本文[編集]

1[編集]

新しく連れて来られたこの町の丘の上の刑務所に、太田は服役後はじめての真夏を迎へたのであつた。厚さ寒さも肌に穏やかで町全体がどこかで眠つて居るかの様な、瀬戸内海に面した小都市の刑務所から、何か役所の都合ででもあつたのであらう、慌(あわ)ただしく只ひとりこちらへ送られて来たのは七月にはいると間もなくの事であつた。太田は柿色の囚衣を青い囚衣に着替へると、小さな連絡船に乗つて、翠巒(すゐらん)のおのづから溶けて流れ出たかと思はれる様な夏の朝の瀬戸内海を渡り、それから汽車で半日も揺られて東海道を走つた。さうして、大都市に近いこの町の、高い丘の上にある、新築後間もない刑務所に着いたのはもうその日の夕方近くであつた。広大な建物の中をぐるぐると引きまはされ、やがて与へられた独房のなかに落着いた時には、しばらくはぐつたりとして身動きもできないほどであつた。久しぶりに接した外界の激しい刺戟と、慣れない汽車の旅に心身ともに疲れはててゐたのである。それから三日間ばかりといふもの続けて彼は不眠のために苦しんだ。一つは居所の変つたせゐもあつたであらう。しかし、昼も夜も自分の坐つてゐる監房がまだ汽車の中ででもあるかのやうに、ぐるぐるとまはつて感ぜられ、思ひがけなく見る事の出来た東海道の風物や、汽車の中で見た社会の人間のとりどりの姿態などが目先にちらついて離れがたいのであつた。ほとんど何年ぶりかで食つた汽車弁当の味も、今も尚(なほ)舌なめずりせずには居られない旨(うま)さで思ひ出された。彼はそれをS市をすぎて間もなく小駅に汽車が着いた時に与へられ、汽車中の衆人の環視のなかでがつがつとした思ひで貪(むさぼ)り食つたのである。――しかし、一週間を過ぎた頃にはこれらすべての記憶もやがて意識の底ふかく沈んで行き、灰いろの単調な生活が再び現実のものとして帰つて来、それと共に新しく連れて来られた自分の周囲をしみじみと眺めまはして見る心の落着きをも彼は取り戻したのであつた。
独房の窓は西に向つて展(ひら)いてゐた。
昼飯を終へる頃から、日は高い鉄格子の窓を通して流れ込み、コンクリートの壁をじりじりと灼(や)いた。午後の二時三時頃には、日はちょうど室内の中央に坐つてゐる人間の身体にまともにあたり、ゆるやかな弧をゑがきながら次第に静かに移つて、西空が赤く焼くる頃ほひに漸(やうや)く弱々しい光りを他の側の壁に投げかけるのであつた。ここの建物は総体が赤煉瓦とコンクリートだけで組み立てられてゐたから、夜は夜で、昼のうち太陽の光りに灼け切つた石の熱が室内にこもり、夜ぢゆうその熱は発散しきることなく、暁方(あけがた)わづかに心持ち冷えるかと思はれるだけであつた。反対の側の壁には通風口がないので少しの風も鉄格子の窓からははいらないのである。太田は夜なかに何度となく眼をさました。そして起き上ると薬罐(やくわん)の口から生ぬるい水をごくごくと音をさせて呑んだ。その水も洗面用の給水を昼の間に節約(しまつ)しておかねばならないのであつた。呑んだ水はすぐにねつとりした脂汗(あぶらあせ)にあつて皮膚面に滲(にじ)み出た。暁方の少しの冷えを感ずる頃、手を肌にあてて見ると塩分でざらざらしてゐた。――冬ぢゆうカサカサにひからび、凍傷のために紫いろに腫(は)れて肉さへ裂けて見えた手足が、黒いしみを残したままもとどほりになつて、脂肪がうつすらと皮膚にのつて、若々しい色艶を見せたかと思はれたのもほんの束(つか)の間(ま)の事であつた。今ははげしい汗疣(あせも)が、背から胸、胸から太股(ふともも)と全身にかけて皮膚を犯してゐた。汗をぬぐふために絶えず堅い綿布でごしごし肌をこするので強靭さを失つた太田の皮膚はすぐに赤くただれ、膿(うみ)を持ち、悪性の皮膚病のやうな外観をさへ示しはじめたのである。――監房内の温度はおそらく百度を越え、それと同時に房内の一隅の排泄物が醗酵(はつかう)し切つて、饐(す)えたやうな汗の臭ひにまじり合つてムツとした悪臭を放つ時など、太田は時折封筒を張る作業の手をとどめ、一体この広大な建物の中には自分と同じやうなどれほど多くの血気壮(さか)んな男たちが、この悪臭と熱気のなかに生きたその肉体を腐らせつつあるのだらうか、などと考えながら思はず胸をついて出る吐息とともに空を眺めやると、小さな鉄格子の窓に限られたはるかな空は依然白い焔のやうな日光に汎濫(はんらん)して、視力の弱つた眼には堪へがたいまでにきらめいてゐるのであつた。


ほぼ一月(ひとつき)もするうちに、単調なこの世界の生活の中にあって、太田は、いつしか音の世界を楽しむことを知るやうになつた。
彼の住む二階の六十五房は長い廊下のほぼ中央にあたつてゐた。この建物の全体の構造から来るのであらうか、この建物の一廓に起るすべての物音は自然に中央に向つて集まるやうに感ぜられるのであつた。その内部が幾つにも仕切られた、巨大な一つの箱のやうな感じのするこの建物の一隅に物音が起ると、それは四辺の壁にあたつて無気味にも思はれる反響をおこし、建物の中央部にその音は流れて、やがて消えて行くのである。――廊下を通る男たちの草履(ざうり)のすれる音、二三人ひそひそと人目をぬすんで話しつつ行く気(け)はひ、運搬車の車のきしむ響き、三度々々の飯時に食器を投げる音、しのびやかに歩く見まはり役人の靴音と佩剣(はいけん)の音。――すべてそれらの物音を、太田は飽くことなく楽しんだ。雑然たるそれらの物音もここではある一つの諧調をなして流れて来るのである。人間同士、話をするといふことが、堅く禁ぜられてゐる世界であつた。灰色の壁と鉄格子の窓を通して見る空の色と、朝晩目にうつるものとてはただそれだけであつた。だがそのなかにあつて、なほ自然にかもし出される音の世界はそれでもいくらか複雑な音(ね)いろを持つてゐたといひうるであらう。それも一つには、あたりが極端な静けさを保つてゐるために、ほんのわづかな物音も物珍らしいリズムをさへ伴つて聞かれるのである。――この建物の鼾や横にわたしは樋(とひ)の隅などにはたくさんの雀が巣くつてゐた。春先、多くの卵がかへり、やうやく飛べるやうになり、夏の盛りにはそれはおびただしい数にふえてゐた。暁方(あけがた)空の白む頃ほひと、夕方夕焼けが真赤に燃える頃ほひには、それらのおびただしい雀の群が鉄格子の窓とその窓にまでとどく桐の葉陰に群れて一せいに鳴きはやすのである。その奥底に赤々と燃えてゐる(原文五文字欠)を包んで笑ふこともない、きびしい冷酷さをもつて固くとざされた心にも、この愛すべき小鳥の声は、時としては何かほのぼのとした温かいものを感じさせるのであつた。それは多くは幼時の遠い記憶に結びついてゐるやうである。――時々まだ飛べない雀の子が巣から足をすべらせて樋の下に落ちこむことがあつた。親雀が狂気のやうにその近くを飛びまはつてゐる時、青い囚衣を着て腕に白布をまいた雑役夫たちが、樋の中に竹の棒をつつつ込みながら何か大声に叫び立ててゐる。それは高い窓からも折々うかがはれる風景であつたが、ほんの一瞬間ではあるが、それは自分の現在の境遇を忘れさせてくれるに足るものであつた。――五年といふ月日は長いが、すべてこれらの音の世界が残されてゐる限りは、俺も発狂することもないだらう、などと太田は時折思つてみるのであつた。
だが、何にも増して彼が心をひかれ、そしてそれのみが唯一の力とも慰めともなつたところのものは、やはり人間の声であり、同志たちの声であつた。
その声はどんな雨の日にも風の日にも、これだけは欠くることなく正確に一日に朝晩の二回は聞くことができた。朝、起床の笛が鳴りわたる。起きて顔を洗ひ終ると、すぐに点検の声がかかる。戸に向かつて痩(や)せて骨ばつた膝を揃へて正座する時には、忘れてはならぬ屈辱の思ひが今更のやうにひしひしと身うちに徹して感ぜられ、点検に答へて自身の身に貼りつけられた番号を声高く呼びあげるのであつた。欝結し、欝結して今は堪へがたくなつたものが、一つのはけ口を見出して迸(ほとばし)り出づるそれは声なのである。人々はこの声々に潜むすべての感情を、よく汲みつくし得るであらうか。――太田はいつしかその声々の持つ個性をひとつひとつ聞きわけることができるやうになつた。――一九三×年、この東洋第一の大工業都市にほど近い牢獄の独房は、太田と同じやうな罪名の下に収容されてゐる人間によつて満たされてゐたのだ。太田は鍛へ上げられた敏感さをもつて、共犯の名をもつて呼ばれる同志達がここでも大抵一つおきの監房にゐることをすぐに悟ることができた。その声のあるものは若々しい張りを持ち、あるものは太く沈欝であつた。その声を通してその声の主がどこにどうして居るかをも知ることが出来るのであつた。時々かねて聞きおぼえのある声が消えてなくなることがある。二三日してその声がまた、少しも変らない若々しさをもつて思はざる三階の隅の方からなど聞えてくる時には、ひとりでに湧き上つてくる微笑をどうすることもできないのであつた。だが、一度(ひとたび)消えてつひに二度とは聞かれない声もあつた。その声は何処に拉(らつ)し去られたのであらうか。――朝夕の二度はかうして脈々たる感情がこの箱のやうな建物のあらゆる隅々に波うち、それが一つになつてふくれ上つた。


2[編集]

