漂流臺灣チョプラン嶋之記 : 享和三年癸亥
翻刻例言
- 本書の翻刻に付きては、臺灣總督府圖書館所藏の寫本「漂流臺灣チョプラン島之記」を底本とした、同書は川北文庫の舊藏なので今之を「川北本」と呼ぶ。此の校合に用ゐた他の一種も矢張り同館藏の寫本で書名は同一であるが、此れは黒川眞頼・眞道家の舊藏であつたから「黒川本」と稱することにした。
- 卽ち本書の本文は川北本に據り、黒川本の異つた部分は逐次之を上欄に掲げ、本文の右側に〇印を付した字句と對照せしめた、而して其の場合一々黒川本云々と斷ることは省略した。なほ上欄に「〇がナシ」とあるは黒川本に「が」字無き事を示したのである。
- 兩書内容の一致せざる點、其他參考となるべき事項は之を註記として卷末に纒めた。
- 兩本共に句讀點を施してないが、今讀下の便を計り之を加へた。
- 兩本共に傳寫ものなので、漢字や熟語に誤字と思はれるもの少くないが、其内でも最も明白なものや讀者に誤解される憂のあるものは之を訂正した、例へば芋に宛てた荢を芋に、抔を坏に、蜜を密に、藤を籐に、羅を罹に、斗を許又は計に、自親を自身に、猩々非を猩々緋に、賤を餞に、昌を冒に、藝を薩に、𭚩を弭に、覺語を覺悟に、赦を救に、嘻を禧に正した類である。
- 原本の誤記か或は其後の誤寫かと思はれる分でも、意の通ずる字句例へば一遍とあるべきを一返、芬々を紛々、憶記を臆記、循環を順環、點檢を轉檢、商賈を商價、と記してある類は元の儘に、又族旗は旌旗、葬穴の埋は埠又は隍の誤寫とも思はれたが、元の姿にして置いた。
- 同じ漢字の正俗等混用も少くないが、臺・台は臺に、船・舩は船に、島・嶌・嶋は島に、辨・弁は辦に、惣・總は惣に統一した、但し艣と艫、錠と碇、鉄と銕、炮と砲、俵と苞の如きは原形の儘にして置いた。
- 假名遣につきてもやう、やうやく、ゆゑ、たえて、洗はせ、大いなるとあるべきをよふ、よふやく、ゆへ、たへて、洗わせ、大ひなると記せる類少からず、又活語の語尾を送らず、或はテニヲハを省略せるところも多く見られるが、其內誤解の憂ありと思はれた部分丈けは、之を正し、或は語尾やテニヲハを補ったが、文意の通ずる限り原形を存した。
- 濁音は有無錯雜して居るが、今其儘にして置いた。
- 片假名の混用は其儘にして置いたが、平假名の變體は普通體に改めた。
- 括弧も「〇〇」「〇〇の二様になつて居るが、其儘にして置いた。
- 本書掲載の地名中、チョプラン・チョフラン・チョープランはチョプランに、チョーガワ・チョーカワ・チョーガハはチョーガワに、イワタニ・イワダニはイワタニに、ドンケヤウ・トンケヤウはドンケヤウに、統一した。又貝の名コッケ・ゴッケはコッケに統一した。
- 蕃語に就ては、田浦公學校長中條福安氏を甚しく煩はした、同氏は多年花蓮港廳下の公學校に奉職せられ、公務の餘暇を以て蕃語の採集調査に從ひ、特にチョプランに近き奇美地方の土音に就き深い研究を有せられるので、今回の翻刻に際し、本書掲載の蕃語全部につき調査を請ふた處、其の現存するもの等に關し周密な報告を送られた事を特記し、玆に深厚なる謝意を表する次第である。
- 蕃語關係の事項は、之を卷末の註記に收めたが、其の説明中に出て來る奇美は花蓮港廳鳳林郡瑞穗庄奇美(舊稱奇密)、田浦は同廳花蓮郡吉野庄田浦(舊稱荳蘭)で、兩地現住の高砂族は共にアミ族である。
