自選 荷風百句
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琴唄 行秋
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- 琴唄 行秋 中能島欣一 作曲
- 行秋の雨ともならぬ薄ぐもり。
- 風は吹かねど散るや木の葉の散るなかに。
- さまよふ蝶の影一つ。
- 今見し夢の名殘かと肱つく机つくづくと。
- 戀しきはかへらぬむかしぞや。
- さびしきは宵闇の窓に。
- きいておどろく鐘の聲。
- けふも暮れけり。
- 變る姿の人の身にすぎ行く月日。
- かはりなきこそつれなけれ。
自選 荷風百句序
[編集]- わが發句の口吟もとより集にあむべき心とてもなかりしかば書きもとヾめず、年とともに大方は忘れはてしに、をり〱人の訪來りて、わがいなむをも聽かず、短冊色帋なんど請はるゝものから、是非もなく舊句をおもひ出して責ふさぐことも、やがて度重るにつれ、過ぎにし年月、下町のかなたこなたに侘住ひして、朝夕の湯歸りに見てすぎし町のさま、又は女どもと打つどひて三味線引きならひたる夜々のたのしみも、亦おのづから思返されて、かへらぬわかき日のなつかしさに堪へもやらねば、今はさすがに棄てがたき心地せらるゝものを擇みて、老の寐覺のつれ〱をなぐさむるよすがとはなしつ。
昭和丑のとし夏五月 荷風散人
春之部
[編集]- 墨も濃くまづ元日の日記かな
- 正月や宵寐の町を風のこゑ
- 暫の顔にも似たりかざり海老
- 羽子板や裏繪さびしき夜の梅
- 子を持たぬ身のつれ〱や松の内
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- 九段坂上の茶屋にて
- 初東風や富士見る町の茶屋つゞき
- まだ咲かぬ梅をながめて一人かな
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- 清元なにがしに贈る
- 靑竹のしのび返しや春の雪
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- 市川左團次丈煙草入の筒に
- 春の船名所ゆびさすきせる哉
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- 自畫像
- 永き日やつばたれ下る古帽子
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- 淺草畫贊
- 永き日や鳩も見てゐる居合拔
-
- 柳嶋畫贊
- 春寒や船からあがる女づれ
- 葡萄酒の色にさきけりさくら艸
- 紅梅に雪のふる日や茶のけいこ
- 出そびれて家にゐる日やさし柳
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- 銀座裏の或酒亭にて二句
- よけて入る雨の柳や切戸口
- 傘さゝぬ人のゆきゝや春の雨
-
- 妓樓の行燈に
- しのび音も泥の中なる田螺哉
- 室咲の西洋花や春寒し
- 日のあたる窓の障子や福壽草
- うぐひすや障子にうつる水の紋
- 色町や眞晝しづかに猫の戀
-
- 畫贊
- 門の灯や晝もそのまゝ糸柳
- 石垣にはこべの花や橋普請
-
- 送別二句
- 笈を負ふうしろ姿や花のくも
- 行先はさぞや門出の初ざくら
- 鼬鳴く庭の小雨や暮の春
- 行春やゆるむ鼻緒の日和下駄
- 春惜しむ風の一日や船の上
夏之部
[編集]- 夕風や吹くともなしに竹の秋
- よし切や葛飾ひろき北みなみ
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- 待つ人の來ざりしかば
- 永雞さへ待てどたゝかぬ夜なりけり
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- 築地閑居
- 夕河岸の鰺賣る聲や雨あがり
- 御家人の傘張る門や桐の花
- 明やすき夜や土藏の白き壁
- 靑梅の屋根打つ音や五月寒
- 八文字ふむや金魚のおよぎぶり
- 荷船にもなびく幟や小網河岸
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- 四月十八日
- 物干に富士やをがまむ北齋忌
- 芍薬やつくゑの上の紅樓夢
- 卯の花や小橋を前のくゞり門
- 百合の香や人待つ門の薄月夜