間もなく日が黄いろ味を帯びるやうになり戸まどひした赤とんぼがよく監房内に入つて来ることなどがあつて、漸(やうや)く秋の近さが感ぜられるやうになつた。さういふある日の午後少し廻つた頃、太田は張り終へた封筒を百枚づつせつせと束にこしらへてゐた。
彼の一日の仕上高、ほぼ三千枚見当にはまだだいぶ開きがあつた。残暑の激しい日光を全身に受けてせつせと手を運ばせてゐると、彼はひはかに右の胸部がこそばくゆくなり、同時に何か一つのかたまりが胸先にこみあげてくるのを感じたのである。何気なく上体をこす途端に、そのかたまりはくるくると胸先をかけ巡り、次の瞬間には非常な勢で口の中に迸(ほとばし)り出て、満ち溢れた余勢で積み重ねた封筒の上に吐き出されたのであつた。
血だ。
ぼつたりと大きな血塊が封筒のまん中に落ち、飛沫がその周囲に霧のやうに飛んだ。それはほどんと咳入ることもなく、満ち溢れたものが一つのはけ口を見出して流れ出たやうに極めて自然に吐き出された。だが次の瞬間には恐ろしい咳込みがつづけさまに来た。太田は夢中で側の洗面器に手をやりそのなかに面(かほ)をつつこんだ。咳はとめどもなく続いた。その度ごとに血は口に溢れ、洗面器に吐き出された。血は両方の鼻孔からもこんこんとして流れ、そのために呼吸が妨げられるとそれが刺戟となつて更に激しく咳入るのであつた。
洗面器から顔をあげて喪心(さうしん)したやうにその中を凝(ぢ)つとのぞき込んだ時には、血はべつとりとその底を一面にうづめてゐた。溜つた血の表面には小さな泡がブツブツとできたりこはれたりしてゐた。一瞬間前までは、自分の生きた肉体を温かに流れてゐたこの液体を、太田は何か不思議な思ひでしばらく見つめてゐた。彼は自分自身が割合に落着いてゐることを感じた。胸はしかし割れるかと思はれるほどに動悸を打つてゐた。顔色はおそらく白つぽく乾いてゐたことであらう。静かに立上ると報知機をおとし、それからぐつたりと彼は仰向(あおむ)けに寝ころんだ。
靴音がきこえ、やがて彼の監房の前で立止まり、落ちてゐた報知機をあげる音がきこえ、次に二つの眼が小さな覗き窓の向うに光つた。
「何だ?」
太田は答へないで寝たままであつた。
「おい、何の用だ?」光線の関係で内部がよくは見えなかつたのであらう、コトコトとノックする音が聞えたが、やがて焦立(いらだ)たしげにののしる声がきこえ、次に鍵がガチヤリと鳴り、戸が開いた。
「何だ!寝そべつてゐる奴があるか、どうしたんだ?」
太田がだまつて枕もとの洗面器を指さすと、彼は愕然とした面持で凝つとそれに見入つてゐたが、やがてあわててポケットから半巾(ハンケチ)を出して口をおほひ、無言のまま戸を閉ぢ急ぎ足に立ち去つた。
やがて医者が来て簡単な診察をすまし、歩けるか、と問ふのであつた。太田がうなづいて見せると彼は先に立つて歩き出した。監房を出る時ふと眼をやると、洗面器の血潮はすでに夏の日の白い光線のなかに黒々と固まりかけてゐて、古血の臭ひが鼻先に感ぜられた。
日のなかに出ると眼がくらくらとして倒れさうであつた。赤土は熱気に燃えてうすい草履をとほしてぢかに足に来た。病舎までは長い道のりであつた。どれもこれも同じやうな幾つかの建物の間を通り、広い庭を横ぎり、又暗い建物の中に入りそれを突き抜けた。病舎に着くとすぐに病室に入れられ、氷を胸の上にのせて、太田は絶対仰臥の姿勢を取ることになつたのである。
七日の間、彼は夜も昼もただうつらうつらと眠りつづけた。その間にも、凝結した古血のかたまりを絶えず吐き続けた。彼は自分の突然落ちこんだ不幸な運命について深く考へて見ようともしなかつた。いや、彼のぶつかつた不幸がまだ余りに間近くて彼自身がその中に於て昏迷し、その不幸について考へて見る心の余裕を取り戻してゐなかつたのであらう。やがて落着きを充分に取り戻すと同時に、どんなみじめな思ひに心が打ち摧(くだ)かれるであらうか、といふことが意識の奥ふかくかすかに予想されるのではあつたが、重湯(おもゆ)と梅ぼしばかりで生きた七日ののち、彼は漸く静かに半身を起して身体のあちらこちらをさすつて見て、この七日の間に一年も寝ついた病人の肉体を感じたのである。まばらひげの伸びた顎(あご)を撫でながら、彼はしみじみと自分の顔が見たいと思つた。ガラス戸に這ひ寄つて映して見たが光るばかりで見えなかつた。やがて尿意をもよほしたので静かに寝台をすべり下り、久しぶりに普通の便器に用を足したが、その便器のなかに澱(よど)んだ水かげに、彼ははじめてやつれた自分の顔を映して見る事ができたのであつた。
八日目の朝に看病夫が来て、彼の喀痰(かくたん)を採(と)つて行つた。
それから更に二日経つた日の夕方、すでに夕飯を終へてからあわただしく病室の扉が開かれ、先に立つた看守が太田に外へ出ることを命じたのである。そして許された一切の持物を持つて出る事をつけ加へた。夕飯後の外出といふことは殆んどないことである。彼は不審さうにつつ立つて看守の顔を見た。
「転房だ、急いで。」
看守は簡単に言つたままずんずん先に立つて歩いて行く。太田は編笠を少しアミダにかぶつてまだふらふらする足を踏みしめながらその後に従つたが、――さうしてやがて来て了つたここの一廓は、これはまたなんといふ陰気に静まりかへつた所であらう。一体に静かに沈んでゐるのはここの建物の全体がさういふ感じなのだが、その中にあつてすらこんなところがあると思はれるやうな、特にぽつんと切り離されたやうな一廓なのである。成るほど刑務所の内部といふものは、行けども行けども尽きることなく、思ひがけない所に思ひがけないものが伏せてある(原文三文字欠)にも似てゐるとたしかに此処へ来ては思ひ当るやうなところであつた。もう秋に入つて日も短くなつた事とで、すでにうつすらと夕闇は迫り、うす暗い電気がそこの廊下にはともつてゐた。建物は細長い二棟で廊下をもつて互に通ずるやうになつてゐる。不自然に真白く塗つた外壁がかへつてここでは無気味な感じを与へてゐるのである。この二棟のうち南側の建物の一番端の独房に太田は入れられた。何か聞いて見なければ心がすまないやうな気持で、ガチヤリと鍵の音のした戸口に急いで戻つて見た時には、もうコトコトと靴音が長い廊下の向うに消えかけてゐた。
房内はきちんと整頓されてゐてきれいであつた。入つて右側には木製の寝台があり、便所はその一隅に別に設けてあり、流しは石でたたんで水道さへ引かれてゐるのである。試しに栓をひねつて見ると水は音を立てて勢よくほとばしり出た。窓は大きく取つてあつて寝台の上に坐りながらなほ外が見通されるくらゐであつた。太田が今日まで足掛け三年の間、幾つかその住ひを変へて来た独房のうちこんな綺麗で整ひすぎる感じを与へた所は曾(か)つてどこにもなかつた。それは彼を喜ばせるよりもむしろ狼狽(らうばい)させたのであつた。俺は一体どこへ連れて来られたのであらう、ここは一体どこなのだ?
あたりは静かであつた。他の監房には人間が居ないのであらうか、物音一つしないのである。それにさつきの看守が立去つてからほぼ三十分にもなるであらうが、巡回の役人の靴音も聞えない。いつも来るべきものが来ないと言ふことは、この場合、自由を感じさせるよりもむしろ不安を感じさせるのであつた。
腰をかけてゐた寝台から立上つて、太田は再び戸口に立つて見た。心細さがしんから骨身に浸みとほつてぢつとしては居られない心持である。扉にもガラスがはめてあつて、今暮れかからうとする庭土を低く這つて、冷たい靄(もや)が流れてゐるのが見えるのである。
「…………」
ふと彼は人間のけはひを感じてぎよつとした。二つおいて隣りの監房は広い雑居房で、半分以上も前へせり出してゐるために、しかもその監房には大きく窓が取つてあるがために、その内部の一部分がこつちからは見えるのであつた。廊下の天井に高くともつた弱い電気の光りに眼を定めて凝つと見ると、窓によつて大きな男がつつ立つてゐるのだ。瞬きもせず眼を据ゑてこつちを見てゐるのだが、男の顔は恐ろしく平べつたくゆがんで見えた。何とはなしに冷たい氷のやうなものが太田の背筋を走つた。その男の立つてゐる姿を見ただけで、何か底意地のわるい漠然たる敵意が向うに感ぜられるのだが、太田は勇気を出して話しかけて見たのであつた。
「今晩は。」
それには更に答へようともせず、少し間をおいてから、男はぶつきら棒に言ひ出したのである。
「あんた、ハイかライかね?」
その意味を太田は解(げ)しかねた。
「あんた、病気でここへ来なすつたんだらう。なんの病気かといふのさ。」
「ああ、さうか。僕は肺が悪いんだらうと思ふんだが。」
「ああ、肺病か。」
突ぱねるやうに言つて、それからペツとつばを吐く音がきこえた。
「あんたも病気ですか。なんの病気なんです?そしていつからここに来てゐるんです。」
明らかに軽蔑されつき放された心細さに、いつの間にか意気地なくも相手に媚(こ)びた調子でものを言つてゐる自分をさへ感じながら、太田はせき込んで尋ねたのであつた。
「わしは五年ゐるよ。」
「五年?」
「さうさ、一度ここへ来たからにや、焼かれて灰にならねえ限り出られやしねえ。」
「あんたも病気なんですか、それでどこか悪いんです?」
男は答へなかつた。くるつと首だけ後に向けて、ぼそぼそと何か話してゐる様子だつたが、又こつちを向いた。その時気づいたことだが、彼は別にふところ手をしてゐる風にもないのだが、左手の袖がぶらぶらし、袖の中がうつろに見えるのであつた。
「わしの病気かね。」
「ええ。」
「わしは、れ・ぷ・ら、さ。」
「え?」
「癩病だよ。」
しやがれた大声で一と口にズバリと言つてのけて、それから、ざまア見やがれ、おどろいたか、と言はんばかりの調子でヘツヘツヘツとひつつるやうな笑ひ声を長く引きながら監房の中に消えて了つた。その笑ひ声に応じて、今まで静かであつた監房の中にもわつといふ叫び声が起り、急に活気づいたやうな話し声がつづいて聞えて来るのであつた。すつかり惨めに打ちひしがれた思ひで太田は自分の寝台に帰つた。いつか脂汗が額にも背筋にもべとべとににじんでゐた。わきの下に手をあてて見ると火のやうに熱かつた。二三分、狭い監房の中を行つたり来たりしてゐたが、それから生温(なまぬる)い水にひたした手ぬぐひを額にのせてぐつたりと横になり、彼は暁方(あけがた)までとろとろと夢を見ながら眠つた。

3[編集]

