河底の宝玉
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[編集]一、差出人 無 き真珠 の小包 ――父を尋ねる可憐の一美人
[編集]- 「こういう
若 い御婦人 の方 が貴方 様 にと申 して御訪 ねで厶 います」。 - と、
取次 の者が、一枚 の女形 の名刺 を呉田 博士 の卓上 に差出 した。 夫 を受取 った博士 は「なに、須谷 丸子 、一向 に知 らぬ名 だが、まア通 して下 さい。いや中沢 君 外 さなくてもよい、君 も居 た方 が好 い。」間 もなく須谷 丸子 は確乎 した歩調 で、沈着 の態度 を裝 うて我々 の室 に入 って来 た。金髪 の色白 の若 い婦人 である。背 は小柄 で、綺麗 な人だ。手袋 を深 く穿 め、此上 もなく上品 に身 を整 えて居 る。が、何処 やらに質素 な風 のあるのは余 り裕 な生活 をして居 る人ではあるまい。飾 りもなければ、編 みもない燻 んだ鼠色 の衣裳 、小 さな鈍 い色気 の頭巾 、その片側 に些 ぴりと挿 した白 い鳥 の羽根 がそれでも僅 に若々 しさを添 えて居 る。顔 は目鼻立 ちが整 うて居 るわけでもなければ、容色 が美 なる訳 でもなけれど、その表情 がいかにも温淑 、可憐 に満 ち、わけても大 きな碧色 の眼 が活々 として同情 に溢 れている。自分 (自分 とは、中沢 医学士 のことなり。本書 は中沢 医学士 の記録 により著述 せし故 、「自分 」又 は「予 」という文字 多 し。)は随分 各国人 に接 して色々 の女 を観察 したけれども、未 だ此様 な優雅 敏感 の女 を見 た事 がない。と同時 に自分 はまた斯 ういう事 も見遁 さなかった。それは博士 が勧 めた椅子 に腰掛 けた時 に、彼女 の唇 が顫 え、その手 が微 かに戦 いていた事 である。何 か余程 烈 しい心 の苦悶 を抱 いて来 たらしい。偖 て客 は口 を開 いて、- 「
先生 、私 、先生 の事 をば私 が只今 御世話 になって居 りまする築地 の濠田 瀬尾子 様 から承 って御伺 い致 しましたので厶 います。何 か一度 家庭 の事件 を御願 い致 しました時 に、大層 御上手 に、また御親切 に御骨折 り下 さいましたと申 しますことで、」 - 「
濠田 瀬尾子 さん、はア、極 く些細 な事 で、一度 御相談 に応 じた事 が有 りました。」 - 「でも、
濠田 様 は大層 感謝 していらっしゃいます。私 のは先生 、其 様 な些細 な事 では厶 いません。ほんとに私 、自分 ながら私 の話 ほど奇体 なことが世 に有 ろうかと思 うので厶 いますよ。」 - 「
承 りましょう。」と博士 は手 を擦合 せ、眼 を光 らせて熱心 に椅子 から体 を乗出 させる。 自分 は少 しく自分 の立場 に困 ったので、「僕 は些 と失礼 します。」- と
立 ちかけると、意外 にも客 は手袋 の手 を挙 げて押止 め、 - 「アノ、どうぞ、
御迷惑 でも御一所 に御聞 き下 さいますれば幸福 なので厶 います。」 - と
言 うので、またもや腰 を下 ろす。 - 「
手短 に事実 だけを申上 げますれば此様 な訳 なので厶 います。」と丸子 は言葉 をつぎ、「一体 私 の父 は英領 印度 植民地 駐屯 の或聯隊 の将校 で厶 いましたが、私 はまだ極 く幼 い折 に母 を失 いまして、英国 には他 に親戚 も厶 いませんので僅 かの知辺 を便 りに、横浜 のハリス女学校 の寄宿舎 へ入 れさせられまして、そこで十七迄 過 しました。其 卒業 の年 で厶 います、父 は聯隊 の先任 大尉 で厶 いまして、十二ケ月間 の休暇 を得 て上海 に出 て参 りました。上海 へ着 きますると私 に電報 を打 ちまして、久振 りで早 く逢 い度 い故 至急 上海 の蘭葉旅館 へ来 よと厶 いましたので、私 も急 いで神戸 から船 で上海 に行 きまして、其 旅館 へ参りますと、『須谷 大尉 様 は確 に当方 へ御泊 りでは厶 いまするが、御着 の晩些 と外 へ御出掛 けになりました限 り御戻 りが厶 いません』とのことに、其 の日 は一日 待 ち暮 しましたれど帰 りませぬ。で、其夜 旅館 の支配人 の忠告 に基 づきまして、警察 へ捜索 願 を出 だし、翌朝 の諸新聞 へ広告 も致 しましたけれど、何 の甲斐 もなく、今日 に至 る迄 も更 に行衛 が解 りませぬ。父 が印度 から上海 へ参 りましたのは、安楽 な平和 な余生 を見付 けますためで、それはそれは希望 に満 ちて参 りましたのに、それどころか却 て其様 なわけになりまして―――。」 - と
言 いさして、堪 やらず咽 び返 って了 う。 - 「それは
何時 頃 の出来事 ですか。」 - と
呉田 博士 は手帳 を開 く。 - 「
今 から十年前 の十二月 三日 で厶 います。」 - 「
荷物 はどうしました。」 - 「
旅館 に残 って居 りましたが、手懸 になりそうな物 は一 つも厶 いませんでした。着物 や、安陀漫 群島 (印度 と馬来 半島 との間 、ベンガル湾中 の群島 )から持 って参 りました珍奇 な産物 なぞばかりで――父 は其島 の囚徒 監視 の為 めに出張 致 して居 りましたから、」 - 「
上海 には御尊父 の御友人 はなかったのですか。」 - 「
私 の存 じまする所 では僅 た一人 厶 いました。夫 は山輪 省作 様 と申 しまして、矢張 り父 と同様 ボンベイの第 三十四歩兵 聯隊 の少佐 で厶 いましたが、此方 は父 が上海 へ参 りますより少 し以前 に退職 致 しまして上海 に御住居 で厶 りました。無論 其 当時 山輪 少佐 にも御問合 せ致 しましたけれども少佐 は上海 に参 った事 さえ御存知 ないとの御返事 で厶 いました。」 - 「
不思議 な事件 ですな。」 - と
博士 が言 った。 - 「いえ、まだまだ
不思議 な事 が有 るので厶 いますよ。六年 ほど以前 の四月 の四日 、東京 英字 新聞 に『須谷 丸子 嬢 の現住所 を知 り度 し、嬢 の利益 に関 する事件 あり」という広告 が出 ましたのです。然雖 広告主 の姓名 も住所 も書 いて厶 いません。其頃 私 は現今 の濠田 様 の御邸 へ家庭教師 に入 ったばかしで厶 いましたが、濠田 様 の御勧 めに任 せて其 番地 を新聞 で答 えたので厶 います。しますると直 ぐ其 日 の中 に小包 で一個 の名刺函 が誰 からともなく私 に宛 て到着 致 しました。開 けて見 ますると、非常 に大 きな立派 な真珠 が一個 入 って居 りました。それからと申 すもの今日 迄 六年 の間 毎年 同 じ月 の同 じ日 になりますと、一個 ずつ真珠 が届 きまするが、差出人 は更 に解 りませず、宝石商 に鑑定 して貰 いますと、世 に珍 しい高価 な物 だと申 しますので、コレ、此様 に結構 な物 で厶 います。」 - と
一個 の平 い小函 を空 けて差出 すのを覗 けば、成程 嘗 て見 ざる真珠 の珍品 六個 が潸然 と光 って居 る。 - 「
実 に面白 い。それで他 に何 か新事実 が起 りましたか。」 - と
博士 が訊 く。 - 「ハイ、それがツイ
今日 なので厶いますよ。そのために斯 うして御伺 い致 しましたので厶います。実 は今朝 ほど此様 な手紙 を受取 りましたので、何卒 先生 御覧 下 さいまし。」 - 「ドレドレ、そちらの
封筒 を先 ず先 に――消印 は江戸橋 局 ですな、日附 は十一月 七日 、ふン!隅 に男 の指紋 があるが……多分 配達夫 のでしょう。紙質 は最上等 、一帖 十銭 以上 の封筒 です。これで見 ると差出人 は文房具 に贅 を尽 す人 らしい。さて本文 は……差出人 が書 いてない。ええと、文句 は、
嬢 よ、今晩 正 七時 、劇場 帝国座 入口 、左 より三本目 の柱 の処 に待 ち給 えかし。若 し不用心 と思召 さば御友人 二名 を御同伴 し給 うとも苦 しからず。貴嬢 は或者 より害 を蒙 らしめられたる不幸 な御身 の上 なりしが、今宵 の御会見 によりて幸福 の御身 に立 ち返 り給 うべし。ゆめゆめ警官 をな伴 い給 いそ。警官 を伴 い給 わば何 の甲斐 もなかるべし。――未知 の友 より。
- 「
成程 、非常 に興味 のある怪事件 ですな。須谷 さん、貴女 はどうなさる御意 か。」 - 「
否 、夫 を御相談 致 し度 いので厶 います。」 - 「では
無論 参 ろうではありませんか。貴女 と私 と――おお、中沢 学士 という適当 な人 がある。手紙 には友人 二名 同伴 苦 しからずと有 りましょう。此 中沢 君 は始終 俺 と一所 に働 く人 です。」 - 「ハ、けれど
行 らしつて下 さいますか知 ら。」 - と
丸子 は嘆願的 の声 と表情 とをした。 自分 は熱心 に、- 「
参 りますとも、私 でも御役 に立 てば満足 です、幸福 です。」 - 「まア、
両 先生 とも御親切 に有 り難 う厶います。私 、ほんとに孤独 で厶いましたから此様 な時 に御相談 致 す御友人 とては一人 も無 かったので厶 いますわ。では今晩 六時 迄 に此方 へ上 りまして宜 しゅう厶 いましょうか。」 - 「六
時 よりお遅 れなさらぬように。ああ、もう一 つ、此 手紙 の手蹟 は真珠 の小包 の手蹟 と同 じでしょうか。違 いますか。」 - 「
小包 の方 も皆 持 って参 りました。」 - と六
枚 の包紙 を差出 す。 - 「ああ、
仲々 御用意 の周到 なことじゃ。」 - と
博士 は夫 を卓上 の上 に広 げて手紙 の文字 と比較 して見 たが、博士 の意見 では小包 の方 は悉 く態 と手 を違 えて書 てあるけれど、正 に手紙 の手蹟 と同一人 に相違 ないと断定 した。 - 「
須谷 さん、これは御尊父 の御手 とは違 いましょうな。」 - 「
似 ても似 つかぬ手 で厶 います。」 - 「そうでしょう。
冝 しい、では六時 に御待受 けしましょう。此等 の手蹟 は暫時 御預 けを願 い度 い。事 は熟 くと研究 して見 ましょう。今 はまだ三時半 です。では、サヨナラ。」 - 「では
後刻 、御免 遊 ばせ。」 - と
丸子 は活々 とした懐 しげの瞥見 を我々 の顔 に投 げ、真珠 の函 を懐中 に収 めて急 ぎ出 て行 った。自分 は窓際 に寄 って、巷 を小刻 みに歩 み行 く彼女 の後姿 を目送 した。その鼠色 の頭巾 と白 い鳥 の羽根 とが群集 の中 に消去 る迄 立 ち尽 したが、漸 く博士 の方 を振向 いて、 - 「
実 に人 の心 を惹 きつける力 のある女 ですな……」 - と
感嘆 すると、博士 は再 び煙管 に火 をつけながら、 - 「あの
婦人 がかね。フウ、俺 は気 が附 かなかった。」 - 「
先生 はほんとうに自動 人形 みたいです。時々 先生 の心 は木石 のように冷々 となることがあります。」と真面 になって云 うと、 - 「それが
不可 。個人 の質 によって判断 を偏頗 ならしむるのが、第 一に好 くない。」 - と、これから、
問題 の前 には人間 を単 に一個 の因子 と見做 すという例 の先生 の非人情論 を聞 かせられ、人 は外貌 によらぬものという実例 を一 つ二 つ聞 かせられ、最後 に丸子 の残 し行 きし手蹟 の鑑定 が有 ったが、博士 の観察 によれば、苟 も日常 文字 に携 わる者 は斯 る乱次 なき筆法 を忌 む、此 手蹟 は一面 優柔不断 、一面 自惚 の筆法 であると罵倒 した。そして博士 は尚 お二三の調査 事項 が有 るから、一時間 ばかり外出 して来 ると出 て行 かれた。 自分 は窓際 に腰掛 けたが、心 は今日 の美 しき客 の上 に走 って居 た。――あの微笑 、あの豊麗 なる声 の調子 、彼女 の半生 を覆 いし奇怪 なる秘密 、夫等 が総 て胸 に湧 いた。父 の行衛 不明 の時 が十七歳 とすれば今年 正 に二十七歳 である――旨味 のある年頃 だ。青春 が其 自覚 を失 い、人生 の経験 に触 れて少 しく落着 いた生涯 に入 らんとする年頃 だ。予 は腰掛 けたままそれから夫 と沈思 に耽 ったが、ゆくりなくも或 危険 なる思想 が頭 の中 に閃 き出 したので、衝 と立上 って我 が机 に走 り寄 り、此頃 研究中 の最近 病理学 の論文 の中 に没頭 せんと試 みた。我 れ何者 ぞや、僅 に医科大学 を卒 え、大学院 に籍 を置 く一介 の書生 の身 にして、仮初 にも左 る大 それた事 を念 う無法 さよ。然 り、彼女 は単位 である、因子 である――それ以上 の者 ではない。若 し我 が将来 にして暗黒 ならんか、男子 決然 とそれに対 うのみ、なまじいに想像 の鬼火 を以 てそれを輝 かさんと欲 せぬこそよけれ。
二、劇場 前 の怪馬車 ――濃霧衝きて何処へ行く
[編集]呉田 博士 が帰宅 したのは五時半 、甚 だ上機嫌 である。側 の茶 を啜 りながら、- 「
此 事件 は大 した怪事件 でも何 でもないらしい。一言 にして説明 し得 べき性質 のものじゃ。」 - 「ハハア、ではもう
真相 がお解 りになったのですか。」 - 「いや、まだそう
言 われても困 るが、併 し一個 の手懸 になるべき事実 は発見 した。俺 はあれから英字 新聞社 へ行 って、古 い綴込 を見 せて貰 うたところが、丸子 嬢 の話 にあったボンベイ第 三十四歩兵 聯隊 を退 いて上海 に住 うて居 った山輪 少佐 は、今 から六年 以前 の四月 二十八日 に意外 にも東京 で死 んで居 るわい。」 - 「それが
何 の手懸 になるので厶 いましょう。」 - 「
驚 いたな。ではこういう順序 に考 えて見給 え。先 ず須谷 大尉 が行衛 不明 となった。大尉 が印度 から上海 に来 て訪問 するような友人 というのは一人 山輪 少佐 あるのみじゃ。然 るに同 少佐 は須谷 大尉 が上海 へ行 ったのさえ知 らぬと云 う。其 山輪 少佐 も四年 後 に東京 で死 んだ。其 日附 は今 も話 した通 り四月 二十八日 さ。処 がそれから一週間 も経 ぬうちに、須谷 大尉 の令嬢 は何者 よりとも知 れず高価 なる贈物 を受 け、爾後 六年間 毎年 続 いて、終 に今回 の呼出 の手紙 となったではないか。其 手紙 は丸子 嬢 を称 して『或 る者 より害 を蒙 らしめたる不幸 なる婦人 』と云う。彼女 にとつて父 の喪失 以外 に尚 お何 の不幸 があるだろう。それに贈物 が何故 山輪 少佐 の死後 直 ちに始 まったのだろう。こう考 えて来 ると、少佐 の子 か何 ぞが或 秘密 でも知 って居 って、その弁償 を丸子 嬢 に致 さんと欲 したもののようにも見 ゆるではないか。それとも君 には他 に有力 な解釈 でもあるのか。」 - 「
弁償 とすれば実 に奇体 な弁償 ですなあ!それに其 仕方 が怪 しいように思 われますが!丸子 嬢 に手紙 を送 るにしても、なぜ六年前 に送 らなかったでしょう。手紙 には今夜 の会見 によりて彼女 が幸福 を得 るとありましたが、果 して何 の様 な幸福 を得 るでしょうか。まさか父 の大尉 が生存 して居 るとも考 えられませんが。」 - 「
矢張 り難 かしい、難 かしい。」と博士 は沈鬱 な口調 で「併 し今夜 の探検 で万事 解決 されるだろう。ああ、馬車 が来 た。丸子 嬢 が来 たのだろう。君 、支度 が好 ければ階下 に降 りようじゃないか。」 自分 は帽子 を冠 り、頗 る重 き杖 を取上 げたが、見 れば博士 は抽斗 から短銃 を出 して懐中 に入 れた様子 、この分 では今夜 の探検 は危険 が伴 うて居 るように自分 は思 った。博士 と自分 は、丸子 の馬車 に乗 った。丸子 は黒 い外套 を着 て居 た。其 多感 らしい顔 は落着 いては居 たが蒼白 かった。斯 る時 にしも尚 お多少 の不安 を感 ぜざるものとせば、彼女 は男優 りと謂 わねばならぬ。而 も彼女 は完全 に自己 を制御 して居 た。そして博士 の質問 二三に対 して躊躇 なく答 えをした。- 「
父 は山輪 少佐 とは同 じ安陀漫 島 の軍隊 を指揮 して居 りました所 から、それはそれは少佐 とは親密 な間柄 の様 でしたよ。父 の手紙 に少佐 の噂 のないのは厶 いませんでした。それは兎 に角 、ここに父 の行李 の中 から発見 致 しました変 な一枚 の紙切 が厶 います。何 か書 いてありますけれど誰 にも其 意味 が解 りませぬ。何 かの御参考 になるかも知 れぬと存 じまして、只今 見付 け出 して参 りました。」 - と
嬢 の差出 す紙片 を受取 った博士 は、馬車 の中 ながら膝 の上 に披 げて皺 を伸 し、例 の二重 の拡大鏡 にて仔細 に之 を検査 する。 - 「
