私の履歴書/村松梢風

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一、性の目覚め[編集]

男が女を知るとなると、だいぶ後のこととなるが、ただの性の発芽なれば、ごく幼い時からあるもので、ある人は四、五歳からと言い、ある人は五、六歳からと書いてあるものがある。私自身は何歳くらいからであったか覚えていないが、下婢に負ぶわれて夏の夜の暗いところを行くと村の若者が立っていて、下婢がその男と立ち話しをしているので、私は男を憎んだ記憶がある。またその下婢の髪の匂いや体温が快くて、下婢に負ぶわれて出ることを喜んだ記憶がある。おぶってもらうからには、そう大きくはないはずである。その下婢がどんな女であったかということは全然記憶にない。

私が生まれた土地は地方の純農村であって、今から半世紀以上前の日本の農村は、極端に封建的であったと同時に、おしなべて風紀が乱れていたものである。よほどしつけのよい家でないと若い娘の貞操を保持することはできなかった。秋や夏の祭礼、とくに旧七月の盆まつりの時は、村々の青年子女が夜通し浮かれ歩いて、そこら中の草原でも、河原でも、一大野合場と化してしまうのが普通であった。そういう農村に生まれた子供がどうしても早く性に目覚めるのは当然である。

もちろん小学校へ上がらない時分、近所の女の子と遊ぶのが楽しかった。それも表でまりをついたりお手玉をとるのではなく、座敷の向うの小暗い縁がわだの、戸外ならワラの風除けの中などで、コソコソ遊ぶのだ。異性の魅力というものがたしかにあった。

その時分、私の家に女の居候がいた。何という名の人だったか忘れてしまった。私は時々この女の人と一緒に寝た。どういうわけでその女と一緒に寝たかと考えてみると、多分、三歳までは私は母と一緒に寝た。三歳の終りか四歳の初めごろ私の弟が生まれた(この弟は三歳の時小川へ落ちて死んでしまった)、弟が生まれると私は父の寝床へ移されたものらしい。その時代の農家の生活の習慣として子供はかなり大きくなるまで親と一緒に寝たもので、四つ五つで別の床を敷いて寝るということは少なかった。それだけ生活も質素だったといえる。ところが父としては、もう相当大きくなった子供を抱いて寝るのはうるさいので、ちょうどよく表座敷の方に寝ている居候の女に私を押しつけたものと思われる。

私はその女の人がどんな顔だったか、年がいくつだったか知らないが、あとで話すような事情で出戻りの女で、年もまだ若かったはずである。顔や手が桜色であった記憶がかすかに残り、今考えると多分美しい女であったに相違ないと想像されるのである。

それはとにかくとして、私はその女の人と寝ることが大層好きであったことを覚えている。女の人に抱かれて、その人の股の間へ自分の足をはさんでもらって寝る快感は、これまで両親と一緒に寝た感じとは全く違ったもので、そこには明らかに異性があった。近所の女の子供とも違っていた。

二、小学一年生[編集]

ずっと後になって知ったことだけれども、その女の人は、一度よそへ嫁いだが、そこで不義をしたので、夫は怒って女の髪の毛を切ってしまって離縁した。女は里方へも帰れないので、髪がのびるまで私の家に居候に来ていたという身の上であったそうだ。私はその女の人がどれくらいの期間、私の家にいたか記憶がない。

幼児の性の思い出はもっとたくさんあるはずだと思うが私は思い出せない。なまなか物心がついて来ると、好きな相手はできるが、そうなるともう恋愛であって、不思議に性的でなくなる。私の履歴書も一足とびに尋常一年生数え年七歳へ飛ぶ。

同じ一年生の女の子に好きなのがいた。ふみとかいう名だった。この子は村でも一、二の金持ちの分家の娘で、分家だけれどもその時分は家のくらしも悪くなかったのだろう。服装もほかの子供よりよかったようだ。丸い可愛い顔で頭はいつもお煙草盆(たばこぼん)というのにしていた。その時代はもちろん男女共学制ではないが、尋常小学では男の子と女の子と机を並べるのが普通であった。私は授業中にもふみという子の方ばかり見ていたが、それがために先生にしかられた記憶はない。相手の女の子の方でも私を好きで、放課時間に二人でよく遊んだものだ。すると便所の羽目板へだれか白墨(はくぼく)で私と女の子のことを楽書したものがあった。それから私と女の子がそばへよると皆なで手をたたいてはやした。私はべつだん恥しいとも思わなかったが、私の姉の友だちで私より三つも年上の女の人が私をそっと呼んで

