聖詠講話上編/第五聖詠講話

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第五聖詠講話[編集]

ダウィドえい相続者そうぞくしゃこと』。

。 前以まへもつこの相続者そうぞくしゃくべきさん如何いかなるものなるか、およこのさん相続そうぞく吾人われらにもかんするものなるかを観察かんさつして、つぎこのさん如何いかなるあいおいたまはらるるかをしめさん。めいによりて相続権そうぞくけん吾人われら拒絶きょぜつされしあいおいて、自己じこぞくする財産ざいさんおもんばかるがごとくにさん穿鑿せんさくし、あるひその證書しょうしょたづねもとめ、あるひこれため金銭きんせんついやあるひ法律ほうりつ参考さんこうし、ほう謄写とうしゃをなすなど所有あらゆる労力ろうりょくくすは、まこと無智むちなりしならん、またここすで霊的れいてきめいのあるあり、吾人われらまへにはべての文書もんじょひらかれ、しか物質的ぶっしつてきさんよこたはるにさいして、これ注意ちゅうい等閑とうかんするはしん無智むちたりしならん。れば吾人われらちかづきて文書もんじょひらき、其中そのうちしるされしことじゅくして、このさん如何いかなるやくにて吾人われらまへかれしか、又其またその相続権そうぞくけんほん如何いかなるものなるかを観察かんさつせん。しゅたださん吾人われらのこさずして、あるやくもとおいてせり。らば如何いかなるやくもとのこしたるか。しゅへり『われあいせばいましめまもらん』〔イオアン福音十四の二十一、二十三〕と、またへり『おのれじふ字架じかひてわれしたがはざるものわれよろしからず』〔マトフェイ福音十の三十八〕と、その聖書せいしょにはおほくのやくあり。吾人われらかかさんくべきときをも研究けんきゅうせん。此時このとき現在げんざいにあらずしてらいにあり、あるひこれ正確せいかくあらはせば、現在げんざいにてもあり、らいにてもあるなり、しゅへり『ただかみくにもとめよ、らばみななんぢくははらん』〔ルカ福音十二の三十一〕と、しかれどもまったさん相続そうぞくするはときりとす。げん生命いのちすみやかにすぎり、吾人われらここなほ完全かんぜん状態じょうたいにあるがゆえに、律法りっぽうしゃすで成年せいねんたっしたる相続者そうぞくしゃちち財産ざいさんじょうするがごとく、かみまたかくごと吾人われらになしたまふなり。吾人われら成全せいぜんひととなり、円満えんまん成長せいちょうしてきゅう生命いのちうつときは、かみまたこのさん吾人われらじょうたまふなり。れどかみここにもおなじく信憑しょうことなるべき文書もんじょ吾人われらのこして、吾人われらさんけ、また相続権そうぞくけんうしなはずうばはれざるようすべきことをげたり。吾人われらなほいま完全かんぜんなるがため或人あるひとおそれしめ、またげしところにしてうたがひおこさば、げんおよ来世らいせいきてだんしつつ『われどうたりしときどうごとひ、どうごとおもひ、どうごとはかれり、ひととなりてのちは、どうことめたり』〔コリンフ前書十三の十一〕とひ、また成全せいぜんひとり、まった成長せいちょうりょういたるにおよぶ』〔エフェス書四の十三〕とところパウェルくべし。かれいへらく、吾人われらげんりてこのもっやしなはるること、あたか乳母うばやしなはるるにひとしきも、しゅ殿でんらんとするや、つべきころもて、ちざるころも生命いのちうつるなり。おほくの人々ひとびと相続権そうぞくけん剥奪はくだつさるるは成文せいぶんやくらして、そのさん相続そうぞく適当てきとうなるときにありとす。吾人われらいまこのさん如何いかなるものなるかを観察かんさつせん。このさんは『いまず、みみいまかず、ひとこころいまらざる』ところなり〔コリンフ前書二の九〕。吾人われらかいざることを、如何いか吾人われらげんおいようんや。ゆえこのさん吾人われらため来世らいせいぞんせらるるなり。またよ、かみおほいなる照管しょうかんを、かれげんおい艱難かんなんさだめたるは、そのおもざんにしてかろくせられんためなり、また来世らいせいため幸福こうふくぞんせるは、いざる生命いのちおい報償ほうしょうながつづかんためなり。かみこの生命いのちをもくにづく。たとひ、そのことばもっあらはされざるも、かみ来世らいせい状態じょうたいいまひしごとく、あるひくにづけ、あるひ婚姻こんいんづけ、あるひ主権しゅけんづけ、およ吾人われらもちふる光明こうめいなる名称めいしょうもっ吾人われら来世らいせいとくせしめつつ、あるひ永遠えいえん光榮こうえい不死ふし幸福こうふくなにものもかくざるハリストスともにする生命いのちづけてかたどりしことのみはくことをたり。教會きょうかいやくすなは相続そうぞくやく如何いかなるものなるか。このやくごう困難こんなんなるものにあらず。しゅへり『ひとなんぢおこなはんとほっするものは、なんぢくのごとこれひとおこなへ』〔マトフェイ福音七の十二〕と。なんぢかみなん不思議ふしぎなることをもめいぜずして、天性てんせい要求ようきゅうするところめいぜしをるか。しゅへり、なんぢひとなんぢおこなはんことをほっするがごとく、みづからもおこなへと。