純粋 の印度製 の紙 ですな。嘗 て板 か何 かへ針 で留 められた跡 がある。ここに描 いてある図表 は何 か沢山 の室 、廊下 なぞを持 った或 大建築物 の一部 の設計図 らしい。紙 の片隅 に赤 インキで書 いた一個 の小 さな十字形 が有 りますな。はア、其 上 に鉛筆 で大分 消 えてはいるが『左 から三・三七』と書 いてある。それから左 の片隅 には奇体 な形象文字 がある。四つの十字形 が一列 に列 んで其 腕 が触 れ合 って居 るような形 じゃ。いや其 傍 にも何 かあるわい。莫迦 に荒 っぽい文字 じゃな。なに『簗瀬茂十 、真保目宇婆陀 、阿多羅漢陀 、波須戸阿武迦 ――以上 四人 の署名 によりて』とある。ふフウ、これが今度 の事件 と何 の様 な関係 があるやら俺 にはまだ解 らぬ!併 し何様 大切 な書類 には違 いありませぬぞ。これは多分 手帳 の中 に丁寧 に蔵 われてあったものですな。さもなくて此様 に両側 とも綺麗 な筈 がない。」 - 「
仰有 る通 り父 の手帳 の中 から見付 け出 しました。」 - 「
兎 に角 非常 な必要品 になろうも知 れぬ故 大切 に保存 なすった方 が宜 しい、いや、此 事件 は俺 が最初 に考 えたよりは遥 に深 く、遥 に精巧 なものかも知 れん。俺 は考 え直 す必要 がありますわい。」 - と
言 った後 は、博士 は馬車 の背 に倚 り掛 って沈思 黙考 に耽 り出 した。自分 は独 り丸子 嬢 をお相手 に、低声 で彼此 と事件 の噂 をしつつ進 んだ。 - 十一
月 の夕暮 である。未 だ七時 ならざるに日 は暗澹 として暮 れ、濃 き細雨 の如 き霧 が大都 を覆 い尽 した。雲泥色 をした雲 はぬかるみの巷 の上 に陰惨 として垂 れ下 って居 る。 銀座 通 りの両側 、家々 の瓦斯 や電燈 は朦朧 として光 を散 らす斑点 の如 く、粘泥 の舗石 の上 に弱々 しき円形 の微光 を投 ぐるのみ。商店 の陳列 窓 の黄色 の閃光 は、蒸気 の如 く空気 を劈 いて、人通 り繁 き街衢 の上 に変転 恒 なき陰暗 たる光輝 を撒 いた。此等 の狭 き光 の線 を横切 って疾飛 する数多 の顔 ――悲喜哀楽 種々 の限 りなき顔 の行列 を見 つつ行 く予 の心 には、言 い難 き畏怖凄惨 の情 が起 った。顔 は闇 より光 に飛 び、光 より闇 に吸込 まれる。其 普通 の印象 に恐怖 を感 じたのではないが、憂鬱 にして重苦 しき黄昏 と目下 身 を措 く不可思議 なる仕事 とが結 び付 いて我 が心 を圧迫 し神経的 ならしむるのであった。丸子 嬢 はと見 れば、これまた同 じ感情 に窘 んでいる態度 が歴歴 と見 える。此 間 にあって博士 一人 のみ、些々 たる刺戟 から超越 して居 る。博士 は膝 の上 に手帳 を開 き、絶 えず懐中 電燈 の光 の下 に何 をか書 き留 めつつある。帝国座 に着 く。観客 は既 に両側 の入口 に充満 して居 る。前面 大玄関 には馬車 や、自動車 やの乗物 が蝟集 して、盛装 の紳士 淑女 を降 ろしては行 く。偖 て我々 が今 しも指定 の会合点 たる三本目 の柱 に寄 るが否 や、早 くも一人 の馭者 の服装 したる小柄 の色黒 く敏捷 なる男 が挨拶 した。- 「ええ、
貴君 様方 は若 しや須谷 丸子 さんの御連中 では厶 いますまいか。」 - 「
私 が丸子 で厶 います。この御二方 は私 の御懇意 な方 で厶 います。」 - と
令嬢 が進 み出 る。 男 は驚 くほど刺 し透 す如 き、また疑問的 の眼 を我々 の上 に向 けたが、稍 や頑固 なる態度 にて、- 「
須谷 さん、御不礼 は御宥 し下 さいまし。貴女 様 の御連 の方 はまさか警察官 では厶 りますまいな。」 - 「いいえ、
盟 って左様 ではありませぬ。」 男 は一声 鋭 い口笛 を吹 き鳴 す。と、一人 の別当 が一台 の四輪 馬車 に近付 き扉 を開 く。我々 に挨拶 した男 は馭者 台 に腰掛 け、我々 三人 は夫 れに乗 り替 える。腰 をおろす間 もなく、馭者 は馬 に鞭 って駆 け出 す。斯 て我々 は全速力 を以 て濃霧 の巷 を疾駆 する。思 えば奇異 なる位置 にも身 を置 くものかな。我々 は今 未知 の使命 を抱 いて、未知 の地 に駆 けりつつあるのである。今宵 の招待 が欺瞞 であらんとは思 われざれども、全然 否 らずとも言 い難 い。或 は却 て良好 なる結果 を持来 すべき旅行 であるかも知 る可 からず、そもまた言 い難 い。丸子 の態度 は相変 らず沈着 である、相変 らず決然 として居 る。自分 は其 心 を慰 めん為 めに、友人 の南洋 における冒険譚 を試 みたが、自分 の方 が却 て興奮 していた為 めに、話 が屢々 混線 するのであった。初 めにこそ自分 は馬車 の行手 に多少 の見込 みもあったが、稀 に見 る濃霧 の為 めに何処 を駛 りつつあるや解 らなくなった。只 随分 長途 でるという観念 があるのみ。併 しながら博士 に至 っては馬車 が辻広場 を過 り、曲 りくねれる小路 を出入 する度 に其名 を呟 いて行 く。「ははア、妙 な方 へ来 たな、こりゃ本所 の方 へやって行 くな……ソーラ果 してじゃ……もう橋 の上 へ来 た……河 が微 に見 えるだろう……。」成程 、隅田河 の緩 い流 れが瞥乎 と眼 に入 る。広 い沈黙 した河面 に船 の燈 が揺 めき居 ると見 たも瞬時 、馬車 は忽 ち橋 を駛 り越 えて、再 び向 う岸 の巷 の迷宮 へと衝 き進 む。博士 はつぶやいた。「はハア、此 分 では今夜 の招待 は余 り賑 かな処 ではないわい。」全 く我々 は何時 しか怪 しげなる郊外 へ運 ばれていた。陰気 な煉瓦造 の家 が長 く続 いて、処々 の隅 に可厭 に派手派手 しい洋館 が野鄙 な輝 きを見 せて居 る。それを通 り越 すと、各々 小 やかな前庭 を持 った二階造 の別荘 が列 び、次 にはまたもや目立 つほどの新 しい煉瓦屋 の長 い列 が現 われた――巨大 なる帝都 が田舎 の方 へニュッと伸 ばした異形 の触覚 、それを伝 うて我我 は駛 って行 くのだ。兎角 しいて馬車 は新 しき露台 のある一軒 の家 の前 に駐 った。近所 の家 は空家 らしい。馬車 の駐 った家 と雖 も、勝手 に窓 を洩 るる一条 の光線 のほかは総 て黒暗々 である。併 し馭者 の男 がホトホトと訪 う声 に、扉 は忽 ち内 より開 かれて、一人 の印度人 らしい僕 が現 われた。黄色 の頭巾 、白 きダブダブの衣裳 、同 じく黄色 の腰帯 ――そういう東洋風 の服装 した男 が、此辺 の平凡 なる郊外 の家 の入口 を枠 として突立 った光景 は変 に何 となく不似合 な感 じがした。- 「
大人 、お待 ち兼 ねであります。」 - と
僕 が言 う間 もなく、奥 の方 の室 より高 い笛 を吹 くような声 が聞える。 - 「
真戸迦 よ、御客様 を御通 し申 せ、ズッと此方 へ御通 し申 せ。」
三、待受 けたは禿頭 の異様 の人物 ――亡父の秘密を物語らん
[編集]燈火微暗 く、装飾 俗悪 なる一道 の穢苦 しき廊下 が奥 へ続 いて居 る。我々 は印度人 の僕 に案内 されて夫 を進 んで行 く。右手 のとある扉 の前 に着 くと、彼 はそれを開 く。黄色 の光 の波 が颯 と我々 の上 に落 ちた。そして光 の中央 に一人 の背 の低 い男 が突立 って居 る。背 は低 いが頭 だけは莫迦 に高 く尖 がって居 る。紅 く硬 き毛 がグルリと麓 を取巻 いて生 え、其中 にテラテラと禿 げた頭頂 が聳 えている形 は、宛然 、樅林 の中 の山峰 に髣髴 たり。彼 は突立 った儘 にて手 を擦 り合 わせる。其 顔面 がまた絶 えず疳症 のようにビクビク動 いて居 る。或 は微笑 み、或 は蹙 め、一瞬時 だも静止 せぬ。自然 は此男 にダラリと垂下 したる唇 と、余 りにも露出 の黄 い乱杭歯 とを与 えた。彼 はそれを隠 さんと絶時 なしに手 を口 の辺 に持 って来 る。頭 こそ思 い切 って禿 げてはいるが、年輩 はまだ若 いらしい。後 にて聞 けば三十を越 したばかりであったそうだ。- 「
須谷 丸子 さん、能 うこそ御出 で下 すった、能 うこそ……」と主人 は細 く高 い声 で幾度 びか繰返 し「御両君 、能 うこそ。これは私 の私室 、私 にとっては狭 いながらも一個 の聖所 であります。令嬢 、実 に狭 いです。併 し私 の思 い通 りに飾 ってあります。東京 の郊外 の沙漠 の様 な村 に於 ては美術 の豪家 です。」 真 に我々 三人 は此室 の光景 に驚 かされた。斯 る陰気 な家 の中 に、斯 る豊麗 なる室 の在 るべしとは誰 か思 おうぞ。最 も高貴 なる、最 も光沢 ある窓帷 や掛布 は四方 の壁 に垂 れ、其 間 の此処 彼処 には、贅沢 に装架 したる絵画 や、東洋 の瓶 なぞが飾 られてある。琥珀色 と黒 との混 りの絨氈 はいとも柔 かに、いとも厚 く、踏 めば苔 の褥 の如 く足 の沈 む快 さ、その上 に斜 めに敷 かれた二枚 の虎 の皮 と、室隅 の蓆 の上 に立 てる大形 の水煙管 とは、一層 東洋 の豪奢 を偲 ばせる種 である。銀 の鳩 の形 したるランプは、殆 ど弁分 け難 き黄金 の針金 に繋 がれて室 の中央 に懸 っている。そして其 光 は一種 の微妙 なる芳香 を空気 に漲 らせる。主人 は依然 顔面 をビクつかせ、且 つ微笑 みつつ、- 「
私 は山輪 周英 と申 します。貴女 は無論 須谷 丸子 さんでしょうが、この御両君 は――」 - 「
此方 が呉田 医学 博士 で、此方 が中沢 医学士 で厶 います。」 - 「ああ、
医師 でいらっしゃいますか。」と彼 は非常 に興奮 して「先生 は聴診器 は御持 ちで厶 いますか。何 なら一 つ御診察 を御願 い致 したいもので、実 は心臓 が悪 くないかと日頃 そればかりが気掛 りでしてな。失礼 ですが、是非 御診察 下 さい。」 乞 わるるままに自分 は彼 の心臓 を診察 したが、何等 病気 の徴候 もない。只 全身 を戦慄 させている所 にて見 れば恐怖 の為 めに心身 を顚倒 させて居 るのであろう。- 「
心臓 に異状 はありません。何 にも御心配 に及 ばぬでしょう。」 - と
言 うと彼 は急 に嬉々 して、 - 「
丸子 さん、私 の心配 は一 つ大目 に見 て頂 きたい。私 は長 い事 窘 みましてな、以前 から心臓 の弁 に異状 がありはせぬかと疑 って居 ったのです。只今 の御診察 で安心 はしましたが、それにつけても憶 い出 すのは貴女 の御尊父 ですな。心臓 を彼 のようにいきませなかったならば、今 でも御存命 の筈 であったのにと残念 に思 いますよ。」 自分 は嚇 として此 男 の面 をピシャリと一 つ擲 ってやろうかと思 った。此 様 な慎重 を要 する事件 の最中 にあって、何 たる冷淡 、何 たる出放題 の事 を言 う男 だろう。丸子 は椅子 に腰 を下 ろしたが其 顔 は脣 まで蒼白 である。- 「ええ、
父 は逝 くなったに違 いないとは思 うて居 りました。」と微 に言 った。 主人 は言葉 をつぎ「貴女 には今晩 は残 らず御打明 けします。それに或 権利 をも差上 げます。同時 に私 もその権利 を享 けます。兄 の建志 がどう申 そうと関 いません。貴女 が此 御両君 を御連 れ下 すったのは甚 だ満足 です。啻 に貴女 の御力 となるのみならず、またこれから私 が為 さんとする事 、申上 げんとする事 の証人 となって下 さる事 が出来 る。これだけの同勢 ならば兄 に対 して思 い切 った対抗 も出来 ます。このほかにもう局外者 は入 れたくない――警察官 だの役人 だのという者 は真平 御免 です。此上 他人 の容喙 なしに、我々 は万事 に円満 に解決 する事 が出来 ます。官吏 が,混 るという事 は兄 に取 って最大 の苦痛 なのです。」- と
低 い椅子 に腰掛 けたまま、弱々 しく水 っぽい碧 き眼 で物 を捜 るが如 く我々 の方 に瞬 きする。 - 「
貴君 がどのような告白 をなさろうとも、断 じて他人 へは洩 らさぬつもりです。」 - と
博士 が言 うた。自分 も首肯 いてみせた。 - 「それで
安心 しました!安心 しました!丸子 さん、タスカニー産 の赤葡萄酒 でも一杯 差上 げましょうか。それともハンガリア産 の葡萄酒 はいかが。その他 の葡萄酒 はないのです。御所望 でない。はア、止 むを得 ません。それならば些 と御免 蒙 り度 いことがあります。私 がここで煙草 を吸 いますが御許 し下 さいましょうな、東洋 の柔 かな香 の好 い煙草 です。どうも少 し神経的 になって居 ますから、こういう時 には水煙管 が何 よりの鎮静薬 です。」 彼 は一本 の小蠟燭 の火 を大 きな雁首 に持 って行 く。と、煙 が薔薇水 を通 って愉快 げにずッずッと立 ち騰 る。我々 三人 は半円形 に座 を占 め、頭 を突 き出 し、頤 に手 を支 って固唾 を呑 んで控 えている。其中 でこの突兀 たる禿頭 を光 らせた不思議 なるヒクメキ男 は、何 とやら不安 げに煙草 を吸 うのであった。- 「
今度 私 が此 告白 を貴女 に対 って致 そうと決心 した時 に、自分 の住所 姓名 を御打明 けするのは何 でもなかったのですが、多分 貴女 は此方 の申出 を胡散 に思召 して、不愉快 な警察官 を御同行 なさるだろうということを怖 れましたので、そこで僕 の旦助 に先 ず御目 に掛 らせて、然 る後 に御面会 を致 そうという順序 に致 したのでした。私 は彼 の分別 に悉 く信用 を措 いていますから、彼 は不満足 であったらば其儘 事件 を進捗 させぬよう実 は命令 しました。此様 な用心 を取 りましたことは何卒 悪 しからず、それと申 すのが、父 が上海 から東京 に移 り死 にましてからは、私 は隠遁的 の生活 をして居 りまして、自分 でも申 すも異 なものですが、高尚 な趣味 を持 った男 と自信 して居 りますゆえ、私 にとっては警察官 ほど美的 でないものはないのです。私 は有 ゆる俗悪 な実断主義 というものに、生 れつき怖気 を振 って居 ます。ですから俗人 と交際 することも稀 であります。御覧 の如 く、身 を置 く住居 なぞも多少 高雅 の空気 を出 して居 るつもりでして、これでも自分 から美術 の保護者 を以 て任 じて居 るのです。それが私 の弱点 ですな。御覧 下 さい、その風景画 はコロー(仏国 の画家 )の真筆 です。このサルポトルロサ(伊太利 画家 )の絵 には鑑定家 も少 し首 を傾 けるかも知 れませんが、此方 のブーゲロー(仏国 の画家 )に至 っては断 じて真物 です。私 の趣味 は近世 の仏蘭西 派 に傾 いています。」 - 「
御言葉 の中 で失礼 で厶 いますが、」と丸子 が口 を出 した。 - 「
私共 は何 か貴君 が御話 しが御有 りだと仰有 いますので御伺 い申 したので厶 いますが、もう夜 も更 けますことゆえなるべく御用 の方 は早 く承 り度 う厶 います。」 - 「いや、
御道理 ですが、どんなに早 く致 しても、多少 の御暇 は掛 ります。と申 すのは兄 の建志 が、遂 この先 の砂村 の父 の住 んで居 ました家 に今 も尚 お居 りますので、是非 会 うて頂 かねばなりませんからです。勿論 、御両君 も御一所 に、そして一 つ兄 を説 き伏 せて頂 こうでは厶 いませんか。私 が正当 と信 じて取 ろうと致 した手段 について、兄 は非常 に立腹 して居 まして、現 に昨晩 も大激論 をやりましたが、否 、彼 が怒 った時 の猛烈 さと申 したら御想像 には迚 も及 びません。」 - 「
砂村 まで行 くとしたらば、即刻 出掛 けられたらば如何 です。」と自分 は言 うた。 主人 は耳 の根迄 真紅 になるほど哄笑 して、- 「それは
及 びも附 かぬ事 です。そんなに不意 に押掛 けたら兄 がまア何 というか解 りません。いや、どうしても相当 の準備 をしてから御目 に掛 って頂 かねばなりませぬ。第一 、これからお話 いたす事柄 につきましても、未 だ私 の解 らぬ点 が数個所 あります。ですから私 の知 れるままを御話 し申 すに過 ぎませんのです。」と云 うて語 り出 す。 - 「
