翻訳:炎と剣にて/第1章
第1章
[編集]1647年は前兆に満ちた年であった。 奇妙な、恐ろしい災害の兆候が地上に、そして空に現れた。 当時の記録によれば、春には荒野から無数の蝗が押し寄せ、 作物や草木を荒らしまわったというが、それはタタール人の侵略の先駆けだったと言われている。 夏には凄まじき日食が起こり、 人々の畏れも冷めやらぬうちに禍々しき彗星までもが空に現れたのだ。 ワルシャワでは、家々の上空に墓が浮かび、 雲間には燃えるような十字架も現れた。 誰彼ともない疫病によりもたらされる住民の塵殺の噂が広がり、 断食や喜捨が行われた。 ついには、古老もかつて覚えが無いほどの暖かな冬が来た。 南の地方では、氷が川を留めることもなく、 連日の雪解け水による増水が河川の氾濫を招いた。 頻繁に雨が降り、草原はぬかるんで広大な沼地となった。 南部での太陽の暖かさは何とも驚くべきことに、ブラツラフ地方では荒野一面が緑の若芽で覆われたのである、十二月中旬にも関わらず。 蜂の群れは巣の中で騒ぎ、野原で牛が鳴いていた。 かくの如く尋常ならざる不自然さは、異常を予期する東部の人達の昂奮した心と目を、特に荒野に向けさせた。 何かが起こるならば、他所よりむしろこの荒野に起こるらしく思われたのだ。 その時、荒野では特に変わったことはなかった。いつも人知れず行われていて、 平野の鷲や鷹、鴉、獣の類のみが知っているような争いの他は、 「戦闘」や「会敵」といったものはなかった。 というのは当時の荒野はそういう状態にあったのである。 定住生活している者たちがいるような痕跡は、 南に向かってはチキリンを越えてドニェベル河の側、又はフマニを越えてそれほど遠くないドニエステル河の側で止まっていた。 そこから先、湾や海に至るまでの間に丁度箱のように 二つの河によって縁どられた草原が続いているだけであった。 ドニェベル河下流沿いではカタラクツ・コサック達の生活が営まれていたが、 開けた平原には誰も住んでいなかった。 ただ、川岸に沿って所々に海に浮かぶ島のようなわずかな土地があるばかりだった。 この土地は名目上はポーランドに属していたが、もともと空き地だったので、 ポーランド連邦はタタール人が家畜を放牧するのを許していた。 だが、コサック兵たちが度々それを退けたので、放牧地はともすれば戦場となった。
どれだけの戦いがあったのか、どれだけの人が倒れたのか、
誰も数えていないし、誰も覚えていない。
その争いを見てきたのは鷲や鷹や鴉だけだった。
遠方から翼の音や鴉の鳴き声を聞き、
鳥たちがとある一つの場所で輪を描いているのを見る者が、その下に屍か曝された骨があるのを悟るのだ。
狼や野生の羊のように人間が狩られていた。
欲望が全ての者を狩りたてた。
法に追われる者は荒れた草原に避難し、
羊飼いは不慣れな武器をまとい、武者は功名を求め、盗賊は略奪をほしいままにし、
コサックはタタール人の屍の山を築き、タタール人はコサックの血の海を泳ぎまわった。
群れをなして襲ってくる人たちから、もう片方が自分の群れを守ることもあった。
草原は空虚であると同時に生命に充たされていた。
静かで危険であり、穏やかであると同時に罠に満ちており、
荒れ野であるがゆえに荒れていたが、人間の荒々しい精神は荒々しさをいや増させた。
時には大きな戦に見舞われることもあった。 タタール人の乗馬隊や、コサックの軍隊や、 ポーランドまたはワラキアの軍旗がそこを寄せては返す波のように流れ歩いた。 夜は馬の嘶きが狼の遠吠えに呼応し、太鼓やラッパの響きがオヴィット島や 海の方まで流れていった。 クチュマンスキーの黒い道に沿って人が溢れかえっていた。 ポーランド共和国の国境は、カメネツからドニエプルまで、 前哨部隊とスタニツァ(コサックの集落)によって守られていた。 道が人で溢れそうになる時、特にタタール人に怯えて北に向かって飛び立つ鳥たちによってそれと知られた。 しかし、タタール人は『黒い森』を通り抜けるか、ワラキア方面からドニエステル河を渡ったりする時には南の地方の鳥と一緒に草原に立つことになるのであった。
