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草川昭三君の故議員丹羽兵助君に対する追悼演説

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○議長(櫻内義雄君) 御報告いたすことがあります。
 議員丹羽兵助君は、去る十一月二日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 同君に対する弔詞は、議長において去る十二月七日贈呈いたしました。これを朗読いたします。

〔総員起立〕

 衆議院は 多年憲政のために尽力し 特に院議をもってその功労を表彰され さきに農林水産委員長文教委員長の要職につき またしばしば国務大臣の重任にあたられた議員勲一等丹羽兵助君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげます

故議員丹羽兵助君に対する追悼演説
○議長(櫻内義雄君) この際、弔意を表するため、草川昭三君から発言を求められております。これを許します。草川昭三君。

〔草川昭三君登壇〕

○草川昭三君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員丹羽兵助先生は、去る十一月二日逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表して、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)先生は、去る十月二十一日、陸上自衛隊守山駐屯地で行われた自衛隊記念式典に出席途上、刃物を持った男に襲われました。この報が伝わるや、先生を知る多くの国民は驚き、あの腰の低い庶民的な政治家がなぜと、深い悲しみに浸ったのであります。
 国会議員の殺傷事件は、去る昭和三十五年十月十二日の日本社会党中央執行委員長浅沼稲次郎氏以来であります。
 事件後、医師団の懸命な治療と御家族の手厚い看護により回復に向かわれていると伝えられ、私どもはひとまず安堵したのであります。しかし、その後容体が急変し、事件から十三日目に不帰の客となられました。
 先生は、去る二月の総選挙の際、国政に携わるのもこれが最後になるであろうと言っておられました。その先生と先生を支えてこられた大勢の方々の御心中を思うとき、言葉を失います。ただただ残念でなりません。
 私と先生は同じ選挙区で立ち、主義主張こそ違っておりましたが、政治の大先輩であり、多くの貴重な経験と高邁な人格を備えられた先生に個人的なおつき合いをいただき、父親とも兄とも慕っておりました。その私が、今この壇上において先生に追悼の言葉を申し述べますことは、まことに悲しみにたえません。
 丹羽先生は、明治四十四年五月、愛知県名古屋市にお生まれになり、名古屋中学校を経て、牧師を志して関西学院神学部に進まれました。しかし、学業半ばにして父上を失われ、長男として家業の土木建築請負業を継ぎ、一家を背負われることになりました。先生の温厚、実直なお人柄は同業者の信望を集め、やがて地元業界の指導的立場を占められるに至りました。
 私はかつて、先生が政界入りをされた動機をお尋ねしたことがあります。先生は、父親が死んで家業の土建業を継いだ、でも仕事がもらえぬ、偉い人につてを求める連中はいつも仕事がある、不公平だ、平等に仕事がもらえるような世の中にしたいと義憤に燃えたと語っておられました。
 このような正義感で先生が政治の道に進まれたのは昭和十五年、二十九歳のときでありました。守山町議会議員を経て、昭和二十二年には愛知県議会議員、そして副議長を務め、昭和三十年の第二十七回衆議院議員総選挙に際し、立候補をされ、見事当選をされました。(拍手)
 本院に議席を得られてからの先生は、地方政界時代の豊富な政治経験と知識をもとに、昼夜をおかず政策研究に励まれるとともに、終始熱心に国政の審議に当たられました。そして、昭和四十三年には農林水産委員長、また四十六年には文教委員長につかれました。
 委員長としての先生は、党派を超えて公正な立場を守り、各党の意見を十分に聞き、まとめ役として重責を果たされたのであります。