朝晩吐く痰に赤い色がうすくなり、やがてその色が黒褐色になり、二週間ほど経つて全然色のつかない痰が出るやうになり、天気のいい日にはぶらぶら運動にも出られるやうになつた頃から、漸く太田にはこの新らしい世界の全貌がわかつて来たのである。ここへ来た最初の日、雑役房の大男が、「ハイかライか?」と突然尋ねた言葉の意味もわかつた。この隔離病舎の二棟のうち、北川には肺病患者が、南側には癩病患者が収容せられてゐるのであつた。癩病人と棟を同じくしてゐる肺病患者は太田だけで、南側の建物の一番東のはしに只ひとりおかれてゐた。
社会から隔離され忘れられてゐる牢獄のなかにあつて、更に隔離され全く忘れられてゐる世界がここにあつたのだ。何よりも先づ何か特別な眼をもつて見られ、特別な取扱ひを受けてゐるといふ感じが、新しくここへ連れ込まれた囚人の、彼等特有の鋭くなつてゐる感覚にぴんとこたへるのであつた。十分間おきぐらゐにはきまつて巡回する筈(はず)の役人もこの一廓にはほんのまれにしか姿を見せなかつた。たとへ来てもその一端に立つて、全体をぐるりと一(ひ)と睨(にら)みすると、そそくさと急いで立ち去つてしまふのである。担当の看守はもう六十に手のとどくやうな老人で、日あたりのいい庭に椅子を持ち出し、半ばは眠つてゐるのであらうか、半眼を見開いていつまでも凝(ぢ)つとしてゐることが多かつた。監房内にはだからどんな反則が行はれつつあるか、それは想像するに難くないのである。すべてこれらの取締上の極端なルーズさといふものは、だが、決して病人に対する寛大さから意識して自由を与へてゐる、といふ性質のものではなく、それが彼等に対するさげすみと嫌悪の情とからくる放任に過ぎないといふことは、事毎(ことごと)にあたつての役人の言動に現はれるのであつた。用事があつて報知機がおろされても、役人は三十分あるいひは一時間の後でなければ姿を見せなかつた。漸く来たかと思へば、監房の一間も向うに立つて用事を聞くのである。うむ、うむ、とうなづいてはゐるが、しかしその用事が一回で事足りたといふことは先づないといつていいのである。――余程後の事ではあるが、太田は教誨師(けうくわいし)を呼んで書籍の貸与方を願ひ出たことがあつた。監房に備へつけてある書籍といふものは、二三冊の仏教書で、しかもそのいづれもが表紙も本文もちぎれた読むに堪へない程度のものであつたから。教誨師が仔細らしくうなづいて帰つたあとで、掃除夫の仕事をここでやつてゐる、同じ病人の三十番が太田に訊くのであつた。――「太田さん教誨師に何を頼みなすつた?」「なに、本を貸してもらはうと思つてね。」「そりや、あなた、無駄なことをしなすつたな。一年に一度、役に立たなくなつた奴を払い下げてよこす外に、肺病やみに貸してくれる本なんかあるもんですが。第一、坊主なんかに頼んで何がしてもらへます?あんたも共産党ぢやないか。頼むんなら赤裏(典獄のこと)に頼むんですよ。赤裏に。赤裏がまはつて来た時に、かまふこたアない、恐れながらと直願(じきぐわん)をやるんですよ。」この前科五犯のしたたか者の辛辣(しんらつ)な駁言(ばくげん)には一言もなかつたが、成程その言葉どほりであつた。頼んだ本はつひに来なかつた。そして、二度目に逢つた時、教誨師は忘れたものの如くによそほひ、こつちからいはれて始めて、ああ、と言ひ、何ぶん私の一存ばかりでも行かぬものですから、と平気で青い剃(そり)あとを見せた顎を撫でまはすのであつた。――読む本はなく、ある程度の健康は取り戻しても何らの手なぐさみも許されず、終日茫然として暗い監房内に、病める囚人達は発狂の一歩手前を彷徨(ほうくわう)するのである。
健康な他の囚人達のここの病人に対するさげずみは、役人のそれに輪をかけたものであつた。きまつた雑役夫はあつても何かと口実を作つてめつたに寄りつきはしなかつた。仕方なく掃除だけは病人のうち比較的健康な一人が外に出て掃いたりするのである。衣替(きが)へなどを請求しても曾つて満足なものを支給されたためしはなかつた。囚衣から手拭のはしに至るまで、もう他では使用に堪へなくなつたものばかりを、択(よ)りに択(よ)つて持つてくるのである。病人達は、尻が裂けたり、袖のちぎれかけた柿色の囚衣を着てノロノロと歩いた。而(そ)してかういふ差別は三度々々の食事にさへ見られた。味噌汁は食器の半分しかなく飯も思ひなしか少なかつた。病人は常に少ししか食へないものと考へるのは間ちがひだ。病人といふものは食慾にムラがあり、極端に食はなかつたり、極端に食つたりするものなのだ。一度肺病やみの一人が雑役夫をつかまへて不平を鳴らしたが、「何だと!遊んで只まくらつてゐやがつて生意気な野郎だ!」声と共に汁をすくふ柄杓(ひしやく)の柄がとんで頭を割られ、そのために若者は三日間ほど寝込んでしまひ、それ以後は陰でブツブツは言つても大きな声でいふものはなくなつた。
さげすまれ、そのさげすみが極端になつて言葉に出して言ふでもなく、何を言つてもソツポを向き、時々ふふんと鼻でわらひ、病人の眼の前で雑役夫と看病夫とが顔を見合して思はせぶりにくすりと笑つて見せたりする、それはいい加減に彼等の尖(とが)つた神経をいらいらさせるしぐさであつた。だが、憎まれ、さげすまれる、といふ事は考へやうによつてはまだ我慢の出来ることである。憎まれるといふ場合は勿論、さげすまれるといふ場合でも、まだ彼は相手にとつてはその心を牽(ひ)くに足りる一つの存在であるのだから。次第にその存在が人々にとつて興味がなくなり、路傍の石のやうに忘れられ、相手にもされなくなるといふことは、生きてゐる人間にとつては我慢のできないことであつた。
ここの世界で発行されてゐる新聞が時々配られる。それにはいろいろ耳寄りなことが書いてある。所内には新しくラヂオが据ゑつけられ、収容者に聞かせることになつた。図書閲覧の範囲が拡大された。近いうちに、巡回活動写真が来る、等々。だがそれらはすべてこの一廓の人間にとつては全く無縁の事柄なのである。病人は寝てゐるのが仕事だ。悪い事をしてここへ来て、遊んで寝そべつて、しかも毎日高い薬を呑ませてもらつてゐるとは、何と冥利(みやうり)の尽きたことではないか、といふのであつた。――刑務所内の安全週間の無事に終つた祝ひとして、収容者全部に砂糖入りの団子が配られ、この隔離病舎にだけはどうしたものかそれが配られず、後で炊事担当も病舎の担当もここの事は「忘れて」ゐたのだ、と聞かされた時、たうとう欝結してゐたものが一人の若者の口から迸(ほとばし)り出た。「なに、忘れて居たつて!ようし思ひ出させてやるぞ!」雑居三房にこの二た月寝つきりに寝てゐたひよろひよろした肺病やみの若者がいきなりすつくと立ち上つた。あつけに取られてゐる同居人を尻目にかけて、病み衰へた手に拳を握ると、素手で片つぱしから窓ガラスをぶつこはし始めたのである。恐ろしい大きな音を立ててガラスの破片が飛び散つた。後難を恐れた同居人の一人が制止しょうとして後から組みつくと、苦もなくはねとばされてしまつた。物音に驚いた看守と雑役夫がかけつけて漸く組み伏せるまで、若者は狂気のやうに荒れ狂つた。後手に縛り上げられた静脈のふくれ上つた拳にはガラスの破片が突き刺さつて鮮血で染まつてゐた。若者はそのまま連れて行かれ、三日間をどこかで暮して帰つて来た。病人だからといつて懲罰はまぬがれ得なかつたのである。ただそれが幾分が軽かつたぐらゐのものであらう。青い顔をして帰つて来、監房へ入るとすぐに寝台の端に手をささへて崩折(くづを)れたほどであつたが、無口な若者はそれ以来益々無口になり、力のないしかし厳しい目つきでいつまでもぢつと人の顔を見つめるやうになり、間もなく寒くなる前に死んでしまつた。
さきに言つたやうに太田は癩病患者と棟を同じくして住んでゐった。
半ば物恐ろしさと半ば好奇心とから、彼はこの異常な病人の生活を注目して見る様になつた。――雑居房の四人の癩病人は、運動の時間が来ると、ぞろぞろと広い庭の日向(ひなた)へ出て行つた。太田はその時始めて、彼らの一々の面貌をはつきり見ることができたのである。色のさめた柿色の囚衣を前のはだけたままに着てのろのろ歩み、ぢつとうづくまり、ふと思ひ出したやうに小刻みに走つて見、又は何を思ひ出したのかさもさもをかしくてたまらないといつた風に、ひつつつたやうな声を出して笑つたりする、残暑の烈しい秋の日ざしのなかの、白昼公然たる彼らのたたずまひはすさまじいものの限りであつた。四人のうちの二人はまだ若く、一人は壮年で他の一人はすでに五十を越えてゐるかと思はれる老人であつた。若者は二人とも不自然にてかてかと光る顔いろをし、首筋や頰のどちらかには赤い大きな痣(あざ)のやうな型があつた。人の顔を見る時には、まぶしさうに細い眇目(すがめ)をして見るのであるが、ぢつと注意して観(み)ると、すでに眼の黒玉はどつちかに片よつてゐるのであつた。二人とも二十歳をすぎて間もあるまいと思はれる年頃であるが、おそらくは少年時代のうちにもうこの病ひが出たものであらう、自分の病気の恐ろしさについて深くは知らず、世の中もこんなものと軽く思ひなしてゐるらしい風情(ふぜい)が、他からもすぐに察せられ、喜々として笑ひ興じてゐる姿などは一層見る人の哀れさをそそるのである。――壮年の男は驚くほどに厳丈な骨組みで、幅も厚さも並はづれた胸の上に、眉毛の抜け落ちた猪首(ゐくび)の大きな頭が、両肩の間に無理やりに押し込んだやうにのしかかつてゐるのである。飛び出した円い大きな眼は、腐りかけた魚の眼そのままであつた。白眼のなかに赤い血の脈が縦断に走つてゐる。その厳丈な軀(からだ)にもかかはらず、どうしたものか隻手で、残つた右手も病気のために骨がまがりかけたままで伸びず、箸すらもよくは持てぬらしいのであつた。彼は監房内にあつて、時々何を思ひ出してか、おおつと唸り声を発して立ち上り、まつ裸になつて手をふり足を上げ、大声を出しながら体操を始めることがあつた。その食慾は底知れぬほどで、同居人の残飯は一粒も残さず平らげ、秋から冬にかけては、しばしば暴力をもつて同居人の食料を強奪するので、若い他の二人は秋風が吹く頃から、又一つの苦労の種がふえるのであつた。――そしてこの男は、時々思ひ出したやうに、食ひものと女とどつちがええか、今ここで何でも好きな食ひものと、女を一晩抱いて寝ることとどつちかをえらべ、といはれたら、お前たちはどつちをとるか、といふ質問を他の三人に向つてするのである。老人(としより)はにやにや笑つて答へないが、若者の一人が真面目くさつて考へこみ、多少ためらつた末に「そりや、ごつつおうの方がええ」と答へ、「わしかてその方がええ」ともう一人の若者がそれに相槌(あひづち)を打つのを聞くと、その男は怒つたやうな破(わ)れ鐘(がね)のやうな声を出して怒鳴るのであつた。「なんだと!へん、食ひものの方がいいつて!てめえたち、ここへ来てまでシャバに居た時みてえに嘘ばつかりつきやがる。食ひものはな、ここに居たつて大して不自由はしねえんだ。三度々々食へるしな、ケトバシでも、たまにやアンコロでも食へるんだ、……女はさうはいかねえや。てめえたち、そんなことを言ふ口の下から、毎晩ててんこうばかししやがつて、この野郎。」それは感きはまつたやうな声を出して、ああ、女が慾しいなアと嘆息し、みんながどつと笑つてはやすと、それにはかまはずブツブツと口のなかでいつまでも何事かを呟(つぶや)いてゐるのであつた。
最後の一人はもう五十を越えた老人でふだんは極く静かであつた。顔はしなびて小さく眼はしよぼしよぼし、絶えず目脂(めやに)が流れ出てゐた。両足の指先の肉は、すつかりコケ落ちて、草履を引つかけることもできず、足は紐で草履の緒に結びつけてゐた。感覚が全然ないのであらう、泥のついた履物のままでづかづかと房内に入りこむのは始終のことであつた。まだ若い時田舎の百姓家のゐろりの端で居眠りをし、もうその頃は病気がかなり重(おも)つて足先の感覚を失つてゐたのだが、その足を炉のなかへ入れてブスブスと焼けるのも知らないでゐたといふ、その時の名残りの焼傷(やけど)の痕(あと)が残つてゐて、右足の指が五本とも一つにくつついてのつぺりしてゐた。二十歳をすぎると間もなくこの病気が出、三池の獄に十八年ゐたのを始めとして、今の歳になるまで全生涯の大半を暗いこの世界で過して来たといふこの老人は、もう何事も諦めてゐるのであらうか、言葉少なにいつも笑つてゐるやうな顔であつた。時々、だが、何かの拍子に心の底にわだかまつてゐるものがバクハツすると、憤怒の対象は、いつもきまつて同居のかの壮年の男に向けられ、恐ろしい老人のいつこくさで執拗(しうえう)に争ひつづけるのであつた。
この四人が太田の二つおいて隣りの雑居房に居り、最初太田はそれだけで、彼の一つおいて隣りの独房は空房であるとのみ思つてゐた。それほどその独房はひつそりとして静かであつたのである。だが、そこにもじつは人間が一人ゐるのであつた。運動に出はじめて間もなくのある日のこと、太田はその監房の前を通りしなに何気なく中を覗いてみた。光線の関係で戸外の明るい時には、外から監房内は見えにくいのであつた。ずつと戸の近くまですりよつて房内を見た時に、思ひもかけず寝台のすぐ端に坊主頭がきちんと坐つて凝(ぢ)つとこちらを見てゐる眼に出つくはし、彼は思はずあツといつてとびしさつた。
次の日彼が運動から帰つて来た時には、その男は戸の前に立つてゐて、彼が通るのを見ると丁寧に頭を下げて挨拶をしたのであつた。その時太田ははじめてその男の全貌を見たのである。まだ二十代の若い男らしかつた。太田はかつて何かの本で読んだ記憶のある、この病気の一つの特徴ともいふべき獅子面(ライオンフエース)といふ顔の型(タイプ)を、その男の顔に始めてまざまざと見たのであつた。眼も鼻も口も、すべての顔の道具立てが極端に大きくてしかも平べつたく、人間のものとは思はれないやうな感じを与へるのである。気の毒なことにはその上に両方の瞼(まぶた)がもう逆転しかけて居て、瞼の内側の赤い肉の色が半ば外から覗かれるのであつた。
太田が監房に帰つて暫くすると、コトコトと壁を叩く音が聞え、やがて戸口に立つて話しかけるその男の声がきこえて来た。
「太田さん。」看守が口にするのを聞いてゐていつの間にか知つたものであらう、男は太田の名を知つてゐた。
「お話しかけたりしてご迷惑ではないでせうか。じつは今まで御遠慮してゐたのですが。」
声の音(ね)いろといふものが、ある程度までその人間の人柄を示すことが事実であるとすれば、その男が善良な性質の持主であるらしいことがすぐに知れるのであつた。こんな世界では恐ろしく丁寧なその言葉遣ひもさしてわざとらしくは聞えず、自然であつた。
「いいえ、迷惑なことなんかちつともありませんよ。僕だつて退屈で弱つてゐるんだから。」
太田は相手の心に気易さを与へるために出来るだけ気さくな調子で答へたのである。
「始めてここへいらした時には、嘸(さぞ)びつくりなすつたでせうね。……あなたは共産党の方でせう。」
「どうしてそれを知つてゐるんです。」
「そりやわかります。赤い着物を着てゐてもやつぱりわかるものです。わたしのここへ入つた当座は丁度あなた方の事件でやかましい時であつたし……、それに肺病の人はみんな向うの一舎にはいる規則です。肺病でこつちの二舎に入るのは思想犯で、みんなと接近させないためですよ。戒護のだらしなさは、上の役人自身認めてゐるんですからね。……あなたの今ゐる監房には、二年ほど前まで例のギロチン団の小林がゐたんですよ。」
その名は太田も知つてゐた。それを聞いて房内にある二三の、ぼろぼろになつた書物の裏表紙などに、折れ釘の先か何かで革命歌の一とくさりなどが書きつけてある謎が解けたのである。
「へえ、小林がゐたんですかね、ここに、それであの男はどうしました。」
「死にましたよ。お気を悪くなすつては困りますが、あなたの今ゐるその監房でです。引取人がなかつたものですから、薬瓶で寝台のふちを叩きながら革命歌かなんか歌つてゐるうちに死んぢやつたのですが。」
いかにもアナーキストらしいその最後に一寸暗い心を誘はれるのであつた。そして今、この男に向かつて病気の事について尋ねたりするのは、痛い疵(きず)をえぐるやうなもので残酷な気もするが、一方自分といふ話相手を得てしみじみとした述懐の機会を持つたならば、自(おのづか)ら感傷の涙にぬれて、彼の心も幾分が慰められることもあらうか、などと考へられ、それとなく太田は聞いてきたのである。
「それで、あなたはいつからここへ来てゐるんです。いつの頃から悪いんですか。」
「わたしはこの病舎に来てからもう三年になります。二区の三工場、指物(さしもの)の工場です。あそこで働いてゐたんですが急に病気が出ましてね、手先や足先が痺(しび)れて感覚がなくなつて来たことに自分で気づいた頃から、病気はどんどん進んで来ましたよ。もつとも自覚がないだけ余ほど前から少しづつ悪くはなつてゐたんでせうが。人にいはれて気がついて見ると、成程親指のつけ根のところの肉、――手の甲の方のです、その肉なんかずつと痩せてゐますしね。第一子供の時の写真から見ると、二十頃の写真はまるつきり人相が変つてゐます。子供の時は、ほんたうにかはいい顔でしたが。」
「誤診といふこともあるでせうが、医者は詳しく調べたんですか。」
「ええ、手足が痺れるぐらゐのうちは、私もまだ誤診であつてくれればいいとそればかり願つてゐましたが、それから顔が急に腫れはじめた時にもまだ望みは失ひませんでしたが……しかし、今となつてはもう駄目です、今は……、太田さん、あなたも御覧になつたでせう、え、御覧になつたでせうね、そしてさぞ驚かれたことでせう、眼が……、眼がもうひつくりかへつて来たのです。赤眼になつて来たのです。丁度子供が赤んべえをしてゐる時のやうな眼です。それからは私ももう諦めてゐます。こはい病気ですね。こいつは。何しろ身体が生きながら腐つて行くんですからね。どうもこいつには二通りあるやうです。あの四人組の一人のおとつつあん、あの人のやうに肉がこけて乾からびて行くのと、それはまだいいが、ほんとに文字どほり腐つて行く奴とです。そしてどうもわたしのはそれらしいのです。それでゐて身体には別になに一つわるいところはないのです。胃などはかへつて丈夫になつて、人一倍よけいに食ふし……、餓鬼です、全くの餓鬼です。業病(ごふびやう)ですね。何といふ因果なこつたか……。」
急迫した調子で言つて来たかと思ふと、パツタリと言葉がとだえた。どうやら泣いてゐるらしい。いい加減な慰めの言葉などは軽薄でかけられもせず、いひやうのない心の惑乱を感じて太田はそこに立ちつくしてゐた。丁度その時靴音がきこえ、その男の監房の前に来て立ちどまり、戸を開けて、面会だ、と告げたのである。
男は出て行つた。どこで面会をするのであらうか。気をつけて見ると、この病舎には別に面会所とてないのである。庭の片隅のなるべく人目にかからない所ですますらしいのである。面会に来たのは杖をつき、腰の半ば曲つた老婆であつた。黄色い日の弱々しく流れた庭の一隅に、影法師をおとして二人は向ひ合つて立つてゐる。老婆はハンケチで眼をおさへながら何かくどくどとくりかへしてゐるやうだ。やがてものの十五分も経つと、立会の看守は時計を出して見、二人の間をへだて、老婆を連れて向うへ立去つて行つた。男は立つて、壁のかげに隠れるその後姿を見送つてゐたが、やがて担当にうながされて帰つて来た。
「太田さん、太田さん、」監房へ入るとすぐに男はおろおろ声でいふのであつた。「ばばアはね、うちのばばアはたとへからだが腐つても死なないで出て来いといふんです。それまでばばアも生きてゐる、死ぬ時は一しよに死ぬから短気な真似はするなつて、くり返しくり返しばばアはいふんです……。」
それから今度は声を放つて彼は泣き出したのである。――とぎれとぎれの話の間に、太田は男の名を村井源吉といひ、犯罪は殺人未遂らしく、五年の刑期だといふことだけを知ることができた。あなたの事件は何です、と遠慮がちに聞いてみると、「つまらない女のことでしてね、つい刃傷沙汰(にんじゃうざた)になつて了(しま)つたのです。」さういつたままぷつつりと口をつぐんで、自分の過去の経歴と事件の内容については何事も語らなかつた。
「ねえ、太田さん、わたしは諦めようたつて諦められないんだ。わたしはまだ二十五になつたばかりです。そして社会では今まで何一つ面白い目は見てゐないんです。今度出たら、今度シャバに出たらと、そればつかり考へてゐたら、そのとたんにこんな業病にかかつてしまつて……。私はばばアのいふとほり、なんとかして命だけは持つて出て、出たら三日でも四日でもいい、思ひ切り仕たい放題をやつて、無茶苦茶をやつて、それがすんだら街のまん中で電車にでもからだをブツつけて死んでやるつもりです。嘘ぢやありません、私はほんたうにそれをやりますよ。」
全く心からさう思ひつめてゐるのであらう、涙でうるんだ声で話すその言葉には、ぢかに聞き手の胸に迫つてくるものがあつて、太田は心の寒くなるのを感じ、声もなくいつまでも戸の前に立つてゐた。


