聖詠講話上編/第五聖詠講話

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第五聖詠講話[編集]

ダウィドえいそうぞくしゃこと』。

。 まへもつこのそうぞくしゃくべきさんいかなるものなるか、およこのさんそうぞくわれらにもかんするものなるかをかんさつして、つぎこのさんいかなるあいおいたまはらるるかをしめさん。めいによりてそうぞくけんわれらきょぜつされしあいおいて、じこぞくするざいさんおもんばかるがごとくにさんせんさくし、あるひそのしょうしょたづねもとめ、あるひこれためきんせんついやあるひほうりつさんこうし、ほうとうしゃをなすなどあらゆるろうりょくくすは、まことむちなりしならん、またここすでれいてきめいのあるあり、われらまへにはべてのもんじょひらかれ、しかぶっしつてきさんよこたはるにさいして、これちゅういとうかんするはしんむちたりしならん。ればわれらちかづきてもんじょひらき、そのうちしるされしことじゅくして、このさんいかなるやくにてわれらまへかれしか、またそのそうぞくけんほんいかなるものなるかをかんさつせん。しゅたださんわれらのこさずして、あるやくもとおいてせり。らばいかなるやくもとのこしたるか。しゅへり『われあいせばいましめまもらん』〔イオアン福音十四の二十一、二十三〕と、またへり『おのれじふじかひてわれしたがはざるものわれよろしからず』〔マトフェイ福音十の三十八〕と、そのせいしょにはおほくのやくあり。われらかかさんくべきときをもけんきゅうせん。このときげんざいにあらずしてらいにあり、あるひこれせいかくあらはせば、げんざいにてもあり、らいにてもあるなり、しゅへり『ただかみくにもとめよ、らばみななんぢくははらん』〔ルカ福音十二の三十一〕と、しかれどもまったさんそうぞくするはときりとす。げんいのちすみやかにすぎり、われらここなほかんぜんじょうたいにあるがゆえに、りっぽうしゃすでせいねんたっしたるそうぞくしゃちちざいさんじょうするがごとく、かみまたかくごとわれらになしたまふなり。われらせいぜんひととなり、えんまんせいちょうしてきゅういのちうつときは、かみまたこのさんわれらじょうたまふなり。れどかみここにもおなじくしょうことなるべきもんじょわれらのこして、われらさんけ、またそうぞくけんうしなはずうばはれざるようすべきことをげたり。われらなほいまかんぜんなるがためあるひとおそれしめ、またげしところにしてうたがひおこさば、げんおよらいせいきてだんしつつ『われどうたりしときどうごとひ、どうごとおもひ、どうごとはかれり、ひととなりてのちは、どうことめたり』〔コリンフ前書十三の十一〕とひ、またせいぜんひとり、まったせいちょうりょういたるにおよぶ』〔エフェス書四の十三〕とところパウェルくべし。かれいへらく、われらげんりてこのもっやしなはるること、あたかうばやしなはるるにひとしきも、しゅでんらんとするや、つべきころもて、ちざるころもいのちうつるなり。おほくのひとびとそうぞくけんはくだつさるるはせいぶんやくらして、そのさんそうぞくてきとうなるときにありとす。われらいまこのさんいかなるものなるかをかんさつせん。このさんは『いまず、みみいまかず、ひとこころいまらざる』ところなり〔コリンフ前書二の九〕。われらかいざることを、いかわれらげんおいようんや。ゆえこのさんわれらためらいせいぞんせらるるなり。またよ、かみおほいなるしょうかんを、かれげんおいかんなんさだめたるは、そのおもざんにしてかろくせられんためなり、またらいせいためこうふくぞんせるは、いざるいのちおいほうしょうながつづかんためなり。かみこのいのちをもくにづく。たとひ、そのことばもっあらはされざるも、かみらいせいじょうたいいまひしごとく、あるひくにづけ、あるひこんいんづけ、あるひしゅけんづけ、およわれらもちふるこうめいなるめいしょうもっわれららいせいとくせしめつつ、あるひえいえんこうえいふしこうふくなにものもかくざるハリストスともにするいのちづけてかたどりしことのみはくことをたり。きょうかいやくすなはそうぞくやくいかなるものなるか。このやくごうこんなんなるものにあらず。しゅへり『ひとなんぢおこなはんとほっするものは、なんぢくのごとこれひとおこなへ』〔マトフェイ福音七の十二〕と。なんぢかみなんふしぎなることをもめいぜずして、てんせいようきゅうするところめいぜしをるか。しゅへり、なんぢひとなんぢおこなはんことをほっするがごとく、みづからもおこなへと。なんぢひとびとなんぢほめんことをほっせばみづかひとめよ。なんぢひとなんぢしょゆうぬすみることをほっせずばみづかぬすみなかれ。なんぢそんけいされんことをほっせばみづかひとそんけいすべし。なんぢあわれみんことをほっせばみづかあわれみあらはせ。なんぢあいせられんことをほっせばみづかひとあいすべし。なんぢじこあくかざらんことをほっせばみづかひとあくなかれ。またしゅいひあらはしいかせいかくなるをみとめよ。かれは『ひとなんぢおこなふことをほっせざるものなんぢくのごとこれひとおこななかれ』とははずして 『ほっするもの』はとへり。ぜんこうをなすにどうあり、いちあくへきとほざかること、いちぜんこうおこなふことなり、ゆえかみあきらかにこうしゃもっぜんしゃをもしめしつつ、こうしゃわれらしめせり。かみは『なんぢみづかにくところのことをひとおこななかれ』〔トウィト書四の十五[1]〕とひて、ぜんしゃほうほうしめし、またひとなんぢおこなはんとほっするものなんぢくのごとこれひとおこなへ』とひて、あきらかにこうしゃほうほうしめせり。

