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続神皇正統記

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第九十六代。光嚴院。諱は量仁。後伏見九十二代院第一御子。御母は廣義門院寧子、入道左大臣公衡の女也。壬申元弘二の年卽位。改元して正慶元年とす。同二年六月、後醍酬九十五代院御入洛の事によりて、主上は御位を退き、東國のかたへ幸す。兩院後伏見花園をもともなひ申さる。但程なく還幸。十二月尊號を献ぜらる。詔書に皇大子今避儲位於青闈之月、伴仙遊於射岫之雲之文章を載られけるとかや。されども中二年ばかりして、後醍醐院又御沒落ありしかば、光明院御位につかせ給て、天下もおちしづまる體にぞわたらせ給ふ。院中にても文殿の沙汰嚴密にして、儉約の制なども世に行はれ、山門南都にさへ嚴制を下されけるとぞ。康永光明元年九月六日、仙洞特明院殿より伏見殿に御幸有。還御の時、五條東洞院にて、騎馬の武士兩三輩まいりあひけり。召次御牛飼などはしりむかひ、御幸なるぞ下馬せよと誡仰たりしに、承引せず。恐るゝ儀もなく狼藉にをよび、御車に矢を射かけてにげさりぬ。前代未聞の所行にこそ。さてこと訖て無爲に還幸なりぬ。後車竹林院大納言公重卿、諸大夫の馬をめし寄て乗用供奉あり。彼狼藉人後日にあらはれて、誅戮せられぬる。天命にぞ侍る。勸應崇光三年八幡にうつし奉り、又賀名生に還御。河内の行宮にして御落餝。禪衣を着御後には丹波國山國といふ所にて御修行。五十二歳おはしき。抑此記は北畠准后親房卿〈當朝までも准后の號ゆるされしなり。〉南朝の寵臣として録出せり。後村上天皇、諱は義良、第九十六代第五十世云々。これは南方僞主の御事にて、當朝日嗣には加奉らず。而今此御宇をぞ、治天再興の主とは申奉らるべき。五行大義といふ書に、若人君遠賢良讒佞。殺忠諫法律。疎骨肉罪人。廢嫡立庶。則焚宗庿宮室于民居云々。後嵯峨院御正嫡の御流として、誠に神皇正統の正理に歸し、此記の名目自然の道にかなひ侍る御事よと、ふしぎにも奇特にも侍るかな。

第九十七代。後醍醐院重祚。正慶二年六月、内裏富小路殿に還幸。皇位に復しまします。正慶の號を止、なを元弘三年とす。これより建武にうつり、又延元に改元す。官位も以前の儀をば停廢せらる。五月廿七日、東軍襲來間、俄又山門に臨幸。十一月二日尊號を献ぜらる。齋明稱德の例にまかせて、重祚を代數に載奉らしむ。九十七代とや申侍らん。

第九十八代。光明院。諱は豐仁。後伏見第二御子。光嚴院御猶子也。御母廣義門院。丁丑建武四の年卽位。勢州路次通ぜざるによりて、今度由奉幣を行れず。これは御卽位の由を太神宮に告申さるゝ儀なり。停止せられぬる事、神慮難計し。戊寅改元、暦應とす。又以前の延元號をばもちひられず。建武号よりぞ暦應にはうつり侍る。記録所法度をさだめ置れ、估價の直法なども遵行せられはべり。天下を治給事十二年、尊号例のごとし。御落餝ありて所々御修行、六十歳、おましましき。

