渡部一郎君の故議員砂田重民君に対する追悼演説
○議長(櫻内義雄君) 御報告いたすことがあります。
議員砂田重民君は、去る九月二十四日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
同君に対する弔詞は、議長において去る十月十二日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
- 〔総員起立〕
衆議院は 多年憲政のために尽力し さきに予算委員長の要職につき また再度国務大臣の重任にあたられた議員正三位勲一等砂田重民君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげます
故議員砂田重民君に対する追悼演説
○議長(櫻内義雄君) この際、弔意を表するため、渡部一郎君から発言を求められております。これを許します。渡部一郎君。
- 〔渡部一郎君登壇〕
○渡部一郎君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員砂田重民先生は、去る九月二十四日、東京虎の門病院において急逝されました。
砂田先生は、本年二月以来、北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官として、海部内閣の有力な一員として国政の運営に当たってこられましたが、夏以来、風邪を召され、体調不調と伺っておりました。暑さが過ぎれば本復され、以前にもまさる活躍をなさるのであろうと期待しておりましたところ、病勢にわかにあらたまり、九月十三日その職を辞せられ、秋の風とともに木の葉が一枚はらりと落ちるように不帰の客となられました。
私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。
砂田先生は、いかにも育ちのよさを漂わせた現代型文化人そのものであり、そのしょうしゃな物腰とダンディーな紳士ぶりは、私たちのまぶたに焼きついているところであります。大正六年三月四日、砂田重政氏の長男として神戸市にお生まれになりました。お父上は、先生が三歳のときから帝国議会議員として在籍され、政友会の幹事長を務め、戦後は、自民党の総務会長、防衛庁長官等を歴任された大物代議士でもございました。
先生をはぐくんだものに、大正リべラリストとして、また自立した日本女性のかがみとして御母堂の厳しくも温かい御薫陶がございました。先生のしつけのよさ、女性の目から見ても洗練された挙措進退、また音楽に対する深い傾倒は、そのときに得られたものでございましょう。
さらに先生を育てたものは、教育であります。神戸の諏訪山小学校卒業後、御父君の政務の都合で暁星中学へ進み、アカデミックな国際主義の洗礼を受けられました。その後、立教大学予科を経て、昭和十二年、立教大学経済学部に進まれました。
学風は人をして大成せしめるものでありますけれども、先生はその間に、スポーツ、特にアイスホッケーで大きく人生に開眼されました。天性もさることながら、よき先輩に恵まれて青春のたぎりをリンクに注入されました。黙々たるつらい練習、陰に回ってのリンクの掃除などにも打ち込み、やがて真摯な努力と天賦の才は、先生を立教大学の名センターフォワードとして縦横無尽の活躍へと導いたのであります。ついには、昭和十五年、第二次世界大戦のため中止となった冬季札幌オリンピック代表選手に選出されたのであります。それは、人間砂田の育成にスポーツが果たした勝利の記録でありました。
スポーツのみならず、人生全般にわたり、瞬時にして局面を見てとる確かな目、組織の和を重んじるポジションワークは、政治家となられた後も大きな資産となったことは疑いもありません。
加えて、先生を育てたものは、父重政氏の大所高所からの擁護でありました。先生は、昭和十五年、大学を出られた後、年の暮れには兵役に服し、三年間の軍隊生活を送られましたが、父重政氏は、除隊後の先生を陸軍省南方総軍軍政最高顧問としての自分の秘書として採用し、シンガポールに終戦まで在勤させられました。
