運
目のあらい
が、入口にぶらさげてあるので、往来の は仕事場にいても、よく見えた。 へ通う往来は、さっきから、人通りが絶えない。 をかけた が通る。 をした女が通る。その からは、めずらしく、 に かせた が通った。それが皆、 な の の目を、右からも左からも、来たかと思うと、通りぬけてしまう。その中で変らないのは、午後の日が暖かに春を っている、狭い往来の土の色ばかりである。その人の往来を、仕事場の中から、何と云う事もなく眺めていた、一人の
が、この時、ふと思いついたように、 の へ声をかけた。「
、 へ参詣する人が多いようだね。」「左様でございます。」
は、仕事に気をとられていたせいか、少し迷惑そうに、こう答えた。が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、どこかひょうきんな所のある老人で、顔つきにも にも、悪気らしいものは、 もない。着ているのは、 の であろう。それに えた をかけたのが、この頃評判の高い の絵巻の中の人物を見るようである。
「私も一つ、
でもして見ようか。こう、うだつが上らなくちゃ、やりきれない。」「
で。」「なに、これで善い運が
かるとなれば、私だって、信心をするよ。日参をしたって、 をしたって、そうとすれば、安いものだからね。つまり、神仏を相手に、一商売をするようなものさ。」青侍は、年相応な
なもの言いをして、下唇を めながら、きょろきょろ、仕事場の中を見廻した。―― を にして建てた、 きのあばら だから、中は鼻がつかえるほど狭い。が、簾の外の往来が、目まぐるしく動くのに引換えて、ここでは、 でも でも、皆 ちゃけた の をのどかな春風に吹かせながら、百年も昔からそうしていたように、ひっそりかんと静まっている。どうやらこの家の ばかりは、 さえも巣を食わないらしい。……が返事をしないので、青侍はまた語を いだ。
「お
さんなんぞも、この年までには、随分いろんな事を見たり聞いたりしたろうね。どうだい。観音様は、ほんとうに運を授けて下さるものかね。」「左様でございます。昔は折々、そんな事もあったように聞いて居りますが。」
「どんな事があったね。」
「どんな事と云って、そう一口には申せませんがな。――しかし、
がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい。」「可哀そうに、これでも少しは
のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、 にも――」「信心気でございますかな。商売気でございますかな。」
は、 に をよせて笑った。 ねていた土が、 の形になったので、やっと気が楽になったと云う調子である。
「神仏の御考えなどと申すものは、
がたくらいのお年では、中々わからないものでございますよ。」「それはわからなかろうさ。わからないから、お爺さんに聞くんだあね。」
「いやさ、神仏が運をお授けになる、ならないと云う事じゃございません。そのお授けになる運の善し悪しと云う事が。」
「だって、授けて貰えばわかるじゃないか。善い運だとか、悪い運だとか。」
「それが、どうも貴方がたには、ちとおわかりになり兼ねましょうて。」
「私には運の善し悪しより、そう云う理窟の方がわからなそうだね。」
日が傾き出したのであろう。さっきから見ると、往来へ落ちる物の影が、心もち長くなった。その長い影をひきながら、
に をのせた物売りの女が二人、簾の目を横に、通りすぎる。一人は手に宿への らしい桜の枝を持っていた。「今、西の
で、 の を出している女なぞもそうでございますが。」「だから、私はさっきから、お爺さんの話を聞きたがっているじゃないか。」
二人は、暫くの間、黙った。青侍は、爪で
のひげを抜きながら、ぼんやり往来を眺めている。貝殻のように白く光るのは、 さっきの桜の花がこぼれたのであろう。「話さないかね。お爺さん。」
やがて、眠そうな声で、青侍が云った。
「では、御免を蒙って、一つ御話し申しましょうか。また、いつもの昔話でございますが。」
こう前置きをして、
の翁は、 に話し出した。日の長い短いも知らない人でなくては、話せないような、悠長な口ぶりで話し出したのである。「もうかれこれ三四十年前になりましょう。あの女がまだ娘の時分に、この
の観音様へ、 をかけた事がございました。どうぞ一生安楽に暮せますようにと申しましてな。何しろ、その時分は、あの女もたった一人のおふくろに れた後で、それこそ の暮しにも差支えるような身の上でございましたから、そう云う をかけたのも、 無理はございません。「死んだおふくろと申すのは、もと
の で、一しきりは大そう ったものでございますが、 を使うと云う を立てられてからは、めっきり人も来なくなってしまったようでございます。これがまた、白あばたの、年に似合わず水々しい、大がらな婆さんでございましてな、何さま、あの じゃ、狐どころか男でも……」「おふくろの話よりは、その娘の話の方を伺いたいね。」
「いや、これは御挨拶で。――そのおふくろが死んだので、後は娘一人の
せ腕でございますから、いくらかせいでも、 の立てられようがございませぬ。そこで、あの のよい、 の娘が、お りをするにも、 故に、あたりへ気がひけると云う始末でございました。」「へえ。そんなに
い女だったかい。」「左様でございます。気だてと云い、顔と云い、手前の欲目では、まずどこへ出しても、恥しくないと思いましたがな。」
「惜しい事に、昔さね。」
青侍は、色のさめた藍の
の袖口を、ちょいとひっぱりながら、こんな事を云う。翁は、笑声を鼻から抜いて、またゆっくり話しつづけた。 の竹籔では、 に が啼いている。「それが、
