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聖詠講話上編/第五聖詠講話

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第五聖詠講話

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ダウィドの詠(えい)『相続者(そうぞくしゃ)の事(こと)』。

一。 前以(まへもつ)て此(この)相続者(そうぞくしゃ)の受(う)くべき遺(い)産(さん)は如何(いか)なるものなるか、及(およ)び此(この)遺(い)産(さん)相続(そうぞく)は吾人(われら)にも関(かん)するものなるかを観察(かんさつ)して、次(つぎ)に此(この)遺(い)産(さん)は如何(いか)なる場(ば)合(あい)に於(おい)て賜(たま)はらるるかを示(しめ)さん。遺(い)命(めい)によりて相続権(そうぞくけん)の吾人(われら)に拒絶(きょぜつ)されし場(ば)合(あい)に於(おい)て、自己(じこ)に属(ぞく)する財産(ざいさん)を慮(おもんばか)るが如(ごと)くに遺(い)産(さん)を穿鑿(せんさく)し、或(あるひ)は其(その)證書(しょうしょ)を尋(たづね)求(もと)め、或(あるひ)は之(これ)が為(ため)に金銭(きんせん)を費(ついや)し或(あるひ)は法律(ほうりつ)を参考(さんこう)し、法(ほう)規(き)の謄写(とうしゃ)をなす等(など)所有(あらゆる)労力(ろうりょく)を盡(つ)くすは、眞(まこと)に無智(むち)なりしならん、又(また)爰(ここ)に既(すで)に霊的(れいてき)遺(い)命(めい)のあるあり、吾人(われら)の前(まへ)には凡(す)べての文書(もんじょ)開(ひら)かれ、而(しか)も非(ひ)物質的(ぶっしつてき)遺(い)産(さん)の横(よこた)はるに際(さい)して、之(これ)を不(ふ)注意(ちゅうい)等閑(とうかん)に附(ふ)するは眞(しん)に無智(むち)たりしならん。然(さ)れば吾人(われら)は近(ちか)づきて文書(もんじょ)を開(ひら)き、其中(そのうち)に録(しる)されし事(こと)を熟(じゅく)知(ち)して、此(この)遺(い)産(さん)は如何(いか)なる規(き)約(やく)にて吾人(われら)の前(まへ)に置(お)かれしか、又其(またその)相続権(そうぞくけん)の本(ほん)義(ぎ)は如何(いか)なるものなるかを観察(かんさつ)せん。主(しゅ)は徒(ただ)に遺(い)産(さん)を吾人(われら)に遺(のこ)さずして、或(ある)規(き)約(やく)の下(もと)に於(おい)てせり。然(さ)らば如何(いか)なる規(き)約(やく)の下(もと)に遺(のこ)したるか。主(しゅ)曰(い)へり『我(われ)を愛(あい)せば我(わ)が誡(いましめ)を守(まも)らん』〔イオアン福音十四の二十一、二十三〕と、又(また)曰(い)へり『己(おのれ)の十(じふ)字架(じか)を負(お)ひて我(われ)に従(したが)はざる者(もの)は我(われ)に宜(よろ)しからず』〔マトフェイ福音十の三十八〕と、其(その)他(た)聖書(せいしょ)には尚(な)ほ多(おほ)くの規(き)約(やく)あり。吾人(われら)は斯(かか)る遺(い)産(さん)を受(う)くべき時(とき)をも研究(けんきゅう)せん。此時(このとき)は現在(げんざい)にあらずして未(み)来(らい)にあり、或(あるひ)は之(これ)を正確(せいかく)に言(い)ひ顕(あらは)せば、現在(げんざい)にてもあり、未(み)来(らい)にてもあるなり、主(しゅ)曰(い)へり『惟(ただ)神(かみ)の国(くに)を求(もと)めよ、然(さ)らば此(こ)れ皆(みな)爾(なんぢ)等(ら)に加(くは)はらん』〔ルカ福音十二の三十一〕と、然(しか)れども完(まった)く遺(い)産(さん)を相続(そうぞく)するは彼(か)の時(とき)に在(あ)りとす。現(げん)世(せ)の生命(いのち)は速(すみや)かに過(すぎ)去(さ)り、且(か)つ吾人(われら)は爰(ここ)に尚(なほ)不(ふ)完全(かんぜん)の状態(じょうたい)にあるが故(ゆえ)に、世(よ)の律法(りっぽう)者(しゃ)が既(すで)に成年(せいねん)に達(たっ)したる相続者(そうぞくしゃ)に父(ちち)の財産(ざいさん)を譲(じょう)與(よ)するが如(ごと)く、神(かみ)も亦(また)斯(かく)の如(ごと)く吾人(われら)になし給(たま)ふなり。吾人(われら)が成全(せいぜん)の人(ひと)となり、円満(えんまん)に成長(せいちょう)して不(ふ)朽(きゅう)の生命(いのち)に移(うつ)る時(とき)は、神(かみ)も亦(また)此(この)遺(い)産(さん)を吾人(われら)に譲(じょう)與(よ)し給(たま)ふなり。然(さ)れど神(かみ)は爰(ここ)にも同(おな)じく信憑(しょうこ)となるべき文書(もんじょ)を吾人(われら)に遺(のこ)して、吾人(われら)が遺(い)産(さん)を受(う)け、又(また)相続権(そうぞくけん)を失(うしな)はず奪(うば)はれざる様(よう)為(な)すべきことを語(つ)げたり。若(も)し吾人(われら)の尚(なほ)未(いま)だ不(ふ)完全(かんぜん)なるが為(ため)に或人(あるひと)を恐(おそ)れしめ、又(また)我(わ)が語(つ)げし所(ところ)にして疑(うたがひ)を起(おこ)さば、現(げん)世(せ)及(およ)び来世(らいせい)に就(つ)きて談(だん)話(わ)しつつ『我(われ)童(どう)子(じ)たりし時(とき)、童(どう)子(じ)の如(ごと)く言(い)ひ、童(どう)子(じ)の如(ごと)く思(おも)ひ、童(どう)子(じ)の如(ごと)く謀(はか)れり、人(ひと)となりて後(のち)は、童(どう)子(じ)の事(こと)を息(や)めたり』〔コリンフ前書十三の十一〕と云(い)ひ、又(また)『成全(せいぜん)の人(ひと)と為(な)り、全(まった)き成長(せいちょう)の量(りょう)に至(いた)るに迨(およ)ぶ』〔エフェス書四の十三〕と云(い)ふ所(ところ)のパウェルに聴(き)くべし。彼(かれ)謂(いへ)らく、吾人(われら)は現(げん)世(せ)に在(あ)りて此(この)世(よ)を以(もっ)て養(やしな)はるること、恰(あたか)も乳母(うば)に養(やしな)はるるに等(ひと)しきも、主(しゅ)の殿(でん)に入(い)らんとするや、朽(く)つべき衣(ころも)を棄(す)て、朽(く)ちざる衣(ころも)を衣(き)て他(た)の生命(いのち)に移(うつ)るなり。多(おほ)くの人々(ひとびと)の相続権(そうぞくけん)を剥奪(はくだつ)さるるは成文(せいぶん)の規(き)約(やく)に照(て)らして、其(その)遺(い)産(さん)相続(そうぞく)に不(ふ)適当(てきとう)なる時(とき)にありとす。吾人(われら)は今(いま)此(この)遺(い)産(さん)の如何(いか)なるものなるかを観察(かんさつ)せん。此(この)遺(い)産(さん)は『目(め)未(いま)だ見(み)ず、耳(みみ)未(いま)だ聞(き)かず、人(ひと)の心(こころ)に未(いま)だ入(い)らざる』所(ところ)なり〔コリンフ前書二の九〕。吾人(われら)の理(り)解(かい)し得(え)ざる事(こと)を、如何(いか)で吾人(われら)は現(げん)世(せ)に於(おい)て利(り)用(よう)し得(え)んや。故(ゆえ)に此(この)遺(い)産(さん)は吾人(われら)の為(ため)に来世(らいせい)に保(ほ)存(ぞん)せらるるなり。又(また)視(み)よ、神(かみ)の大(おほい)なる照管(しょうかん)を、彼(かれ)が現(げん)世(せ)に於(おい)て艱難(かんなん)を定(さだ)めたるは、是(こ)れ其(その)重(おも)荷(に)の暫(ざん)時(じ)にして軽(かろ)くせられん為(ため)なり、又(また)来世(らいせい)の為(ため)に幸福(こうふく)を保(ほ)存(ぞん)せるは、是(こ)れ老(お)いざる生命(いのち)に於(おい)て報償(ほうしょう)の永(なが)く続(つづ)かん為(ため)なり。神(かみ)は此(この)生命(いのち)をも国(くに)と名(な)づく。縦(たと)ひ、其(その)言(ことば)を以(もっ)て顕(あらは)されざるも、神(かみ)が来世(らいせい)の状態(じょうたい)を今(いま)我(わ)が言(い)ひし如(ごと)く、或(あるひ)は国(くに)と名(な)づけ、或(あるひ)は婚姻(こんいん)と名(な)づけ、或(あるひ)は主権(しゅけん)と名(な)づけ、及(およ)び吾人(われら)が用(もち)ふる光明(こうめい)なる名称(めいしょう)を以(もっ)て吾人(われら)に来世(らいせい)を会(え)得(とく)せしめつつ、或(あるひ)は永遠(えいえん)の光榮(こうえい)不死(ふし)の幸福(こうふく)、何(なに)ものも比(ひ)較(かく)し得(え)ざるハリストスと偕(とも)にする生命(いのち)と名(な)づけて像(かたど)りしことのみは聴(き)くことを得(え)たり。教會(きょうかい)の規(き)約(やく)即(すなは)ち相続(そうぞく)の規(き)約(やく)は如何(いか)なるものなるか。此(この)規(き)約(やく)は毫(ごう)も困難(こんなん)なるものにあらず。主(しゅ)曰(い)へり『人(ひと)の爾(なんぢ)等(ら)に行(おこな)はんと欲(ほっ)する者(もの)は、爾(なんぢ)等(ら)も是(か)くの如(ごと)く之(これ)を人(ひと)に行(おこな)へ』〔マトフェイ福音七の十二〕と。爾(なんぢ)は神(かみ)が何(なん)の不思議(ふしぎ)なることをも命(めい)ぜずして、天性(てんせい)の要求(ようきゅう)する所(ところ)を命(めい)ぜしを見(み)るか。