私 の父 と申 しますのは、定 めてもう御推察 でしょうが、曾 て印度 の軍隊 に居 りました陸軍 少佐 山輪 省作 であります。父 が退職 しましたのが十一年 以前 、それから私共 を伴 い上海 に参 り、間 もなく東京 に移 り、砂村 に住居 を定 めましたが、印度 で大分 金 が出来 、莫大 の金 と珍奇 な価値 のある沢山 の産物 とを持 って来 て、土人 の僕 二三人 を使 って居 ました。そして夫等 の財産 で家 を買 って非常 に贅沢 な暮 しを致 しました。私 と兄 の建志 とは双生児 でありまして、ほかに兄弟 は一人 もありませんでした。 偖 て須谷 大尉 の行衛 不明 事件 ですが、私 は其時 の騒 ぎを能 く記憶 して居 ります。詳細 は新聞 で読 み、それに大尉 が父 の友人 という事 も知 りましたゆえ、我々 兄弟 は父 の面前 で遠慮 なく其 噂 さを致 しますと、父 も口 を出 して大尉 の行衛 につき色色 想像 説 を闘 わせたりなどしますので、父 がまさかに其 事件 の秘密 を胸 の奥 に隠 して居 り、全 世界中 父 一人 が大尉 の運命 を知 っている人 であろうなぞとは、夢 にも思 い及 ばなかったのです。併 し其 中 に我々 も或 る秘密 が――或 る確実 の危険 が父 の頭上 に降 り掛 っている事 を悟 りました。父 は一人 で外出 するのを大層 怖 がりましてな、毎時 二人 の力 強 い拳闘家 を雇 うて日頃 は門番 として使 っていました。今日 貴君方 を御迎 えに出 た旦助 、あれが其 一人 でしたよ。父 は何 を怖 れるのか我々 には一言 も申 しませんでしたが、木 の脚 ですね、片脚 の人 などのよく使 う、ああいう木 の義足 を持 った者 を一番 嫌 ったのは事実 です。一度 なぞはそういう男 を途中 で見掛 けて短銃 を撃 ちかけた事 なぞもありましたがな、これが何 でもない注文 取 りに廻 り歩 く商人 だったので、其 口 を塞 ぐために大枚 の金 を取 られたりなぞをしたのです。我々 は単 に父 の気紛 れとばかり思 うていたのですが、其 後 に至 って我々 の想像 を変 らせるべき事件 が出来 しました。父 が印度 から移住 後 五年 、即 ち今 から六年 ばかり前 の春 の事 でした。父 の許 へ印度 から一本 の手紙 が届 きましたが、これが父 にとって大打撃 の手紙 であったと見え、朝飯 の卓子 でそれを読 むなり殆 ど昏倒 し、爾来 死病 に取 り附 かれたのでした。手紙 の内容 は更 に解 りませんでしたが、瞥 と見 た所 では文句 は短 く、且 つ悪筆 で認 めてあったと思 います。父 は元来 脾臓 の膨張 する病気 で窘 んでいたのですが、夫 れから段々 悪 くなり、其 年 の四月 の末頃 には医師 からも見放 され、父 も覚悟 致 したと見 えて、臨終 に我々 に告白 する事 があると言 い出 しました。呼 ばれて病室 へ入 って行 くと、父 は枕 を力 に稍 や起返 り太 い息 を吐 いて居 ましたが我々 の姿 を見 ると扉 を厳重 に内 から閉 めさせて、寝台 の両側 に腰掛 けさせました。そして両手 に兄弟 の手 を握 って、苦痛 と感動 とで途切 れ途切 れになる声 を絞 って、実 に驚 く可 き告白 を致 したのです。それを父 の言葉通 りに一 つ御話 して見 ましょうか。」
四、臨終 の窓 を覗 く奇怪 の髭面 ――天井の密室に五拾万円の宝石函
[編集]父 の言葉通 りだと、ことわって山輪 周英 は話 を進 める。- 「
父 は斯 う申 したのです――己 は此 臨終 の時 迄 も心 に押 し冠 さっている只 た一つの事 がある。それは哀 れな須谷 大尉 の孤児 に対する己 の処置 だ。己 は貪慾 に呪 われて一生 其 罪 のために窘 んだがここに須谷 の嬢 が少 くも当然 其 半分 を受 くべき宝 がある。それ迄 をも慾深 の己 は横領 して居 ったのじゃ。それが我身 の利益 になったかと言 うに毫 もなって居 らん――誠 に盲目 で愚 なものは貪慾 という事 じゃ喃 。ただ宝 を握 って居 るという事 のみの嬉 しさに、他人 へ分 ける事 を能 う為 し得 なんだのじゃ。見 い、その規尼涅 の瓶 の傍 に、真珠 を尖頭 につけた珠数 があるだろう。元々 須谷 の嬢 に贈 るつもりであったのが、それさえ手放 し得 なんだよ。だからお前達 兄弟 は、己 に代 って嬢 に印度 の宝 を分 けてやってくれ。が、己 が死 ぬ迄 は何 も贈 ってはならぬ――珠数 をやることさえならぬ。 - そこでお
前達 に須谷 大尉 の死 んだ真相 を話 して置 こう。一体 大尉 は長年 心臓 を煩 うて居 ったのじゃが、誰 に隠 して居 ったが己 一人 が知 って居 た。所 で印度 在任中 、己 と大尉 とは、或 る特別 な事情 に繋 がれて、莫大 なる宝 を手 に入 れる事 が出来 た。それを全部 己 が上海 に持 ち帰 って居 ったところ、翌年 須谷 大尉 が印度 からやって来 て、其夜 真直 に己 の所 へ訪 ねて参 っての、宝 の配分 を渡 して呉 れいと申 すのじゃ。彼 はホテルから己 の家 まで徒歩 で参 ったそうで、大尉 を迎 い入 れた者 は死 んだ良張陀 と言 う忠義 な爺様 であった。さて大尉 と逢 うて見 ると、宝 の配分 の割合 について意見 が違 い、終 には双方 真紅 になって論 じ合 うという有様 、其 うちに嚇 と憤怒 に襲 われた大尉 はスックと椅子 から立 ち上 ったと思 うたが、不意 に手 を胸 へ当 てた。顔色 は次第 に物凄 く薄黒 く変色 する、やがてドタリと倒 れたが、倒 れる拍子 に頭 を其 の場 に在 った宝玉函 の角 に強 く打付 け居 った。己 は驚 いて潜 んで見 ると慄然 とした。彼 は最 う息 が絶 えて居 るではないか。 何 うしたら好 かろうと、己 は長 い間 呆然 として居縮 まっていた。無論 真先 に起 った考 えは、人 を呼 ぼうという考 えであった。が、顧 みれば此場 の光景 の総 てが、己 が大尉 を殺 したとよりほか思 われない。激論 最中 の死 と言 い、頭部 の大傷 といい、悉 く己 の不利益 の証拠 となる物 のみである。それにじゃ、宝玉 の一件 は己 が絶 えず秘密 秘密 にと苦心 して居 ったのだが、弥々 其 筋 の者 が臨検 致 すとなれば自然 其 秘密 にも手 が付 くことになる。大尉 自身 の言 う所 によれば、彼 が上海 着 の後 の行動 は、天地間 未 だ誰 知 る者 もないとのこと、然 らば彼 の消息 を強 いて他人 に知 らしむる理由 もない、と斯 う己 は考 えたのじゃ。- そうは
言 いながらも尚 おも思案 に暮 れて居 った。其時 顔 をふと擡上 げて見 ると、何時 の間 にやら僕 の良張陀 が扉口 に立 って居 るではないか。彼 は忍足 に室内 へ辷 り込 んで扉 に閂 を掛 け、こう言 うのだ――大人 、御心配 し給 うな、大人 が大尉 を御殺 しになったことは誰 にも知 らせるに及 びませぬ。屍体 を隠 して了 えば此 に上越 す手段 はないでは厶 いませぬか――で、己 は自分 が殺 したのではないと言 うたが、彼 は頭 を振 って微笑 みながら、大人 、老爺 は残 らず次 の室 で聞 きました、喧嘩 をなされた御声 も聞 きましたし、ドウと御擲 りなされた音 も聞 きました。併 しそれを口外 致 すような老爺 では厶 りませぬ。今 は家内中 皆 眠 って居 ますから、さア早 く屍体 を片附 けましょう。と言 い張 るのだ。で己 もツイ其気 になって了 うた。自分 の日頃 召使 う僕 にさえ無実 を信 じられぬ此身 が、何 で理屈 一方 の裁判所 の陪審官 の前 に立 って無実 を弁明 出来 ようぞ。そう思 うたから、己 は老爺 と手伝 うて其夜 の中 に死体 の始末 をして何喰 わぬ顔 で居 ると、さア四五日 してから上海 中 の新聞 が須谷 大尉 の奇怪 なる行衛 不明 事件 について大騒 ぎして書 き立 てたわい。けれども喃 、今 の話 でお前達 も合点 がいったろうが、己 は彼 の死 について責 めらるる理由 は先 ずない。ただ彼 の死骸 のみならず、宝玉 迄 も隠 して、須谷 の分配 を横領 したという事実 、これは全 く己 の落度 であった。だから己 は自分 の死後 其 賠償 をしたいのじゃ。兄妹 とも、もっと耳 を己 の口端 につけてくれ。其 宝玉函 の隠 してある所 はの――と云 い掛 けた其 瞬間 、父 の顔色 が颯 と怖 ろしく変 ったのです。眼 を荒 らかに見据 え、頤 を垂 らし、『彼奴 を追払 え!さア、早 く追払 え!』と叫 びました。其 声 というものは未 だに耳 に付 いて居 ますな。父 の見詰 めたのは庭 に向 いた窓 でしたから、我々 は何事 ぞと振向 けば、こは什麼 、一 つの人間 の顔 が闇 の中 から我々 を覗 いているのです。窓硝子 に鼻 を押付 けた所 の白々 したのも認 められます。何 でも毛深 い髭面 で、粗暴 な残忍 な眼 を持 ち悪意 を集注 したという表情 をして居 ました。我々 兄弟 は己 れッとばかり窓 へ突進 しましたが、もう曲者 は居 りません。再 び寝台 の許 へ戻 って見 ると、父 はダラリと頭 を垂 れて居 るので、脈搏 を検 べると全 く止 まって居 ました。 其 夜 庭園 内 を隈 なく捜索 しましたけれども、曲者 の闖入 したらしい形跡 がない。只 窓 の直下 の花壇 の中 に人間 の片足 の足跡 が一 つ有 ったばかりでした。其 足跡 さえ無 かったならば、我々 は気 のせいで彼 の様 な荒 い怖 ろしい顔 を見 たのだと思 い定 めて了 ったかも知 れません、併 しながら直 ぐに他 の、而 も一層 顕著 なる証拠 が現 われて、或 秘密 の曲者 が我々 の周囲 に徘徊 している事 が確実 となりました。其 翌朝 の事 です。父 の室 の窓 が開 けられて、戸棚 や手函 などが掻 き捜 されてある形跡 を発見 しました、のみならず父 の死骸 の胸 の上 に一枚 の紙 の切端 が留 めてあって、夫 には『四人 の署名 』という字 がなぐり書 きにしてありました。何 の意味 やら、また曲者 が何者 やら更 に当 りがつきません。我々 の判断 致 した所 では、亡父 の所持品 は転覆 しこそされたれ、何 一つ紛失 しなかったという事 に止 まります。我々 兄弟 は此 奇怪 なる出来事 を、日頃 父 の抱 いていた恐怖 に結 び付 けて考 えて見 ましたが、今日 に至 る迄 秘密 は依然 として秘密 のまま、解決 されず残 って居 るのであります。」主人 はもう水煙草 を点 すのを止 め、二三分間 思案 有 りげに煙 を吹 く。予等 三人 は此 異常 なる物語 に聴 き惚 れて黙然 として坐 せるのみ。丸子 は父 の死去 の話 を聞 かせられた時 は急 に死人 の如 く蒼白 な顔色 となった。自分 は昏倒 するに非 ずやと懼 れて、早速 卓子 の上 の水罎 の水 を一杯 勧 めると漸 く恢復 した。博士 は放心 の体 にて眼瞼 をば輝 く眼 の上 に垂 らして椅子 に背 を倚 らせて居 る。其態 を瞥見 した自分 は、今度 は博士 が少 くも其 智慧 を極度 に試験 するべき事件 に遭遇 したのだと思 った。山輪 周英 は自分 の物語 りし譚 が、異常 の感動 を与 えたのに得意 の顔付 をして、一人 一人 順次 に眼 を移 しながら、再 び煙 を吹 いて語 り出 した。- 「
既 に御想像 でもありましょうが、兄 と私 とは父 の話 した宝玉 の件 に夢中 となり、数週間 、数月間 に亘 って邸内 を隈 なく捜索 したり掘 ったりしましたが、更 に出 て参 りません。其 隠 し場所 が臨終 の父 の唇 に残 った儘 永久 に葬 られたのを思 うと気 も狂 うばかりでした。宝玉 の立派 さは前 にお話 した珠数 を見 ても判断 が出来 ます。此 珠数 に関 しても兄 と私 とは小争闘 を致 しました。それに付 いて居 る真珠 が実 に高価 な物 であった所 から、兄 は手放 すのを惜 しがったのです。兄妹 の恥 を申 す様 ですが何方 かと言 えば兄 は多少 父 の欠点 を受 けついで居 ましたからな。尚 お兄 の考 えでは、若 し珠数 を手放 したらば噂 の種 となって、飛 んだ面倒 が持上 りはすまいかと心配 したのです。それを何 うにか凭 うにか説 き伏 せて、丸子 さんの御住所 を捜 り、珠数 の真珠 を一 つ一 つ放 して毎年 同 じ月 の同 じ日 に差上 げたらば、令嬢 も生活上 の御困難 もなかろうかと、漸 く其 策 を実行 したのであります。」 - 「
御親切 な御考 えであった。貴君 にとって極 めて善 い事 であった。」と博士 が賞 めた。 主人 は残念 そうに手 を振 って、- 「
我々 は謂 わば令嬢 の信托人 であったのです。兄 は兎 も角 私 だけはそう思 っていました。財産 は沢山 あり、私 はもう其 上 の利慾 は欲 しない。であるのに、うら若 い婦人 は其様 な無情 の境遇 に置 くのは非常 に悪 い趣味 であると考 えました。が、其 問題 になるといつでも兄 と意見 が違 う、それで私 は寧 そ別居 が得策 と、僕 の旦助 と真戸迦 爺様 とを連 れて一昨年 から此 の家 に移 りました。 所 がツイ昨日 の事 です、一大事件 が起 りました。それは宝玉函 がとうとう発見 されたというのです。で、私 は兄 と相談 して即刻 丸子 様 にあの様 な御招待 の手紙 を差上 げました。ですから残 る問題 はこれから御一行 に兄 の宅 へ参 って各々 配分 を要求 すれば宜 しい。其 意見 は昨晩 兄 に申 して置 きました。其 様 なわけで、私共 は兄 に対 しては余 り歓迎 すべき御客様 でないかも知 れませぬが兄 も待受 けては居 るだろうと思 います。」周英 は話 を切 って、例 の顔 をピクピクさせながら贅沢 な椅子 に腰掛 ける。自分 等 もこの怪事件 の新 しき発展 に心 を奪 われて、依然 沈黙 を続 けていたが、博士 が真先 に飛 び上 った。- 「
貴君 は初 めから終 り迄 実 に善 うなすった。其 代 り我々 は多分 、未 だ貴君 にとって不可解 なる暗黒 の点 に、幾分 の光明 を投 じて上 げる事 が出来 ようと思 いますわい。兎 に角 丸子 さんの言 わるる通 りもう時刻 も遅 いことゆえ、即刻 運動 に着手 しようではありませんか。」 主人 は頗 る落着 き払 って水煙管 の管 を巻 き収 め、窓帷 の背後 から莫迦長 い外套 を取出 して残 らず釦 を掛 け、耳 まで覆 う垂 れの下 がっている兎 の皮製 の帽子 を冠 って漸 く身支度 が済 むと、露 れてる個所 は、感 じ易 い骨 っぽい顔面 ばかりである。- 「
私 の体 はどうも薄弱 です、どうも病身 になって了 ったのです。」 斯 う言 いながら、彼 は玄関 へと案内 する。馬車 は既 に玄関 に待受 けていた。一同 が乗 り移 るや否 や驀地 に駆 け出 す。周英 は車輪 の響 きを圧 する高 い声 で、絶時 なしに喋 り続 ける。- 「
兄 は怜悧 な男 ですよ。まア宝玉 の所在 をどうして索 し当 てたと思召 す。第 一に兄 はどれが家 の内 にあると断定 したのです。で、家中 の汎有 る立方 の空間 を捜索 し、また方々 の尺 を測 って見 て一寸 でも喰 い違 いのあるかどうかを調 べました。其 結果 の一 つとして斯 ういう事 を発見 しました。それは建物 の高 さが二十四尺 ある、然 るに各階 の室 の高 さ、及 び室 と室 との間隔 なぞを総 て合 せて見 るとニ十尺 に満 たない。つまり四尺 という喰 い違 いが出来 ました。此 喰 い違 いは別 の個所 にはない。家 の一番 頂上 にあるに定 まっています。そこで兄 は一番 上 の室 の天井 へ穴 を明 けて見 ました。すると何 うでしょう、天井 の上 に誰 にも知 らさぬ様 に作 った一個 の密室 があって、室 の中央 に二本 の組合 さった桷 の上 に、果 して宝玉函 が置 いてあったでは厶 いませんか。早速 天井 の穴 から降 ろしましたが、兄 の眼分量 によれば、宝玉 の価値 は少 くも五十万円 を下 らぬそうであります。」 - 五十
万 の大金 と聞 くと、予等 は思 わず円 くした眼 を見合 せた。丸子 にして若 し果 して正当 の権利 を享受 するならば、今日 の貧 しき家庭 教師 の境遇 より脱 して、一躍 最 も富裕 の相続人 となるであろう。これ慶 すべきか、吊 うべきか、自分 は恥 かしけれども此時 魂 は自我 の念 に囚 われ、心 は鉛 よりも重 く沈 んでいた。丸子 に向 って二言 三言 吃 りながら祝辞 を述 べたのみ、後 は山輪 君 の饒舌 をもよそに鬱々 として頭 を垂 れていた。此 周英 君 は確 に依卜昆垤児 、即 ち精神系 知覚 過敏 の患者 である。夢 のように覚 えているが、彼 は病気 の徴候 を果 しなく話 し、藪醫者 から貰 った沢山 の秘薬 の処方 と其 作用 について絶間 なく述 べ立 てた。現 に懐中 の中 の鞣皮 の小箱 には夫等 の薬 が入 って居 るそうである。其晩 予 がした返答 を彼 は恐 らく一 つだも覚 えてはいまい。博士 の言 う所 によれば、自分 は周英 君 に向 て、カストル油剤 の二滴 以上 を用 いる危険 を注意 して居 たそうである。それは兎 に角 、馬車 が漸 く一軒 の門 の前 に止 って、馭者 が扉 を開 くべく飛 び降 りた時 には自分 はホッとしたのである。 - 「