第九十九代。崇光院。諱は興仁。〈益後改興。〉光嚴院第一皇子。御母陽祿秀子門院。内大臣公秀女也。己丑貞和五の年卽位。庚寅改元、觀應とす。南風のきおひによりて、同二年八月俄内裏土御門殿より持明院殿に行幸。内侍所同渡御。主上春宮直仁本院光嚴御同宿とかや。新院光明は廣義門院の御所にぞまします。此ころ神宮より、外宮寶殿鳴動して、虛空に轡のみづゝきのをとする事半時ばかりなり。同日荒祭宮より鏑矢乾のかたへ出。又外宮よりも神鏑西をさして出よし注進す。ふしぎ也ける事どもなり。恐怖の處に、南朝御合體の事武家申行はるゝむね有て、元弘天下一統のごとく、每事聖斷たるべきよし治定して、南朝の年号正平六年をもちひられ、官位も同南主の御はからひにぞ成侍る。三種神器も南方頭中將興忠朝臣上洛して請取奉り、賀名生山中に渡御あり。仍於南朝尊号を献ぜらる。さても今度打つゞき天下擾亂によりて、御禊も俄に停止せられ、大嘗會も取行はれぬ事こそ、帝闕の初例無念に侍れ。淸寧廿三代天皇二年十一月、依大嘗會供奉料遣播磨國司といふ事あり。此會の濫觴にや。天武四十代天皇白鳳よりこのかたは、綿々として于今不絶。一代一度の重事これを大祀と云。神國無双の大事は大嘗會也。大嘗會の大事は神膳なり。まづ廻立殿に行幸ありて、御陽殿の儀式も甚深きゆへある事にや。悠紀主基の神殿には神膳を儲、太神宮勸請申されて、御みづからまつりたまふ御 事なり。御代の始には、此大儀をとげられてぞ、神鑑もいつくしく公道もおさまる心地し侍るに、空く被閣ぬる、凡慮難及事にや。陰陽師國弘朝臣此御宇には大祀令行給ふべからざる由申たりし。已に十月、御禊前日にいたりて、此上は子細に及べからざるかのよし、人の落合けるに、都て遵行あるべからず。是ほど治定。已に中二日なり。誠にふしぎのよし申けるが、俄に停止あり。國弘いかなる故ありてか申侍る。道の才學のほども奇特にこそ。同三年閏二月八幡に幸す。兩院〈光嚴・光明〉をも被伴申。あさましかりし事どもなり。延文二年二月十八日、伏見仙居にうつり給、明德に御落餝。六十五歳おましき。

第百代。後光嚴院。諱は彌仁。光嚴院第二御子。新院崇光同母の御弟なり。踐祚の日、三種灵寶渡御なき事、繼體天皇の佳躅を尋て被准擬侍とかや。當日の儀は壽永後鳥羽仁治後嵯峨等の例を模せられ侍り。寶劒不御座事は壽永初例にや。此度太上天皇後白河の詔宣にて其儀を被行。元弘光嚴建武光明兩度も彼例を被守侍り。このたびは上皇外都にましますによりて、宣令制作に不及。仍上古渺焉の蹤跡を追て被遂行侍り。内侍所御辛櫃、佐女牛若宮寶殿に置れけるを、今夜密々に内裡に渡入奉る。如在の禮奠に擬せられ侍にや。當年勸應三壬辰六月廿七日、正平一旦の儀を止て、每事觀應の御沙汰を被用之由、武家より御奏聞。九月廿七日、勸應三年を改て文和元年とす。発巳年卽位。抑此君御位の事、并女院廣義門院御政務事、大樹尊氏頻に執申されけるに、女院御固辭、都て不叶之由被仰ければ、本院以下山中に御座之間、彼御ため御讎たるよし、ふかく思召入ける故とぞ、大樹執柄へも申談られけり。壽永度灵寶の歸座をまたず、踐祚あるべきや否、後白河院月輪の殿下兼實〈時に右府。〉に訪仰られし時、御返事に踐祚に三種寶物を不渡事、繼體天皇御例不有、異儀の旨計申されき。又近衞院七十六代御晏駕時、いづれの皇子をもて帝位には定申さるべきやのよし、鳥羽院法性寺忠通に勅問の時、はからひ申がたき由再三御辭退ありけるに、五度にいたりて責申されて、太神宮の御計と存べし。抂て計承べき旨仰られし。其時力なく四宮〈後白河院。〉御座の上はと御返事あり。就其て後白河院踐祚ありき。其跡を追て、壽永の度後白河院月輪殿に勅問の時、御辭退ありて、久壽後白河の儀は宿老の賢才にして、遁所なきによりて、所存を申さる。それをなを數度固辭あり。今度更以計申がたき旨申切られ畢。いまいづれの宮をもて御位に備奉べき哉のよし、攝家をはじめて尋申べき旨武家評儀あり。已先賢所存かくのごとし。誰人か是非におよぶべきやにて、なを數度女院に申入られたるにぞ、御領納の儀まして、御位にはつかせ給ふ。日ごろは妙法院門跡に御入室あるべきにて、日次などもさだまりしが、自然に延引して、いま天位に備まします事、奇特にぞ侍る。さても文和二年に南方軍勢猛將如雲、謀臣如雨とやいふべき、八幡山よりみだれ入間、六月二日延暦寺に臨幸。これより濃洲に御下向あり。雖然ほどなく又敵軍沒落す。大樹、同相公羽林義敎還幸の事申沙汰ありて、九月廿一日には御京着。前陣に武家相公羽林、後陣に大樹供奉し給て、嚴重の御儀式にてぞわたらせ給ひける。九月還幸事、いかゞと御猶豫ありて、たづね仰られしに、元正天皇四十四代濃州より九月帝都に還幸例、量實勘進せしむ。叡感抽賞の儀ありとぞ。道の規模にや侍らん。此後も及騒亂によりて、江州行幸度々に及といへども、つゐに此御宇よりぞ、天下もおさまり万民の心もしづまり侍る。爰貞治六年最勝講第二日、南都北嶺衆從喧嘩事出來て、堂上血をながし、被疵者五十餘人、損命の者も數輩にをよぶ。著座公卿以下諸司公人にいたるまで、恙なき事こそ高運ふしぎには侍れ。翌日より又被行とかや。御讓位の後も院中は猶御治世とぞ。尊號例のごとし、卅七歳おましき。

