盲目



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その日の午後も古賀はきちんと膝(ひざ)を重ねたままそこの壁を背にして坐っていた。本をよむことができなくなってからというもの、古賀には一日じゅうなにもすることがないのだ。終日ぽつねんとして暗やみのなかにすわっているばかりである。時々彼は立ち上って房(へや)のなかを行ったり来たりする。わずか三歩半で向うの壁につきあたるような房のなかなのだ。一分間に十往復とすると、一時間には六百回、距離にすると、一里ちかくになる、などと考えながら古賀はあるく。しかしじきに頭のなかがぐるぐるとまわってくる。そこで彼はまたすわり、こんどは塵紙(ちりがみ)を引きさいて紙縒(こより)をよりにかかる。途中で切らないようにこの粗悪なぼろぼろな紙で完全な紙縒をよるということが、しばらくのあいだ彼をよろこばせるのだ。指先がひりひりするようになってからはじめて彼は手を休め、いろんなもの思いにふける。頭が疲れてくると、また立ち上り、手さぐりで掃除(そうじ)をしたり、狭い房の四方の壁に気づかいながら体操をしたりする。――朝のうち、古賀はいくどかそんなことをくりかえし時間を相手に必死の組打ちをするのであった。しかし――あらゆるたたかいののちに、結局はやはり壁に背をもたせ、茫然(ぼうぜん)としてすわるよりほかにはないのである。
――古賀は顔をあげて高い窓とおもわれるあたりに向って見えない眼を見張った。その年の十月という月ももう終りに近づいていた。今日は朝から秋らしくよく晴れた小春日和(びより)のあたたかさが、光を失った彼の瞳(ひとみ)にもしみるおもいがするのである。日は静かにまわって彼の背をもたせている方の壁にもう明りがさしている時刻である。手をうしろへまわしてさぐってみると、はたしてほんのわずかの広さではあったが、つめたい石の壁がほのかなぬくもりをもってその手に感じられるところがあった。古賀はすわったまま静かにそこまでからだをずりうごかして行った。高い窓からわずかにもれている秋の陽(ひ)ざしのなかにはいると、古賀の眼瞼(まぶた)には晴れ渡った十月の空や、自分の今すわっている房のすぐ前の庭に、日に向って絢爛(けんらん)なそのもみじ葉をほこっているにちがいない、一本の黄櫨(はせ)の木などがおのずからうきあがってくるのであった。陽は彼の垢(あか)づいた袷(あわせ)をとおしてぬくもりを肌(はだ)につたえ、彼はしばらくのあいだわれ知らずうつらうつらとした。長いあいだ忘れていた、ふしぎなあたたかい胸のふくらみを感じるのであったが、同時にそういう自分の姿というものがかえりみられ、秋の日の庭さきなどでよく見かける、動く力もなくなって日向(ひなた)にじとしている虫の姿に似たものをふっと心に感じ、みじめなわびしさに胸をうたれるおもいであった。――ちょうどその時、向うの廊下をまっすぐにこっちへ向いてくる靴(くつ)のおとがきこえてきた。
午後になるとここの建物のなかはひっそりと静まりかえるのであった。朝は、ここの世界だけが持っているいろいろなものおとが、――役人たちのののしりわめく声、故意にはげしくゆすぶってみるのであろうとおもわれる彼らの佩剣(はいけん)のおと、扉(とびら)をあけまたしめる音、鍵(かぎ)や手錠のしまる時の鉄のきしむ音、出廷してゆく被告たちの興奮をおし殺したささやきの声、――そういったもの音が雑然としてそこの廊下に渦(うず)をまき、厚い壁と扉をとおし、それは恐ろしいひびきをその壁の内部に坐っている者たちにまでつたえるのであった。気の小さい者はそのもの音にじっとしては坐っておれず、おもわず立ち上ってはいくどもそこの小さな覗(のぞ)き窓から外をうかがい、房のなかをうろうろし、みじかい時間のうちに何度も小用に行ったりするのである。昼すぎになるとしかし朝のうちにそういうさわがしさもいつか消えてゆき、人々は心の落ちつきを取りもどすと同時に、ものみなを腐らす霖雨(りんう)のような無聊(ぶりょう)に心をむしばまれはじめるのである。――そういう静けさのなかに、近づいてくる靴の音を聞き、耳の鋭くなっている古賀はすぐにその靴音の主が誰であるかを悟った。そうしてそれが近づいてくるに従って、なんとはなしに自分のところへやってくるもののように感ぜられるのであった。はたしてそれはそうだった。靴音は彼の房の前まで来て立ちどまり、やがて、扉があいた。うながされるままに古賀は机の上にのせてあった黒い眼鏡(めがね)をかけ編笠(あみがさ)をかぶって外へ出たのである。
「おい、こっちこっち」と二度ばかり注意はされながら、人に手を取ってもらわなくてももうだいぶあるくになれて来た長い廊下を行き、つきあたりを右へまがり――そのまがりしなにすぐそばによりそってくる看守の肉体をかんじ、その看守の人のいい髯(ひげ)の濃い顔が記憶のなかにうかんでくると、古賀は、
「誰ですか?」
と訊(き)いてみた。看守は、うん、と答え、それから古賀の耳の近くでパラパラと髪をめくる音がしたが、「ああ、弁護士面会だ、佐藤弁護士」といった。
面会室へはいると、古賀は机をへだてた向うにもさっきから待っているらしい人のけはいを感じた。挨拶(あいさつ)をし、それから椅子(いす)に腰をおろした。「やあ、ぼく佐藤です、おはじめて」と快活な太い声でその人はいい、それから鞄(かばん)のぱちんという音と、つづいて机の上に取り出されるらしい書類の音がさらさらときこえるのであった。
「山田君からあなたのことは始終きいていたんですが、……とんだ御災難でしたねえ。それにこんなところでさぞ御不自由でしょう、お察しします」
「ええ、ありがとうぞんじます。こんどはどうもいろいろお世話さまになります」
「じつは控訴公判の日取りがきまったんですよ」
「あ、いよいよきまりましたか。そいつはおもったより早かったですね」
「まだはっきり何月何日ときまったわけじゃないんですが、大体、来月下旬ごろとほぼ確定したんです。今日、裁判所の意向をきいてきたんですがね。どうせ分離のことだし、あなたは特別不自由なからだだから、一日も早くしてもらおうとおもって」
「それは、どうも。……私もおもったより早くて、うれしいんです。どうせ年を越すつもりでいたんですから。いつになったって結局はおんなじことと、一応はおもってみますけれど、おそかれ早かれきまらずにいないことは、やはり早く片ういてくれたほうが心もらくなんです」
古賀は少し興奮し、はしゃぎだしてきた自分自身をかんじていた。彼が弁護士の佐藤信行氏と逢(あ)うのは、今日が始めてである。一審のときの彼の弁護士は同郷の先輩である山田氏であった。何かと親身も及ばぬ世話をしてくれていたその山田氏から、ぷっつりと音信がとだえたのはおよそ半年ばかり前のことであった。ある日の朝、郊外の家から事務所へやって来た山田氏が、その場から連れて行かれた事実を古賀がきくことができたのは、それからさらにふた月ほど経たのちのことであった。この土地には若い弁護士たちから成る一つのグループがあり、山田氏はそのグループの中心人物であったのである。姿を見ることはもちろんできないが、山田氏も今は古賀とおなじこの建物のなかに朝晩起き臥(ふ)す身となっているのであろう。わずか十ヵ月前には、古賀のために法廷に立ってくれた山田氏が、いまは彼とおなじ立場におかれている事実をおもい、古賀はその一つの事実からさえも、高まりゆく状勢の険悪さを胸にしみて感じずにはいられないのであった。そうしたわけでこんどの控訴公判にはひとりで法廷に立つことを古賀は覚悟していたのである。そういう古賀のところへほぼ一ヵ月ほどまえに山田氏の友人であった佐藤弁護士から手紙が来た。山田のあとは自分がやることになった。近々にお訪(たず)ねして万事うち合わせよう、との手紙の文言であった。古賀は力づよいおもいをした。何かと世話をしてくれる弁護士があらわれたということを自分のためによろこぶこと以外に、古賀が自由なからだでいた今から二年ほどまえには微温な自由主義者としてのみきこえてい、その後もかくべつ変ったこともきかなかった佐藤氏が、特に今日のような時代に自分たちの事件を進んでうけ持ってくれるようになったということ――その事実のなかに彼は明るい力強いよろこびをかんじたのである。あらゆる分野においてあとからあとからと人はつづき、ともしびは消ゆることなくうけつがれてゆくであろう。佐藤氏の場合はその小さな一つの例にすぎないのだ。
「山田さんはお元気でしょうね」
「ええ、元気です。詳しいことはまだお話することはできませんが」
「あなたは実際とんでもない不仕合せな目にあわれたものだが……、それだけでも当然即時保釈にすべきだとぼくらは思っているんだが、どうもねえ。目をわるくされてからもうどのくらいになるんです」