4[編集]

冬がすぎ、その年も明けて春となり、いつか又夏が巡つていた。
肺病患者の病室では病人がバタバタと倒れて行つた。今まで運動にも出てゐたものがバツタリと出なくなり、ずつと寝込んでしまふやうになると、その監房には看病夫が割箸に水飴(みづあめ)をまきつけたのを持つて入る姿が見られた。「ああ、飴をなめるやうぢやもう長くはないな。」ほかの病人達はそれを見ながらひそひそと話し合ふのだ。熱気に室内がむれて息もたえだえに思はれる土用の夜更けなどに、けたたましく人を呼ぶ声がきこえ、その声に起き上つて窓から見ると、白衣の人が長い廊下を急ぎ足に歩いて行くのが見える。そのやうな暁方(あけがた)には必らず死人があつた。重病人が二人ある時には、一方が死ねば間もなく他の一方も死ぬのがつねであつた。牢死といふことは外への聞えも余りよくはない、それで役所は病人の引取人に危篤の電報を打つのであつたが、迎ひに来るものは十人のうち一人もなかつた。たとへ引取りに来るものがあつたとしても、大抵は途中の自動車の中で命をおとすのである。――牢死人の死体は荷物のやうに扱はれ、鼻や、口や、肛門やには綿がつめられ、箱に入れられて町の病院に運ばれ、そこで解剖されるのである。
暑気に中(あ)てられた肺病患者が一様に食慾を失つてくると、庭の片隅のゴミ箱には残飯が山のやうに溜り、それが又すぐに腐つて堪へがたい悪臭を放つた。一寸側を通つても蠅の大群が物すごい音を立てて飛び立つた。「肺病のたれた糞や食ひ残しぢや肥(こや)しにもなりやしねえ。」雑役夫がブツブツいひながらその後始末をするのだ。その残飯の山をまた、かの雑居房の癩病人達が横目で見て、舌なめずりをしながら言ふのである。「へへツ、肺病の罰あたりめが、結構ないただきものを残して捨ててけつかる。十等めし一本食ひ余すなんて、なんといふ甲斐性(かひしやう)なしだ!」それから彼等は、飯の配分時間になると、きまつて運搬夫をつかまへて、肺病はあんなに飯を残すんだから、その飯を少し削つてこつちへ廻してくれ、と執拗に交渉するのであつた。時たま肺病のなかに一人二人、昼めしなど欲しくないといふものが出来、さすがに可哀さうに思つてそれを彼等の方へ廻してやると、満面に諂(へつら)ひ笑ひを浮べて引つたくるやうにして取り合ひ、さういふ時には何ほど嬉しいのであらうか、病舎には食事時間の制限がないのをいいことにして、ものの一時間以上もかかつてその飯を惜しみ惜しみ食ふうのである。ひとしきり四人の間にその分配について争ひが続いたのち、静かになつた監房の窓ごしに、ぺちやぺちやといふ彼等癩病人達の舌なめずりの音を聞く時には、そぞろに寒け立つ思ひがするのであつた。――彼らは少しも変らないやうに見えたが、しかし仔細に見ると、やはり冬から春、春から夏にかけて、わづかながら目に見える程の変化はその外貌に現はれてゐるのである。夏中は窓を開け放してゐても、この病気特有の一種の動物的悪臭が房内にこもり、それは外から来るものには堪へがたく思はれる程のもので、相当の老看守すら扉をあけることを嫌つて運動にも出さず放(ほ)つておくことが多かつた。さうすると彼らは不平の余り足を踏みならし、一種の寄声を発してわめき立てるのであつた。


5[編集]