第百一代、後圓融院。諱は緒仁。後光嚴院第一御子。御母崇賢仲子門院。贈左大臣兼網女也。甲寅年卽位。乙卯改元、永和とす。天下を治給事安泰にして、尊号例のごとし。院中にても暫御政務あり。卅六歳おましき。

第百二代。後小松院。諱は幹仁。後圓融院第一御子。御母通陽嚴子門院。内大臣公忠女也。壬戌年卽位。甲子改元、至德元年とす。山名陸奥守氏淸といふ者、謀叛を企て、八幡より洛中へ攻入しを、大樹義滿御出陣ありて諸軍をさし向られしかば、内野合戦不踵、一色修理大夫が手にして氏淸はうたれぬ。卽日に靜謐し侍り。しかのみならず、諸國の逆亂もありしが退治、ほどなく四海の風波もしづまり侍る。明德三年大樹申沙汰にて、南方御和睦の事あり。三種神器歸座あるべき御はかりごとにこそ。元暦後鳥羽内侍所西海より渡御の例にまかせらる。日野中納言資敎卿大納言に任じて申沙汰し、十月廿五日陣にて日時を被勘。閏十月二日、南主夜に入て御入洛。直に嵯峨大覺寺に渡御。倂主上行幸の儀にてぞまします。御引直衣、腰興に駕。御駕輿丁、御輿長なども沙汰し献ぜらる。去月廿八日、南山御所を出給て、奈良を經まして、けふ二日御京著。供奉人大畧戎衣鎧直垂也。關白師嗣殿とかやは御直衣也。内侍所御先行。今日片時の御行粧ながら、當朝兩主の御威儀こそめづらかなる御事にて侍れ。同三日陣定にて、同五日三種灵寶内裏土御門殿に渡御。嚴重の御儀式にてぞまします。今度御合躰の事、宥申さるゝ旨御契諾の儀もありけるにや。とまれかくまれ靈寶御歸座、まことに聖代のしるしもあらはれ、万歳の寶祚は彌御たのもしうぞ侍る。應永八年、皇居土御門殿炎上。卽室町殿に行幸。火の事は佛在世にもためしあれば、聖代にかゝはらぬ事にこそ侍れ。翌年新造の内裏に迁幸。天下を治給事卅餘年。尊号例のごとし。此御宇までは記録所の沙汰も被行侍るとかや。御讓位以後も、なを院中にして御政務とぞ。永享二年御得度あり。五十二歳おましき。

第百三代。稱光院。諱は實仁〈躬後改實。〉後小松院第一御子。御母光範資子門院。贈左大臣資國女也。甲午應永廿一の年卽位。代のはじめの 改元に不及。天下を治給事十六年。廿八歳おましき。