丸子 さん、これが兄 の家 です。」 周英 君 は丸子 を扶 け下 ろしつつ斯 う言 った。
五、月光 の室 に物凄 き生首 ――果然、宝玉函の紛失
[編集]今宵 の冒険 の此 最後 の舞台 に予等 が到着 したのは十一時 近 くであった。帝都 の冷湿 なる濃霧 は既 に後 に去 り、夜 は今 麗 かに霽 れ渡 って居 る。一陣 の温 き風 西方 より吹 き黒雲 悠々 空 を過 ぎゆくなべに、一片 の半月 其 切目 より折々 下界 を覗 く。可成 離 れても物象 の弁別 のつく明 るさであったが、周英 君 は馬車 の側燈 の一つを下 ろして予等 の為 めに途 を照 すのであった。硝子 の破片 を植 え込 んだ頗 る高 い塀 が、グルリと邸 を繞 って居 る。入口 は只 一ヶ所 、其処 には狭 い鉄 の釘絆 した扉 が閉 まっている。それをば我 が案内人 周英 君 は、郵便屋 のような一種 特別 な叩 き方 をした。と、内 から- 「
誰方 だね。」と怒鳴 る苛酷 な声 がする。 - 「
甚吉 、己 だよ。漸 く己 の叩 き振 りを呑 み込 んだと見 えるな。」 何 やらブツブツいう声 が聞 える、鍵 のガチャガチャ鳴 る音 がする、扉 は重々 しくギーと開 いて現 われ出 たのはズングリとした胸 の厚 ッたい男 、角燈 の黄色 の光 は其 突出 た顔 と、パチクリする疑深 そうな眼 とを照 した。- 「ああ、
分家 の旦那 様 ですか。けれど御連 れの方 は誰方 ですか。貴君 様 の他 の方 についちゃア旦那様 から何 とも御命令 がなかったですがね。」 - 「
御命令 がなかった?驚 いたなア!兄 には、一所 に二三人 来 るかも知 れぬと昨夜 ことわって置 いたのに。」 - 「
旦那 様 は今日 は一日中 お居間 から御出 ましがないから、私 も其様 な事 はまだツイぞ承 りません。貴君 も能 く御承知 の通 り、お邸 は規則 が厳 しいのです。で、貴君 だけはお通 し申 す事 が出来 ますが、お連 れの方 は待 って頂 かなくちゃアなりません。」 周英 君 が困却 して、連 の中 には婦人 も居 る事 だから殆 ど哀願 したが、門番 先生 頑 として応 じない。此 門番 が博士 の旧知 でなかったならば予等 は一晩中 往来 に立往生 したかも知 れぬ。意外 にも以前 大学 病院 で難病 を治療 してやった事 が発見 されて、閻魔面 が忽 ち柔 ぎ、漸 く通 して貰 われたのは幸福 であった。門内 に入 ると一条 の小砂利 の路 が荒 れた地面 をうねり曲 って、一軒 のヌッと聳 えた家 の方 へ走 っている。四角 な殺風景 な家 で、総 て闇 の中 に沈 み、ただ其 一角 に月光 が流 れて一つの屋根部屋 の窓 を照 しているのみである。陰暗 として死 の如 き沈黙 の中 に突立 っている宏大 なる建物 の姿 は、心 に一種 の戦慄 を与 えた。流石 の周英 君 さえ不気味 と見 えて、手 に持 つ角燈 がガタガタと震 えて居 る。- 「どうも
解 らない、何 か間違 いじゃないかな。兄 には確 に今夜 訪 ねると言 って置 いたのに、居間 の窓 には燈火 が射 して居 ない……あの月 が射 して居 る所 が兄 の窓 です。内 は真暗 のようじゃありませんか……ああ、玄関側 の窓 にチラと燈火 が見 えると仰有 るのですか……あれは女中 のお捨 の室 です。些 とここにお待 ち下 さい、一 つ私 が案内 を乞 いましょう。」 - と
言 う折 りしも、大 きな真黒 な家 の中 より、物 に驚 いた様 な女 の悲痛 極 りなき鋭 い泣声 が洩 れて来 る。 - 「あれはお
捨 の声 です。どうしたんでしょう。」 - と
周英 君 は扉 に駆 け寄 って、例 の配達夫 的 の叩 き方 をすると、背 の高 い一人 の婆様 が現 れたが周英 君 の姿 を見 ると大悦 びで体 を揺 すって、まア好 かった好 かったと叫 びながら、二人 の体 は軈 て扉 の内 へ消 え、婆様 の声 も遠 くなる。 後 に呉田 博士 は周英 君 の渡 し行 きし角燈 を静 に振 って、熱心 に建物 と、路 を塞 いだ山 の様 な土砂 とを照 し眺 める。丸子 は怖 しさに自分 の手 を握 って列 び立 って居 る。怪 しくも微妙 なるは恋 ちょうものかな。今 闇 に立 てる二人 は昨日 迄 相 識 らざりし者 、何等 愛情 の言葉 、愛情 の眼色 をも交 わさざりし男女 である。而 も今宵 此 難事件 の最中 にして、互 に手 は我 れにもなく相手 の手 を求 めて居 るではないか。予 は後 にこそ顧 みて驚 いたが、其夜 の其時 は彼女 にそう為向 けるのが最 も自然 の事 のように思 われたのである。丸子 は後日 屢々 言 うたところによれば、彼女 もまた本能的 に予 に愛 を求 め保護 を求 めたのだそうである。斯 うして予等 両人 は子供 の如 く手 を連 ねて立 っていた。数多 の暗 き秘密 に囲繞 されながら心 は共 に平和 であった。丸子 は四辺 を見廻 しながら、- 「
何 という奇態 な処 でしょう!」と言 った。 - 「まるで
日本中 の土竜 が、此処 から残 らず逃出 した様 ですね。先生 、私 は西大久保 の先 の岡 の中腹 で、恰度 これと同 じ状態 を見 ました。尤 も其処 は人類学 教室 の連中 が発掘 した処 でありましたが。」 - 「
否 、此処 も同様 さ。これは宝 さがしの痕跡 だからな。考 えても見給 え、山輪 兄弟 は六年 というもの宝玉 を探 して居 ったんじゃ。地面 が蜂 の巣 の様 になるのも無理 ではないのじゃ。」 此時 家 の扉 がサッと開 いて、周英 君 が駆出 して来 たが、両手 を前 に突 き出 して眼 には恐怖 を湛 えている。- 「
兄 に何 か間違 いがあった様 です!何 うも驚 いて了 いました!私 の神経 ではとても堪 りません。」 - という
其 態度 は、全 く恐怖 に半分 泣 きくずれている。大形 の羊皮 製 の襟飾 から露 れて居 るそのビクビクした弱々 しい顔 には、子供 が威嚇 された時 の様 な繊弱 い哀願 的 の色 が浮出 ている。 - 「
兎 も角 も家 へ入 ろう。」 - と
博士 が例 の底力 のある声 で、決然 と言 うと、 - 「ええ
入 りましょう!」と周英 君 が「ほんとに私 の頭 はもう滅茶苦茶 になって了 いました。」 - 一
同 壁 について玄関 左側 の女中 部屋 に入 りみれば、お捨 婆 さんは慄 え上 って彼方此方 と歩 き廻 っていたが、今 しも丸子 の顔 を見 ると余程 心 が落付 いたものと見 えて、 - 「まア
何 というお美 しい温 かなお顔 の方 でしょう!」とヒステリー風 に啜泣 きながらも「貴嬢 が来 て下 すったんでほんとに安心 しました。ああ私 、今日 という今日 は寿命 の縮 まる位 心配 しましたよ!」 呉田 博士 は婆 さんの働 き労 れた痩 せた手 を軽 く叩 いた。而 して親切 な女 らしい慰 めの言葉 を二言 三言 囁 いてやると、婆 さんの蒼白 た頰 にみるみる血 の気 が上 って来 た。- 「
旦那 様 は今日 はお室 に錠 を下 して御閉籠 りになったまま、終日 御外出 にもならず御声 もいたしませぬので、つい一時間 ばかり前 の事 でございます。何 か変事 でも御有 りになりはせぬかと思 い、私 は上 って行 って鍵 の穴 からのぞいて見 たので厶 いますよ。周英 様 、貴君 もまア行 って御覧 なさいまし、私 は御当家 には永 い間 御奉公 しまして悲 しい御顔 も嬉 しい御顔 も見慣 れて居 りますけれども、まだ今夜 の様 な御顔 をば見 た事 がありませぬ。」 今度 は博士 がランプを執 って先頭 に立 った。周英 君 は歯 の根 も合 わず慄 えていて到底 始末 におえぬ。階段 を上 ろうとするのだが膝 がガクガクして登 られそうにもないので、予 が腕 を抱 えてやるという始末 である。登 りながら博士 は二度 ばかり拡大鏡 を取出 して、階段敷 の上 の、我々 には眼 にも止 らぬ泥濘 の汚点 と見 える物 の痕 を仔細 に検査 して行 く。其 のランプを低 め、左右 に鋭 き眼光 を配 りつつ、一段 一段 徐々 に登 って行 く。丸子 嬢 はお捨 婆 さんと一所 に、女中 部屋 に残 っていた。三個 の階段 を登 り尽 すと、やや長 き真直 なる廊下 に出 た。右手 には大 きな絵 を画 いた印度 の掛毛氈 が掛 り、左手 には三 つの扉 が次 ぎ次 ぎに列 んでいる。博士 は依然 たる静 な規則 的 な歩調 で進 んでゆく。其 踵 に引添 うて、予等 二人 も長 き陰影 を廊下 の床 に曳 きつつ踉 いて行 く。三番目 の扉 が目指 した室 である、博士 はコツコツと叩 いて見 たが何 の返事 もない。把手 を廻 して開 けようとしたが、内 から太 き閂 が掛 けてある様子 。併 し鍵 だけは回 り、鍵穴 も微 に明 いているので、博士 は体 を屈 めて見 たが、忽 ちホーと鋭 い息 を引 いて立 ち上 った。- 「
中沢 君 、何 かこれは此 内 で極悪 の事 が行 われたに違 いない。君 はまア何 と思 う。」 - という
声 が今 迄 になき感動 した口調 である。 予 は何事 ならんと同 じく身 を屈 めて鍵穴 から覗 いて見 たが、余 りの怖 しさに思 わずアッと跳 ね返 った。月光 流 れ入 りて、漠然 たる変 り易 き光 に満 つる室内 に、見 よ、予 の方 をヒタと真向 に眺 めて、一個 の人間 の顔 が空 に懸 って居 るではないか。それより以下 は陰影 の中 に没 して見 えざる故 に、宛然 空 に懸垂 せりと見 える其 首級 が、誰 あろう、我 が同行者 山輪 周英 君 の顔 ではないか。突兀 たる禿頭 、其 周囲 の剛 き紅毛 、血 の気 のなき顔色 、似 たとは愚 か瓜二 つである。但 し此 首級 の方 には怖 しき微笑 がこびり付 いている。熟 と、不自然 に歯 を露 わしたまま空 に懸 っている。其 不気味 なる笑顔 を此 闃寂 たる月光 の室 に覗 くのだから、顰顔 をされているよりは神経 に慄然 と響 く。予 は余 りの不思議 さに急 に四辺 を見廻 した。すると真物 の周英 君 は正 に判然 と予 の傍 に顫 えている。ハテ面妖 な……と怪訝 に堪 えなんだが、忽 ち想 い起 した事 がある。周英 君 と其 兄 建志 君 とは双生児 であったのだ。- 「
実 に怖 しいですな!何 うしたものでしょう。」 - と
言 うと、博士 は、 - 「
扉 を打 ち破 るばかりじゃ。」 - そこで
三人 が満身 の力 を籠 めて体 を衝突 け、足 で蹴飛 ばしするほどに、流石 の閂 もミリミリと折 れ砕 けて扉 が開 いた。予等 は直様 飛 び込 んだ。 此 室 は一見 化学 の実験室 にでも充 てたものらしく、扉 の正面 の棚 には硝子 蓋 の瓶 が二列 にならび、卓上 の上 にはブンゼン式 火口 、蒸留器 、試験管 なぞが散乱 して居 る。室隅 には柳細工 の籠 に入 れて酸 の罎 が立 っているが、其 一 つの罎 が壊 れたか漏 るのか、黒色 の液 がドクドクと流 れ出 で、空気 はタールの如 き一種 独特 の刺戟性 の臭気 に澱 んで居 る。室 の片側 には漆喰 、木摺 なぞの破片 の散乱 した中 に、一脚 の踏台 が立 ち、其 真上 の天井 に人間 一人 の体 の通 られそうな穴 が明 いて居 る。踏台 の裾 には、長 き一条 の縄 が乱雑 に蜷局 を巻 いて居 る。- さて
卓上 の前 の一脚 の木製 の肘掛 椅子 に、此家 の主人 山輪 建志 君 が、手足 を縮 めて一塊 の肉団 となり、頭 を左肩 に埋 め、思議 す可 からざる幽霊 の如 き蒼白 の微笑 を顔 に浮 めて蹲踞 っていた。身体 は既 に硬直 し、冷却 し、明 に死後 数時間 を経 て居 る。そして顔面 のみならず四肢 皆 異様 に盤曲 し変化 して居 るように見受 けられる。卓子 の上 に乗 せた其 手 の傍 に一個 の奇体 なる器械 が横 っている――褐色 の、木目 塗 りの棒 であって、槌 の如 き石 が剛 き縒糸 で其 頭 に縛 り付 けてある。其 また傍 に何 やらん悪筆 にて文字 を認 めた手帳 の紙 の切端 が一枚 ある。博士 は一眼 見 て予 に手渡 して「見給 え。」と意味 有 りげに眉 を挙 げる。 角燈 の光 にて読 んで予 は戦慄 した。文字 は何 ぞや。曰 く、- 「
四人 の署名 にて」 - 「これは
殺人 を意味 するのだ。」と博士 は死骸 の上 に屈 み掛 りつつ「ああ、我輩 が予期 した通 りじゃ。ここを見給 え!」 - と
指 すのを見 れば、耳 の直 ぐ上 の皮膚 に、一本 の針 とも見 ゆる長 き黒 き物 が刺 さって居 る。 - 「
矢張 りこれは針 だ。抜 いて見給 え。気 を付 け給 えよ。毒 が附 いて居 るから。」 予 は母指 と人差指 とでそれを挟 んで抜 いた。存外 楽々 と抜 けた。後 には殆 ど何 の痕跡 も残 らぬ。ただ微少 な一滴 の血潮 が刺傷 から滲 み出 したばかりである。- 「どうも
私 にとっては何 から何 まで不可解 の秘密 ばかりで、段々 秘密 が暗 くなるように思 われます。」 - 「いや、
俺 には反対 に一秒 一秒 と真相 が解 りかけて来 るわい。只 全体 の事件 の連鎖 の中に僅 の四五鐶 まだ欠 けている点 がある。それを捜 し出 しさえすれば宜 いのじゃ。」 博士 と予 は此 室 に入 ってから以来 、周英 君 が連立 って来 た事 を全然 忘 れていたが、今 気付 けば彼 は尚 お扉口 に立 ちしまま、両手 を捻 り合 わせたり、独語 を言 うて唸 いたり、何様 魂 の底 まで怯 え切 った有様 である。そうして居 る中 に、不意 に鋭 い叫声 を挙 げた。- 「やや、
宝玉函 が無 くなって居 る!曲者 が宝玉函 を窃 んで行 った!あれが宝玉函 を下 した天井 の穴 です。私 は現 に兄 の手伝 いをしました!兄 を一番 最後 に見 たのは私 です!昨夜 此室 を出 て階段 を降 りながら、兄 が此室 の鍵 を閉 うのを確 に聞 きました。」 - 「それは
何時頃 であったろう。」 - 「十
時 でした。ああああ、兄 が殺 されて見 れば、警察官 が来 るでしょう、そして私 が嫌疑 を掛 けられるでしょう。ええ、屹度 そんな事 にある。雖然 御両君 だけはまさか御疑念 はないでしょうな。私 の所業 だなぞと御考 えは下 さらぬでしょうな。若 し犯人 が私 であったら、どうして今夜 態々 貴君方 をここへ御案内 しましょう。ああああ、まるで狂人 になりそうだ!」 - と
両手 を突 き出 すやら、狂気 の如 く床 を踏 み鳴 らすやら、 其 肩 を博士 は親切 に軽 く叩 きながら、「山輪 君 、何 も其様 にビクビクする事 はない。俺 が忠告 するから、早速 警察署 へ馬車 を走 らせて警官 に事情 をお告 げなさい。万事 につけて警官 の助 けになるようにおしなさい。我々 はここで貴君 のお帰 りを待 つ事 としましょう。」彼 は半分 夢中 で其 忠告 に従 うた。間 もなく予等 は暗 い階段 を走 り降 りる彼 の跫音 を聞 いた。
六、天井裏 の密室 の臨検 ――驚くべき犯罪史上の新生面
[編集]二人 限 りになると、博士 は両手 を擦 り合 せつつ、- 「さア、
中沢 君 、三十分 だけは猶予 が出来 た。これを最 も有効 に利用 しなくちゃならぬ。今 も話 した通 り俺 の見込 は殆 ど立 って居 る。が、無暗 に信 じ込 むと失敗 する。事件 は一見 簡単 であるが、その底 には或 る深遠 な意味 が横 って居 るかも知 れぬ。」 - 「
此 事件 が簡単 ですか!」 - 「
