蜂の書/第59章
蜂の書
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第59章
[編集]<< 義人の幸福と罪人の苦しみ、そして彼らがそこでどのような状態にあるか >>[1]
ゲヘナで苦しむ人々がどのように苦しむのかを、私たちが知り、説明することは正しいことです。もし彼らが苦しむのであれば、どうして彼らが苦しみを受けないと言えるでしょうか。また、もし彼らが苦しまないのであれば、罪人に対する拷問はありません。そして、罪人に対するその罪に見合った拷問がないのであれば、義人がその労苦に対する報酬として幸福を得ることもできません。教父たちが言うように、罪人がゲヘナで受けるであろう苦しみは、棒で打たれたり、肉を切り裂かれたり、骨を折られたりといった手足を痛める苦しみではなく、正義を犯すことへの悲しみ、恥ずべき行為への悔い改め、そして愛し合い、強い愛情を抱く相手からの追放といった、魂を苦しめる苦しみです。復活において、私たちは太陽がその輝きを、月の輝きを、真珠の美しさを知覚できないように、知覚力を失うことはない。理性の力によって、私たちは幸福の喜びも、拷問の鋭い苦痛も、完全に感じるのである。それゆえ、義人が幸福の喜びを知覚できるようにするものによって、悪人もその同じものによって、自分たちの拷問の苦しみを知覚するであろう。つまり、快楽を受け取る力、すなわち知性によってです。
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したがって、知性が私たちから奪われることはなく、極度の浄化と洗練を受けることを確信するのは正しいことです。来世の栄光に満ちた善いものは、この世のものとは比べものになりません。なぜなら、この世の栄光に満ちた善いものや喜びのすべてが来世で私たちに与えられたとしたら、私たちはそれを憎むべき忌まわしいものと見なし、それらは私たちに喜びや歓喜を与えることはできず、私たちの性質はその不滅の祝福によって、それらのすべての栄光や魅力よりも高く評価されるでしょう。また、この世のあらゆる苦痛や苦悩や悩みが来世で私たちにもたらされたとしても、それらの痛みは私たちの不滅で不変の性質に何の影響も及ぼさないでしょう。したがって、来世の喜びは、あらゆる比較を超えて、この世の喜びよりも栄光に満ち、優れ、高貴なものなのです。そして、あちらの苦しみもまた、ここにあるものとは比べものにならないほど厳しく、苦いものなのです。
義人の光の質についても説明しておくべきでしょう。義人の光は、(私たちの)この元素の光のような自然起源のものではなく、万の太陽よりも輝きを放つ主の光の一部が拡散され、彼らに降り注いでいます。聖パウロが言ったように、それぞれの聖人は、その純粋さ、神聖さ、洗練さ、誠実さに応じて輝きます。「一つの星が他の星よりも栄光に勝るように、死者の復活もまた同じである。」[2]。また、すべての聖徒たちがひとつの王国で幸福に暮らすとしても、王や花婿に近い者と、客間の端にいる者とは、たとえ同じ部屋にいても、引き離されるでしょう。ゲヘナの罪人たちについても同様です。彼らの判決は同じではない。各人の罪の大きさに応じて、責め苦を受けるからです。太陽の光は月の光とは比べものにならないように、月の光は星の光とも似ていないように、義人の幸福もまた同じです。義の名と誉れは、彼らすべてに与えられ、行き渡っているにもかかわらずである。主の人間性の光が、区別なく私たちの肢体すべてを通り過ぎ、私たちのために衣服や装飾品に取って代わるように、私たちもすべての肢体でゲヘナの苦しみと責め苦を感じるでしょう。
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主が聖徒たち、すなわち子供たちのために用意した祝祭の衣装は、光のものは不可受苦性であり、霊的な婚礼の部屋に入るのを妨げる汚れた衣服は情念です。新しい世界では、人間の階級や状態を表す明確な名前はありません。神と天使に帰せられるすべての名前と姓は、この世界に由来し、人間の名前は、この世界の政府によって割り当てられ、分配されたように、霊的および知的な性質の世界では、名前も姓もなく、男も女も、奴隷も自由人もなく、子供も老人も、エチオピア人もローマ人(ギリシャ人)もありません。彼らは皆、私たちの主が死からよみがえられたように、33歳の男性の完全な姿でよみがえるのです。来世では、集団や集団は二つしかありません。一つは天使と義人たちで、彼らは混ざり合って一つの教会を形成し、もう一つはゲヘナにいる悪魔と罪人たちです。
脚注
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