主(しゅ)曰(い)へり、爾(なんぢ)人(ひと)の爾(なんぢ)に行(おこな)はんことを欲(ほっ)するが如(ごと)く、自(みづか)らも行(おこな)へと。爾(なんぢ)人々(ひとびと)の爾(なんぢ)を讃(ほめ)んことを欲(ほっ)せば自(みづか)ら人(ひと)を讃(ほ)めよ。爾(なんぢ)人(ひと)が爾(なんぢ)の所有(しょゆう)を竊(ぬすみ)取(と)ることを欲(ほっ)せずば自(みづか)ら竊(ぬすみ)取(と)る勿(なか)れ。爾(なんぢ)尊敬(そんけい)されんことを欲(ほっ)せば自(みづか)ら人(ひと)を尊敬(そんけい)すべし。爾(なんぢ)慈憐(あわれみ)を得(え)んことを欲(ほっ)せば自(みづか)ら慈憐(あわれみ)を顕(あらは)せ。爾(なんぢ)愛(あい)せられんことを欲(ほっ)せば自(みづか)ら人(ひと)を愛(あい)すべし。爾(なんぢ)自己(じこ)の悪(あく)事(じ)を聴(き)かざらんことを欲(ほっ)せば自(みづか)ら人(ひと)の悪(あく)事(じ)を云(い)ふ勿(なか)れ。又(また)主(しゅ)の表言(いひあらはし)の如何(いか)に正確(せいかく)なるを認(みと)めよ。彼(かれ)は『人(ひと)の爾(なんぢ)等(ら)に行(おこな)ふことを欲(ほっ)せざる者(もの)は爾(なんぢ)等(ら)も斯(か)くの如(ごと)く之(これ)を人(ひと)に行(おこな)ふ勿(なか)れ』とは云(い)はずして 『欲(ほっ)する者(もの)』はと曰(い)へり。善行(ぜんこう)をなすに二(に)道(どう)あり、一(いち)は悪癖(あくへき)を遠(とほ)ざかること、一(いち)は善行(ぜんこう)を行(おこな)ふことなり、故(ゆえ)に神(かみ)は明(あきら)かに後者(こうしゃ)を以(もっ)て前者(ぜんしゃ)をも示(しめ)しつつ、後者(こうしゃ)を吾人(われら)に示(しめ)せり。神(かみ)は『爾(なんぢ)自(みづか)ら嫉(にく)む所(ところ)のことを人(ひと)に行(おこな)ふ勿(なか)れ』〔トウィト書四の十五[1]〕と言(い)ひて、前者(ぜんしゃ)の方法(ほうほう)を示(しめ)し、又(また)『人(ひと)の爾(なんぢ)等(ら)に行(おこな)はんと欲(ほっ)する者(もの)は爾(なんぢ)等(ら)も是(か)くの如(ごと)く之(これ)を人(ひと)に行(おこな)へ』と云(い)ひて、明(あきら)かに後者(こうしゃ)の方法(ほうほう)を示(しめ)せり。


二。 又(また)他(た)の規(き)約(やく)あり。其(その)規(き)約(やく)とは如何(いか)なるものなるか。己(おのれ)を愛(あい)するが如(ごと)く人(ひと)を愛(あい)することなり。何(なに)ものか之(これ)より容(よう)易(い)なるものあらん。嫉(にく)むことは困難(こんなん)にして不(ふ)安(あん)と結合(けつごう)せらるるも、愛(あい)することは容(よう)易(い)にして便(べん)利(り)なればなり。主(しゅ)もし吾人(われら)に、人々(ひとびと)よ、爾(なんぢ)等(ら)猛獣(もうじゅう)を愛(あい)せよと云(い)ひたらんには、之(これ)を行(おこな)ふや誠(まこと)に困難(こんなん)なりしならん、然(しか)れども彼(かれ)は人々(ひとびと)に種族(しゅぞく)により、出所(しゅっしょ)により、相愛(あひあい)の精神(せいしん)によりて愛(あい)し易(やす)き人々(ひとびと)を愛(あい)すべきことを誡(いまし)められたり、之(これ)を行(おこな)ふに何(なん)の困難(こんなん)かあらん。此(この)天性(てんせい)の類(るい)似(じ)が互(たがい)に相愛(あひあい)せしむることは、独(ひと)り人類(じんるい)にありて然(しか)るのみならず、獅子(しし)又(また)は狼(おほかみ)にありても然(しか)るなり。是(これ)に由(よ)りて吾人(われら)が獅子(しし)を制(せい)し、之(これ)を馴(な)らすに際(さい)して、吾人(われら)と同族(どうぞく)の人々(ひとびと)を愛(あい)せずんば将(は)た如何(いか)なる弁解(もうしわけ)を為(な)すべけんや。爾(なんぢ)等(ら)は多(おほ)くの人々(ひとびと)が遺(い)産(さん)を相続(そうぞく)せんが為(ため)に、自(みづか)らは強壮(きょうそう)の青年(せいねん)なるに、老人(ろうじん)の為(ため)に苦(く)役(えき)せられ、老人(ろうじん)を看(かん)護(ご)し、常(つね)に老人(ろうじん)の左(さ)右(ゆう)に侍(じ)して、老年(ろうねん)と伴(ともな)ふ所(ところ)の脚痛(きゃくつう)・癱瘋(たんぷう)・其(その)他(た)老人(ろうじん)の疾病(しっぺい)より来(きた)る凡(すべ)ての不(ふ)快(かい)を忍(しのび)受(う)くるを見(み)ざるか。然(さ)れど彼処(かしこ)には唯(ただ)富(とみ)を得(え)んと欲(ほっ)する一(いつ)の希(き)望(ぼう)、而(しか)も不(ふ)忠実(ちゅうじつ)なる希(き)望(ぼう)あるのみなるも、爰(ここ)には天(てん)あり、又(また)天(てん)の前(まへ)に神(かみ)の仁(じん)慈(じ)あり。聖詠(せいえい)の表題(ひょうだい)には『相続者(そうぞくしゃ)の事(こと)』と云(い)はれたり。此(この)相続者(そうぞくしゃ)は何人(なんびと)なるか。教會(きょうかい)及(およ)び其(その)全(ぜん)會員(かいいん)なり、パウェルは教會(きょうかい)に就(つ)きて『我(われ)爾(なんぢ)等(ら)を一(ひとり)の夫(おっと)に聘定(へいてい)せり、浄(きよ)き処女(しょぢょ)としてハリストスに献(ささ)げん為(ため)なり』〔コリンフ後書十一の二〕と曰(い)ひ、又(また)イオアンは『新婦(はなよめ)ある者(もの)は新娶者(はなむこ)なり』〔イオアン福音三の二十九〕と曰(い)へり。然(しか)れども通例(つうれい)の新娶者(はなむこ)にありては、婚姻(こんいん)の後(のち)数日(すうじつ)にして其(その)愛情(あいじょう)弱(よわ)まるも、吾人(われら)の新娶者(はなむこ)は断(た)えず吾人(われら)を愛(あい)し、且(か)つ断(た)えず己(おの)が愛(あい)を強(つよ)む。イオアンは吾人(われら)の新娶者(はなむこ)の愛(あい)の特(こと)に強(つよ)きを顕(あらは)しつつ之(これ)を新娶者(はなむこ)と名(な)づく。又(また)イオアンが教會(きょうかい)を新婦(はなよめ)と名(な)づけたるは、啻(ただ)に之(これ)のみならず、吾人(われら)衆人(しゅうじん)に善行(ぜんこう)と愛(あい)とによりて一(ひとつ)の体(からだ)、一(ひとつ)の霊(たましい)たらんことを希(き)望(ぼう)するによりてなり。而(しか)して新婦(はなよめ)は新娶者(はなむこ)を悦(よろこ)ばすが為(ため)に凡(すべ)てをなすが如(ごと)く、吾人(われら)も亦(また)生涯(しょうがい)斯(か)くせざるべからず。新婦(はなよめ)は婚姻(こんいん)の宮殿(きゅうでん)に移(うつ)りし其(その)日(ひ)より、唯(ただ)如何(いか)にして新娶者(はなむこ)を悦(よろこ)ばすべきかを慮(おもんばか)るが如(ごと)く、吾人(われら)も亦(また)現(げん)世(せ)の一(いつ)生涯(しょうがい)に於(おい)て、如何(いか)にして此(この)新娶者(はなむこ)を悦(よろこ)ばすべき、又(また)新婦(はなよめ)の善良(ぜんりょう)なる性質(せいしつ)を保守(ほしゅ)すべきことのみを慮(おもんばか)らざるべからず。此(この)新婦(はなよめ)に就(つ)きてはダウィドも『皇后(こうごう)は爾(なんぢ)の右(みぎ)に立(た)ち、妝(よそほ)ふに金(きん)を以(もっ)てし、其(その)衣(ころも)は金(きん)を繍(ぬひもの)とす』〔聖詠四十四の十、十四(詩篇四十五の十、十四)〕と言(い)ひて記(き)憶(おく)す。爾(なんぢ)は其靴(そのくつ)をも見(み)んと欲(ほっ)せんか。新娶者(はなむこ)の友(とも)なるパウェルの言(い)ふ所(ところ)を聞(き)け、曰(いは)く『和(わ)平(へい)を福音(ふくいん)する預備(よび)を以(もっ)て足(あし)に履(くつ)はけ』〔エフェス書六の十五〕と。其(その)義(ぎ)より織(おり)成(な)せる帯(おび)をも見(み)んと欲(ほっ)せんか。パウェル又(また)爾(なんぢ)に教(おし)ふ、曰(いは)く『真実(しんじつ)を爾(なんぢ)等(ら)の腰(こし)に束(つか)ねよ』〔同上六の十四〕と。彼(かれ)の美(び)を見(み)んと欲(ほっ)せんか。此(こ)れ亦(また)パウェルより知(し)ることを得(え)ん、曰(いは)く『汚(けがれ)或(あるひ)は皺(しわ)を有(も)たず』〔同上五の二十七〕と。之(これ)に就(つ)きて睿(えい)智(ち)者(しゃ)(ソロモン)の言(い)ふ所(ところ)を聞(き)け、曰(いは)く『我(わ)が佳耦(とも)よ、爾(なんぢ)は悉(ことごと)く麗(うるは)しくして少(すこ)しの疵(きず)もなし』〔雅歌四の七〕と。彼(かれ)の足(あし)をも見(み)んと欲(ほっ)せんか。使徒(しと)の『平安(へいあん)を福音(ふくいん)し、善(ぜん)事(じ)を福音(ふくいん)する者(もの)の足(あし)は美(うるは)しき哉(かな)』〔ロマ書十の十五〕と曰(い)へるを聞(き)け。而(しか)して彼(かれ)が斯(か)くの如(ごと)く新婦(はなよめ)を飾(かざ)りて、自(みづか)らは其(その)悉(ことごと)くの光榮(こうえい)を顕(あらは)して来(きた)らざりしは誠(まこと)に奇異(きい)にして驚(おどろ)くべし、是(こ)れ己(おのれ)の豊(ゆたか)なる美(び)を以(もっ)て新婦(はなよめ)を驚(おどろ)かさざるが為(ため)なり、乃(すなは)ち新婦(はなよめ)にある所(ところ)の同(おな)じ衣(い)服(ふく)を着(つ)け、即(すなは)ち彼(かれ)にある『同一(どういつ)の肉(にく)と血(ち)とを受(う)けて』〔エウレイ書二の十四〕来(きた)れり、又(また)彼(かれ)は新婦(はなよめ)を天(てん)に呼(よ)ばず、新娶者(はなむこ)の新婦(はなよめ)に来(きた)る作(さ)法(ほう)を守(まも)りて自(みづか)ら上(うへ)より彼(かれ)の処(ところ)に来(きた)れり。