確 に簡単 だ!」と博士 は医学校 にて臨床 講義 をする教授 といった態度 で「まア其 隅 に腰 を掛 け給 え。君 の足跡 は方々 につくと紛 らわしくて不可 ぬ。好 し、これからが弥々 活動 じゃ!先 ず第一 に研究 す可 きは、曲者 が如何 にして此室 に入 り、如何 にして出 で去 ったかと言 う点 である。扉 は昨夜 以来 嘗 て開 けられなかったそうだ。すると窓 は何 うであろう。」とランプを持 って窓 に近寄 り、予 に聞 かせるというよりは独語 をする形 で「窓 も内 から閉 じている。枠紐 の細工 も仲々 堅 い。横手 には蝶番 もついて居 らぬ。開 けて見 よう。近 い所 に雨樋 も掛 って居 らぬ。屋根 は高 くて届 きそうもない。が、一人 の男 が窓 から忍 び込 んだのは確 じゃ。昨夜 は少 し雨 が降 ったらしい。ソラ、窓台 の此刳型 の上 に一 つの足跡 があるだろう。ここには円 い泥濘 の跡 がある。この床 の上 にもある。ソラ、其 卓子 の傍 にもある。見給 え!中沢 君 !これは実 に有力 な実証 じゃないか!」 予 は円 く判然 と印 せられた泥濘 跡 を眺 めたが、- 「これは
人間 の足跡 ではないらしい様 です。」 - 「
人間 の足跡 よりも我々 にとっては一層 有力 なものだよ。此 窓台 の上 に一 つの靴跡 のあるのが解 るだろう。一 つだよ。広 い金 の踵 を持 った重 い靴 に違 いない。それから直 ぐ其 傍 に木 の義足 のある跡 のあるのも解 るだろう。」 - 「じゃ、
片足 の男 でしょうか。」 - 「そうそう、
併 し他 にもう一人 の奴 が居 る――つまり共犯者 じゃ。君 は此 壁 を目分量 が出来 るかな。」 窓 の外 を眺 むれば、月 は依然 建物 の此 一角 に輝 いて居 る。予等 の居 る室 は地上 を距 る事 約 六十尺 であろう。されど見廻 した所 、足場 も無 ければ、煉瓦 に割目 も無 さそうである。- 「
此処 を登 る事 は及 びもつきません。」 - 「
手伝 いがなければ到底 不可能 じゃ。併 しここに室内 に一人 の同類 があると仮定 して見給 え。其 同類 が、あの隅 にある丈夫 な縄 を、この壁 の大 きな鉤 に結 び付 けて地面 へ降 ろしたとする。したらば一本 足 にせよ、二本 足 にせよ、活潑 な男 であったらばそれを伝 うて登 って来 られるだろう。勿論 仕事 をした後 は同様 の方法 で降 りてゆく。すると同類 が縄 を引上 げ、鉤 から外 し、窓 をおろして内 から閉 め、最初 に入 って来 た所 からまた出 て行 くのに訳 もあるまいではないか。それに斯 ういう事 も解 る。」 - と
件 の縄 を弄 りつつ「その一本 足 の男 は縄 を登 るのは巧 みかも知 らぬが、本職 の航海者 ではない。其 掌 は航海者 のように硬 くはない。俺 が今 拡大鏡 で見 ると、此 縄 に沢山 の血痕 が附着 して居 る。殊 に末 の方 になると甚 い。で、俺 の考 えでは、先生 非常 な速力 で辷 り降 りる拍子 に、掌 の皮 を剝 りむいたものと見 えるのだ。」 - 「
成程 、先生 の観察 はえらいものです。併 し事件 は益々 解 し難 くなります。其 同類 というのが、何 うして此室 へ入 り込 んだのでしょう。」 - 「そうだ、その
同類 の事 だナ!」と博士 も思案 有 りげに「それが至極 面白 い点 だ。俺 は此 同類 の奴 は我 が日本 に於 ける犯罪史 の上 に一個 の新生面 を開 いたものと思 う――尤 もこれと同様 の事件 は印度 にもあったし、阿弗利加 にもあったと覚 えて居 る。」 - 「では、
何処 から入 ったでしょう。扉 は閉 じてあるし、窓 には迚 も地上 から手 が届 かないし、煙突 から通 ったのでしょうか。」 - 「いや、
火格子 が狭 くて煙突 は通 られぬ。が、俺 にはチャンと通 った路 が解 って居 るじゃ。」 - 「では
何処 からでございましょう。」 - 「
少 くとも扉 からでも、窓 からでも、煙突 からでもない。さりとて室内 は此 通 りだから此処 に潜伏 して居 りようもない。すると残 ったとこは何処 だ。」 - 「
屋根 の穴 から入 ったのですか。」と予 は叫 んだ。 - 「
無論 そうじゃ。それに違 いない。君 、御苦労 だがランプを持 って居 てくれ給 え、いよいよ一 つの宝玉 の隠 してあった天井 の密室 を調 べて見 よう。」 - と
博士 は踏台 の頂上 に登 り、両手 で桷 を摑 みヒラリと屋根部屋 に登 った。そして平匍伏 になってランプを受取 り、予 の登 る間 下 を照 して見 せてくれる。 天井裏 の此 密室 は十尺 に六尺 ばかりの広 さである。床 は桷 の合間 合間 を薄 い木摺 と漆喰 とで固 めたものゆえ、梁材 から梁材 を踏 んで渡 らねば危 なくて歩 かれぬ。天井 は三角形 をしている。其 外 は即 ち此 家 全体 の屋根 の頂上 となって居 るのであろう。室内 は何 の器具 装飾 とてもなく、年古 る塵芥 の徒 らに床 を埋 めて居るのみである。博士 は傾斜 せる壁 の一個所 を叩 きながら- 「ソーラ、
此処 だよ、これが屋根 と通 じている刎出扉 さ。こう押 すと、ソラ、緩 い傾斜 を画 いた屋根裏 が見 えるだろう。これがつまり真先 に第一 の曲者 が忍入 った扉 だ。他 にも何 か手懸 があるかも知 れぬぞ。」 - とランプを
低 めて床 を検査 している中 に、これで今宵 は二度目 の驚絶愕絶 の色 が颯 と博士 の顔 にのぼった。予 も亦 博士 の見詰 めた点 を不図 見 ると、一時 に身内 の血潮 が凍 るかと思 われた。床 に一面 に印 いているのは跣足 の足跡 である。実 に判然 と印 いている其 足跡 は、普通 の男 のそれの半分 ぐらいの大 きさしかない。 予 は低声 で「先生 、同類 は子供 じゃないでしょうか。」其 声 に博士 は忽 ち我 れに返 って、- 「ああ、
流石 の我輩 もこれには驚 いた。併 し考 えて見 ると何 の不思議 もない。俺 はすっかり忘 れて了 っていたが、さもなければ此 事 あるのを予言 したかも知 らぬ。もう此処 には検 べることはないから、君 降 りよう。」 - で、
再 び元 の兇行 の室 へ降 りると、予 は熱心 に訊 いた。 - 「では、あの
足跡 について先生 はどうお考 えですか。」 - 「
中沢 君 、君 も少 し自分 で分解 をやって試給 え。」と博士 は短気 な声 を出 して、 - 「
俺 の方法 はかねて知 っているじゃないか。それを応用 して見給 え。君 の考 えた結果 と、俺 の考 えた結果 とを比較 して見 るのも有効 だろう。」 - 「どうも
私 には確 かりした見込 が立 ちません。」 - 「いや、
直 ぐ解 る。俺 の見 る所 では、もう此処 には格別 大切 な証拠 も残 って居 るまいと思 う。が併 し、もう一応 検 めて見 よう。」 - と
拡大鏡 と巻尺 とを取出 し、例 の長 く薄 き鼻 を床板 より二三寸 の辺 まで押付 け、鳥 の如 き小粒 の眼 を輝 かせて、或 は比較 し、或 は検査 する。其 動作 の軽快 、沈黙 、熱心 なる事 は、獲物 を嗅 ぎ分 くる慣 らされたる猟犬 の如 くである。博士 にして若 し其 精力 と才智 とを法律 の擁護 に用 いずして悪事 に応用 せんか、如何 なる戦慄 すべき兇悪 を案出 するだろう。予 は傍観 しつつそう考 えずには居 られなかった。博士 は斯 うして検 べ廻 りながら何 をか独語 をしてはいたが、終 に一大 歓呼 の声 を挙 げた。 - 「もう
占 めたものだ。もう訳 はないぞ。第一 の曲者 の奴 、不幸 にして結列阿曹篤 (一種 の油状液 にて医用 又 は防腐用 のもの)に蹴躓 ずいたのだ。ソラ、此処 を見給 え。此 悪臭 を放 つ乱雑物 の右手 に、其 曲者 の小 さな足 の爪先 の形 が附 いているではないか。つまり蹴躓 ずいたものだから、籠 入 りの罎 が割 れて薬 が洩 れ出 したのだ。」 - 「すると?」
- 「すると、
曲者 を捕 えたも同然 ではないか。俺 は一疋 の犬 を知 って居 る。其 犬 であったら、此 烈 しい臭 いを嗅 ぎ嗅 ぎ世界 の端 までも曲者 を跟 き留 めるに違 いない――が待 ち給 え!警官 がやって来 たようじゃから。」 成程 重々 しき跫音 と、声高 の響 きとが階下 より聞 え、今 しも広間 の扉 がドシンと閉 まったところである。
七、驚 くべし、死因 は毒刺 に在 り ――死人に対する警部の誤解
[編集]博士 は其 音 に耳 を澄 ましながら、- 「
警官 が此 室 に来 る前 にちょッと君 、この死骸 の腕 に触 って見給 え。それから此 脚 にも。どう思 うか。」 - 「
筋肉 がまるで板 のように硬 いです。」 - 「
全 く硬 い。普通 の死後 硬直 に比 して収斂 の度 が遥 に強 いのじゃ。顔面 の此 偏枉 と、此 怪 しい微笑 との二 つから、君 は何 のような断定 を下 し得 るか。」 - 「
私 の考 えでは、死因 は或 激烈 な植物性 の亜爾加魯乙土 (植物中 に含 める塩基性 化合物 )に帰 すると思 います。つまり或 斯篤里規尼涅 の如 き薬物 のために強直 痙攣 を起 したので厶 いましょう。」 - 「
俺 も此 の顔面 の縮小 した筋肉 を一眼 見 た時 からそう思 うたのじゃ。此室 に入 った瞬間 、俺 は直 ぐに毒物 が組織内 に入 り込 んだ手段 を考 えた。君 も知 っての通 り、俺 は一本 の刺 を発見 した。これは余 り大 した力 で頭 の皮 の中 へ突 き刺 したものではない。見給 え、これが刺 さったところは、若 し人 が此 椅子 に真直 に腰掛 けて居 たならば、其 方向 が丁度 天井 の穴 から打込 まれたことになるではないか。そこで刺 を仔細 に検 べて見給 え。」 予 は用心 してそれを取上 げて、角燈 の光 に照 し眺 めた。長 く、鋭 く、且 つ黒色 の刺 である。而 して尖端 に近 き所 は或 護謨性 の物質 が附着 して乾燥 せし如 くギラギラとなって居 る。鈍 き尖端 は小刀 にて手入 れをし円形 になしたる如 く見 える。- 「これは
日本 で出来 る針 だろうか。」 - と
博士 が訊 くゆえ、 - 「いや、
全 く違 って居 ります。」 - 「これだけの
材料 が有 ったらば、君 も或 正確 な結論 を下 す事 が出来 るだろう。ああ、併 し警官 が登 って来 たわい。では我々 手伝 い連 は退出 っても宜 い。」 斯 く言 いつつある間 に、次第 に近付 き来 りし人々 の跫音 は廊下 に響 きを立 て、間 もなく一人 の鼠色 の揃 いの服 を着 た非常 に頑健 そうな男 が、威風堂々 として室内 に歩 み入 った。此男 は赭顔 にて、肥満 、多血質 、頗 る小 さけれども、絶 えず瞬 く鋭 き眼 を持 って居 る。後 に続 いて制服 の巡査 部長 が一人 、そして山輪 周英 君 も相変 らず汗 みどろになって従 いて来 た。- さて
肥満 の男 は鼻 に掛 った嗄声 で「ほオ、これは事件 だ!大事件 だ!ところで此 方々 は誰方 かね。」 - 「
阿瀬田 警部 !俺 に覚 えがお有 りの筈 じゃが。」と呉田 博士 が静 かに言 った。 - 「ああ、
無論 覚 えて居 ますとも!」とゼイゼイ声 を出して「医学 博士 の呉田 さんでしょう。貴君 を忘 れてなるものですか!従来 種々 の探偵 事件 に就 いて、貴君 が原因 、結果 、推理 に関 して講釈 をして下 すった事 は能 く覚 えて居 ます。貴君 が我々 に正 しい探偵 方針 を授 けて下 すったのは事実 だ。併 し何 でしょう。貴君 が色々 の事件 に成功 なすったのは、実際 のところは善良 な指導 によると言 うよりも、やはり其 時 の好運 による方 が多 かったのでしょう。」 - 「なに、ほんの
簡単 な推理 の結果 に外 ならないのですわい。」 - 「はア、なになに、
有体 におっしゃっても少 しも御恥 ではない。それは兎 に角 、こりゃ何 うしたものでしょう。こりゃ厄介 な事件 ですな!厄介 な事件 だ!事実 が厳然 として存 して居 って――理論 の余地 がない。私 が他 の事件 で今日 砂村 に出張 して居 ったのは偶然 とは云 え実 に幸福 であった!丁度 警察 分署 に居 ると訴 えがあったのです!此 被害者 の死因 については何 と御考 えですか。」 - 「
否 、これは理論 の余地 のない事件 です。」 - と
博士 は素気 がない。 - 「や、そうは
仰有 るが、貴君 の理論 も時々 的中 なさるのは我々 も認 めています。オヤ、入口 の此 壁 は閂 が掛 けてあったと見 えるな!それで居 て五十万円 の価値 ある宝玉 が紛失 したとは奇怪 だ。窓 はどうでした。」 - 「
閉 じてあったです、併 し窓台 の上 には足跡 がありますよ。」 - 「
宜 しい、宜 しい、窓 が閉 じてあった以上 、窓台 の足跡 なぞは事件 と何 の関係 もない。これは常識 で解 るのです。主人 は或 は痙攣 けたまま死 んだのかも知 れぬ。併 し、宝玉 の紛失 という事 があるな。はハア!なる程 解 ったわ。斯 ういう閃光 は時々 私 の胸 に起 る事 がある。部長 、少 し室外 へ出 ていて下 さい、山輪 さんも何卒 。いや、呉田 さんのお連 れの方 はそれには及 びません。さて呉田 さん、貴君 の御意見 は如何 でしょう。彼 山輪 周英 が陳述 する所 によれば、彼 は昨晩 兄 と一所 に居 ったのです。で、私 の考 えでは、兄 が痙攣 けたまま死 んで了 った。そこで彼 周英 は宝玉 を持 ち逃 げした。と斯 ういうのであるが、どんなものでしょう。」 - 「
持 ち逃 げした後 で、死人 が御念 にも起 き上 って、内 から扉 を鎖 したと言 わるるのですか。」 - 「フン!その
点 に少 し間隙 があるな。兎 に角 常識 を以 て一 つ事件 を判断 して見 ましょう。彼 山輪 周英 が兄 と同室 に在 ったト……兄弟喧嘩 をしたト……兄 が死 んで宝玉 が紛失 したト……それで周英 が室 を立去 って以来 誰 も兄 の姿 を見掛 けなかったト……兄 の寝床 も手 を付 けずにあるト。ところで周英 は明 かに今日 は周章狼狽 の体 である。その顔付 は――ふム、尋常 ではないぞ。呉田 さん、私 は此 周英 の周囲 に網 を張 って居 りますぞ。而 も其 網 の目 が段々 細 くなる。」 - 「
貴君 はまだ全事実 をお摑 みになって居 らん。此 木 の刺 ですな、これは凡有 る理由 から推 して確 に毒 が塗 ってあると信 ずるのであるが、これが死骸 の頭 に刺 さって居 った、其 跡 が御覧 の通 りここに印 いて居 る。それから字 の書 いてある此 紙片 は卓子 の上 にあった。その傍 には此様 な石 の頭 のついた奇体 な道具 もあったのです。此等 のものは貴君 の理論 に何 のように適合 するでしょうな。」 - 「や、
総 て確認 します。」と肥満 の警部 は容体振 って「此家 には印度 出来 の珍物 が一 パイある。この刺 なぞも周英 が持 って来 たのであって、果 して毒 が塗 ってあるとすれば、疑 いもなく殺人用 に供 したものである。紙片 の如 きはほんの手品 に過 ぎぬものでしょう。只 唯一 の疑問 は彼 が室外 に出 で去 った方法 であるが……ああ、無論 そうだ天井 にあんな穴 がある。」 - と
肥 った体軀 に注意 しながら、敏捷 に踏台 に登 って例 の屋根裏 の密室 に消 え去 ったが、間 もなく刎出扉 を見付 けたと言 って悦 び騒 ぐ彼 の声 が聞 えて来 る。 博士 は肩 を聳 かしながら「先生 にだって何 かは発見 出来 るだろう。時々 は推理 の力 が閃 く事 があるから!」降 りて来 た阿瀬田 警部 「御覧 なさい!事実 は畢竟 理論 よりは有力 ですぞ。本事件 に対 する私 の意見 は確定 しました。屋根裏 の密室 には屋根 に通 ずる刎出扉 がありますぞ。耳 ならず少 し開 いて居 る。」- 「あれを
開 けたのは俺 です。」 - 「はア、そうですか!すると
貴君 もあれに御気付 きですな。」と少々 鬱 ぎ込 んだが、 - 「なに、
誰 が先 きに気付 いたにせよ、あれが確 に曲者 の出道 に違 いない。部長 ……」 - 「ハイ。」と
廊下 から入 って来 る。 - 「
山輪 周英 君 に入 って来 るように伝 えて下 さい。ああ、山輪 君 、本職 は職務上 から一言 御注意 するが、貴君 が今後 弁解 をなさると却 て貴君 の為 めに不利益 となる。本職 は貴君 の令兄 建志 君 の横死 事件 に関 する嫌疑者 として、法律 の名 によって貴君 を捕縛 しますぞ。」 - 「ああ、こんな
事 だろうと思 った!だから御両君 にお話 したじゃありませんか!」 - と
周英 君 は気 の毒 にも両手 を拡 げて煩悶 の表情 をなし、一同 の顔 をキョロキョロと見廻 すばかり。 - 「
山輪 さん、さほど御心配 のことはない。俺 が多分 其 の嫌疑 を晴 らして上 げる事 が出来 ようと思 う。」と博士 が言 えば、警部 は慌 てて口 を出 して - 「いや、