。 またやくあり。そのやくとはいかなるものなるか。おのれあいするがごとひとあいすることなり。なにものかこれよりようなるものあらん。にくむことはこんなんにしてあんけつごうせらるるも、あいすることはようにしてべんなればなり。しゅもしわれらに、ひとびとよ、なんぢもうじゅうあいせよとひたらんには、これおこなふやまことこんなんなりしならん、しかれどもかれひとびとしゅぞくにより、しゅっしょにより、あひあいせいしんによりてあいやすひとびとあいすべきことをいましめられたり、これおこなふになんこんなんかあらん。このてんせいるいたがいあひあいせしむることは、ひとじんるいにありてしかるのみならず、ししまたおほかみにありてもしかるなり。これりてわれらししせいし、これらすにさいして、われらどうぞくひとびとあいせずんばいかなるもうしわけすべけんや。なんぢおほくのひとびとさんそうぞくせんがために、みづからはきょうそうせいねんなるに、ろうじんためえきせられ、ろうじんかんし、つねろうじんゆうして、ろうねんともなところきゃくつうたんぷうそのろうじんしっぺいよりきたすべてのかいしのびくるをざるか。れどかしこにはただとみんとほっするいつぼうしかちゅうじつなるぼうあるのみなるも、ここにはてんあり、またてんまへかみじんあり。せいえいひょうだいにはそうぞくしゃことはれたり。このそうぞくしゃなんびとなるか。きょうかいおよそのぜんかいいんなり、パウェルきょうかいきて『われなんぢひとりおっとへいていせり、きよしょぢょとしてハリストスささげんためなり』〔コリンフ後書十一の二〕とひ、またイオアンは『はなよめあるものはなむこなり』〔イオアン福音三の二十九〕とへり。しかれどもつうれいはなむこにありては、こんいんのちすうじつにしてそのあいじょうよわまるも、われらはなむこえずわれらあいし、えずおのあいつよむ。イオアンわれらはなむこあいことつよきをあらはしつつこれはなむこづく。またイオアンきょうかいはなよめづけたるは、ただこれのみならず、われらしゅうじんぜんこうあいとによりてひとつからだひとつたましいたらんことをぼうするによりてなり。しかしてはなよめはなむこよろこばすがためすべてをなすがごとく、われらまたしょうがいくせざるべからず。はなよめこんいんきゅうでんうつりしそのより、ただいかにしてはなむこよろこばすべきかをおもんばかるがごとく、われらまたげんいつしょうがいおいて、いかにしてこのはなむこよろこばすべき、またはなよめぜんりょうなるせいしつほしゅすべきことのみをおもんばからざるべからず。このはなよめきてはダウィドも『こうごうなんぢみぎち、よそほふにきんもってし、そのころもきんぬひものとす』〔聖詠四十四の十、十四(詩篇四十五の十、十四)〕とひておくす。なんぢそのくつをもんとほっせんか。はなむこともなるパウェルところけ、いはく『へいふくいんするよびもっあしくつはけ』〔エフェス書六の十五〕と。そのよりおりせるおびをもんとほっせんか。パウェルまたなんぢおしふ、いはく『しんじつなんぢこしつかねよ』〔同上六の十四〕と。かれんとほっせんか。またパウェルよりることをん、いはく『けがれあるひしわたず』〔同上五の二十七〕と。これきてえいしゃソロモン)のところけ、いはく『ともよ、なんぢことごとうるはしくしてすこしのきずもなし』〔雅歌四の七〕と。かれあしをもんとほっせんか。しとの『へいあんふくいんし、ぜんふくいんするものあしうるはしきかな』〔ロマ書十の十五〕とへるをけ。しかしてかれくのごとはなよめかざりて、みづからはそのことごとくのこうえいあらはしてきたらざりしはまこときいにしておどろくべし、おのれゆたかなるもっはなよめおどろかさざるがためなり、すなははなよめにあるところおなふくけ、すなはかれにある『どういつにくとをけて』〔エウレイ書二の十四きたれり、またかれはなよめてんばず、はなむこはなよめきたほうまもりてみづかうへよりかれところきたれり。このこときてはモイセイも『このゆえひとそのちちはははなれてそのつまへ』〔創世記二の二十四〕とひ、パウェルも『おうおほいなり、われハリストスきょうかいとにおいこれふ』〔エフェス書五の三十二〕とへり。はなむこはなよめすまいきたり、そのまみれたるけつなるたいこれあらひ、あぶらり、じゅうぶんいんしょくせしめ、ふくせてちがへんばかりにせり。はなむこみづかはなよめためふくとなり、くしてかれりておのれところみちびく。そうぞくそなへられたるものなり。げんしゃはなよめきてなにことをひしや。かれおほくのことをへり。げんしゃはなよめほごしゃなり、しかしてはなよめまへつもののうちよりはなむここんいんかれくべきこうふくかんしておほくのことをかれげんし、またこくせり。かれまたここにもはなよめきてふなり、かれさいばんけるべんろんごとく、さいしょそのそうぞくしゃきてこうへいなるべんろんをなすことをぶ。そうぞくするところはなよめなにごとねがふか。われらかん。しゅよ。ことばけ』〔二節〕。はなよめはなむこしゅづく、さかしきはなよめてきとうなることばなり。じっさいどういつてんせいゆうするわれらあいだりても、つまおっとおのれしゅじんとなふ、ましきょうかいもとよりしゅさいたるハリストスとのあいだおいてはハリストスしゅづくるはとうぜんたるなりよ、なにによりてきょうかいここハリストスしゅづくるを、ただはなむことしてのみならず、しゅさいとしてとなふるにて、はなよめねがひかしめんためなり。はなよめまへにはそうぞくけん(をくること)あり、しかしてこのそうぞくはなよめただいましめられたるところただしくおこなあいおいくるがゆえに、はなよめやくされたるこうふくおよそうぞくけんうばはれざるがためそのゆうじょしゃたらんことをかれせいきゅうこんがんするなり。これりてはなよめしゅよ。ことばけ』ひ、かれはなむこかれたまはんとほっするものをねがふがゆえあえこれふも、たまところものかなはざることをねがものは、くのごとくにじんねがざりしならん。たれあだあるひおのれあくひとびとしかれとねがときは、ひとことばにあらずしてあくことばなり。じっさいあくのろいしゅことばごとく『これぐるものあくよりす』〔マトフェイ福音五の三十七〕るときあだたいするとうまたあくよりす。ればなんぢが『ことばけ』とときおんじゅうれんにしてあくなにことをもゆうせざるひとてきとうなるがごとくにへ。