此事(このこと)に就(つ)きてはモイセイも『是故(このゆえ)に人(ひと)は其(その)父母(ちちはは)を離(はな)れて其妻(そのつま)に好合(あ)へ』〔創世記二の二十四〕と云(い)ひ、パウェルも『此(こ)の奥(おう)義(ぎ)は大(おほい)なり、我(われ)ハリストスと教會(きょうかい)とに於(おい)て之(これ)を言(い)ふ』〔エフェス書五の三十二〕と云(い)へり。新娶者(はなむこ)は新婦(はなよめ)の住居(すまい)に来(きた)り、其(その)血(ち)に塗(まみ)れたる不(ふ)潔(けつ)なる裸(ら)体(たい)を見(み)て之(これ)を洗(あら)ひ、油(あぶら)を塗(ぬ)り、充分(じゅうぶん)に飲食(いんしょく)せしめ、衣(い)服(ふく)を着(き)せて見(み)違(ちが)へん許(ばかり)にせり。新娶者(はなむこ)は自(みづか)ら新婦(はなよめ)の為(ため)に衣(い)服(ふく)となり、斯(か)くして彼(かれ)を取(と)りて己(おのれ)の処(ところ)に導(みちび)く。是(こ)れ相続(そうぞく)に準備(そな)へられたる者(もの)なり。預(よ)言者(げんしゃ)は新婦(はなよめ)に就(つ)きて何(なに)ことを言(い)ひしや。彼(かれ)は多(おほ)くのことを言(い)へり。預(よ)言者(げんしゃ)は新婦(はなよめ)の保護(ほご)者(しゃ)なり、而(しか)して新婦(はなよめ)の前(まへ)に立(た)つものの中(うち)より新娶者(はなむこ)・婚姻(こんいん)・彼(かれ)の受(う)くべき幸福(こうふく)に関(かん)して多(おほ)くのことを彼(かれ)に預(よ)言(げん)し、又(また)預(よ)告(こく)せり。彼(かれ)は又(また)爰(ここ)にも新婦(はなよめ)に就(つ)きて曰(い)ふなり、彼(かれ)は裁判(さいばん)に於(お)ける弁論(べんろん)家(か)の如(ごと)く、最初(さいしょ)に其(その)相続者(そうぞくしゃ)に就(つ)きて公平(こうへい)なる弁論(べんろん)をなすことを述(の)ぶ。相続(そうぞく)する所(ところ)の新婦(はなよめ)は何事(なにごと)を願(ねが)ふか。吾人(われら)は聞(き)かん。『主(しゅ)よ。我(わ)が言(ことば)を聴(き)け』〔二節〕。新婦(はなよめ)は新娶者(はなむこ)を主(しゅ)と名(な)づく、是(こ)れ賢(さか)しき新婦(はなよめ)に適当(てきとう)なる言(ことば)なり。実際(じっさい)同一(どういつ)の天性(てんせい)を有(ゆう)する吾人(われら)の間(あいだ)に在(あ)りても、妻(つま)は夫(おっと)を己(おのれ)の主人(しゅじん)と称(とな)ふ、况(まし)て教會(きょうかい)と元来(もとより)主宰(しゅさい)たるハリストスとの間(あいだ)に於(おい)てはハリストスを主(しゅ)と名(な)づくるは當然(とうぜん)たる也(なり)。視(み)よ、何(なに)によりて教會(きょうかい)は爰(ここ)にハリストスを主(しゅ)と名(な)づくるを、啻(ただ)に新娶者(はなむこ)としてのみならず、主宰(しゅさい)として称(とな)ふるにて、且(か)つ新婦(はなよめ)の願(ねがひ)を聞(き)かしめん為(ため)なり。新婦(はなよめ)の前(まへ)には相続権(そうぞくけん)(を受(う)くること)あり、而(しか)して此(この)相続(そうぞく)は新婦(はなよめ)が唯(ただ)誡(いましめ)られたる所(ところ)を正(ただ)しく行(おこな)ふ場(ば)合(あい)に於(おい)て受(う)くるが故(ゆえ)に、新婦(はなよめ)は約(やく)されたる幸福(こうふく)を受(う)け及(およ)び相続権(そうぞくけん)を奪(うば)はれざるが為(ため)に其(その)佑助(ゆうじょ)者(しゃ)たらんことを彼(かれ)に請求(せいきゅう)懇願(こんがん)するなり。是(これ)に由(よ)りて新婦(はなよめ)は『主(しゅ)よ。我(わ)が言(ことば)を聴(き)け』と言(い)ひ、且(か)つ彼(かれ)は新娶者(はなむこ)が彼(かれ)に賜(たま)はんと欲(ほっ)するものを願(ねが)ふが故(ゆえ)に敢(あえ)て之(これ)を言(い)ふも、賜(たま)ふ所(ところ)の者(もの)に適(かな)はざることを願(ねが)ふ者(もの)は、斯(か)くの如(ごと)くに仁(じん)慈(じ)を願(ねが)ひ得(え)ざりしならん。誰(たれ)か仇(あだ)、或(あるひ)は己(おのれ)に悪(あく)を為(な)す人々(ひとびと)に悪(あ)しかれと願(ねが)ふ時(とき)は、是(こ)れ人(ひと)の言(ことば)にあらずして悪(あく)魔(ま)の言(ことば)なり。実際(じっさい)に若(も)し悪(あく)魔(ま)の詛(のろい)が主(しゅ)の言(ことば)の如(ごと)く『此(これ)に過(す)ぐる者(もの)は悪(あく)よりす』〔マトフェイ福音五の三十七〕る時(とき)は仇(あだ)に対(たい)する祈(き)祷(とう)も亦(また)悪(あく)魔(ま)よりす。然(さ)れば爾(なんぢ)が『我(わ)が言(ことば)を聴(き)け』と云(い)ふ時(とき)は温柔(おんじゅう)慈(じ)憐(れん)にして悪(あく)魔(ま)の何(なに)ことをも有(ゆう)せざる人(ひと)に適当(てきとう)なるが如(ごと)くに言(い)へ。


三。 『我(わ)が呼(よ)ぶ聲(こえ)を悟(さと)れよ』爰(ここ)に預(よ)言者(げんしゃ)が『呼(よ)ぶ聲(こえ)』といへるは、声(こえ)の音響(ひびき)にあらずして霊(たましい)の状態(じょうたい)なり。然(さ)ればモイセイは黙(もく)し居(い)たれども、主(しゅ)は之(これ)に『爾(なんぢ)何(なん)ぞ我(われ)に呼(よば)はるや』〔出埃及記十四の十五〕と言(い)へり。主(しゅ)が爾(なんぢ)我(われ)に何事(なにごと)を禱(いの)るやと云(い)はずして、爾(なんぢ)何(なん)ぞ我(われ)に呼(よば)はるやと云(い)へるは、是(こ)れモイセイが熱切(ねつせつ)なる心(こころ)を以(もっ)て神(かみ)に近(ちか)づけるによる。而(しか)して預(よ)言者(げんしゃ)は爰(ここ)にも神(かみ)の叫(さけび)のことを云(い)へるにあらず、乃(すなは)ち心(こころ)の状態(じょうたい)及(およ)び熱心(ねっしん)にして神(かみ)に向(むか)ふべきことを言(い)へるなるを爾(なんぢ)に見(み)せしめんとて、爾(なんぢ)我(わ)が呼(よ)ぶを聞(き)けとは云(い)はざりしなり。然(さ)らば何(なに)と云(い)ひしか。彼(かれ)は『悟(さと)れよ』といへり、即(すなは)ち知(し)れよの意(い)なり。斯(か)く預(よ)言者(げんしゃ)は普(ふ)通(つう)の言(ことば)を用(もち)ひたるも、此(この)言(ことば)に於(おい)て恰(あたか)も彼(かれ)は将(まさ)に言(い)はんと欲(ほっ)する所(ところ)を顕(あらは)すが如(ごと)し。『我(わ)が祈願(ねがひ)の聲(こえ)を聴(き)き納(い)れ給(たま)へ』〔三節〕。彼(かれ)は再(ふたた)び内心(ないしん)の声(こえ)を悟(さと)らしむ。アンナ[2]も斯(か)く呼(よ)べり〔第一列王記十の十三〔ママ〕[3]〕。預(よ)言者(げんしゃ)は単(ただ)、我(わ)が祈祷(いのり)の声(こえ)を聴(きき)容(い)れ給(たま)へと云(い)はずして『我(わ)が祈願(ねがひ)の』聲(こえ)をと云(い)へり、何(なん)となれば禱(いの)る者(もの)は外(がい)部(ぶ)の状態(じょうたい)のみならず、内(ない)部(ぶ)の傾向(けいこう)によりても、謙遜(けんそん)たるべければなり。祈願(ねが)ふ者(もの)は誣(ぶ)告(こく)者(しゃ)の如(ごと)き言(ことば)を用(もち)ひず、敵(てき)の不(ふ)幸(こう)を禱(いの)る者(もの)は祈(き)願者(がんしゃ)と云(い)はんよりは、寧(むし)ろ訴(そ)訟(しょう)者(しゃ)なり。爾(なんぢ)は預(よ)言者(げんしゃ)が如何(いか)に祈(き)祷(とう)を整(ととの)へて其(その)祈(き)祷(とう)を受(う)くるに堪(た)ふるものとなししを見(み)るか。然(さ)れば吾人(われら)も祈(き)祷(とう)して聴(きき)容(い)れられんと欲(ほっ)せば、前(まへ)以(もっ)て吾人(われら)の祈(き)祷(とう)が祈(き)祷(とう)となりて、聖詠(せいえい)者(しゃ)の示(しめ)ししが如(ごと)く誣(ぶ)告(こく)とならざる様(よう)にすべし、斯(か)くて吾人(われら)は祈(き)祷(とう)を神(かみ)に献(ささ)ぐることを得(え)ん。『我(わ)が王(おう)我(わ)が神(かみ)や』。是(こ)れ預(よ)言者(げんしゃ)の数々(しばしば)用(もち)ひし言(ことば)なれども、最(もっと)も多(おほ)く之(これ)を言(い)ふの特権(とくけん)を有(ゆう)ししはアウラアムなり、パウェルは彼(かれ)に就(つ)きて『神(かみ)は彼(かれ)等(ら)を耻(はぢ)とせずして、己(おのれ)を彼(かれ)等(ら)の神(かみ)と称(とな)ふ』〔エウレイ書十一の十六〕と云(い)へり。相続(そうぞく)する所(ところ)の教會(きょうかい)も同様(どうよう)の表言(いひあらはし)を用(もち)ひたれども、愛(あい)によりて之(これ)を用(もち)ひたり。教會(きょうかい)は単(ただ)王(おう)と云(い)はず己(おのれ)の愛(あい)を顕(あらは)しつつ『我(わ)が王(おう)我(わ)が神(かみ)や』と云(い)へり。