理論家 博士 、余 り大 した御約束 はなさらんが好 いでしょう。大 した御約束 をなさると、屹度 後悔 なさる。仲々 此 事件 は貴君 の御見込 よりは困難 らしい。」 - 「
阿瀬田 さん、俺 のつもりでは、独 り山輪 君 の嫌疑 を晴 らすのみならず、昨夜 此 室 へ闖入 した二人 の曲者 の中 の一人 の姓名 及 び其 人相 までをも御知 らせする事 が出来 る、其 姓名 は簗瀬 茂十 なる者 である事 は、各方面 より推論 して決 して誤 らざる所 です。此 男 は余 り教育 なぞは受 けず、身体 矮小 、併 し敏捷 で、右 の足 が一本 なく木 の義足 を穿 めて居 るが、此 義足 の内輪 の方 が擦 り減 って居 る。残 った左足 の靴 は其処 の爪先 が角形 で踵 の方 には鉄 の帯 が打 ってある。年齢 は中年 、顔色 は日 に焼 けて黒 く、一度 は懲役人 であった。これだけの事実 でも御知 らせすれば随分 御参考 になるでしょう。それにもう一 つ附加 える事 は、其 男 の手 の掌 の皮 が大分 擦 り剝 けて居 る筈 である。そこでもう一人 の曲者 と言 うのは――。」 - 「はア、もう
一人 の男 は?」 - と
警部 は嘲笑 気味 で言 ったが、併 し博士 の詳細 なる説明 には内心 少 なからず舌 を巻 いた気色 が見 える。 - 「
何方 かと言 えば不思議 な人物 です。」と博士 は踵 でグルリと体 を廻 しながら言 った。 - 「
多分 近々 の中 に二人 とも御紹介 出来 るだろうと思 うのです。中沢 君 、ちょッと話 がある。」 - と
予 を廊下 の階段 の降口 に導 き「君 、意外 な事件 のために我々 の今夜 の最初 の目的 の方 が何処 へか飛 んで行 って了 った形 じゃないか。」 - 「
私 も今 それを想 い出 して居 りました所 です。丸子 さんを此様 な恐 しい家 に留 めて置 くのは好 くないと思 います。」 - 「
全 く好 くない。君 が家 へ送 り返 す義務 があるね。あの人 は築地 の濠田 瀬尾子 という婦人 の家 に住 んで居るそうだから其 家 まで、若 し君 が送 り返 して来 るなら、俺 はここで待 って居 よう。が、君 は疲労 れたろうなア。」 - 「
些 とも疲労 れは致 しません。却 って此 の怪事件 の真相 をもう少 し窮 めなくちゃ休 まれそうにも厶 いません。私 も段々 人生 の暴 っぽい方面 を少 しずつ見 て参 りましたが、先生 、今夜 のような後 から後 からと椿事 に衝突 っては流石 の脳神経 も滅茶滅茶 になって了 います。何 れにせよ、先生 の御手腕 で、もう少 し事件 の深 い所 を知 りたいと思 います。」 - 「
俺 も君 に居 て貰 えれば、非常 に好都合 じゃ。そこで我々 は我々 で独立 に働 らこう。あの阿瀬田 なぞは勝手 な理屈 を立 て、其実 馬鹿 げた事 を大層 な発見 らしく騒 いで悦 んでいれば宜 いのだ。そこで、君 が丸子 嬢 を送 り届 けたらば、直 ぐに馬車 を城辺河岸 に駆 って、呉服町 三番地 へ行 ってくれ給 え。そこの右側 の三番目 の家 が仙助 という剝製屋 の家 でね、窓 に鼬鼠 が小兎 を咬 えている看板 があるから直 ぐ解 るよ。君 は仙助 爺様 を叩 き起 して、俺 が宜 しく言 うたと伝 えて、至急 トビーを借 り度 いと申込 むのだ。そして一所 に連 れて来 てくれ給 え。」 - 「
犬 ですか。」 - 「そう、
不思議 な雑種 の犬 でね、物 を嗅 ぐ力 は驚 く可 きものさ。俺 はもう東京 中 の探偵 に応援 して貰 うよりも、トビー一疋 に加勢 して貰 うた方 が何 のくらい好 いか知 れないのだ。」 - 「では、
行 って参 ります。今 午前 一時 ですから三時 迄 には戻 られるでしょう。」 - 「
其 間 に俺 は女中 のお捨 婆 さんと、印度人 の僕 、ソラ、周英 君 が彼方 の屋根 部屋 に睡 って居 ると言 うた奴 さ。此 二人 を尚 お検 べて置 こう。そうして置 いて阿瀬田 大探偵 の方針 を研究 し、彼 の拙 い諷刺 でも聴 いて居 よう。」
八、深夜 の馬車 に恋 の苦悶 ――帰りの馬車は犬と同乗
[編集]警官 の乗 って来 た一台 の馬車 に扶 け乗 せ、予 は丸子 嬢 を東京 に送 り行 く事 になった。女中 のお捨 婆 さんはもう魂 も身 に添 わぬ迄 吃驚 して居 る。其 傍 に彼女 は明 い顔 をして落着 いて居 た。実 に我 が傍 に扶助 すべき弱者 がある限 り、彼女 は婦人 特有 の天子 の如 き態度 を以 て、平静 を装 い、以 て此 難関 に耐 えて居 たのである。併 し弥々 馬車 に乗 ったらば、張 り詰 めし気 のゆるみしにや初 めてウンと昏倒 した。昏倒 から醒 めるとサメザメと泣 き出 した。今宵 の出来事 がいかばかりか酷 く繊弱 き心 を撲 ったのであろう。其時 は予 が冷 かなる人間 に見 え、行 く手 の路 は限 りもなく遠 く思 われたと後 から彼女 は話 した。して見 れば彼女 が予 の胸 の苦悶 を推察 しなかったのだ。予 を控目 にさせた自制 の力 に想到 しなかったのだ。予 の同情 と愛 とは、被害者 の邸 の暗 き庭園 で其 手 を取 った時 に彼女 の方 に奔流 したのである。予 は切 に感 じたが、今日 の一日 の奇 しき経験 は、多年 の人生 の習慣 も教 えなんだ事柄 を予 に教 えた。それは、彼女 の温雅 にして将 た雄々 しき心根 である。併 も其時 二個 の思想 あって予 の唇 を緘 し、予 に愛 の言葉 を洩 らさしめなかった。丸子 は今 心 も神経 も振蕩 せられた繊弱 く助 けなき女 である。斯 る時 彼女 に愛 を強 いるのは余 りに心 なき惨酷 の仕業 である。一層 都合 の悪 いのは彼女 は金持 である事 だ。万一 先生 の探偵策 にして成功 したならば、彼女 は莫大 なる富 を嗣 ぐ人 となるであろう。予 の如 き書生 が此時 に当 って、偶然 機会 が齎 し来 った親密 を利用 せんとする事 は果 して公正 であろうか、正直 であろうか。彼女 は予 を目 して単 なる下賎 の慾張 と見做 しはせぬだろうか。そう考 えられては堪 まらぬ。何 れにしても此 未見 の宝玉函 が越 す可 からざる堡砦 となって予 と彼女 との間 を隔離 して居 るのである。馬車 が築地 の濠田 夫人 の邸 に到着 したのは午前 二時 頃 。召使 等 は夙 に熟睡 して居 る深更 の今頃 を、女主人 のみは電話 で話 して置 いたとは言 うものの丸子 の今宵 の成行 に心 を傷 めつつも寝 もやらず待 っていた。年齢 は中年 にして、愛嬌 のある夫人 である。丸子 の帰 れる姿 を見 て急 いで抱 き擁 えた柔 しき愛情 、其 無事 を祝 す母 らしき言葉 、主従 というよりは友人 同士 と言 った打解 けた態度 、何 れも予 に安心 を与 えた種 である。丸子 の紹介 するままに、夫人 は切 に予 を引留 めて今日 の顚末 を聴 かんと欲 したが、予 は博士 の命令 もあり、其 余裕 なき身 とて、他日 を約 し強 いて振切 って其家 を辞 した。馬車 の窓 より振返 れば、玄関 に相縋 り寄 れる二人 の姿 も、半 ば開 きし扉 も焼付 硝子 越 しに輝 く広間 の灯 もよく見 える。恐 しき暗黒 なる怪事件 に心身 を吸 われ居 る最中 にして、斯 る平和 なる家庭 を眺 むる事 は、何 という慰楽 であろう。怪事件 と言 えば、考 えれば考 えるほど其 真相 は暗晦渾沌 たる姿 を呈 して来 る。予 は瓦斯 の灯 孤 り瞬 く寝鎮 まれる深更 の巷 に馬車 を走 らせながら、奇怪 なる事 の成行 を最初 より繰返 して追懐 して見 た。須谷 大尉 の死 、丸子 の受取 った真珠 の小包 、彼女 の在所 を探 す新聞 広告 、丸子 呼出 の手紙 ――此等 の問題 は既 に明瞭 である。雖然 此等 根本 の問題 は更 に吾人 を拉 して一層 深 き、一層 悲劇 的 なる秘密 の中 に誘 うて行 く。印度 の宝玉 、須谷 大尉 の行李 中 より出 て来 た不思議 なる図面 、山輪 少佐 臨終 の際 の奇光景 、宝玉 の発見 、それに続 いた発見者 の横死 、犯罪 の怪 しき共犯者 、不思議 の足跡 、珍 しき毒刺 と石器 、須谷 大尉 の図面 にありし同様 なる怪文字 の紙片 ――これ実 に稀代 の難事件 に非 ずして何 ぞ。博士 から指定 された呉服町 へ馬車 を急 がせて、其処 の三番地 の剝製屋 の仙助 爺 さんの家 を叩 き起 す。暫時 叩 いてから漸 く窓 から顔 を出した爺様 、予 を酔漢 の浮浪漢 と間違 えて、- 「
好 し、いつ迄 もそうして騒々 しく叩 いて居 ろ。狗舎 を開 けて四十三疋 の犬 を残 らずけしかけてやるから……」 - と
強 らい権幕 で威嚇 しまくったが、 - 「
実 は呉田 博士 から――」 - と
一言 博士 の姓名 を言 うと、成程 大 した功徳 のあるもので、爺様 急 に柔順 になり、慌 てて扉 を開 けて迎 え入 れてくれた。そして檻 の鉄棒 の間 から首 を出 す貛 や鼬 を叱 りながら予 の用向 を聴 き、手燭 を点 けて幾 つか列 んだ狗舎 の方 へ導 いた。彼処 此処 の隅 や割目 から動物 の目 の怪 しく闇 に光 る所 を通 り、桷 に棲 まった家禽 共 が夢駭 かされて脚 を変 える下 を進 んで行 った。 博士 の望 んだトビーは不格好 な、毛 の長 さ、耳 の垂 れた犬 であったが、雑種 にて毛色 は褐 と白 との斑 、ヨタヨタした頗 る変梃 な歩態 をする。第 七号 の狗舎 から引出 されたのを、爺様 から渡 された砂糖 の塊 で吊 って馬車 へ一所 に入 れる。夫 から急 いで砂村 へ着 いたのは正 三時 。予 の不在 の間 に門番 の甚吉 は従犯者 として捕縛 せられ、周英 君 と共 に既 に分署 へ護送 された由 にて、門 には二名 の警官 が見張 りをして居 った。
九、呉田 博士 の大 軽業 ――薬臭を嗅ぎゆく猟犬の鋭敏
[編集]博士 は玄関 先 きに両手 を懐中 に、口 にパイプを咬 えて待 って居 た。- 「ああ、
連 れて来 てくれたか!柔順 な犬 だね!阿瀬田 警部 はもう行 って了 うた。君 が行 ってからの活動 が大 したものさ。先生 、周英 君 を捕縛 するのみならず、門番 を縛 げる、女中 を縛 げる、印度人 の僕 を縛 げる。皆 な引張 って行 って了 うた。併 しもう階上 に警官 が一人 残 って居るだけでこれからは我々 の世界 だ。犬 を其処 へ繋 いで階上 へ行 こう。」 - で、トビーをば
広間 の卓子 に繋 ぎ、階段 を登 って行 った。兇行 の室 は、死骸 に敷布 を覆 い掛 けただけにて他 に変 りはない。疲労 れた顔 をした警官 が一人 片隅 の椅子 に凭 れて居 た。博士 はそれに向 って、 - 「ちょっと
貴君 の角燈 を貸 して頂 き度 い。それから此 紙片 を何卒 俺 の首 の周囲 から、胸 に垂 れるように掛 けて下 さい。有難 う。ところで靴 と靴下 とを斯 う脱 ぐから、中沢 君 、君 これを下 へ行 く時 持 って行 ってくれ給 え。もう一度 天井 の部屋 へ登 って見 たいから、俺 のこの半巾 をその結列阿曹篤 の中 へ浸 して下 さい。それで宜 しい。君 も一所 にちょっと登 って見給 え。」 両人 は再 び天井 の穴 を潜 って密室 に登 る。博士 は又 もや角燈 の光 を床 の塵埃 の上 の足跡 に向 けて、仔細 に何 をか検 べて居たが、- 「
中沢 君 、君 には此等 の足跡 について、何 か特徴 のある点 が解 るかね……此処 を見給 え!之 は曲者 の右 の足跡 だから。ところで僕 の跣足 の足跡 をその傍 へ斯 う一 つ附 けて見 る。両方 の主 なる相違 は、どの辺 に在 るじゃろう。」 - 「
先生 [1]の足跡 の方 は指 が皆 一所 に緊付 いて居 る[2]。曲者 の方 ののは一本 一本 離 れて附 いて居 る。」 - 「そうそう、そこじゃ。それを
能 く記憶 して置 き給 え。さて今度 は、君 、其 刎出扉 の所 へ行 って木造部 の端 を嗅 いで見 てくれ給 え。俺 はここに半巾 を持 って斯 うして立 って居 るから。」 其 言葉 通 りにして見 ると、忽 ち強 いタールの如 き臭 いが鼻 を衝 く。- 「
其 扉 がいよいよ曲者 を逃出 した路 と定 まった。君 が臭 いを嗅 ぎ当 てるくらいなら、あの犬 なら尚 お更 じゃ。さア、君 は階下 へ走 り降 りて犬 を解 くのじゃ。そして我輩 の軽業 を見物 してくれ給 え。」 予 が庭 へ降 り立 った時 には、博士 も既 に屋根 に登 って居 た。下 より仰 げば博士 の姿 は徐々 として屋根 棟 を匍伏 する大 きな山蛍 のようである、煙突 の背後 に一旦 消 えたと想 ったら忽 ち再現 したが、間 もなく又 向 う側 に見 えなくなる。で、向 う側 へ廻 って見 ると、博士 は一方 の隅 なる檐 に止 まって居 た。- 「
中沢 君 、此処 が逃 げ降 りた所 だよ……その黒 い物 はなにか、天水桶 か……梯子 は有 りそうもないね……と、フウ合点 が行 かぬな!此処 は非常 に危険 な個所 だのになア。併 し曲者 が登 った跡 ならば、我輩 だって降 れぬ道理 はない。雨樋 は随分 緊固 して居 るね。兎 に角 、やッつけて見 よう。」と、博士 は雨樋 を伝 って降 り様 とする。 足裏 の摺 れる音 がガサガサと聞 える。角燈 が壁 を伝 うて急速 に降 りて来 る。と思 う間 もなく、博士 は翻然 と軽 く天水桶 の上 へ、そこから更 に地面 に飛 び降 りた。予 の持 って来 た靴下 と靴 とを穿 きながら「曲者 を跟 けるのはもう訳 ない。その通路 の瓦 は皆 緩 んでいる。そして余程 慌 てたと見 えて此様 な物 を落 して行 き居 った。君等 医師 の言草 ではないが、これで俺 の診断 もピタリと当 ったわけじゃ。」- と
差出 したのは、草織 りの一個 の小型 の革嚢 、派手 な珠数玉 が五 つ六 つ付 いて居 る。形状 も大 さも先 ず煙草入 ぐらい、内 を検 めると、六本 の黒 い木製 の刺 が入 って居 る。一端 が円 く、一端 が尖 り、正 に建志 を刺 したものと同一物 である。博士 の言 うには、 - 「こりゃ
実 に兇悪 な品物 じゃよ。間違 うて手 でも刺 さぬように注意 し給 え。兎 に角 これが手 に入 ったのは幸福 であった。つまり毒刺 が弥々 曲者 の所有 であったことが偶然 解 ったからね。これからが戦場 じゃ。中沢 君 、君 はこれから六哩 ほど走 る勇気 があるかね……有 る……だが足 が言 うことを聴 くかな……聴 く……では宜 しい……おおおおトビー君 、好 い犬 だ。好 い犬 だ!嗅 いでくれ、嗅 いでくれ!」 - と
犬 の鼻先 へ結列阿曹篤 の浸 みた手巾 を差出 すと、犬 は柔毛 の生 えた足 を踏張 り、頭 を変 に聳 やかしてフンフン嗅 ぎ出 した。斯 うして匂 いに慣 らされた博士 はやがて手巾 を遠方 へ投 げ棄 て、犬 の首輪 に頑丈 なる革紐 をつけて、水桶 の麓 へと引張 って行 く。と、犬 は忽 ち高 き震 える様 な吠方 を続 け、尾 をピンと張 り鼻 を地面 に擦 り付 け擦 り付 け、同 じ匂 いを嗅 ぎ嗅 ぎ、庭内 の踏付路 を革紐 の張 れる限 り張 って駆 け出 す。予等 も全速力 にて駆 け出 す。 時 しも東 の空 は次第 に白 み始 め、冷 かなる灰色 の光 の中 に四辺 の物 も朦朧 として浮 び出 ず。黒 き人 なき窓 、高 き趣味 なき壁 、かの四角 なる巨大 の家 は、悲 くも孤独 の姿 を横 えて予等 の背後 に在 り。予等 は溝 、穴 などの縦横 に掘 られし凋萎敗残 の庭 を横 ぎりて進 む。境界 の煉瓦塀 に達 すると、犬 はクンクン吠 きながら其 陰影 に添 うて走 ったが、一本 の若樹 の橅 の生 えた一隅 に来 るや突然 立 ち止 まった。其処 は煉瓦 が所々 緩 みて、恰 も梯子 の代用 の如 き足掛 りが幾 つか出来 て居 る。博士 は犬 を引張 った儘 それを攀 じ登 る。予 も続 いて登 り行 く。- 「ここに
片脚 の男 の手 の跡 があるぞ。」と博士 は早 くも眼 を付 けた。「見給 え、白 い漆喰 の上 に血 の汚点 が附 いているから。それにしても昨日 以来 大雨 の降 らぬのは実 に幸福 じゃ!此分 では例 の匂 いも既 に二十八 時間 経過 しているけれども、依然 道路 に浸 みて居 るだろうと思 う。」 白状 すれば予 は、縦横 無尽 に蜘蛛手 の如 く大都 を貫通 する東京 市中 の往来 を、如何 に鋭敏 なりとも此 犬 が嗅 ぎ分 け得 らるるものぞと疑 うた。が、其 心配 は間 もなく霽 れた。煉瓦塀 を飛降 りるや否 や、我 がトビーは嘗 て躊躇 せず、嘗 て踏 み迷 わぬ。彼 特有 の鶩 の歩 く如 き滑稽 なる姿勢 を以 てヨチヨチと走 り進 んで行 く。確 に結列阿曹篤 の強烈 なる匂 いは、往来 の他 の雑多 の匂 いを圧 して彼 の鼻 を刺戟 するに相違 ない。予 は走 りながら、胸 に溜 っていた疑問 を博士 に訊 ねる機会 を得た。- 「