 内閣にあっては、まず昭和四十九年に第二次田中内閣の国土庁長官に就任されました。さらに、五十七年には第一次中曽根内閣の総理府総務長官、沖縄開発庁長官として再度入閣、行政の簡素化、効率化を推進されました。六十三年には竹下内閣の労働大臣として三たび入閣、リクルート事件という労働省創設以来の危機に際しては、就任早々ではありましたが、職員の陣頭に立って綱紀の粛正を徹底させるとともに、労働行政の信頼回復に努められたのであります。
 他方、自由民主党にあっては、昭和四十八年から六十三年までの間に三たびも党総合農政調査会長を務められ、有数の農政通として農業政策の企画立案に先導的な役割を果たされ、米価シーズンには立て役者として大変活躍をされました。(拍手)生産者の激しい要求と厳しい政府側の査定との間に立ち、党の責任者として、徹夜の交渉の続く中で米価をまとめていくという手腕は名人芸とも言うべきで、まさに「米の丹羽兵」の面目躍如たるものがありました。(拍手)
 今日、食糧安保論が叫ばれていますが、先生は、九年前に既に「食糧安全保障への提言」という著書を出版され、いかに食糧の安定確保を図るかとの問題提起をしておられます。また、多忙な活動の合間を縫って多くの著書を発表されておりますが、それらの著作の中でバイオテクノロジーに関する三部作は、高等学校の教材として使用されるほどで、その卓越した先見性には敬服せざるを得ません。
 同僚議員の信頼の厚かった先生は、昭和六十二年、推されて自由民主党代議士会会長の要職につかれ、党内の意見調整のかなめとして尽力されてこられました。
 また、郷土愛知県にあっては、愛知用水二期工事の大事業を推進し、土地改良事業を全国に先駆けて実施し、知多半島を日本有数の酪農地帯に育て上げるなど、多大な尽力をなされました。
 先生は、地元を決して忘れず大切にされる方でもありました。「地域を最優先する政治」をモットーとされ、勲一等旭日大綬章受章の弁も、「選挙区の人々のおかげ、地方が栄えてこそ国の発展がある。」というものでした。
 かくて、本院議員に当選すること実に十二回、在職三十三年二カ月の長きにわたりました。昭和五十七年十一月には、永年在職議員として院議をもって表彰を受けられております。その際に吐露された言葉は、政治は清かるべし、政治は正しかるべしとの政治信条でした。これは、先生が初当選以来私淑していた三木元総理の「信なくんば立たず」の政治姿勢に傾倒されたこと、また、先生が若いころに、社会運動家として有名な賀川豊彦氏の影響を受けたゆえと考えられます。
 先生は人の心をじんわりと温める政治家であり、丹羽兵(にわひょう)さんの愛称で親しまれ、長老になってもおごらず、庶民性を失われませんでした。いつも名古屋弁で「あのよーう」と率直に語りかけ、だれしもが親しみを感じ、信頼を寄せたのであります。
 また、先生は、「おじぎの丹羽兵」とも呼ばれました。先生の一礼には心があり、哲学があったのです。かつて私に、おじぎをするのはけじめをつけることだと信念を披瀝されたことがあります。先生は、心は高く、身は低くを政治姿勢の基本として人に接せられたのであります。(拍手)
 この議場において議長に一礼するのはもちろんですが、議場への出入りに際しても深々と一礼をされ、また、衛視さんにも御苦労さまですと頭を下げておられました。私はそのお姿に、真の議会人としての心構えを教えられたことを思い起こします。(拍手)
 きょうの先生の議席には、清廉な人柄にふさわしく白い花が飾られております。再びこの議場で先生のお姿を見ることはできません。ただただ寂しさをかみしめるばかりです。内外情勢極めて多難な時期に、練達堪能な指導者を本院より失いましたことは、国家国民のために大きな不幸であり、惜しみても余りあることと申さなければなりません。
 私たちは、丹羽先生がこの議場から永遠に奪い去られた悔しさを改めて銘記し、このような悲しい出来事が二度と繰り返されないことを先生にお誓いし、心から御冥福をお祈りしたいと存じます。
 ここに、丹羽兵助先生の生前の御功績をたたえ、追悼の言葉といたします。(拍手)

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