「義ちゃん、あの子とあんまり遊ばない方がいいよ」

とやさしく諭してくれたことを覚えている。私はそんなにその女の子が好きだったが、顔を合わせるのは学校にいる時だけで、私の家と女の子の家は大変離れていたから、それ以上親しくなることはできなかった。そのうちに女の子の家はどこか遠い市へ移住してしまったので、せっかくの私の恋の芽生えもそれきりむざんに摘み取られてしまった。

しかしこの女性をそれっきり見なかったわけではない。それから三四年経って、私が一里も離れた町の高等小学校へ通うころになってからのこと、ある日私は学校の帰りに、ふみというその女の子が、県道を人力車に乗って来るのに出会ったことがある。もう大きくなって、都会で暮している彼女は、目の覚めるような華美な服装で、人力車の上でコーモリがさをさしていた。頭にもビラビラをつけ、むろんお煙草盆などではなかった。相変らずの村童である私はひけ目を感じて道を避けて見送ったものであった。

ところがこの女性とは遥か後年になってまた逢ったことがある。その時は村の駄菓子屋の女房になっていた。それはどう眺めても昔の面影はなかった。女は境遇次第でどうでも変るものである。その後も同じような例を私はいくつも見た。そのたびに、女というものは悲しいものだと、哀れを催すような気持ちにならずにはいられない。

三、高等小学校[編集]

町の高等小学校は、男生徒と女生徒と教室が別棟(むね)になっていて、運動場も別だった。もっとも男の運動場は広かったが、女の方はせまくて、ほんの追い羽根やまりつきでもやれる程度だった。

その町に有名なお医者さんがあった。このお医者さんは当時田舎ではごく珍しい医学士であった。その時代の医学士は今の博士どころではなかった。このお医者さんに一つ違いの姉妹の娘があって、どちらも高等小学へ来ていたが、姉は私より一年上、妹の方は同学年だった。姉妹そろって非常な美人であった。昔の高等小学の生徒は、ことに女は、もう単なる子供ではなく、美人という言葉が十分にあてはまる年ごろなのであって、また、姉妹は女学校へ行くようになると、ますます美人になったのだから間違いのない話である。

そのころ、町のいい家の女の子たちは稚児輪(ちごわ)という牛若丸のような髪を結っていた。上品な髪であった。田舎では男も女もはかまをはく習慣はなかったし、むろん制服だの洋服だのは見たくてもなかった時代、女生徒は長い袖の着物を着ていた。

私はこの姉妹に猛烈な恋をした。二人同時に恋したのであって、姉の方は丸顔で色が白く顔色がすべすべしていた。妹の方はやや長めの顔で色は桜色をしていたが、眼の切れも長かった。あまりよく似ていないところを見ると母親は違うのかもしれなかった。私は初めはどっちというわけでもなく恋したのだが、それではあまりたよりがないので、いつの間にか妹の方にきめたのだった。しかしもうここでは、側へ行くの話しをするのというわけにはいかない。ただ遠くから眺めているだけだ。

一度こんなことがあった。女の生徒がそとで追い羽根をしている時、妹の羽根が横へそれて私たち二年生の教室の窓から飛び込んで来た。その時たった一人教室に入って女生徒の羽根突きを見ていた私は急いでそれを拾って自分の机の中へ隠してしまった。しばらくすると女生徒受持のほおひげをはやした恐い先生が入って来て「今ここへ羽根が入って来やせんか」ときいた。その時は五、六人いたが皆「知りません」と答えた。すると先生は机の蓋(ふた)を一つ一つあけていった。私の机の中から出てきた。私は叱られることを覚悟していると、先生はニタッと笑って羽根を持って出ていった。

その当時の私が、恋だの情事だのについてどの程度の知識を持っていたかというと、男女の情交については実際にはなんの経験もなかったが、恋ということはすでに十分知っており、情交ということも知識の上でだけは十分に知っていた。もし機会が与えられたなら情交も満足に果し得たろうと想像する。その当時の私の愛読書は「人情世界」という雑誌だった。その雑誌には稲妻強盗坂本慶次郎の伝記が連載されていて、強盗殺人はもとより、女の手を縛って強かんする場面などもことこまかに出ていた。私はそれを熟読した。