夜なかに太田は眼をさました。
もう何時だらう、少しは眠つたやうだが、と思ひながら頭の上に垂れてゐる電燈を見ると、この物静かな夜の監房の中にあつて、ほんの心持だけではあるがそれが揺れてゐるやうにおもはれる。凝(ぢ)つと見ると、夏の夜の驚くほどに大きな白い蛾が電燈の紐にへばりついてゐるのだ。何とはなしに無気味さを覚えて寝返りを打つ途端に、ああ、またあれが来る、といふ予感に襲はれて太田はすつかり青ざめ、恐怖のために四肢がわなわなとふるへてくるのであつた。彼は半身を起してぢつとうづくまつたまま心を鎮めて動かずにゐた。すると果してあれが来た。どつどつどつと遠いところからつなみでも押しよせて来るやうな音が身体の奥にきこえ、それが段々近く大きくなり、やがて心臓が破れんばかりの乱調子で狂ひはじめるのだ。身体ぢゆうの脈管がそれに応じて一時に鬨(とき)の声(こゑ)をあげはじめ、血が逆流して頭のなかをぐるぐるかけ巡るのがきこえてくる。歯を食ひしばつてぢつと堪へてゐるうちに眼の前がぼーつと暗くなり、意識が次第に痺(しび)れて行くのが自分にわかるのである。――暫くしてほつと眼の覚めるやうな心持で我に帰つた時には、激しい心臓の狂ひ方は余程治まつてゐたが、平静になつて行くにつれて、今度はなんともいへない寂しさと漠然とした不安と、このまま気が狂ふのではあるまいかといふ強迫観念におそはれ、太田は一刻もぢつとしては居れず大声に叫び出したいほどの気持になつて一気に寝台を辷(すべ)り下り、荒々しく監房のなかを歩きはじめるのであつた。手と足は元気に打ちふりつつ、しかも泣き出しさうな顔をしてうつろな眼を見張りながら。――ものの二十分もさうしてゐたであらうか、やがてやや常態に復(かへ)ると心から安全と共に深い疲れを感じ、気の抜けた人間のやうに窓によりかかつて深い呼吸をした。彼は肺に浸(し)み渡る快よい夜気を感じた。窓から月は見えなかつたが星の美しい夜であつた。――強度の神経衰弱の一つの徴候ともおもはれるかうした心悸亢進に、太田はその年の夏から悩まされはじめたのである。それは一週に一度、或ひは十日に一度、きまつて夜に来た。思ひ余つた彼は、体操をやつて見たり、静坐法をやつて見たりした。しかしその発作から免れることはできなかつた。体操や、静坐法や――太田はさういふものの完全な無力をよく熟知しながらも自分を欺いてそんなものに身を任せてゐたのだ。病気と拘禁生活による心身の衰弱にのみ、かうした発作を来す神経の変調の原因を帰すことは彼にはできなかつた。彼はその原因のすべてでないまでも、有力な一つを自分自身よく自覚してゐたのである。――若い共産主義者としての太田の心に、いつしか自分でも捕捉に苦しむ得体(えたい)の知れない暗いかげがきざし、その不安が次第に大きなものとなり、確信に満ちてゐた心に動揺の生じ来つたことを自分自ら自覚しはじめ、そのために苦しみはじめた頃から、彼は上述の発作に悩むやうになつたのであつた。
太田の心のなかに漠然と生じ来つた不安と動揺とは一体どんな性質のものであつたろらう、彼自身はつきりとその本質をつかみえず、そこに悩みのたねもあつたのだが、動揺といふ言葉を、彼が従来確信をもつて守り来つた思想が、何らかのそれに反対の理論に屈服して崩れかかつて来た――といふ意味に解するならば、いま、彼の心にきざして来た暗い影といふのはさういふ性質のものではない、といふことだけはいへる。太田の心の動揺は、彼がここの病舎で癩病患者および肺病患者のなかにあつて、彼等の日常生活をまざまざと眼の前に見、自分も亦同じ患者の一人としてそこに生活しつつある間に、夏空に立つ雲の如くに自然にわいて来たものであつた。それはつかまへどころのないしかし理窟ではないところに強さがある、といつた性質のものであつた。――言ふならば太田は冷酷な現実の重圧に打ちひしがれて了つたのだ。共産主義者としての彼はまだ若く、その上にいはばインテリにすぎなかつたから、実際生活の苦汁をなめつくし、その真只中から自分の確信を鍛へ上げた、といふほどのものではなかつた。ふだんは結構それでいいのだが、一度たとへやうもない複雑な、そして冷酷な人生の苦味につき当ると、自分の抱いてゐた思想は全く無力なものになり終り、現実の重圧に只押しつぶされさうな哀れな自己をのみ感じてくるのである。苛酷な現実の前に闘ひの意力をさへ失ひ、へなへなと崩折れて了ひ――自分が今までその上に立つてゐた知識なり信念なりが、少しも自分の血肉と溶け合つてゐない、ふはふはと浮き上つたものであつたことを鋭く自覚するやうになるのである。一度この自覚に到達するといふことは、なんといふ恐ろしい、そしてその個人にとつては不幸なことであらう。理論の理論としての正しさには従来どほりの確信を持ちながらも、しかもその理論どほりには動いて行けない自分、鋭くさういふ自分自身を自覚しながらもしかも結局どうにもならない自分、――それを感じただけでも人は容易に自殺を思はないであらうか。
自分自身が今そこでさいなまれつつある不幸な現実の世界を熟視しながら太田は思ふのであつた。この厳しい、激しい、冷酷な、人間を手玉に取つて翻弄するところのものが今日の現実といふもののほんたうの姿なのだ。そしてさういふ盲目的な意志を貫ぬかうとして荒れ狂ふ現実を、人間の打ち立てた一定の法則の下にしつかと組み伏せようとする、それこそが共産主義者の持つ大きな任務ではなかつたか。そして、自分も亦、その為に闘つて来たのではなかつたか。――さうは一応頭のなかで思ひながら、彼の本心はいつかその任務を果すための闘争を回避し、苦しい現実の中から、ただひたすらに逃げ出すことばかりを考へてゐるのであつた。彼は積極的に生きようといふ欲望にも燃えず、凡(すべ)ての事柄に興味を失ひ、只々現実を嫌悪し、空々寞々たる隠者のやうな生活を夢のやうに頭のなかにゑがいて、ぼんやり一日をくらすやうになつた。それは、結局はやはり病にむしばまれた彼の生気を失つた肉体が原因であつたのであらうか。――だが、時々は過去に於て彼をとらへた情熱が、再び暴風のやうにその身裡(みうち)をかけ巡ることがあつた。太田は拳を固め、上気した熱い頰を感じながら、暗い独房のなかで若々しく興奮した。しかし次の瞬間にはすぐに「だが、それが何になる、死にかかつてゐるお前にとつて!」といふ意地のわるい囁(ささや)きがきこえそれは烈しい毒素のやうに一切の情熱をほろぼし、彼は再び冷たい死灰のやうな心に復(かへ)るのであつた。
太田がさうした状態にある時に、一方彼が日々眼の前に見るかの癩病人たちは、身体がもう半ば腐つて居りながら、なんとその生活力の壮(さか)んなこと!食慾は人の数倍も旺盛(おうせい)で、そのためにしばしば与へられた食物の争奪のためにつかみ合ひが始まるほどであり――又性慾もおさへ難く強いらしく、夏のある夕べ、かの雑居房の四人がひとしきり猥(みだ)らな話に興じたあげく、そのうちの一人が、いきなり四ツんばひになつて動物のある時期の姿態を真似ながら、げらげらと笑ひ出したのを見た時には、太田は思はず、ああ、と声をあげ、人間の動物的な、盲目的な生の衝動の強さに打たれ、やがてそれを憎み――生きるといふことの浅ましさに戦慄(せんりつ)したのであつた。
おなじ夏のある暁方(あけがた)、肺病の病舎では、三年越し患(わづら)つた六十近い老人が死んだ。死んで死体を運び出し、寝台を見た時、誰も世話するものもなかつたその老人の寝台の畳はすでに半ば腐り、敷布団と畳の間には白いかびが生え、布団には糞がついてそれがカラカラにひからびてゐた。――そして同居人である同じ病人達は、この死に行く老人の枕もとでこの老人に運ばれる水飴の争奪に余念もなかつたのである。
何といふ浅ましい人生の姿であらう。
太田は慰めのない、暗い気持で毎日を暮した。病気が原因する肉体の苦痛とは別に、このままで進んだならばいつしか生きる事をも苦痛と感ずるやうな日が、やがて来るだらうと思はれた。この予感に間違ひはないのだ。その時のことを思ふと彼の心はふるへた。――人間は屡々(しばしば)思ひもかけぬ事に遭遇し、何か運命的なものをさへ感ずることがあるものである。太田がこの病舎生活のなかにあつて、ゆくりなくも昔の同志、岡田良造に逢つたのは、ちゃうど、彼がこの泥沼のやうな境地におちこみ、そこからの出口を求めて、のた打ちまはつてゐる時であつた。


6[編集]

