海老名弾正の同志社総長就任の辞
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[編集]就任の辞
皆様、今日此盛大なる就任式に於て、中村理事の司会の下に、綱島牧師の紹介により、ラーネツド教授の祈禱を以て、同志社大学総長の椅子を辱ふするに到りたる私は、時代の変遷に想び到りて今昔の感に堪へざるものがあります。
回顧すれば今を去る四十有四年前、私は新島、デビス、ラーネツド三先生の驥尾に附し、同志社創立の基礎を据えた所の熊本バンドの一人であります。その時私は神学科に於ては学生となり、普通科に於ては教師となりましたが、常時綱島牧師は普通科に居られたのであります。又学校の外に新島先生は有力なる弟子を持つて居られたが、其重なる人は中村栄助、大沢善助の両君でありました。
私共第一回の神学科卒業生は、卒業の際に協議の上、二組に分れ、一は同志社に止まりて母校の経営に従事し一組は地方に派出して、同志社の主義精神を発揚し、専ら伝道事業に従事することに致しましたが、私は此伝道事業を択んで、新島先生の郷里群馬県の安中に行き上州伝道を開始しました。それから東京に行き九州に到り、京神に居を移し、復た東京に上り、今四十有一年の後私が母校に召び還され、ラーネツド、中村、綱島の三友に擁せられ総長の椅子を辱しむることは、私にとりて深甚の感なきを得ませぬ。嗚呼此間、その当時同志社に残りし山崎為徳先づ去り、次いで新島先生去り、森田久萬人君去り、デビス先生去り、市原盛宏君去りて、僅かに宮川経輝君が大阪に、ラーネツド教授が同志社に残り居らるゝのみであります。同志社も早や半世紀の歴史を作るに到りました。此歴史は不思議にも十五年を一期として三期に分つことが出来ます。
第一期は、創立より新島先生の、永眠に至るのであります。これは一年は一年より隆々の勢を以て同志社が発展した時代であります。同志社は永い年月の間、未だ曽て、第一回第二回の神学科卒業生の如き、有力にして而も多数なる神学卒業生を出した事はありませぬ。第二期は、新島先生の永眠より下村社長第二回の辞職に至るのであります。この時代は同志社にとりて多事多難、内憂外患交々襲ひ来つて、社長の更迭も六回に及び、人をして同志社存在の価値を疑はしめたのであります。私をして一論文を綴り同志社の使命終れりと憤慨、痛歎せしめたのは此時であります。而して自ら駑馬に鞭ち、十二分の努力を尽くして同志社の大精神を官公立の高等教育府の学生に鼓吹せんとして奮闘したのであります。而も同志社の大精神は決して地に墜ちなかつた。第三期は同志社再興の時代と謂つてもよからうと思ひます。篤志の校友大いに活躍し、原田助氏を推して社長となし、著しく同志社の面目を一新したのであります。茲に於て私の如きも漸く愁眉を開き始めたのであります。
今や同志社は第四期に入り始めました。同志社にとりては実に千載に一遇とも云ふべき時代であります。世界は改造されつゝあります。日本も大変化を来しつゝあります。同志社も亦一大波瀾の後一陽来復の時期に逢着しました。何を以て一陽来復の時期とは云ふか。
第一は、人格教育が国家社会に重要視せらるゝに至つた事であります。同志社の創立者は茲に見る所あり、其当時、智徳兼備の人物を養成したいと熱中したのであります。智徳兼備の教育とは、取りも直さす人格教育を云ふのであります。
第二は、デモクラシーが高調せられ始めた事であります。之れは新島先生が最も熱中せられた所であります。先生は自田教育自治教会と申されました。先生は此デモクラシーを提げて折々官僚主義と衝突したのであります。先生は安中藩の士族でありましたが、幕府の禁を犯して海外に脱走し、行衛不明となられたるが故に、先生の令弟宗六君が新島の家名を継がれたのであります。宗六君が早世せられたるを以て、先生の父君は植栗家の次男を養子として家を継がしめられたので、先生は士の資格より落ちて平民となられた。先生は其門柱に平民新島の標札を掲げ、自ら之を光栄なりとして喜ばれたのであります。当時の学生は全く自治制を実施して居りました。我々学生は学生会議を開き、学生の心得並に塾則等を協議し、之を携へて先生の家に行き、先生の認可を得たのであります。後日先生は来賓に向つて大に誇り『同志社の竹垣は腐れ縄にて結ばれ、門には番人の守りなし、而も同志志は安全にして何等生徒の為には気遣ふ所なし』と言はれて居つた。是れ他なし、我々学生が自治制を行うたからであります。我々の時代には同志社に舎監と云ふものはなかつた。デモクラシーは論議にあらすして実行であつた。やがて此デモクラシーは更に進んで国家社会に適用せらるべきものと思びます。
