赤化廣東の過去及現在
一、勞農露國と廣東との關係
[編集]千九百十七年十月革命成るや、恰も上海に隠退せる孫文は、在米華僑の手を経て之に祝電を寄せたるに對し、當時列國に依り四面封鎖中の露國は、意外にも東方一大民族の革命思想家より頗る同情ある賀詞を受け、孫文及レーニンの間には一脈の温情流るるに至れり。越えて民國十年孫文桂林に在りて北伐を計畫中レーニンはマリンを廣東に派遣し孫文始め精、廖仲愷等と會見せしめたり。然るに此會見は唯孫文が共産主義と、孫文の産業政策の裡には靈犀相通するものあるを知り、多大の感興を興へたるに過ぎず、マリンは却て當時孫文と陳炯明との關係不良なること、國民黨の組織不適當なること及香港を中心とする英國の帝國主義勢力は、廣東政府の革命行に大障碍なるを知り、頗る失望して廣東を去り歸途吳佩学を訪問して、寧ろ吳に敬服せる由。次て十一年ョッフェ北京に著任し、孫文廣東を逐はれて上海に在るや、偶々ヨッフェ来訪し會見の結果、聯合して一の宣言を發せしことあり。其後ヨツフェ病を熱海に養ふや、孫文は廖仲愷を派し滯在約一箇月、親しくヨッフェより共産主義に關し研究指導を受くる所あり、十二年春歸國して之を孫文に報告し、弦に孫をして赤露と提携を決心せしむることとなれり。
二、露廣關係愈具體的となる
[編集]此に於て孫文は十二年夏、蒋介石を莫斯料に派遣し、共産制の實狀、赤軍の編制、教育等を研究せしめ、露廣聯合して所謂世界革命の爲、共同戦線を張るを約し、霧をして第一著として廣東軍官學校設立を援助せしむるに至れり。(軍官學校創設費の援助、兵器供給の件は後述す)
露國に於ては東方民族の革命は國民黨を援助し、孫文を支持する外なきを認め、此にボロヂン以下顧問教官を無給應聰せしむるに至れり。ボロヂン著廣第一の指導は國民黨の改組にして、民國十三年一月國民黨改組に際しては、從來非公式に收容せる支那共産黨の入黨を公然承認するに至れり。
三、國民黨と支那共產黨との闘係
[編集]民國十一年八月孫文廣東の難より逃れ上海に亡命中、支那共産黨員は深く孫文の立場に同情し、第一に来りて入黨せるは李大釗なり。李は張繼の紹介に依り孫文にし、予は第三國際黨員なるも、國際黨籍を脱せすして國民黨に入黨を許すや否やを問へるに對し、孫は李が一面第三國際黨員とし他面國民黨として、活動するも何等不可なしとて之を接納せり。之より以後支那共産黨員の入黨するもの多く、十三年改組以前は公然一般黨員の承認を得ざりしを、第一次大會に於て前記承認を興へたり。是れ一にボロヂンの指金に因るものなり、當時國民黨員中には共産主義者の入黨に反對し、遂に馮自由以下國民黨同志俱樂部を設立して孫文より分離せしことは世の記憶に新なる所なり。共産主義者入黨後は露人に親交あるを以て、自然に勢力を占め一面國民黨たるを以て之を利用して共産黨勢力の擴張を謀り、國民黨支部の存する所同時に共産黨支部を設け、國民黨の看板は彼等の黨勢擴大に利用せらるる感あらしめたり。
四、カラハンと孫文
[編集]十三年恰も國民黨第一次大會中、レニン逝去の報あるや、孫文は痛惜措く能はず、二日間大會を停會して深く哀悼の意を表せしめ、列國が未だ一も赤を承認せざる時期に於て、大に吾人の注意を惹起せり。其後カラハン北京に到着し露支國交の恢復を策するや、固より廣東政府と商談するの便にして、且彼此親交を増す所以を知れるも、實力未だ薄弱なる主權との協定は效果少きに鑑み、北京政府と交渉を開くに至りしも、而も裏面に於ては能く孫文と連絡を保ちたるは明にして、特に孫文は精を北京に派し、彼を援助せしめ帝制時代締結せる一切の不平等條約を取消すを條件とし、其成立を暗中援助せしめたり。此に於て露廣の感情は一層融合せるは當然の歸結なり。
五、ボローデンの勢力と指導
