「ユダヤ人問題によせて」の版間の差分

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 この形式の下でバウアーは'''ユダヤ教ととキリスト教'''の関係を、批判に対するユダヤ教とキリスト教の関係そのもののように扱っている。批判に対するユダヤ教とキリスト教の関係は「自由になる能力」に対するユダヤ教とキリスト教の関係である。
 この形式の下でバウアーは'''ユダヤ教ととキリスト教'''の関係を、批判に対するユダヤ教とキリスト教の関係そのもののように扱っている。批判に対するユダヤ教とキリスト教の関係は「自由になる能力」に対するユダヤ教とキリスト教の関係である。

 「キリスト教徒が宗教一般を止揚する」(つまり自由になる)「ためには、ただ一段、すなわち自分の宗教だけを乗り越えなければならないのに対して、ユダヤ人は自分のユダヤ的本質のみならず、自分の宗教の完全の発展とも、ユダヤ人にとって疎遠なままであった発展とも縁を切らねばならない。」ことが分かる。(p.71)






2013年1月29日 (火) 01:32時点における版

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ブルーノ・バウアー:『ユダヤ人問題』 ブラウンシュヴァイク 1843年―

 ②ブルーノ・バウアー:『今日ユダヤ人とキリスト教徒は自由になれるか』(『スイスからの21ボーゲン』ゲオルク・ヘルヴェーク編 チューリヒとヴィンタートゥール 1843年 S.56―71.)―


カール・マルクス

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ブルーノ・バウアー:『ユダヤ人問題』 ブラウンシュヴァイク 1843年


 ドイツのユダヤ人たちが解放を求めている。どんな解放を彼らは求めているのだろうか?国家市民的な政治的な解放である。

 ブルーノ・バウアーは彼らにこう答えている。ドイツでは誰も政治的に解放されていない。我々自身、不自由なのだ。どうして我々が君たちを自由にしなければならないのか?君たちユダヤ人がユダヤ人として自分たちのために特別な解放を要求するのなら、君たちはエゴイストである。君たちはドイツの政治的な解放にドイツ人として、人間的な解放に人間として従事せねばなるまいし、そして君たちの特別な種類の圧迫や恥辱を、規則の例外としてではなくむしろ規則の確認として感じなくてはなるまい。

 さもなくば、ユダヤ人たちはキリスト教的な臣下たちと同等の立場を要求しているのだろうか?そのように彼らはキリスト教的な国家を正当なものとして承認しており、そのように彼らは一般的な制圧の統治を承認しているのだ。なぜ彼らは、一般的な束縛は気に入っても、自分たちの特殊な束縛は気に入らないのだろうか!ユダヤ人がドイツ人を自由にすることに関心を持っていないのなら、なぜドイツ人がユダヤ人を自由にすることに関心を持たねばならないのだろうか?

 キリスト教的な国家は諸々の特権にしか関知しない。ユダヤ人はキリスト教的な国家の中でユダヤ人たる特権を占有している。ユダヤ人はユダヤ人として、キリスト教徒が持ってない諸々の権利を持っている。どうしてユダヤ人は、自分が持ってない権利を、そしてキリスト教徒が享受している権利を求めるのだろうか!

 ユダヤ人がキリスト教的な国家から解放されたいとき、ユダヤ人が要求しているのは、キリスト教的な国家が自分の宗教的偏見を捨て去ることである。彼、すなわちユダヤ人は、自分の宗教的偏見を捨て去るのだろうか?したがって、彼は、他人にこのような宗教の告別を要求する権利を持っているのだろうか?

 キリスト教的な国家は自分の本質からしてユダヤ人たちを解放できない。だが、ユダヤ人は自分の本質からして解放されることができないのだ、とバウアーは付け加えている。国家がキリスト教的であり、そしてユダヤ人がユダヤ教的である間は、両者は解放を授与することも、また受領することも不可能である。