の間、お籠りをして、今日が満願と云う に、ふと夢を見ました。何でも、同じ に っていた連中の中に、背むしの が一人いて、そいつが何か のようなものを、くどくど していたそうでございます。大方それが、気になったせいでございましょう。うとうと眠気がさして来ても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。とんと、縁の下で でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、いつの間にやら人間の になって、『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい。』と、こう聞えると申すのでございますな。「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり
でございます。が、何と云っているのだか、いくら耳を澄ましても、わかりませぬ。その時、何気なく、ひょいと向うを見ると、 のぼんやりした明りで、観音様の御顔が見えました。日頃 みなれた、 の御顔でございますが、それを見ると、不思議にもまた耳もとで、『その男の云う事を聞くがよい。』と、誰だか云うような気がしたそうでございます。そこで、娘はそれを観音様の だと、 に思いこんでしまいましたげな。」「はてね。」
「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路を、五条へくだろうとしますと、案の
から、男が一人抱きつきました。丁度、春さきの暖い晩でございましたが、 の暗で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、 の事わかりませぬ。ただ、ふり離そうとする拍子に、手が向うの にさわりました。いやはや、とんだ時が、 の夜に当ったものでございます。「その上、相手は、名を
かれても、名を申しませぬ。所を訊かれても、所を申しませぬ。ただ、云う事を聞けと云うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きすくめたまま、引きずるようにして、つれて行きます。泣こうにも、 こうにも、まるで人通りのない時分なのだから、仕方がございませぬ。」「ははあ、それから。」
「それから、とうとう
の塔の中へ、つれこまれて、その晩はそこですごしたそうでございます。――いや、その の事なら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい。」は、また に をよせて、笑った。往来の影は、いよいよ長くなったらしい。吹くともなく渡る風のせいであろう、そこここに散っている桜の花も、いつの間にかこっちへ吹きよせられて、今では、雨落ちの石の間に、点々と白い色をこぼしている。
「冗談云っちゃいけない。」
青侍は、思い出したように、
のひげを抜き抜き、こう云った。「それで、もうおしまいかい。」
「それだけなら、何もわざわざお話し申すがものはございませぬ。」
は、やはり をいじりながら、「夜があけると、その男が、こうなるのも大方 の縁だろうから、とてもの事に になってくれと申したそうでございます。」「成程。」
「夢の御告げでもないならともかく、娘は、観音様のお
し通りになるのだと思ったものでございますから、とうとう を にふりました。さて ばかりの をすませると、まず、当座の用にと云って、塔の奥から出して来てくれたのが を十 に絹を十疋でございます。――この ばかりは、いくら にもちとむずかしいかも存じませんな。」青侍は、にやにや笑うばかりで、返事をしない。鶯も、もう啼かなくなった。
「やがて、男は、日の
に帰ると云って、娘一人を に、 しくどこかへ出て参りました。その の淋しさは、また一倍でございます。いくら利発者でも、こうなると、さすがに心細くなるのでございましょう。そこで、心晴らしに、 なく塔の奥へ行って見ると、どうでございましょう。綾や絹は な事、珠玉とか とか云う の物が、 に幾つともなく、並べてあると云うじゃございませぬか。これにはああ云う気丈な娘でも、思わず をついたそうでございます。「物にもよりますが、こんな
を持っているからは、もう はございませぬ。 でなければ、 りでございます。――そう思うと、今まではただ、さびしいだけだったのが、急に、怖いのも手伝って、何だか もこうしては、いられないような気になりました。何さま、悪く の手にでもかかろうものなら、どんな目に うかも知れませぬ。「そこで、逃げ場をさがす気で、急いで戸口の方へ引返そうと致しますと、誰だか、
の から、しわがれた声で呼びとめました。何しろ、人はいないとばかり思っていた所でございますから、驚いたの驚かないのじゃございませぬ。見ると、人間とも ともつかないようなものが、砂金の袋を積んだ中に、 くなって、坐って居ります。――これが目くされの、 だらけの、腰のまがった、背の低い、六十ばかりの でございました。しかも娘の を知ってか知らないでか、 で前へのり出しながら、見かけによらない で、初対面の をするのでございます。「こっちは、それ所の
ぎではないのでございますが、何しろ逃げようと云う みをけどられなどしては大変だと思ったので、しぶしぶ の上に をつきながら心にもない世間話をはじめました。どうも話の では、この婆さんが、今まであの男の か何かつとめていたらしいのでございます。が、男の商売の事になると、妙に一口も話しませぬ。それさえ、娘の方では、気になるのに、その がまた、少し耳が遠いと来ているものでございますから、一つ話を何度となく、云い直したり聞き直したりするので、こっちはもう泣き出したいほど、気がじれます。――「そんな事が、かれこれ