「ええ、早いものでもう一年以上です。あれは忘れもしない去年の八月の五日で、一審公判のはじまる半年ほど前のことでしたから。あの当座はおはずかしいはなしですが、私もしばらくは半狂(はんきちが)いのようになり、わけのわからないことをぶつぶつ言っては、房のなかをぐるぐるまわってあるくといったていたらくで、人のはなしにもずいぶん変な言動が多かったといいますが、このごろではよほどおちついて来たんです。……」
古賀は堰(せ)かれたものがほとばしり出たような勢いでべらべらとしゃべりはじめたのである。辻褄(つじつま)の合ったようなまた合わないようなはなしになって言葉はながれて行った。その当時の彼の苦悩についてくどくどと述べるかと思えば、突然彼の事件の発生当時のことに話が逆もどりした。訴えるような、また涙ぐんだようなこえで、せかせかした口調で話すのであった。長い間のここでの生活と、彼がつきおとされた運命の苛烈(かれつ)さのゆえに、すこしは頭もみだれかけて来たものであろうか。頰(ほお)はおちくぼみ、顎(あご)はへんに尖(とが)ってい、頭はいがぐりなので顔全体がいじけた子供のように小さくしなびて見えた。黒い眼鏡のかげにかくされている両眼は、おそらくは白濁してうつろに見ひらかれているのであろう。その顔はきっとこっちに向け、しゃべっている、唾(つば)の白くたまった口元などを見ていると、昔この男が颯爽(さっそう)として演壇にのぼる姿を見たことのある佐藤弁護士は、何か凄愴(せいそう)なものをすら感じ、しばしはその言葉も耳にははいらず、言うべき言葉も知らずただもだしていたのである。古賀にしてみればしかし、彼は今よろこびの頂点にあるといっていいのだ。むかしはむしろ無口といわれたほうで、大抵のことはじっとうちに貯(たくわ)えてだまっていることのできる性分の男であったのだが、目がそうなってからは本はよめず、手紙は書けず、そうかといってはなす相手はなし、どこへ向っても心に欝結(うっけつ)するものの捌(は)け口は閉ざされてしまっていた。そうしてそれはまたなんという苦しみであったことだろう!そうなる以前の彼はあらゆる費用を節約し、それを一日おきの書信代にあてていた。ふるい友人、あたらしい友人のたれかれにあてて、彼は根気よく書いたのである。毎日よむかなりの頁数(ページ)の書物のノート代りということ以外に、そしてまた、外の同志との連絡ということ以外に、手紙を書くということの持っていた大きな役割を、古賀はそれを書くことができなくなったのちに、はじめて知ったのである。手紙を書くということは、不自然な生活を強(し)いられている現在の彼らにとっては、ほとんど唯一の精神の健康法であったのだ。その唯一のものをううばわれ、欝結したものの圧力にいまは耐えがたくなってくると、古賀はいつもぐるぐると房のなかをあるきまわり、頭をそこの壁にうちつけたりするのであった。そしてたまたま人に逢って話す機会を持つと、ほとんど見境なくべらべらとしゃべりだすのだ。これだけはほとんど自制しかねるほどの欲望であった。それに今日は、自分のいうことをなんでも聞いてくれる人として、佐藤弁護士が前にあらわれたことが、一層彼のそうした欲望を刺戟(しげき)することになったのであろう。――古賀はしかし、しゃべっているあいだに、いらだたしげに靴を床にすりつけ、佩剣を鳴らす立会いの看守部長の存在にはじめて気づき、同時に迷惑そうな顔をしているにちがいない佐藤弁護士をおもい起し、心で赤くなった。彼は急に話をやめ口ごもりながら、自分の饒舌(じょうぜつ)の詫(わ)びをいうのであった。
佐藤氏は、「いいえ」といって、
「それで、今おはあししたようなわけでしてね、公判もあと一ヵ月ぐらいのうちなんですから、その前にあなたにいろいろお聞きしておきたいことがあるんです、今日はそれでお訪ねしたんですが」と用件にはいり、書類をぱらぱらめくりながら、「もっとも個々の事実の点は記録にあるとおりでべつにつけ加えることもあるまいとおもいますが、あなたの今の気持ですね、つまり心境というやつです、結局公判廷での態度になりますが、それをお聞きしておきたいんです」と言ったのである。
古賀は今までの浮きあがっていた気持からたちまち厳粛な気持にひきもどされて行った。いよいよ来た、という感じであった。と彼は急に心の動揺と不安を感じてきた。公判が遅(おそ)かれ早かれ開かれることがわかっている以上、公判廷にのぞむ態度というものもある程度まできまってはいた。しかし、その態度の如何(いかん)ということは古賀の運命にとってはまさに決定的なものである。したがって事柄のその重要性の前に知らず知らずしりごみし、いよいよという時が来るまで、どこか奥の方に曖昧(あいまい)なものを残していたということは否(いな)めなかった。その曖昧さが今彼の心に動揺と不安とをもたらし来ったのである。古賀は心を沈めるために、机の上においた手を額にあて首をうなだれてしばらくじっとしていた。気持はやがて沈めまって行った。しかし、今決定的な態度をここで佐藤氏の前にのべるというところまではいかなかった。彼は顔をあげ、もう少し考えてみたいこともある、十日ほど待ってはいただけまいかと言ったのである。佐藤氏は気軽にうなずいて書類を鞄にしまいこむと、じゃあといって立ち上り、「近いうちまた来ます、無理はしない方がいいですよ」と、あたたかみのある声で言った。その言葉の意味はからだの無理をするな、というふうにも、無理をして心にもない態度をとるな、というふうにも聞えたのであった。
ドアをあけて外へ出かけた佐藤氏はそのときふいにふりかえって、「ああ、忘れていた、すっかり忘れていた」といって、もどって来た。「今日ね、ここへ来るまえに永井美佐子さんに逢ったのですう。用事があって行けないからといって五円あずかったのでさっき差し入れてきましたよ。今夜よそで逢うとおもいますが、何か言伝(ことづ)てはありませんか?」
古賀の顔には瞬間ちらりと陰翳(かげ)がさし、複雑な表情が動いたかに見えた。が、それはすぐに消えた。もとの顔にかえって彼は礼を言い、別になにもない、と答えた。永井美佐子というのは古賀の別れた妻である。
房へ帰ってくると、暮れるに早いこのごろの日はすでに夕方であった。からん、からんと、とおくで鉄板製の食器を投げるおとが聞える。雑役夫が忙しげに廊下を走りまわっている。――やがて夕飯がすみ、窓の近くにひとしきり騒がしくさえずっていた雀(すずめ)のこえも沈まってゆくころには、もうすっかり夜にはいったらしい。山の湖のような、しかし底になにか無気味なものを孕んで静寂(しじま)のなかで、寝るまえの二、三時間、古賀は自分の考えをまとめようと努力しはじめた。――
雲のようにわきあがってくる思いのまえに彼はいくどか昏迷(こんめい)しては立ちどまり、自分の行く手をふさぐ暗いかべの前におののいては立ちすくむのであった。息苦しくなると彼は立ち上ってあるき出し、それからまた坐った。なんとしても追いがたくはらいがたいものはしかし、こうした場合、いつも過去の追憶であった。ここへ来る人人のすべてがそうなのではあろう。人々は生きた社会生活から隔離され、いきおい色彩に富んだ過去の追憶の世界にのみ生きるように強いられているのであるから。古賀の場合はしかし、ほかの人々にも増してそうなるべき理由があっつた。――彼は自分の短いしかし複雑な過去の生活にからむあらゆる追憶を丹念にほじくりだし、ひとつひとつそれをなでまわし、舐(な)め、しゃぶり、余すところないまでにして再たびそれを意識の底にしまいこむのであった。そういう彼の姿というものは、いうならば玩具箱(おもちゃばこ)からときどき玩具を取り出してたのしむ小児の姿に似ていたともいえよう。だがやがて彼は過去の世界にのみ生きているような、そんな自分自身というものをさげすむ心になったのである。しかし生きている人間が死の状態にまでつきおとされ、しかもなお生きて行かねばならぬとしたならば、そういう彼を支(ささ)えてくれる何が一体ほかにあるであろう。苦い追憶も今はかえって甘いものとなり――過去の世界はそのたびごとに新らしい感懐を伴って、なおもいくたびかよみがえってくる。――