また、御自分の死期を悟られたのか、昭和三十年二月の総選挙の際は、わざわざ愛媛二区の選挙区に伴い、最後の戦いをともにされました。その際、選挙の応援に来られた河野一郎農林大臣の秘書官として採用になる道を開かれたのであります。恐らく父重政氏と河野一郎氏との間に愛息の未来についての黙契が存在したことは、容易に推測できるところであります。翌年の暮れ、鳩山首相を首席全権とする日ソ国交回復交渉団の中に、河野氏の秘書官として青年砂田の姿が登場するのであります。政治家としての大成のため、砂田家が配慮された周到な気配りと準備には感心せざるを得ません。
こうして、エリート教育を受けた若者として、先生は国会へ登場してくるのであります。
先生は、昭和三十三年十二月、父君の急死に伴いまして立候補する決意を固めるに当たり、選挙区の選択にさえを見せられました。御自分の御説明によりますと、遺言と称して父の第一秘書にその選挙区愛媛二区を譲り、自分は幼少を育てた心のふるさと神戸を選んだのであります。
しかし、愛する神戸での選挙戦も決して生易しいものではございませんでした。昭和三十三年五月の第二十八回総選挙、昭和三十五年十一月の第二十九回総選挙で惜敗した先生は、昭和三十八年十一月に行われた第三十回衆議院議員総選挙で初の栄冠をかち取り、国政の一角を占められたのであります。
先生は、地方行政、物価問題などの各委員会の委員、理事を務められ、その後、昭和六十一年には予算委員長に就任し、運営の衝に当たられました。本院議員に当選すること八回、在籍二十二年四カ月の長さにわたりました。この間の先生の御業績の幾つかを御披露したいと存じます。
当選後の先生は、鮮やかなスティックワークで敵陣に切り込むセンターフォワードさながら、まず消費者保護基本法の成立に取り組まれたのであります。
ここで私は、本院議員の功績と活躍は同僚議員の協力によってできるものだということを触れないわけにはまいりません。また、ある意味では他党の友人たちの理解がなければならぬときすらあることに触れざるを得ないのであります。また、その背景にある世論、そのもう一つ後ろにある世の流れというものとも無関係ではないのであります。
しかし、それにもかかわらず、私が砂田先生の消費者保護基本法成立の御功績をたたえるのは、当時アメリカにさっそうと登場したケネディ大統領が、消費者のための四つの権利、安全を求める権利、知らされる権利、選ぶ権利、意見を聞いてもらう権利を提唱し、世界各国の消費者行政に大きな影響を与えたわけでございますが、それに対していち早く反応し、同僚議員に話しかけ、基本法をまとめるために最も貢献されたという事実であります。昭和四十三年五月、各党の賛成で成立した本法は、日本の消費者のための憲法と称せられております。
先生は、沖縄本土復帰の直前、昭和四十六年に総理府総務副長官に就任されました。この沖縄県民の血涙の悲願は、日本国民全体の決意でもありました。佐藤総理は、交渉の立て役者としてノーベル平和賞の受賞に輝いておられます。山中貞則総理府総務長官の鬼神をも泣かしむる大活躍は、今日も語りぐさとなっているところであります。その陰に、沖縄にも本土にも、たくさんの方々が膨大な数の沖縄関係法案の整備を進め、米国との交渉に当たり、省庁間の調整を不眠不休で実行をした功労者のあったことを、我々は忘れられないのであります。そして、その陰の舞台の立て役者の一人に砂田先生があったことを、私は生き証人の一人として語っておきたいと存じます。(拍手)
しかし、やはり先生の真骨頂は文教行政にありました。
昭和五十二年十一月、先生は福田内閣の文部大臣として初入閣を果たされました。当時の日本の文教行政を一歩前進、改革するために、与野党を挙げて多くの若手の政治家たちが教育改革のアイデアを競い、立法、行政の各方面で努力をしておりました。先生はその一人として、水を得た魚のように生き生きと活躍されました。意見の多くは全議員の一致するところとはならなかったのではありますけれども、少なくとも、先生が文部大臣として青少年を信頼することを文教政策の基本に置かれたことを批判する者はありませんでした。「教育というものは、後に続く世代を導くことによって未来を創造すること、「明日に架ける橋」の橋げたをつくることです。私は、その橋げたづくりを最初に若い人たちを信頼することから始めたわけです。」と述べておられます。