なんぢ人々ひとびとなんぢほめんことをほっせばみづかひとめよ。なんぢひとなんぢ所有しょゆうぬすみることをほっせずばみづかぬすみなかれ。なんぢ尊敬そんけいされんことをほっせばみづかひと尊敬そんけいすべし。なんぢ慈憐あわれみんことをほっせばみづか慈憐あわれみあらはせ。なんぢあいせられんことをほっせばみづかひとあいすべし。なんぢ自己じこあくかざらんことをほっせばみづかひとあくなかれ。またしゅ表言いひあらはし如何いか正確せいかくなるをみとめよ。かれは『ひとなんぢおこなふことをほっせざるものなんぢくのごとこれひとおこななかれ』とははずして 『ほっするもの』はとへり。善行ぜんこうをなすにどうあり、いち悪癖あくへきとほざかること、いち善行ぜんこうおこなふことなり、ゆえかみあきらかに後者こうしゃもっ前者ぜんしゃをもしめしつつ、後者こうしゃ吾人われらしめせり。かみは『なんぢみづかにくところのことをひとおこななかれ』〔トウィト書四の十五[1]〕とひて、前者ぜんしゃ方法ほうほうしめし、またひとなんぢおこなはんとほっするものなんぢくのごとこれひとおこなへ』とひて、あきらかに後者こうしゃ方法ほうほうしめせり。


。 またやくあり。そのやくとは如何いかなるものなるか。おのれあいするがごとひとあいすることなり。なにものかこれよりようなるものあらん。にくむことは困難こんなんにしてあん結合けつごうせらるるも、あいすることはようにして便べんなればなり。しゅもし吾人われらに、人々ひとびとよ、なんぢ猛獣もうじゅうあいせよとひたらんには、これおこなふやまこと困難こんなんなりしならん、しかれどもかれ人々ひとびと種族しゅぞくにより、出所しゅっしょにより、相愛あひあい精神せいしんによりてあいやす人々ひとびとあいすべきことをいましめられたり、これおこなふになん困難こんなんかあらん。この天性てんせいるいたがい相愛あひあいせしむることは、ひと人類じんるいにありてしかるのみならず、獅子ししまたおほかみにありてもしかるなり。これりて吾人われら獅子ししせいし、これらすにさいして、吾人われら同族どうぞく人々ひとびとあいせずんば如何いかなる弁解もうしわけすべけんや。なんぢおほくの人々ひとびとさん相続そうぞくせんがために、みづからは強壮きょうそう青年せいねんなるに、老人ろうじんためえきせられ、老人ろうじんかんし、つね老人ろうじんゆうして、老年ろうねんともなところ脚痛きゃくつう癱瘋たんぷうその老人ろうじん疾病しっぺいよりきたすべてのかいしのびくるをざるか。れど彼処かしこにはただとみんとほっするいつぼうしか忠実ちゅうじつなるぼうあるのみなるも、ここにはてんあり、またてんまへかみじんあり。聖詠せいえい表題ひょうだいには相続者そうぞくしゃことはれたり。この相続者そうぞくしゃ何人なんびとなるか。教會きょうかいおよそのぜん會員かいいんなり、パウェル教會きょうかいきて『われなんぢひとりおっと聘定へいていせり、きよ処女しょぢょとしてハリストスささげんためなり』〔コリンフ後書十一の二〕とひ、またイオアンは『新婦はなよめあるもの新娶者はなむこなり』〔イオアン福音三の二十九〕とへり。しかれども通例つうれい新娶者はなむこにありては、婚姻こんいんのち数日すうじつにしてその愛情あいじょうよわまるも、吾人われら新娶者はなむこえず吾人われらあいし、えずおのあいつよむ。イオアン吾人われら新娶者はなむこあいことつよきをあらはしつつこれ新娶者はなむこづく。またイオアン教會きょうかい新婦はなよめづけたるは、ただこれのみならず、吾人われら衆人しゅうじん善行ぜんこうあいとによりてひとつからだひとつたましいたらんことをぼうするによりてなり。しかして新婦はなよめ新娶者はなむこよろこばすがためすべてをなすがごとく、吾人われらまた生涯しょうがいくせざるべからず。新婦はなよめ婚姻こんいん宮殿きゅうでんうつりしそのより、ただ如何いかにして新娶者はなむこよろこばすべきかをおもんばかるがごとく、吾人われらまたげんいつ生涯しょうがいおいて、如何いかにしてこの新娶者はなむこよろこばすべき、また新婦はなよめ善良ぜんりょうなる性質せいしつ保守ほしゅすべきことのみをおもんばからざるべからず。この新婦はなよめきてはダウィドも『皇后こうごうなんぢみぎち、よそほふにきんもってし、そのころもきんぬひものとす』〔聖詠四十四の十、十四(詩篇四十五の十、十四)〕とひておくす。なんぢ其靴そのくつをもんとほっせんか。新娶者はなむこともなるパウェルところけ、いはく『へい福音ふくいんする預備よびもっあしくつはけ』〔エフェス書六の十五〕と。そのよりおりせるおびをもんとほっせんか。パウェルまたなんぢおしふ、いはく『真実しんじつなんぢこしつかねよ』〔同上六の十四〕と。かれんとほっせんか。またパウェルよりることをん、いはく『けがれあるひしわたず』〔同上五の二十七〕と。これきてえいしゃソロモン)のところけ、いはく『佳耦ともよ、なんぢことごとうるはしくしてすこしのきずもなし』〔雅歌四の七〕と。かれあしをもんとほっせんか。