河村建夫君の故議員松岡利勝君に対する追悼演説

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河村建夫君の故議員松岡利勝君に対する追悼演説(かわむらたけおくんの こぎいん まつおかとしかつくんに たいする ついとうえんぜつ)。2007年(平成19年)6月15日、衆議院本会議において、河村建夫衆議院議員。


○議長(河野洋平君) 御報告することがあります。
 議員松岡利勝君は、去る五月二十八日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 松岡利勝君に対する弔詞は、議長において今十五日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
    〔総員起立〕
 衆議院は 多年憲政のために尽力し さきに農林水産委員長の要職にあたられた農林水産大臣議員松岡利勝君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげます
    ―――――――――――――
 故議員松岡利勝君に対する追悼演説
○議長(河野洋平君) この際、弔意を表するため、河村建夫君から発言を求められております。これを許します。河村建夫君。
    〔河村建夫君登壇〕

 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員松岡利勝先生は、去る5月28日、逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。

 農林水産大臣の重職にあって、「攻めの農政」の陣頭指揮に当たっておられた中での突然の訃報に、言葉もなく、ただただ今もって信じがたい思いであります。御遺族の御心痛はいかばかりかと察するに余りあります。

 私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べさせていただきます。

 松岡利勝先生と私は、私の方が若干年上ではありますが、同じように、安倍晋三総理のお父様であります安倍晋太郎先生の御教導を仰ぎながら、平成2年2月の第39回衆議院議員総選挙で初当選した同期の間柄であります。

 松岡先生とは、初当選して間もない平成4年12月、日本農業の根幹、国民生活の土台である米、水田を守ることを目標に、日本の農業を守る特別行動議員連盟を結成いたしました。

 平成5年3月、松岡先生を団長とする我が党議員六名の第一次訪米団に私も団員として参加し、日米間の懸案となっていた米の輸入自由化問題について、アメリカ側に対し、新ラウンド交渉における我が国の立場への理解を求めるなど、実に戦略的な交渉を行いました。

 その際、訪米団は二名ずつ三班に分かれてアメリカ議会下院の議員会館に乗り込み、私は松岡先生とともに下院議員五名と会談をいたしましたが、中でも、アメリカの米どころ、アーカンソー州の出身で、農業問題に関しクリントン大統領のブレーンでもあったソーントン下院議員との会談は大変厳しいものとなりました。

 しかし、松岡先生は、「粘り強く頑張って交渉を続けていけば、必ず解決の道は開かれる」との信念に基づいて、気迫のこもった交渉をされました。日本の農林水産業の発展にかける松岡先生の強い信念と抜群の行動力、指導力は、ソーントン下院議員をして、「松岡先生はハードネゴシエーターだ」と言わしめるほどで、松岡先生は、当選1回にして既に、我が国農政の第一人者たる風格があったのであります。私には、それがつい昨日のことのように、鮮やかに、懐かしく思い出されます。

 松岡利勝先生は、昭和20年2月25日、世界最大級のカルデラを誇る阿蘇山の雄大で静かな自然の中、熊本県阿蘇町、現在の阿蘇市にお生まれになりました。戦中戦後の、食べ物も乏しく、貧しい時代でありましたが、子供たちはみんな仲よく元気いっぱいに遊び、物はなくても心の豊かな時代でありました。

 御実家は農業を営まれ、松岡先生は、幼少のころから御両親を助けて、田植えから稲刈り、家畜の世話や夏の炎天下での下草刈りといった手伝いを一生懸命にされました。そうした手伝いを通じて、子供ながらに、農業の厳しさ、大切さを胸に刻むとともに、御両親の御苦労、大変さを知り、御両親への感謝の思いを強くされました。また、一つのことをみんなで取り組むことの大事さに深く思いをいたされたのであります。お世話になった方を大切にされる細やかな心遣いは、農業の手伝いをされる中で、幼いころから培われてきたのであります。

 長じて、松岡先生は、御地元の伝統校、熊本県立済々黌高等学校から、鳥取大学に進学をされました。当時、御実家では農業のほかに林業を営まれ、おじ上が営林署にお勤めであった関係もあって、お父上の勧めにより、大学は林学科のある農学部を選ばれたそうであります。

 松岡先生は、高校、大学ともに空手部に入部をされ、文武両道をきわめられました。大学四年生のときには、主将として、多くの部員の模範たる立場でありました。

 当時、鳥取大学空手部は地元の千代川で正月の寒げいこを行っていましたが、あるとき、現代の若者を題材とするテレビ取材を受けて、松岡先生は、部員とともに日本海での寒げいこに挑まれました。川でやっているのを海でやるだけだと気楽に引き受けられた松岡先生でありましたが、冬の鳥取砂丘はいてつき、夏とは違って、幾ら走っても海岸線が近づいてこない。やっとのことで海岸にたどり着き、海に入って空手の型を披露し始めたところ、冬の日本海の冷たさはこんなに厳しいものかと、ほかの部員を思いやり、身にしみたそうであります。しかし、取材陣と一度交わした約束だからと、最後までこの寒げいこをやり通したそうであります。このころから、松岡先生は約束を大事にする方でありました。

 松岡先生は、昭和44年、鳥取大学卒業後、農林省に入省され、北海道の天塩営林署長、秋田営林局室長、林野庁課長補佐等を歴任されました。中でも、二十代後半、農林大臣官房企画室で係長をされていたころの若き松岡先生は、技術系、事務系の枠や、農業、林業、畜産業、水産業という分野の枠での縄張り意識の強かった農林省の中にあって、この枠を乗り越えなければ我が国の農林水産業の将来はないとの強い思いを持っておられました。そうした中で、中川一郎先生を初め、多くの政治家の薫陶を受けられたことが、政治を志すきっかけになったと伺っております。