までつづいたでございましょう。すると、やれ清水の桜が咲いたの、やれ五条の が出来たのと云っている に、幸い、年の か、この婆さんが、そろそろ りをはじめました。一つは娘の返答が、はかばかしくなかったせいもあるのでございましょう。そこで、娘は、折を計って、相手の寝息を いながら、そっと入口まで って行って、戸を細目にあけて見ました。外にも、いい案配に、人のけはいはございませぬ。――「ここでそのまま、逃げ出してしまえば、何事もなかったのでございますが、ふと
貰った綾と絹との事を思い出したので、それを取りに、またそっと の所まで帰って参りました。すると、どうした拍子か、砂金の袋にけつまずいて、思わず手が婆さんの にさわったから、たまりませぬ。尼の奴め驚いて眼をさますと、暫くはただ、あっけにとられて、いたようでございますが、急に気ちがいのようになって、娘の足にかじりつきました。そうして、半分泣き声で、早口に何かしゃべり立てます。切れ切れに、 が耳へはいる所では、万一娘に逃げられたら、自分がどんなひどい目に遇うかも知れないと、こう云っているらしいのでございますな。が、こっちもここにいては命にかかわると云う時でございますから、元よりそんな事に耳をかす訳がございませぬ。そこで、とうとう、女同志のつかみ合がはじまりました。「打つ。
る。砂金の袋をなげつける。―― に巣を食った も、落ちそうな騒ぎでございます。それに、こうなると、死物狂いだけに、婆さんの力も、 には出来ませぬ。が、そこは年のちがいでございましょう。間もなく、娘が、綾と絹とを にかかえて、息を切らしながら、塔の戸口をこっそり、忍び出た時には、 はもう、口もきかないようになって居りました。これは、 で聞いたのでございますが、 は、鼻から血を少し出して、頭から砂金を浴びせられたまま、薄暗い隅の方に、 けになって、 ていたそうでございます。「こっちは
を出ると、 の多い所は、さすがに気がさしたと見えて、五条 辺の の家をたずねました。この知人と云うのも、その日暮しの貧乏人なのでございますが、絹の一疋もやったからでございましょう、湯を沸かすやら、 を煮るやら、いろいろ してくれたそうでございます。そこで、娘も く、ほっと一息つく事が出来ました。」「私も、やっと安心したよ。」
は、帯にはさんでいた をぬいて、 の外の夕日を眺めながら、それを器用に、ぱちつかせた。その夕日の中を、今しがた が五六人、騒々しく笑い興じながら、通りすぎたが、影はまだ往来に残っている。……
「じゃそれでいよいよけりがついたと云う訳だね。」
「所が」
は に首を振って、「その の家に居りますと、急に往来の人通りがはげしくなって、あれを見い、あれを見いと、 り合う声が聞えます。何しろ、 い体ですから、娘はまた、胸を痛めました。あの りが仕返ししにでも来たものか、さもなければ、 の がかかりでもしたものか、――そう思うともう、おちおち、 を っても居られませぬ。」「成程。」
「そこで、戸の
から、そっと外を覗いて見ると、見物の の中を、 が五六人、それに が一人ついて、物々しげに通りました。それからその連中にかこまれて、縄にかかった男が一人、所々 けた水干を着て もかぶらず、曳かれて参ります。どうも物盗りを捕えて、これからその へ、 をしに行く所らしいのでございますな。「しかも、その物盗りと云うのが、
、五条の坂で云いよった、あの男だそうじゃございませぬか。娘はそれを見ると、何故か、涙がこみ上げて来たそうでございます。これは、当人が、手前に話しました――何も、その男に れていたの、どうしたのと云う訳じゃない。が、その をうけた姿を見たら、急に自分で、自分がいじらしくなって、思わず泣いてしまったと、まあこう云うのでございますがな。まことにその話を聞いた時には、手前もつくづくそう思いましたよ――」「何とね。」
「観音様へ
をかけるのも考え物だとな。」「だが、お
さん。その女は、それから、どうにかやって行けるようになったのだろう。」「どうにか所か、今では何不自由ない身の上になって居ります。その綾や絹を売ったのを
に致しましてな。観音様も、これだけは、御約束をおちがえになりません。」「それなら、そのくらいな目に遇っても、結構じゃないか。」
外の日の光は、いつの間にか、黄いろく夕づいた。その中を、風だった竹籔の音が、かすかながらそこここから聞えて来る。往来の人通りも、暫くはとだえたらしい。
「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね。」
青侍は、扇を帯へさしながら、立上った。
も、もう の水で、泥にまみれた手を洗っている――二人とも、どうやら、暮れてゆく春の日と、相手の心もちとに、物足りない何ものかを、感じてでもいるような である。「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」
「御冗談で。」
「まったくさ。お爺さんも、そう思うだろう。」
「手前でございますか。手前なら、そう云う運はまっぴらでございますな。」
「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、
けて頂くがね。」「じゃ観音様を、御信心なさいまし。」
「そうそう、
から私も、お でもしようよ。」
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