翻訳:炎と剣にて/第3章
第3章
[編集]数日後、副長とその護衛はルブニ方面に向けて道を急いだ。 ドニエプル川を渡ってから、チギリンとルブニを結ぶ草原の広い道を通り、ジュキ、セミ・モギル、ホロルを通過した。 ルブニとキーウも同じような道で結ばれていた。 昔、ヘートマン(ウクライナ・コサックの棟梁の伝統的な称号)であったジョルキエフスキーの軍がソロニッツァと対峙する前には、これらの道はなかった。 ルブニからキーウへは砂漠と草原を行き来し、チギリンへは水路で、帰りはホロルを経由して陸路で帰ってきた。 一般にドニエプル川の向こう岸は、古代のポロフツィー族の土地であったが、タタール人が頻繁に訪れ、ザポロージア人の悪党どもにさらされていたため、人が住むにはあまりにも開けてなかった。
また、スーラ川の両岸には人跡未踏として有名な大森林があった。 そしてスーラ川、ルダ川、スレポロド川、コロヴァイ川、オルジャヴェツ川、プセル川、その他大小の川がその流れを地に沈めていて、一部は密林と松林で覆われ、一部は草原のように開けていた。 この松林や沼地には、あらゆる種類の野生の獣にもってこいの隠れ家となった。深い森の暗がりには、数えきれないほどの、ヒゲのある野牛、クマ、イノシシが、そしてその近くにはオオカミ、オオヤマネコ、テン、鹿、野ヤギが生息していた。 沼地や川の淵にはビーバーがダムを作っていた。 現在のザポロージア人の間では、歳月が毛皮を雪のように白くさせたというビーバーの存在が語り継がれているという。 標高が高く乾燥した草原を、ボサボサのたてがみを振り乱しながら、充血した目をした野生の馬の群れが思うままに駆け巡っていた。 川では、魚や水鳥が集まり、静かな水面に生命の営みを映し出していた。 微睡みの中にあるような、しかしかつての人々の営みの痕跡が、時の流れに耐えて残されている土地であった。 どこもかしこもかつての町の廃墟で埋め尽くされていた。 ルブニやホロルはそのような廃墟の上に築かれた。 いたるところに古今の墓碑があり、松が生い茂っていた。 ここでも、荒野と同じく、夜になると幽霊や吸血鬼が現れるという。 老いたザポロージア人は、焚き火を囲み森の奥での不思議な物語を語る。 そこには名も知られぬ野獣の吠える聲――半ば人、半ば獣のような――争いや狩りのような恐ろしい音が響いていたという。 水の下では、水没した都市の鐘の音が聞こえた。 この土地は人を受け入れないかのように、交通の便が悪く、場所によっては軟らかすぎ、他では水不足に悩まされ、草は乾ききり、空気は乾燥し、住むにはあまりにも危険な場所であった。 何とか人がそこに腰を落ち着け、土地を耕し始めても、タタール人の襲撃で一掃されてしまう。 それにもかかわらず、ザポロージア人は、度々ここを訪れ、あらゆる川、渓谷、森、葦の生えた沼地を通って、狩りを、あるいは彼らの言い方を借りれば「産業」をしたのだ。 彼らはビーバーを求めて、存在することさえほとんど知られていないような場所まで足を延ばしていた。 それでも、その地に定住しようとする人々が、しがみつこうともがいていた。 地を掴み、何度引きちぎられてもまた芽生える草木が大地を根で掴もうとするかのように。 かつての砂漠の地は、今や町や集落、コロニー、そして家々が立ち並び、新たな息吹を見せていた。 大地は恵みをもたらし、自由は人々を惹きつけた。 大地はところどころで実を結び、自由が人を誘う。 だが、真にこの土地が生命に満ち溢れたのは、ヴィシュニェヴェツキー候がこの地を統べるようになってからである。 ミハエル候はモルダヴィア人の女性と結婚すると、ドニエプル川以遠の領地を着実に整え始めた。 人々を呼び寄せ、荒れ地を開拓し、30年間の兵役免除を与え、修道院を建て、候の権威を示した。 この地域に法の無い時代から移住してきていた、自分の土地は自分のものだと考えていた人々も、納税者に成り下がることも厭わなかった。 タタール人やタタール人よりも性質の悪い下層民から守ってくれる候の強力な保護下に置かれるのだから。 だが、この地での本格的な活動が始まったのは、若きイェレミ候の鉄の手による統治が確立されてからである。 彼の統治下、この地は未曾有の安定を迎え、その強力なリーダーシップは、周囲の脅威から人々を守る堅固な盾となった。 彼の領地はチギリン郊外から始まり、コノトープとロムニーに及んだ。 これらも候の領土のすべてではなく、サンドミールから始まって、ヴォリニア、ロシア、キエフの爵地にまで広がっていたのである。 しかし、ドニエプル川の向こうの領地は、プティーウリの勝者にとって最も大切な領地であり、顔の中で最も注意を払うべき「目」といった存在であった。
タタール人はオリョール川やボルスクラ川で長く待ち伏せし、馬を北に走らせる前に狼のように鼻を鳴らした。
河下の者たちは攻撃を仕掛けようとはしなかった。
地元の無法者の一団が軍に入った。