うとうとと眠りかけてゐる耳もとに、遠くの監房の扉を開く音が聞える。――人の足音に何か物を運び入れるやうな物音もまじつてゐるやうだ。全身が何とはなしに熱つぽく、一日のうちの大部分の時間を寝てくらすことの多くなつた太田は、半ば夢のなかで、遠く離れたその物音を聞き、どうもあれは一房らしいが、今迄ずつと空房であつたあの雑居房に誰か新しい患者でも入るのであらうか、などとぼんやり考へてゐた。
「太田さん、又新入(しんいり)ですよ。一房です。」興奮をおし殺したやうな村井の声がその時きこえて来た。単調な毎日を送つてゐるここの病人達にとつては、新らしい患者の入つてくるといふことは、何にも増して大きな刺戟を与へる事実であつた。――だからその翌日になつて、朝の運動時間が始まつた時、太田は待ちかねて興味に眼を輝やかせながらその新入の患者の姿を見たのである。そしてその男の姿をちらりと垣間見(かいまみ)た瞬間に、彼はおもはずハツと思ひ、軽い胸のときめきをさへ感じてそこに立ちつくして了つたのであつた。うららかな秋の一日で病舎の庭には囚人達の作つた草花の数々が咲き乱れてゐた。その花園の間を縫うて作られた道が運動の時の歩行にあてられてゐるのだが、その歩行者の姿を監房の中からつかまへようとすると、廊下のガラス戸が日光に光つてよくは見えなかつた。その上、監房の扉にはめられたガラスは小さいので、視野が狭く、歩行者の姿がその視界に入つたかと思ふとすぐ消えて了ふのである。――さういふ状態の下に、暫く扉の前に立つてゐて、その新入の男の姿を眼に捕へた瞬間に太田はわれ知らず、おやと思つたのである。
その男は言ふまでもなく癩病患者であつた。しかも外見から察したところ、病勢は、もうかなり進んでゐる模様である。まだ若い男らしいのだ。病気のために変つた相貌から年の頃ははつきりわからないが、その手のふり方や足の運び方には若々しいものが感ぜられるのである。顔はほとんど全面紫色に腫(は)れあがり、その腫れは、頸筋(くびすぢ)にまで及んでゐた。頭髪はもう大分うすくなり、眉毛も遠くから見え難(にく)いほどである。さほど痩せては居らず、骨組みの逞(たく)ましい大きな男である。
その男の運動の間ぢゆう、扉の前に立ちつくしてまたたきもせず、男が監房へ帰つてからも胸騒ぎの容易に消ゆることのなかつた太田は、その日から異常な注意をもつてその男の一挙一動を観察するやうになつた。――太田は確かにその男の顔に見おぼえがあつたのだ。その顔を見る毎に心の奥底をゆすぶる何ものかが感ぜられるのであるが、只それが何であるかを俄(には)かに思ひ出すことができないのであつた。日を経るに従つてその顔は次第に彼の心にくつきりとした映像を灼(や)きつけ、眼をつぶつて見ると、業病のために醜くゆがんだその顔の線一つ一つが鮮やかに浮き上つて来、今は一種の圧迫をもつて心に迫つてくるのであつた。――夜、太田は四五人の男達と一緒に一室に腰をおろしてゐた。それは大阪のどこか明るい街に並んだ、喫茶店ででもあつたらう。何かの集会の帰りででもあつたらうか。人々は声高に語り、議論をし、而(さう)してその議論はいつ果てるとも見えないのであつた。――太田は又、四五人の男達と肩をならべてうす闇の迫る場末の街を歩いてゐた。悪臭を放つどぶ川がくろぐろと道の片側を流れてゐる。彼等の目ざす工場の大煙突が、そのどぶ川の折れ曲るあたりに冷然とつつ立つてゐるのだ。彼らはそれぞれ何枚かのビラをふところにしのばせてゐた。而して興奮をおさへて言葉少なに大股に歩いて行く。――今はもう全く切り離されてすでに久しい曾つての社会生活のなかから、そのやうな色々の情景がふつと憶ひ出され、さうした情景のどこかにひよつこりとかの男の顔が出て来さうな気が太田にはするのである。鳥かげのやうに心をかすめて通る、これらの情景の一つを彼はしつかりとつかまへて離さなかつた。それを中心にしてそれからそれへと彼は記憶の糸をたぐつて見た。そこから男の顔の謎を解かうと焦(あせ)るのである。それはもつれた糸の玉をほぐすもどかしさにも似てゐた。しかし病気の熱に犯された彼の頭脳は、執拗な思考の根気を持ち得ず、直に疲れはてて了ふのであつた。しつこく摑んでゐた解決の糸口をもいつの間にか見失ひ、太田は仰向けになつたままぐつたりと疲れて、いつの間にかふかぶかとした眠りのなかに落込んで了ふのである。――真夜なかなどに彼はまたふつと眼をさますことがあつた。目ざめてうす暗い電気の光りが眼に入る瞬間にはつと何事かに思ひ当つた心持がするのだ。或ひは彼は夢を見てゐたのかも知れない。今はもう名前も忘れかけてゐる昔の同志の誰れ彼れの風貌が次々に思ひ出され、その中の一つがかの男のそれにぴつたりとあてはまつたと感ずるのであつた。だがそれはほんの瞬間の心の動きにすぎなかつたのであらう。やがて彼の心には何物も残つてはゐないのだ。手の中に探りあてたものを再び見失つたやうな口惜しさを持ちながら、そのやうな夜は、明け方までそのまま目ざめて過すのがつねであつた。
その新入(しんいり)の癩病人についてはいろいろと不審に思はれるふしが多いのである。彼はここへ来た最初の日から極めて平然たる風をして居り、その心の動きは、むしろ無表情とさへ見られるその外貌からは知ることができなかつた。前からここにゐる患者達は、新入の患者に対しては異常な注意を払ひ、罪名は何だらう、何犯だらう、などといろいろと取沙汰し合ひ、わけても運動の時間には窓の鉄格子につかまつて新入者の挙動をじろじろと見、それから、ふん、と仔細らしく鼻をならし、どうもあれはどこそこの仕事場で見たやうな男だが、などといつては各々の憶測について又ひとしきり囁きあふのである。新入者の方では又、直にかうした皆の無言の挨拶に答へてにこにこと笑つて見せ、その時誰かが一寸でも話しかけようものなら、直にそれに応じて進んでべらべらとしゃべり出し、自分の犯罪履歴から病歴までをへんに悲しさうな詠嘆的な調子で語つて聞かせ、相手の好奇心を満足させるのであつた。――だが今度の新入者の場合は様子がそれとはまるでちがつてゐた。彼はいつもここの世界には不似合な平然たる顔つきをし、運動の時にはもう長い間、何回も歩き慣れた道のやうに、さつさと脇目もふらずかの花園の間の細道を歩くのである。どこかえたいの知れない所へ連れて来られたといふ不安がその顔に現はれ、きよときよととした顔つきをし、何か問ひたげにきよろきよろあたりを見まはす、といつたやうな態度をその男に期待してゐた他の患者たちは失望した。
静かではあるが、どこか人もなげにふるまつてゐるやうな落着き払つたその男の態度に、彼らは何かしらふてぶてしいものを感じ、つひには、へん、高くとまつてゐやがる、といつた軽い反感をさへ抱くやうになり、白い眼を光らしてしれりしれりと男の横顔をうかがつて見るのであつた。
静かと言へばその男のここでの生活は極端に静かであつた。一日に一度の運動か、時たまの入浴の時ででもなければ人々は彼の存在を忘れがちであつた。だだつ広い雑居房にただひとり、男は一体何を考へてその日その日を暮してゐるのであらうか。書物とてここには一冊もなく、耳目を楽します何物もなく、一日々々自分の肉体を蝕(むし)ばむ業病と相対しながら、ただ手を束(つか)ねて無為に過すことの苦しさは、隣りの男とでも話をする機会がなければ発狂するの外はないほどのものである。新入の男はしかし、唯一言(ひとこと)の話をするでもなく又報知機をおろして看守を呼ぶといふこともない。すべて与へられたもので満足してゐるのであらうか。何かを新しく要求する、といふこととてもないのだ。しかも運動時間ごとに見るその顔は病気に醜く歪んではゐるが、格別のいらだたしさを示すでもなく、その四肢は軽々と若々しい力に満ちて動くのである。
太田が怪訝(けげん)に思ふ事の一つは、その男は今まで空房であつた雑居房に只ひとり入れられてゐるといふ事であつた。今四人の患者のゐる雑居房は、八人ぐらゐを楽に収容しうる大きさだから、彼をもそこに入れるのが普通なのである。その犯罪性質が、彼をひとりおかなければならぬものなのであらうか。それならば太田のすぐ一つおいて隣りの、今、村井源吉のゐる独房に彼をうつし、村井を四人の仲間に入れるといふこともできるのである。村井の犯罪は何も独房を必要とする性質のものではないのだから。――ここまで考へて来た太田は、以前その男の顔を始めて見てどこか見覚えがある、と感じた瞬間に心の底にちらりと兆(きざ)した不吉な考へに再び思ひ当り、今まで無理に意識の底に押込んでおいたその考へが再び意識の表面にはつきりと浮び上つてくるのに出会つて慄然としたのであつた。――自分の一つおいて隣りの監房に移してはならぬ独房の男、自分に近づけてはならぬ犯罪性質を持つた男、といへば、自分と同一の罪名の下に収容されてゐる者以外にはないのである。――かの新入の癩病患者は同志に違ひないのだ。そしていつの日にか曾つて自分の出会つた事のある同志の一人の変り果てた姿に違ひはないのだ!
太田はかの癩病人が、自分の同志の一人であらう、といふ考へを幾度か抛棄(ほうき)しようとした。すべての否定的な材料を色々と頭の中にあげて見て、自分の妄想を打破らうと試みた。そして安心しようとするのであつた。太田はあの浅ましい癩病人の姿が、じぶんの同志であるといふことを断定する苦痛に到底堪へる事はできまいと思はれた。しかし又他の一方では、確かに彼が同志であるといふ事を論証するに足る、より力強い幾つかの材料を次々に挙げる事もできるのである。彼は何日かの間のこの二つの想念の闘ひにへとへとに疲れはてたのであつた。その間かの男は毎日思ひ出せさうで思ひ出せないその顔を、依然運動場に運んで来るのである……。
だか、物事はいや応なしに、やがては明かにされる時が来るものである。その男がここへ来て一月余りを経たある日、手紙を書きに監房を出て行つた村井源吉がやがて帰つてくると、声をひそめてあわただしく太田を呼ぶのであつた。
「太田さん、起きてますか。」
「ああ、起きてますよ、何です。」
「例の一房の先生ね、あの先生の名前がわかりましたよ。」
「なに、名前がわかつたつて!」太田は思はず身をのり出して訊いた。
「どうしてわかつたの?そして何ていふんです。」
「岡田、岡田良造といふんですよ。今、葉書を見て来たんです。」
「え、岡田良造だつて。」
村井は葉書を書きに廊下へ出て行き、そこで例の男が村井よりも先に出て書いて行つた葉書を偶然見て来たのであつた。癩病患者の書いたものに対するいとはしさから、書信係の役人が板の上にその葉書を張りつけ、日光消毒をしてゐたのを見て、村井は男の名を知つたのである。「え、岡田良造だつて。」と太田の問ひ返した言葉のなかに、村井は、なみなみならぬ気はひを感じた。「どうしたのです、太田さん。岡田つて知つてでもゐるんですか。」
「いや……、ただ一寸きいたやうな名なんだが。」
さり気なく言つて太田は監房の中へ戻つて来た。強い打撃を後頭部に受けた時のやうに目の前がくらくらし、足元もたよりなかつたが、寝台の端に手をかけて暫くはぢつと立つたまま動かずにゐた。それから寝台の上に横になつて、いつも見慣れてゐる壁のしみを見つめてゐるうちに、漸く心の落着いて行くのを感じ、そこで改めて「岡田良造」といふ名を執拗に心のなかで繰り返し始めたのである。――あのみじめな癩病患者が同志岡田良造の捕はれて後の姿であらうとは!
混乱した頭脳が次第に平静に帰するにつれて、回想は太田を五年前の昔につれて行つた。――その頃太田は大阪に居て農民組合の本部の書記をしてゐた。ある日、仕事を終へて帰り支度をしてゐると、労働組合の同志の中村がぶらりと訪ねて来た。一寸話がある、と彼はいふのだ。二人は肩を並べて事務所を出た。ぶらぶらと太田の間借りをしてゐる四貫島の方へ歩きながら、話といふのは外でもないが、と中村は切り出したのであつた。――じつは今夜、クウトベから同志がひとり帰つて来たのだ。三年前に日本を発つた時には、ある大きな争議の直後で相当眼をつけられてゐた男だけに今度帰つても暫くは表面に立つ事ができない。それで当分日本の運動がわかるまで誰かの所に預けたいが、労働組合関係の人間のところでは少し都合がわるい、君は農民組合だし、それに表面は事務所で寝泊りしてゐる事になつてゐて、四貫島の間借りは一般には知られてゐないから好都合だ。一月ばかりどうかその男を泊めてやつてくれないか、と中村は話すのであつた。――よろしい、と太田が承知をすると、実は六時にそこの喫茶店で逢ふことになつてゐるのだ、とその場所へ彼を連れて行つた。そこには、太田と同年輩の和服姿の男が一人待つて居り、二人を見ると直ににこにこし出し、僕、山本正雄です、どうぞよろしく、と中村の紹介に答へて太田に挨拶をするのであつた。――話をしてゐるうちにその言葉のなかに、東北の訛(なま)りを感じ、質朴なその人柄に深く心を打たれたが、その山本正雄が岡田良造であつた事を太田はずつと後になつて何かの機会に知つたのであつた。
太田は当時、四貫島の、遠縁にあたる親戚の家の部屋を借りて住んでゐた。二階の四畳半と三畳の両方を彼は使つてゐたので、その四畳半を岡田のために提供したのである。彼等は部屋を隣り合わせてゐるといふだけで、別に話をするでもなく、暮した。太田は朝早く家を出、遅くなつて帰る日が多いのでしみじみ話をする機会もなかつたわけである。彼が夜遅く帰つてくると、岡田は寝てゐることもあつたが、光度の弱い電燈を低くおろして何かゴソゴソと書きものをしてゐることもあつた。朝などもかれの起きるよりもまだ早くぷいと家を出て、一日帰らないやうな日もあつた。さういふ生活がほぼ一月もつづき、めつきりと寒くなつた十一月のある日の朝、岡田は家を出たきり、つひに太田の許へは帰つて来なかつたのである。――何か事情でもあるのだらうとは思つたが、丁度その日の朝、何のつもりか岡田はまだ寝てゐる太田の部屋の唐紙を開けて見て、何かものを言ひたげにしたが、そこに一枚のうすい布団(ふとん)を、柏餅にして寝てゐる太田の姿を見ると、ほつ、と驚いたやうな声をあげてそのまま戸を閉めてしまつた。――それは丁度、二枚しかなかつた布団の一枚を、寒くなつたので岡田に貸したその翌日だつたので、自分の柏餅の寝姿を見て、案外気立ての柔(やさ)しさうな岡田の事ゆゑ、気の毒がつて他所(よそ)へ移つたのかも知れない、などとも太田には考へられるのであつた。心がかりなので二三日してから中村に逢つて尋ねると、彼はすつかり合点して、「いや、いいんだ、今日あたり君に逢つて話さうかと思つてゐた所だよ。奴も落着く所へ落着いたらしいんだ。長々ありがたう。」といふのであつた。――一九二×年十一月、日本の党は漸くその巨大な姿を現しかけ、大きな決意を抱いて帰つた山本正雄こと岡田良造は、その重要な部署に着くために姿をかくしたのである。
丁度それと前後して太田は大阪を去り、地方の農村へ行つて働く事になつた。同じ年の春、この国を襲つた金融恐慌の諸影響は、漸くするどい矛盾を農村にもたらしつつあつたのである。太田は幾つかの大小の争議を指導しやがて正式に(原文に文字欠)となつた。彼は大阪に存在すると思はれる上部機関に対して絶えず意見を述べ、複雑で困難な農民運動の指導を仰いだ。而(さう)してそれに対する返書を受け取る度毎に彼はいつも舌を捲いておどろいたのである。なんといふ精鋭な理論と、その理論の心憎いまでの実践との融合であらう!彼が肝胆(かんたん)を砕いて練り上げ、もはや間然とするところなしとまで考へて提出する意見が、根本的にくつがへされて返される時など、自信の強かつた太田は怫然(ふつぜん)として忿懣(ふんまん)に近いものすら感じた。しかし熟考して見ればどんな場合にも相手の意見は正しく、彼は遂には相手に比べて自分の能力の余りにも貧しい事を悲しく思つたほどであつた。それと同時に彼は思はず快心の笑(ゑみ)をもらしたのである。なんといふ素晴らしい奴が日本にも出て来たもんだ!それから太田は、今掃除したばりと思ふのに、もう煤煙がどこからか入つて来て、障子の桟などを汚す大阪の町々のことを考へ、それらの町のどこか奥ふかく脈々と動いてゐるであらう不屈の意志を感じ――すると、腹の真の奥底から勇気がよみがへつて来るのであつた。この太田の意見書に対する返書の直接の筆者が岡田良造であつた事を、捕はれた後に、太田は取調べの間に知つたのである。
太田の印象に残つてゐる岡田の面貌はさうはつきりしたものではなかつたし、それに岡田は三・一五の検挙には洩れた一人であつたから、その後彼の捕はれたことを少しも知らなかつた太田が、異様な癩病患者を見てどこかで見た事がある男と思ひながらも、直に岡田であると認め得なかつたことは当然であつた。かの癩病患者が岡田良造であることを知り、そのおどろきの与へた興奮がやや落着いて行くにつれて、岡田は一体いつ捕はれたのであらう、そしていつからあんな病気にかかつたのであらう、少しもそんな素ぶりは見せないが、彼は果して自分が太田二郎であることを知つてゐるだらうか、いづれにしても自分は彼に対してどういふ風に話しかけて行つたらいいだらうか、いや、第一、話しかけるべきであらうか、それとも黙つて居るべきであらうか、などといふ色々な疑問がそれからそれへと太田の昏迷した頭脳をかけめぐるのであつた。
その翌日、運動時間を待ちかねて、彼は今までにかつてない恐怖の念をもつて運動中のかの男の顔を見たのである。初めは恐る恐る偸(ぬす)み見たが、次第に太田の眼はぢつと男の顔に釘づけになつたまま動かなかつた。さういはれて見れば成程この癩病患者は岡田なのだ。だが、昔毎日彼と顔をつき合して暮してゐた人間でさへも、さういはれて見て改めて見直さない限りそれと認める事はできないであらう。今、心を落着けてしみじみと見直してみると、広い抜け上がつた額と、眼と眉の迫つた感じに、わづかに昔の岡田の面影が残つてゐるのみなのである。広い額は、その昔は、その上に乱れかかつてゐる長髪と相俟(あひま)つて卓抜な優秀な感じを見る人に与へたが、頭髪がうすくまばらになり、眉毛もそれとは見えがたくなつた今は、かへつて逆にひどく間の抜けた感じをさへ与へるのであつた。暗紫色に腫れあがつた顔は無気味な光沢を持ち、片側の眼は腫れふさがつて細く小さくなつてゐた。色の褪(あ)せた囚衣の肩に、いくつにも補綴(つぎ)があててあり、大きな足が尻の切れた草履からはみ出してゐる姿が、みじめな感じを更に増してゐるのであつた。本人は常日頃と変りなく平気でスタスタと早足に歩き、時時小走りに走つたりして、その短かい運動時間を楽しんでゐるらしいのだが、もう秋もなかばのかなり冷たい風に吹きさらされて、心持ち肩をすぼめ加減にして歩いて行くその後姿を見送つた時、ああこれがあの岡田の変り果てた姿かと思ひ、それまでぢつと堪(こら)へながら凝視してゐたのがもう堪へがたくなつて、窓から離れると寝台の上に横になり布団をかぶつてなほも暫くこらへてゐたが、やがてぼろぼろと涙がこぼれはじめ、太田はそのまま声を呑んで泣き出して了つたのである。
数へがたい程の幾多の悲惨事が今までに階級的政治犯人の身の上に起つた。ある同志の入獄中に彼の同志であり愛する妻であつた女が子供をすてて、どつちかといへばむしろ敵の階級に属する男と出奔(しゅつぽん)し、そのためにその同志は手ひどい精神的打撃を受けて遂に没落して行つた事実を太田はその時まざまざと憶ひ出したのであつたが、さうした苦しみも、或ひは又、親や妻や子など愛する者との獄中での死別の苦しみも――その他一切のどんな苦しみも、岡田の場合に比べては取立てて言ふがほどの事はないのである。それらのほかの凡ての場合には、「時」がやがてはその苦悩を柔げてくれる。何年か先の出獄の時を思へば望みが生じ、心はその予想だけでも軽く躍るのである。――今の岡田の場合はそんなことではない、彼にあつては万事がもうすでに終つてゐるのだ。さういふ岡田は今日、どういふ気持で毎日を生きてゐるのであらうか、今日自分自身が全くの廢人である事を自覚してゐる筈の彼は、どんな気持ちを持ち続けてゐるのであらうか、共産主義者としてのみ生き甲斐を感じ又生きて来た彼は、今日でもなほその主義に対する信奉を失つてはゐないであらうか、それとも宗教の前に屈伏してしまつたであらうか、彼は自殺を考へなかつたであらうか?
これらの測り知る事のできない疑問について知る事は、今の太田にとつてはぞくぞくするやうな戦慄感を伴つた興味であつた。――色々と思ひ悩んだあげく、太田は思ひ切つて岡田に話しかけて見る事にした。変り果てた今の彼に話しかけることは残酷な気持がしないではないが、知らぬ顔でお互ひが今後何年かここに一緒に生活して行く苦しさに堪へられるものではない。さう決心して彼との対面の場合の事を想像すると、血が顔からすーと引いて行くのを感じ、太田は蒼白な面持で興奮した。