- 底本の挿繪は何れも彩色で三十九圖六十七頁あるが、其の挿入してあつた場所は本文中に之を附記して置いた。今印刷の成績等から十七圖丈けを探り、其内十五を挿繪に二つを表紙及裏表紙に充てた。尙ほ川北本と黒川本の卷頭寫真を口繪として加へた。
- 底本と黒川本との校合には植松・山中の兩人が當たり、註と解説は山中が之を擔當した。
昭和十四年十月
植松安
山中樵
享和三年癸亥漂流臺灣チョプラン嶋之記上
備中州秦貞廉編輯
東蝦夷地箱館奧山の商價[1]角屋吉右衛門なる者の船師文助奧州津輕郡鰺か澤の農某の子、長して此地に來り、辨天町文助か子となり父の名を冒す、主家の船三[2]百二十石積なる順吉丸と名つけたるを掌て、年毎に蝦夷島の產物を積、東都に送るを業とす。享和二戌年吉右衛門備貨の債の爲に、此船を東都四日市西宮市兵衛なるものに賣渡われは、文助續て此船をつかさとる。同年[3]十一月十九日船子[4]七人西宮手代茂兵衛なる者を合して人數九人を乘、箱館奧山に帆を開き奧州南部の[5]都港に趣く。船中貯る所の糧僅に九[6]苞、他に昆布・鰊・鯑夷島中の俗字かすの子と譯す鯨肉の類若干積入、東都に送るの賣物、食糧は都港に至て後積入へしと思ひ、同二十一日都港の沖に至るといへ共、風候惡しく入津する事あたはす、帆を下して沖に漂ふ。同二十二日又西風にして入津しかたきを凌き、いかにもして船を港口に入んとしけれは、外艣おち、楫の羽形離ていよ〳〵港口に寄る事おたはず、其夜も又沖に漂ひて明るを待しに、曉の頃船仙[7]臺領港の沖に至りしに、西風頻に强くなり檣のうけ板破れけれは、檣を伏せ夜を明せしに、同二十三日の朝に至りて西風ます〳〵烈しく吹といへとも、船具悉く破たれは、今は如何共すへき術なく、只風波に任せて日數は九日の間沖に漂ひ在しに、僅に一夜南風を得て檣を起し帆を掛て、地方に寄る事は九里にして夜明けれは、又々西風烈しくなり船は東洋に向て飛が如く、檣のうけ板又破敗し再び補ふへくも見へされは、檣は海中に投し入て海神に奉り、また風波に任せて船を放つ。二三日は日本地の山々も日々遙に成りて心細くおもひいたるに、今ははや浩々たる大洋の波濤のみして、山は何地へか見失ひたれは船中の者の心思ひゃるべし。然るに貯る所の糧は僅に九苞にして、餓渴も迫るに程なけれは、何卒して一日も早く國地に至らんと欲するの心切なれは、少しく東南の風を得るず[8]は晝夜の分ちなく申酉の方に向て、桁を檣となし帆を開て船をはせしに文助往時老船師の言を聞くに、東南の大洋中に漂流するは、必申酉の針路をつなき乘るへし、然る時は前後日本地に至さる事なしといふ、且船中水夫の内九州の地方を知るものありて、薩摩日向兩國の南方に突出す事は百里の餘なるへしといふ、然る時は此申酉の針路にして大抵四國九州の内に至るへしと思ひ、此針路を乘しといふ、旣に二十餘日を經るといへとも、徒に大洋中のみを漂流して島一つ見付されは、如何なる所にか至るへしと思ひし内、よふやく三十一日といふ日に、遙に三島の海中に彷彿たるを望見し得て、船中大に踴躍し、進て先第一島に船を寄せ、是をのそむに、岩屋壁立にして樹木又水涯より繁茂し、中々船を寄すへき地方あるべしとも思はれす、その周廻凡二三里の間、惣して此の如くなれは、船を出して第二島に至り見るに、此島は樹木更になく、周廻悉く沙濱にして誠