長い間、暴力と略奪で生計を立ててきた野生の略奪者たちは、今では抑えつけられ、国境の前哨基地で勤め、国家の境界線上に横たわり、鎖につながれたブルドッグのように、歯をむいて侵入者を威嚇していた。
すべてが栄え、活力に溢れていた。 道路は古代の街道の跡に敷かれ、川は捕虜となったタタール人や武装して強盗をしていた下層民によって作られたダムでせき止められた。 かつては夜、風が葦の中で荒々しく騒ぎ立て、狼が溺れた男たちの亡霊と共に吠え猛た場所には、今、水車小屋の機械音が鳴り響いている。。 あちこちにある風車を除いても、ドニエプル川の向こう側では、400台以上の車輪が穀物を挽いていた。 4万人以上の人々が候の倉庫に貢物を納めていた。 森にはミツバチが群がり、国境沿いには新しい村や集落、そして独り者が住む小さな家々が続々とできていた。 草原では野生の群れの傍らで、家畜の牛や馬も一緒になって草を食んでいた。 松林と草原の果てしない単調な景色は、コテージの煙や、カトリックと正教会の金色の塔に変わっていった。 かつての砂漠は、今や人々が住む土地へと変貌を遂げていた。
スクシェトゥスキ副長は、自分の領地を巡るかのように、道すがらの十分なゆとりと安心感のもと、慌てることなく、その旅を楽しんでいた。 1648年1月の初めであったが、あの不思議な類例のない冬は、いまだその到来を予感させなかった。 大地は雪解けの水で柔らかく輝き、野原は緑に覆われ、真昼の太陽が道を照らし、夏の暑さを思わせるほどに毛皮のコートを重く感じさせた。 副長の一行はチギリンでかなり増えた。 太守がルブニへと派遣したワラキアの使節団、パン・ロズヴァン・ウルスを迎え入れたからである。 この使節団は、荷車と召使を伴う護衛を帯びており、その装備の充実ぶりが一行の規模を一層際立たせていた。 みなさんご存じパン・ロンギン・ポドビピエンタは、ゼルヴィカプトールの紋章を携え、長剣を小脇に抱え、数人の召使いを連れて、副長とともに旅を続けていた。
晴天に恵まれ、春の香りが漂い、彼の心を喜びで満たした。 副長は長旅から帰って候の屋根の下、であると同時に自分のものでもある場所に戻ったので尚のことだった。 彼は、自らに課された使命を果たし、その功績を胸に帰還する者だ。 そんな彼を、人々が温かく迎え入れてくれることに、少しの疑いも持っていなかった。 喜ぶ理由は他にもあった。 副長は、心から敬愛する候の好意だけでなく、ルブニの地でひときわ深い闇を湛えた蜜のように甘い瞳が自らを待ち受けていることを知っていた。 この瞳の持ち主はアヌシア・ボルゾボガタ・クラセンスカであった。 彼女は候夫人グリセルダの侍女であり、その中でも最も美しい乙女として知られていた。。 彼女は、ルブニの誰もが憧れる恐ろしい男たらしだが、彼女自身はすべての男に無関心であった。 候夫人は、素行に厳しく礼儀作法にも極めて厳格であったが、それでも若者たちが熱い視線とため息を交わすのを妨げることはできなかった。 副長は他の者と同様、黒い瞳に向けてため息をつき、自分の部屋で一人になるとリュートを奏でながら彼女の美しさを讃える歌を口ずさんだ。
「汝は可憐な者の中でもいとも可憐な者である。」
または
「タタール人は人を捕らえるが 汝は囚われの心を捕えたる者なり。」
しかし、彼は前向きな男で、自らの職務に対しては徹底した献身を見せる軍人である彼は、アヌシアが他の多くの士官たちにも同じように微笑みを向けることを、決して妬むようなことはなかった。 ワラキア連隊のパン・ビホベツや砲兵隊のパン・ヴルツェル、ドラグーン隊のパン・ヴォロヨフスキにも自分と同じように笑顔を見せ、すでに白髪が増えており、マスケット弾で口蓋に傷を負ってからは舌がよく回らなくなっていた重騎兵隊のパン・バラノフスキにさえも微笑んだことも、あまり気にかけなかった。 我らの副長はアヌシアのために、ヴォロディエフスキーとサーベルを交えた決闘を行ったことがあった。 しかし、タタール人に対する遠征にも行かずにルブニに長く留まらざるを得なくなると、アヌシアがいてさえも退屈であった。 遠征に出なければならなくなった時には、後悔も思い残すこともなく喜んで出かけていった。
クリミアからの帰途、満足のいく成果を手にしていた彼は、心躍る思いで帰路についていた。 陽気に歌を口ずさみながら、パン・ロンギンの傍らで馬を走らせた。 パン・ロンギンはリヴォニア産まれの巨大な雌馬に座って、いつものように思慮深く、真剣な顔をしていた。 ワラキア軍の使節団の馬車はかなり後方に残っていた。