四、中学校[編集]

私は高等小学に三年までいたが、その間、お医者さんの姉妹に対する恋は相手に伝える方法もなかった。しかし私がどんなに強く恋していたかということは、次のエピソードでも知れるであろう。

ある日、私は学校から帰って来る道で雨が降り出した。私は雨具の用意がなかったのでビショビショぬれながらぞうりばきで急ぎ足に歩いて来た。村の中ほどに、県道の脇に木の鳥居が建っていた。それはコンピラ様へ行く道の鳥居であった。その鳥居の側まで行った時、気がつくと、私の前の方を、蛇の目のカサをさし、高足駄をはいて、紅い帯をしめた女が歩いて行くのが見えた。私は本能的に何かを感じたが、急いで近付くと、女はふいに立ちどまって私の方を振り向いた。お医者さんの姉妹の妹の方だった。町のお医者さんの娘が、こんな所を一人で歩いている道理はないのだが私はそんなことは考えなかった。娘はだまって私をカサの中へ入れてくれた-そのとたんに私は目がさめた。

いまのは夢だったと分かってからも、私のうれしさは消えなかった。思い返してみても、あんなに嬉しいことは一生涯のうちにもめったにない。

この姉妹は県庁所在地の県立女学校へいった。私も同じ市の県立中学へいった。そして時々見かけることはあったが、なんらの発展もなかった。そして二人とも卒業するとりっぱな所へ嫁入りしてしまった。中学三年の年に私はとうとう異性をしってしまった。相手は私の家に居候(昔は居候ということがよくあった)をしていた親類の私より年上の娘であったが、その間に何の恋愛もあったわけではない。同じ所に寝起きしていたために衝動的に起ったことだが、本当には関係するまでに立ち至らぬ先に私ひとりで性欲の満足を果したという方が当っていた。そしてそれはむしろ不愉快なくらいの出来事であったにもかかわらず、性の快感はその後に経験したことがないくらいだった。童貞を破る瞬間というものは実に大したものである。これは女性の場合にもあてはまることだかもしれない。

昔の中学生ともなればある意味で立派な男である。私がいた素人下宿の二階の私の所へ近所の女の子が二人連れでよく遊びに来た。小学校の生徒だった。一人は検事正の娘で、もう一人は私の郷里の同村の豪家の主人であったのが当時は没落して、その近所にしがなく暮していた。その家の娘であることが途中で分った。おかっぱ頭の子供であったが、どちらも美しかった。特に検事正の娘は美人だった。子供だけれどやはり私を好きで遊びに来るのであった。豪農の娘については後日談があるが、私がその下宿を移ってしまったので、二人の娘との縁も切れてしまった。引っ越してからも私は検事正の娘に逢いたくてよくその辺をうろついたものである。その娘などもどうなったことであろうか。

五、処女作[編集]

私の履歴書はどうやら恋愛履歴書になりそうである。どうせ人生の長丁場を三十枚には書き切れない。恋愛履歴書だって本当に書く気になれば、三十枚はおろか三百枚でもあるいは三千枚でも書き切れないかもしれない。

中学三年くらいの時である。多分暑中休暇で帰省している時、ごく近くの町の方へ歩いて行く途中、田んぼつづきの所があって、そこには小川を利用して水車があった。その水車のところで向うから来る一人の女に逢った。それは私の父が町に住まわせてある父のめかけだった。以前父がひいきにしている料理屋に芸者か女中で住み込んでいたのを、いまでは世帯を持たせているのだった。私は公然と名乗り合ったことはもちろんないが顔だけは知っているのだった。女の方でも私を見たことがあるに違いなかった。道で行きあうと女はちょっと足をとめ、私の顔をなつかしげに見て物を言いたそうな風情だった。桜色にぼってりした美しい女で大まるまげに結っていた。私は黙って通り過ぎてしまった。