 キリスト教的な国家はユダヤ人に対して、ただキリスト教的な国家のやり方でしか関わることができない。すなわち特権を与えるやり方で関わるのである。キリスト教的な国家はユダヤ人を残りの臣下たちから隔離することを許すのだが、しかしユダヤ人に他の隔離された諸領域の圧迫を感じさせるのであり、しかもユダヤ人が支配的な宗教に対して宗教的な対立にあるだけに、いっそう強く圧迫を感じさせるのである。しかしユダヤ人もまた、国家に対してただユダヤ的な態度でしか関わることができない。すなわち国家に対して異分子として関わるのである。ユダヤ人は現実的な国籍には自分のキメラ的な[1]国籍を対置し、現実的な法には自分の幻覚の法を対置し、自分は人類から隔離される権利があると思い込み、歴史的な運動には原理的に関与せず、一般的な人間の未来とは無関係な未来を待ち焦がれ、自分をユダヤ民族の一員だと考え、ユダヤ民族を選ばれた民だと考えるのである。

 それでは、君たちユダヤ人たちはどんな権限に基づいて解放を求めるのだろうか?自分たちの宗教のためにか?君たちの宗教は国家宗教の仇敵である。国家市民としてか?国家市民などドイツには存在しない。人間たちとしてか?君たちは、自分たちが訴えている相手のような、人間ではない。

 バウアーは従来の問題の立て方と解決策を批判してから、ユダヤ人解放問題を新しく立て直した。彼はこう尋ねる。解放されるユダヤ人、解放するべきキリスト教的な国家とは、どのような性状のものなのか?と。彼はユダヤ教の批判を通じて答えており、ユダヤ教とキリスト教との間の宗教的対立を分析し、キリスト教的な国家の本質について知らせている。すべてこのことは正確かつ頑丈で力あふれる筆致で、大胆、気鋭、徹底さを持って行われている。

 では、バウアーはどのようにユダヤ人問題を解決するのだろうか?どんな結果になるのか?問題を表現することが問題の解決策だ。ユダヤ人問題の批判がユダヤ人問題に対する答えである。それで要約は以下の通り。

 我々が他人を解放できるくらいなら、自分自身を解放するにちがいない。

 ユダヤ人とキリスト教徒の間の対立の最も硬直的な形式は宗教的な対立である。人はどのように対立を解決するだろうか?対立を不可能とすることによってである。人はどうやって宗教的な対立を不可能とするだろうか?宗教廃止することによってである。ユダヤ人とキリスト教徒が、お互いの宗教を、ひとえに人間的な精神のそれぞれ異なった発展段階だと認識し、歴史とはそれぞれ異なった脱ぎ捨てられたヘビの抜け殻だと認識し、そして人間をそれぞれの抜け殻の中で脱皮したヘビとして認識するやいなや、もはやユダヤ人とキリスト教徒は、宗教的な関係に立つのではなく、もっぱら批判的な、学問的な関係に、人間的な関係に立つのである。そのとき、学問はユダヤ人とキリスト教徒の一体性である。しかし、学問における対立は学問それ自身によって解決されるのである。

 ドイツユダヤ人にはとりわけ政治的な解放一般の欠陥と国家の明瞭なキリスト教性が対置されている。しかしながら、バウアーの考えでは、ユダヤ人問題は特殊なドイツの事情から独立した一般的な意義を持っているのである。それは、宗教の国家に対する関係の問題、宗教的な偏見と政治的な解放の矛盾の問題である。政治的に解放されたいユダヤ人でも、解放を行う国家およびそれ自身解放されるべきである国家でも、宗教からの解放が条件として置かれたのである。

[…]

『今日ユダヤ人とキリスト教徒は自由になれるか』

ブルーノ・バウアー著(『21ボーゲン』p.56-71)

 この形式の下でバウアーはユダヤ教ととキリスト教の関係を、批判に対するユダヤ教とキリスト教の関係そのもののように扱っている。批判に対するユダヤ教とキリスト教の関係は「自由になる能力」に対するユダヤ教とキリスト教の関係である。

 「キリスト教徒が宗教一般を止揚する」(つまり自由になる)「ためには、ただ一段、すなわち自分の宗教だけを乗り越えなければならないのに対して、ユダヤ人は自分のユダヤ的本質のみならず、自分の宗教の完全の発展とも、ユダヤ人にとって疎遠なままであった発展とも縁を切らねばならない。」ことが分かる。(p.71)


訳注

  1. 原語はchimärische。従来は「妄想的」と訳されていた。マルクスは、ユダヤ人の国籍を、ライオンの頭、蛇の尾、ヤギの胴をもち、口から火を吐くというギリシャ神話の怪獣キマイラに例えている。

翻訳について