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諏訪信重解状(書き下し文)

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信濃国諏方上宮大祝信濃守信重のぶしげ、並びに神官・氏人等、解を申して恩裁を請ひ申す事。

特に恩慈を蒙りて、先例に任せて裁下せられたく候。

去年の御造営に、下宮祝盛基、新儀を致すに依りて濫りに訴へ申す。本宮の例に任せて沙汰を致すべく申すところ、去る十二月五日、両社に御下知を成されし処、本宮の旨と為さずに掠め申す。同月十七日、の御下知状を召し還され、子細の状を以て、当社は本宮たるの条々、

守屋山麓御垂跡の事

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右、謹んで旧貫を検するに、当みぎり昔は守屋大臣もりやだいじんの所領なり。大神天降りたまふのとき、大臣は明神の居住をふせぎ奉り、制止の方法を励ます。明神は御敷地と為すべきの秘計を廻らし、 或いは諍論を致し、或いは合戦に及ぶの処、両方雌雄を決し難し。ここに明神は藤鎰を持ち、大臣は鉄鎰を以て、此の処に懸けてれを引く。明神即ち藤鎰を以て、軍陣の諍論に勝得せしめ給ふ。 しかる間、守屋大臣を追罰せしめ、居所を当社に卜して以来、遙かに数百歳の星霜を送り、久しく我が神の称誉を天下に施し給ふ。応跡の方々是れ新なり。明神はの藤鎰を以て当社の前に植ゑしめ給ふ。藤は枝葉栄え「藤諏訪ふぢすはの森」と号す。毎年二ヶ度の御神事之を勤む。それより以来、当郡を以て「諏方すは」と名づく。

爰に下宮は、当社夫婦の契約に依りて、「姫大明神」の名を示す。然而しかれども、当大明神し守屋を追ひ出さしめ給はずんば、いかでか両社ともに卜して居たまはんや。天降りの元初よりして本宮たるの条、炳焉へいえんたるべし。

一 当社の五月会・御射山濫觴の事

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一 大祝を以て御体と為す事

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右、大明神御垂跡以後、人神ひとがみと現れたまひ、国家鎮護を眼前と為すの処、機限にかんがみ、御体を隠居せしむるの刻、御誓願に云はく、「我に別体なし、はふりを以て御体と為すべし。我を拝せんと欲せば、すべからく祝を見るべし」と云々。仍ての字を以て祝の姓に与へ給ふ刻、明神の口筆を以て、祝をして神事の記文に注し置かしむ。大宣」と号す。而してむねたる御神事の時は、毎年大祝おほはふり、彼の記文を読み上げ奉り、天下泰平の祈請に至る事十ヶ度なり。社壇の明文、ただ之れに在り。

次に神氏人の子息を以て、六人王子の御体と為す。是れを「神使」と号する云々。毎年正月一日に御占を以て之を差し定めしむ。一年中百余度の御神事に御神使を先として勤仕せしめ、次に御射山の時は、大明神の刻例に遂ひ、大祝は菅の行縢むかばき・帯・胡籙やなぐひを用ひ、五ヶ度の日の間御祈祷を致す。是れ則ち御誓願の旨に任せ、明神の御体たるが故なり。

凡そ垂跡の方便は余社に畢れり、何ぞ彼の社と等同と謂ふべけんや。

一 御神宝物の事

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大明神天降り給ふの刻、御随身せしめし真澄鏡・八榮鈴、並びに唐鞍・轡等之れ在り。御鏡は数百歳の間陰曇無く、鈴は其の音替ること無し。毎年二ヶ度、大祝彼の鏡に向かひ、件の鈴を振り、天下泰平の祈請を致す。鞍・轡等は其の色損ぜず。

爰に小馬有り。蒲生御馬と号す。会田御牧、必ず現奇の相馬有るを以て、彼の御馬の孫葉たるの由を知り、之れを取らしめ、食物として当在所の高家郷、在家一宇、田一町を引き募り、之を飼はしむるの事、貞光祝の時に至るまで陵逓無くして、御渡の時には、件の馬必ず水より出づるが如く汗を流す。是れを以て御渡の由を知るの条、申伝ふる所なり。然りと雖も、保元の御乱逆のころより、彼の御馬自ら陵怠せしめ畢んぬ。免田・免在家、今に顕然たる者か。