「大使殿は荷馬車の中で木の塊のように横になって、ずっと寝ているね。」と副長は言った。 「彼は疲れるまでワラキアの地の驚くべき話をしてくれたよ。 実に好奇心がそそられるものだった。 実にいい地だね、温暖な気候、金、ワイン、珍味、家畜が豊富にある。 その一方で、私はこうも思った。 我らの侯爵閣下はモルダヴィア人の母の子孫であり、モルダヴィアの血を引き、ホスポダール(スラブ語圏の君主)の座に最も相応しい方だ。 しかもその権利はミハエル候もおっしゃられておられたのだ。 ワラキアは我らにとって未知の国ではない。 我らの歴史は、トルコ人、タルタル人、ワラキア人、そしてトランシルヴァニア人を打ち破った勇士たちのものなのだから。」 「しかし、パン・ザグロバがチギリンで言っていたが、 あそこの民は我々より柔和だそうですね。」
パン・ロンギンは言った。
「彼の言うことが信じられるかはともかく、祈祷書の中にその裏付けがあるかもしれませんね。」
「祈祷書?」
「いつも持ち歩いていますから、お見せしますよ。」 そう言うと、彼は目の前の鞍の紐を外し、 仔牛の皮で丁寧に綴じられた小さな本を取り出して恭しく口付け、 数ページめくって 「どうぞ、読んでみてください。」と言った。
スクシェトゥスキーは読み始めた。
「”聖なる神の母よ、あなたの御守護のもとに私たちは帰依します・・・” この中のどこにワラキアのことが書いてあるんだ? 何が言いたいんだい?これは聖歌の和唱だよ!」
「続きを読んでください。」
「”私たちの主キリストの約束にふさわしくあるように。アーメン”」
「さて、そこに質問があるんです。」
スクシェトゥスキは読み上げた。 「”質問:ワラキアの騎兵隊がなぜ軽騎兵と呼ばれるのか? 答え:飛ぶように軽快な逃げ足を持つからです。アーメン” フム!これは本当だ。 それにしても、この本には不思議な事柄が混じって書かれていますね。」
「これは兵士のための本で、祈りとともに、さまざまな軍事の情報記載されており、そこからあらゆる国の知識、つまり、どの国が最も高貴で、どの国が卑しいかという知識を得ることができます。祈りと共に様々な軍事的な知識が綴られています。ワラキア人に関しては、彼らが臆病で、なおかつ裏切りに長けていると評されていますね。」 「奴らが売国奴であることは間違いないよ。 それはミハエル候の活躍からも明らかだ。 彼らの兵士はもともと自慢できるようなものはなにもないと聞いている。 しかし、候はビーホベッツが副長を務める優秀なワラキア連隊を持っておられるが、 実のところ、ワラキア人は20人もいないんじゃないかな。」
「さて副長殿、どうでしょう、候はどの程度の兵力を従えておいでで?」
「前哨部隊のコサックを除けば 8千人ほどかな。 しかしザツビリホフスキーの話では、新たに招集が行われているようだね。」
「おお、候のもとで戦えるよう神に祈るべきですな!」
「トルコとの大きな戦いの準備が進められていて、国王陛下も連合王国の全軍を率いて進軍すると言われているよ。 それにタタール人からの贈り物が、 恐らく騒乱に関わるのを恐れて、差し控えられているのも知っている。 クリミアでもそのような話があったよ。 だから私は歓待されたのだろう。 もし王がヘートマンたちを率いて移動すれば、イェレミ候はクリミアを攻撃し、タタール人共を一掃するだろうとの報告があるのだ。 奴らがそのような企てを他の誰にも打ち明けないことは間違いないよ。」
パン・ロンギンは両手を高く掲げ、天を仰ぎ見た。
「慈悲深き神よ、キリスト教と我が国の栄光のためにこの聖なる戦いを与えたまえ。 罪深き私に誓いを果たすことを、戦いに喜びを見出し、ふさわしき死を見出すことを許したまえ。」
「戦争に関する誓いを何か立てたのですか?」
「高貴なる騎士の前にて、私の魂の秘密をすべて明かしましょう。 話は長くなりますが、ご容赦ください。 私の紋章の銘が”ゼルヴィカプトゥール(頭巾を裂け)”であることはご存じかと思いますが、これには次のような由来があるのです。 私の祖先であるストビコ・ポドビピエンタはグリュンヴァルトの戦いで、僧侶の頭巾をかぶった3人の騎士が列をなして馬を走らせているを見て、駆け寄って一撃で3人の首を落としたのです。 古い年代記には、この栄えある行いが、私の先祖への賞賛と共に書かれているのです。」
「君の先祖も君に劣らず剛腕のようだ。 なるほど、まさに”頭巾を裂け”だね。」
「国王陛下はご先祖に紋章をお許しになりました。 彼ら三人の騎士の盾にヤギの頭が描かれていたので、彼らにちなんで、銀地に3つの山羊の頭が描かれているのです。 この紋章とこの剣は、私の先祖であるストベコ・ポドビピエンタが、家門と剣の栄光を守るために努めよと子孫に遺したものなのです。」
「それ以上言わなくても、君の家系が名門であることに疑いの余地はありませんよ。」
パン・ロンギンは感慨深げにため息をつき、いくらかの満足とともに、こう続けた。
「我が家門の最後の一人として、我が祖先ストベコ・ポドビピエンタの名に恥じぬよう、この剣で敵の首を一撃で三つ落とすまで貞節を守り、結婚しないことをトロキで聖母に誓いました。 ああ、慈悲深き神よ、あなたは私が力の限りを尽くしたことをご存じでしょう。 私は今日まで純潔を守ってきました。 弱き心に静まるよう命じてきました。 私は争いを求め、戦火をくぐってきましたが、運命は私に微笑みませんでした。」