7[編集]

太田は運動の時には丁度岡田の監房の窓の下を通るので、話をするとすれば運動時間を利用するのが一番いい方法なのであるが、その機会はなかなかに来なかつた。担当の老看守は太田ひとりの運動の時には別に監視するでもなく、その間植木をいぢつたり、普通病舎の方の庭に切り花を取りに行つたりして、運動時間なども厳格な制限もなくルーズだつたが、さて、話をするほどの機会はなかなか来なかつた。しかし、普通病舎の庭に咲き誇つた秋菊の移植が始まり、丁度ある日の太田の運動時間に三四人の雑役夫が植木鉢をかかへて来た時に、花好きな老看守はそつちの方へ行つてしまひ、遂にその機会が来たと思はれた。折よく便所へでも立つたのであらうか、ガラス窓の彼方に岡田の立姿を認めた時、太田は非常な勇気をふるつて躊躇(ちうちよ)することなく真直に進んで行つた。そして窓の下に立つた。
上と下で二人の視線がカツチリと出会つた時、妙に表情の硬(こは)ばるのを意識しながら、太田は強ひて笑顔を作つた。
「岡田君ですか。」太田はあらゆる感情をこめて、ただ岡田の名をのみ呼んだ。そしてしばらくだまつた。「僕は太田です。太田二郎です。(原文三文字欠)にゐた(原文二文字欠)知つてゐますか。」
毎日もう幾回となく、始めて二人が顔を合せた時の事を想像し、その時言ひ出すべき言葉をも繰り返し考へてゐたのだが、さてその時の今となつては言ふべき言葉にもつまり、ひどい混乱を生じた。岡田は太田に答へて、白い歯を見せて微笑した。白い綺麗に揃つた歯並だけが昔のままで、それがかへつて不調和な感じを与へた。
「知つてますとも。妙な所で逢ひましたね。」穏やかに落着いた調子の声であつた。それから彼は続けた。「ほんたうに暫(しばら)くですね。僕はここへ来た翌日にはもう君に気がついてゐたんです。けれど遠慮してだまつてゐました。何しろ僕はこんな身体になつたのでね、君をおどろかせても悪いと思つたし……。」
太田は岡田のその言葉をきいて、さうかやつぱりさうだつたのか、岡田だつたのか、とほつとしたやうな気持で思つた。彼自身の口からはつきりとさう名乗られる瞬間までは、やはり何だか嘘のやうな気がし、人間が違ふやうな気がして、心のはるかの奥底では半信半疑でゐたのである。
「それで君はいつやられたんです。三・一五には無事だつた筈だが。」
「おなじ年の八月です。たつた半年足らず遅かつただけ。実に飽気(あつけ)なかつたよ。」
絶えず微笑を含んで言つてゐるのだが、その調子には非常に明るいものがあつて、余りにも昔のままなのにむしろ驚かされるのであつた。外貌のむごたらしい変化に比べて少しも昔に変らぬその調子は鋭く聞く者の胸を打つのである。
「病気は……」太田はそれを言ひかけて口ごもりながら、思ひ切つて尋ねた。「身体はいつ頃からわるいんです。」
「さう、始めて皮膚に徴候が現はれたのは捕まつた年の春。しかし其時にはどうしたものか直に引つこんで了つた。その時には別に気にもとめなかつたんです。それから控訴公判の始まつた年の夏にはもうはつきり外からでもわかるやうになつてゐてね。その頃にはもうレプロシイの診断もついてゐたらしいのです。」
「外の運動も随分変つたやうですね。」
岡田の言葉の一寸切れるのを待つて太田は今までの話とはまるで無関係な言葉を突然にさしはさんだ。病気の事に余り深くふれるのが何とはなしに恐ろしく思はれたのである。そしてここへ来てから偶然に耳にしたニュースのやうなものを二つ三つ話した。しかし話をしてゐるうちに、昔の岡田ではない、今日、もうさうした世界には全然復帰する望みを失つた彼に、さういふ事について、得意らしく話してゐるやうな彼自身が省みられ、彼はすぐに口をつぐんで了つた。
「あの監房には本なんかありますか。」
「全然ないんですよ。」
「毎日どうしてるんです。」
「なに、毎日だまつて坐つてゐますよ。」そこで岡田は又白い歯を出して笑つた。「君は夜眠られないつて言つてゐるやうですが、病気のせゐもあらうが、もつと気を楽に持つやうにしなければ。もつともこれは性質でなかなか思ふやうにはならないらしいが。」――太田が不眠症に悩んで、度々医者に眠り薬を要求したりしてゐるのをいつの間にか知つてゐたのだらう、岡田はさういつて忠告した。「僕なんか、飯も食へる方だし、夜もよく眠りますよ。」
「少し考へすぎるんでせうね。」彼は続けて言つた。「そりや考へるなといつてもここではつきつめて物を考へ勝ちだが……、しかしここで考へた事にはどうもアテにならぬことが多いんです。何かふつと思ひついて、素晴らしい発見でもしたつもりでゐてもさて社会へ出て見るとペチヤンコですよ。ここの世界は死んで居り、外の社会は活きてゐますからね。……こんな事は君に言ふまでもない事だが、これは僕が昔騒擾(さうぜう)で一年くつた時に痛感した事だもんだから。」
丁度その時、担当の老看守の戻つて来る気はひを感じ、太田はさり気なく窓の下を退きながら、肝腎な事を聞くのを忘れてゐたことに気がついて訪ねたのであつた。
「そして、君は何年だつたんです。」
「七年。」
七年といふ言葉に驚愕しながら太田は監房へ帰つた。七年といふ刑は岡田が転向を肯(がへん)じなかつたこと、彼が敵の前に屈伏しなかつたことを物語つてゐる。彼の言葉によれば、控訴公判の始まる時にはもうレプロシイの診断がほぼ確定的であつたといふのだ。だが、彼の公判廷における態度が、その病気によつてどうにも変らなかつた事だけはたしかである。岡田との対話を一つ一つ思ひ出し、殊に眠れないやうでは駄目だ、といつた言葉を、最後の言葉の中なぞに、昔のままの彼を感じ、太田ははげしく興奮しその夜はなかなかに寝つかれないほどであつた。
その日から以後の太田は毎日の生活に生き生きとした張合を感じ、朝起きることがたのしみになつた。岡田と一緒にに同じこの棟の下に住むといふ事が彼に力強さを与へた。岡田は太田と逢つたその日以後も、依然物静かで変つた様子もなく、自分の方から積極的に接近しようとする態度をも別に示さうとはしなかつた。しかし運動時間には互ひに顔を見合せて、無量の感慨をこめた微笑を投げ合ふのであつた。ただ、岡田の今示してゐる落着きは決して喪心した人間の態度などでない事は明らかであり、むしろ底知れぬ人間の運命を見抜いてゐるかのやうな、不思議な落着きをさへ示してゐるのだが――しかし彼のかうした落着きの原因をなしてゐるところのものは一体なんであらうか?といふ点になると彼に逢つて話した後にも、太田には全然わからないのであつた。恐らくそれは永久に秘められた謎であるかも知れない。――其後太田はほんの短い時間ではあつたが、二三度岡田と話す機会を持つた。その話し合ひの間に二人は、言葉遣ひや話の調子までもうすつかり昔のものを取り戻してゐた。「君の今の気持を僕は知りたいんだが。……」聞きたいと思ふことの適切な言ひ現し方に苦しみながら、太田はその時そんな風に訊いて見たのであつた。「僕の今の気持だつて?」岡田は微笑した。「それは僕自身にだつてもつと掘下げて見なければわからないやうなところもあるし……それにここでは君に伝へる方法もなし、また言葉では到底言ひ現し得ないものがあるやうだ。」さういつて彼は考へ深さうな目つきをした。
「只これだけのことははつきりと今でも君に言へる。僕は身体が半分腐つて来た今でも決して昔の考へをすててはゐないよ。それは決して痩せ我慢ではなく、又、何かに強制された気持で無理にさう考へてゐるのでもないんだ。実際こんな身体になつて、尚痩せ我慢を張るんでは惨(みじ)めだからね。――僕のはきはめて自然にさうなんだ。さうでなければ一日だつて今の僕が生きて行けない事は君にもよくわかるだらう。……それから僕は、どんなことになつても決して、監獄で首を縊(くく)つたりはしないよ。自分で自分の身体の始末の出来る限りは生きて行くつもりだ。」岡田はその時、持ち前の静かな低音でそれだけの事を言つたのである。
その話をしてから一週間ほど経つたある日の午後、洋服の上に白衣を引つかけた一件して医者と知れる三人の紳士が突然岡田の監房を訪れたのであつた。扉をあけて何かガヤガヤと話し合つてゐる様子であつたが、やがて「外の方が日が当つて暖かくつていいだらう。」といふやうな声がきこえ、岡田を先頭に四人が庭に下り立つて行く姿が見えた。而してそこで岡田の着物をぬがせ、彼は犢鼻褌(ふんどし)ひとつの姿になつてそこに立たせられた。――丁度それは癩病患者の監房のすぐ前の庭の片隅で、よく日のあたる場所であつたが、少し背のび加減にすると太田の監房から見る視野の中に入るので、彼は固唾(かたづ)を呑んでそこ様子を眺めたのである。
三人のうち二人は見なれない医者で一人はここの監獄医であつた。その二人のうちの年長者の方が、頭の上から足の先まで岡田の全身を凝つと見つめてゐる。岡田は何かいはれて身体の向きを変へた。太田の視線の方に彼が背中を向けた時、太田は思はずあツと声を立てるところであつた。首筋から肩、肩から背中にかけて、紅色の大きな痣(あざ)のやうな斑紋がぽつりぽつりと一面にできてゐるのだ。裸体になつて見ると色の白い彼の肌にそれは牡丹の花弁のやうにバツと紅く浮き上つてゐる。
医者が何かいふと岡田は眼を閉ぢた。
「ほんたうのことをいはんけりやいかんよ。……わかるかね、わかるかね。」さういふやうな言葉を医者は言つてゐるのだ。よく見ると、岡田は両手を前に伸ばし、医者は一本の毛筆を手にしてそれの穂先で、岡田の指先をしきりに撫でてゐるのであつた。感覚の有無を調べてゐるのであらう。わかるかね、と医者に言はれると岡田はかすかに首を左右にふつた。いふまでもなく否定の答へである。医者はそれから、力を入れないで、力を入れないで、といひながら、岡田の手足の急所急所を熱心に揉みはじめた。どうやら身体ぢゆうの淋巴腺(りんぱせん)をつかんで見てゐるものらしい。時々医者が何かをいふと、岡田はその度に首を軽く縦にふつたり横にふつたりする。
――さういふやうな事を凡(およ)そ半時もつづけ、それから眼を診(み)たり、口を開けさせてみたり、――身体ぢゆうを隈(くま)なく調べた上で三人の医者は帰つて行つた。
その後余ほど経つてのち、同じやうに窓の上と下で最後に岡田と逢つた時、太田はこの時の診察について彼に訊いて見た。「今頃どうしたんです?今まで誤診でもしてゐたんで診(み)なほしに来たんぢやないのですか。」事実太田はさう思つてゐた。さう思ふことが、空頼(そらだの)みにすぎないやうな気もするにはしたが。しかし岡田はその時の事を大して念頭にも止めてゐない様子で答へた。「診なほすといふよりも、最後的断定のための診察でせう……今までだつてわかるにはわかつてゐたんだが、あの二人は大阪近郊の癩療養所の医者なんです。つまり専門家に診せたわけですね。鼻汁のなかに菌も出たらしい……この病気は鼻汁のなかに一番多く菌があるんださうです。今度ですつかりきまつたわけで、死刑の宣告みたいなものです。」
――其後、太田は岡田と話をする機会をつひに持たなかつた。