三年前の春のある事件以後、一時的に混乱に陥入った(原文六字欠)にとらえられた古賀は、(原文二十二字欠)を迎えたのであった。とらえられた始終のいきさつについては、今(原文二十一字欠)はある。古賀は少くとも自分一個に関するかぎりヘマはやらぬとの自信を持っていたのだが、組織の仕事のことゆえ、ほかからくる破綻(はたん)というものは拒ぎきれぬ場合も多いのであった。他の同志がつくった場所が、(原文七字欠)とおもいながら出かけても行かねばならず、そういうとき、自分の身の安全をばかり考えているわけにはゆかぬ。思いつきの便宜主義、――それが古賀の場合、(原文二字欠)を来たした結局の原因であったが、だがそれも、けいけんのすくない若い組織のことゆえ、やむをえないことであったろう。そうしたことを今さらおもいまえしたみたとて何になろう、(原文二十一字欠)のだ。古賀あその確信に安んじ、ここへ来てからの彼は、ただひたすらに(原文八字欠)はうかしくない態度をとることにのみ心を砕いたのであった。彼の心の構えはきまており、腹の底は案外におちつきはらっていた。古賀はかねてから、腹といい度胸というのも、畢竟(ひっきょう)は時々刻々に変化してやまない外界にたいする、あるプリンシプルのうえに立ったうえでの自己の適応能力にほかならぬ、と信じていたのであるが、数年このかた、多くの先輩である同志たちが、次々に連れ去られて行った、そんたびごとにうけた激動と、その激動が次第に沈静してゆく過程のうちにあって、そういう場合に処する彼の心構えも自然にある程度まではできあがっていたものであろう、ことさらに気張り、堅くなった頑張(がんば)りではなく、冷やかな落ちつきが、意地のわるいようなふてぶてしさが、古賀の心の基底をなしておったといえる。そうして彼はまたそういう心を意識してはぐくみそだてたのであった。事実またそのためには、(原文七字欠)というものはほかに見出しえようとはおもわれないのだ。(原文五字欠)を毎日目のまえに見せつけられれば見せつけられるほど、それを肥料として(原文十二字欠)心が一日一日(原文二字欠)してゆくのである。あらゆるあまいものを嘲笑(ちょうしょう)し、あたたかいものをしりぞけ、喜怒哀楽の感情を忘れはてた人のような仮面のような表情で彼はそこに坐っていた。だがその無表情な仮面のかげにかくされている無言の(原文六字欠)人々は容易に見抜くことができたのである。たがては恐ろしさというものを知らない人間にまで鍛えあげられるであろうなどと、わずかばかりの苦難に耐ええた経験から思い上っていたのは笑止で、いくばくもなく古賀はどん底の闇(やみ)につき落され、はかりがたい現実の冷酷さをいやというほど思い知らされねばならなかったのである。――ここでの古賀の生活はそういうふうにして毎日平穏にすぎて行った。すこし気に入った本がはいった時などは、自分が今こうしたところにいるということも忘れてそれによみふけり、巡回役人の佩剣の音に読書の腰を折られる時にはじめてわれにかえって、今の自分の境遇におもいいたる、ということも珍らしくはないのであった。
そうこうしているうちに古賀は六か月ほどの懲役に服さなければならぬ身となった。彼は依然ある争議に関係し、当時進行中の刑事事件がひとつあったのである。それがちょうどこんどの新らしい予審中に確定したのであった。それは昨年の春のことであった。予審中であったので、そのままここの未決監にいて刑の執行をうけることになった。仕事は封筒はりであった。
残刑期も残り少なくなった八月の三日のことである。その日は入浴日で古賀は風呂(ふろ)にはいっていた。五日に一回、それも着ものを脱ぐ時からあがりまで十五分しかゆるされないその入浴が、どんなに彼にとってのたのしみであったことか。その年の夏は四十年ぶりとかの暑さであった。その暑さはここではまた格別だった。房のなかでは、霍乱(かくらん)を起し卒倒するものが一日に一人はあった。突然(原文四字欠)ものもあった。「お前、梅毒をやったことがあろうが、こういう時にゃ、頭へあがってバカになるんだ、気イつけろ」まじめなのか、それともからかっているのか、看守がげらげらわらいながらそういっているのを古賀は一度ならずきいた。この暑さのなかでうだり、健康な人間の肉体も病人のそれのように腐りかけていた。古賀のいたのはちょうど西向きの房であったから、長い夏の日半日はたっぷり炒(い)りつけられるのであった。古賀は苦しくなると窓によって背のびをし、小さな鉄格子(てつごうし)の窓にわずかに顔をおしつけて、さかなのように円(まる)く口をあけてあえぎながら、少しでも新らしい空気を呼吸しようとするのであった。坐って仕事をしていると、時々かるい脳貧血を起した時のように目の前がぼーっとかすんでくることがある。そういう時には前においてある封筒をはる作業台の上に思いっきり額をうちつけて、その刺激でわれにかえるのであった。だが、何にも増して彼がそのために苦しんだのはひどい汗もと血を吸う虫とであった。古賀の身体(からだ)は、青白い静脈が皮膚の下にすいて見えるといったような、薄弱な腺病質(せんようしつ)からははるかにとおいものである。拘禁生活もまだ一年足らずで、若若しい血色のいい皮膚にまるく張りきってさえ見えたのであるが、それが土用にはいると間もなく真赤にただれてきたのである。しぼるように汗みずくになった(原文四字欠)が粗(あら)い肌ざわりでべとべとと身体にからみつくのであった。夜は夜で汗もにあだれたその皮膚のうえを、平べったい血を吸う虫がぞろぞろと這(は)いまわった。おもわず起き上り、敷ぶとんをめくってみると、そのふとんと蓙(ござ)の間を長くここに住みなれ、おそらくは(原文七字欠)の血を吸いとったであろう、貪欲(どんよく)な夜の虫どもが列をみだして逃げまどうのであった。おなじように眠られないでいる男たちの太い吐息が、その時いいあわしたようにあちらこちらからもれてくる。――そういう古賀が、どんなによろこんで五日に一度の入浴を待ちかねていたかは想像するにかたくはない。
畳半分ぐらいの一人一人の小さな湯ぶねである。古賀は既決囚であったせいか、いつもいちばんあとまわしにされ、その日もやはりそうだった。彼がはいるまえにもう何人の男たちがこの湯ぶねの湯を汚(よご)したことであろう。半分に減ってしまった湯のおもてには、(原文二十九字欠)足を入れると底は、(原文四字欠)であった。それからなにか、(原文八字欠)のようなものも沈んでいるらしく足の先にふれるのであった。洗い場を見ると、そこはまたそこで、コンクリートのたたきの上には、(原文十三字欠)とくっついていたりするのであった。(原文十三字欠)川のような臭(にお)いもながれていた。――しかしそういう不潔さにはもうみんなが慣れていたのである。だいいち、不潔だなどといってはいられないのだ。古賀もまたそうだった。古賀はからだをとっぷりとその湯のなかにつけた。ただれた皮膚にじーんと湯がしみる。無理に肩までつかってじっと目をつぶっていると、彼はいつもなにかもの悲しい、葉はのふところにかえってゆく幼児の感傷にも似たものおもいに心をゆずぶられるのであった。――しかしそうしておれるのも、ほんのわずかのあいだである。「もう時間だぞ、出ろよ」と、担当看守がそこの覗き穴からのぞいて言って行くからである。そう言われてから、古賀はあわててからだを洗いはじめるのであった。陸湯(おかゆ)のでる鉄管の栓(せん)をひねってみたが、もう一滴の湯もでなかった。水も――連日の日でりで貯水タンクも空(から)なのであろう、そのタンクから引いてくる水もすっかり涸(か)れていた。そこで古賀は湯ぶねのなかで、身体も、それから顔まで湯をひたした手ぬぐいでごしごしと洗った。汗もは吹きでもののように顔にまでひろがっていたからである。それがすむかすまないうちにバタンと音がして浴場の扉があく。出ろ、という合図である。からだをぬぐうひまもなく、作業衣を肩にひっかけて房へかえり、みると、ひとの垢か自分の垢か、うるけたような白いものが胸や腕のあたりにくっついているのであった。
それが、その日の正午すこし前のことであった。
そしてその夜、うす暗い電燈の下で夜業にとりかかったころから、古賀は両眼の眼瞼(まぶた)のうちがわが、なんとなく熱っぽく痛がゆくなってくるのをかんじたのである。だが、さして意にもとめなかった。というのは、春から夏にかけて結膜炎を病むということは、塵(ほこり)ぽいなかで目の過労を強いられているここでの作業生活にあっては珍らしいことではないらしく、古賀もまたかなり以前から病んでおり、さし薬ももらっていたのであるが、営養の関係もあったものであろう、なかなかなおりきらずにその時まで持ち越していたからである。夜業はことにそういう目にはこたえた。朝は目やにで目をあけるのに苦しむこともあるほどであった。そういう古賀であったから、その夜すこしぐらいの異物感を目のなかに感じたとしても大したことにはおもわれなかったのである。夜寝てから、半ばは夢のなかで、熱をもった両方の目をなんどとなく手の甲でこすりこすりしたことを古賀は今でもおぼえている。
翌朝起きてみると全身がけだるく、暑さのせいばかりではない、たしかに熱があると感じられるのであった。眼瞼はずっと腫(は)れあがっていて痛みもひどかった。手をやってみると、耳の下の方の淋巴腺(りんぱせん)がやはり腫れってふくれあがっていた。黄色い、目脂(めやに)のもっとやわらかいようなものがぬぐってもぬぐってもとめどなく流れでるのであった。膿汁(のうじゅう)ではあるまいか?と疑ったとき、古賀の漠然(ばくぜん)とした不安はみるみる大きなものになって行ったのである。彼は報知機をおろし、医者をたのんだ。