しかし、その年の冬には、鳥たちが例年のごとく共和国に向かって 騒々しく飛んでくることはなかった。 大草原をいつにない静けさが覆っていた。 今この物語が始まろうという時、太陽はまさに沈もうとし、その光は 目の及ぶ限り何一つない土地を赤々と照らしていた。 荒野の北の縁、オメルニーク川に沿ってその河口に至るまで、 どんなに鋭い目をもってしても、暗く、乾き、枯れた草原に人影を見つけることはできなかった。 太陽は地平線の向こうから半面を覗かせていた。 空は黒ずみ、草原は徐々に暗くなっていった。 左岸の、丘というより小高い塚のような地には、 かつてテオドリック・ブチャッキが築き、 その後侵攻によって破壊された城壁の見張り台の跡があるだけであった。 その廃れた見張り台の後から長い影が伸びていた。 遠くには、ドニエプル川に向かって流れるオメルニクの水面が輝いていた。 しかし、空にも地上にも、その輝きはどんどん失われていった。 空からはコウノトリが海に向かう音が聞こえる。 あたりの静寂を破る物音は、ただそれだけであった。
夜が荒野に下りて、妖怪変化の跳梁跋扈する時間となった。 スタニツァを警備していたコサックによると、突然の死や罪に倒れた人々の影が夜になると起き上がり、踊りを続けていたそうだ。 それは十字架にも教会にも防げないものだという。 蠟燭の芯が燃え尽き真夜中の時間を示すころになると、 村のあちこちで死者の冥福が祈られたという。 また、荒野を駆ける騎馬の影が、道行く人の道を塞ぎ、 泣き叫びながら聖なる十字架の印を乞うたという。 その中には、喚きながら人を追いかける吸血鬼もいた。 慣れた耳なら、吸血鬼の遠吠えと狼の遠吠えを聞き分けられるかもしれない。 また、広い土地に影の大群が集落の近くまで来て、 見張りが警告を発することもあった。 これは一般に大きな戦争の前触れであった。
このような妖怪に会う事は、どの道、良い兆しとは言えなかった。 しかし、だからといって悪い兆しと決まったものでもない。 生きている人間でも旅人の前に影のように 現れたり消えたりすることがあるので、ややもすればそれが 幽霊と間違われることもよくあったのである。
オメルニク河に夜が訪れるのは早く、 荒れ果てた集落の脇に実際の人間か妖怪かはともかく 何か人間の姿のようなものが現れても何も驚くことではなかった。 ドニエプル川の向こうから出た月が、 荒野とアザミの穂と遠くの草原を白く染めている。 すると間もなく、平原の低地に他の幾人かの朦朧たる姿が現れた。 走るように流れる雲の塊が刻々と月の光を隠し、それらの人の姿は、 夜闇の中で照らし出されたかと思うと、忽ち薄暗くなった。 時には、完全に消えてしまい、闇の中に溶けてしまうようだった。 彼らは最初の一人が立っていた高地のほうに向かって、こっそりと あたりに気を配って、時々立ち止まりながら忍びよった。
彼らの行動には、表面上は穏やかな草原の全体のように、 どこか恐怖ゆえの昂奮があった。 時折、ドニエプル川から吹き付ける風が、 枯れ果てたアザミを悲しげに揺らし、 その葉や枝はまるで怯えたように身を屈めているのだ。 その人影達は廃墟の影に消えていった。 その時、夜の薄明かりの中、 高地に一人の騎者のみが立っているのが見えた。
と、その騎者は、葉擦れの音に注意を引かれた。 彼は高地の端に近づいて草原をじっと見つめ始めた。 その途端に、風は止み、葉擦れの音も止んだ。 辺りは完全に静寂に包まれた。
突然、鋭い口笛が響き、様々な音が交じり合う怖ろしいほどの 混乱の中で、叫び声が上がった。 「アラーよ! アラーよ! 神よ! お助けあれ! 殺してやる!」 マスケット銃の音が響き渡り、赤い閃光が闇を切り裂いた。 馬の足音が鉄の軋む音とともに聞こえた。 新しい騎馬隊が大草原の地表から現れた。 この静かで不吉な荒野に突然嵐が吹き荒れたとでもいうかの如くに。 怖ろしい衝突、男たちのうめき声と叫び声が響き渡り、 やがて静寂に包まれ、争いは終わった。
荒野はその平生の光景に帰ったようだった。
騎手たちは丘の上に幾団にもなって集まり、 数人は馬を降りて何かを注意深く観察していた。 その間に、暗闇の中で力強い声が聞こえてきた。 「前方に火を放て!」 一瞬火花が閃いたかと思うと、やがて枯れ葦や荒野を通る人々が 持つ松の木から炎が燃え上がった。