使徒しとの『平安へいあん福音ふくいんし、ぜん福音ふくいんするものあしうるはしきかな』〔ロマ書十の十五〕とへるをけ。しかしてかれくのごと新婦はなよめかざりて、みづからはそのことごとくの光榮こうえいあらはしてきたらざりしはまこと奇異きいにしておどろくべし、おのれゆたかなるもっ新婦はなよめおどろかさざるがためなり、すなは新婦はなよめにあるところおなふくけ、すなはかれにある『同一どういつにくとをけて』〔エウレイ書二の十四きたれり、またかれ新婦はなよめてんばず、新娶者はなむこ新婦はなよめきたほうまもりてみづかうへよりかれところきたれり。此事このこときてはモイセイも『是故このゆえひとその父母ちちはははなれて其妻そのつま好合へ』〔創世記二の二十四〕とひ、パウェルも『おうおほいなり、われハリストス教會きょうかいとにおいこれふ』〔エフェス書五の三十二〕とへり。新娶者はなむこ新婦はなよめ住居すまいきたり、そのまみれたるけつなるたいこれあらひ、あぶらり、充分じゅうぶん飲食いんしょくせしめ、ふくせてちがへんばかりにせり。新娶者はなむこみづか新婦はなよめためふくとなり、くしてかれりておのれところみちびく。相続そうぞく準備そなへられたるものなり。言者げんしゃ新婦はなよめきてなにことをひしや。かれおほくのことをへり。言者げんしゃ新婦はなよめ保護ほごしゃなり、しかして新婦はなよめまへつもののうちより新娶者はなむこ婚姻こんいんかれくべき幸福こうふくかんしておほくのことをかれげんし、またこくせり。かれまたここにも新婦はなよめきてふなり、かれ裁判さいばんける弁論べんろんごとく、最初さいしょその相続者そうぞくしゃきて公平こうへいなる弁論べんろんをなすことをぶ。相続そうぞくするところ新婦はなよめ何事なにごとねがふか。吾人われらかん。しゅよ。ことばけ』〔二節〕。新婦はなよめ新娶者はなむこしゅづく、さかしき新婦はなよめ適当てきとうなることばなり。実際じっさい同一どういつ天性てんせいゆうする吾人われらあいだりても、つまおっとおのれ主人しゅじんとなふ、まし教會きょうかい元来もとより主宰しゅさいたるハリストスとのあいだおいてはハリストスしゅづくるは當然とうぜんたるなりよ、なにによりて教會きょうかいここハリストスしゅづくるを、ただ新娶者はなむことしてのみならず、主宰しゅさいとしてとなふるにて、新婦はなよめねがひかしめんためなり。新婦はなよめまへには相続権そうぞくけん(をくること)あり、しかしてこの相続そうぞく新婦はなよめただいましめられたるところただしくおこなあいおいくるがゆえに、新婦はなよめやくされたる幸福こうふくおよ相続権そうぞくけんうばはれざるがためその佑助ゆうじょしゃたらんことをかれ請求せいきゅう懇願こんがんするなり。これりて新婦はなよめしゅよ。ことばけ』ひ、かれ新娶者はなむこかれたまはんとほっするものをねがふがゆえあえこれふも、たまところものかなはざることをねがものは、くのごとくにじんねがざりしならん。たれあだあるひおのれあく人々ひとびとしかれとねがときは、ひとことばにあらずしてあくことばなり。実際じっさいあくのろいしゅことばごとく『これぐるものあくよりす』〔マトフェイ福音五の三十七〕るときあだたいするとうまたあくよりす。ればなんぢが『ことばけ』ととき温柔おんじゅうれんにしてあくなにことをもゆうせざるひと適当てきとうなるがごとくにへ。


。 こえさとれよ』ここ言者げんしゃこえといへるは、こえ音響ひびきにあらずしてたましい状態じょうたいなり。ればモイセイもくたれども、しゅこれに『なんぢなんわれよばはるや』〔出埃及記十四の十五〕とへり。しゅなんぢわれ何事なにごといのるやとはずして、なんぢなんわれよばはるやとへるは、モイセイ熱切ねつせつなるこころもっかみちかづけるによる。しかして言者げんしゃここにもかみさけびのことをへるにあらず、すなはこころ状態じょうたいおよ熱心ねっしんにしてかみむかふべきことをへるなるをなんぢせしめんとて、なんぢぶをけとははざりしなり。らばなにひしか。かれさとれよ』といへり、すなはれよのなり。言者げんしゃつうことばもちひたるも、このことばおいあたかかれまさはんとほっするところあらはすがごとし。祈願ねがひこえたまへ』〔三節〕。かれふたた内心ないしんこえさとらしむ。アンナ[2]べり〔第一列王記十の十三ママ[3]〕。言者げんしゃただ祈祷いのりこえききたまへとはずして祈願ねがひの』こえをとへり、なんとなればいのものがい状態じょうたいのみならず、ない傾向けいこうによりても、謙遜けんそんたるべければなり。祈願ねがものこくしゃごとことばもちひず、てきこういのもの願者がんしゃはんよりは、むししょうしゃなり。なんぢ言者げんしゃ如何いかとうととのへてそのとうくるにふるものとなししをるか。れば吾人われらとうしてききれられんとほっせば、まへもっ吾人われらとうとうとなりて、聖詠せいえいしゃしめししがごとこくとならざるようにすべし、くて吾人われらとうかみささぐることをん。おうかみや』言者げんしゃ数々しばしばもちひしことばなれども、もっとおほこれふの特権とくけんゆうししはアウラアムなり、パウェルかれきて『かみかれはぢとせずして、おのれかれかみとなふ』〔エウレイ書十一の十六〕とへり。