[編集]國民黨の改組軍官學校の設立に就ては已に述べし所なるも、赤露の物質的援助としては、學校創設費數十萬元(二十萬元なりとも云ふ)兵器として小銃約一萬挺(第一次四千、第二次六千と稱す)外、野砲、機關銃若干を供給しは事實なるも、現金として餘り多くの援助なきが如く、目下廣東政府の專賣なる石油を無償供給(一部は米國小石油商人より納入す)して、其収入を宣傳其他の費用に充つる由(巷間に於ては西伯利產阿片を義勇艦隊に依り輸送し、之を販賣して援助費に充つるとの説あり)ボローヂン以下四十餘名の顧問教官が無給にて活動しあるは頗る権威を増す所以にして、ボローデン(最高顧問)アニキン(ボノ秘書)ロカロフ(タラテイク(交通監)スメノフ(海軍局長)リマー(航空局長)以下各顧問教官の活動は此に省略するも、昨年廖仲愷暗殺事件に胡毅生一派との關係より敬遠せられ、露國行を強要せられたる黨代表胡漢民の派遣命令發表に際し、精衞之が斷行を躊躇するや、ボローヂンは勵聲一番、レニンは革命行の爲には恩人先輩に對する個人的情誼を捨てて顧みず、苟も革命に害ある分子を排除する峻烈なるものありて、漸く今日赤露の基礎を定めたり、尊公此些事を決行せずして果して革命の大業を成就し得るやとて、王の命令に署名を迫りしは、内部事情に精通せる者の洩す所なり。最近又蒋介石の股肱たりし師團長王功が、在汕頭第一軍の僚友に對し「吾人は遂に露人の歴迫より脱せざれば國を危ふするものなり、共に其覺悟あるを要す」と警告せる信書發覺して罷免せられたる如き、海軍局長代理たる歐陽琳が露人の横暴に憤慨して其職を去れる如き、露人指導の程度如何を卜知するに足るものにして、今や指導の範圍を脱して政府の中を支配しあるものと察せらる。赤化として敢て論ずべきものなきも、赤露の魔手が廣東に延びあるは吾人の看過すべからざる事實なり。
六、廣東軍隊は赤軍と同型なり
[編集]廣東軍隊は昨夏楊希閔、劉震寰等客軍の謀反を屠りてより、其編成を國民革命軍第一より第六に改め、軍、師、旅以下各軍には軍官學校卒業生を配布し、各團隊には赤軍コミサールに相當する黨代表(副代表は該團隊と同一地に在り)を置き、其下に各々政治部員を置き司令官、團隊長以下の謀反行為を監視し、政治部は政治教育(即ち精神教育なり)及宣傅に従事し將校以下は國民黨に入籍(全部なるや大部なるや明ならず)し、軍律を犯せば軍法を以て處分し、黨規に反すれば政治部員の彈効により制裁を加ふ。而して政治部員の指導は露國教官各軍、各隊に在りて之に當り政治部員は下級將校に對し一週約八時間を其教育に充て、下士卒には毎日多くの時間を政治教育に費し所謂孫文の三民主義を徹底せしむるに努めあり。其他赤軍の軍隊内細胞に類する制度を用ひあり。此外黨代表は來りて時々講演を爲し、軍人精神の統一を圖りあるは特に注意すべき點にして、昨夏汕頭方面に轉戦せる第一軍の如きは、軍厳粛にして大に地方人心を收攬せる由、北方軍隊が單に主従關係に律せらるるか金銭に釣らるるに反し、精神教育(政治教育)に著眼し、革命を標榜せる國民政府の建設に害あるものを除くを以て軍人軍隊の本領とし、軍人精神の統一を圖りあるは一進歩と謂はざるべからず。軍官學校學生隊が昨夏東江方面に將亦楊劉軍討滅に偉勳を奏せるは、其結果なりとも想像せらる。(但し途上行軍せる軍隊の威容は何等舊態を變せず、依然としてだらし無きものなり)
軍官學校卒業生は右改革の中堅にして第三次卒業迄を各軍に配布(第一軍最も多し)し、最も進級の速なるは少將級(旅長にあらざるも政治部長として少將待遇)のものあり多くは下級士官なり。而して第一期卒業生中露人に接近し、共産主義色彩を帶へる者の抜擢せらるるに鑑み、第二期以後の卒業生は一層赤化的傾向ある由なるも所謂赤大根なるや知るべからず、軍官學校は本年に入り之を軍事政治學校と改め全國より募集し、目下己に二千餘名を有し政治科、軍事科に分ち政治科卒業生を以て主として宣傳員に充つる由、朝鮮人をも收容せりと。而して現生徒は中學卒業生以上のものにして無月謝にて、六箇月教育し卒業後一箇年の義務勤務を負擔せしむる條件なりと云ふ。
七、國民政府の施設には共産化せるものなく財政は漸大統一されんとす