やがて、松明の棒が地面に打ち込まれ、上からの光が、 地面に倒れて動かない人々の上に屈みこんでいる人々を はっきりと照らし出した。 彼らは赤い軍服に狼の皮の帽子をかぶった兵士たちだった。 その中で、勇壮な馬に乗っているのが隊長らしい。 彼は馬を降りると、倒れている人に近づき、こう尋ねた。 「さて、小隊長、彼はまだ生きているのか、それとももうだめか?」 「生きていますが、喉がゴロゴロ言ってますな。 縄を懸けられて息を詰まらせたのでしょう。」 「一体何者なのか?」 「タタールではありませんな。高貴な家柄の人物でしょう。」 「それは重畳。」 副長は、倒れている男を注意深く眺めた。 「どうやら指揮官のようだな。」 「こいつの馬は素晴らしいタタール馬ですよ。 ハーンでもこれほどの物は持ってないでしょう。」 「あそこに居ります。」 副長は馬を見ると、顔を輝かせた。 二人の兵士が実に素晴らしい馬を連れていた。 馬は耳をせわしなく動かし鼻孔を膨らませながら、 頭を前に出し、怯えた目で彼の主人を見つめた。
「でも馬は私たちのものですよね、副長閣下?」
小隊長が訊ねるように言った。
「罰当たりが!貴様は草原でキリスト教徒の馬を略奪する気か?」
「しかし、あれは我々の戦利品で…」
それ以上の会話は、苦し気な息をしていた男のより危機迫る息遣いで中断された。
「ウォッカを口に流し込め」と副長はベルトを外しながら言った。
「今晩はここに野営でございますか?」
「そうだ。馬の鞍を下ろして良い具合に火を起こせ。」
兵士たちは忙しなく動き出した。 ある者は倒れていた男を起こし、さすり始め、 ある者は焚く葦を探しに行き、 ある者はラクダや熊の皮を地面に敷いて寝床にした。
副長は苦し気な息の見知らぬ男のことはもう気にせず、ベルトを解いて、焚き火のそばのブルカの上に横になった。 彼は非常に若く、痩せた青年で、顔は黒く、非常に上品な物腰で、繊細な顔立ちをしており、鼻筋が通っていた。 その目には、大胆さと忍耐が見えるが、顔からは純朴さがうかがえた。 濃い口髭と、長い間剃っていない顎鬚が、年齢を超えた重みを醸し出している。 その間、彼の従者二人が夕飯の支度をしていた。 羊肉の四つ切りが火の上に置かれ、荷物の中から数羽の野雁と山鶉が取り出された。 係の者が野生のヤギ一頭を、手早く皮を剥いでいる。 火は燃え上がり、草原に巨大な赤々とした光の輪を投げかけた。息絶え絶えの男がゆっくりと息を吹き返し始めた。
しばらく、彼は血走った目で周りの見知らぬ人々を見回し、その顔を確かめた後、立ち上がろうとした。 副長と話をしていた兵士が彼の脇の下を持ち上げ、もう一人が彼が力一杯寄りかかっているハルバートを手で支えた。 彼の顔はまだ紫色で、血管が腫れ上がっていた。 そしてついに、抑えた声で、 「水! 」 という最初の言葉を吐き出した。
彼はウォッカをもらい、それを何度か飲んだ。 どうやらそれが良かったようで、口から瓶を離すと、はっきりした声で尋ねた。
「私は誰に捕まったのだ?」 副隊長は立ち上がり、彼に近づいた。 「君は、君を助けた者のもとにいるのだ。」 「では、私を投げ縄で捕まえたのは貴方達ではないのですか?」
「我々の武器は剣だ、投げ縄ではない。 君は我々の勇敢な兵士を誤解している。 君はタタール人を称する 不逞の輩に捕らえられたのだ。 見たければ見てみるといい。 奴らは羊のように屠られて横たわっている。」
そう言って彼は、高地の下に横たわるいくつもの黒ずんだ死体を指さした。
それに対して見知らぬ男は、
「どうか休ませてもらえないだろうか」
と答えた。
彼らは彼に毛織物で覆われた鞍を持ってきた。
彼は黙ってそれに座った。
彼は男盛りの年配であった。 中背で、肩幅が広く、ほとんど巨人と言っていいような体格で、印象的な顔立ちをしていた。 大きな頭、日焼けして乾燥した顔色、タタール人のようなやや斜めになった黒い目を持っていた。 その薄い唇には、端が房になっている口ひげが生えていた。 力強い顔からは勇気と誇りが感じられる。 そこには人を惹きつけると同時に拒むような、 タタール人の狡猾さ、優しさ、獰猛さを備えた、頭領の威厳があった。