私の父は道楽者で、まだ独身の若いころ親(私の祖父)の金を持ち逃げして東京へ来て柳橋で遊蕩に耽り、金がなくなるとナスのしぎ焼を自分で焼いて浅草辺を売って歩いたという洒落者であった。私が遊蕩児になったのも多分に父の遺伝である。私は後に、二十四五歳の時、父のこのめかけのことを題材にして自然主義風の短編を書いて窪田空穂氏がやっていた「国民文学」という雑誌へ載せてもらったことがある。それが私の処女作であった。

中学三、四年のころになると自然主義文学が勃興(ぼっこう)しかけて来た。そのころ私は小栗風葉の短編を一つ二つ読んだ記憶があるが、まだ文学には関心がなかった。ただそのころの私の愛読書は柳亭種彦の「偐紫田舎源氏」だった。一九の「膝栗毛」は中学一年の時読んだ。都会の学生とちがって田舎の中学生には新しい文学に触れる機会がなかった。

中学四年の時、町の商家の裏の土蔵の二階を友達と二人で借りて下宿していた(もちろん食事付で)。その土蔵の窓から見える裏に借家があって、その一軒に軍人が住んでいた。将校ではなかったが家を持って連隊へ通っていた。その軍人の細君と妹が毎日留守番をしていて、私の方の窓からは丸見えなのだが、向うの女達も私が顔を出すとさかんに誘惑した。そのうち妹の方は郷里へ帰って細君一人になった。ある日も私が顔を出すとしきりに秋波を送ったり手招きをして見せたりした。私はとうとう意を決して裏通の横丁にある軍人の家の格子戸を明けて入った。女は私の手を取らんばかりにして引き上げた。白粉を濃くつけたひさし髪の女だった。やせ形で眼がくりっとしていた。わけもなく関係ができたが私はこわくてそれどころでなかった。そのあとでもう一度行ったことがあった。はやりこわくてあわてて逃げ帰った。恋愛でもなんでもない。ただそういう一つの出来事にすぎない。

六、文学を志す[編集]

私が二十の年の春、父は脳出血で死んだ。私はその前年中学をおえると上京して私立大学の予科へ入っていたが、父に死なれると、郷里の家へ帰って暮さなければならなくなった。徴兵検査が終った翌年二十二歳で結婚した。そしてその翌年は長男が生まれた。私は農村の生活をするように運命づけられているのかと初めは観念していたが、やがてそれに耐え切れなくなって東京へ飛び出した私は初めて文学を志した。その時はもう自然派は下火になって、永井荷風の都会文学が一世を風靡(ふうび)していた。私は何よりもいなか者から都会人にならなくてはならなかった。私が下宿した場所は芝の神明の宿屋であった。神明という所はそのころ東京で唯一の江戸情緒をたたえた場所だった。神明大神宮をとり巻いてその一郭には待合や芸者屋が集まり、また一部には矢場と称する銘酒店街があった。め組のけんかの書割に出て来る呉服屋だの、太太餅の店などがあった。浅草ほど大規模ではないがそれだけに、いっそう濃厚な情緒をただよわせていた。私はここを根城として、毎夜のごとく、吉原、洲崎、品川というような場所を遊び歩いていたがこの土地でも一人の女と知り合いになった。その女には新銭座に店を出している上州の材木商の旦那があったが、旦那は国にいる時の方が多かった。女は腕に刺青(いれずみ)などして、ばくちが好きで、よく下谷の車坂の賭場へ出かけてスッテンテンに取られ、目をくぼませて朝帰って来るというふうだったが、私に対しては親切で、それに根は性悪でなかったから、とぎれとぎれながらかなり長く続いた。赤坂で小さなてんぷら屋を開いたり、池ノ端で銘酒屋をやったりしていたが、最後に会ったのは三河島で銘酒屋をやっている時で、それっきりこの女とは逢わない。

吉原はいうまでもないが、洲崎、品川等にもそれぞれ異なった特色や情緒があって、そういう場所を材料にしたいい小説や古い落語などがたくさん現れていた。しかしなんといってもすばらしかったのはあの一大不夜城吉原であった。