副長は口ひげの下で微笑んだ。 「まだ、首を三つ打ち落としてないんだね?」
「ありません! 機会がありませんでした! 運がなかったのです! 一撃で二人の首を打ち落としたことは、一度ならずあるのですが、三人分を落としたことはないのです。 そんな場面に出くわしたことも無いですし、敵にそのために並べというのも無理な話ですからね。 私のつらさは神のみぞ知る、と言ったところです。 私の内には力がみなぎり、財えもあります。 しかし、青春も過ぎ去り、四十五歳を迎えようとしているのです。 情愛を求め心が騒ぎ、家門も終わりを迎えようとしているのです。 それでも三つの首は取ることはできなかった! そのような”頭巾を裂け”なのです。 パン・ザグロバが言うように、人々の笑いものなのですよ。 私はその全てに耐え忍び、主にこの身を任せているのです。」
リトアニア人が再びため息をつくと、リボニアの牝馬は主人への同情からか、うめき声や鼻息をだした。
「まあ、言えるのは、イェレミ候のもとで機会を得られないのなら、 どこにも機会はないということだね」と副長は言った。
「願わくは、」ポドビピエンタは答えた。 「そんなわけで、公に恩恵を願いたいのです。」
その時、常ならぬ羽音によって、会話が中断された。 前にも述べたように、この冬は鳥が海を越えず、川も凍らないので、国中が水鳥でいっぱいになり、特に沼地に多かったのだ。 副長とパン・ロンギンがカハムリク河の岸辺にさしかかると、突然頭上でコウノトリの大群が、棒で殴りつけられそうなほど地面近くを飛んでいく音がした。 群れはものすごい鳴き声をあげて飛び、葦の中に降りつくこともなく、不意に空中に舞い上がった。
「まるで追われる獲物のように飛んでいく…」とスクシェトゥスキが呟いた。
「あ、見てください!」 パン・ロンギンは、横を飛びながら群れに追いつこうとしている、白い鳥を指差した。
「鷹がコウノトリたちが降りるのを邪魔したんだ。」
「ワラキアの使節が鷹を飼っていた。 鷹を放したに違いない。」
と副長は言った。
その時、パン・ロズワン・ウルスが黒いアナトリアの馬に乗って全速力で駆けつけた。 その後に彼の部下が何人か続いた。
「副長、どうかお越しください。」と彼は言った。
「あの鷹はあなたのものですね?」
「そうです、ご覧の通りとても立派な鳥なのです。」
3人が突進し、箍を持ったワラキアの鷹匠がそれに続き、目を鳥に向けながら、力いっぱい叫んで鷹を駆り立てた。
この勇ましい鳥は、すぐに群れを空中に引き上げさせ、さらに一瞬のうちに高く舞い上がり、群れの上に飛び上がった。 そのとき、コウノトリたちは翼によって嵐のような音を立てながら、巨大な輪になった。 そして、空に恐ろしい鳴き声を響かせ、首を伸ばし、嘴を槍のように突き上げ、敵の来襲を待ち構えた。 鷹はその上を旋回し、あるときは下降し、またあるときは上昇し、百もの鋭利なくちばしが待ち受ける中、襲い掛かるのを躊躇っているかのようだった。 白い羽は光に照らされ、澄んだ青空に浮かぶ太陽のように輝いている。 不意に鷹は、群れに突進することなく、矢のように遠くへ飛び去り、たちどころに木々や葦の影に姿を消してしまった。
スクシェトゥスキは、全速力で鷹を追いかけた。 使者、鷹匠、そしてロンギンも彼に続いた。
十字路に差し掛かると、彼は馬を止めた。 目の前に広がる見たことのない、奇妙な光景に目をとめた。 道の真ん中で、車軸の折れた馬車が横倒しになっていたのだ。 馬車から離れた馬は、二人のコサックに捕らえられていた。 運転手の姿はなく、恐らく助けを求めに行ったのだろう。 馬車の傍らには二人の女性が立っていた。 一人は狐の皮のマントを羽織り、同じく狐の皮で作った丈の高い丸い帽子をかぶっており、顔は厳かで勇壮であった。 もう一人は若い婦人で、背が高く、きわめて調和のとれた顔立ちであった。 その肩には静かに鷹が止まっており、胸の羽を嘴で撫で分けていた。
副長は馬の蹄が道の砂に食い込むまで手綱を引き、帽子に手をやりながら、何と言えばいいのか、わからなくなった。 婦人に挨拶すればいいのか、鷹を呼べばいいのだろうか。 さらに、テンの皮の頭巾の下から見つめてくる、生まれてこのかた見たこともないような黒く、サテンのように潤んだ、きらめき燃えるような目に出会い、彼はますます言葉を失った。 それに比べればアニューシャ・ボルゾボガーダの目などは、松明の前のろうそくであった。 その目の上には、ビロードのような濃い眉が2つの繊細な弧を描いている。 桜色の顔は、麗しき花のように咲き、わずかに開いたラズベリー色の唇からは真珠のような歯が見え、フードの下からは豊かな黒い髪が流れ出ていた。 矢のようにまっすぐな姿、膨らんだ胸、肩に乗せた白い鷹を見て、副長は 「あなたはユノご自身なのですか、それとも他の神なのですか?」と考えた。 副長は帽子もかぶらずに立ち、素晴らしい絵画の前に立ったかのように我を忘れていた。 目を輝かせ、何か手で掴まれたかのように心を掴まれた。 「もしあなたが神でなく死すべき人間であるならば・・・」と話し始めた時、使者と鷹匠とパン・ロンギンが駆けつけてきた。 この三人を見て女神が手をかざすと、鷹は肩から離れ、足で移動しながら時を移さず手のほうにやってきた。