相続そうぞくするところ教會きょうかい同様どうよう表言いひあらはしもちひたれども、あいによりてこれもちひたり。教會きょうかいただおうはずおのれあいあらはしつつおうかみや』へり。つぎ教會きょうかいかみ教會きょうかいききるるようねがところゆうをもぶ。このゆう如何いかなるものか。しゅよ、われなんぢいのればなり』と。しかれどもなんぢはん、たれかみいのらざるかと。おほくのものかみいのものごとゆるも、そのいのるや人々ひとびとしめさんためなり。教會きょうかいくのごとおこなはず、一切いっさいひとのことをわすれて、ただかみむかふのみ。あしたこえたまへ』〔四節〕。なんぢ熱心ねっしんたましい痛悔つうかいとをるか。言者げんしゃいはく、われ此事このことをなすやはじめおいてす、ればおほくのぎょういとなみてしかのちとうちかづくものこれくべしと。教會きょうかいくのごとおこなはず、すなは一日いちじつはじめおいその初物はつものかみささぐ。えいしゃへり『太陽たいようさきんじてなんぢ感謝かんしゃす、ひかりひがしたるなんぢむかふべきことのられんためなり』〔ソロモンの智慧書十六の二十八〕と。なんぢおのれよりぶんいやしものなんぢさきんじておう叩拝こうはいするをゆるさざりしならん、しかるに太陽たいようすでかみはいするときあたりて、なんぢなおね、造物ぞうぶつ首長しゅちょうけんこれゆづり、なんぢためつくられたるしょ造物ぞうぶつさきんじてかみ感謝かんしゃせず、すなはかおとをあらふも、おのれたましいをばけつなるものとしてとどむ。なんぢみづもっからだきよめらるるがごとく、とうもったましいきよめらるることをらざるか。ればからだよりもおのたましいあらへ。おほくの悪癖あくへき汚点しみごとたましい粘着ねんちゃくしたれば、吾人われらとうもっこれあらはん。吾人われらもしくのごとくしておのくち保護ほごせば、日々ひび業務ぎょうむ善良ぜんりょうなるもといかん。われあしたなんぢまへちてたん』こころは、われしょへず、すなはおこないもっなんぢまへたん。くのごとひとかみちかからん、しかしてかみちかきととほきとはひとみづからにかんす、なにとなればかみ何処いづこにもいませばなり。われなんぢまへちてたん、けだしなんぢほうよろこばざるかみなり』〔五節〕。訳者やくしゃわれなんぢほうよろこばざるかみなるをる』〔不明の訳者〕となす。ここ言者げんしゃ偶像ぐうぞう指示さししめせるなり、なにとなればきょう諸神しょしんかか人々ひとびとおよすべてのほうすべてのあくとをよろこべばなり。悪人あくにんなんぢるをず』かれなんぢかみあいされず、なんぢちかづかざればなり。けんものなんぢまへとどまらざらん』〔六節〕。ここ言者げんしゃかみあくにくむことをしめかみちかづかんとほっするものに、かみごとあくにくむべきことをおしふ、なにとなればしかせずしてはかみちかづくことをざればなり。おのしつ善人ぜんにんことなものにして善人ぜんにんちかづくことをずんば、ましかみちかづくことをや。また悪人あくにん善人ぜんにんちかづきざることにきては、悪人あくにんじんきてところけ、いはく『われじんるにへず』〔ソロモン智慧書二の十五〕と。ればイオアン牢獄ひとやりて何人なんびとまへにもあらはれず、しかイロデァダ[4]イオアンよりとほところにありしも、ためにはへられざりき、イオアン死後しごにもとう圧制あつせいしゃたりしもの良心りょうしんくるしめたり。ればたと悪人あくにん攻撃こうげきさるるとも、ぜんおこなもの何人なんびとがいこうむりたりとおもなかれ、がいくるはあくおこなところものなり。なんぢおよほうおこなものにくむ、なんぢいつはりものほろぼさん、残忍ざんにんけつものしゅこれにくむ』〔七節〕。聖詠者せいえいしゃこれふや、ただ吾人われらこれかしめんためにあらず、数々しばしばこれきて新娶者はなむこしつかなひ、かれちかものとなることをまなばしめんためなり。しからずんば吾人われらうへよりの佑助たすけうばはれん、これまさしきことなきなり。


。 言者げんしゃいは其者そのものれいたり、ゆうものたり、おうたり、いな何人なんびとたらんもなんぢおよほうおこなものにくむ』なんとなればかみつね外部うわべ価値かちによらず、善行ぜんこうによりておのれともえらめばなり。しかれどもおほくのそんなる人々ひとびとかみ何事なにごとをもにくまずとおもふがゆえに、言者げんしゃばつおそれをも附加つけくはへ、もっとおろかなる罪人ざいにんせつけつつ。なんぢいつはりものほろぼさん』へり。ばつただかみ憎悪にくみかぎらず、たとかみ憎悪にくみふべからざるばつなれども、かみおよいつはりものほろぼたまふはおそるべきばつなり。憎悪にくみおそるべくして、かみ憎悪にくまるるはごくにあるよりおそるべしとす、しかれども、言者げんしゃかいものためこれへるも、もっとおろかなる人々ひとびとためばつおそれをも附加つけくはへたるなり。