次(つぎ)に教會(きょうかい)は神(かみ)が教會(きょうかい)に聴(きき)容(い)るる様(よう)願(ねが)ふ所(ところ)の理(り)由(ゆう)をも述(の)ぶ。此(この)理(り)由(ゆう)は如何(いか)なるものか。『主(しゅ)よ、我(われ)爾(なんぢ)に禱(いの)ればなり』と。然(しか)れども爾(なんぢ)は云(い)はん、誰(たれ)か神(かみ)に禱(いの)らざるかと。多(おほ)くの者(もの)は神(かみ)に禱(いの)る者(もの)の如(ごと)く見(み)ゆるも、其(その)祈(いの)るや人々(ひとびと)に示(しめ)さん為(ため)なり。教會(きょうかい)は斯(か)くの如(ごと)く行(おこな)はず、一切(いっさい)人(ひと)のことを忘(わす)れて、単(ただ)神(かみ)に向(むか)ふのみ。『晨(あした)に我(わ)が聲(こえ)を聴(き)き給(たま)へ』〔四節〕。爾(なんぢ)は熱心(ねっしん)と霊(たましい)的(の)痛悔(つうかい)とを見(み)るか。預(よ)言者(げんしゃ)曰(いは)く、我(われ)の此事(このこと)をなすや日(ひ)の始(はじめ)に於(おい)てす、然(さ)れば多(おほ)くの業(ぎょう)務(む)を営(いとな)みて然(しか)る後(のち)祈(き)祷(とう)に近(ちか)づく者(もの)は之(これ)を聞(き)くべしと。教會(きょうかい)は斯(か)くの如(ごと)く行(おこな)はず、乃(すなは)ち一日(いちじつ)の始(はじめ)に於(おい)て其(その)日(ひ)の初物(はつもの)を神(かみ)に献(ささ)ぐ。睿(えい)智(ち)者(しゃ)曰(い)へり『太陽(たいよう)に先(さき)んじて爾(なんぢ)に感謝(かんしゃ)す、光(ひかり)の東(ひがし)たる爾(なんぢ)に向(むか)ふべきことの知(し)られん為(ため)なり』〔ソロモンの智慧書十六の二十八〕と。爾(なんぢ)は己(おのれ)より身(み)分(ぶん)卑(いやし)き者(もの)の爾(なんぢ)に先(さき)んじて王(おう)に叩拝(こうはい)するを許(ゆる)さざりしならん、然(しか)るに太陽(たいよう)の已(すで)に神(かみ)を拝(はい)する時(とき)に際(あた)りて、爾(なんぢ)は尚(なお)寝(い)ね、造物(ぞうぶつ)の首長(しゅちょう)権(けん)を之(これ)に譲(ゆづ)り、爾(なんぢ)の為(ため)に造(つく)られたる諸(しょ)造物(ぞうぶつ)に先(さき)んじて神(かみ)に感謝(かんしゃ)せず、乃(すなは)ち面(かお)と手(て)とを洗(あら)ふも、己(おのれ)の霊(たましい)をば不(ふ)潔(けつ)なる者(もの)として止(とど)む。爾(なんぢ)は水(みづ)を以(もっ)て体(からだ)の浄(きよ)めらるるが如(ごと)く、祈(き)祷(とう)を以(もっ)て霊(たましい)の浄(きよ)めらるることを知(し)らざるか。然(さ)れば体(からだ)よりも先(ま)づ己(おの)が霊(たましい)を洗(あら)へ。多(おほ)くの悪癖(あくへき)は汚点(しみ)の如(ごと)く霊(たましい)に粘着(ねんちゃく)したれば、吾人(われら)は祈(き)祷(とう)を以(もっ)て之(これ)を洗(あら)はん。吾人(われら)もし斯(か)くの如(ごと)くして己(おの)が口(くち)を保護(ほご)せば、日々(ひび)の業務(ぎょうむ)に善良(ぜんりょう)なる基(もとい)を置(お)かん。『我(われ)晨(あした)に爾(なんぢ)の前(まへ)に立(た)ちて待(ま)たん』。言(い)ふ意(こころ)は、我(われ)場(ば)所(しょ)を變(か)へず、乃(すなは)ち行(おこない)を以(もっ)て爾(なんぢ)の前(まへ)に立(た)たん。斯(か)くの如(ごと)き人(ひと)は神(かみ)に近(ちか)からん、而(しか)して神(かみ)に近(ちか)きと遠(とほ)きとは人(ひと)自(みづか)らに関(かん)す、何(なに)となれば神(かみ)は何処(いづこ)にも在(いま)せばなり。『我(われ)爾(なんぢ)の前(まへ)に立(た)ちて待(ま)たん、盖(けだし)爾(なんぢ)は不(ふ)法(ほう)を喜(よろこ)ばざる神(かみ)なり』〔五節〕。他(た)の訳者(やくしゃ)は『我(われ)は爾(なんぢ)が不(ふ)法(ほう)を喜(よろこ)ばざる神(かみ)なるを見(み)る』〔不明の訳者〕となす。爰(ここ)に預(よ)言者(げんしゃ)は偶像(ぐうぞう)を指示(さししめ)せるなり、何(なに)となれば異(い)教(きょう)の諸神(しょしん)は斯(かか)る人々(ひとびと)及(およ)び凡(すべ)ての不(ふ)法(ほう)と凡(すべ)ての悪(あく)事(じ)とを喜(よろこ)べばなり。『悪人(あくにん)は爾(なんぢ)に居(お)るを得(え)ず』彼(かれ)は爾(なんぢ)神(かみ)に愛(あい)されず、爾(なんぢ)に近(ちか)づかざればなり。『不(ふ)虔(けん)の者(もの)は爾(なんぢ)が目(め)の前(まへ)に止(とど)まらざらん』〔六節〕。爰(ここ)に預(よ)言者(げんしゃ)は神(かみ)の悪(あく)を悪(にく)むことを示(しめ)し且(か)つ神(かみ)に近(ちか)づかんと欲(ほっ)する者(もの)に、神(かみ)の如(ごと)く悪(あく)を嫉(にく)むべきことを教(おし)ふ、何(なに)となれば然(しか)せずしては神(かみ)に近(ちか)づくことを得(え)ざればなり。己(おの)が気(き)質(しつ)の善人(ぜんにん)と異(ことな)る者(もの)にして善人(ぜんにん)に近(ちか)づくことを得(え)ずんば、况(まし)て神(かみ)に近(ちか)づくことをや。又(また)悪人(あくにん)の善人(ぜんにん)に近(ちか)づき得(え)ざることに就(つ)きては、悪人(あくにん)等(ら)が義(ぎ)人(じん)に就(つ)きて言(い)ふ所(ところ)を聞(き)け、曰(いは)く『我(われ)等(ら)は義(ぎ)人(じん)を見(み)るに堪(た)へず』〔ソロモン智慧書二の十五〕と。然(さ)ればイオアンは牢獄(ひとや)に在(あ)りて何人(なんびと)の前(まへ)にも顕(あらは)れず、而(しか)もイロデァダ[4]はイオアンより遠(とほ)き処(ところ)にありしも、彼(か)の婦(ふ)の為(ため)には堪(た)へられざりき、且(か)つイオアンは死後(しご)にも当(とう)時(じ)圧制(あつせい)者(しゃ)たりし者(もの)の良心(りょうしん)を苦(くるし)めたり。然(さ)れば縦(たと)ひ悪人(あくにん)に攻撃(こうげき)さるるとも、善(ぜん)を行(おこな)ふ者(もの)は何人(なんびと)も害(がい)を蒙(こうむ)りたりと思(おも)ふ勿(なか)れ、害(がい)を受(う)くるは悪(あく)を行(おこな)ふ所(ところ)の者(もの)なり。『爾(なんぢ)は凡(およ)そ不(ふ)法(ほう)を行(おこな)ふ者(もの)を憎(にく)む、爾(なんぢ)は謊(いつはり)を言(い)ふ者(もの)を亡(ほろぼ)さん、残忍(ざんにん)詭(き)譎(けつ)の者(もの)は主(しゅ)之(これ)を悪(にく)む』〔七節〕。聖詠者(せいえいしゃ)の之(これ)を言(い)ふや、啻(ただ)吾人(われら)に之(これ)を聞(き)かしめん為(ため)にあらず、数々(しばしば)之(これ)を聴(き)きて新娶者(はなむこ)の気(き)質(しつ)に適(かな)ひ、彼(かれ)に近(ちか)き者(もの)となることを学(まな)ばしめん為(ため)なり。然(しか)らずんば吾人(われら)は上(うへ)よりの佑助(たすけ)を奪(うば)はれん、之(これ)に勝(まさ)る悪(あ)しきことなきなり。


四。 預(よ)言者(げんしゃ)曰(いは)く其者(そのもの)の縦(よ)し奴(ど)隷(れい)たり、自(じ)由(ゆう)の者(もの)たり、王(おう)たり、否(いな)何人(なんびと)たらんも『爾(なんぢ)は凡(およ)そ不(ふ)法(ほう)を行(おこな)ふ者(もの)を憎(にく)む』何(なん)となれば神(かみ)は常(つね)に外部(うわべ)の価値(かち)によらず、善行(ぜんこう)によりて己(おのれ)の友(とも)を選(えら)めばなり。然(しか)れども多(おほ)くの不(ふ)遜(そん)なる人々(ひとびと)は神(かみ)何事(なにごと)をも悪(にく)まずと思(おも)ふが故(ゆえ)に、預(よ)言者(げんしゃ)は罰(ばつ)の畏(おそれ)をも附加(つけくは)へ、最(もっと)も愚(おろか)なる罪人(ざいにん)に説(せつ)話(わ)を向(む)けつつ。『爾(なんぢ)は謊(いつはり)を言(い)ふ者(もの)を滅(ほろぼ)さん』と言(い)へり。罰(ばつ)は唯(ただ)神(かみ)の憎悪(にくみ)に限(かぎ)らず、縦(たと)ひ神(かみ)の憎悪(にくみ)は云(い)ふべからざる罰(ばつ)なれども、神(かみ)が凡(およ)そ謊(いつはり)を言(い)ふ者(もの)を滅(ほろぼ)し給(たま)ふは畏(おそ)るべき罰(ばつ)なり。憎悪(にくみ)は畏(おそ)るべくして、神(かみ)に憎悪(にく)まるるは地(ぢ)獄(ごく)にあるより畏(おそ)るべしとす、然(しか)れども、預(よ)言者(げんしゃ)は理(り)解(かい)し得(う)る者(もの)の為(ため)に之(これ)を言(い)へるも、最(もっと)も愚(おろか)なる人々(ひとびと)の為(ため)に罰(ばつ)の畏(おそれ)をも附加(つけくは)へたるなり。