。 こえさとれよ』ここげんしゃこえといへるは、こえひびきにあらずしてたましいじょうたいなり。ればモイセイもくたれども、しゅこれに『なんぢなんわれよばはるや』〔出埃及記十四の十五〕とへり。しゅなんぢわれなにごといのるやとはずして、なんぢなんわれよばはるやとへるは、モイセイねつせつなるこころもっかみちかづけるによる。しかしてげんしゃここにもかみさけびのことをへるにあらず、すなはこころじょうたいおよねっしんにしてかみむかふべきことをへるなるをなんぢせしめんとて、なんぢぶをけとははざりしなり。らばなにひしか。かれさとれよ』といへり、すなはれよのなり。げんしゃつうことばもちひたるも、このことばおいあたかかれまさはんとほっするところあらはすがごとし。ねがひこえたまへ』〔三節〕。かれふたたないしんこえさとらしむ。アンナ[2]べり〔第一列王記十の十三ママ[3]〕。げんしゃただいのりこえききたまへとはずしてねがひの』こえをとへり、なんとなればいのものがいじょうたいのみならず、ないけいこうによりても、けんそんたるべければなり。ねがものこくしゃごとことばもちひず、てきこういのものがんしゃはんよりは、むししょうしゃなり。なんぢげんしゃいかとうととのへてそのとうくるにふるものとなししをるか。ればわれらとうしてききれられんとほっせば、まへもっわれらとうとうとなりて、せいえいしゃしめししがごとこくとならざるようにすべし、くてわれらとうかみささぐることをん。おうかみや』げんしゃしばしばもちひしことばなれども、もっとおほこれふのとくけんゆうししはアウラアムなり、パウェルかれきて『かみかれはぢとせずして、おのれかれかみとなふ』〔エウレイ書十一の十六〕とへり。そうぞくするところきょうかいどうよういひあらはしもちひたれども、あいによりてこれもちひたり。きょうかいただおうはずおのれあいあらはしつつおうかみや』へり。つぎきょうかいかみきょうかいききるるようねがところゆうをもぶ。このゆういかなるものか。しゅよ、われなんぢいのればなり』と。しかれどもなんぢはん、たれかみいのらざるかと。おほくのものかみいのものごとゆるも、そのいのるやひとびとしめさんためなり。きょうかいくのごとおこなはず、いっさいひとのことをわすれて、ただかみむかふのみ。あしたこえたまへ』〔四節〕。なんぢねっしんたましいつうかいとをるか。げんしゃいはく、われこのことをなすやはじめおいてす、ればおほくのぎょういとなみてしかのちとうちかづくものこれくべしと。きょうかいくのごとおこなはず、すなはいちじつはじめおいそのはつものかみささぐ。えいしゃへり『たいようさきんじてなんぢかんしゃす、ひかりひがしたるなんぢむかふべきことのられんためなり』〔ソロモンの智慧書十六の二十八〕と。なんぢおのれよりぶんいやしものなんぢさきんじておうこうはいするをゆるさざりしならん、しかるにたいようすでかみはいするときあたりて、なんぢなおね、ぞうぶつしゅちょうけんこれゆづり、なんぢためつくられたるしょぞうぶつさきんじてかみかんしゃせず、すなはかおとをあらふも、おのれたましいをばけつなるものとしてとどむ。なんぢみづもっからだきよめらるるがごとく、とうもったましいきよめらるることをらざるか。ればからだよりもおのたましいあらへ。おほくのあくへきしみごとたましいねんちゃくしたれば、われらとうもっこれあらはん。われらもしくのごとくしておのくちほごせば、ひびぎょうむぜんりょうなるもといかん。われあしたなんぢまへちてたん』こころは、われしょへず、すなはおこないもっなんぢまへたん。くのごとひとかみちかからん、しかしてかみちかきととほきとはひとみづからにかんす、なにとなればかみいづこにもいませばなり。われなんぢまへちてたん、けだしなんぢほうよろこばざるかみなり』〔五節〕。やくしゃわれなんぢほうよろこばざるかみなるをる』〔不明の訳者〕となす。ここげんしゃぐうぞうさししめせるなり、なにとなればきょうしょしんかかひとびとおよすべてのほうすべてのあくとをよろこべばなり。あくにんなんぢるをず』かれなんぢかみあいされず、なんぢちかづかざればなり。けんものなんぢまへとどまらざらん』〔六節〕。ここげんしゃかみあくにくむことをしめかみちかづかんとほっするものに、かみごとあくにくむべきことをおしふ、なにとなればしかせずしてはかみちかづくことをざればなり。おのしつぜんにんことなものにしてぜんにんちかづくことをずんば、ましかみちかづくことをや。またあくにんぜんにんちかづきざることにきては、あくにんじんきてところけ、いはく『われじんるにへず』〔ソロモン智慧書二の十五〕と。ればイオアンひとやりてなんびとまへにもあらはれず、しかイロデァダ[4]イオアンよりとほところにありしも、ためにはへられざりき、イオアンしごにもとうあつせいしゃたりしものりょうしんくるしめたり。ればたとあくにんこうげきさるるとも、ぜんおこなものなんびとがいこうむりたりとおもなかれ、がいくるはあくおこなところものなり。なんぢおよほうおこなものにくむ、なんぢいつはりものほろぼさん、ざんにんけつものしゅこれにくむ』〔七節〕。せいえいしゃこれふや、ただわれらこれかしめんためにあらず、しばしばこれきてはなむこしつかなひ、かれちかものとなることをまなばしめんためなり。しからずんばわれらうへよりのたすけうばはれん、これまさしきことなきなり。