副長は鷹匠(たかしょう)に先んじてこの鳥を降ろそうとしたが、突然不思議な兆しが現れた。 鷹は片足を乙女の手に残したまま、もう片方の手で副長の手を捕らえ、そちらに移らずに楽し気に声を上げ、手が触れるほどの勢いで引き寄せ始めたのだ。 副長に震えが走った。 鳥は鷹匠に箍をつけられてようやく捕らえられた。 そこで老女が話し始めた。
「騎士の方々!」彼女は言った。 「どなた様かは存じませぬが、、道端で力なく置き去りにされ、何をしてよいか分からない女性への援助を拒むことはないでしょう。 私たちの家までは15マイルもないのです。 しかし馬車が壊れてしまったので、恐らくこの荒れ野で夜を越すことになりそうです。 私は荷車でいいからと息子たちの所まで乗り手を急がせました。 しかし、彼が家に着いて戻る前に、夜闇がやってくるでしょう。 この場所にいるのは恐ろしいのです。 近場には墓地がありますし。」
老婦人は早口で、副長が驚くほどの荒々しいこえだったが、 それでも彼は丁寧に答えた。
「あなたや、あなたの美しいお嬢さんに手を差し伸べずに去るなど考えられません。
私どもはイェレミ候に仕える兵としてルブニに向かいますが、恐らくはあなた方の進むべき道とも重なるはずです。
そうでなくても、私どもの援助を受け入れてくださるならば、喜んで道を外れましょう。
私たちは馬車を携えてはおりません。
我らは戦士の常として、馬に乗って旅をしているのです。
しかし、この大使殿は馬車を持っておられます。
この方は、温厚な紳士でありますから、あなたとお嬢様のために喜んで馬車を役立ててくださること思います。」
大使は黒テンの帽子を取った。 ポーランド語を知っている彼は、何が起こっているのかを理解できた。 気品ある貴族らしい繊美な賛辞を述べて、馬車を女性に譲ることにした。 大使は、すぐに鷹匠に命じて、かなり遅れている荷馬車隊まで駆けさせ、馬車を持ってこさせた。 その間に副長は若い女性を見ていたが、彼女は彼の熱い視線に耐え切れず目を伏せた。 コサック風の顔をした老婦人がこう続けた。
「皆様方に神の恵みがありますように。 そして、ルブニへの道はまだ長いので、私たちの家に立ち寄り、息子たちにお会い下さるという申し出を拒まないでください。 私共はロズロギ・シロマキから参りました。 私の亡き夫はクルチェヴィッチ・ブリーガ候です。 この子は私の娘ではありません。 夫の兄の娘です。 私たちに託してこの子を孤児にしてしまったのです。 息子たちは今家におらず、私はチェルカシの聖母マリアの祭壇に祈りを捧げた帰りなのですが、このような事故に遭遇してしまいました。 あなた方のご親切が無ければ、路傍で夜を過ごさねばならなかったでしょう。」
候爵夫人はさらに何かを言いかけたが、その時、馬車が遠くに現れ、駆け寄ってきた。 その馬車には大使の従者やパン・ヤンの兵士たちが群がって取り囲んでいた。
「それでは、あなたはワシーリー・クルツェビッチ候の未亡人ですね」 と副長が尋ねると、 「違います!」 と侯爵夫人は怒っているかの如く言い返した。
「私はコンスタンティンの寡婦で、こちらがワシリーの娘です」と、若い女性を指さした。
「ルブニではワシーリー候についての話題が絶えません。 彼は偉大な戦士で、亡くなったミハイル候の親友でした。」
「私はルブニには行ったことはありません。」 彼女は確かな横柄さとともにに言った。
「彼の武勇伝も存じ上げません。 彼の後年の行いについては、わざわざ言うこともないでしょう。 誰もが知っていることですから。」
これを聞いた侯爵令嬢ヘレナは、鎌で切られた花のように頭を下げたが、副長はすぐに答えた。
「そんなことを言うべきではありません、奥様。 ワシーリー候は、人の手による裁きゆえのひどい誤りによって、命と財産を失う判決を受け、やむなく逃亡したのです。 しかし、後に全くの無実であることが明らかになりました。 候の無実が公表されたことで、高潔な人間としての名誉を取り戻したのです。 候の受けた苦難の大きさが、彼の栄光の大きさをさらに高めることでしょう。」
侯爵夫人は副長を一瞥し、その言葉に対する不快感を隠さない鋭い表情で怒りを見せた。 しかし、スクシェトゥスキは若い男ではあったが、騎士としての威厳と澄んだ眼差しを持っていたので、彼女はあえて異議を唱えることはせず、代わりに侯爵令嬢ヘレナに目を向けた。
「こんな話、あなたに聞かせるべきではなかったわね。荷物を馬車に移してちょうだい。皆様のおかげで、私たちはその馬車に乗ることができるのですから。」