かなり暇どってから来た若い医者は、「どうした?」といいながら、無雑作に古賀の眼瞼を指でつまみあげると、ぐっとそれをひっくりかえしてみた。と、クリームいろのどろどろしたものがほとばしるように流れでて医者の白衣をよごした。それは結膜嚢(けつまくのう)にたまっていた膿汁であったのである。結膜の表面は真赤に熟(う)れきったいちごを見るようなものであったという。おもわず、「こりゃ、ひどい」
と、口に出して言って、じっとそれを見まもっていた医者の顔は、古賀はむろんそれを見ることはできないのだが、みるみる緊張して行ったようにおもわれたのである。ちょっとのま、考えているようであったが、やがて手をもとへかえしアルコオルをしめした綿でぬぐいながら、
「トリッペルをやったことがあるかね?」
と、古賀をインテリと見てとったものであろう、そういうような言葉で医者は訊いたのである。古賀が否定の答えをすると、じっと小首を傾けていたが、ふと気づいたようにこんどは、
「風呂はいつだったかね?」
と訊くのであった。古賀が、昨日の正午すこし前でした、と答えると、ちらりと彼の顔を見つめ、ふたたび考えぶかそうな目つきをしてだまりこんでしまったのである。
病院へ入れられてからは、目の疼痛(とうつう)は一層はげしくなって行った。熱も高く、嘔気(はきけ)をもよおし、二、三度きいろい水をはいた。眼瞼が上下(うえした)くっつくのをふせぐためであろう、睫毛(まつげ)はみじかく剪(き)りとられてしまった。一滴一滴おとされる硝酸銀水が刺すようにまたえぐるように目のなかで荒れまわるのであった。看病夫は二時間おきぐらいに何千倍かの昇汞水(しょうこうすい)とおもわれる生温(なまあたた)かい液体で目のなかを洗ってくれた。それがすむと冷たい薬液をひたしたガーゼで静かに目の上をおおい――そして古賀は高熱にうかされながら、うつらうつらしているのであった。
「どうしたんでしょう、大したことはないでしょうね?」と訊いたとき、看病夫が、「俺(おれ)たちにゃわからねえよ」といった、その言葉は彼らにしてみればあたりまえのことを言ったにすぎないのであろうが、その時の古賀にはおそろしくつめたいひびきをもってきかれたのである。夕方かえりしなに、医者は看病夫をよんで何かひそひそと話し合っている様子であった。交替で徹夜して看(み)てやれよ、というようなことも言っていた。その言葉はなにかおそろしい不吉なものを古賀に予想させずにはおかなかったのである。トリッペルをやったことがあるか?と訊かれたときにもちらと兆(きざ)した、そしてあまりの恐ろしさにむりやりに心の隅(すみ)の方へおしやって、こともなげなふうをよそおっていたその不安が、新たな強い力で今つきあげて来たのである。声をあげて医者を呼ぼうとしたが、言葉がのどのへんでひっつったままどうしても出ないのであった。「真実を知ることの恐ろしさ」がそれを拒んだのである。高い天井に電燈のともるころには、泣き出したいような気持にさえなり、夜ふけて田圃(たんぼ)をぶるぶるふるえながらあるいた子供の時の心がよみがえってくるのであった。強い睡眠薬のたすけをかりてうとうと眠りにはいりながら、「風呂で顔を洗うなよ、風呂で顔を洗うなよ」と、入浴の時、ときどき注意していた浴場担当のこえを、古賀はぼんやり夢のなかで聞いていた……。
朝、とおもわれる時刻に古賀は目をさました。
目のまえは、ぼんやりとくらいのである。
古賀はおもわず目の上のガーゼをかきむしって取ってしまった。しかし暗さはおなじことであった。
「先生」
と、古賀はどなった。しかし、返事はなかった。
「看病夫さん」
と、彼はふたたびどなってみた。しかし誰も答えるものはない。
枕(まくら)もとに近い廊下では、朝のいとなみとおもわれるもの音がもう忙(せ)わしげにきこえているのである。古賀はぞっとして恐怖におそわれて寝台の上にガバとはね起きると、大声で何ごとかをわめき立てた。
「興奮するな、興奮するな」と、そのときすぐ近くにいたらしい聞きおぼえのある看病夫のこえが走って来て、しっかと古賀をおさえつけてしまった。
すべてはその時もう終わっていたのである。おそるべき病菌がほんの一夜のうちに、古賀の両眼の角膜をとろとろと溶かすがごとくに破壊し去ってしまったのである。
一切の事実をそれと悟ったとき、古賀の頭脳、古賀のからだじゅうの全神経は、瞬間あらゆる活動を停止してしまった。やがてわれにかえったとき、彼ははじめてしめつけられるような声をはなって号泣したのである。大声をはなって泣き、その声が自分自身の耳朶(じだ)をするどく打つあいだだけ、真暗な恐怖と絶望の世界からわずかに逃(のが)れうるものnごとくに感じたのである。彼は夜に入ってもなお泣いていた。病室の扉をもれ、しんかんとした夜の病舎の長い廊下の壁にひびき高く低く彼のむせぶような泣き声がよっぴてきこえていた……


およそ一と月あまりを病監におくり、見るかげもなく痩(や)せおろとえた古賀がもとの房に帰って来たのは秋風がもうさむざむと肌にしみることおいであった。黒い眼鏡をかけ、看病夫に手をひかれて長い廊下をそろそろとあるいて来、房へ入ると彼はそこの茣(ござ)の上に両手をついて崩(くず)れるように膝を折った。あらあらしく扉のしまる音がし、役人と看病夫の跫音(あしおと)あとおのくにつれて、いまさらのように心をむしばむさびしさがわくようなおもいであった。あやうく泣こうとし、わずかに声を呑(の)むのであった。しばらくはあらそわずにその感傷のなかに身を浸しきり、古賀はじっとうごかずにいた。六ヵ月の刑期は病監にいる間にすでに終っていたので、その時の古賀はあらためて未決囚おなっていた。目の光りを失ってから病監で送った一と月がどんなものであったかを、彼はいまだにはっきりとおもいおこすことができない。今おもいかえしてみても、過去の生活の連続のなかからちょうどその間だけがぽつんと切りとられ、夢と現実との見境いがつかぬようなおもいがするのである。手近にあるものを取っては誰にともなく投げつけ、一週間ばかり半ば手の自由をうばわれていた記憶がある。長い紐(ひも)状のものは犢鼻褌(ふんどし)のはてにいたるまで一切とりあげられてしまったことをおぼえている。何日間か飯をくわずにいて人人を手古摺(てこず)らせたことをおぼえている。きれぎれにそういういろいろなことをあとさきなしに記憶しているにすぎない。いわば当時の彼は半ばものぐるいに近いものであったのであろう。古賀のあたらしい惨(みじ)めな生活というものは、だから、その一と月を経てふたたびもとのところへ帰って来たときからはじまったといえる。うつろな心をいだいていま彼は手さぐりで暗の世界を彷徨(ほうこう)しはじめた。――
房の外では一と月まえとなんのかわりもなく、――いや、おそらくは古賀の生まれない昔からこのとおりであったろうとおもわれるほどに、平凡に、しかし少しの狂いもない規律の正しさで物事が進行しているのであった。刑の確定した被告は送られ、新らしい犯罪者がそれに入れかわる鍵と手錠のつめたい鉄のひびきがひねもすきこえ、やがて夜になり、また朝か来、おなじことが毎日無限にくりかえされてゆく。
古賀ひとりの身の上にどんな不幸が起ろうが、そんなことはなんのかかわりもないことなのだ。個人の幸不幸なんぞはみじんにはねとばし、一つの巨大な歯車がおもいうなりごえを立ててまわっているのである。古賀は虫けらのような、棄(す)て去られ、忘れ去られたみじめな自分自身を感じた。この冷酷な、夢幻をも哀訴をも、ましてあまえかかることなどはうの毛のほどもゆるさない事物の進行がほんとうの現実の姿であると、心魂に徹しておもい知った時、古賀はおそろしい気がした。そうして窓の彼方(かなた)の赤煉瓦(あかれんが)の建物のなかでは、着々として彼を処断するための仕事が進行しつつあるのである。