。 げんしゃいはそのものれいたり、ゆうものたり、おうたり、いななんびとたらんもなんぢおよほうおこなものにくむ』なんとなればかみつねうわべかちによらず、ぜんこうによりておのれともえらめばなり。しかれどもおほくのそんなるひとびとかみなにごとをもにくまずとおもふがゆえに、げんしゃばつおそれをもつけくはへ、もっとおろかなるざいにんせつけつつ。なんぢいつはりものほろぼさん』へり。ばつただかみにくみかぎらず、たとかみにくみふべからざるばつなれども、かみおよいつはりものほろぼたまふはおそるべきばつなり。にくみおそるべくして、かみにくまるるはごくにあるよりおそるべしとす、しかれども、げんしゃかいものためこれへるも、もっとおろかなるひとびとためばつおそれをもつけくはへたるなり。ればひとよ、あるひとびといつはりひ、ひとのものをりゃくだつし、むさぼりおちいりてごうがいけざるをこころみだなかれ、あんなるなかれ、かみげしところかならおうぜん、なにとなればかみてんせいあくみ、つねこれにくみ、これゆるさざればなり、げんしゃここいつはりものといへるは、しきせいかつをなし、ふぎおこなひ、かいらくせっせいどんよくふけもののことなり、かれこれすべてをつねふぎつけたり。ざんにんけつものしゅこれにくむ』ここくちにはへども、こころにはのことをおもひ、うわべにはおんじゅうさまよそほひどもじっさいおいてはおほかみせいしつあらはところさつじんけつこうかつかたむけるひときてふなり、なにものもこれまさしきことあるをざるなり。こうぜんたるてきぼうするはかたからざるも、おのかんけいかくしてあくものは、ようとらへられずして、おほくのあくおこなふことをよ、ハリストスまたなにによりてかかひとびとあらはれしときいさむべきことをめいじたるを、けだかかひとびとは『ひつじころもにてなんぢきたれども、うちむごおほかみなればなり』〔マトフェイ福音七の十五ただわれなんぢあはれみおほきにりてなんぢいへらん』〔八節〕。きょうかいうちにはほうじんようじゅつしゃさつじんしゃわくしゃけつしゃぜんしゃまたり、しかしてきょうかいかみかれにくこれけんすとひしがゆえに、きょうかいかれおのれけんによらず、おのれぜんこうによらず、かみじんによりてこれあくよりすくはれ、かみないあんそくれられたることをしめさんとほっしてただわれなんぢあはれみおほきにりてなんぢいへらん』つけくはへたり。なにびとなんぢはそれとそれとをなしていかすくひしやとはざるがために、きょうかいいかようにしてすくひたるか、すなはきょうかいかみおほいなるあいそのはれざるじんぜんによりてすくはれたることをしめすなり。しかれどもいやすべからざるほどあはれみをもけざるびょうしゃあり、たとへイウデヤじんごとこれなり。おんちょうおんちょうたり、れんれんたり、しかれどもただこれぼうするもののみすくはるるも、がんにしてこのたまものくることをのぞまざるものすくはれず、イウデヤじんごときはそのすくはれざるものなりき、パウェルこのこときて『かれかみらず、おのれてんことをはかりてかみふくせざりき』〔ロマ書十の三〕とへり。きょうかいかみぞくすることにきてひつつ、つぎきょうかいぞくすることにきてもへり。なんぢおそれてなんぢせいどうふくはいせん』〔八節〕。こころわれおんちょうくるときみづかとうぜんなることをあらはし、なんぢごとまつりけんぜん、すなはなんぢおそれてなんぢせいどうふくはいせん』――おほくのとうしゃが、このときからだき、あくびし、いねむりするがごときにあらず、すなはきょうせんりつもっふとなり。くのごとくにしていのものすべてのあくめ、およそのぜんこうむかひてかみめぐみく。しゅてきためわれなんぢみちびたまへ』〔九節〕。きょうかいかみこうえいためかみあくにくむこと、かみあいにしてわれらしょうかんすること――おのきゅうしょくのこと、きょうかいいかようにしてすくはれしか――きょうかいすくひたるのちしゝこと、すなはきょうかいあくきらひてぜんこうれんちゃくしたりしことをべ――しきよわたりをなすものたいしては、かれおのあくきょうせいせんとほっせば、じんくべしとのぜんぼうあたへて、しかのちおのだんねがひけてしゅよ、われなんぢみちびたまへ』へり。これもっきょうかいさんかみささげ、かみじんけたるがためこれかんしゃすべきをちょうしゃおしへ、つぎのぞところねがひて、そのけしことのためふたたかんしゃすべきをおしふ。しかれどもわれらきょうかいなにごとねがふかをかんさつせん。そのねがところぞくことにはあらざるか。ざんのことにはあらざるか。すみやかにすぎることにはあらざるか。かれふはとみのことにあらずや。えいのことにはあらずや。けんぺいのことにあらずや。きょうかいてきふくしゅうすることにあらずや。きょうかいごうくのごときことをねがはず。らばそのねがところなにごとなるか。しゅよ、てきためわれなんぢみちびたまへ』これなり。なんぢきょうかいごうざんのことをねがはず、またいかこうしょうなるゆうじょねがふをるか。なんぢれるがごとく、かかみちあゆものは、ことこのゆうじょようす。ここつけらるるは、そうじてぜんこうふなり。またきょうかいなんぢへるやし、なんとなればひとがいりっぽうによるなるも、かんぜんえんまんとをゆうせず、ひとそうぞうもといせらるるところほどおもからざるなればなり。しかしてげんしゃこころは、われなんぢ(神)よりくだり、またてんのぼらしむるところなんぢねがひ、このるにたすけんことをねがふとなり。