- 蝙蝠やひるも灯ともす樂屋口
- 石菖や窓から見える柳ばし
- 一ツ目の橋や墨繪のほとゝぎす
-
- 向嶋水神の茶屋にて
- 葉ざくらや人に知られぬ晝あそび
- 散りて後悟るすがたや芥子の花
- わが儘にのびて花さく薊かな
- あぢさゐや瀧夜叉姫が花かざし
- 拜領の一軸古りし牡丹哉
- 涼しさや庭のあかりは鄰から
- 枝刈りて柳すゞしき月夜哉
- 涼風を腹一ぱいの仁王かな
- 鞘ながら筆もかびけりさつき雨
- 五月雨の或夜は秋のこゝろ哉
- 住みあきし我家ながらも靑簾
- 蚊ばしらを見てゐる中に月夜哉
- 藪越しに動く白帆や雲の峯
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- 中洲眺望
- 深川や低き家並のさつき空
- みち潮や風も南のさつき川
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- 妓の持ちし扇に
- 氣に入らぬ髪結直すあつさ哉
- 秋近き夜ふけの風や屋根の草
秋之部
[編集]- 蘭の葉のとがりし先や初嵐
- 稲妻や世をすねて住む竹の奥
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- 女の繪姿に
- 半襟も蔦のもみぢや窓の秋
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- 四谷怪談畫贊四句
- 初汐や寄る藻の中に人の骨
- 樒賣る小家の窓や秋の風
- 人のもの質に置きけり暮の秋
- 川風も秋となりけり釣の糸
- 象も耳立てゝ聞くかや秋の風
- 鯊つりの見返る空や本願寺
- 庭下駄の重きあゆみや露の萩
- かくれ住む門に目立つや葉雞頭
- 淺草や夜長の町の古着店
- 糸屑にまじる柳の一葉かな
-
- 病中の吟
- 粉藥やあふむく口に秋の風
- 降り足らぬ殘暑の雨や屋根の塵
- 秋の雲雨ならむとして海の上
- 引汐や蘆間にうごく秋の雲
- 物足るや葡萄無花果倉ずまひ
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- 芝口の茶屋金兵衛にて三句
- 盛鹽の露にとけ行く夜ごろかな
- 柚の香や秋もふけ行く夜の膳
- 秋風や鮎燒く鹽のこげ加減
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- 小波大人追悼
- 極樂に行く人送る花野かな
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- 妓の寫眞に
- 吉日をえらむ弘めや菊日和
- 行秋や雨にもならで暮るゝ空
- 秋雨や夕餉の箸の手くらがり
- 雨やんで庭しづかなり秋の蝶
- 晝月や木ずゑに殘る柿一ツ
冬之部
[編集]- 初霜や物干竿の節の上
- 降りやみし時雨のあとや八ツ手の葉
- 釣干菜それ者と見ゆる人の果
- 箱庭も浮世におなじ木の葉かな
- 古足袋の四十もむかし古机
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- 代地河岸の閑居二句
- 北向の庭にさす日や敷松葉
- 垣越しの一中節や冬の雨
- よみさしの小本ふせたる炬燵哉
- 小机に墨摺る音や夜半の冬
- 冬空や麻布の坂の上りおり
- 門を出て行先まどふ雪見かな
- 雪になる小降りの雨や暮の鐘
- 湯歸りや灯ともしころの雪もよひ
- 窓の灯やわが家うれしき夜の雪
- 寒き夜や物讀みなるゝ膝の上
- 冬ざれや雨にぬれたる枯葉竹
- 襟まきやしのぶ浮世の裏通
- 落る葉は殘らず落ちて晝の月
- 落殘る赤き木の實や霜柱
- 荒庭や桐の實つゝく寒雀
- 晝間から錠さす門の落葉哉
- 冬空や風に吹かれて沈む月
- 寒月やいよ〱冴えて風の聲
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- 小松川漫歩三句
- あちこちに分るゝ水や村千鳥
- 寒き日や川に落込む川の水
- 大根干す茅の軒端や舟大工
- 下駄買うて箪笥の上や年の暮
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- 麻布閑居
- 座布團も綿ばかりなる師走哉
- 行年や鄰うらやむ人の聲

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