先生は、留学生課長兼任大臣のあだ名がつくほど留学生問題を推進されました。特にASEAN各国との間の学術交流については、昭和六十二年、タイ国王から勲一等王冠章を受章され、先生はとても喜んでおられました。
また、古典偏重に陥りがちの芸術祭についても、若者のための文化という観点から接近し、クロスオーバー音楽祭を提案し、実行され、会場では若者と大臣が肩を並べてスイングする風景が演じられました。文部省がロックからジャズまでその視野に入れたことが、当時どれほど大きな快き衝撃を与えたことでしょうか。
しかし、音楽を心から愛し、愛蔵レコード数千枚、ジャズ、ロック、クラシックに至るまで各分野に至る造詣の深い先生にとっては、それは至極当然なことだったのでしょう。
先生は、党にあっては副幹事長、全国組織委員長、総務局長等の重職を歴任し、党のため大きな努力を払ってこられました。しかし、それより、先生の胸の中にあったのは、清潔な政治への燃えるような渇望でありました。
私にとっての初めての衆議院総選挙は、昭和四十二年のことですが、立会演説会で私の後ろに立った先生は、渡部君の言うとおりです、弁解できません、今の政界と選挙は腐っていると発言されて、居並ぶ支援者を唖然とさせられたことを思い出します。先生はしばしば胸に白バラをつけて、清潔の印と叫ばれました。あるときは、みずからのポスターに清潔の文字を貼付されたことさえありました。清潔にこだわるために選挙に弱いとの批評は、むしろ先生の勲章と言うべきでありましょう。
リクルート事件の後、先生は選挙制度調査会長として、政治改革推進本部の選挙制度・政治資金委員長として、自民党政治改革大綱の作成に当たられ、また公職選挙法の改正に尽力されました。そして、まさに政治資金の改革をいよいよ進めようとするときに先生を失いましたことは残念でなりません。
先生は、生まれ育った神戸を愛していました。単なる批評家や受益者であるにとどまらず、みずからも市長選挙に打って出るとの勇気を発揮されたこともありました。ユニバーシアード、ポートアイランド埋め立て等に成功した神戸市は、今ユニークなウオーターフロント計画を立て、レジャーワールド構想や神戸空港計画などを推し進めようとしておりますが、これらの事業に先生は各党議員ともども心を砕いておられたところでございました。
政治家の仕事は、どんなに成功しても決して完結するものではありません。後を継ぐ者によってさらに改良され、さらに進展されて初めて国民のためのものとなるものであります。あたかも漆の工芸家たちの作業に似ていると私は思います。
初めだれが木地をつくったのか、多くの漆職人は知ることはない。また、自分が手がけた後の漆細工をだれの手で完成していくか、微細に知ることもない。前の匠のわざを信じ、後の匠の心を頼るしかないのであります。先生のやり残したこと、したかったことは極めて多かったと存じます。すべては後に生きる方にお願いしますというのが、先に人生を生き切って燃え尽きた先生の遺言のような気がしてなりません。多年の親友、海部総理が最後にお見舞いをされたとき、どうか信念を持って頑張ってくださいと言われたと聞きましたが、その言葉は本院議員のすべてに託された先生の思いではなかったかと存じます。
先生と私とは党派を異にし、過去幾たびかの選挙戦において戦いを重ねてまいりましたが、先生の弁舌は聞く人を魅了せずにはおかなかったのであります。
私は、先生の円満なお人柄、先見性に満ちた見識に常々深い尊敬の念を抱いておりました。日ごろから先生とは国政について、郷土の発展について、胸襟を開き忌憚のない意見を交わしてまいりましたが、やがて暇になったら音楽を一緒に楽しみましょうと言い交わしたお約束も今ではほごになりました。ただただ残念でなりません。
私は、故人の業績を回顧するとともに、その熱い思いをそんたくし、お人柄をしのぶ次第でございます。謹んで御冥福を祈るとともに、この数十年、陰に陽に先生を支えてこられた奥様を初め御一族の皆様の胸中に思いをいたし、深く哀悼の意を表するものでございます。
以上をもちまして、追悼の言葉といたします。(拍手)
外部リンク
[編集]- 平成2年11月1日 衆議院本会議 会議録(官報号外 平成2年11月1日 衆議院会議録第5号) - 国会会議録検索システム
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