。 きょうかいみちびたまへ』へるもまたし、なんとなればげんこんせいかつこうしょうなるきょうどうようするみちなればなり。われらあるまちときあんないしゃようす、ましてんらんとするにあたりてはいっそうわれらみちしめし、われらかたわれらみちびところこうしょうなるほうじょようす、なんとなればおほくのじゅうじがいありてみちまよはしむればなり。ればわれらかみゆうしゅせざるべからず。てきために』とはおほくのてきわれこのみちよりきろいざなひ、まよはしめんとほつしてつをふ。てきかかあくぼういだきてゆうわくするときなんぢみづかわれみちびけよ、われなんぢゆうじょようすればなり。れどみちびくはかみわざなるも、かみゆうしゅみちびきふるはわれらねっしんわざたるなり。もしなんぢみづかじょうならんか、かみゆうしゅなんぢたもたざらん、たとへば、なんぢどんよくあり、あるひけつあるときごとこれなり。まへなんぢみちたひらかにせよ』とはこれべんにしてへいたんなるみちとなせとなり〔シムマフ〕。やくしゃいはまへなんぢみちたひらかにせよ』とは、これためいちじるしきもの、あきらかなるもの、らるるもの、すぐなるものとなせとなり。けだしかれくちにはしんじつなく、かれこころあくぎゃく〔十節〕。おもふにきょうかいここしょぜんとほざかれるくちこころとをしんていしつつ、まよひうちにあるものまたしきせいかつをなすものきてふなり。かれのんどひらけしひつぎとは、あるひかれのんどさつじんかたぶき、あるひひところところおしえあくしゅうあるおしえはっすることなり。しかしてけがらはしきげんはっするところくちもっひらけるひつぎつくるものまたあやまたず、なんとなればはいせるたましひよりづるこのあくしゅうかんかくてきあくしゅうよりいっそうしければなり。ごうどうかなへることをはず、たださつじんりゃくだつをのみところどんよくしゃくちまたひらけるひつぎなり。ればなんぢくちひつぎたらずしてほうぞうたるべし。ほうぞうひつぎとのはなはだしくことなるは、こうしゃしゅうようするところのものをきゅうせしむると、ぜんしゃこれぞんするとにあり。これによりてなんぢまたつねそのくちほうなるえいそんしてあくしゅうはいとをそんせしむるなかれ。しかしてなほきょうかいただひつぎはずしてひらける』ひつぎへるは、いっそうそのいとふべきことをあらはさんためなり。かかげんかくすべきものなるに、かれこれあらはし、くしていっそうおのやまいあらはすなり。しかばねちゅううづむべく、あくげんこれしんていかくしてあっすべし、しかるにかれこうぜんあくげんはなちておほくのものがいこうむらしむ。われなんぢすすむ、われらかかひとびととほざけん。われらもしたいがいほうむらんに、ましことばあくしゅうあることばはなちてこれかくすことをのぞまざるものをばとほはてほうちくするをひつようなりとす、なんとなればくのごとくちぜんでんせんするがいどくなればなり。そのしたにてこびへつらふ』よ、あくじょうたいを。あるものへつらいはつしておのたましいいつわりかくし、またあるものことばおのれあくねんくらまし、かんけいへんとをこうぞうするほどあしし。かみよ、かれつみさだめ、かれをしてそのはかりごともっみづかやぶれしめたまへ』〔十一節〕。ここにもとうおだやかなるをみとめよ。きょうかいばつせよとはずしてかれつみさだめよ』かれあくねんしづめよ、かれかんけいをしてしんなからしめよといへり。しかしてかれあくせいこうせざらんことをいのるは、かれえきためいのることをいみするなり。しゅよ、かれけんはなはだしきによりこれたまへ、かれなんぢさからへばなり』〔十一節〕すなはわれわれともおこなはるることにきてごうおもんばからず、ただなんぢ(神)にかかはることにきてかなしむ。じつおのれはづかしむることのためふくしゅうせず、かみはづかしむることにたいしてつよつはなるたましいとうぜんなり。しかるにおほくのものかみかかはることをとうかんし、おのれためにはおほいなるせいりょくもっふくしゅうしつつはんたいおこなふなり。せいじんくせざりき、かれかみかかはるはづかしめたいしてはつよちしも、おのれかかはることにいたりてはとうかんせり。