「手伝わせてください」と、副長は侯爵令嬢ヘレナに言った。
二人は馬車に向かった。 馬車の両側の扉の前に立つと、侯爵令嬢は絹糸のような目の睫毛を上げ、明るく暖かい太陽の光のような視線を副長に向けた。
「どうお礼を申し上げたら良いのでしょうか。」 竪琴や笛のような甘い声を、彼女は奏でた。 「父の名誉を、近しい縁者による不当な辱めから守ってくださったことに、どうお礼を申し上げればよろしいのでしょう?」
副長は春の雪のように心が溶けゆくのを感じながら、答えた。 「そのようなお礼の言葉のためなら、火中に飛び込んでも、自ずから血を流すことも厭いません。 しかし、そのようなだいそれた望みは、神の国への道をより一層狭めるもの。 その狭さを考えると淑女の口からの感謝の言葉を受け入れる事は、私にとって許されざる事なのです。」
「私の感謝の言葉を受け入れてもらえないとなると、貧しい孤児たる私には、他に感謝の気持ちを表す方法がありません。」
「受け入れないのではありません。」 彼は言葉に重みを込めながら、言った。 「しかし、そのような恩恵は長く誠実に勤めてこそ得られるものでしょう。 私がお願いしたいのは、私をお役に立てていただくことだけです」
この言葉を聞いた侯爵令嬢は、顔を赤らめて戸惑い、突然青ざめ、両手を顔に当てて、悲しげな声で言った。
「そのようなお力添えは、あなたに不幸をもたらすだけでしょう。」
副長は馬車の扉から身をかがめ、静かに気持ちを込めて語りかけた。 「神がお与えになろうというなら、痛みでさえも私はあなたの足下に跪いて、それを乞い求めましょう。」
「初めて会ったばかりの私に、そんな深いお気持ちを寄せてくださるとは、信じがたいです。」 「あなたにお会いするまで、我を忘れたことなどありませんでした。 今まで自由だった戦士が囚われの身になるとは。 それも神の御心でしょう。 愛は不意に胸を射抜く矢のようなものです。 今はその痛みをありありと感じていますが、昨日までは誰かにそのような事を言われても信じられなかったでしょう。」
「昨日あなたが信じられなかったものを、今日私はどうやって信じろというのでしょう?」
「時が何よりもあなたを信じさせることでしょう。 しかし、私の言葉でなく、顔をご覧になれば、今からでも私の真摯な思いがわかるはずです。」
侯爵令嬢が再び目を上げると、若い兵士の男らしい高貴な顔と眼差しに出あった。 彼の表情は歓喜に満ち、それが彼女の顔一面を赤々と染め上げた。 しかし彼女は視線を地面に落とすことなく、彼はしばらくの間、その神秘の瞳の甘美さに酔いしれた。 草原の道ばたで出会ったというだけでなく、すぐに魂がお互いを選んだと感じながら、つがいのハトが強く惹かれあうように2人は見つめ合っていた。
高揚の瞬間が、コンスタンティンの未亡人が候令嬢を呼ぶ鋭い声に邪魔される。
馬車が到着したのだ。
侍従たちは馬車から荷物を移し始め、あっという間に準備が整った。
気品あるボヤール(大貴族)、パン・ロズヴァン・ウルスは自分の馬車を二人の婦人に譲り、副長は馬に乗り、全員が進み始めた。
その日はもう、床に就き休みを取る時に近づいていた。 カガムリク川の満々たる水は、夕陽の黄金と夕闇の紫で輝いていた。 空高く、赤く染まった小さな雲の群れが、静かに地平線へと流れていった。 まるで空を飛び疲れて、どこか誰にも知られぬゆりかごで眠りにつくかのように。
パン・ヤンは侯爵令嬢ヘレナの傍らに乗っていたが、特に口を開かなかった。 先程のように知らぬ者の前で話すことはできなかったので、つまらない言葉を無理に口にすることはしなかった。 しかし心の中には至福を感じ、頭の中ではワインが注がれる音が響いているかのようだった。
馬の鼻息や鐙(あぶみ)の音のみが草原の静寂を破る中、一行は足早に進んでいく。 しばらくすると、後尾の荷馬車隊の護衛たちが哀し気なワラキアの歌を始めたが、まもなく止めた。 するとすぐにパン・ロンギンの鼻声が、敬虔に次のように歌うのを聞くことができた。
われ、天に果てしない光宿らせたり。 全地に霧を広げたり。
その瞬間、辺りは暗くなり、 空に星が瞬き、 湿原から白い霧が海のように果てしなく広がっていった。
森に入り数ハロン進んだところで、馬の足音が聞こえてきて、5人の騎手が馬車の前に現れた。 彼らは若い候子達で、御者から母に起きた事故を知らされ、4頭の馬が引く馬車を携え急いで母を迎えに来たのだ。
「お前達かい?」と老侯爵夫人が声をかけると、
「そうです、お母さん!」 騎者たちは馬車に近づいた。
「こちらへおいで! この方々のおかげで、助けが必要にはなってなかったの。 皆さま、これが私の息子達でございます。 どうぞ宜しく―― シメオン、ユーリ、アンドレイ、ニコライ、それから・・・5人目は誰? 。」 彼女は注意深く眺め、 「ああ、暗くて私の老眼ではよく見えないけれど、きっとボーグンです。」
侯爵令嬢は馬車の奥にすっと下がった。
