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薩英戦争記念碑

提供:Wikisource

文久三年六月二十七日英国代理公使ニヰール氏英国海軍
中将キューバ氏率ゐる所の支那艦隊旗艦に乗り、軍艦凡七
隻鹿児島湾に来り生麦事件の為に要求する所あり。藩主島
津忠義重臣をして之を応接せしめ往復日を累ねたるも議調
はず七月二日遂に兵端を啓き我が各砲台英艦と砲火を交
へ激戦奮闘午後に始り日暮に至りて止む。互に損傷あり其
翌三日午後英艦又隊を整え各砲台と接戦暫時にして退き
去る。其後藩主使人を横濱に派し英公使に談判し事乃ち解く
るを得たり。是我が維新前の一大事件にして永く其の光彩を
史乗に留むべき者なり。是に於て有志相謀り、記念碑を建て
て其遺跡を表し以て後人の追懐に資すと云爾

大正六年三月

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