およなんぢたのものよろこび』〔十二節〕。とうなり、すなはあるものもっとぜんりょうなるものとなりてあくへきよりはなれ、あるものおのれへんおほいなるまんぞくぜんむかひ、ちゃくちゃくとしてきょうせいす。かれながたのしみ、なんぢかれおほひまもらん』もっとへんよろこびなり。よろこびあらはるるやいなただちしょうめつしつつごうみづながれしかざるも、かみによるのよろこびながつづきてけんに、ぼうありてかはらず、いかなるじじょうしょうずともこれためやぶらるることなく、しょうがいによりていっそうたかめらるるなり。ればしとらべんぼくひてよろこべり〔使徒行實五の四十〕、パウェルかなしみしのびてたのしみ、じゅんびし、ひとまねきておのれよろこびあづからしめていはく『われなんぢしんまつりほうとのうへそそぎまつりとせらるとも、われよろこび、かつわれしゅうともよろこぶ。ことなんぢまたよろこび、かつわれともよろこべ』〔フィリップ書二の十七、十八〕と。かみくのごとくにしてよろこものともいまたまふなり。よ、なにによりてきょうかいながたのしみ、なんぢかれおほひまもらん』へるかを。ハリストスまたおのよろこびかはらざるをしめさんとほっし『われまたなんぢん、しこうしてなんぢこころよろこばん、かつそのよろこびなんぢよりうばものなし』〔イオアン福音十六の二十二〕とひて、どういつのことをあらはせり。パウェルまたへり『つねよろこべ、めずしていのれ』〔フェサロニカ前書五の十六、十七〕と。なんぢあいするものなんぢもっみづかほこらんとす』ただこれもっほこることをただこれたいしてよろこぶことをただこれもったのしむことをしかしてぶつほこものは、ゆめのうちおいたのしひとびとごうことならざるなり。