[編集]前項軍事の統制を圖ると共に財政の統一を断行しつつあるは聊か驚異すべきなり。從來廣東軍隊は客軍主となり廣東各地に盤踞して地方収入を握りて恋に軍費と爲し、高級軍人は其多くを横領しあり、政府収入は云ふに足るものなく二、三年前孫文在職當時は、公產を競賣し寺院を没収し各種の惡税を徴し富豪に賦課し辛うして所要を辨しあり甚しき例は天棚(日)に迄課税せし狀態なりしも、軍制改革以來軍隊の地方收入横領を禁止し、収入は悉く國庫に屬せしめ、中央銀行を設けて財政の刷新を断行しつつあり。河南李編林軍のみは昨夏反政府軍討伐に際し、軍費を融通したるを以て、政府は債務決済迄地方収入を李の處分に委す)。
財政部長宋子文の今春第二次大會に於ける報告に據れば、民國十二年全省収入は一千萬元にして毎日平均八十五萬元、十三年全省收入七百九十八萬六千元、每日平均六十六萬五千元、十四年新財政制度を始めたる當初は毎月収入百五十萬元、同十月の収入は三百六十一萬六千餘元に達し、之を従前のものに比較し六倍餘に相當す。今や廣東省は東路南北路共に戦争靜せる故、収入は更に増加を見るべく、其他の官業收入、煙酒税、印花鹽税其他の増収を圖りありて今年度豫算には其収入約六千萬元七千萬元に達し得る望あり、廣東省三千五百萬人に對し毎人二元の負擔に過ぎすと述べ居れり、此内には勿論宣傳もあるべしと信ずるも、軍人に對し欠餉を例とする支那に於て、毎月必ず定額の給輿を爲し、而も従前より増額しあるより見るも財政状態の一端を下するに足る。
目下の徴税は孫文時代の悪税は多くは改められ、富豪に對する臨時賦課金の如きも從前の如くしきものなく、營業税の如きに累進税を課し會政策を施しあるも、何等共産化したる施政を見ず。中央銀行の紙幣濫發は事實なるが如きも、兎も角財政整理が成功の途にあるものと觀察せられる。
八、黨內左右兩傾の軋轢漸く盛ならんとす
[編集]孫文死去後黨内左右兩傾の軋轢は、日を追ふて進みに昨夏廖仲愷暗殺事件當時より愈々明闘化するに至り、國民黨先輩は共産系新黨員跋扈に依り廣東を見捨てて多くは上海方面に移り、過般所謂西山會議をせるに對し、左傾派は本春廣東に第二次全國代表會議を開き黨議を以て右傾派に對し、夫々除名、警告、注意を興へたるは周知の事實なり。然るに第二次大會前後に於て、上海左傾派中孫科等は黨の分裂を不利とし、廣東左傾派と妥協せんとする傾向あるも思はしからず、目下廣東は汪精衛、蒋介石、譚延闓、伍朝樞等の舊黨員ある外譚平山、陳公博、陳孚木、甘乃光等共産系新黨員の天下にして親露派包圖中にある圧精衞は此等に追従するの巳むなき情況にあるが如し。上海方面に在るは戴天仇、許崇智、張繼、林森、居正鄒等にして廣東の第二次大會に對抗する意味にて、三月二十九日上海に於て右傾派の第二次全國代表會議を開き、互に本家争を爲しあるか如し。而して右傾派は飽く迄共産派を排除し孫文の遺訓したる三民主議に依り國民黨の本領に立直さんとて、廣東政府の改造を企てあるが如く、之が爲最近各地に孫文主義學會を設けて輿論を喚起しあり。去る三月十二日孫文一週年に際てしも北京にありては左右各場所を異にして祭祀を營み、南京に於ては祭場に於て左右兩系の衝突あり。廣京に於ては第五項に陳べしが如き政府内部に於て反共産系の反對あり。國民政府の外形は軍事、財政の整理に依り一見基礎鞏固ならんとするが如きも、内部は頗る不安の空氣に満たされ、三月二十日には蒋介石に依り小クーデター行はれたり。昨今漸く其真相稍判明せるも傅へらるる所は、急進共産系分子が國民政府改造を企てし形跡あり。其謠言に驚きし蒋介石は自己擁護の爲、反對分子を拘禁せるものにて運動と上海右傾派とは毫も連絡なきが如く、今後國民黨の内部は多事ならんとする感あり。
この著作物は、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しているため、日本においてパブリックドメインの状態にあります。
| ウィキソースのサーバ設置国であるアメリカ合衆国において著作権を有している場合があるため、この著作権タグのみでは著作権ポリシーの要件を満たすことができません。アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインの状態にあるか、またはCC BY-SA 3.0及びGDFLに適合したライセンスのもとに公表されていることを示すテンプレートを追加してください。 |