 また、当時、農林大臣であった安倍晋太郎先生が、食料危機的な背景があったその時代に、恐らく我が国で初めて「攻めの農政」という言葉を使われました。自分たちの持っているもののよさをもう一度見直して、今までにない新たな領域、分野を開拓し、攻めていく意欲、この安倍晋太郎農林大臣の「攻めの農政」の言葉が、政治家松岡利勝先生の農政に対する信念、すなわち、「攻めの農政を展開していくことが農林水産業を発展させる道である」との強い信念につながっていったのであります。

 こうして政治への志を強くされた松岡先生は、ふるさと阿蘇への思いを胸に、昭和63年、林野庁広報官を最後に農林水産省を退官され、平成2年、衆議院議員総選挙に立候補、見事に初陣を飾られました。

 その後、松岡先生は、連続6回の当選を果たされ、「真実一路」、「お世話になった人を大切に」を信条に、我が国の農林水産業が直面する課題に精力的に取り組み、数多くの功績を残されました。

 本院におきましては、主に、農林水産委員会、予算委員会の委員、理事として御活躍になり、平成11年から12年にかけては、農林水産委員長として、公正かつ円満な委員会運営に尽力をされ、大いにその職責を果たされました。

 また、内閣においては、平成7年には農林水産政務次官として、ガット・ウルグアイ・ラウンド農業合意による新たな国際環境の中で、農業を魅力ある産業として確立し、食料の国内供給力を確保するための対策の具体化に精力的に取り組まれました。平成13年には、初代の農林水産副大臣に就任され、新しい食料・農業・農村基本法に基づく新たな農業政策の構築に尽力されるとともに、森林、林業、木材産業政策の見直しや、新たな水産基本政策の確立にも指導力を発揮されました。

 さらに、自由民主党においても、農林水産関係議員の中核として、農産物貿易交渉や鳥インフルエンザ対策など、国民生活に直結する重要な問題の解決に尽力されてこられました。

 そして、平成18年9月、松岡先生は、安倍内閣の農林水産大臣に就任されました。農林省の係長当時、農林大臣であった安倍晋太郎先生の「攻めの農政」という言葉に感銘を受けられてから三十年余り、その御子息である安倍晋三総理から農林水産大臣を拝命されるというめぐり合わせ。松岡先生は、言葉が出ないくらいに感激をされ、頑張ってお役に立ちたいとの思いを安倍総理に伝えられたとのことであります。

 農林水産大臣就任後、直ちに、松岡先生は、農林水産業の潜在能力を最大限に発揮させ、21世紀の戦略産業にすべく、その具体的な道筋を示されました。「おいしく、安全な日本産品」の輸出を平成25年までに1兆円規模にするという大胆な目標に向かい、ブランド戦略の推進等、品目ごとの戦略的な輸出促進に取り組まれました。

 その結果、世界の胃袋と言われ、豊かになった中国への本格的な米輸出を実現することができたのであります。高品質でおいしく安全な米は、日本の農産物のシンボルであります。その日本の米を、急激に消費市場の拡大が進み、富裕層を中心に高級志向を強める隣国、中国に輸出することは、大変意義深いものがあります。中国側の求める検疫基準への対応等で、その交渉は大変難しかったと伺っておりますが、日本の農業の未来のため、松岡大臣が寝食を忘れて中国当局と交渉されたおかげで、我々は、若い農業の担い手たちに、巨大な中国市場に乗り出すという極めて大きな夢と希望を与えることができたのであります。

 また、他産業並みの所得を確保し得る効率的かつ安定的な農業経営の育成の加速化や、国産バイオ燃料の大幅な生産拡大など、将来を見通した農政改革を進められました。

 さらに、松岡大臣は、国際交渉についても戦略的に取り組まれ、各国の交渉相手からも一目置かれる存在であったと伺っております。

 松岡大臣は、EPA交渉やWTO農業交渉において、国内農業への影響を十分踏まえ、守るべきものは守るとの確固たる方針のもと、その知見を生かし、日本として最大限の利益を得られるよう、精力的に交渉に当たられました。

 さきのハイリゲンダムにおけるG8サミットに先駆けて、去る6月3日及び4日、ベルリンで、GLOBEインターナショナル、地球環境国際議員連盟主催による違法伐採対話国際フォーラムが開催をされました。松岡先生は、英国代表とともにその会議の共同議長を務められる予定でありました。松岡先生の代理を務めてこられた我が党の西川京子議員によりますと、冒頭、会議を開催するに当たり、英国の議員連盟議長から、「松岡先生の御活躍なくしては、今回の会議の開催はあり得なかった」との発言があり、参加国議員全員による一分間の黙祷が行われ、松岡先生の御功績がたたえられましたとのこと、御報告申し上げます。

 経済社会が大きく変化する中で、我が国農林水産業は、今、新たな時代を迎えようとしております。このようなとき、豊富な経験と行動力を兼ね備え、農林水産政策を初め多くの分野でこれからますます活躍することが期待されていた先生が、志半ばのままにみずから命を絶たれたことは、あってはならないことであり、返す返すも残念であります。幼少のころ、農業を通じて命の大切さを身をもって知っておられた先生だけに、まことに痛恨のきわみであります。我々は、松岡先生の遺志を継いで、我が国農政の揺るぎない発展に尽力することをここにお誓い申し上げます。

 ここに、謹んで松岡利勝先生の御生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りいたしまして、追悼の言葉といたします。

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