8[編集]

灰いろの一と色に塗りうぶされた、泣いても訴へても何の反響もない、澱(よど)んだ泥沼のやうなこの生活がかうしていつまで続くことであらうか。また年が一つ明けて春となり、やがてじめじめとした梅雨期になつた。――あちこちの病室には、床につきつきりの病人がめつきりふえて来た。毎年のことながらそれは同じ一と棟に朝晩寝起きを共にする患者たちの心を暗くさせた。――五年の刑を四年までここでばかりつとめあげて来た朝鮮人の金(きん)が、ある雨あがりのかツと照りつけるやうな真ツぴるまに突然発狂した。頭をいきなりガラス窓にぶつつけて血だらけになり、何かわけのわからぬことを金切声にわめきながら荒れまはつた。細引が肉に食ひ入るほどに手首をしばり上げられ、ずたずたに引き裂かれた囚衣から露出した両肩は骨ばつていたいたしく、どこかへ引きずられて行つたが、その夜から、この隔離病舎にほど近い狂人(きちがひ)監房からは、咽喉(のど)の裂けるかと思はれるまで絞りあげる男の叫び声が聞えはじめたのである。それは金の声であつた。哀号、哀号、と叫びたてる声がやがて、うおーツうおーツといふやうな声に変つて行く。それは何かけだものの遠吠えにも似たものであつた。――さういふ夜、五位鷺(ごゐさぎ)がよく静かに鳴きながら空を渡つた。――月のいい晩には窓からその影が見えさへした。
梅雨(つゆ)に入つてからの太田はずつと床につきつきりであつた。梅雨が上つて烈しい夏が来てからは、高熱が長くつづいて、結核菌が血潮のなかに流れ込む音さへ聞えるやうな気がした。それと同時に彼はよく下痢をするやうになつた。ちょつとした食物の不調和がすぐ腹にこたへた。その下痢が一週間と続き、半月と続き――そして一月に及んでもなほ止まらうとはしなかつた時、彼は始めて、ただの胃腸の弱さではなく自分がすでに腸を犯されはじめてゐる事を自覚するやうになつたのである。診察に来た医者は診終ると、小首を傾けて黙つて立去つた。
その頃から太田は、自分を包む暗い死の影を感ずるやうになつた。寝台の上に一寸立上つても貧血のために目の前がぼーツとかすむやうになると、彼はしばしば幻影に悩まされ始めた。剝げかかつた漆喰(しつくひ)の壁に向つて凝(ぢ)つと横臥してゐると、眼の前を小さな虫のやうな影がとびちがふ。――その影の動くがままに眼を走らせてゐると、それが途方もない巨大なものの影になつて壁一ぱいに広がつてくる。それはえたいの知れない怪物の影であることが多かつた。恐怖をおさへてぢつとその影に見入つてゐると、やがてそれがぽつかりと二つに割れ、三つにも、四つにも割れて、その一つ一つが今も尚故郷にゐるであらう、老母の顔や兄の顔に変るのである。それと同時に夢からさめたやうに、現実の世界に立ちかへるのがつねであつた。――夜寝てからの夢の中では、自分が過去において長い長い時間の間に経験して来た色々の出来事を、ほんの一瞬間に走馬燈のやうに見る事が多かつた。さういふ時は自分自身の苦悶の声に目ざめるのであつた。太田は死の迫り来る影に直面して、思ひの外平気で居れる自分を不思議に思つた。ものの本などで見る時には、劇的な、浪漫的な響きを持つてゐる獄死といふ言葉が、今は冷酷な現実として自分自身に迫りつつある。今はもう不可抗的な自然力と化した病気の外に、盤石(ばんじやく)のやうな重さをもつてのしかかつてゐる国家権力がある。ああ、俺もこれで死ぬるのかと思ひながら、今までここで死んで行つた多くの病人達の口にした、看病夫の持つて来てくれる水飴のあまさを舌に溶かしつつ太田の心は案外に平静であつた。俺たちの運命は獄中の病死か、ガルゲンか、そのどつちかさ、なぞとある種の感激に酔ひながら、昔若い同志たちと語り合つた当時の興奮もなく、肩を怒らした反抗もなく、さうかといつて矢鱈(やたら)に生きたいともがく嗚咽(をえつ)に似た心の乱れもなく、――深い諦めに似た心持があるのみであつた。この気持ちが来るか、それは自分自身にもわからなかつた。その間にも彼は絶えずもう暫く見ない岡田の顔を夢に見つづけた。言葉でははつきりと言ひ現しがたい深い精神的な感動を、彼から受けたことを、はつきりと自覚してゐたためであつたらう。
太田にとつて岡田良造は畏敬すべき存在であつた。只、この言語に絶した苛酷な運命にさいなまされた人間の、心のほんたうの奥底は依然うかがひ知るべくもないのであつた。失はれた自由がそれを拒んだ。太田は寂しい諦めを持つの外はなかつた。――「僕は今までの考へを捨ててはゐないよ。」と語つた岡田の一言は、すべてを物語つてゐるかに見える。しかし、どんな苦しい心の闘ひののちに、やはりそこに落ちつかなければならなかつたか、といふ点になると依然として閉(とざ)されたままであつた。「僕は今までの考へをすててはゐない、……」それは岡田の言ふとおり、彼の何ものにも強制されない自由の声であることを太田は少しも疑はなかつた。岡田にあつては彼の奉じた思想が、彼の温かい血潮のなかに溶けこみ、彼のいのちと一つになり、脈々として生きてゐるのである。それはなんといふ羨(うら)やむべき境地であらう!多少でも何ものかに強制された気持でさういふ立場を固守しなければならず、無理にでもそこに心を落ちつけなければ安心ができないといふのであれば、それは明かに彼の敗北である。しかし、さうでない限り、たとひあのまま身体が腐つて路傍に行倒れても、岡田はじつに偉大なる勝利者なのである!太田は岡田を畏敬し、羨望した。しかしさうかといつて、彼自身は岡田のやうな心の状態には至り得なかつた。岡田の世界は太田にとつてはつひに願望の世界たるに止まつたのである。――そこにも彼は又寂しい諦めを感じた。
刑務所の幹部職員の会議では、太田と岡田とを一つ棟におく事について問題になつてゐるといふことであつた。さうした噂さがどこからともなく流れて来た。二人が立話をしてゐたのを、一度巡回の看守長が遠くから見て担当看守に注意をしたことがあつたのである。二人を引きはなす適当な処置が考へられてゐるといふことであつた。――だが、さうした懸念はやがて無用になつた。太田の病気はずつと重くなつたからである。
粥(かゆ)も今はのどを通らなくなつて一週間を経たある日の午後、医務の主任が来て突然太田の監房の扉をあけた。冷たい表情で無言のまま入つて来た二人の看病夫が、彼を助け起し、囚衣を脱がせて新らしい浴衣(ゆかた)の袖を彼の手に通した。朦朧(もうろう)とした意識の底で、太田は本能的にその浴衣に故郷の老母のにほひをかいだのである。
太田が用意された担架の上に移されると、二人の看病夫はそれを担いで病舎を出て行つた。肥つた医務主任がうつむきかげんにその後からついて行く。向うの病舎の庭がつきるあたりの門の側には、太田に執行停止の命令を伝へるためであらう。典獄補がこつちを向いて待つてゐるのが見える。――そして担架でかつがれて行く太田が、心持首をあげて自分の今までゐた方角をぢつと見やつた時に、彼方の病室の窓の鉄格子につかまつて、半ば伸び上りかげんに自分を見送つてゐる岡田良造の、今はもう肉のたるんだ下(しも)ぶくれの顔を見たやうに思つたのであるが、やがて彼の意識は次第に痺(しび)れて行き、そのまま深い昏睡のなかに落ちこんで了つたのである……。

この著作物は、1945年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。