鞍に座ってしばらくすると、彼は立ち上がり、人々の期待に反して、礼を言う代わりに遺体を見に行った。
「なんとも無愛想な奴!」 と副長はつぶやいた。
彼は一人一人の顔を注意深く観察し、全てを察したように頷くと、ゆっくりと副長の方に向き、自分の脇を叩いた。 ベルトを無意識のうちに探しているようだった。
ベルトに、手を通そうとしているのは明らかだった。
絞め殺されようとしているところを助けられた男の尊大さが、若き副長の気分を損ねた。 彼は皮肉交じりにこう言った。
「人は君があの盗人どもの中に知り合いを探しているか、彼らの魂のために祈りを捧げているとか言うかもしれないね」。
「あなたは正しくもあり間違ってもいる。 あなたは正しい、私は知り合いを探していたのだから。 そしてあなたは間違っている、彼らは強盗ではなく、 私の隣人である貴族の召使いなのだから。」
「それなら、その隣人と君はきっと仲が悪いのだろうね。」
その見知らぬ男の薄い唇に不思議な笑みが浮かんだ。
「それが間違いなんだ。」 彼は歯噛みしながら呟いた。 すぐに、彼は聞こえるように付け加えた。 「いやそれよりもまず、不意の死から私を助けてくれた事を、最初に感謝しなかったことをお許し願いたい。 あなたの勇気が私の不注意を挽回してくれました。 私は部下と別れてここに来たのです。 しかし、私の感謝はあなたの善意に比するものです。」
そう言って、彼は副長に手を伸ばした。
しかし、高慢な若者はその場から動かず、慌てて手を差し出そうともせず、代わりにこう言った。
「高貴なものと付き合うなら最初に知っていてもらわねばならぬのだが、―もちろん君がそうであることは疑う余地のないことだが― それでも、名もない人物から礼を受けるのは私のようなものにふさわしくないのだ。」
「騎士としての気概をお持ちのようだ。 あなたの言われる通りですな。 私は名を名乗ってから、何かしゃべるなり、礼を言うなりすべきだった。 私はゼノヴィ・アブダンク。 私の紋地は十字架の附いたアブダンクの紋地です。 キエフの貴族で地主であり、ドミニク・ザスラフスキー公のコサック連隊の隊長を務めています。」
「では、私はヤン・スクシェトゥスキ。
イェレミー・ヴィシュヌエフツキー候爵の装甲連隊の副長です。」
「名の知れた戦士に仕えておられる。 私の感謝と握手をお受けいただきたい。」
副長はもうためらうことはなかった。 実際の所、装甲将校は他の連隊の兵士を見下していた。 しかし、パン・ヤン(パンは英語のMrに相当するポーランド語)は草原、荒野におり、そのようなことはあまり考えなかった。 それに、彼は隊長を相手にしなければならなかった。 その証拠に、兵士たちはパン・アブダンクに、彼を蘇生させるために取ったベルトと剣を持ってくると同時に、コサックの隊長が使う習慣のある、骨の軸と象牙の頭を持つ短い杖も持ってきたのである。 その上、ゼノヴィ・アブダンクの服装は豪華で、教養ある話しぶりから頭の回転が速く、社交的な訓練を受けていることがうかがわれた。
そこでパン・ヤンは彼を夕食に招いた。 ちょうどその時、火にかけた肉の焼ける匂いがして、鼻孔と味覚をくすぐった。 侍従が肉を持って来て皿に盛り付けると、二人は食事に没頭した。 ちょうどいい大きさの山羊の皮袋に入ったモルダヴィアワインが運ばれてくると、たちまち会話が弾みだした。
「お互い無事に帰れるといいですね。」 と、パン・ヤンは言った。
「では、家に帰られるのですね。失礼ですが何処からですか?」 とアブダンクが訊ねた。
「クリミアからの長旅です。」
「クリミアにはどういう御用で?賠償金をを持って行かれたのですか?」
「いいえ、隊長殿。私はカーンに会いに行ったのです。」
アブダンクは訝しげに耳を傾けた。 「そうなのですか? 歓待されましたでしょうか? カーンにはどのような用件で?」
「私はイェレミ候からの手紙を 持って行ったのです。」
「あなたは全権大使というわけですね! 候はカーンに何を書き送ったのでしょうか?」
副長は鋭く彼の話し相手に目を向けた。
