殿
たよ子殿

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