一体 、先生 がどんなに詳 く片脚 の男 と鑑定 を付 けられたのは何 ういう理由 で厶 いますか。」 - 「それは
君 、何 でもない簡単 な事 だ。凡 てが明々白々 さ。先 ず考 えて見給 え。印度 で懲役人 看守 の役 をしていた二人 の将校 が、埋 れて居 る宝玉 に関 する或 る重大 な秘密 を聞 き知 ったのだ。彼等 の為 めに英国人 の簗瀬 茂十 なる者 が一枚 の地図 を引 いた。と言 うのは、須谷 大尉 の行李 中 から現 われた地図 に簗瀬 茂十 という名 が書 いてあったのを君 も覚 えているだろう。茂十 は自分 と他 の三人 の仲間 との為 めにそれへ署名 をして置 いたのだ――気取 って『四人 の署名 』と時々 書 いてあったのは夫 なんだ。此 地図 を頼 りにして須谷 、山輪 の二名 の将校 ――若 くは其中 の一人 ――が埋 れた宝玉 を掘 り起 してそれを上海 に持 って来 たのだね。だが察 する所 、其 将校 は茂十 等 に対 して約束 の報酬 をせずに上海 に来 て了 うたらしい。然 らば茂十 自身 が何故 宝玉 を手 に入 れなかったのか。其 答 えは明白 である。地図 に記載 されてある日附 を見 ると、丁度 須谷 大尉 が懲役人 を看守 して居 った時代 の日附 になって居 る。即 ち茂十 等 は其頃 懲役人 であって身体 の自由 を得 なかったが為 めに、自分 から宝玉 を手 に入 れる事 が出来 なんだのじゃ。」 - 「
併 しそれは推察 に止 まるので厶 いましょう。」 - 「
単 に推察 のみではない。諸 の事実 を覆 うところの仮説 はそれ以外 にないのじゃ。まアどの辺 まで其 仮説 が結果 と符合 するかを見給 え。山輪 少佐 は数年間 というものは、宝玉 を握 って安全 に幸福 に暮 して居 った。すると或 日 印度 から一本 の手紙 が舞 い込 んだ。それを見 ると先生 大恐慌 を来 した、さアこれは何故 であろう。」 - 「
少佐 が損害 を加 えて置 いた懲役 の者共 が、放免 になった報知 の手紙 かなぞではないでしょうか。」 - 「
放免 か、然 らずんば脱獄 じゃ。脱獄 と見 る方 が有力 らしいテ。何故 というのに、少佐 は彼等 の服役 期間 くらいは夙 くに承知 の筈 じゃから、今更 手紙 が参 ったとて驚 く筈 がないではないか。それを大恐慌 を来 したというのは、彼等 が脱走 して予想外 に早 く自分 の面前 に現 われ来 らんとしたからじゃ。事 茲 に至 って少佐 は如何 なる策 を取 ったものであろう。彼 は先 ず片脚 の木 の義足 をして居 る男 を用心 し出 した――断 って置 くが、それは印度人 では無 うて白人 だよ。何故 というのに、少佐 は白人 の行商人 を見 て其 男 と思 い違 え、短銃 を撃 ち掛 けた事 まであるのを以 て判断 しても解 る。ところで地図 に書 いてある四人 の姓名 の中 、白人 の名 は『簗瀬 茂十 』一人 のみである。他 の三名 に至 っては、宇婆陀 、漢陀 、阿武迦 なぞと言 うて、何 れも印度人 または回々 教徒 の名 である。即 ち片脚 の男 とは簗瀬 茂十 に他 ならぬという事 が確乎 として立証 さるるではないか。それとも俺 の推理 に何 か申分 があるだろうか。」 - 「
厶 いません。実 に簡潔 明瞭 で厶 います。」と今更 ながら自分 は感服 して答 えた。
一〇、驚 く可 き推論 は当 るか当 ぬか ――猟犬トビーの滑稽なる失敗
[編集]博士 は言葉 を次 ぎ- 「さて
今度 は仮 りに自分 が簗瀬 茂十 の境遇 に身 を置 いて見 る。彼 の見地 から考 えて見 る。彼 が印度 から東京 へやって来 たことには二 つの希望 がある。一 つは嘗 て自分 が権利 を所有 して居 たところの宝玉 を奪 い返 す事 、他 の一 つは自分 等 に損害 を与 えた男 に対 する復讐 である。彼 は山輪 少佐 の住居 を捜 り知 り、少佐 邸内 の或者 と密 に相 応 じ合 うたに違 いない。我々 は会 わなかったが彼 の邸 に印度人 羅羅雄 なる賄方 があった。女中 のお捨 婆 さん善人 なところから、ツイ此 賄方 を信用 し過 ぎて居 ったと見 える。で、其 賄方 と文通 はして居 っても、茂十 には宝玉 の隠 し場所 が解 らぬ。これは無理 もない話 で、それを知 る者 は天地間 山輪 少佐 と、既 に逝 くなった一人 の忠僕 あるのみであった。そのうち茂十 は突然 、少佐 が病 篤 く既 に臨終 に瀕 している事 を聞 く。彼 は狂人 のようになった。宝玉 の隠 し場所 が少佐 の死 と共 に永遠 に埋没 するのを恐 れて、彼 は少佐 邸 に忍入 り、病室 の窓 に迫 った。少佐 の枕頭 には二人 の兄弟 がいて闖入 する訳 に行 かなかったが、少佐 に対 する極端 なる憎悪 は彼 を籍 って其夜 病室 に忍 び入 らしめた。彼 は万一 宝玉 の隠 し場所 を知 る手懸 りもあらんかと、其時 は既 に死 んで居 た少佐 の手文庫 、書類 等 を掻 き捜 したけれども無効 に終 った。で、忍 び込 んだ記念 として、紙片 に例 の文字 を認 めて立 ち去 ったのである。一体 彼 は若 し我 が手 が少佐 を殺 す場合 があったらば、死骸 の上 に同様 の文字 を残 すつもりで前 から企 んでいたに相違 ない。其 心 は単 なる殺人 に非 ずして、同志 四人 の署名 の下 に正義 の復讐 を行 うたという事 を知 らせる為 めであったろう。此様 な奇怪 なる思想 は犯罪史上 敢 て珍 しくない。そして常 に犯人 に関 して有力 なる証徴 を供給 しているものである。どうじゃ、中沢 君 、我輩 の説 に悉 く首肯 くかね。」 - 「
甚 だ明晰 だと思 います。」 - 「ところで
彼 簗瀬 茂十 の其後 の行動 は如何 。彼 は山輪 兄弟 の宝玉 発見 の努力 に対 して絶 えず密 に注意 を払 い得 るに過 ぎなんだ。多分 は東京 には常住 せず、時々 様子 を覗 いに来 たものであろう。暫時 すると天井 の密室 が発見 され、それが直 ちに彼 の知 る所 となった。ここで又 もや我々 は山輪 邸内 の同類 の活動 に注目 せねばならぬ。茂十 は片脚 の事 とて山輪 建志 の高 い室 へ登 る事 は到底 不可能 じゃ。然 るに茲 に一個 の奇怪 なる同類 があって、此 困難 に打 ち勝 ったが、其 代 り跣足 の足 をば結列阿曹篤 の中 へ浸 して了 うた。茲 に於 てか我 がトビーの現出 となり、君 と我輩 とが六哩 を駈 けねばならぬ事 となったのだ。」 - 「
併 し実際 罪 を犯 した者 は茂十 でなくして、其 同類 でしょうか。」 - 「それは
正 にそうじゃ。耳 ならず茂十 は、殺人 を厭 うて居 った。と言 うのは、彼 が室内 へ闖入 した其 経路 で判断 が出来 る。彼 は元来 山輪 建志 其人 には何 の怨恨 もない。成 べくは単 に縛 して猿轡 を穿 めるくらいに思 うて居 ったのじゃ。彼 とても自分 が絞首台 に登 るのは可厭 だろうから。併 し止 むを得 なかったと言 うのは、其 の共犯者 の野蛮 的 の本能 が発 して終 に毒刺 [3]を用 いるに至 ったのじゃ。殺 したものはもう仕方 がない。で、茂十 は署名 の紙片 を残 し、宝玉函 を綱 にて地面 へ下 げ、次 で自分 も降 りたのである。先 ずこれが我輩 が読 み解 き得 た限 りの事件 の連続 だ。茂十 の人相 に至 っては、年齢 は三十六七 でも有 ろうか、顔色 は安陀漫 の如 き酷熱 の海中 の群島 に懲役 に服 して居 ったのじゃから無論 日 に焼 けて居 る。身 の長 は一歩 の長 さから容易 に推量 が出来 る。そして髭男 だ。山輪 周英 君 が窓 から初 めてその顔 を見 た第一 印象 は彼 の髭面 であったのでも知 れる。此 他 に不明 な点 は先 ずあるまいと思 われる。」 - 「では、
其 共犯者 の方 は如何 でしょう。」 - 「ああ、そうそう、
共犯者 に就 ては格別 大 して疑点 はない。直 き君 にも解 る時 が来 るだろう。実 に朝 の空気 は爽快 だね!見給 え、あの小 さな雲 を、まるで大 きな紅鶴 から抜 けた一本 の真紅 の羽根 のようじゃないか。アレアレ、太陽 の紅 い縁 が遠 く棚雲 の上 に輝 き出 したね。あの太陽 には数知 れぬ地球上 の人間 が照 されるが、思 えば我々 のような不思議 な使命 を帯 びて居 る者 は他 にはなかろう……時 に不思議 な使命 と言 えば、君 は短銃 を用意 して来 なんだろうなア。」 - 「
其 代 りステッキが厶 います。」 - 「ふム、
兎 も角 も曲者 の巣窟 へ乗 り込 めば武器 が必要 だよ。茂十 の方 は君 に任 せよう。他 の奴 が抵抗 したら俺 が撃 ちのめそう。」 - と
短銃 を取出 して検 めて見 て、また右 の懐中 んい入れる。 斯 る間 にも我々 はトビーに牽 かれて、別荘 建 の列 んだ田舎 めいた路 を首都 の方 へと急 ぎ馳 せて遂 に本所 へ来 た。もう場末 の街 の中 へ入 って来 て居 る。種々 の労働者 や船渠 人足 等 はもう動 き出 し、だらしの無 い女 たちは鎧戸 を開 けたり、玄関 を掃除 したりして居 る。深川 の木場 の仕事 も始 まったと見 え、粗雑 な顔付 の男 共 が出 かける所 である。見知 らぬ多 くの犬 が四辺 を徘徊 し、過 ぎ行 く我々 に驚異 の眼 を向 けるが、我 が無双 の良犬 トビーは左顧右眄 せず、鼻面 を地 に擦 りつけしまま、時々 烈 しい匂 いを知 らせ顔 に熱心 に吠 えつつ前進 また前進 する。猿江町 、大工町 、霊顔町 を通 って今 は冬木町 に在 る。其 間 どれだけ小路 を抜 けたか数知 れぬ、予等 の追躡 する曲者 共 は追手 を晦 ます為 めに変哲 もなきウネクネせる路 を故意 と選 んだらしい。正徳寺 小路 の入口 にて彼等 は左 の方 大和町 へ曲 って居 る。此 大和町 が和倉町 に曲 らんとする処 にて、犬 は前進 を止 め、片耳 を欹 て、片耳 を垂 らし、甚 だ踏 み迷 う体 にて前後 左右 に走 り出 した。次 にはグルングルンと廻 り始 め、時々 予等 の顔 を仰 ぎ見 て己 が困却 に同情 を求 むる如 き姿態 をする。- 「
此 犬 はどうしたと言 うんだろう。」と博士 は唸 くような声 を出 して「まさか曲者 共 が馬車 へ乗 って了 いはすまいな。飛行機 で空 へ飛 んで了 いはすまいな。」 - 「
此処 へ暫時 立 ってでも居 たのでしょう。」 - 「ああ、
占 め占 め!また駈 け出 した!」とホツと一安心 。 犬 は今 しも嗅 ぎながらグルリと廻 ったが、不意 に決心 の付 いたものか。今迄 になき精力 と決意 とを以 て矢 の如 く突進 し出 した。匂 いが以前 より強烈 となったのであろう。最早 鼻 をば地面 に緊付 けず、張 れる限 り革紐 を張 って驀進 する。博士 の眼 が異様 に輝 き始 めた。もう目的地 も遠 くはあるまい。予等 は今 鶴歩町 を通 り抜 けて遂 に深川 の木場 に到着 した。と犬 は俄然 狂熱 の状態 を呈 して、或 家 の耳門 から木挽 共 の働 いて居 る囲 の中 へ躍 り入 った。そして鋸屑 と鉋屑 の間 を潜 り抜 け、小径 を走 り、行廊 をめぐり、終 に勝 ち誇 った叫声 を挙 げて一個 の大樽 に飛 び掛 った。それは運 んで来 たままで手押車 の上 に載 っているものである。トビーはだらりと舌 を垂 らし、瞬 きをしつつ樽 の上 から賞讃 を求 むるもののように予等 の顔 を互 み代 りに眺 めるのであった。樽 の板 も、手押車 の輪 も、一様 に黒色 の液汁 で汚 れ、四辺 一面 に結列阿曹篤 の強 い香 が漂 うて居 る。博士 と予 は思 わず茫然 として眼 を見合 せたが、耐 え切 れずにドッと吹 き出 して了 った。
一一、噫 、遂 に端艇 にて逃走 か ――貸船屋に於ける思わぬ手懸り
[編集]- 「
何 うしたら好 いでしょう。此 犬 は特質 の確実性 を失 くして了 ったようですね。」と予 が言 えば、 - 「なに、
矢張 り此奴 自身 の権利 に従 うて働 いたのさ。」と博士 は大樽 の上 より犬 を引 きおろして囲 の外 に出 でながら「何 しろ広 い東京 中 で運搬 される結列阿曹篤 の数 を考 えたらば、我々 の跟 けてゆく路 が色々 に迷 うのも訝 むに足 らぬ。殊 に今 は材木 の乾固用 に多 く用 いられて居 るのだから可哀相 に、トビーに罪 はないわい。」 - 「もう
一度 主 な匂 いの方 へ戻 らなければなりませんな。」 - 「そうだ。
幸福 と大 した路程 ではなかった。あの大和町 の角 で犬 が迷 うたのは、確 に二 つの匂 う道 が反対 の方向 についていたに相違 ない。それを我々 は間違 うた道 を取 ったのじゃから、今度 は他 の方 へさえ進 めば宜 しい。」 - これは
格別 の困難 は無 かった。以前 の迷 った辻 迄 引返 すと、犬 は大 きな輪 を一 つグルリと画 いた後 、新 しき方向 に突進 した。 此度 は黒江町 、福住町 等 を過 ぎて大川端 の方 に頸 を向 ける。中島町 を出端 れると、右手 は直 ぐ河岸 で、其処 に一個 の木製 の埠頭 がある。トビーは其 真 の端 れまで予等 を誘 い、眼下 の黒 き流 れに俯 して吠 えつつ突立 った。- 「
失敗 った。此処 からボートで逃 げられた。」 - と
博士 が言 った。 小形 の平底船 や軽艇 が何艙 となく、埠頭 の水際 に横 って居 る。で、夫等 へ順々 に鼻 をつけさせたが、トビーは熱心 に嗅 いで見 るものの、何 の合図 もせぬ。粗末 なる揚 げ場 に添 うて一軒 の小 さな煉瓦建 の家 がある。二番目 の窓 に垂 れた木 の掲示板 には大 な文字 にて「隅原介作 」とあり、其 傍 に更 に「貸 し端艇 あり」とある。尚 お大扉 の上 にも広告 が出 ているので、予等 は此家 に一艘 の小蒸気 がある事 を知 った。埠頭 に石炭 を積 んであるので確 であろう。グルリと見廻 した博士 は縁起 の悪 そうな顔付 で、- 「どうも
形勢 が悪 い。曲者 等 は俺 の考 えたよりも怜悧 な奴等 だ。全 く踪跡 を晦 まそうとしたらしく見 える。偶 とすると此処 に何 か打合 せがあったかも知 れぬぞ。」 斯 く言 いて其家 に近寄 る折 しも、内 より扉 は開 きて、六歳 ばかりの縮毛 の頭髪 の子供 が一人 飛 び出 して来 た。後 へ続 いてデブデブに肥 えた赭顔 の女 が、手 に大 きなタオルを持 って走 り出 た。そして喚 くには、- 「コレ、
作坊 、早 く来 て洗 うのだよ。早 く来 るんだよ。真実 に言 う事 を聴 かない児 だッちゃ有 りやしない。御父様 が帰 って来 てそんな真黒 けな顔 をしていると、また叱 られるじゃないか!」 博士 は胸 に一物 、進 み出 て「オオ、好 い坊 ちゃんだね!まるで頰辺 が薔薇 のような好 い色 をしているじゃないか!作坊 さんか、作 ちゃん、何 か欲 しい物 を上 げよう、何 がいいだろうな。」子供 は些 と思案 の後 、- 「
僕 、五銭 欲 しいや。」 - 「それより
欲 しいものは?」 - 「
十銭 なら尚 お好 いやい。」 - 「じゃ
叔父 さんが十銭 あげよう!ソラ手 をお出し!ハハハ、お神 さん、可愛 い坊 ちゃんだねえ。」 - 「まア、
済 みませんねえ、有難 う厶 います。御覧 の通 り腕白者 なんですよ。いえね、私 なぞの手 におえた者 じゃ厶 んせん。殊 に夫 でも長 く不在 をしますと、もうもうやり切 れない困 り坊主 なんですよ。」 - 「ハア、
御主人 は御不在 か。」と博士 は落胆 した声音 で「それは間 が悪 いな少 し用 があったのに。」 - 「ええ、
昨日 の朝 出 ましたきり未 だ帰 りませんのでね。私 も実 は何 うした訳 かと困 っているんで厶 んすよ。併 し端艇 の御用 なら私 でも解 りますが。」 - 「
実 は蒸気艇 を借 り度 くて来 たのでね。」 - 「オヤオヤ、