然(さ)れば人(ひと)よ、或(ある)人々(ひとびと)の謊(いつはり)を云(い)ひ、人(ひと)のものを掠奪(りゃくだつ)し、貪(むさぼり)に陥(おちい)りて毫(ごう)も害(がい)を受(う)けざるを見(み)て心(こころ)を乱(みだ)す勿(なか)れ、不(ふ)安(あん)なる勿(なか)れ、神(かみ)の語(つ)げし所(ところ)は必(かなら)ず應(おう)ぜん、何(なに)となれば神(かみ)の天性(てんせい)は悪(あく)を忌(い)み、常(つね)に之(これ)を嫉(にく)み、之(これ)を容(ゆる)さざればなり、預(よ)言者(げんしゃ)の爰(ここ)に『謊(いつはり)を言(い)ふ者(もの)』といへるは、悪(あ)しき生活(せいかつ)をなし、不義(ふぎ)を行(おこな)ひ、快楽(かいらく)・不(ふ)節制(せっせい)・貪慾(どんよく)に耽(ふけ)る者(もの)のことなり、彼(かれ)は此(これ)等(ら)の凡(すべ)てを常(つね)に不義(ふぎ)と名(な)つけたり。『残忍(ざんにん)詭(き)譎(けつ)の者(もの)は主(しゅ)之(これ)を悪(にく)む』。爰(ここ)に口(くち)には斯(か)く言(い)へども、心(こころ)には他(た)のことを思(おも)ひ、外部(うわべ)には温柔(おんじゅう)の状態(さま)を装(よそほ)ひども実際(じっさい)に於(おい)ては狼(おほかみ)の性質(せいしつ)を顕(あらは)す所(ところ)の殺人(さつじん)・詭(き)譎(けつ)・狡猾(こうかつ)に傾(かたむ)ける人(ひと)に就(つ)きて云(い)ふなり、何(なに)ものも之(これ)に勝(まさ)る悪(あ)しきことあるを得(え)ざるなり。公然(こうぜん)たる敵(てき)を預(よ)防(ぼう)するは難(かた)からざるも、己(おの)が奸計(かんけい)を隠(かく)して悪(あく)意(い)を為(な)す者(もの)は、容(よう)易(い)に捕(とら)へられずして、多(おほ)くの悪(あく)事(じ)を行(おこな)ふことを得(う)。視(み)よ、ハリストスも亦(また)何(なに)によりて斯(かか)る人々(ひとびと)の顕(あらは)れし時(とき)に勇(いさ)むべきことを命(めい)じたるを、盖(けだ)し斯(かか)る人々(ひとびと)は『羊(ひつじ)の衣(ころも)にて爾(なんぢ)等(ら)に来(きた)れども、内(うち)は殘(むご)き狼(おほかみ)なればなり』〔マトフェイ福音七の十五〕『唯(ただ)我(われ)爾(なんぢ)が憐(あはれみ)の多(おほ)きに倚(よ)りて爾(なんぢ)の家(いへ)に入(い)らん』〔八節〕。教會(きょうかい)の中(うち)には異(い)邦人(ほうじん)・妖術(ようじゅつ)者(しゃ)・殺人者(さつじんしゃ)・蠱(こ)惑者(わくしゃ)・詭(き)譎(けつ)者(しゃ)・偽(ぎ)善者(ぜんしゃ)も亦(また)入(い)り、而(しか)して教會(きょうかい)は神(かみ)彼(かれ)等(ら)を嫉(にく)み之(これ)を嫌(けん)忌(き)すと言(い)ひしが故(ゆえ)に、教會(きょうかい)は彼(かれ)等(ら)が己(おのれ)の権(けん)利(り)によらず、己(おのれ)の善行(ぜんこう)によらず、神(かみ)の仁(じん)慈(じ)によりて此(これ)等(ら)の悪(あく)事(じ)より救(すく)はれ、神(かみ)の内(ない)部(ぶ)の安息(あんそく)に入(い)れられたることを示(しめ)さんと欲(ほっ)して『唯(ただ)我(われ)爾(なんぢ)が憐(あはれみ)の多(おほ)きに倚(よ)りて爾(なんぢ)の家(いへ)に入(い)らん』と附加(つけくは)へたり。何人(なにびと)か爾(なんぢ)はそれとそれとをなして如何(いか)で救(すくひ)を得(え)しやと云(い)はざるが為(ため)に、教會(きょうかい)は如何(いか)様(よう)にして救(すくひ)を得(え)たるか、即(すなは)ち教會(きょうかい)は神(かみ)の大(おほい)なる慈(じ)愛(あい)と其(その)得(え)も言(い)はれざる仁善(じんぜん)によりて救(すく)はれたることを示(しめ)すなり。然(しか)れども癒(いや)すべからざる程(ほど)に慈憐(あはれみ)をも受(う)けざる病者(びょうしゃ)あり、例令(たとへ)ばイウデヤ人(じん)の如(ごと)き是(これ)なり。恩寵(おんちょう)は恩寵(おんちょう)たり、慈(じ)憐(れん)は慈(じ)憐(れん)たり、然(しか)れども唯(ただ)之(これ)を希(き)望(ぼう)する者(もの)のみ救(すく)はるるも、頑(がん)固(こ)にして此(この)賜(たまもの)を受(う)くることを望(のぞ)まざる者(もの)は救(すく)はれず、イウデヤ人(じん)の如(ごと)きは其(その)救(すく)はれざる者(もの)なりき、パウェルも此事(このこと)に就(つ)きて『彼(かれ)等(ら)は神(かみ)の義(ぎ)を識(し)らず、己(おのれ)の義(ぎ)を立(た)てんことを図(はか)りて神(かみ)の義(ぎ)に服(ふく)せざりき』〔ロマ書十の三〕と言(い)へり。教會(きょうかい)は神(かみ)に属(ぞく)することに就(つ)きて言(い)ひつつ、次(つぎ)に教會(きょうかい)に属(ぞく)することに就(つ)きても言(い)へり。『爾(なんぢ)を畏(おそ)れて爾(なんぢ)が聖堂(せいどう)に伏拜(ふくはい)せん』〔八節〕。言(い)ふ意(こころ)は我(われ)は恩寵(おんちょう)を受(う)くる時(とき)自(みづか)ら当然(とうぜん)なることを顕(あらは)し、爾(なんぢ)に左(さ)の如(ごと)き祭(まつり)を献(けん)ぜん、即(すなは)ち『爾(なんぢ)を畏(おそ)れて爾(なんぢ)が聖堂(せいどう)に伏拜(ふくはい)せん』――多(おほ)くの祈(き)祷者(とうしゃ)が、此時(このとき)に身体(からだ)を掻(か)き、欠伸(あくび)し、仮睡(いねむり)するが如(ごと)きにあらず、乃(すなは)ち恐(きょう)懼(く)戦慄(せんりつ)を以(もっ)て云(い)ふとなり。斯(か)くの如(ごと)くにして禱(いの)る者(もの)は凡(すべ)ての悪(あく)を止(や)め、凡(およ)その善行(ぜんこう)に向(むか)ひて神(かみ)の慈惠(めぐみ)を受(う)く。『主(しゅ)よ我(わ)が敵(てき)の爲(ため)に我(われ)を爾(なんぢ)の義(ぎ)に導(みちび)き給(たま)へ』〔九節〕。教會(きょうかい)は神(かみ)の光榮(こうえい)の為(ため)に神(かみ)の悪(あく)を嫉(にく)むこと、神(かみ)は慈(じ)愛(あい)にして吾人(われら)を照管(しょうかん)すること――己(おの)が救贖(きゅうしょく)のこと、教會(きょうかい)は如何(いか)様(よう)にして救(すく)はれしか――教會(きょうかい)が救(すくひ)を得(え)たる後(のち)に為(な)しゝこと、即(すなは)ち教會(きょうかい)が悪(あく)を嫌忌(きら)ひて善行(ぜんこう)に恋着(れんちゃく)したりしことを述(の)べ――悪(あ)しき生活(よわたり)をなす者(もの)に対(たい)しては、彼(かれ)等(ら)若(も)し己(おの)が悪(あく)を矯正(きょうせい)せんと欲(ほっ)せば、仁(じん)慈(じ)を受(う)くべしとの善望(ぜんぼう)を與(あた)へて、然(しか)る後(のち)己(おの)が談(だん)話(わ)を願(ねがひ)に向(む)けて『主(しゅ)よ、我(われ)を爾(なんぢ)の義(ぎ)に導(みちび)き給(たま)へ』と曰(い)へり。之(これ)を以(もっ)て教會(きょうかい)は先(ま)づ讃(さん)詞(し)を神(かみ)に捧(ささ)げ、神(かみ)の仁(じん)慈(じ)を受(う)けたるが為(ため)に之(これ)を感謝(かんしゃ)すべきを聴者(ちょうしゃ)に教(おし)へ、次(つぎ)に望(のぞ)む所(ところ)を願(ねが)ひて、其(その)受(う)けしことの為(ため)に復(ふたた)び感謝(かんしゃ)すべきを教(おし)ふ。然(しか)れども吾人(われら)は教會(きょうかい)が何事(なにごと)を願(ねが)ふかを観察(かんさつ)せん。其(その)願(ねが)ふ所(ところ)は世(せ)俗(ぞく)の事(こと)にはあらざるか。暫(ざん)時(じ)のことにはあらざるか。速(すみや)かに過(すぎ)去(さ)ることにはあらざるか。彼(かれ)の云(い)ふは富(とみ)のことにあらずや。榮(えい)誉(よ)のことにはあらずや。権柄(けんぺい)のことにあらずや。教會(きょうかい)の敵(てき)に復讐(ふくしゅう)することにあらずや。教會(きょうかい)は毫(ごう)も斯(か)くの如(ごと)きことを願(ねが)はず。然(さ)らば其(その)願(ねが)ふ所(ところ)は何事(なにごと)なるか。『主(しゅ)よ、我(わ)が敵(てき)の爲(ため)に我(われ)を爾(なんぢ)の義(ぎ)に導(みちび)き給(たま)へ』是(これ)なり。爾(なんぢ)は教會(きょうかい)が毫(ごう)も暫(ざん)時(じ)のことを願(ねが)はず、又(また)如何(いか)に高尚(こうしょう)なる佑助(ゆうじょ)を願(ねが)ふを見(み)るか。爾(なんぢ)の知(し)れるが如(ごと)く、斯(かか)る途(みち)を歩(あゆ)む者(もの)は、特(こと)に此(この)佑助(ゆうじょ)を要(よう)す。茲(ここ)に『義(ぎ)』と名(な)つけらるるは、総(そう)じて善行(ぜんこう)を云(い)ふなり。又(また)教會(きょうかい)が『爾(なんぢ)の義(ぎ)』と云(い)へるや宜(よ)し、何(なん)となれば人(ひと)の義(ぎ)は外(がい)部(ぶ)の律法(りっぽう)による義(ぎ)なるも、完全(かんぜん)と円満(えんまん)とを有(ゆう)せず、人(ひと)の想像(そうぞう)に基(もとい)せらるる所(ところ)の差(さ)程(ほど)重(おも)からざる義(ぎ)なればなり。而(しか)して預(よ)言者(げんしゃ)の言(い)ふ意(こころ)は、我(われ)は爾(なんぢ)(神)より降(くだ)り、又(また)天(てん)に昇(のぼ)らしむる所(ところ)の爾(なんぢ)の義(ぎ)を願(ねが)ひ、且(か)つ此(この)義(ぎ)を得(う)るに助(たす)けんことを願(ねが)ふとなり。