ればひとよ、ある人々ひとびといつはりひ、ひとのものを掠奪りゃくだつし、むさぼりおちいりてごうがいけざるをこころみだなかれ、あんなるなかれ、かみげしところかならおうぜん、なにとなればかみ天性てんせいあくみ、つねこれにくみ、これゆるさざればなり、言者げんしゃここいつはりものといへるは、しき生活せいかつをなし、不義ふぎおこなひ、快楽かいらく節制せっせい貪慾どんよくふけもののことなり、かれこれすべてをつね不義ふぎつけたり。残忍ざんにんけつものしゅこれにくむ』ここくちにはへども、こころにはのことをおもひ、外部うわべには温柔おんじゅう状態さまよそほひども実際じっさいおいてはおほかみ性質せいしつあらはところ殺人さつじんけつ狡猾こうかつかたむけるひときてふなり、なにものもこれまさしきことあるをざるなり。公然こうぜんたるてきぼうするはかたからざるも、おの奸計かんけいかくしてあくものは、ようとらへられずして、おほくのあくおこなふことをよ、ハリストスまたなにによりてかか人々ひとびとあらはれしときいさむべきことをめいじたるを、けだかか人々ひとびとは『ひつじころもにてなんぢきたれども、うちむごおほかみなればなり』〔マトフェイ福音七の十五ただわれなんぢあはれみおほきにりてなんぢいへらん』〔八節〕。教會きょうかいうちには邦人ほうじん妖術ようじゅつしゃ殺人者さつじんしゃ惑者わくしゃけつしゃ善者ぜんしゃまたり、しかして教會きょうかいかみかれにくこれけんすとひしがゆえに、教會きょうかいかれおのれけんによらず、おのれ善行ぜんこうによらず、かみじんによりてこれあくよりすくはれ、かみない安息あんそくれられたることをしめさんとほっしてただわれなんぢあはれみおほきにりてなんぢいへらん』附加つけくはへたり。何人なにびとなんぢはそれとそれとをなして如何いかすくひしやとはざるがために、教會きょうかい如何いかようにしてすくひたるか、すなは教會きょうかいかみおほいなるあいそのはれざる仁善じんぜんによりてすくはれたることをしめすなり。しかれどもいやすべからざるほど慈憐あはれみをもけざる病者びょうしゃあり、例令たとへイウデヤじんごとこれなり。恩寵おんちょう恩寵おんちょうたり、れんれんたり、しかれどもただこれぼうするもののみすくはるるも、がんにしてこのたまものくることをのぞまざるものすくはれず、イウデヤじんごときはそのすくはれざるものなりき、パウェル此事このこときて『かれかみらず、おのれてんことをはかりてかみふくせざりき』〔ロマ書十の三〕とへり。教會きょうかいかみぞくすることにきてひつつ、つぎ教會きょうかいぞくすることにきてもへり。なんぢおそれてなんぢ聖堂せいどう伏拜ふくはいせん』〔八節〕。こころわれ恩寵おんちょうくるときみづか当然とうぜんなることをあらはし、なんぢごとまつりけんぜん、すなはなんぢおそれてなんぢ聖堂せいどう伏拜ふくはいせん』――おほくの祷者とうしゃが、此時このとき身体からだき、欠伸あくびし、仮睡いねむりするがごときにあらず、すなはきょう戦慄せんりつもっふとなり。くのごとくにしていのものすべてのあくめ、およその善行ぜんこうむかひてかみ慈惠めぐみく。しゅてきためわれなんぢみちびたまへ』〔九節〕。教會きょうかいかみ光榮こうえいためかみあくにくむこと、かみあいにして吾人われら照管しょうかんすること――おの救贖きゅうしょくのこと、教會きょうかい如何いかようにしてすくはれしか――教會きょうかいすくひたるのちしゝこと、すなは教會きょうかいあく嫌忌きらひて善行ぜんこう恋着れんちゃくしたりしことをべ――しき生活よわたりをなすものたいしては、かれおのあく矯正きょうせいせんとほっせば、じんくべしとの善望ぜんぼうあたへて、しかのちおのだんねがひけてしゅよ、われなんぢみちびたまへ』へり。これもっ教會きょうかいさんかみささげ、かみじんけたるがためこれ感謝かんしゃすべきを聴者ちょうしゃおしへ、つぎのぞところねがひて、そのけしことのためふたた感謝かんしゃすべきをおしふ。しかれども吾人われら教會きょうかい何事なにごとねがふかを観察かんさつせん。そのねがところぞくことにはあらざるか。ざんのことにはあらざるか。すみやかにすぎることにはあらざるか。かれふはとみのことにあらずや。えいのことにはあらずや。権柄けんぺいのことにあらずや。教會きょうかいてき復讐ふくしゅうすることにあらずや。教會きょうかいごうくのごときことをねがはず。らばそのねがところ何事なにごとなるか。しゅよ、てきためわれなんぢみちびたまへ』これなり。なんぢ教會きょうかいごうざんのことをねがはず、また如何いか高尚こうしょうなる佑助ゆうじょねがふをるか。なんぢれるがごとく、かかみちあゆものは、ことこの佑助ゆうじょようす。ここつけらるるは、そうじて善行ぜんこうふなり。また教會きょうかいなんぢへるやし、なんとなればひとがい律法りっぽうによるなるも、完全かんぜん円満えんまんとをゆうせず、ひと想像そうぞうもといせらるるところほどおもからざるなればなり。しかして言者げんしゃこころは、われなんぢ(神)よりくだり、またてんのぼらしむるところなんぢねがひ、このるにたすけんことをねがふとなり。