「…隊長殿、あなたは投げ縄であなたを捕らえた暴漢どもの目つきを探られたことでしょう。 それはあなたに関係のあることだからそれでいいのです。 しかし、候がカーンに送った手紙は、私やあなたの関係するところではありません。」
「少し前までは、侯爵殿下がこのような若者をカーンに送るか怪しんでいました。 しかし、あなたの答えを聞いて、もう驚かないことにしました。 あなたは年は若いですが、経験と機知に富んでいるようです。」
副長はその流ちょうなお世辞をうのみにし、若々しい口ひげをひねって、こう尋ねた。 「さて、こんどはあなたがどのような御用でオメルニク河にいらしたのか、どうやってここへただ一人で来られたのかお話しください。」
「いや、一人ではありません。部下を途中で残してきたのです。私は今クダークのパン・グロジツキーに会いに行く途中なのです。 彼はそこで指揮を執っているのですが、そこに総首長の手紙を運ばねばならないのです。」
「なぜ水路でいかなかったのですか?」
「命令に従ったまでです。」
「総首長がそのような命を下すとは奇妙ですね。 現にあなたは水路をいけば避けられたであろう危険に陥ったのですし。」
「ああ、草原も今となっては静かですね。
彼等との因縁も昨日今日始まったものではありません。
人間の悪意と憎悪が私を襲ったのです。」
「誰があなたを襲ったのですか?」
「長い話になります。 悪しき隣人が、 副長殿、 私の財産を破壊し、土地から追い出し、私の息子を殺し、 さらに、ご覧のように、私たちが座っている場所で私の命を狙ったのです。」
「しかし、あなたは剣を携えていなかったのですか?」
アブダンクの烈しさに満ちた顔には憎悪の光が宿り、その目が不機嫌そうに睨んでいた。 彼は静かに、言葉に力を込めて答えた。
「持っていましたよ。 おお神よ、敵に対しては他に手段はありません。」
副長が何か言おうとしたとき、突然、草原で馬の足音が、いや、柔らかい草の上で馬の足を急ぎ足で叩きつける音が聞こえた。
その時、見張りをしていた副長の従者が、
「何ものかが近づいています!」
と急ぎ足で知らせに来た。
「あれは――」
アブダンクは言った。
「きっと、私がタスミナ河の向こうに残してきた部下たちです。」 やがて騎馬の群れが高台の前に半円を描いた。 焚き火の光に照らされた馬の頭は、鼻の穴が開き、息を切らし、その上には、前屈みで火の粉から目を守り、光の方を熱心に見つめる騎手の顔が見える。
「おい!誰だ?」
とアブダンクが尋ねると、
「神のしもべであります。」
と闇の中から声がした。
「思ったとおりだ、私の部下だ。」 アブダンクはそう言って、副長に向き直った。
「こっちだ!」
何人かが馬を降りて、火のそばに寄った。
「ああ、本当に急ぎましたよ、
しかし、何があったのでございますか?」
「待ち伏せされたのだ。裏切り者のフベドコは、私がここに来ることを知り、他の者とともにここに潜んでいたのだ。奴は事前に到着していたのだろう。 投げ縄で俺を捕まえやがった。」
「おお、おお、神よ!このポーランド人達は何者ですか?」
そう言って、パン・スクシェトゥスキとその仲間を威嚇するよう見た。
「親切な友だ。」
とアブダンクは言った。
「神に栄光あれ! 私は生きていて、調子も悪くない。すぐに出発しよう。」 「神に栄光あれ!準備はできています」
新しく到着した者たちは、火の上で手を温め始めた。 晴れていたとしても、夜は涼しかったためである。 頑丈で武装もしっかりしていた兵士が、40人ほどいた。 彼らはどう見ても、軍籍にあるコサックには見えなかった。 その人数が通常考えられるよりも多いので、パン・スクシェトゥスキは少なからず驚いた。 全てが疑わしかった。 もし総首長がアブダンクをクダークに派遣したのなら、軍籍にあるコサックからなる護衛がついているはずである。 次になぜ水路を行かず、チギリンから草原を通って行くよう命じたのか。 荒野からドニエプルまで流れる川をすべて渡らなければならないのでは、旅が遅れるばかりだ。 むしろアブダンクはクダークを避けたがっているように見えた。