売笑ということは、いつの時代にも不道徳とされていた。徳川時代だって売笑は最も賎しむべき行為とされていたことに変りはない。ただ、その取扱い方が違っていた。姦通などの罪を犯した女を日本橋で三日間さらした揚句に吉原へ引渡して売女にするというような制度があった。懲罰のために売女に下げ渡すのだから酷刑といえば酷刑だが、今の習慣からいえば妙である。それほど不道徳な場所である吉原を公許して、あれまで美化したのは江戸人の芸術的才能の産物であった。吉原は明治になって変ったには相違ないが、明治末の大火を経ても大正時代、詳しくいえば関東大震災の前までは、旧幕の遺風を十分に残していた。震災で全焼してからは外観内容ともに昔日の面影はなく、さらに戦後の公娼廃止で吉原は完全に地上から消えた。

七、廓の雨[編集]

私は数多くの女を買い漁ったが、記憶に残っている女はほとんどないものである。私の方にすら記憶がないくらいだから、毎夜幾人もの客をとる女の方ではなおさら覚えている道理はない。双方共に痕跡も留めないのだ。これはいったいどうしたことだ。男女の関係もここまでくると有といってよいか無といってよいか分らなくなる。たくさんの女に接したといっても、実際はなんにも女に接しなかったと同じになる。一休和尚の悟道みたいなものがここらから生まれて来そうである。全部その流儀でやれば、私も一人前の禅宗坊主になれそうだが、私の場合はそうはいかない。時には一人の女に執着する。

私は吉原の大文字楼という見世へ足繁く通った。当時吉原には仲の町の茶屋受けをする(茶屋からお客をつれて行く制度)いわゆる大見世の楼が三軒あった。京町の角海老、角街の稲本、江戸町一丁目の大文字の三軒である。その時分の玉代は大見世で二円二十銭、いろいろ入れて五円あればまあ遊べた。たいそう安いようだが、そのころ米一俵(4斗二升入)五円か六円だったから、そう無茶に安いというものではない。大文字屋は旧家で、文化文政時代のその家のあるじは大文字屋南瓜と号し有名な江戸の文化人であった。この家に九重という花魁(おいらん)があって私はそれのところへ足掛け三年くらい通った。前身は下谷の芸者で新内が上手だったくらいで多少いきなところはあったが、別に美人ではなかった。髪の毛はたっぷりあったが眉の毛がごくうすく、書き眉をしていたが顔を洗うとまるで無いみたいに見えた。この家は中村芝鶴の親類で芝鶴は子供の時分によく来ていた。まだ十にもならぬ芝鶴はふろ湯から帰って来た九重と廊下で逢うと「やあお前眉毛がないぜ、なりんぼうになるぜ」といってからかった。九重はすっかり悲観して「わたしはなりんぼうになるかしら」と当分ふさいでいたことがあった。

私は多少行き掛りもあったが、この花魁のところへ通い詰め、中の一年などは四百以上の玉を付けた。一年は三百六十日だのにどうして四百以上の玉になるかというと、それは昼もいる時が多いからである。玉代は夜と昼とでは別々である。私は飯たきばあさんとまで懇意になり、二階中の花魁とも親しくなった。この大勉強のおかげで私は吉原の表裏をほとんど知り尽くした。後に原稿を売る時になると、これが大へん役に立った。

私は中央公論へ「廓の雨」という百枚の小説を書いたことがあったが、それは九重をモデルにして、自分の遊蕩生活の破滅を書いたもので、批評家からはぼろくそにやられたが、編集長滝田樗陰から口を極めて誉めてもらった作であった。それはずっと後のことで、小説の通り私は金にこまって遊びにも行かれなくなったが、自分の身の振り方に窮し、いろいろ山師めいた事を考えてやって見たが、どれもこれも失敗で、作家にもなれず、郷里の家は破産にひんした。

八、金もうけ[編集]

女の履歴書で終始するつもりだったが、ここらでちょっと息ぬきにほかの話をまぜてみよう。前回に私がいろいろ山師めいたことをやったといったが、それは果してどんな山仕事だったかご披露に及ぶ次第である。私は作家を志す以前郷里にいた時分に千三つ屋を志したことがある。そして生意気にも街道一の千三つ屋になるのが理想で、小手調べにいろいろやったが、私自身でぶつかった一番の大仕事はある国幣小社に付属する官林の払い下げ運動で、私は宮司にうまく話しこんでほぼ認可確定というところまでいったが、最後の土壇場でつぶれてしまった。ところがこの時の宮司は(この人は県内の官幣大社の宮司も兼任していた)作家尾崎一雄君のおじいさんであることが近年になって分って尾崎君と大笑いをしたが、一種の奇縁に驚いたものである。さて東京で文士になることがむずかしいとなると何か金もうけしなくてはならない。その前に私は義兄と共同で本郷根津に活動写真館をつくって一万円出資してあったが、それが欠損続きで一文の配当も来ないので余計弱ったわけだ。この活動館は現在もあって私が社長であるといったら驚く人が多かろう。