。 教會きょうかいみちびたまへ』へるもまたし、なんとなれば現今げんこん生活せいかつ高尚こうしょうなる教導きょうどうようするみちなればなり。吾人われら或市あるまちとき指導者あんないしゃようす、ましてんらんとするにあたりては一層いっそう吾人われらみちしめし、吾人われらかた吾人われらみちびところ高尚こうしょうなる幇助ほうじょようす、なんとなればおほくの十字街じゅうじがいありてみちまよはしむればなり。れば吾人われらかみ右手ゆうしゅせざるべからず。てきために』とはおほくのてきわれ此途このみちより岐路きろいざなひ、まよはしめんとほつしてつをふ。てきかか悪謀あくぼういだきて誘惑ゆうわくするときなんぢみづかわれみちびけよ、われなんぢ佑助ゆうじょようすればなり。れどみちびくはかみ所為わざなるも、かみ右手ゆうしゅ指導みちびきふるは吾人われら熱心ねっしん所為わざたるなり。もしなんぢみづかじょうならんか、かみ右手ゆうしゅなんぢたもたざらん、例令たとへば、なんぢ貪慾どんよくあり、あるひけつあるときごとこれなり。まへなんぢみちたひらかにせよ』とはこれ便べんにして平坦へいたんなるみちとなせとなり〔シムマフ〕。訳者やくしゃいはまへなんぢみちたひらかにせよ』とは、これためいちじるしきもの、あきらかなるもの、らるるもの、すぐなるものとなせとなり。けだしかれくちには眞實しんじつなく、かれこころ悪逆あくぎゃく〔十節〕。おもふに教會きょうかいここ諸善しょぜんとほざかれるくちこころとを審定しんていしつつ、まよひうちにあるものまたしき生活せいかつをなすものきてふなり。かれのんどひらけしひつぎとは、あるひかれのんど殺人さつじんかたぶき、あるひひところところおしえ悪臭あくしゅうあるおしえはっすることなり。しかしてけがらはしきげんはっするところくちもっひらけるひつぎつくるものまたあやまたず、なんとなればはいせるたましひよりづるこの悪臭あくしゅう感覚的かんかくてき悪臭あくしゅうより一層いっそうしければなり。ごうどうかなへることをはず、ただ殺人さつじん掠奪りゃくだつをのみところ貪慾者どんよくしゃくちまたひらけるひつぎなり。ればなんぢくちひつぎたらずして宝蔵ほうぞうたるべし。宝蔵ほうぞうひつぎとのはなはだしくことなるは、後者こうしゃ収容しゅうようするところのものをきゅうせしむると、前者ぜんしゃこれぞんするとにあり。これによりてなんぢまたつね其口そのくちほうなるえいそんして悪臭あくしゅうはいとをそんせしむるなかれ。しかしてなほ教會きょうかいただひつぎはずしてひらける』ひつぎへるは、一層いっそうそのいとふべきことをあらはさんためなり。かかげんかくすべきものなるに、かれこれあらはし、くして一層いっそうおの疾病やまいあらはすなり。しかばねちゅううづむべく、悪言あくげんこれ心底しんていかくしてあっすべし、しかるにかれ公然こうぜん悪言あくげんはなちておほくのものがいこうむらしむ。われなんぢすすむ、吾人われらかか人々ひとびととほざけん。吾人われらもしたいがいほうむらんに、ましことば悪臭あくしゅうあることばはなちてこれかくすことをのぞまざるものをばとほはて放逐ほうちくするを必要ひつようなりとす、なんとなればくのごとくちぜん傳染でんせんする害毒がいどくなればなり。其舌そのしたにてこびへつらふ』よ、あく状態じょうたいを。或者あるもの諂言へつらいはつしておのたましい詭譎いつわりかくし、また或者あるものことばおのれ悪念あくねんくらまし、奸計かんけいへんとを構造こうぞうするほどあしし。かみよ、かれつみさだめ、かれをしてそのはかりごともっみづかやぶれしめたまへ』〔十一節〕。ここにもとうおだやかなるをみとめよ。教會きょうかいばつせよとはずしてかれつみさだめよ』かれ悪念あくねんしづめよ、かれ奸計かんけいをしてしんなからしめよといへり。しかしてかれあく成功せいこうせざらんことをいのるは、かれえきためいのることを意味いみするなり。しゅよ、かれけんはなはだしきによりこれたまへ、かれなんぢさからへばなり』〔十一節〕すなはわれわれともおこなはるることにきてごうおもんばからず、ただなんぢ(神)にかかはることにきてかなしむ。じつおのれはづかしむることのため復讐ふくしゅうせず、かみはづかしむることにたいしてつよつはなるたましい當然とうぜんなり。しかるにおほくのものかみかかはることを等閑とうかんし、おのれためにはおほいなる勢力せいりょくもっ復讐ふくしゅうしつつ反対はんたいおこなふなり。聖人せいじんくせざりき、かれかみかかはる凌辱はづかしめたいしてはつよちしも、おのれかかはることにいたりては等閑とうかんせり。