に陵夷なる嶼なれは、船を寄るに害なしといへとも、實に水際より煙氣蒸上し島中惣して炎燒すれは、皆恐怖して登るへしともいふ者なし、故に又船を出して第三島に至るに、其險なる事第一島にひとしく、中々船を寄すべき島にあらす、三島共に—挿繪三島の圖(底本二頁)人物の棲居あるへしとも思はれされは、かなしくも此島を離れ、又申酉の針路をつなき乘ること凡二十日餘にして、海地大に變し其白き事米汁の如く、殊に此頃に至り日を逐て暖に、船中のもの裸身にして動靜するといへとも、少しくも寒慄の氣を覺ゆる事なし、且風雨ありといへ共激浪奔濤ある事なく、海面平なること鏡の如く、又後圖の如くなる一白鳥の形日本地に見さる處のもの船近く飛遊、海面また圖の如く圓形にして藍色の者浮み流る、採あけて是を見るに、青徹なる事硝子の如く、其全形本邦の鍋蓋に少し異なる事なく、中央握耳の如く隆起する物あり。此の如く時氣・海色・諸物の異なるが故に、如何なる所にてや、あるべしと思ひて、船は猶申酉に向て乘りけるに、前の三島を離しより日數三十六日を經て、又一島を遠望することを得たい、船中また〳〵大に躍喜し、船を進めて島に至らんとするに、風なくして帆を開くへからされは、艀—挿繪海鳥。水月の圖(底本一頁)船を下し船を挽て此島の邊に到り見るに、海岸多く小船を繋泊す、扨は人物の棲居する島なりとて船中大に喜ひ、上岸すべきや否なと語り合て居し處へ、島夷等船を出し來いて我船を圍み、數十人群集號呼するといへとも言語惣して通せす、其容貌を見るに髭なくして裸身なれとも、其垂髪耳環の狀は我蝦夷島に異なることなく、著褌の状は本邦の如く結ひたれは、萬一蝦夷島の奧地に漂着せし事も知るへからすと思ひ愚陋の船師素より經度の分をしらす又寒暖の辨なく冝なるかな此思ひを發すること、蝦夷の言語を以て接語すれとも惣て不通の趣なれは、大に望を失して如何ともすへき術なく、船中皆恍然として有けるに、島夷頃刻にして豚の子、野牛の子等を持來て是を示といへとも、船中のものもの是を辨する者なけれは、更に一言を發する者なかりしに、島夷又雞と琉球芋を持來り我船中に投し入に、二種とも蝦夷島無產の者なれは、始て奧蝦夷にあらすして蠻島ならん事を知るといふ。—挿繪カバラ夷船の圖(底本二頁)「第一圖」右の兩種は惠與する所なるへしと船に留め置けれは、夫より島夷等舟を近つや相爭て我舟に乘り入る、船中朝餉を食し終り食器の類いまた收藏せさる所なるに、各是を奪取り、其外雜器何品に限らす手に蠲る、者は妄りに奪取て褌に褌み、其後は船中のもの、帶を解、衣類を剝き取らんとするに至りける故、文助其他船子と共に刀協差・庖丁の類を取て、切害せんとするの狀をなして是を威しけれは、夷等悉く逃去りぬ、其後は敢て船に近付者なく遠圍して有けるか、兩三人許水底を潜り來り、手に小さき劒の如くなる者を持船底を穿たんとす、文助刀を以て艀舟に下り、水底を伺ふて是を刺す一夷の肩を貫く、船子又孮[9]を以て一夷を突けれは、皆逃去て夷船に這ひ上りたるを望見せしに、血に染て號泣する事甚く、其聲を聞得て四方の夷船圍みを解ひて逃去りけれは、文助船子をして急錠を切捨、船を出して帆を開きけれは、幸にして風少く起り暫時の間に半里餘も走せ去りけるゆへ、後より二三十人乘組たる夷船貳艘追ひ來りしかとも、ついに追付得—挿繪カバラ夷船順吉丸を圍むの圖(底本二頁)「第一圖」すして歸り去りぬ、是享和三亥年正月二十四日の事なり。