最初に古賀を襲ったものは発狂の恐怖であった。今までは何ら心を惹(ひ)かれることもなく、むしろ醜いもののようにさえ思いなしていたいろいろの物体の形までが、今は玉のような円満な美しさをもって彼の記憶の視覚によみがえってくる。彼は房のなかにある土瓶(どびん)や、湯呑みなどを引きよせ、冷たいその感触をよろこびながらふっくらと円みをもったそうした器具の肌をなでまわし、飽くことを知らないのであった。そうしているあいだに、ほのかなその愛着は次第に力強いものとなり、ついには喰(く)いつきたいほどの愛着を感じて来、同時に一とたび、ああこうした物の形ももう二度とこの目に見ることはできないのか、ということを思いいたれば、ただそれだけでもう狂わんばかりの心になるのであった。単に生理的に見ただけでも、五官中の最も大きな一つが失われたために、感覚をまとめる中心が戸まどいをしている形で、思考も分裂してまとまりがつかず、精神状態は平衡を失っていた。そういう下地があるうえに、過去において自分の知っている二、三人の狂人のことどもがおもいいだされ、そういう時に限ってまた頭は気味のわるいほどにさえざえとして来、彼らの場合と自分の場合とを一々こまかな点にいたるまでおもいくらべてみ、はては自分もまた狂うであろう、という予期感情の前におののくのであった。古賀の精神状態はそうして一日一日暗澹(あんたん)たるものになって行った。茫然として一日をすごし夜になると、今日もまたどうにか無事にすんだのだな、と自分自身に言いきかせてみるのであった。――そのころの古賀にとて何よりの誘惑は自殺であった。死を唯一の避難所としてえらばなければならないほどに傷ついた人間にとって、自殺がどんなに甘い幻想であるかということは、ものの本などで読んだこともあったが、古賀はいま自分の実感としてしみじみそれを味わうことになったのである。苦しみが耐えがたいものになった時に、ひとたび、いつでも死ねる、という考えにおもいいたれば心はなにか大きなものにおさめとられた時のような安らかさを感じて落ち着くのであった。人間がそこから出て来た無始無終の世界というものが死の背後にあり、死ぬことによって人間はふたたびその故郷へ帰ってゆくがゆえに、それを導びく死というものがかくも甘く考えられるのであろうか、などと時には思われもするほどであった。いつでも死ねる、という安心はしかし、反面には直ちに自殺を決行せしめない原因でもあった。苦しみのなかにも安心を与えてくれるものとして死を考えることをよろこび、心は惹かれながらしかも容易にはそれに手をふれようともしないその気持というものを死と遊ぶとでもいうのであろうか。――自殺の一歩手前で生きている人間は今日どこにでもいる。ただ、(原文五字欠)がそこまで堕(お)ちなければならなかった場合、事柄は厳粛なものを含んでい、人の胸をうたずにはいない。
この真暗な心の状態から古賀がすくわれ、やがて次第に落着きを取りもどして行った、その契機ともなったとっころのものは、聴覚の修練ということであった。分散した精神を統一するためにはただ漫然とあてもなく努力したとて無益であろう、ということに気づき、視覚を失った不具者の自己防衛のためであろうか、ちょうどそのころ、耳が次第に異常な鋭敏さを加えつつあることを自覚していた古賀は、心を聴覚の修練にもっぱらにすることによって精神の統一をもはかろうと努力しはじめたのであった。そうしてその試みは成功したといえる。ここの建物の内部に自然にかもし出される、単調ななにかにもあらゆる複雑な色合いを持った昔の世界に深く心をひそめることによって彼は次第に沈んだ落着きを取り戻(もど)してゆき、その後の古賀にとっては外界とは音の世界の異名にすぎないものとなったのである。一つは現在の環境がかえってそういう試みに幸いするところがあったのであろう、その時からおよそ一年を経た、この物語をはじめたころの古賀の耳や勘のするどさというものは、ほんの昨日今日のめくらとはおもえないほどのものになっていた。われながらふしぎにおもうほど、鳥やけだものの世界はかくもあろうか、などと時にはふっとおもってもみるほどであった。たとえば数多い役人の靴音を一々正確に聞きわけることができ、雑音が耳にはいると同時にそれと結びついた役人の顔や声がすぐに記憶のなかにうかんでくる――それは何も古賀に限ったことではない、少し長くここに住みなれた人間にとっては珍らしいことではないかも知れぬ、しかし古賀はそれ以上に、自分のところへ用事をもってくる靴音をかなり遠くにあるうちに正しくそれと感ずることもできるのである。天候にたいしても――もっともこれは病人などにもそういうものがあるにはあるが、以前とは比較にならぬほどに敏感になって、朝起きてああ今日は雨だな、とおもえば多くその日は雨である。必ずしもからだの快不快によるのではない、ほんの感じでそうおもうだけではあるが、それが適中するのである。もっとも古賀はそれ以外にもう一つ天候を予知する方法を知っていたのであるが。それは雀の鳴きごえによるものであった。ここの建物の軒下にはたくさんの雀が巣くってい、房の前の梧桐(あおぎり)や黄櫨(はぜ)の木陰(こかげ)に群れて一日じゅう鳴いているのであるが、その声の音いろによって、――それまでになるにはかなりの日時と修練とを要しはしたが、古賀はいつかその日の天候を大体いいあてることができるようになったのである。言葉では言い表わしがたい細かな感じのちがいではあるが、晴れる日、くもる日、もしくは雨になる日によって雀の鳴きごえがそれぞれ少しずつ異たひびきをもって聞かれるのである。人間でいえば、沈んだ声とはしゃいだ声の乾(かわ)いた声とうるおいをもった声のちがいででもあるのであろう。小さな動物なぞはやはり、自然の支配をうけることがそれだけ多いのであろうとおもわれる。毎日暗がりにぼんやり坐って小鳥のこえを聞くことは、今の古賀にとっては何ものにもかけがえのないわびしいたのしみになっているのであった。今に刑がきまり、よその刑務所にやられ、そこの窓近くこの愛すべき小鳥の訪ずれがないとしたならばどうであろう、などと時には真剣に考えてみることもあるのである。――古賀はまたこのごろ、季節季節の切り花を買っては房のなかへ入れている。目が見えんくせに花を買うといって役人などがわらうのであるが、古賀のはもちろん見るのではなく、匂(にお)いを愛するのである。だから香(かお)りのない花がはいってくると失望するのだが、その花がやがてしぼんで来、花びらのくずれおちるときの音が、かなりはなれた机の上においてあってさえずいぶんとはっきりきこえるのである。夜ふけの枕もとに、目がさえたまま眠られずにいる古賀はしばしばあまりにも大きすぎるその音を聞き、何か不安を感ずることさえあるのであった。
また、いつかこういうことがあった。何の用事であったか看守につれられて中庭へ出て行ったときのことである。中庭をつききり、向うの廊下の入口へもうだいぶ近づいたらしいと感じたとき、古賀はおもわずはっとして一間(けん)ばかりもわきへとびのいたものである。間髪を入れずその瞬間に、何か大きなものが上から、たったいま古賀があるいていたあたりへはげしい音を立てて落ち、ついでもののこわれる音がしたのであった。きいてみると、囚人が屋根へ上って屋根瓦(やねがわら)の破損箇所を修理していたのであるが、何かの拍子にあやまって束にした瓦をおとしたのであった。少しおくれてあるいていた看守もその時の古賀にはおどろいて、えらいもんだな、みんなそうなるものかな、と感心していた。――これらは耳の鋭敏によるというよりも、からだじゅうの全神経の微妙な統一の結果であろう。
――心が狂うであろ、という眉(まゆ)に火のつくようなさしあたっての苦悩がそのようにしてややうすらいでみると、こんどはしかし、心に余裕がなかったために今までかえりみずにいたひとつの苦悶(くもん)があたらしくはっきりと浮きあがって来るのであった。今後の自分はどうしたものであろう、どういう考えの上に心を据(す)えて生きて行ったものであろう、という問題である。みじめにうちくだかれ、踏みつけられた今となっては、昂然(こうぜん)と眉をあげておごり高ぶっていた過去の自分というものはみじんにくだけてとび、自分が今までその上に安んじて立っていた地盤ががらがらと音を立てて崩れてゆくことを古賀は自覚せずにはいられなかった。えらそうなことを言って強がっていたってだめじゃないか、何もかも叩(たた)きつけられないうちのことさ、と意地わるくせせら笑うこえを古賀ははっきりと耳近くきいた。ただただ与えられた運命の前に頭をたれてひれふすよりほかにはなかったのである。今までは、どんな場合にもつねに一つの焦点を失っていなかった。内から外から彼を通過するあらゆるものはみんなその焦点で整理され統一された。今はそういうものがなくなっている。だがそうかといって、苦しまぎれになんらかの観念的な人生観というもんを頭のなかにつくりあげ、そこに無理に安住しようとしたところでそんなことができるはずのものではない。古賀はよるべのない捨て小舟のような自分自身を感じた。悲しいときには子供のような感傷にひたりきって泣き、少しでも心のらくな時にはよろこび、その日ぐらしの気持で何日かを送った。彼はまだ打撃をはねかえし、暗(やみ)のなかに一筋の光を見るだけの気力をとりかえしてはいなかったのだ。従来、自分の立っていた立場にひとまず帰り、そこから筋道を立ててものごとを考えてみるだけの心の余裕をとりかえしてはいなかったのだ。彼が再たび起ち上ってくるまでには、なお長い暗中模索(もさく)の時が必要とされたのである。――そうしてかなり長い時を経たのちに、古賀が最初に心を落ち着けたところというのは、一つのあきらめの世界であった。