およなんぢたのものよろこび』〔十二節〕。とうなり、すなは或者あるものもっと善良ぜんりょうなるものとなりて悪癖あくへきよりはなれ、或者あるもの自己おのれへんおほいなる満足まんぞくぜんむかひ、着々ちゃくちゃくとして矯正きょうせいす。かれながたのしみ、なんぢかれ庇護おほひまもらん』もっとへんよろこびなり。よろこびあらはるるやいなただち消滅しょうめつしつつごうみづながれしかざるも、かみによるのよろこびながつづきてけんに、ぼうありてかはらず、如何いかなる事情じじょうしょうずともこれためやぶらるることなく、障害しょうがいによりて一層いっそうたかめらるるなり。れば使徒等しとら鞭扑べんぼくひてよろこべり〔使徒行實五の四十〕、パウェル悲哀かなしみしのびてたのしみ、準備じゅんびし、ひとまねきておのれよろこびあづからしめていはく『われなんぢしんまつりほうとのうへ灌奠そそぎまつりとせらるとも、われよろこび、かつわれしゅうともよろこぶ。ことなんぢまたよろこび、かつわれともよろこべ』〔フィリップ書二の十七、十八〕と。かみくのごとくにしてよろこものともいまたまふなり。よ、なにによりて教會きょうかいながたのしみ、なんぢかれおほひまもらん』へるかを。ハリストスまたおのよろこびかはらざるをしめさんとほっし『われまたなんぢん、しこうしてなんぢこころよろこばん、かつそのよろこびなんぢよりうばものなし』〔イオアン福音十六の二十二〕とひて、同一どういつのことをあらはせり。パウェルまたへり『つねよろこべ、めずしていのれ』〔フェサロニカ前書五の十六、十七〕と。なんぢあいするものなんぢもっみづかほこらんとす』ただこれもっほこることをただこれたいしてよろこぶことをただこれもったのしむことをしかしてぶつほこものは、夢裡ゆめのうちおいたのし人々ひとびとごうことならざるなり。


。 ひとことにしてしんほこるにるべきことあらば、これわれげよ。体力たいりょくなるか。体力たいりょく吾人われらゆうこれべきものならず、ゆえ吾人われら体力たいりょくもっほこるをず、しか体力たいりょくすみやかに衰弱すいじゃく消失しょうしつし、体力たいりょくあるもの当然とうぜんこれようせざればおのれがいすることまれなりとせざるなり。れいぼうとみけんしゃおよそのしょぶつきてもまた同様どうようはざるべからず。しかれどもかみよりの称讃しょうさんおよかみたいするあいすべてのものにまさ装飾そうしょくなり、これくるにへしものは、たと桎梏かせにてしばらるるともせんひゃくかんむりまさる。この装飾そうしょく疾病しっぺいためにも、情慾じょうよくためにも、じょうへんためにも、ぐうによりても、其物そのものによりても減少げんしょうせずして、一層いっそう赫々かくかくたる光明こうみょうはなつにいたる。けだしなんぢじんふくくだせり』〔十三節〕。かか傾向けいこうゆうするおほくのものこと善行ぜんこうわたされたるものもしつみさだめられおよ嘲笑ちょうしょうふくするとも、あるもっとよわものげんうしなはざらんがために、言者げんしゃ如何いかかれたましいををかたむるかをよ、いはけだしなんぢじんふくくだせり』と。てん使主宰しゅさいもしかれ頌揚しょうようさんしたらんには、人々ひとびとおよぜんかいこれ軽蔑けいべつすともなんかいするにらん。くのごとりくうみとに居住きょじゅうするすべての人々ひとびとさんせらるるしゅ祝讃しゅくさんせられずんば、人々ひとびと称讃しょうさんくるともなんえきあらんや。これりて吾人われらつねかみをして吾人われら称讃しょうさんせしめ、吾人われら榮冠えいかんあたへしむるようつとめん。くのごとくんば假令たとひ吾人われらまづしからんも、疾病やまひうちにあらんも、きはめて困難こんなんなる事情じじょううちにあらんも、すべての人々ひとびとうへたん。ればふくたるイオフは、けつなるもののうへし、全身ぜんしんきずよりながづるうみかぞふべからざるほどむしにておほはれ、ぼく軽蔑けいべつせられ、おのれてきのみならず、おのつまともとにはづかしめられ、貧窮ひんきゅうおちいり、かつせまり、いやされざる疾病やまひかかりてがたくるしみけしも、なほすべての人々ひとびとよりも幸福こうふくなりき。何故なにゆえしかるか。かみは『そのひとなり完全まったく、かつただしくしてかみおそれ、あくとほざかる』〔イオフ書一の一〕とひてかれ祝讃しゅくさんしたればなり――しゅなんぢめぐみもったてごとくにこれめぐらしまもればなり』言者げんしゃ終結しゅうけつおい感謝かんしゃさんささげてふたたかみ感謝かんしゃけんず。めぐみもったてごとくすとはなんなるか。たてとはひいでたるたてかみこころしたがふのたてもっとぼうあるたてなり。こころは、なんぢもっと佑助ゆうじょもっ吾人われらまもれりとなり。訳者やくしゃこれめぐらしまもる』じんにかけつつ、なんぢじんなるかれめぐらしまもる、すなはなんぢじんたてしかひいでたるたてかはりにかれつとむといひ、あるいなんぢもっと佑助ゆうじょもっじんまもるがゆえに、剛勇ごうゆうかれ安全あんぜんうばはず、安全あんぜんかれ光榮こうえいうばはずといへり。たれじょうしゃ右手ゆうしゅにてまもらるるひとよりしんつよものあらん、たれこれより剛勇ごうゆうなるものあらん。ダウィドみづかしょおいて『あはれみめぐみとをなんぢかうむらし』〔聖詠百二の四(詩篇百三の四)〕とへるごとく、このかんむりれんよりまる。またこのかんむりパウェルが『いまよりのちかんむりわれためそなへらる』〔テモフェイ後書四の八〕とへるごとく、よりもまるるなり。このかんむり記者きしゃの『さかえ冠辯かんむりなんぢあたへん』〔箴言四の九〕とへるごとく、恩寵おんちょうかんむりなり。このかんむりイサイヤが『さかえのかんむりとなる』〔イサイヤ書二十八の五〕とへるごとく、さかえかんむりなり。