。 ひとことにしてしんほこるにるべきことあらば、これわれげよ。たいりょくなるか。たいりょくわれらゆうこれべきものならず、ゆえわれらたいりょくもっほこるをず、しかたいりょくすみやかにすいじゃくしょうしつし、たいりょくあるものとうぜんこれようせざればおのれがいすることまれなりとせざるなり。れいぼうとみけんしゃおよそのしょぶつきてもまたどうようはざるべからず。しかれどもかみよりのしょうさんおよかみたいするあいすべてのものにまさそうしょくなり、これくるにへしものは、たとかせにてしばらるるともせんひゃくかんむりまさる。このそうしょくしっぺいためにも、じょうよくためにも、じょうへんためにも、ぐうによりても、そのものによりてもげんしょうせずして、いっそうかくかくたるこうみょうはなつにいたる。けだしなんぢじんふくくだせり』〔十三節〕。かかけいこうゆうするおほくのものことぜんこうわたされたるものもしつみさだめられおよちょうしょうふくするとも、あるもっとよわものげんうしなはざらんがために、げんしゃいかかれたましいををかたむるかをよ、いはけだしなんぢじんふくくだせり』と。てんしゅさいもしかれしょうようさんしたらんには、ひとびとおよぜんかいこれけいべつすともなんかいするにらん。くのごとりくうみとにきょじゅうするすべてのひとびとさんせらるるしゅしゅくさんせられずんば、ひとびとしょうさんくるともなんえきあらんや。これりてわれらつねかみをしてわれらしょうさんせしめ、われらえいかんあたへしむるようつとめん。くのごとくんばたとひわれらまづしからんも、やまひうちにあらんも、きはめてこんなんなるじじょううちにあらんも、すべてのひとびとうへたん。ればふくたるイオフは、けつなるもののうへし、ぜんしんきずよりながづるうみかぞふべからざるほどむしにておほはれ、ぼくけいべつせられ、おのれてきのみならず、おのつまともとにはづかしめられ、ひんきゅうおちいり、かつせまり、いやされざるやまひかかりてがたくるしみけしも、なほすべてのひとびとよりもこうふくなりき。なにゆえしかるか。かみは『そのひとなりまったく、かつただしくしてかみおそれ、あくとほざかる』〔イオフ書一の一〕とひてかれしゅくさんしたればなり――しゅなんぢめぐみもったてごとくにこれめぐらしまもればなり』げんしゃしゅうけつおいかんしゃさんささげてふたたかみかんしゃけんず。めぐみもったてごとくすとはなんなるか。たてとはひいでたるたてかみこころしたがふのたてもっとぼうあるたてなり。こころは、なんぢもっとゆうじょもっわれらまもれりとなり。やくしゃこれめぐらしまもる』じんにかけつつ、なんぢじんなるかれめぐらしまもる、すなはなんぢじんたてしかひいでたるたてかはりにかれつとむといひ、あるいなんぢもっとゆうじょもっじんまもるがゆえに、ごうゆうかれあんぜんうばはず、あんぜんかれこうえいうばはずといへり。たれじょうしゃゆうしゅにてまもらるるひとよりしんつよものあらん、たれこれよりごうゆうなるものあらん。ダウィドみづかしょおいて『あはれみめぐみとをなんぢかうむらし』〔聖詠百二の四(詩篇百三の四)〕とへるごとく、このかんむりれんよりまる。またこのかんむりパウェルが『いまよりのちかんむりわれためそなへらる』〔テモフェイ後書四の八〕とへるごとく、よりもまるるなり。このかんむりきしゃの『さかえかんむりなんぢあたへん』〔箴言四の九〕とへるごとく、おんちょうかんむりなり。このかんむりイサイヤが『さかえのかんむりとなる』〔イサイヤ書二十八の五〕とへるごとく、さかえかんむりなり。このかんむりそのうちじんあいをも、おんちょうをも、こうえいをも、またれいをもゆうす、これしゅじゅなるおんちょうもたらすところかみたまものなり。これパウェルが『かれやぶやすかんむりけんためわれやぶれざるかんむりためなり』〔コリンフ前書九の二十五〕とへるごとく、やぶれざるかんむりなり。いんようされたることばいみごとし、いはく、なんぢあんぜんこうえいとをもっわれらかここれなり。かみたまものくのごとかたく、くのごとうるはしく、そのえいかんくのごとし。れどひとびとりてはしからず、こうえいうちにあるものまったあんぜんうちらず、あんぜんうちにあるものつねかならずしもこうえいうちにあらず、このしゃかれうちようあはせらるることなし、あはせらるるときすみやかにかいせらるるなり。たとへけんあるひとびとちょめいなるひとびとめいあるひとびとあんぜんうちにあらざるもおのめいげんによりてことけんなるしょひとひんせきされけいべつさるるひとびとは、おのれあらはれざるにより、あんぜんうちにありてめいけざるも、ことあんぜんうちにあるによりてめいゆうせざるなり。れどかみにありてはしからず、あんぜんこうえいとはいたつたかていおいあはせらるるなり。これりてわれらこれこうふくげんなにものよりもおほいなるなるこうふくかみよろこばれ、たてこうえいも、あんぜんも、おほくのこうふくこのうちがんちくすることをあらはしつつわれらまへくぎょうにんたいし、つねげんおとすなくたてなくしてまざらん。かかたたかひおいてはぐんじんたてすつることあたはず、ただものおはときいたりてはじめてそのきんろうおはり、しかしてものたましひからだよりはなるるときおはるなり。ればこのにあるあひだいへし、いちで、びょうちゅうにも、けんこうときにも、いんしょくしながらもつねわれらたたかはんことをようす。やまひときさへもことこのたたかひときたることあり、すなはやまひかんかくしょほうよりたましひわづらはすときあいたましひせめかこみ、あくちてあるぜんことばはなすべきをしょうようするときこれなり。かかときおのれあんぜんたもち、かっちゅうたておよびそのぶきもっぼうぎょし、えずかみかんしゃせんことをようす。あくためおそるべきなり、あくためめいげきなり、こうめいなるえいかんことこれためたまはらる。ればふくたるイオフゆうわくしっぺいおよびかんなんときおいかはらざるたましひうごかすべからざるこころとをあらはし、またかみこのれいてきけんさいなるかんしゃさんけんじたるがためことこうえいなるものとなり、これためいちじるしきものとなり、これためえいかんくるにへたり。かれが『しゅあたしゅたまふなり(くあらんことはしゅよろこたまところなり)しゅみなむべきかな』〔イオフ記一の二十一〕とひしそのことばすなはけんさいなりき。ればわれらまたゆうわくうちにあり、かんなんうちにあり、ふんまんうちにありてもえずかみさんしょうようせん、けだしこうえいよよかみすべきものなればなり。アミン。