夫より又々四日の間沖に漂ひ遠望するに、西北の方に當て地方の山々連綿たりといへとも、又もや前島の如く賊夷の住地ならん事も恐しく、再び地方に寄るへしといふ者なかりしかとも、同月二十八日の朝「チョプラン[10]」と稱する地方に漂着す、此所は臺灣州の内なりといへとも、二百七八十里を隔たる南方の邊地なり、男女凡貳百人許も海濱に出來り、我舟を望み在りけれは、文助艀舟を下し地方に近寄り、言語を通し試みるに、一辭も通する事あたはすといへとも、人物何となく溫順なる形狀なれは、水を請ひ見んとて桶を出し示といへ共、不通の趣なれは茗碗を出し飲下の狀をなし、是を請といへとも猶不通なれは、なすへき術なく、船中に來りて文助船子を呼ひ、船具今已に破却し此時船中小碇一挺。繩一筋を餘せりといふ且食糧は米一苞のみを餘せは、縱令何方に行といふとも全くの程難計し一苞の糧は箱館にて積む所の糧なり、仙臺沖にして日本地の山を見失ふより、一日食二度を限りとなし、雨を得て水多き時は粥をすゝり、或は昆布かすの子等を食となし、只不飢を以て幸とするのみ、故に六十餘日を經て猶一苞の糧を餘、し貯る事を得たりといふ、さすれは死を決して此處に上陸し、如何にもして地夷に倚賴するより外術有ましく思ふなり、汝等予と同意なるものは共に上陸すへし、不同意のものは船に殘るへしと云けるに、此一兩日前に賊島の危急をのかれ得たる事なれは、皆恐怖の心ありといへとも百計共に盡けれは、止事を得す一統に死を決し上陸すへしと云、其内四人を殘して船を守らせ、文助茂兵衛船子三人を率いて上陸す、群集せる夷人等岸に出て小舟と共に地上に引揚、不通の言語にて何か呼ひ罵るといへとも、實に一言半語も辨すへからさる事なれは、始終夢中の如く思ひ居しに、夷人書を作りて是を與へける故、茂兵衛をして是を讀しむるに、何國より來たるやと問ふ趣なれは、茂兵衛も書を作りて日本國人漂流と書し示しけるに、夷等初て覺得たる趣にて又書き示を見るに、三四月の頃まて此處に滞留すへし、さすれは臺灣地より商船の來る者あり、其船に同乘し送り歸して本國に至らしむへしといふ、茂兵衛よふやしにして是を讀得て、文助其他の船子に告諭しけれは、皆々少し解心して、夫より夷家に伴はれて止宿す。其夜風波あらく遂に本船は陸へ吹上られ破潰せしゆへ、守船の船子も夷人に伴れて上陸し夷家に寄宿しけれは船中の雜器は夷等悉く奪ひ取り、空船は釘を取らんとて焼捨たれは、今は如何なる事ありとも逃去へき術なく、徒に殺さろへき覺悟にて「ツーレン[11]」と稱せる夷人の家に集居しに、四五日を經て「ツーレン」諸夷を集め、我壹人にして此九人を養ふ事成り難し、各壹人つ伴ひ返り養ふへしと云けれは、諸夷許諾して夫々に伴ひ歸り「ツーレン」がモトには文助壹人を残して寓居せしむ、此「ツーレン」は此地の酋長の如く成者にして、商價を業とする者なり商價の夷は大抵此地にして生たる者にあらさるへし、蓋し臺灣枋寮の地を遁逃して此地に來る者ならんか、故に商價の家のみ其俗を異にし、刺頭の狀衣服の裁縫惣して今の唐山人の如しといふ。此處の食法大に本邦と異にして、三日續て琉球芋を食し間一日米飯を喰ひ、又三日連て芋子を食し、間一日米飯或は梁[12]の餅・飯等を食するを法とす、病者・老人・小兒といへとも此法を變する事なし。