それは必ずしも宗教的な意味を含んで言うのではない、捨て小舟が流れのままに身を任せているようにすべてを自然のままに任せきり、いずこへか自分を引きずってゆく力に強いて逆らおうとはせずそのまま従うという態度であった。なるようになるさ、とすべてを投げ出した放胆な心構えであったともいえる。今まで軽蔑(けいべつ)しきっていた、東洋的な匂いの濃い隠遁的(いんとんてき)な人生観や、禅宗でいう悟りの境地といったようなものがたまらない魅力をもって迫って来たりした。そういう気持におちつくための方法としては古賀は好んで自分の貧しい自然科学の知識をほじくり出し、はるかな思いを宇宙やそのなかの天体に向って馳(は)せ、やがてはほろびるといわれる地球のいのちについて考えたりそれからそのなかに住む微塵(みじん)のごとき人間の姿について思いを潜めたりするのであった。すると世の人間のいとなみすべて馬鹿馬鹿しいもののように思われて来るのである。そういう考えが一段と高い立場であり、究極の行きどころのように一応は考えられてくることはなんとしても否めないことであった。「社会」から隔離されているこの世界にあってはひとり古賀のような異常な場合でなくてもすべての人間にとってこういう考えが支配的になる根拠はあったのである。しかし古賀はひとまずそこに落着きはしながら、心の奥ではそこが畢竟(ひっきょう)一時の腰かけにすぎないという気持を絶えず持っていた。理論的に問題を解決していない弱味をはっきり自覚していたからである。いわば、それは、はげしい打撃にうちひしがれた彼の感情がずるずるべったりに到達した場所にすぎなかった。向かし彼の立っていた立場はまだ少しも手をふれることなくそのままであった。そして心の奥底では、古賀にはやはりその立場を信ずる気持があった。そこへやがてはもどって行ける時がくるような気持がほのかにしていた。――彼がしばらくでも腰をおちつけていたその立場が案外に早く崩れねばならない時がしかしやがてやって来た。古賀が第一審の公判廷に立たされる日がそうこうしているうちに近づいて来たのである。
あたらしい身を切るように切実な問題が、さらにもうひとつ急速な解決を迫ってきた。公判廷においてどういう態度をとるべきか、従来自分の守って来た考えにたいしてはどうでなければならないかという問題である。古賀は懊悩(おうのう)し、息づまるほどの苦しみにさいなまれた。食欲は減り見るかげもなく痩せはてて久しぶりに逢った山田弁護士が声をあげておどろいたほどであった。理屈の上からはしかしこの問題は、大して考えるまでもなくすでに早く古賀の頭のなかで解決されていた。ただ明らかにわかっていることを踏み行えないところに懊悩があったのである。くりかえしくりかえし古賀は自分に問い自分に答えてみるのであった。――そうではないか?なぜといって自分はもちろん一定の確固たる理由があってその立場をとるにいたったものである。ところでその後じぶんは思いがけない不幸な目にあった。だが、そうした個人的な不幸というものが一体なんであるか?人がどういう不幸にさらされねばならないか、それを誰が知ろう。どんな惨(みじ)めな目に逢おうとも、自分をしてそうした立場をとらしむにいたった原因が除かれない限りは自分はその立場を棄てえないはずである。棄てたといえばそれはみずからをあざむくものであろう。もちろん、失明した今の自分は自分たちの運動から見れば一箇の廃兵であるにすぎない。しかしそれは、自分が今まで抱(いだ)いていた思想を抛棄(ほうき)しなければならないという理由にはならず、いわんや従来の考えが間違いであったということを宣言しなければならないという理由にはならないのである。……
時にはまた自分の内部にうごめいている醜悪な他の自分を擁護するために、あらゆる有利な口実を探(さが)し出し、ならべたて、それが決して醜くないこと、それこそがっほんとうの自分であることを論証しようとして全力をあげることもあった。が、次の瞬間には彼はあわてて苦しげに頭をうちふり、自分自身をはっきりと真正面に見据え、思いきり冷酷に言い放つのである。――今さらになってあれやこれやと、はずかしくもなくよくいえたもんだ。あらゆる暗い運命をはじめっから承知の上ではなかったのか。不幸な目にあっているのは何もお前ばかりでない、ここに来てからだってお前はすでに多くのそうした不幸をその目で見たはずだ。昨日もお前の筋向いの房にいた同志が発狂した。その時の叫び声はまだお前の耳に残っているだろう、お前の受けた不幸は偶然的な特殊なものであり、それだけ大げさに考えあまえた気持でいるかも知れないが、もっと普通でしかもはるかに(原文七字欠)がどれほど多く世間には行われていることか。そしてそういう不幸の根を(原文十二字欠)ためにはじめたお前の仕事ではなかったのか。それにいまさら土壇場になってやれなんの、やれかんのと。……
古賀は恥じた。人気のない闇のなかで彼はひとり心で赤くなった。
ついに古賀はある程度に心を決するところがあった。しかしその決定的な態度というものを山田弁護士にすら告ぐることなく彼は公判廷にのぞんだ。彼には自信がなかったのだる。きめておいても最後の場合、どうなるかも知れはしないという不安が絶えずあったのである。そして一度思いが年老いた彼の葉はの身の上に走るとき、その不安がますます大きなものになって行くことを古賀は感ぜzにはいられないのであった。
古賀は母にはもう長いこと逢っていなかった。母はその年、彼の捕われた事実を知って郷里から出て来、遠縁の家に身をよせてこの町に滞在していたのである。古賀の失明の事実は役所の方から一応知らせたらしい様子であった。母は幾度も面会に来たが、失明後の古賀は頑固(がんこ)に拒んで逢わずにいたのである。逢った瞬間のおそらく胸もつぶれんばかりの老いた母の心の驚きというものを想像するに堪えなかったのである。
古賀が最後に母と別れたのは四年前の秋であった。
ある争議に関係してしばらく入獄し、やがて保釈出所した古賀はその年久しぶりで故郷へ帰ったのである。わずかの入獄期間中にも状勢が変っており、出て来た彼はある種の決意を要求されていた。その決意を固めるには時日の余裕をおいてなおいろいろと考えてみなくてはならず、陰ながら母に長い別れを告げるためにも一度は帰郷する必要があった。母は地主で同時に村の日用品を一手に商う本家の伯父の家に寄食していた。
――わざと裏口からはいり、茶の間で伯父や伯母と挨拶をしている間、母は台所で何かごそごそと仕事をしているらしい様子であった。その後ろ姿がこっちから見えた。しかしその様子は仕事はもうとうにすんでいながら、わざとそうやっていつまでも手間どっているというふうに古賀には見えた。やがて伯母によばれ、ぬれた手をふきふきやって来たがその顔はむっと怒っているような表情であった。
「帰っただか」と低くふるえるこえで、一口だけ言った。古賀はその表情のかげに、激情を辛うじておさえている、一と皮むけば泣き出すにちがいないものを見てとった。
伯父伯母との間には格別話すこととてもなく三十分も坐っている間にもう言葉はとだえがちであった。好人物の夫婦であっただけに強いことは言わなかったが、やわらかい言葉のなかにはげしい非難の針を含んで古賀を刺すのであった。伯父は古賀の小学校時代の同級生の消息についていろいろ語った。地主の息子で東京に遊学していたものは多くはその年の春卒業していた。だれそれはどこへ就職したとか、だれそれは嫁をもらったとかいうはなしを伯父はするのであった。それが単純なニュースというより以上の意味をもって語られ明らかであった。父の死後は、わずかばかり残った田地を売ってそれを学資として上京していた古賀だ。母はその間、伯父の家に身を寄せて彼の卒業の日を待っていたのだ。それがもう一年足らずというときに突然警察からよばれ、不吉な知らせを受けとらなければならなかったのである。
葉はの居間にあてられている三畳の部屋にはいり、古賀はそこで始めて母と二人きりで向いあった。母の顔を目の前にしげしげと眺(なが)め、五十の坂を越すと人はどんなに急速に老いるものであるかということを古賀ははじめて知ったのである。
「よう丈夫で帰ったのう」というと、母の日に焼けた頰にはみるみる大粒の涙がつたわった。
翌日から古賀は、遊んでいる間にと東京で引き受けて来た翻訳の仕事にとりかかった。少しは兼ねにもなるのだった。夜、母は机に向っている息子の側でおそくまで針仕事をしていた。時々、「これを通してけれ」といって目をこすりこすり古賀の前に針と糸とを出すのであった。古賀の若いたしかな目は待つ間もなく針めどに糸をとおすことができた。糸を糸まきにまく手伝いをさせられることもあった。そういう息子の姿を見るときの母の目はやさしくうるんでいた。母は東京での古賀の生活については少しも聞こうとはしなかったし古賀も別に話はしなかった。母は息子を信じていたのだ。悪者であるといわれていた息子は、帰ってみれば昔よりもやさしく言葉や態度はぐっと大人びて何か頼もしいものさえ感ぜられるのだった。