五。 教會(きょうかい)が『導(みちび)き給(たま)へ』と云(い)へるも亦(また)善(よ)し、何(なん)となれば現今(げんこん)の生活(せいかつ)は高尚(こうしょう)なる教導(きょうどう)を要(よう)する途(みち)なればなり。吾人(われら)の或市(あるまち)に入(い)る時(とき)は指導者(あんないしゃ)を要(よう)す、况(まし)て天(てん)に入(い)らんとするに際(あた)りては一層(いっそう)吾人(われら)に途(みち)を示(しめ)し、吾人(われら)を固(かた)め吾人(われら)を導(みちび)く所(ところ)の高尚(こうしょう)なる幇助(ほうじょ)を要(よう)す、何(なん)となれば多(おほ)くの十字街(じゅうじがい)ありて路(みち)を迷(まよ)はしむればなり。然(さ)れば吾人(われら)は神(かみ)の右手(ゆうしゅ)を持(ぢ)せざるべからず。『我(わ)が敵(てき)の爲(ため)に』とは多(おほ)くの敵(てき)が我(われ)を此途(このみち)より岐路(きろ)に誘(いざな)ひ、迷(まよは)しめんと欲(ほつ)して起(た)つを云(い)ふ。敵(てき)の斯(かか)る悪謀(あくぼう)を懐(いだ)きて誘惑(ゆうわく)する時(とき)爾(なんぢ)自(みづか)ら我(われ)を導(みちび)けよ、我(われ)は爾(なんぢ)の佑助(ゆうじょ)を要(よう)すればなり。然(さ)れど導(みちび)くは神(かみ)の所為(わざ)なるも、神(かみ)の右手(ゆうしゅ)の指導(みちびき)に堪(た)ふるは吾人(われら)の熱心(ねっしん)の所為(わざ)たるなり。もし爾(なんぢ)自(みづか)ら不(ふ)浄(じょう)ならんか、神(かみ)の右手(ゆうしゅ)爾(なんぢ)を保(たも)たざらん、例令(たとへ)ば、爾(なんぢ)に貪慾(どんよく)あり、或(あるひ)は他(た)の不(ふ)潔(けつ)ある時(とき)の如(ごと)き是(これ)なり。『我(わ)が前(まへ)に爾(なんぢ)の道(みち)を平(たひらか)にせよ』とは之(これ)を便(べん)利(り)にして平坦(へいたん)なる途(みち)となせとなり〔シムマフ〕。他(た)の訳者(やくしゃ)曰(いは)く『我(わ)が前(まへ)に爾(なんぢ)の道(みち)を平(たひらか)にせよ』とは、之(これ)を我(わ)が為(ため)に著(いちじる)しきもの、明(あきらか)なるもの、知(し)らるるもの、直(すぐ)なるものとなせとなり。『盖(けだし)彼(かれ)等(ら)の口(くち)には眞實(しんじつ)なく、彼(かれ)等(ら)の心(こころ)は悪逆(あくぎゃく)』〔十節〕。思(おも)ふに教會(きょうかい)は爰(ここ)に諸善(しょぜん)を遠(とほ)ざかれる口(くち)と心(こころ)とを審定(しんてい)しつつ、迷(まよひ)の中(うち)にある者(もの)、又(また)悪(あ)しき生活(せいかつ)をなす者(もの)に就(つ)きて云(い)ふなり。『彼(かれ)等(ら)の喉(のんど)は開(ひら)けし柩(ひつぎ)』とは、或(あるひ)は彼(かれ)等(ら)の喉(のんど)が殺人(さつじん)に傾(かたぶ)き、或(あるひ)は人(ひと)を殺(ころ)す所(ところ)の教(おしえ)と悪臭(あくしゅう)ある教(おしえ)を発(はっ)することなり。而(しか)して穢(けがらは)しき言(げん)語(ご)を発(はっ)する所(ところ)の口(くち)を以(もっ)て開(ひら)ける柩(ひつぎ)と名(な)つくる者(もの)も亦(また)誤(あやま)たず、何(なん)となれば腐(ふ)敗(はい)せる霊(たましひ)より出(い)づる此(この)悪臭(あくしゅう)は感覚的(かんかくてき)悪臭(あくしゅう)より一層(いっそう)悪(あ)しければなり。毫(ごう)も道(どう)理(り)に適(かな)へることを云(い)はず、唯(ただ)殺人(さつじん)掠奪(りゃくだつ)をのみ是(こ)れ言(い)ふ所(ところ)の貪慾者(どんよくしゃ)の口(くち)も亦(また)開(ひら)ける柩(ひつぎ)なり。然(さ)れば爾(なんぢ)の口(くち)は柩(ひつぎ)たらずして宝蔵(ほうぞう)たるべし。宝蔵(ほうぞう)と柩(ひつぎ)との甚(はなはだ)しく異(こと)なるは、後者(こうしゃ)は収容(しゅうよう)する所(ところ)のものを腐(ふ)朽(きゅう)せしむると、前者(ぜんしゃ)は之(これ)を保(ほ)存(ぞん)するとにあり。是(これ)によりて爾(なんぢ)も亦(また)常(つね)に其口(そのくち)に豊(ほう)富(ふ)なる睿(えい)智(ち)を存(そん)して悪臭(あくしゅう)と腐(ふ)敗(はい)とを存(そん)せしむる勿(なか)れ。而(しか)して尚(なほ)教會(きょうかい)が単(ただ)『柩(ひつぎ)』と云(い)はずして『開(ひら)ける』柩(ひつぎ)と云(い)へるは、一層(いっそう)其(その)厭(いと)ふべきことを顕(あらは)さん為(ため)なり。斯(かか)る言(げん)語(ご)は隠(かく)すべきものなるに、彼(かれ)等(ら)は之(これ)を発(あらは)し、斯(か)くして一層(いっそう)己(おの)が疾病(やまい)を露(あらは)すなり。屍(しかばね)は地(ち)中(ちゅう)に埋(うづ)むべく、悪言(あくげん)は之(これ)を心底(しんてい)に隠(かく)して圧(あっ)すべし、然(しか)るに彼(かれ)等(ら)は公然(こうぜん)悪言(あくげん)を発(はな)ちて多(おほ)くの者(もの)に害(がい)を蒙(こうむ)らしむ。我(われ)は爾(なんぢ)等(ら)に勧(すす)む、吾人(われら)は斯(かか)る人々(ひとびと)を遠(とほざ)けん。吾人(われら)もし死(し)体(たい)を市(し)外(がい)に葬(ほう)むらんに、况(まし)て死(し)の言(ことば)・悪臭(あくしゅう)ある言(ことば)を発(はな)ちて之(これ)を隠(かく)すことを望(のぞ)まざる者(もの)をば遠(とほ)き極(はて)に放逐(ほうちく)するを必要(ひつよう)なりとす、何(なん)となれば斯(か)くの如(ごと)き口(くち)は全(ぜん)市(し)に傳染(でんせん)する害毒(がいどく)なればなり。『其舌(そのした)にて媚(こび)諂(へつら)ふ』。視(み)よ、悪(あく)の他(た)の状態(じょうたい)を。或者(あるもの)は諂言(へつらい)を発(はつ)して己(おの)が霊(たましい)の詭譎(いつわり)を隠(かく)し、又(また)或者(あるもの)の言(ことば)は己(おのれ)の悪念(あくねん)を暗(くら)まし、奸計(かんけい)と欺(ぎ)騙(へん)とを構造(こうぞう)する程(ほど)悪(あし)し。『神(かみ)よ、彼(かれ)等(ら)の罪(つみ)を定(さだ)め、彼(かれ)等(ら)をして其(その)謀(はかりごと)を以(もっ)て自(みづか)ら敗(やぶ)れしめ給(たま)へ』〔十一節〕。爰(ここ)にも祈(き)祷(とう)の穏(おだや)かなるを認(みと)めよ。教會(きょうかい)は罰(ばつ)せよと云(い)はずして『彼(かれ)等(ら)の罪(つみ)を定(さだ)めよ』彼(かれ)等(ら)の悪念(あくねん)を鎮(しづ)めよ、彼(かれ)等(ら)の奸計(かんけい)をして進(しん)歩(ぽ)なからしめよといへり。而(しか)して彼(かれ)等(ら)の悪(あく)事(じ)の成功(せいこう)せざらんことを祈(いの)るは、彼(かれ)等(ら)の利(り)益(えき)の為(ため)に祈(いの)ることを意味(いみ)するなり。『主(しゅ)よ、彼(かれ)等(ら)が不(ふ)虔(けん)の甚(はなはだ)しきに依(より)て之(これ)を逐(お)ひ給(たま)へ、彼(かれ)等(ら)爾(なんぢ)に逆(さから)へばなり』〔十一節〕即(すなは)ち我(われ)は我(われ)と偕(とも)に行(おこな)はるることに就(つ)きて毫(ごう)も慮(おもんばか)らず、只(ただ)爾(なんぢ)(神)に関(かか)はることに就(つ)きて悲(かなし)む。実(じつ)に己(おのれ)を辱(はづか)しむることの為(ため)に復讐(ふくしゅう)せず、神(かみ)を辱(はづか)しむることに対(たい)して強(つよ)く起(た)つは智(ち)なる霊(たましい)に當然(とうぜん)なり。然(しか)るに多(おほ)くの者(もの)は神(かみ)に関(かか)はることを等閑(とうかん)に附(ふ)し、己(おのれ)の為(ため)には大(おほい)なる勢力(せいりょく)を以(もっ)て復讐(ふくしゅう)しつつ反対(はんたい)に行(おこな)ふなり。聖人(せいじん)等(ら)は斯(か)くせざりき、彼(かれ)等(ら)は神(かみ)に関(かか)はる凌辱(はづかしめ)に対(たい)しては強(つよ)く起(た)ちしも、己(おのれ)に関(かか)はることに至(いた)りては等閑(とうかん)に附(ふ)せり。