文助か輩初の程は珍味となして皆々進み食せしかとも、後は皆厭飽して食ふ事を欲せす腹中自ら不快を覺しに、此年閏二月下旬の頃より皆々腫病を煩ひ出しけれとも、邊地素より醫藥を用ゆへきなく、只無味の芋子・琉球芋の類を少許づゝも食するのみにして日を送りしに、二月初旬より熱病流行し此時本邦麻疹流行せし時なり夷人の徒も家々病者多、男女を合て百人の餘も死亡しけれは、文助が族も皆其餘殃に罹り、腫病の上の熱病に二月六日船方の者とも壹人死してより、續て三月下旬まてに七人死亡す、只船子安兵衛なるもの文助と貳人生活する事を得たり。然といへとも此安兵衛も三年を經て痰を煩ひ丑の年四月十五日死す、文助壹人此地に四年の日月を送り「ツーレン」か許にて、鹽を焚き木を樵り、或は濱邊に出て「コッケ>[13]」と稱する貝をひろひ來る事を業とせしといふ。コッケの圖下に出す
チョブラン地勢人物
- 此處村落三集あり、一を「チョプラン」といふ、一を「アミサン」といふ、一を「チカシュワン」といふ。三落合して戶數凡貳百餘、臺灣州の内なりといへとも、東南の邊地にして里程凡貳百餘里を隔たれは、知府知縣とてもなく、君長と稱すへきものも又ある事なし。文
學 は商價の徒のみ通して、農の輩は絶て是を辨知する者なし、故に曆日とてもなく、何を正月とし何を歳暮といふ事を知らず、夷人惣して我年齢を辨したる者なし。 - 此地田なくして畑のみを耕耘す、其穀類[14]は、米夷名バンナイ・大豆方名チトベイ・小豆方名ヲラ、・梁方名ヲハアイ・胡麻方名ダンカのみにして。麥・稗・蕎麥の類なし。野菜の類は、琉球芋方名ゴガ・芋子方名ダレ・大根失名・小菜失名・方名コナヲ・茄子方名ドタ・黃瓜・眞瓜二種失名・西瓜方名ウチヤーカ・蕃椒方名ケンチの類を播植す。此地季冬の氣候大抵本邦仲秋の如く、霜雪の類は絶て見る事なけれは、草木何物によらす凋枯する事なし、故に作物大抵年に兩熟せり、唯粟のみ一作なれは、夷人粟を刈り終る每に一年終りたりといへり、野菜の類は一年中花を開き實を結び、喰ひ盡せは又是を播植し、更に絶る時なし、其内常食となすものなれは、琉球芋・芋子の兩種は殊に多播植すといふ。
- 稻も田なけれは畑に植付、初作は季冬より初春の頃まてに植終り、五月に至りて是を刈收し、直に再植をなし、九十月の頃熟して是を刈採る。然も君長といふ者なけれは、貢物といふ事もなく、皆己々が作り取とする事也。此植付刈收の時は、夷人等相集て、豚を殺し酒宴を—挿繪チョプラン地勢圖チョプラン男女夷圖(底本七頁)「第二圖」(底本二頁)なし舞躍をなす、是此處一歲中の一大盛事なり。酒宴の躰夷等地上に席を設け環座して酒を勸、正に飲んとするの前各酒を池上[15]に流し肅敬して呪言をなす、蓋し地神を祭り年の豐熟を祈る心成へしといふ
- 右にいふ如く暖國なれは、男女とも多は裸體にして起居動靜す。極寒の時に至るといへとも、綿絮を納たる衣服或は裏を施したる衣類なく、只麻布を以て製したる後圖の如く衣一二枚を服するのみにして、外の衣類有事なし。
- 頭は男女とも髪を切らす、細き苧縄を以て根を頂上に結ひ、其縄の端を以て髪の末に至るまてきり〳〵と卷立、其卷たる髪を直に鉢卷の如く是を纒ふ。尤男夷は本邦の如く前一方を刺り落せりといへとも、其上の髪を切り伏せて是を覆い、其上に卷髪をまとふ故、刺落したる處は見ゆる事なし。又做戯をなす時は、髪を卷に苧繩を以でやす、麻布の細き文彩ある者本邦色眞田と稱する物のことしを以て卷事初の如し。 —挿繪チョプラン男女夷服飾の圖(底本二頁)「第三圖」