「ご機嫌よう、侯爵夫人、そしてヘレナ嬢!」と5人目は言った。
「ああ、ボーグン! 軍隊から来たのですね、我が雄々しき鷹! リュートを持ってきたのですか? よく来ましたね! さて、息子たちよ、この方々にロズロギでお泊りいただくように頼んでおいたのですよ、ご挨拶なさい! わが家の客は、神も同じ。 我が家にどうぞお願いいたします、皆さま!」
若者たちは帽子を取った。 「謹んでお願い申し上げます、我らがみすぼらしき敷居をお跨ぎください。」
「皆様が、御使者の方も副長殿もお約束くださいました。 皆、このようなお客をお迎えできる、光栄にあずかろうではありませんか。 しかし、私たちのみすぼらしい料理が、城のご馳走にに慣れた方々のお口に合うかはわかりませんが。」
「我々は宮廷の馳走ではなく、戦士の糧食で育ってきたのです。」 とスクシェトゥスキは言った。
パン・ロズヴァンも 「私は田舎の家からのもてなしを受けたことがありますが、宮廷のもてなしより良いものだと知っておりますよ。」 と付け加えた。
馬車は動き出し、老いた侯爵夫人は続けた。 「私たちの栄光はとうの昔に過ぎ去りました。 ヴォリニアやリトアニアにはまだクルチェヴィチ家の者がいて、お供を従えて王様気分で暮らしていますが、貧しい親戚には見向きもしません、きっとあの人たちには神罰が下りますよ。 私達は本当にコサックのような貧しさの中で暮らしていますが、あなた方はそのような事はお気になさらず、私達の心を込めたもてなしをどうぞお受け下さい。 私と5人の息子は1つの村といくつかの小舎で暮らしており、さらにこの若いご婦人の世話をせねばならないのです。」
この言葉に副長は少なからず驚かされた。 ルブニでロズロギが決して小さな土地ではなく、ヘレナの父であるヴァシリー候のものだと聞いていたからだ。 しかし副長は、この地がいかにしてコンスタンティンとその未亡人の手に渡ったかを詮索することはしなかった。
「では御夫人、あなたには5人のご子息がいらっしゃるのですか?」 とパン・ロズヴァン・ウルスが訊ねた。
「5人おります、みな獅子のようですよ。」 彼女は答えた。
「しかし、ベルゴロードの異教徒が長男のヴァシリーの目を松明で潰してしまったので、すっかり元気を失くしてしまいました。 この子たちが遠征に行くときは、私は彼とこのお嬢さんと一緒に家にいるのです。 しかしこの子は、慰めどころか、苦労の種でございます。」
老夫人が姪を軽蔑するような口調で語ったことは、副長の注意をそらしようが無いほど明白であった。 彼の胸は怒りで沸きたち、見苦しいほどの悪態を漏らしそうになった。 しかし、彼が若い令嬢を見たとき、その言葉は唇から消え去った。 月の光の中で彼女の目が涙で満たされているのが見えたのだ。
「どうなさいました?なぜ泣くのですか」 と、彼は低く抑えた声で尋ねた。
彼女は黙っていた。
スクシェトゥスキは 「あなたが泣くのは耐えられません。」 と言いながら、彼女の方に身をかがめた。 副長は、老夫人が大使と話していて、彼の方を向いていないのを見てから、続けた。
「どうか、一言でもお話ください。 私の血も肉も、あなたの慰めに捧げましょう。」
すると突然、騎者の一人が彼に激しくぶつかり、馬が互いの脇腹を擦りあった。 侯爵令嬢との会話は妨害された。 驚きと怒りに満ちたスクシェトゥスキは、その邪魔者の方を向いた。 月光の下に、二つの目を、横柄に、反抗的に、嘲笑的な目を見た。 その恐るべき目は、暗い森にいるオオカミの目のように光っていた。
「何者が立ちはだかるのだ?」 副長は内心で問うた。 「悪魔か、それとも・・?」 その燃えさかような眼差しをじっと見つめながら、彼は尋ねた。
「なぜ馬で私に疾く迫り、そのような目で私を射貫くのだ?」
騎者は答えず、変わることなく執拗に、横柄に彼を睨み続けた。
「暗ければ灯りを点けてやろう! 道が狭いのなら草原に行け!」 副長は声を張り上げた。
「草原が見えるだろう、馬車から離れろ、ポーランド野郎が!」 騎者は答えた。
迅速な行動者たる副長は、返事の代わりに相手の馬の脇腹を勢いよく蹴りつけた。 馬はうめき声を上げ、一瞬で道の端までよろめいた。
騎者は馬を即座に御し、すぐにも副長に襲いかかろうとしたが、その瞬間、老夫人の鋭い声が響いた。
「ボーグン、どうしたのです。」
この言葉はすぐに効果を表した。 ボーグンは馬を旋回させ、馬車の反対側に向かい侯爵夫人のもとへ向かった。 夫人は続けた。 「何をやっているのです? ここはペレヤスラフでもクリミアでもなく、ロズロギなのですよ。 覚えておきなさい。 さあ、先に行って馬車を先導しておくれ、峡谷はもう間近だし、夜闇が迫っているのですよ。 早くなさい、惨めったらしい!」
スクシェトゥスキは、怒りとともに当惑を隠せなかった。
ボーグンは明らかに争いを求めており、その機会を見逃さなかった。
しかし、なぜ機会を狙っていたのか?
なぜ、この攻撃の原因は?