その振る舞いにみられる、アブダンクの人柄が若い副長をを大いに驚かせた。隊長を知っているコサック人たちは気安さとは対照的に、彼がまるで本当の総首長であるかのように、異常なほどの尊敬の念を持って接していることに、彼はすぐに気がついた。 ドニエプル川の両岸のウクライナを知るスクシェトゥスキにとって、彼は重要な人物に違いなかったが、高位であろうアブダンクの話を聞いたことがないのが最も不思議であった。 その上、この男の顔には何か独特のものがあった。 炎から出る熱のように顔から吹き出るある種の不思議な力、この男はいかなる人、いかなるものの前にも退かないと宣言する、ある種の屈強な意志があった。 そのような意志は、ヴィシュニェヴェツキー候の顔にもあった。 しかし、そのような意志は、高貴な生まれと地位のために生まれつき備わっているもので、草原をさまよう名も知らぬ人間の中に見出されたら、人を驚かせるのだ。
パン・スクシェトゥスキは長い間考えに耽った。 彼は、この男は法に触れて荒野さまよっている力ある無法者か、あるいは盗賊どもの頭目かもしれないと思った。 しかし、後者ではなさそうだった。 しかし、この男の服装と話しぶりからは、何か別のものが感じられる。 副長は、どのような行動をとればよいのか、まったくわからなくなってしまった。 彼はただ警戒を続けた。 その間にアブダンクは馬に命じた。
「副長、そろそろ行くべき道を行く時のようです。 助けてくれたことに改めてお礼を言わせてください。 神よ、あなたに同じように報いることができますように。」
「誰を助けたかわからないのだから、感謝される筋合いもないでしょう。」
「あなたの慎み深さはは、あなたの勇気と等しい価値を持っていますね。 この指輪を受け取ってください。」
副長は顔をしかめて、一歩下がってアブダンクをその目で見定めようとした。 だがアブダンクの声と態度はほとんど父親のような威厳をもって、こう続けた。
「見なさい、私があなたに与えるのは、この指輪の高価さではない価値です。 まだ若い頃、異教徒の間で捕虜になっていたとき、聖地から帰ってきた巡礼者からこれをもらいました。 これには、キリストの墓の土が入れられています。 このような贈り物は、たとえそれが罪あるものの手から来たものであっても、拒むことはできないでしょう。 あなたはまだ若く、これからも戦地を寝床とすることでしょう。 墓に片足を突っ込んでいる年寄りも、最後の時まで何が襲ってくるかかわからないのですから、長い人生を前にした若者には、多くの危険が降りかかってくることでしょう。この指輪はあなたを災難から防ぎ、審判の日が来たときにあなたを守ってくれるでしょう。 そのような日は今、荒野の道の上にさえあるかもしれません。」
沈黙が続いた。 火のパチパチと馬の鼻を鳴らす音のみが聞こえていた。 遠くの藪から狼の物凄い遠吠えが聞こえてきた。 不意にアブダンクは、自分自身に言い聞かせるように、再び繰り返した。
「裁きの日はすでに荒野の道の上にあり、それが来れば神の世界にとっての夜明けとなる。」
副長は機械的に指輪を取った。 それほどこの奇妙な男の言葉に驚かされたのだ。 しかし、男は草原の暗い彼方を見ていた。 そして、ゆっくりと振り返り、馬に乗った。 コサックたちは高台のふもとで待っていた。
「前進!前進!」 「御機嫌よう、我が勇敢なる友よ!」 彼は副長に言った。 「今は兄が弟を信用できない時代だ。 そのため、あなたは誰を助けたのか知らないのです。 私はあなたに我が名を教えなかったのだから。」
「では、あなたはアブダンクではないのですね?」
「それは私の紋章の名前です。」
「では、あなたの名は?」
「ボグダン・ゼノヴィ・フメルニツキ。」
彼はそう言い放つと、高台から駆け下り、 コサックたちが後を追った。
やがて彼らは霧と夜の中に隠れてしまった。
半ハロンほど進んだところで、コサックの歌の歌詞が風に乗って戻ってきた。
「神よ、我らを導きたまえ、哀れな虜 重い束縛から 異教徒の信仰から 明るい夜明けへ 静かな水辺へ 楽しい土地へ キリスト教の世界へ 神よ、祈りを聞き給え。 不幸な者たちの祈りを 哀れな虜の祈りを
その声は次第に弱くなり、やがて葦藪の間を通り抜ける風の音に溶けていった。
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