- 男夷の耳は、圖の如く耳垂に大なる穴を穿ち、其穴をふさくに、彫刻をなし鉛を入て文彩をなしたる片木を入る故に、其耳の大なる事目を驚すに堪たり、余りに穴を大にせんとして緣の肉を引切り、鹿皮を以て縫綴したる者ありといふ。
- 女夷の耳は、男夷の如くならすといへ共、是又鹿角の環または竹輪を穴中に入、圖のことく緋羅紗の切片等を結付て飾となせは、又小なりといふへからす。
- 足は男女とも徒跣にして、履鞋の類たへて有事なし。
- 男女とも、美飾の服と稱する者は皆玉を飾る事圖の如し、做戯をなす時の衣服は玉飾の間また鑾鈴を點綴す。
- 女夷は平生頭に黒き「チヤーガヲ[16]」と稱するものを纒ひ掛て飾となす。做戯をなす時は其上また掛玉を掛るといふ。チヤーガヲの事下に詳なり
- 女夷の頭を包むものに「カッケン」と稱する者あり、木綿の紺地色なる者長六尺にして、兩端猩々緋の類を以て緣をとり美観となす、其著狀は前圖の如し。
- 男夷の褌は幅五寸長六寸許にして其狀圖の如く、只前を覆ふのみ。襣子又前圖の如く脛の處のみ纒て股尻共に後脫す、男夷山に入る時のみ是を著するといふ。女夷の褌は圖の如くなる者貳枚を以て左右より腰を縄といふ。
| 本 | 書 | 奇美音 | 田浦音 |
|---|---|---|---|
| 米 | バンナイ | パナイ | テポス |
| 大豆 | チトベイ | トベ | トベ |
| 小豆 | ヲララ | ララ | ララ |
| 粱 | ヲハアイ | ハバイ | ハバイ(粟)(註一二を見よ) |
| 琉球芋 | ゴガ | コガ | ボガ |
| 芋子 | ダレ | タリ | タリ |
| 本書には和名を脱す | コナヲ | クナウ | クナウ(クナウは葱の方名) |
| 西瓜 | ウチヤーカ | チャーク | チャーク |
- ↑ 商價は商賈の誤記ならん
- ↑ 順吉丸漂流記十七反帆三百石積順吉丸
- ↑ 同書同年十一月十九日
- ↑ 同書水主奥州津輕源浦清三郎・三之助・安兵衛・長太・彌五郎・三太郎・箱館源八都合私とも八人
- ↑ 同書奧州南部の内ミヤコと申所え云々とあり。都・ミヤコは宮古港ならん
- ↑ 同書粮米として米四斗入七俵、鹽一俵、味噌薪等夫々積入
- ↑ 同書仙臺山田沖
- ↑ 「す」は「時」の誤寫か
- ↑ 孮は𭿺の誤寫か
- ↑ 順吉丸漂流記其節は何國とも不存上陸の上追々跡にて承り候得者、シホウタンにて其所にてはチウランと申外國の由
- ↑ ツーレンは臺灣語タウラン卽ち頭人にして頭立ちたる者の義、順吉丸漂流記に「私儀はアミサンと申し村内にて頭立候者の方え連行申候、共者の名は□アンドと申す者の由」とあり、□は「こ」とも見られる
- ↑ 梁は餅粟なれども、本書にては栗(方名オハアイ)の場合に粟字と混用し、餅粟の意はなし。今其儘になし置く
- ↑ コッケは寶貝にして順吉丸漂流記にはコケと記す、奇美音カコケ、田浦音コケエ
- ↑ 本書所載殻類野菜の方名にして現に地方に存するものを左に掲ぐ
- ↑ 池上は地上の誤寫
- ↑ 順吉丸漂流記にはチャガホと記す。奇美音、田浦音共にツアガウ