脚注 [編集]

  1. 投稿者注:一般にはトビト書。
  2. 投稿者注:一般にはハンナ。
  3. 投稿者注:「第一列王記」は正教会での呼び方。一般には「サムエル前書」。原文は第一列王記十の十三となっているが明らかに第一列王記一の十三の誤りなので誤植と思われる。原文のまま訂正していない。
  4. 投稿者注:一般にはヘロデヤまたはヘロディア。

参考[編集]

第五せいえい

1 れいちょうせうもつこれくわせしむ。ダワィドのえい
2 しゅよ、ことばき、おもひさとれ。
3 わうかみよ、こえたまへ、われなんぢいのればなり。
4 しゅよ、あしたこえたまへ、われあしたなんぢまへちてたん。
5 けだなんぢはふよろこばざるかみなり、あくにんなんぢるをず、
6 けんものなんぢまへとどまらざらん、なんぢおよはふおこなものにくむ、
7 なんぢいつはりものほろぼさん、ざんにんけつものしゅこれにくむ。
8 ただわれなんぢあはれみおほきにりてなんぢいへり、なんぢおそれてなんぢせいでんふくはいせん。
9 しゅよ、てきためわれなんぢみちびき、まへなんぢみちたひらかにせよ。
10 けだしかれくちにはしんじつなく、かれこころあくぎゃくかれのんどひらけたるひつぎしたにてへつらふ。
11 かみかれつみさだめ、かれはかりごともつみづかやぶれしめ、かれけんはなはだしきにりてたまへ、かれなんぢさからへばなり。
12 およなんぢたのものよろこびてながたのしみ、なんぢかれおほまもらん、なんぢあいするものなんぢもつみづかほこらんとす。
13 けだししゅなんぢじんふくくだし、めぐみもつたてごとこれめぐらしまもればなり。

(この節の出典:聖詠経 2版 国立国会図書館デジタルアーカイブ)