『凡(およ)そ爾(なんぢ)を頼(たの)む者(もの)は喜(よろこ)び』〔十二節〕。是(こ)れ祈(き)祷(とう)の果(み)なり、即(すなは)ち或者(あるもの)は最(もっと)も善良(ぜんりょう)なる者(もの)となりて悪癖(あくへき)より離(はな)れ、或者(あるもの)は自己(おのれ)の変(へん)化(か)を見(み)て大(おほい)なる満足(まんぞく)を得(え)、善(ぜん)事(じ)に向(むか)ひ、着々(ちゃくちゃく)として矯正(きょうせい)す。彼(かれ)等(ら)は『永(なが)く楽(たのし)み、爾(なんぢ)は彼(かれ)等(ら)を庇護(おほひまも)らん』。是(こ)れ最(もっと)も不(ふ)変(へん)の喜(よろこび)なり。他(た)の喜(よろこび)は顕(あらは)るるや否(いな)や直(ただち)に消滅(しょうめつ)しつつ毫(ごう)も水(みづ)の流(ながれ)に如(しか)ざるも、神(かみ)によるの喜(よろこび)は永(なが)く続(つづ)きて堅(けん)固(ご)に、希(き)望(ぼう)ありて變(かは)らず、如何(いか)なる事情(じじょう)の生(しょう)ずとも之(これ)が為(ため)に破(やぶ)らるることなく、障害(しょうがい)によりて一層(いっそう)高(たか)めらるるなり。然(さ)れば使徒等(しとら)は鞭扑(べんぼく)に遇(あ)ひて喜(よろこ)べり〔使徒行實五の四十〕、パウェルは悲哀(かなしみ)を忍(しの)びて楽(たのし)み、死(し)に準備(じゅんび)し、人(ひと)を招(まね)きて己(おのれ)の喜(よろこび)に與(あづ)からしめて曰(いは)く『若(も)し我(われ)爾(なんぢ)等(ら)の信(しん)の祭(まつり)と奉(ほう)事(じ)との上(うへ)に灌奠(そそぎまつり)とせらるとも、我(われ)喜(よろこ)び、且(かつ)我(われ)等(ら)衆(しゅう)と偕(とも)に喜(よろこ)ぶ。此(こ)の事(こと)爾(なんぢ)等(ら)も亦(また)喜(よろこ)び、且(かつ)我(われ)と偕(とも)に喜(よろこ)べ』〔フィリップ書二の十七、十八〕と。神(かみ)は斯(か)くの如(ごと)くにして悦(よろこ)ぶ者(もの)と偕(とも)に在(いま)し給(たま)ふなり。視(み)よ、何(なに)によりて教會(きょうかい)が『永(なが)く楽(たのし)み、爾(なんぢ)は彼(かれ)等(ら)を庇(おほひ)護(まも)らん』と云(い)へるかを。ハリストスも亦(また)己(おの)が喜(よろこび)の變(かは)らざるを示(しめ)さんと欲(ほっ)し『我(われ)復(また)爾(なんぢ)等(ら)を見(み)ん、而(しこう)して爾(なんぢ)等(ら)の心(こころ)は喜(よろこ)ばん、且(かつ)其(その)喜(よろこび)を爾(なんぢ)等(ら)より奪(うば)ふ者(もの)なし』〔イオアン福音十六の二十二〕と云(い)ひて、同一(どういつ)のことを言(い)ひ顕(あらは)せり。パウェルも亦(また)曰(い)へり『常(つね)に喜(よろこ)べ、輟(や)めずして祈(いの)れ』〔フェサロニカ前書五の十六、十七〕と。『爾(なんぢ)の名(な)を愛(あい)する者(もの)は爾(なんぢ)を以(もっ)て自(みづか)ら誇(ほこ)らんとす』。唯(ただ)之(これ)を以(もっ)て誇(ほこ)ることを得(う)、唯(ただ)之(これ)に対(たい)して喜(よろこ)ぶことを得(う)、唯(ただ)之(これ)を以(もっ)て楽(たのし)むことを得(う)。而(しか)して世(よ)の事(じ)物(ぶつ)を誇(ほこ)る者(もの)は、夢裡(ゆめのうち)に於(おい)て楽(たのし)む人々(ひとびと)と毫(ごう)も異(ことな)らざるなり。


六。 人(ひと)の為(な)す事(こと)にして眞(しん)に誇(ほこ)るに足(た)るべきことあらば、乞(こ)ふ之(これ)を我(われ)に告(つ)げよ。体力(たいりょく)なるか。体力(たいりょく)は吾人(われら)の自(じ)由(ゆう)に之(これ)を得(う)べきものならず、故(ゆえ)に吾人(われら)は体力(たいりょく)を以(もっ)て誇(ほこ)るを得(え)ず、而(しか)も体力(たいりょく)は速(すみや)かに衰弱(すいじゃく)消失(しょうしつ)し、且(か)つ体力(たいりょく)ある者(もの)も当然(とうぜん)に之(これ)を利(り)用(よう)せざれば己(おのれ)を害(がい)すること稀(まれ)なりとせざるなり。美(び)麗(れい)と美(び)貌(ぼう)、富(とみ)と権(けん)威(い)、奢(しゃ)侈(し)及(およ)び其(その)他(た)世(よ)の諸(しょ)事(じ)物(ぶつ)に就(つ)きても亦(また)同様(どうよう)に云(い)はざるべからず。然(しか)れども神(かみ)よりの称讃(しょうさん)及(およ)び神(かみ)に対(たい)する愛(あい)は凡(すべ)てのものに勝(まさ)る装飾(そうしょく)なり、之(これ)を受(う)くるに堪(た)へし者(もの)は、縦(たと)ひ桎梏(かせ)にて縛(しば)らるるとも千(せん)百(ひゃく)の冠(かんむり)に優(まさ)る。此(この)装飾(そうしょく)は疾病(しっぺい)の為(ため)にも、情慾(じょうよく)の為(ため)にも、事(じ)情(じょう)の変(へん)化(か)の為(ため)にも、不(ふ)遇(ぐう)によりても、死(し)其物(そのもの)によりても減少(げんしょう)せずして、一層(いっそう)赫々(かくかく)たる光明(こうみょう)を發(はな)つに至(いた)る。『盖(けだし)爾(なんぢ)は義(ぎ)人(じん)に福(ふく)を降(くだ)せり』〔十三節〕。斯(かか)る傾向(けいこう)を有(ゆう)する多(おほ)くの者(もの)、特(こと)に善行(ぜんこう)に渡(わた)されたる者(もの)もし罪(つみ)に定(さだ)められ及(およ)び嘲笑(ちょうしょう)に服(ふく)するとも、或(ある)最(もっと)も弱(よわ)き者(もの)の元(げん)気(き)を喪(うしな)はざらんが為(ため)に、預(よ)言者(げんしゃ)は如何(いか)に彼(かれ)の霊(たましい)をを固(かた)むるかを見(み)よ、曰(いは)く『盖(けだし)爾(なんぢ)は義(ぎ)人(じん)に福(ふく)を降(くだ)せり』と。天(てん)使(し)の主宰(しゅさい)もし彼(かれ)を頌揚(しょうよう)讃(さん)美(び)したらんには、人々(ひとびと)及(およ)び全(ぜん)世(せ)界(かい)の之(これ)を軽蔑(けいべつ)すとも何(なん)ぞ意(い)に介(かい)するに足(た)らん。斯(か)くの如(ごと)く陸(りく)と海(うみ)とに居住(きょじゅう)する凡(すべ)ての人々(ひとびと)に讃(さん)美(び)せらるる主(しゅ)に祝讃(しゅくさん)せられずんば、人々(ひとびと)の称讃(しょうさん)を受(う)くるとも將(は)た何(なん)の益(えき)あらんや。是(これ)に由(よ)りて吾人(われら)は常(つね)に神(かみ)をして吾人(われら)を称讃(しょうさん)せしめ、吾人(われら)に榮冠(えいかん)を與(あた)へしむる様(よう)努(つと)めん。斯(か)くの如(ごと)くんば假令(たとひ)吾人(われら)は貧(まづし)からんも、疾病(やまひ)の中(うち)にあらんも、極(きは)めて困難(こんなん)なる事情(じじょう)の中(うち)にあらんも、凡(すべ)ての人々(ひとびと)の上(うへ)に立(た)たん。然(さ)れば福(ふく)たるイオフは、不(ふ)潔(けつ)なるものの上(うへ)に坐(ざ)し、全身(ぜんしん)は傷(きず)より流(なが)れ出(い)づる膿(うみ)と数(かぞ)ふべからざる程(ほど)の蟲(むし)にて蔽(おほ)はれ、奴(ど)僕(ぼく)に軽蔑(けいべつ)せられ、己(おのれ)の敵(てき)のみならず、己(おの)が妻(つま)と友(とも)とに辱(はづか)しめられ、貧窮(ひんきゅう)に陥(おち)いり、饑(き)渇(かつ)に迫(せま)り、療(いや)されざる疾病(やまひ)に罹(かか)りて耐(た)え難(がた)き苦(くるしみ)を受(う)けしも、尚(なほ)凡(すべ)ての人々(ひとびと)よりも幸福(こうふく)なりき。何故(なにゆえ)に然(しか)るか。神(かみ)は『其(その)人(ひと)と為(なり)完全(まった)く、かつ正(ただし)くして神(かみ)を畏(おそ)れ、悪(あく)に遠(とほ)ざかる』〔イオフ書一の一〕と云(い)ひて彼(かれ)を祝讃(しゅくさん)したればなり――『主(しゅ)よ爾(なんぢ)は惠(めぐみ)を以(もっ)て盾(たて)の如(ごと)くに之(これ)を環(めぐ)らし衛(まも)ればなり』。預(よ)言者(げんしゃ)は終結(しゅうけつ)に於(おい)て感謝(かんしゃ)の讃(さん)詞(し)を捧(ささ)げて復(ふたた)び神(かみ)に感謝(かんしゃ)を献(けん)ず。惠(めぐみ)を以(もっ)て盾(たて)の如(ごと)くすとは何(なん)の意(い)なるか。盾(たて)とは秀(ひいで)たる盾(たて)、神(かみ)の心(こころ)に従(したが)ふの盾(たて)、最(もっと)も希(き)望(ぼう)ある盾(たて)なり。言(い)ふ意(こころ)は、爾(なんぢ)は最(もっと)も善(よ)き佑助(ゆうじょ)を以(もっ)て吾人(われら)を衛(まも)れりとなり。他(た)の訳者(やくしゃ)は『之(これ)を環(めぐ)らし衛(まも)る』を義(ぎ)人(じん)にかけつつ、爾(なんぢ)は義(ぎ)人(じん)なる彼(かれ)を環(めぐ)らし衛(まも)る、即(すなは)ち爾(なんぢ)の仁(じん)慈(じ)は盾(たて)、而(しか)も秀(ひい)でたる盾(たて)の代(かは)りに彼(かれ)に務(つと)むといひ、或(あるい)は爾(なんぢ)は最(もっと)も善(よ)き佑助(ゆうじょ)を以(もっ)て義(ぎ)人(じん)を衛(まも)るが故(ゆえ)に、剛勇(ごうゆう)も彼(かれ)の安全(あんぜん)を奪(うば)はず、安全(あんぜん)も彼(かれ)の光榮(こうえい)を奪(うば)はずといへり。誰(たれ)か至(し)上(じょう)者(しゃ)の右手(ゆうしゅ)にて守(まも)らるる人(ひと)より眞(しん)に強(つよ)き者(もの)あらん、誰(たれ)か之(これ)より剛勇(ごうゆう)なる者(もの)あらん。ダウィド自(みづか)ら他(た)の個(か)所(しょ)に於(おい)て『憐(あはれみ)と惠(めぐみ)とを爾(なんぢ)に冠(かうむ)らし』〔聖詠百二の四(詩篇百三の四)〕と云(い)へる如(ごと)く、此(この)冠(かんむり)は慈(じ)憐(れん)より編(あ)まる。又(また)此(この)冠(かんむり)はパウェルが『今(いま)より後(のち)義(ぎ)の冕(かんむり)は我(われ)の為(ため)に備(そな)へらる』〔テモフェイ後書四の八〕と云(い)へる如(ごと)く、義(ぎ)よりも編(あ)まるるなり。此(この)冠(かんむり)は他(た)の記者(きしゃ)の『榮(さかえ)の冠辯(かんむり)を汝(なんぢ)に予(あた)へん』〔箴言四の九〕と云(い)へる如(ごと)く、恩寵(おんちょう)の冠(かんむり)なり。此(この)冠(かんむり)はイサイヤが『榮(さかえ)のかんむりとなる』〔イサイヤ書二十八の五〕と云(い)へる如(ごと)く、榮(さかえ)の冠(かんむり)なり。此(この)冠(かんむり)は其中(そのうち)に仁愛(じんあい)をも、恩寵(おんちょう)をも、光榮(こうえい)をも、亦(また)美(び)麗(れい)をも有(ゆう)す、此(これ)は種々(しゅじゅ)なる恩寵(おんちょう)を齎(もた)らす所(ところ)の神(かみ)の賜(たまもの)なり。