第三は、インターナシヨナリズム即ち万国主義を鼓吹すべき時代が来たのであります。新島先生はこのインターナシヨナリズムの精神を懐いて其時代の到来を待つて居られた。偶々感情の勃発し来る時、噴火山の如くなつてキリスト魂を絶叫せられた事があります。先生は熱烈なる愛国者でありました。私は先生の書斎に於て偶然先生の英語論文の一ページを見た。その一節に『日本よ、日本よ、若し我れ爾を忘れなば、我が右手に其巧を忘れしめ給へ』との文字があつた。これは詩の百三十七篇にある一句であつて、御承知の如く、熱烈なる愛国の歌であります。而も先生は此熱烈なる愛国心に加へて大なるインターナシヨナルスピリツト、即ち世界魂を有して居られた。之れ実に同志社の大精神であります。今後の日本も列国共立の利害から打算して来るにあらざれば、孤立するより外はありませぬ。日本は世界的頭脳を有する人物を要します。世界は大々的飛躍をなし、国民聯盟の新時代を造り始めたのであります。
第四は、女子が覚醒し始めた事であります。新島先生が女子に平等の地位を与へんと欲し、其為に苦心せられた事は、私が能く知る所であります。先生は独り女子に教育を与へんと希ふたるに止まらず、女子を敬ひ尊んで男子の地位に引き上げんと苦闘せられたのであります。是も亦吾々が先生と共鳴した所であります。今や男女共学の声さへ叫ばれつゝあります。同志社には女学校もあります。愈々男女共学を実施するの際には同志社の如きは尤も好き位置を占むるものと言はねばなりますまい。我が同盟国たる英国には、最早一千五百万の女子が参政権を有して居ります。同志社は久しく男女平等主義を尊重して来たのであるが、今や之れを鼓吹すべきときとなつたのであります。今後日本の教育者は、以上の人格主義、デモクラシー、インターナシヨナリズム、及び男女平等主義の四大主義に基づいて新天地を開拓すべき新時代となつたのであります。
然るに今、此好時期に際して、不宵私が同志社大学の総長に推された事は、私にとりては無上の光栄でありますが、顧みれば浅学短才にして責任の重大なるに恐懼せざるを得ません。乍併、同志社をして此千載一遇の好時機を逸せしめては創立者の驥尾に附したる私共の責任も亦免るべからざるものがあります。世界の変動、日本の変化、同志社の変遷は王政維新前に於て乱臣賊子と叫ばれたる人々が、王政維新後忽ち忠臣義士となりたる時代の変化にも劣らない大変化であります。理事会が私を推庵したるも私が蹶然起ちたるも、蓋し此大変化に起因する所少からずと存じます。
私が学生諸君から受取つた懇願書の中に『此際先生に総長と云ふ大任をお願び申すと言ふ事は、先生を玉座から荊の床へ引き下ろすことになりはしないかと或は怖れ或は患ひました。然し今日の同志社はドウしても爰に犠牲の使命に感激せる方が、一命を賭して此大任に当られるにあらざれば、決して此艱難を打破し得るものではないと云ふ事を、深く感じました故に、御無理とは知りながら、唯先生が其人である事を堅く信じ、且つ神の見えざる導きの断えずある事を思ひ、不敬をも顧みず、愛校の熱情に燃えて、此書を捧呈する次第であります』とありました。之を読んだ私は、若し右顧左眄して辞退せんか、之れ私が過去五十年間取り来りたる主義精神に対して、自ら裏切るのであります。学生諸君は、私が宗教道徳生活の急所を衝いたのであります。同志社将来の事業は実に重大であります。只今祝辞のうちに述べられたる注意は大に私の参考となります。而して私をしてこの大事業に当らしめたるはに学生諸君の至誠でありますから、終りに臨んで諸君に私が一片の宿望を言はして貰ひたい。
私共の卒業式に際し、新島先生が、その肝膽を吐露して云はれた事がある。『昔郭隗が燕の昭王に説いて、王若し天下の人材を得んと欲せば、請ふ隗より始めよと云つて自分を推薦した。その如く襄は自分を推して此教育事業に従事して、楽毅の来らんことを望んだのであるが、今日其望が遂げられた。私は郭隗であり卿等は楽毅である』と云つて落涙し給うた。其時私は表心から先生と共鳴し、私も隗の役を勤めたい、私は決して楽毅にあらず、私はバプテスマのヨハネとなりたい、私は偉人の来るを望んで伝道界に身を投じたのであります。而して四十有一年の間偉人を待てども待てども来りませんでした。私は人物が欲しい。之れは私の苦悶であります。独り私の苦悶にあらずして、日本の苦悶であります。故に此度私が同志社に帰り来つたのは、卿等学生の間に私が永く期待して居た所の人物を見出さんが為であります。私は自ら創立者新島先生の期待に適ふ事能はざりしは慚愧の至りであります。今使願はくば、同志社より、日本を世界的に指導し行く所の人物を造り出したい、唯此期待を以て、不宵を顧みず総長の大任を負ふ次第であります。願はくば学生諸君よ、私をして新島先生の志望を貫かせしめて下さい。頼まれた私に大なる責任ある事は後を俟たぬ、けれども頼んだ学生諸君にも亦重大なる責任があります。希くば相協力して創立者の志に応へたい。
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