副長の頭に侯爵令嬢ヘレナが何らかの形で絡んでいるのではないかと閃いた。
その思いは、彼女の顔を見て確信に変わった。
闇夜にも拘らず彼女の顔は真っ青で明らかな恐怖の色があったのだ。
ボーグンは老夫人の命令に従ってすぐに前を行った。
老夫人は彼の後を見送って、半分は自分に、半分はパン・ヤンに言った。
「あの子は、乱暴者です。 恐ろしいコサックなのです。」
「普通でないのは確かですね。」
と副長は軽蔑したように答えた。
「あのコサックはあなたの息子さんたちに仕えているのですか?」
老いた侯爵夫人は椅子に座り直した。
「どういうことですか? あの子は副長のボーグンです、名高き勇士で、私の息子たちの友人でございます。 私の6番目の息子として養子になりました。 その名を知らぬ者がいるとは、到底思えません。 誰でも知っております。」
実際、スクシェトゥスキは彼の名をよく知っていた。 ドニエプル川の両岸の、名だたる軍の長やコサックのアタマン(コサック兵の隊長)の中で、最も有名な名だった。 盲目の吟遊詩人は市場や商店でボーグンの歌を奏で、 夕刻の集いではこの若い指導者についての信じがたい逸話が語られた。 彼の出自や来歴を知る者はいなかった。 草原、ドニエプル川、カタラクト川、そして海峡、入江、島、岩、渓谷、茂みが迷路のように入り組んだチェルトメリクが、彼の揺りかごであったことは確かだ。 幼い頃から、その野生の世界に生き、心を交わしてきた。
平和な時代には、他の人と一緒に釣りや狩りに出かけ、ドニエプル川の曲がりくねった道を歩き、半裸の仲間達と一緒に沼地や葦の上をさまよい、また、深い森の奥で何ヶ月も過ごすこともあった。 荒野でタタールの群れを襲い、待ち伏せし、戦い、タルタル沿岸の町やベールゴロド、ワラキア、黒海の船への遠征といったものが彼の学び舎であった。 馬に乗らぬ日はなく、草原の火の周りで過ごす夜以外を知らなかった。
やがて、彼は下流地域全体の寵児となり、他の者たちを率いる指導者となり、勇猛さであらゆる人を凌駕するようになった。 彼は、百騎の兵を率いてバグチェ・サライまで行き、カーンの目の前で炎を上げるつもりでいた。 タルタルの町や村を焼き、住民を殺し、捕虜の貴族を馬で八つ裂きにし、嵐のように舞い降り、死のように通り過ぎた。 海では、トルコのガレー船を阿修羅のごとく襲い、ブジャクの中心に向かって突撃し、「獅子の口に直接飛び込む」かの如き行動を取った。 彼の遠征の中には、純粋な狂気とも言えるものがあった。 彼ほどの大胆さに欠け、危険を好まない人々は、スタンブールで杭に突き刺さって死んだり、トルコのガレー船で櫂に朽ち果てた身を任せた。 しかし、彼は常に傷を負わずに脱出し、豊富な戦利品を手に入れた。 彼は莫大な財宝を集め、ドニエプル川の葦の中に隠したと言われている。 しかし、泥まみれのブーツで金の布を踏みつけ、馬の蹄の下に絨毯を敷き詰め、サテンの服を着てタールを塗りつけることで、コサック人がこれらの高級品を軽蔑しているのを見せたことが何度もあった。
彼はどんな場所をも長く暖めることはなかった。 気まぐれが彼の行動の動機であった。 ある時はチギリン、チェルカシ、ペレヤスラフに来ると、他のザポロージア人とひどい浮かれ騒ぎを起こし、ある時は修道士のように暮らし、誰とも話さず、草原に逃げ込んだりした。 時には、盲目の吟遊詩人を集め、何日も彼らの歌や物語に耳を傾け、彼らに金を惜しみなく与えていた。 貴族の間では洗練された騎士になり、コサック人の間ではコサック人の中で最も野性的であった。 騎士の中では騎士に、盗賊の中では盗賊になった。 奔放で狂気じみた精神のため、彼を狂人だと言う人もいた。 なぜこの世に生きているのか、何を欲しているのか、どこへ向かっているのか、誰に仕えているのか、彼自身にもわからないのである。 彼は草原、つむじ風、戦争、愛、そして自分の夢想に仕えていた。 この夢想が、他のすべての無骨な指導者や、略奪だけを目的とし、タタール人のものを略奪しても、仲間のものを略奪しても同じだという盗賊の群れと、彼を区別していた。 ボーグンは略奪はしたが、それよりも争いを好んだ。 彼は危険そのものの魅力に惚れ込み、歌のために金を与え、栄光を求め狩りをし、それ以上のことには関心を示さなかった。
兵を率いる者の中でも、彼だけがコサックの騎士を最も見事に体現していた。 それゆえに、歌は彼を寵児として選び、彼の名はウクライナ全域で称賛されたのだ。
彼は最近ペレイヤスラフの副長になったが、実際のところ長の権力を行使していた。 老いたロボダがその強張った手で弱々しくも指揮丈を握っていたからだ。
そういうわけでスクシェトゥスキはボーグンのことをよく知っていて、老夫人にこのコサックが彼女の息子たちに仕えているのかと尋ねるのも、嘲弄の意を込めてそう言ったのである。 彼を敵だと感じたので、ボーグンの評判にも拘らず、かのコサックのあまりに無礼な振る舞いに、血が騒いだのだ。 彼は、すでに始まったことが、ただならぬ結果をもたらすとわかっていた。 しかし、スクシェトゥスキはまるで車軸のように己を曲げず、自信に満ち、何事にも屈せず、危険を望みさえする男だった。 その時でさえ、彼はボーグンの後を追って馬で追う気満々だったが、彼は令嬢の傍で馬を進めた。 その上、馬車はすでに渓谷を過ぎ、ロズロギには灯がきらめいていた。
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