此(これ)はパウェルが『彼(かれ)等(ら)は壊(やぶ)れ易(やす)き冕(かんむり)を受(う)けん為(ため)、我(われ)等(ら)は壊(やぶ)れざる冕(かんむり)の為(ため)なり』〔コリンフ前書九の二十五〕と云(い)へる如(ごと)く、壊(やぶ)れざる冠(かんむり)なり。斯(か)く引用(いんよう)されたる言(ことば)の意味(いみ)は左(さ)の如(ごと)し、曰(いは)く、爾(なんぢ)は安全(あんぜん)と光榮(こうえい)とを以(もっ)て吾人(われら)を囲繞(かこ)む是(これ)なり。神(かみ)の賜(たまもの)は斯(か)くの如(ごと)く固(かた)く、斯(か)くの如(ごと)く麗(うる)はしく、その榮冠(えいかん)や斯(か)くの如(ごと)し。然(さ)れど人々(ひとびと)に在(あ)りては然(しか)らず、光榮(こうえい)の中(うち)にある者(もの)も完(まった)き安全(あんぜん)の中(うち)に在(あ)らず、安全(あんぜん)の中(うち)にある者(もの)も常(つね)に必(かならず)しも光榮(こうえい)の中(うち)にあらず、此(この)二(に)者(しゃ)は彼(かれ)等(ら)の中(うち)に容(よう)易(い)に合(あは)せらるることなし、若(も)し合(あは)せらるる時(とき)は速(すみや)かに破(は)壊(かい)せらるるなり。例令(たとへ)ば権(けん)威(い)ある人々(ひとびと)、著名(ちょめい)なる人々(ひとびと)、名(めい)誉(よ)ある人々(ひとびと)は安全(あんぜん)の中(うち)にあらざるも己(おの)が名(めい)誉(よ)の威(い)厳(げん)によりて特(こと)に危(き)険(けん)なる場(ば)所(しょ)に立(た)ち人(ひと)に擯斥(ひんせき)され軽蔑(けいべつ)さるる人々(ひとびと)は、己(おのれ)の顕(あらは)れざるにより、安全(あんぜん)の中(うち)にありて名(めい)誉(よ)を受(う)けざるも、特(こと)に安全(あんぜん)の中(うち)にあるによりて名(めい)誉(よ)を有(ゆう)せざるなり。然(さ)れど神(かみ)にありては然(しか)らず、安全(あんぜん)と光榮(こうえい)とは至(いたつ)て高(たか)き程(てい)度(ど)に於(おい)て合(あは)せらるるなり。是(これ)に由(よ)りて吾人(われら)は此(これ)等(ら)の幸福(こうふく)の威(い)厳(げん)何(なに)ものよりも先(ま)づ大(おほい)なるなる幸福(こうふく)は神(かみ)に喜(よろこ)ばれ、盾(たて)も光榮(こうえい)も、安全(あんぜん)も、他(た)の多(おほ)くの幸福(こうふく)も此中(このうち)に含蓄(がんちく)することを顕(あらは)しつつ吾人(われら)の前(まへ)に在(あ)る苦行(くぎょう)を忍耐(にんたい)し、常(つね)に元(げん)気(き)を失墜(おと)すなく盾(たて)なくして止(や)まざらん。斯(かか)る戦(たたかひ)に於(おい)ては軍人(ぐんじん)は盾(たて)を遺(すつ)ること能(あた)はず、唯(ただ)観(み)物(もの)の終(おは)る時(とき)に至(いた)りて始(はじ)めて其(その)勤労(きんろう)終(おは)り、而(しか)して観(み)物(もの)は霊(たましひ)が体(からだ)より離(はな)るる時(とき)に終(おは)るなり。然(さ)れば此(この)世(よ)にある間(あひだ)は家(いへ)に坐(ざ)し、市(いち)場(ば)に出(い)で、病中(びょうちゅう)にも、健康(けんこう)の時(とき)にも、飲食(いんしょく)しながらも常(つね)に吾人(われら)は戦(たたか)はんことを要(よう)す。疾病(やまひ)の時(とき)さへも特(こと)に此(この)戦(たたかひ)の時(とき)たることあり、即(すなは)ち疾病(やまひ)の感覚(かんかく)が諸方(しょほう)より霊(たましひ)を煩(わづら)はす時(とき)、悲(ひ)哀(あい)が霊(たましひ)を攻(せめ)囲(かこ)み、悪(あく)魔(ま)が立(た)ちて或(ある)不(ふ)善(ぜん)の言(ことば)を話(はな)すべきを慫慂(しょうよう)する時(とき)是(これ)なり。斯(かか)る時(とき)は己(おのれ)を安全(あんぜん)に持(たも)ち、甲冑(かっちゅう)・盾(たて)・及(およ)びその他(た)の武器(ぶき)を以(もっ)て防御(ぼうぎょ)し、且(か)つ断(た)えず神(かみ)に感謝(かんしゃ)せんことを要(よう)す。是(こ)れ悪(あく)魔(ま)の為(ため)に畏(おそ)るべき矢(や)なり、是(こ)れ悪(あく)鬼(き)の為(ため)に致(ち)命(めい)の打(だ)撃(げき)なり、光明(こうめい)なる榮冠(えいかん)は特(こと)に之(これ)が為(ため)に賜(たま)はらる。然(さ)れば福(ふく)たるイオフは誘惑(ゆうわく)疾病(しっぺい)および艱難(かんなん)の時(とき)に於(おい)て變(かは)らざる霊(たましひ)と動(うご)かすべからざる心(こころ)とを顕(あらは)し、又(また)神(かみ)に此(この)霊的(れいてき)献祭(けんさい)なる感謝(かんしゃ)の讃(さん)詞(し)を献(けん)じたるが為(ため)に特(こと)に光榮(こうえい)なる者(もの)となり、之(これ)が為(ため)に著(いちじる)しき者(もの)となり、之(これ)が為(ため)に榮冠(えいかん)を受(う)くるに堪(た)へたり。彼(かれ)が『主(しゅ)與(あた)へ主(しゅ)取(と)り給(たま)ふなり(斯(か)くあらんことは主(しゅ)の喜(よろこ)び給(たま)ふ所(ところ)なり)主(しゅ)の御名(みな)は讃(ほ)むべきかな』〔イオフ記一の二十一〕と云(い)ひし其(その)言(ことば)は即(すなは)ち是(こ)れ献祭(けんさい)なりき。然(さ)れば吾人(われら)も亦(また)誘惑(ゆうわく)の中(うち)にあり、艱難(かんなん)の中(うち)にあり、憤懣(ふんまん)の中(うち)にありても断(た)えず神(かみ)を讃(さん)美(び)頌揚(しょうよう)せん、盖(けだし)光榮(こうえい)は世々(よよ)に神(かみ)に帰(き)すべきものなればなり。アミン。

脚注 

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  1. ↑ 投稿者注:一般にはトビト書。
  2. ↑ 投稿者注:一般にはハンナ。
  3. ↑ 投稿者注:「第一列王記」は正教会での呼び方。一般には「サムエル前書」。原文は第一列王記十の十三となっているが明らかに第一列王記一の十三の誤りなので誤植と思われる。原文のまま訂正していない。
  4. ↑ 投稿者注:一般にはヘロデヤまたはヘロディア。

参考

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第五聖詠(せいえい)

1 伶長(れいちょう)に簫(せう)を以(もつ)て之(これ)を和(くわ)せしむ。ダワィドの詠(えい)。
2 主(しゅ)よ、我(わ)が言(ことば)を聴(き)き、我(わ)が思(おもひ)を悟(さと)れ。
3 我(わ)が王(わう)我(わ)が神(かみ)よ、我(わ)が呼(よ)ぶ声(こえ)を聴(き)き納(い)れ給(たま)へ、我(われ)爾(なんぢ)に祈(いの)ればなり。
4 主(しゅ)よ、晨(あした)に我(わ)が声(こえ)を聴(き)き給(たま)へ、我(われ)晨(あした)に爾(なんぢ)の前(まへ)に立(た)ちて待(ま)たん。
5 蓋(けだ)し爾(なんぢ)は不(ふ)法(はふ)を喜(よろこ)ばざる神(かみ)なり、悪人(あくにん)は爾(なんぢ)に居(お)るを得(え)ず、
6 不(ふ)虔(けん)の者(もの)は爾(なんぢ)が目(め)の前(まへ)に止(とどま)らざらん、爾(なんぢ)は凡(およ)そ不(ふ)法(はふ)を行(おこな)ふ者(もの)を憎(にく)む、
7 爾(なんぢ)は謊(いつはり)を言(い)ふ者(もの)を滅(ほろぼ)さん、残忍(ざんにん)詭(き)譎(けつ)の者(もの)は主(しゅ)之(これ)を悪(にく)む。
8 惟(ただ)我(われ)爾(なんぢ)が憐(あはれみ)の多(おほ)きに倚(よ)りて爾(なんぢ)の家(いへ)に入(い)り、爾(なんぢ)を畏(おそ)れて爾(なんぢ)が聖殿(せいでん)に伏拜(ふくはい)せん。
9 主(しゅ)よ、我(わ)が敵(てき)の爲(ため)に我(われ)を爾(なんぢ)の義(ぎ)に導(みちび)き、我(わ)が前(まへ)に爾(なんぢ)の道(みち)を平(たひらか)にせよ。
10 蓋(けだし)彼(かれ)等(ら)の口(くち)には眞實(しんじつ)なく、彼(かれ)等(ら)の心(こころ)は悪逆(あくぎゃく)、彼(かれ)等(ら)の喉(のんど)は開(ひら)けたる柩(ひつぎ)、其(そ)の舌(した)にて媚(こ)び諂(へつら)ふ。
11 神(かみ)よ彼(かれ)等(ら)の罪(つみ)を定(さだ)め、彼(かれ)等(ら)に其(そ)の謀(はかりごと)を以(もつ)て自(みづか)ら敗(やぶ)れしめ、彼(かれ)等(ら)が不(ふ)虔(けん)の甚(はなはだ)しきに依(よ)りて之(こ)を逐(お)い給(たま)へ、彼(かれ)等(ら)爾(なんぢ)に逆(さか)らへばなり。
12 凡(およ)そ爾(なんぢ)を頼(たの)む者(もの)は喜(よろこ)びて永(なが)く楽(たの)しみ、爾(なんぢ)は彼(かれ)等(ら)を庇(おほ)い護(まも)らん、爾(なんぢ)の名(な)を愛(あい)する者(もの)は爾(なんぢ)を以(もつ)て自(みづか)ら詡(ほこ)らんとす。
13 蓋(けだし)主(しゅ)よ爾(なんぢ)は義(ぎ)人(じん)に福(ふく)を降(くだ)し、惠(めぐみ)を以(もつ)て盾(たて)の如(ごと)く之(これ)を環(めぐ)らし衛(まも)ればなり。