第百四代。後花園院。諱は彦仁。後小松院御猶子。實は後崇光院〈文安に太上天皇の尊号宣下有。無登極儀して尊号例、兩三度には不過儀か。〉御子。御母敷政幸子門院。贈左大臣經有女也。己酉の年卽位。令度改元永享とす。嘉吉辛酉の年、赤松滿祐法師〈法名性眞。〉私宅にして、大樹義敎左相府御事あり。性眞が陰謀のいたす所也。則播磨國に引こもりけるを、治罸の綸命をくだし、諸軍勢をさしつかはされしかば、誅伐せしめ、山名兵部少輔とかや賊首をとりて京上す。陣宣下ありて撿非違使に仰て請取しめ、大路をわたし獄所にかけられ侍り。凡辛酉年は昔より凶年にて、革令にあたるなり。諸道勘文などをもめして仗議あり。每度改元も侍るにや。北野聖廟すら此年の難をばのがれ給はねば、後代にしめされむためにや。カをよばぬ事にぞ侍る。同三年九月廿三日。今夜凶族等内裏に乱入て、一手は淸涼殿にのほり、一手は局町より攻入て放火せしむ。長刀を持たる者玉躰を危奉らむとせしが、目もくらみけるやらん、をどりのきてころびたりしひま、のがれ出給ふとかや。密々近衞前殿下忠嗣の第に行幸。劒璽は凶徒奪とりたてまつる。内侍所御辛櫃は東門役人佐々木黑田とり出し奉る。これより凶徒は山門に取上て子細を牒送す。南方宮を取立申儀也云々。〈此宮は萬 壽寺僧。〉東洞院一位入道くみし侍しぞあさましき。其子右大辨相公は曾存知せざるよしを陳じ申けれども、つゐにうしなはれぬ。山上には衆徒使節等各馳向あひだ、宮以下或はうたれ、或は自害すとぞ。ふしぎなりし事也。寶剣はやがて淸水寺の傍に捨置しを、心月坊といふ寺僧ひろひとりて進けり。恩賞侍にや。さて去廿三日夜、太神宮櫪御馬、御厩を出で懸まはり、汗をながし鞍をしくあとありて、又御廐に歸入給ふ由次第奏狀到來。凶徒參入の夜の事也。神宮御まぼりのほども、いよあらたにこそ侍れ。康正二年一條東洞院御所より新造内裏土御門殿に迁幸、其後神璽は赤松以下輩が良籌にて、吉野の奥より長祿二年内裏に渡御。このたびも明德の例を守られ侍るとなり。三種の御事は以前ところにくはしくみえ侍る。但寶劒は海底に威をかくし、神鏡は火中に形をあらはす。玉璽のみぞ神代よりすべてさはりもなく儼然と傳り侍る。いまにおきては三種兼備して、萬代の御まぼりもかひある心地し侍る。一人慶あれば兆民頼之といへり。諸國も穏にして、天下を治給ふ事卅餘年。文武四十二代天皇以後はたぐひなき寶祚の延長にてぞまします。爰に近比民屋卑賤、市鄽の商人にても驕の姿ぞ過分に侍る。以綾羅身装。以紅紫褻服。上下の差別なきに似たり。孝經注に、服身之表也。尊卑貴賤各有等差。故賤服貴服之僭上。僭上爲不忠と云り。天聽に及び武聞に達せざる故とぞ。自然の奢も乱世の基と覺侍る。法令の外にも代々制府を降て法度を被定にや。宴遊饗饌の制は天平寶字の勅に見え、美麗衣服の制は神護景雲の格にはじまる。往昔なをかくのごとし。澆季何ぞ差なからんや。近くは元亨貞和に至りて條々嚴制を置かる。武家も貞治應安の頃迄は儉約の御法ありとぞ。累代の文書を携て先規の是非を辨申べき成業の家々、さすがにいまも侍らんずるに、上として尋被仰ず、下として諫申さゞる、ほいなき事にこそ侍れ。禪讓の後は院中御治世とぞ。尊号例のごとし。應仁元年世のみだれ出來て、八月に主上を伴申されて、室町殿に臨幸。九月御得度あり。五十二歲おまましき。御追号は後文德院と撰申しを、後日後花園院と改号奉らる。顯德院を後鳥羽院とあらためらるゝ御例也。

當今。


神皇正統記。至
後醍醐院之。全部也。
光嚴院以來繼嗣奉加載之。爲老後之忘氣也。匪敢爲續集矣。
                小槻宿禰[判]
文明三年四月

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