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皇典講究所古道概要直毘霊
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かかれば、此くまで論ふも、道の意にはあらねども、禍津日神のみしわざ見つつ、{{r|默止|ナホ}}えもあらず、神直日<sup><small>ノ</small></sup>神、大直毘<sup><small>ノ</small></sup>神の御靈たばりて、このまがを、もて直さむぞよと。{{resize|50%|本居宣長大人箸、直毘靈の本文}}
かかれば、此くまで論ふも、道の意にはあらねども、禍津日神のみしわざ見つつ、{{r|默止|ナホ}}えもあらず、神直日<sup><small>ノ</small></sup>神、大直毘<sup><small>ノ</small></sup>神の御靈たばりて、このまがを、もて直さむぞよと。{{resize|50%|本居宣長大人箸、直毘靈の本文}}


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2020年1月20日 (月) 13:34時点における版

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第二十一章 直昆靈

皇大御國は、掛まくも畏き、神御祖カムロギ天照大御神の御生れ坐せる大御國にして、大御神、大御手に天つシルシを捧け持たして、「萬千秋の長秋に、吾が御子のしろしめさむ國なり」と、ことよさし賜へりしまにまに、天雲のむかぶす限り、谷グヽのさわたるきはみ、皇御孫命のオホ食國ヲスクニとさだまりて、天下には、あらぶる神もなく、まつろはぬ人もなく、千萬御世の御末の御代まて、天皇命はしも、大御神の御子にましまして、天つ神の御心を、大御心として、神代も今もへだてなく、神ながら、安國と平けく知しめしける、大御國になもありければ、古の大御世には、道といふ言擧コトアゲもさらになかりき。そは、ただ、物にゆく道こそ有りけれ。物のことわり、あるべきすべ、萬の敎へごとをしも、何の道、くれの道といふことは、異國のさだなり。

然るを、やや降りて、書籍といふ物渡り參る來て、其を學びよむこと始りて、後、其の國の手ぶりをならひて、やや、萬のうへにまじへ用ひらるる、御代になりてぞ、大御國の古の大御手ぶりをば、取り分けて、神道とは名づけられたりける。そは、かの外つ國の道道にまがふがゆゑに、神といひ、又、かの名を借りて、ここにも、道とはいふなりけり。しかありて、御代御代を經るままに、いやますますに、その漢國のてぶりをしたひまねぶこと、盛りになりもてゆきつつ、ついに、天の下所知看す大御政も、もはら漢樣になりはてて、靑人草の心までぞ、其の意にうつりにける。さてこそ、安けく平らけくて有り來し御國の、みだりがはしきこといできつつ、異國にやや似たることも、後にはまじりきにけれ。そもそも天地のあひだに有りとあることは、悉皆コトゴトに神の御心なる中に、禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける。

然れども、天照大御神、高天原に大ましまして、大御光は、聊かも曇りまさず、此の世を御照しましまし、天津御璽ミシルシは、たははふれまさず傳はり坐して、事依し給ひしまにまに、天の下は御孫命の知しめして、天津日嗣の高御座は、天地のむた、ときはにかきはに動く世なきぞ、此の道の靈しく奇しく、異國の萬の道にすぐれて、正しき高き貴き徵なりける。そも、此の道はいかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず。人の作れる道にもあらず。此の道はしも、畏きや、高皇產|靈神の御靈によりて、神祖カムロギ伊邪那岐大神、伊邪那美大神の始めたまひて、天照大御神の受けたまひ、たもちたまひ、傳へ給ふ道なり。故、ここをもて、神の道とは申すぞかし。

さて、其の道の意は、古事記をはじめ、もろもろの古書どもを、よく味ひ見れば、今もいとよく知らるるを、世世の物しり人どもの心も、みな、禍津日神にまじこりて、ただ、からぶみにのみ惑ひて、思ひとおもひ、いひといふことは、みな、佛と漢との意にして、まことの道のこころをば、えさとらずなもある。故、おのが身身に受け行ふべき、神の道の敎へなどいひて、くさぐさものすなるも、みな、かの道道のをしへどとをうらやみて、近き世にかまへ出でたるわたくしどとなり。あなかしこ、天皇の、天下しろしめす道を、下が下として、己がわたくしの物とせむことよ。

人はみな、產巢日神の御靈によりて、生れつるまにまに、身にあるべきかぎりの行は、おのづから知りて、よく爲る物にしあれば、いにしへの大御代には、しもがしもまで、ただ、天皇の大御心を心としてひたぶるに、大命をかしこみゐやまひまつろひて、おほみうつくしみの御蔭にかくろひて、おのもおのも、祖神を齋き祭りつつ、ほどほどに、あるべきかぎりのわざをして、オダヒしく樂しく、世をわたらふほかなかりしかば、今はた、其の道といひて、別に、敎へを受けておこなふべきわざはありなむや。もし、しひて求むとならば、きたなきからぶみ心を

祓ひきよめて、淸淸しき御國心もて、古典をよく學びてよ。然せば、受け行ふべき道なきことは、おのづから知りてむ。其をしるぞ、すなはち、神の道をうけおこなふにはありける。

かかれば、此くまで論ふも、道の意にはあらねども、禍津日神のみしわざ見つつ、默止ナホえもあらず、神直日神、大直毘神の御靈たばりて、このまがを、もて直さむぞよと。本居宣長大人箸、直毘靈の本文