私が初めにやったのは中国の革命党へ武器を売り込む計画だったが、これも大事のところでつぶれた。しばらくすると、ある人が私のところへ仕事を持ち込んで来た。それは下駄ゴムという事業で、駒下駄の底へ丸いゴムをはめ込む。そうすると下駄が三倍以上もつ。そのゴムの製造である。国益である。東京中の下駄屋を回って相談するとどこでも賛成してくれた。そこで本所の中島というゴム会社と特約して下駄ゴムの製造にかかった。ゴムにもいろいろ工夫があった。ところがいよいよ商売を開始してみると案外売れない。原因は下駄がもちすぎることである。下駄屋はお客に一足でも多く消費してもらいたい。ところが私のゴムをはめると、下駄が従来の三分の一しか売れなくなる道理だから内心やりたがらないのだ。この事業もゴム会社に三千円ばかりの借金を残してつぶれた。

そのころ、日本ではじめてラジウムが発見せられた。甲州の増富温泉にラジウムが含有されていることが学者によって証明されて、このことが報知新聞へ一ページの記事となって掲載された。当時の科学では、ラジウムは神秘な物質中の一番先端的なもので万病がこれによって治ると宣伝され、ケシ粒ほどのラジウムがばく大の価格で外国から輸入されて医学に応用されていた。そういう際に甲州に天然にラジウムを含む温泉のあることが報道されたのだからセンセーションを起した。私はたちまち一つのプランを考えた。それは増富温泉を利用して「ラジウム・サイダー」というのを売出すことだった。これを売出せば三ツ矢サイダーなんか影をひそめてしまうに相違ない。何しろ世界の学会が大問題にしているラジウムである。単にその名を冠するだけでも商策とすればすばらしいのに、正真のラジウム鉱泉を使用するのだから歓迎されぬ道理はない。

九、葬式記者[編集]

私はさっそく増富温泉を視察に行った。温泉は豊富に出るが非常に低温であるために沸かして入浴していた。当時の増富は原始的なもので掘立小屋のような便所が外にあったが、半戸で、二階から見ると厠(かわや)の中が丸見えだった。おまけにそこには箱の中に一杯竹のヘラが入れておいてあるというぐあいであった。(用途はご想像に任せる)私は二晩泊り、館主とも交渉して鉱泉を売ってもらう約束をして帰途についた。私はぜひとも製造所を増富に近い所におく必要があると思ったので韮崎の土地を十分視察して帰京した。

さてそれからあとはサイダーの製造方法や材料費の研究だが、私の調査によると、ガラスびん一個五厘。サイダー原料費(レッテル共で)五厘。一本実費一銭と見れば十分だった。甲州韮崎に工場を置き、流行の「ラジウム・サイダー」で売り出せば成功疑いなしだ。増富の鉱泉なんか申訳だけにほんの少少加えたらたくさんだ。いよいよ着手することになって名義登録に行くと、なんと驚いたことには本所の方にすでに「ラジウム・サイダー」の登録をしているやつがあった。これは私のように変った創意があるわけでなく、そのうえ微力な相手らしかったが、とにかく同名があっては仕方がないからオジャン。

次が米相場をやった。これは国元の母が易を見てもらってこの易者の表の通りにやれば必ずあたるといって金まで送って来たのだった。私は蛎殻町通いを始めたが三月くらいですっかりすってしまった。