凡そ此の如き御神宝物は皆上社に在り。何ぞ大宮と為さざるや。

一 大奉幣懃行の事

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右、帝王御即位の時、諸国一宮に大奉幣を行はる。而して上社に於ては之を行はるといへども、下宮には敢へて其の儀無し。且つ数代の間、蔵人の送る所の文、明白なり。始めは王臣より、参詣の諸人に至るまで神を敬ふの例、本社たるの条、炳焉なり。いかでか本宮の号を削られむや。

一 春秋二季御祭の事

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一 御造宮の時、上下宮御宝殿、其の外の造営の事

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右、上社寅申は、二月初寅申に御符ありて、当国中に米銭を弘め集む。同じく四月初寅申に御柱を奉じて引かしむ。御殿は、安曇・筑摩両郡を所役と為し、三万五十人の夫を以て勤仕せしむるの刻、在庁一人を大行事とし、書生一人を小行事と為す。蓮材木を取り、遂に御造営仕り畢ぬ。今、下宮御宝殿を覆勘ふくかんし申すに、僅かに作料を取り計る計りにて、社家の沙汰と為して造営せしむ。其の上、祭の時は在庁の沙汰と為して、鹿皮十枚、(扌+弖)皮十枚を、両社の内に分ち進らす。上社十八枚、下宮二枚なり。其の外の祭具は悉く注進するにいとまあらず。凡そ神の置手を崇敬せしむるに、本来の差別懸隔あるべきや。

右、信重が曩祖もうそ、信祝の嫡子・神太仲、伊豫前司殿の奥州下向して上洛せし時、両社の文書を帯し、美濃国に於て不慮の外に死去せし間、紛失せしめ、之れに依りて信為、延久年中のころ、新券を以て上下して四至の堺を立て、同四郎に譲与して貞び畢んぬ。其の時、下宮祝大耳氏并びに神官等、判形を加へ、彼の譲状を出す。其の状に云ふ、「本宮の御判の旨に任せて、判形を加へ畢んぬ」と云々。且つ彼の状を案ずるに、御披覧の為に随身せしめらるる所なり。本宮の旨、明白なり。盛基、先蹤せんしょうを知らざるに依りて、拠とせざるの濫詐を致すか。又は陰に子細を承りて、今の案を以て言上せしめるか。輙く私詞を以て、本宮の号を支申するの条、両社の冥慮に応ずること難き者か。前条の言上、斯くの如し。そもそも故右大将家御代の始めより、治承・承年中以来、当御時に至るまで、数十箇度の御乱逆に、諏方一家の者共、或は疵を被りて敵を討ち、或は命をのこして譽名をなす、合戦の忠にれざることなし。彼の注文の如し。就中なかんづく、承久兵乱の時、山道に向ふべきの由、六月十二日御教書を以て仰せ下さると云々。


大明神は日本第一の軍神にして、祝を御体と為すの由、御誓願これ在り。今度の合戦において敵人を討ち、勝たしめ給ふ事、疑ひ無きかと云々。之れに依りて信重一家を引率し、大井戸の敵人に向かひ、合戦を致し忠を尽くし、勳功賞を預かり畢んぬ。相はげしき一家の輩も同じく忠節をき、勳賞を蒙る者数十人なり。

先条に言上せし如く、大明神は海上に於て秘計を廻らし、高丸を追討せしめ給ひ、承久兵乱の刻には、信重をして御体と為し、河上に於て怨敵を誅せしめ畢んぬ。海上と云ひ、河上と云ひ、古今に異なれども、当社の冥感は是れ新たなるか。然れば、大明神は早くより関東安隠の擁護を致し、勝陣敵を討つの利生を施し、祝並びに氏人等、忽ちに弓箭を流し、武備名利、後葉に及びて、神霊の徳の勝用を顕明せしめ給ふや。

爰に下宮は、当社に夫婦の礼儀を顕はし、朝家擁護の利生を致す者なり。

然るに、何ぞ神と神との契約を閣き、本社の威光をうたがはんや。この条、本社の先蹤事新しく、言上すべきには非ずと雖も、粗略に子細を申さざるは、其の恐れ有るに依りて申上ぐるなり。

然而しかるに、盛基、今の案に依りて、輙くも本社の名を改めんと欲するの条、垂跡の化儀を嘲るに似たり。恩慈を望み請ひ、且つ当社敬神の旧説に任せ、且つ延久の本券の状に依りて、新儀の濫吹を停止せられたく、先に下されし本宮の御下知の状の如くに成さしめらればめば、いよいよ憲法の貴きを仰ぎ奉るべし。

仍て状に勒し、謹んで解を以て申上ぐ。

宝治三季三月 日 大祝信濃守信重在判

進上 御奉行所

此の年、宝治三年三月十八日、建長に改元となる。


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