三月ほど経(た)った。東京からはしきりに手紙が来だし、帰らなければならない日が近づいていた。そういうある晩、古賀は村から五里ほどはなれたT市へそこの劇場にかかった新派劇を見せに母を連れて行った。母は歌舞伎(かぶき)でないことっを不満がりながら、しかし子供のように喜んだ。いくつかの番組のなかに母と子を主題にした劇が一つあった。結末は通俗なハッピー・エンドだが明らかにゴルキーの母をいくぶんか模したものであった。見ている母はいくども吐息をついて言った。
「よくやるのう、まるでうちの親子そのままぞい」
帰りのはげしくゆれる電車のなかで、母はいくどもその夜の印象を語った。そして生きているうちに一度いい歌舞伎が見たいと言った。雑誌の色刷りの口絵かなにかで名優の仕ぐさを見、いろいろ空想し、たのしんでいるらしいのであった。ぼろ電車のはげしい動揺からまもるために、手を背なかからまわして母の小さなからだを抱きながら、古賀は、
「ああお母さん、こんどは東京の歌舞伎につれて行ってあげますよ」と、あきらかな噓(うそ)を言ったのである。……
それから二日後の昼、母が畠(はたけ)に出ている間に古賀は家を出てそれっきり帰らなかった。かんたんなおき手紙のなかには翻訳の稿料を入れておいた。もう稲刈りのはじまる季節であった。空も水も澄みきって、故郷の秋は深い紺碧(こんぺき)のなかに息づいていた。――その後年を経て親子がふたたび逢ったところは、いま古賀がいるこの建物のなかであった。
――面会に来る母の小さな姿を見るごとに古賀はいつも思うのであった。母はこの年になるまで生まれた村を一歩も出たことのなかった百姓女だ。それがこんどはじめて目に見えないある大きな力に押し流されてこの大都会に出て来たのだ。そうして自動車や電車の響きに絶えず驚かされながら、世なれた人間でさえ脅やかされずにはいないこの建物を訪ねてくる。そこではいかめしい鉄扉(てっぴ)や荒々しい人々の言葉におどおどし、自分にはよめない西洋数字で書かれた面会札の番号をいくども側の人にたずね、――人々はその時あまりいい顔をしないだろう――その札を汗ばんだ手にしっかと握りしめながら、そこの腰かけにちょこんと坐って今か今かと呼び出しを待っている。……古賀にはそうした母のめっきり白くなった髪や、しょぼしょぼした目までが見えてくるのだ。時々母は塵紙のような藁半紙(わらばんし)に鉛筆で一字一字刻みこんだような仮名ばかりの手紙を書いてよこす。古賀は房の入口に近く立って、房の外で無表情な言葉で話す役人にその手紙をよんでもらうのである。
公判までに古賀にはなお一つ処理しておきたい問題があった。妻の永井美佐子との関係である。
美佐子は彼の妻であると同時に同志でもあった。ここへ来るとすぐに、古賀は彼女に対し今後はどうにでも自由な行動をとるように、自分のことは忘れてもいい、仕事を忘れるなと言ってやったのである。彼女に対する彼のこういう態度は彼の平生の持論から出発していた。何年ここにいることになるか、生きて出るか死んで出るかもわからない身でありながら、妻に向ってはいつまでもそうして待っておれと強いる、それは許されないことであると古賀は信じていた。古賀はかねがねこの建物のなかにいる同志のある人々に苦々しいものを感じていたのである。彼らの外にいる妻に対する態度というものは、なんのことはない封建時代の家長のごときものなのだ。ここでの自分の生活に同志である妻の生活を全く従属させようとするのである。外にいる彼女たちの上にひたすらに夫の権利をふりまおうとするのである。――言うならあ、その二つ面は一箇の人間において別ちがたく統一されているにかかわらず、同志としての彼女を忘れ、妻としての彼女の反面をのみ強調するにいたるのである。その結果はどうなるか?彼女たちの多くは次第に(原文八字欠)、やがてはいわゆる家庭へ帰った女となる。夫はまた夫でそれをむしろ喜んでいる。(原文八字欠)お互いを高めるためにのみ結合したはずであるのに、彼は今はただ世間普通の男の女にたいする愛情を彼女に感じているに過ぎないのだ。そのうちに彼女たちのうちの弱いものは堕落して行く。経済的に窮迫してそうなって行くものもある。そうならないものでも多くは弱ってなかにいる夫(原文二字欠)精神的影響をあたえるような言葉を面会ごとに口にしたり、手紙に書いたりするようになる。夫もだんだん弱って行く。そうした結果は(原文十字欠)彼の態度にもひびかないわけにはいかない。――これでは(原文八字欠)
自分の周囲にそういう同志の姿をあまりにも多く見せつけられた古賀は、ついにはいわゆる(原文四字欠)の結婚それ自体に反対したい気持にさえなっていたのである。それは度をすぎた機械的な反撥(はんぱつ)ではあったであろうが。彼が美佐子に対して取った態度もそういう気持から出ていた。自由な行動をとるように、という言葉のなかには別れようという意味をも含めたつもりであった。お互いが間違いをしでかさないためにはそれが唯一の方法であると彼は考えたのである。だからその後美佐子が、ある合法的な組織に属している同志上村と恋愛関係にあるらしいとのうわさを耳にした時にも、そういう場合にすべえの男が感ずるにちがいない一応の感情はうけながら、古賀は案外平気でおれたのである。どういう考えで言ったのかは知らぬ、ある時同志の一人が手紙に書いてそれとなく右の事実を古賀に伝えたのであった。その後面会に来た美佐子の様子はいつもと別に変ったとも見えなかった。――目が今のようになってからはしかし古賀の心持は急に変って来たのであった。別れたくない気持がひしひしと迫って来たのである。その変り方を彼は心に恥じはしたが、心身ともに弱り藁一本にもすがりたい気持になっていた当時の彼としては当然のことであったろう。同時に古賀は美佐子の心にもなって考えないわけにはいかなかった。上村とのことがほんとうであるとすれば、美佐子としても自分と別れるつもりでいたにちがいはない。ただそれを言い出すに適当な時を待っていたのであろう。それがこんど古賀がこういう不幸な目にあってみれば、押しきって言い出すわけにはいかず、さぞ困惑していることであろうと思われた。幾度が躊躇(ちゅうちょ)した後公判の迫って来たある日、古賀は彼女にあてて手紙を書いた。ぼくは自分の不幸な状態を口実に君をしばろうとはしない、ぼくの考えはいままでと少しも変ってはいない、と彼はそのなかで言ったのである。書きながらも彼女のうちに封建時代の貞女らしいものを予想し、それをのぞむ心があり、古賀は自分の矛盾を恥じた。だがそれは自分勝手な考えでしかなかった。しばらく経ってから来た美佐子の手紙ははっきり別れることを告げて来たのである。
その手紙が来てから間もなく美佐子は一度面会に来た。今までどおり面会にも来たい、また差入れもしたいから承知してほしいとのことであった。――面会を終えて帰って来、房へ入った時に古賀ははじめて浸(し)みとおるような寂しさをかんじた。彼女の存在が自分のここでの生活を支えていた大きな柱の一つであったことを今はっきりと知ったのである。心の一角がぽこんと凹(くぼ)んだような空虚な寂しさであった。彼はいよいよたったひとりになった自分をするどく自覚した。
古賀はしかし同時にすべてから解き放された自由なおちついた気持が深まって行くのを感じた。葦(あし)のごとく細く弱いしかし容易には折れない受身の力を――弱さの持つ強さといったものを自分のうちに感じたのである。
公判は翌年の二月の終りであった。じとじととみぞれが降り、寒さがじーんと腹にまでこたえるような日であった。古賀ただ一人の分離裁判であった。彼はかねて母が入れてくれた綿入れを重ねて着、いつものように黒い眼鏡をかけ、重い手錠の手をひかれて裁判所の第一号法廷につづく高い三階の階段をのぼった。手錠をかけられる時、いつもよくしてくれる年老いた看守が、「どうも、規則だから、な」と、低く、つぶやくように言ったその言葉を彼はしみじみとした気持で聞いたのである。
古賀は陳述台を前にして立った。
「古賀良吉だね」
裁判長の声を聞いて古賀は低く、はい、と答えた。――一瞬、その直前までかすかにうちふるえ、そわそわしていた彼の気持は水のように澄んで行き、陳述の態度もその瞬間において決定したのである。一応の事実のしらべがすんだ時、人の好(よ)さそうな裁判長(もちろん古賀は声でそう思っただけである)は、