このかんむり其中そのうち仁愛じんあいをも、恩寵おんちょうをも、光榮こうえいをも、またれいをもゆうす、これ種々しゅじゅなる恩寵おんちょうもたらすところかみたまものなり。これパウェルが『かれやぶやすかんむりけんためわれやぶれざるかんむりためなり』〔コリンフ前書九の二十五〕とへるごとく、やぶれざるかんむりなり。引用いんようされたることば意味いみごとし、いはく、なんぢ安全あんぜん光榮こうえいとをもっ吾人われら囲繞かここれなり。かみたまものくのごとかたく、くのごとうるはしく、その榮冠えいかんくのごとし。れど人々ひとびとりてはしからず、光榮こうえいうちにあるものまった安全あんぜんうちらず、安全あんぜんうちにあるものつねかならずしも光榮こうえいうちにあらず、このしゃかれうちようあはせらるることなし、あはせらるるときすみやかにかいせらるるなり。例令たとへけんある人々ひとびと著名ちょめいなる人々ひとびとめいある人々ひとびと安全あんぜんうちにあらざるもおのめいげんによりてことけんなるしょひと擯斥ひんせきされ軽蔑けいべつさるる人々ひとびとは、おのれあらはれざるにより、安全あんぜんうちにありてめいけざるも、こと安全あんぜんうちにあるによりてめいゆうせざるなり。れどかみにありてはしからず、安全あんぜん光榮こうえいとはいたつたかていおいあはせらるるなり。これりて吾人われらこれ幸福こうふくげんなにものよりもおほいなるなる幸福こうふくかみよろこばれ、たて光榮こうえいも、安全あんぜんも、おほくの幸福こうふく此中このうち含蓄がんちくすることをあらはしつつ吾人われらまへ苦行くぎょう忍耐にんたいし、つねげん失墜おとすなくたてなくしてまざらん。かかたたかひおいては軍人ぐんじんたてすつることあたはず、ただものおはときいたりてはじめてその勤労きんろうおはり、しかしてものたましひからだよりはなるるときおはるなり。ればこのにあるあひだいへし、いちで、病中びょうちゅうにも、健康けんこうときにも、飲食いんしょくしながらもつね吾人われらたたかはんことをようす。疾病やまひときさへもことこのたたかひときたることあり、すなは疾病やまひ感覚かんかく諸方しょほうよりたましひわづらはすときあいたましひせめかこみ、あくちてあるぜんことばはなすべきを慫慂しょうようするときこれなり。かかときおのれ安全あんぜんたもち、甲冑かっちゅうたておよびその武器ぶきもっ防御ぼうぎょし、えずかみ感謝かんしゃせんことをようす。あくためおそるべきなり、あくためめいげきなり、光明こうめいなる榮冠えいかんことこれためたまはらる。ればふくたるイオフ誘惑ゆうわく疾病しっぺいおよび艱難かんなんときおいかはらざるたましひうごかすべからざるこころとをあらはし、またかみこの霊的れいてき献祭けんさいなる感謝かんしゃさんけんじたるがためこと光榮こうえいなるものとなり、これためいちじるしきものとなり、これため榮冠えいかんくるにへたり。かれが『しゅあたしゅたまふなり(くあらんことはしゅよろこたまところなり)しゅ御名みなむべきかな』〔イオフ記一の二十一〕とひしそのことばすなは献祭けんさいなりき。れば吾人われらまた誘惑ゆうわくうちにあり、艱難かんなんうちにあり、憤懣ふんまんうちにありてもえずかみさん頌揚しょうようせん、けだし光榮こうえい世々よよかみすべきものなればなり。アミン。

脚注 [編集]

  1. 投稿者注:一般にはトビト書。
  2. 投稿者注:一般にはハンナ。
  3. 投稿者注:「第一列王記」は正教会での呼び方。一般には「サムエル前書」。原文は第一列王記十の十三となっているが明らかに第一列王記一の十三の誤りなので誤植と思われる。原文のまま訂正していない。
  4. 投稿者注:一般にはヘロデヤまたはヘロディア。

参考[編集]

第五聖詠せいえい

1 伶長れいちょうせうもつこれくわせしむ。ダワィドのえい
2 しゅよ、ことばき、おもひさとれ。
3 わうかみよ、こえたまへ、われなんぢいのればなり。
4 しゅよ、あしたこえたまへ、われあしたなんぢまへちてたん。
5 けだなんぢはふよろこばざるかみなり、悪人あくにんなんぢるをず、
6 けんものなんぢまへとどまらざらん、なんぢおよはふおこなものにくむ、
7 なんぢいつはりものほろぼさん、残忍ざんにんけつものしゅこれにくむ。
8 ただわれなんぢあはれみおほきにりてなんぢいへり、なんぢおそれてなんぢ聖殿せいでん伏拜ふくはいせん。
9 しゅよ、てきためわれなんぢみちびき、まへなんぢみちたひらかにせよ。
10 けだしかれくちには眞實しんじつなく、かれこころ悪逆あくぎゃくかれのんどひらけたるひつぎしたにてへつらふ。
11 かみかれつみさだめ、かれはかりごともつみづかやぶれしめ、かれけんはなはだしきにりてたまへ、かれなんぢさからへばなり。
12 およなんぢたのものよろこびてながたのしみ、なんぢかれおほまもらん、なんぢあいするものなんぢもつみづかほこらんとす。
13 けだししゅなんぢじんふくくだし、めぐみもつたてごとこれめぐらしまもればなり。