こうして一方では金もうけに熱中していたが、その間でも遊蕩を全然やめたわけではなく、実は相場の資金も半分くらいは吉原で使ったのだ。遊蕩ばかりではない。素人女にも手を出した。私のために極端な不幸におちいった女もある。私の一生は大体それの連続である。ある種の女は格別不幸にもならないし、ある場合はそれによって生きてゆくということもあるが、概して女は不幸になる。私はそのころから通信社の下回り記者になった。月給は二十五円でまあまあの内だったが、毎日の仕事は東京中の葬式回りだった。通信社では死亡葬儀広告を取扱うので、その葬式へ記者を派遣して通信記事を出すのだがメッタに新聞へは載らない。およそ数ある記者の中でも一番下等なものだろう。しかしこれも考えようで、この職業のために私は無縁の人の葬儀に幾百回となく列席した。仏教信者でなくてもなんらかの功徳になったろう。私は前途を悲観した。私に少しでもあるものは文才である。結局それ以外に道はないから思い切って三十枚ばかりの読物を書いて中央公論へ投書してみた。それが幸運にも当時名編集長と謳[1]われた滝田樗陰によって採用されたばかりでなく、次号へ百枚以上の長編の寄稿を依頼された。「何かいい材料がありますか」と滝田氏からきかれた時、私は即座に「あります」と答えた。私の頭に反射的に浮かんでいたのは吉原稲本楼の花魁(おいらん)稲葉のことであった。

十、浅妻双紙[編集]

角町の稲本楼に稲葉という花魁(おいらん)があった。嬌名(きょうめい)を廓(かく)内にうたわれたばかりでなく、ときどき新聞の艶ダネにも載った。茶屋の老女将など「二十年この方の花魁だ」と礼賛していた。私も遊蕩児冥利(みょうり)に一度ぐらいそんな花魁を買って見たいと思い、茶屋から案内されて行くと運よく帰り跡の座敷があいていた。稲葉は驚くべき美人だった。しいて欠点を探せば声がよくなかった。その他は満点、気品と言い、美貌と言い、肉体と言い、昔の高尾に劣るまいと思われた。おまけに閨房(けいぼう)の勤めとくると、女郎ばなれしていて、歓喜仏の出現を思わせ、女の要求に応じ切れないくらいだった。私は稲葉の身の上ばなしの一端を聞いたが、それだけでも小説になると思った。しかし金がないのでたった一度であとは行かなかったが、こんど中央公論から思いがけなく三十枚の原稿料をもらい、あとに百枚の依頼があるのだから百万の援軍をえたごとき心地で、さっそくその晩吉原へ人力車を走らせた。

稲葉は喜んで私を待遇したが売れっ子の彼女には毎夜少なくても五、六人の客があるので、その後も十数日続けて行く間に一度も座敷へは入れなかった。座敷とは花魁の本部屋のことである。毎晩名代部屋へ寝た。名代部屋とは小格子(小店)でいう回し部屋と同じことだが、大見世では昔は花魁の名代に振袖新造を客に出したところからそういう名称が残っていたのだ。稲葉は遊びすれた私に、さらに女を歓ばせるあらゆる秘けつを教えて、そして自分がたんのうしなければ承知しなかった。女郎というものは一般にしつこい客をきらうものである。私は毎晩通いながら、忙しい稲葉の身の上ばなしを少しずつ聞いた。実に伝奇的な話であった。私は半分くらい聞いた時分からそれを小説風に書きはじめた。そして二週間通った時には百枚全部書き上げた。

「浅妻双紙」という私の長編読物は中央公論九月倍大号の説苑の巻頭に載せられ、新聞広告では吉野作造のデモクラシー理論と並んで二つの柱となった。私はそれっきり稲葉のところへ行かなかった。しかしこの「浅妻双紙」は吉原まで大評判になり、吉原中のすべての女郎の部屋に中央公論が転がっていたという珍現象を呈したそうである。それはとにかくこうして私は初めて社会へ出た。当時中央公論へ百枚の力作を発表すれば、それで一応作家として認められるのだった。

私は女の履歴書を書いた。それもここで一段落である。他に特筆すべき履歴もないようである。何の主義も理想もなく、ばく然と文学にあこがれ、それの手段とばかりもいえないが遊蕩や漁色にふけって、その結果ともかくも文壇の一隅に飛び出すことができたとは滑けい至極の話で、奇跡だなんていわれない。私の真似をする人間もあるまいが、考えてみるとその時分でも私みたいな人間はいなかったようだ。

脚注[編集]

  1. 原文では異体字の「言区」が使用されている

出典[編集]

日本経済新聞昭和31年(1956年)8月9日 - 8月18日

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