「被告は拘禁中、目をわるくしたそうだが気の毒なことであった」といった。うがちすぎた想像ではあろうがそのあとにすぐつづけて、「被告の今日の心境は?」と尋ねたところから察すると、向うからそのように進んで失明のことを言い出すことによって古賀に自分の不幸について訴える機会を与え、いわゆる転向を彼に語らしむるように仕向けたのかも知れない。それは不幸な古賀に対する裁判長の好意であったのかも知れない、とも考えられるのであった。しかし古賀は「はい」と答えたまま彼の受けた不幸についてはついに一言も言わなかったのである。心境は?と問われた時には、過去において(原文十二字欠)と思うといい、今日はすでに(原文三十四字欠)と答えたのであった。行動の出来ない身で依然その思想を固持するとは被告らの理論体系からすれば矛盾ではないか?とつっこまれたのに対しては、(原文五十二字欠)古賀はそれらの答弁をかんたんに落ちついた低声で答え、そして後半は終った。
古賀の母はその日やはり傍聴に来ていた。あれが良吉かえ?あれが良吉かえ?といって手錠編笠の姿で公判廷にはいってくる古賀を不思議なものを見るように見つめながら、何度も何度も側の同志にきいていた。そしてあれが古賀にちがいないということを口ごもりながら、その同志が告げると、信じがたいと言ったふうにいつまでも小首をかしげているのであった。公判が終り、閉廷が宣言され、古賀がもう帰るのだということがわかると、その時までじっとしていた彼女は突然なにか大声で叫んで立ち上り、幾列にもならべた長い椅子を縫うようにして古賀の方へ走りよって行ったのである。(その声は古賀もきいて何事であろうと不安に感じていた)もちろんそれは人々によってすぐに阻(はば)まれはしたが、それから同時の二、三人と一緒に外へ出、同志たちは近くのうどん屋でうどんをごちそうしたのであるが、そこへ腰をおろすと彼女ははじめてふところから手ぬぐいを取り出し目をおおい、声は立てずにさめざめと泣いたという。――古賀は同志の一人から手紙でその時の様子を詳しく聞いたのである。


そしてその時から今日までちょうど十ヵ月になる。
佐藤弁護士に逢ってから二日後には裁判所から控訴公判の開廷日を通知して来た。――佐藤氏に約束した十日間の日はいつの間にか過ぎ去った。十一月にはいると間もなく霜がおり、朝晩はめっきり寒くなった。三方の石の壁から、うすい茣(ござ)一枚をしいてすわっている床板から、冷えが迫って来て骨身にこたえた。そのころから古賀はこんこんとへんな空咳(からぜき)をし、そして少しずつ痩せて行った。
ある日、彼は突然教誨師(きょうかいし)の来訪をうけた。
「控訴公判の日がきまりましたそうですな」
扉を細目にあけ、その間からからだを半ばなかへ入れて、さぐりを入れるような言い方をするのだ。声もそうなら目つきもそうであろうと古賀は思った。彼が何の用を持って訪れたかを古賀は知っていた。ふっと古賀はなんということなしに(原文十四字欠)を心に感じた。彼はうなずいたりきりだまっていた。
「お母さんは面会にいらっしゃいますか?」
古賀はなおもだまりつづけていた。
「一度公判前にお逢いになってゆっくりお話なすったらいかがです。私もいろいろおはなししてあげましょうが」
古賀はかんたんに礼の言葉を述べたきりでその後は一言も口をきかなかった。目の見えない彼は、手持ぶさたな相手の態度にも無関心をよそおい平気でおれるのであった。――やがて教誨師は出て行った。
翌日は呼び出されて典獄に逢った。
典獄の態度は教誨師のそれよりずつとあらわであった。すべてははっきりとしていた。彼はまず古賀の「心境」をたずね、母の近況をたずねた。それから古賀に向って一つの勧告をした。そしてさすがにこれはやや遠まわしにではあったが、、その勧告を入れるならば、保釈出所は容易であろうということをほのめかして言うのであった。典獄は丁寧な言葉でそれをいい、温顔(そう古賀は想像した)をもって終始した。古賀は言葉すくなに答え、もう少し考えてみたいこともあるからと言って帰って来たのである。帰りの廊下で編笠の隙間(すきま)からのぞかれる彼の顔は、心持ち蒼白(そうはく)に引きしまって見えたが、その口もとはかすかにゆがみ、冷やかな笑いに近いものさえそこにはうかんでいた。……
――古賀はこの数日来の興奮が次第におさまって行くのを感じていた。同時に心の奥に残っていた曖昧(あいまい)なものの最後の一片が、過去の回想に浸っているうちにいつか自然と除かれてしまったことに気づいていた。――一審の公判を終えてから今日まで十ヵ月、その間彼は幾度も弱りまた元気を取り戻した。元気をとりもどし、あたたかい血潮の流れを身裡(みうち)に感じ、萎縮(いしゅく)しきっていた胸がまるくふくらんでくる思いがすると古賀は記憶のなかからいくつかの歌をとり出しては口うさんだりするのであった。それらの歌はみんな彼の過去の闘争の生活と結びついていた。若々しく興奮し、心持ちふるえる押し殺したこえで暗闇のなかで古賀はそれをうたうのだ。だがやがて彼はまたじりじり弱ってゆき、かじかんだ心になるのであった。――あの公判のすんだ当座はわれながら不思議なぐらいに元気で、それまできまらないでいた心も公判を契機にしっかときまったかのように感じさえもした。しかし時が経つにだんだん暗いかげが彼の上をおおいはじめ、ふたたびよるべのない空虚さに心を蝕(うし)ばまれはじめるのであった。公判だというので無理に心を鼓舞し鞭撻(べんたつ)しなければならなかったその緊張がすぎ去ったとき、こんどはいままでにない弛緩(しかん)した心身を感じなければならなかったのである。この空虚なさびしさは理屈ではどうすることもできない、心の深いところに根ざした抗しがたいもののように思われた。不幸な目にあった当座はまだよかった。自分で絶えずなんとかしてはね起きようと努力していたからである。一定の時期そうした状態がつづき、その次に来たその当時のような虚脱状態はどうにも仕様がなかった。ずるずるとほとんど不可抗的な力でニヒルな気持にひきずられて行った。しかし古賀はだんだんそうした場合に処する心の持ち方をもおのずから体得して行った。そういう時にこそ彼は「時」にたよったのである。無理に心を反対の方に駆(か)り立てようとはしないで静かにその暗さのなかに投入して時を待ったのである。すると、やがては心の一角にほのぼのと明るい光がさしてくるのであった。そういう明暗のくりかえしを古賀は幾回も幾回も経験した。春、夏、秋、冬と失明してからちょうど一年をおくり、その季節季節のかわり目にはことに自然の影響を今までになくはげしく受け、からだの弱った時んはやはり心の弱り方もひどかった。しかしついには古賀も行きつくところへ行きついたものであろうか。このごろでは明るい光をみることが多くなり、折々は陰翳(かげ)がさしても自分の工夫でそれを払いのけることができるようになったのである。
最初古賀がその前におののいた冷酷な現実の、個人の幸不幸を一切度外視して悠々(ゆうゆう)とまわっている歴史の歯車の、その前に立って今の彼はもうふるえていない。彼は目をおおわずにその前に立つことができる。いや、このごろの彼は赤はだかな現実の姿を見、その姿について思いを潜めることが、自分の心を落ちつけるにはいちばいい方法であるとさえおもっているのだ。個人の運命を無視して進行する歴史の歯車も、実は人間によってまわされているのであり、古賀もかつてはそのまわし手の一人であった。だが途中であやまって無惨にはねとばされ、今は廃兵となってのこされている。そういう自分自身の姿というものを冷やかに見つめることは寂しいには寂しい。だがそれ以外にほんとうに心のおちつくわざはないのである。街路をあるいている人間のおりどりの顔つきや姿勢などをひとりはなれてこっちから見ていると、なんとはなしにおかしくなって吹き出したくなることがありはしないか。自分自身の惨めな姿をも、一定の間隔をおいてそんなふうに笑ってみるだけの心の余裕を持ちたいと古賀はおもうのだ。何ものの前にもたじろがぬそうした心をしかしどこに求めよう。それは結局はやはり、自分たちの(原文二十七字欠)ことのなかにある。(原文七字欠)自分の運命の暗さにも笑える余裕をあたえてくれる。真暗な独房のなかに骨の髄までむしばむニヒルをかんじながら、しかもなおそこから立ち直って来た古賀の力もそのなかにあった。その(原文二字欠)がもっと身について来た時に(原文二十七字欠)もできるのだ。死の一歩手前にあってなお夢想し、計画し、生きる希望を失わない男。古賀はそんな男を自分の頭のなかにえがいている。
おそらくはこのままの状態でなお何年かつづくであろう生活のなかにあって、自分の(原文六字欠)を自分自身じっと見まもってゆくことに、古賀はたのしい期待をかけている。
控訴公判の開かれる日の少し前、古賀は代筆で佐藤弁護士にあてて手紙を書いた。こんどの公判廷にのぞむ私の態度は、(原文六字欠)格別かわりのないものとして万事よろしくおねがいいたします、と彼はその手紙のなかで言ったのである。

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