生憎 で厶 んすねえ。その蒸気艇 に乗 って出掛 けて了 ったのですよ。だから訳 が解 らない。と申 しますのはね、旦那 、あの蒸気艇 には石炭 が余 り積 み込 んで厶 んせんで、そうですね、僅 の鐘ヶ淵 辺 まで往復 するくらいも有 ったでしょうか。艀 で行 ったのなら気 を揉 みはしませんけれどね。なに、艀 なら勝浦 や浦賀 のような遠 いところまで行 って来 る事 が珍 しくは有 りませんし、用事 が重 なれば随分 泊 って来 ることも有 りますけれど、石炭 のない蒸気艇 で乗 り出 して何 うするつもりなんで厶 んしょう。」 - 「
何処 かで石炭 を買 い込 んだのかも知 れないね。」 - 「さア、そうかも
知 れませんが、滅多 にない事 で厶 んすよ。それに私 はあの片脚 の、木 の脇杖 をついている外国人 の男 がどうも虫 が好 きませんでね。あの醜悪 い顔 を見 たり、野卑 な外国訛 りの言葉 を聞 きますと胸 が悪 くなりますよ。何 だってまた時々 我家 へあんな奴 が訪 ねて来 るのでしょうねえ。」 - 「ええ、
片脚 の男 ?」 - と
博士 は鷹揚 に驚 いて言 う。 - 「ええ、
鳶色 の、お猿 のような顔 をした男 は再々 夫 を訪 ねて参 るんで厶 んすよ。昨夜 夫 を起 しに来 たのも其 男 で厶 んしてね、それに夫 も其 男 の来 るのを知 って居 ったもんで厶 んしょうかね、ああして直 ぐ蒸気艇 で出 かけましたのは。私 は何 だか気懸 りでたまりませんよ。」 博士 は肩 を聳 かしつつ、- 「お
神 さんも詰 らぬ事 を心配 したものだね、昨夜 来 たのが其 片脚 の男 だと定 まりもせぬだろう。どうしてまた其 男 と判断 しなすったのかね。」 - 「
旦那様 、そりゃ声 で解 りまさア。あの声 というものが濁 った澱 んだような声 で厶 んしてね。昨夜 も、そうで厶 んしたよ、三時 頃 でもあったで厶 んしょうか、窓 をトントン叩 いて『オイ、オイ、起 きてくれ。もう見張 を何 とかする時分 だぜ』と申 しますと、夫 が貴方 、長男 の晋一 を起 しましてね、私 には一言 も申 しませんで出 て行 って了 ったので厶 んす。あの木 の義足 が石 に響 く音 が聞 えましたからあの男 に違 いありませんわ。」 - 「
其 男 は一人 であったろうか。」 - 「そこ
迄 は確 で厶 んせんが、他 の男 の声 は聞 えませんでしたよ。」 - 「
兎 に角 汽艇 を借 りたかったのに困 ったな。其 代 り思 わぬことを――否 、なに、お神 さん、ええと、汽艇 の名 は何 と言 ったっけね。」 - 「
北光丸 で厶 んすよ。」 - 「ああ、
北光丸 、そうそう!たしか、緑色 の古 い船 で船幅 が馬鹿 に広 くて、黄 い筋が一本入って居たあれだっけかね。」 - 「
否 え、違 いますよ。小奇麗 な船 でしてね。新 く塗 り代 えたばかりで、色 は黒 ですよ。赤 い筋 が二本 入 って居 るので厶 んすよ。」 - 「
有難 う、御主人 の便 りも早 く解 るといいですね。我々 はこれから河 を下 るから、もし北光丸 に遭遇 うたらば、お前 さんが心配 していると伝 えましょう。黒 い煙筒 だっけかね。」 - 「いいえ、
煙突 は黒 の中 に白筋 が巻 いてありますよ。」 - 「ああ、そうかそうか。
真黒 なのは舷側 だったね。じゃ、お神 さん、サヨナラ……。」 - 「
中沢 君 、そこに船頭 附 きの艀 が一艘 居 るね。あれで向岸 へ渡 ろう。」
一二、自分 勝手 の新聞 記事 ――阿瀬田警部の活躍振り
[編集]偖 て艀 へ乗 り移 ると博士 が言 う。- 「
念 の為 めに君 に教 えて置 くが、ああいう種類 の者共 から物 を捜 り出 そうとする時 には、相手 の言 う事 が自分 にとって少 しでも必要 だと言 うような顔付 をせぬ事 じゃ。そう気取 ったが最後 、向 うは蠣 のようにピタリを口 を噤 んで了 う。それをば今 のように、何気 なく装 うて色々 な茶々 を入 れて喋 らせると、ツイ望 み通 りのことを洩 らして了 うものである。」 - 「それはそうと
前途 はもう平々坦々 ですな。」 - 「
君 なら何 うするつもりか。」 - 「
私 なら汽艇 を一艘 傭 って北光丸 の後 を追 います。」 - 「
君 、それは大仕事 だよ。北光丸 は墨田川 筋 の両岸 にある埠頭 に幾 つ寄 ったか解 りはせぬ。永代 から下流 数 哩 の上陸点 と来 たらば、全 く迷宮 のような有様 じゃからね。単身 手 を下 そうものならば、それこそ幾日 たっても功績 は挙 りはすまい。」 - 「では
警察 の力 を借 ります。」 - 「そりゃ
不可 。俺 の考 えでは阿瀬田 譲作 なぞは一番 最後 の時 に呼 ぼうと思 う。彼 とても悪人 ではない故 、我輩 も職業上 で彼 を傷 つけるような事 は成 るべくしたくないのじゃ。併 しここまで我々 の捜索 が進行 した以上 、やはり独力 でやり遂 げて見 たい気 がするのじゃ。」 - 「では、
各 埠頭 の監守人 から報告 を受 けたいと広告 しては如何 なものでしょう。」 - 「
尚 お拙 い!広告 なぞ出 したらば、曲者 共 は追跡 の急 なるを知 って外国 に逃走 する。つまりは外国 に去 るものではあろうが、身 が安全 と思 うて居 る限 りは急 ぎはせぬ。阿瀬田 警部 は其 点 に於 て初 めて必要 になるのじゃ。何故 というのに、本件 に対 する彼 の意見 は必 ず新聞 に現 われる。すると曲者 共 は其 筋 の探偵 が悉 く間違 うていることを知 るから安心 して腰 を据 えて居 る。」 兎角 する間 に、予等 は向 う岸 の埠頭 に上陸 する。- 「では
一体 どうしたらば好 いんでしょう。」と予 が訊 くと、 - 「
彼処 に居 る自動車屋 [4]の自動車 で一旦 自邸 に帰 ろう。そして朝飯 でも喰 べて一時間 計 りゆっくりと寝 よう。今晩 もう一度 追跡 を続 けなければならぬ事 は分 り切 って居 るからね。運転手 君 、電信局 の前 で些 と止 めて貰 い度 い。トビーはまだ要 るから連 れて行 こう」 自動車 [5]が電信局 の前 に止 まると、博士 は降 りて電信 を打 って来 たが、再 び自動車 が走 り出 すと、- 「
何処 へ打 ったか知 って居 るか。」 - 「
私 には分 りません。」 - 「あの
有楽町 に探偵局 の支局 があるだろう、これを昨年 俺 が或 る事件 で雇 うたのを覚 えて居 るだろう。」 - 「
居 ります。」と予 は笑 った。 - 「
今度 の事件 にも正 に彼等 が必要 になった。彼等 が失敗 すれば他 に方法 もある。先 ず試 しに雇 うてみよう。今 の電報 は銀公 に打 ったのさ。ああ命 って置 いたから、先生 、我々 の朝飯 の済 まぬうちに手下 を率 いてやって来 るだろう。」 今 は午前 八時 と九時 との間 である。前夜 為 し続 けた興奮 の後 の強 き反動 が自覚 される。心 は徒 らに昏迷 し、肉体 は疲労困憊 の極 に達 して居 る。予 は我 が博士 を籍 って此 の頃 の如 く活動 せしむる程 の職業上 の熱 も有 せず。さりとて彼 の事件 を単 なる抽象的 の智的 問題 として眺 むる事 も出来 ぬ。山輪 建志 の横死 の問題 のみにては、建志 の人格 につき余 り好 き噂 も聞 かざる故 、従 って其 下手人 に向 って非常 なる嫌悪 も感 じなかったが、宝玉 事件 に至 っては事 自 ら別趣 となる。かの宝玉 は、尠 くとも其 一部 は丸子 に属 したる物 である。それを取戻 す機会 の有 る限 りは、予 は其 目的 に向 って努力 する。雖然 、一旦 予等 がそれを発見 せんか、彼女 は予 の手 の届 かざる高嶺 の花 となるであろう。とは言 え斯 る思想 に支配 せらるる愛 は微々 たる自我的 の愛 であろう。我 が呉田 博士 にして罪人 捜索 に奔走 せんか、予 に於 ても当然 宝玉 発見 に熱中 すべき十倍 の有力 なる理由 があるのである。高輪 の博士 の家 に戻 っての一風呂 と、絶対 の安静 とは驚 くほど身心 を爽快 ならしめた。室 に帰 って見 ると朝飯 の用意 成 り、博士 は既 に珈琲 を注 いでいる所 。自分 の姿 を見 ると、笑 いながら新聞紙 を指 して、- 「
果 してだ。精力家 の阿瀬田 と、何処 へでも潜 り込 む新聞記者 とが自分勝手 に捏 ちあげて了 うたが、君 も随分 働 いたから、まア朝飯 の方 を先 きにやり給 え。」 新聞 を取上 げて見 れば「砂村 の怪々 事件 」と題 して、左 の如 き記事 が載 って居 る。
昨夜半 十二時 頃 郊外 砂村 に住 える英国人 山輪 建志 なる者 其 居間 にて横死 を遂 げ居 たる事 発見 せられたり。吾人 の探訪 せる限 りにては被害者 の身体 に何等 暴行 を受 けたる痕跡 なけれども建志 が亡父 より継承 せし印度 宝玉 の入 りし貴重 なる函 紛失 し居 れり。初 めて珍事 を発見 せしは呉田 博士 、中沢 医学士 の二氏 なるが、二氏 は昨夜 被害者 の弟 同姓 周英 と共 に被害者 邸宅 を訪 いしなり。而 して茲 に僥倖 とも謂 つ可 きは、有名 なる阿瀬田 警部 が、偶然 砂村 警察署 に出張 中 なりし事 にて、氏 は訴 えを聞 くや半時間 を出 でざるに早 くも現場 に在 り、氏 の熟練 したる慧眼 は直 ちに下手人 探偵 方面 に向 けられ、弟 周英 は其 場 に捕縛 せられ、尚 お女中 お捨 、印度人 の賄方 羅羅雄 、門番 甚吉 等 も共 に引致 せられたり。強盗 は一名 若 くは二名 にして共 に同家 の模様 を熟知 せる者 なる事 は阿瀬田 警部 の観察 によりて寸分 の疑 いを容 れず。同 警部 は評判 の専門 知識 と緻密 周到 の観察眼 とを以 て、下 の如 き断案 を下 すに至 りたり。そは曲者 の忍 び入 りたる経路 は、扉 にも非 ず窓 にも非 ず、実 に同家 の屋根 を穿 ち、刎出扉 によりて、被害者 の発見 せられたる居間 とを通 ずる一室 に降 り来 りしものなりと。此 事実 は頗 る明確 に証明 せられ居 れり。此 に依 って見 るに、今回 の犯罪 の原因 たる単 なる偶然 の強盗 に非 ざる事 明 かなりと言 うべし。
- 「
実 に堂々 たるものじゃないか!」と博士 は珈琲 の茶碗 越 しに冷笑 って「君 はどう思 う。」 - 「これで
見 ると、下手 をすると私共 までが危 く縛 げられるところで厶 いました。」 - 「
俺 もそう思 う。いや、まだ安心 は出来 ぬ。先生 、も少 し蛮力 を揮 い出 したら実際 我々 の方 へやって来 ぬとも限 らぬわい。」 斯 る折 りしも案内 の鈴 が気魂 しく鳴 り渡 った。予 はハッとして腰 を浮 せて、「警部 じゃないでしょうか。」
一三、浮浪人 探偵 局員 の召集 ――共犯者は印度人か……
[編集]自分 の狼狽 に引 きかえ博士 は少 しも動 ぜず、- 「なに、それほど
怖 がるものでもない。あれは民間 の探偵 共 さ――例 の有楽町 の探偵 支局 の不正規兵 さ。」 - と
言 う間 も、階段 を踏 み来 る忙 しげなる跣 の跫音 、声高 なる響 き、そして十二人 の汚 き襤褸 を纏 える浮浪漢共 がドヤドヤと闖入 して来 た。入 る間際 の喧噪 と言 ったら無 かったが、彼等 の間 にも幾分 の訓練 は有 ると見 え、直 ちに一列 横隊 を形作 って、何 をか期待 する如 き面貌 を列 べた。中 の一人 、他 の者 よりも丈高 く年長 なるが、首領顔 して前方 に突立 っているのが、其 威張 り顔 までノラクラして、斯 るボロボロの鄙陋 なる案山子 的 軍隊 であるだけに一層 滑稽 である。 - 「
旦那 、電報 を頂 きやした。」と件 の親方 が口 を切 る。「電車代 をお願 えしてえもので、ヘイ。」 - 「やア、
御苦労 、御苦労 。」と博士 は若干 の銀貨 を取出 しながら「だが、銀州 、これからは手下 の者 がお前 に報告 し、お前 からまた己 に報告 して呉 れるようにしておくれよ。[6]斯 う皆 なで押上 がられては閉口 じゃからな。併 し今日 は初回 だから俺 の注文 を揃 うて聴 いて置 いてくれるのも丁度 好 いかも知 れぬ。注文 と言 うのは、北光丸 という汽艇 の所在 を捜 して貰 いたいのだ。持主 は隅原 介作 と言 う者 で、船 は黒塗 りで二本 の赤筋 が入 っている、煙筒 は黒 で白 い筋 が一本 巻 いている。何処 か下流 にいる筈 なのだ。で、一人 はあの蒸田 の堤 と対 い合 うた其 隅原 の物揚 げ場 に張込 んで北光丸 が返 って来 るかどうか番 をしていて貰 いたい。其 他 はお前達 が適宜 に手 を配 けて、隅田河 の両側 をすっかり捜 すようにして呉 れ。そして手懸 がついたら、即刻 報告 して欲 しいのじゃ。解 ったかな。」 - 「へえ、
解 りやした。」と銀公 が言 う。 - 「
日当 は此前 の通 り、尚 お汽艇 を見付 けた者 は余分 の礼 をする。ソラ一日分 の前金 じゃ。受取 ったら下 って宜 しい!」と五十銭 ずつを各々 に渡 す。皆 ガヤガヤ言 いながら階段 を降 りて行く。そして間 もなく街頭 に流 れゆく彼等 の姿 が見 える。 博士 は卓子 を離 れてパイプを点 し、- 「
汽艇 が水面 を浮 んでいる限 りは、彼等 は必 ず捜 し出 して来 る。彼等 と来 たら、凡有 る処 に潜 り込 み、凡有 る物 を見 、凡有 る人 に聞 くからね。恐 らく日暮前 には何 かの手懸 りを嗅 ぎ出 して来 るだろう。先 ずしばらくは報告 を待 つよりほか何 もすることが出来 ないね。北光丸 か、若 くは隅原 介作 を見付 け出 さぬ限 りは、我々 も此 中断 した手懸 をまた拾 い上 げる訳 には行かない。」 - 「トビーはこんな
残物 を喰 べるでしょうか。先生 、少 し御眠 みになりますか。」 - 「いいや、
俺 は疲労 れて居 らん。我輩 の体質 は一種 別誂 であってね。怠 けていると体 がグダグダになるけれども、まだ活動 して疲労 した覚 えがないよ。あの美人 が持 ち込 んで来 た事件 が飛 んだ不思議 なものになった。俺 は煙草 を吸 いながらしばらく熟考 しつつ不思議 なものとは言 うものの、このくらい訳 のない事件 は有 りはせぬ。片脚 の男 も余 り普通 の方 ではないが、併 しもう一人 の同類 に至 っては、此奴 は実 に例 が無 いわい。」 - 「はア、
矢張 りその同類 ですか!」 - 「いや、
君 の眼 に其 男 を不思議 な感 じをさせるという意 でもないが、君 も自分 の意見 というものを偶 には拵 えて見給 え。先 ず事実 を考 えて見 ると、小形 の足跡 、靴 で拘束 された跡 のない離 れた足 の指 、跣 の足 さ。其他 石 の頭 のついた木 の槌矛 、小 さな毒 の投矢 など色々 ある。此等 のものを綜合 して見 たらば何 かの発見 がつきそうなものではないか。」 - 「はハア、
野蛮人 ですな!」と自分 は思 わず叫 んだ。「多分 簗瀬 茂十 の同類 であった印度人 の中 の一人 じゃないでしょうか。」 - 「
否 、そうではない。俺 も最初 奇体 な兇器 を見 た時 にはそう思 うたけれども、あの特別 な足跡 を研究 するに及 んで考 え直 した。印度 半島 の中 の或 人種 は至 って矮小 であるが、さりとて彼 のような足跡 を残 す者 はない。印度 本部 の人民 の足 は長 くて細 い。回々 教徒 は足 の指 が大 きくて皮靴 を穿 いて居 る。が其 革緒 が間 に狭 まって居 るゆえ指 は自然 離 れて居 る。また、此等 の小 さな投矢 、即 ち毒針 だね、これを撃 つには只 一個 の方法 があるばかりじゃ。つまり吹竹 から吹 き出 すのだ。して見 ると他 には何処 の野蛮人 であろう。」 - 「
南亜米利加 でしょうか。」と一 か八 か自分 は言 うて見 た。 博士 は手 を伸 べて、書棚 より一冊 の嵩張 った本 を取 り下 ろした。- 「これは
今 刊行中 の地名辞書 の第 一巻 である。先 ずこれは最近 に於 ける確 な著書 だ。これに何 とあるだろう。『印度 安陀漫 群島 はスマトラの北 三百四十哩 、ベンガル湾 に在 り』か。フン!フン!詳 い説明 がある。『気候 湿潤 、珊瑚礁 あり。鮫 多 し。武礼留 港 には囚徒 の屯営 あり。良土蘭 島 よりは綿 を産 す――。』はア、土人 の説明 がある。 - 『
安陀漫 群島 の土蕃 は恐 らく地球上 人種 中 最 も矮小 なるものならん。平均 の身長 四尺 を出 です、成熟 したる大人 にありてさえこれより遥 かに低 き者 あり。性 兇暴 、慓悍 にして陰険 なり、然 れども友愛 の情 に富 み、一旦 信 ずれば互 に水火 の難 を辞 せざる友情 を結 ぶに至 る。』ふム、中沢 君 、これを覚 えて置 き給 え。それからこんな事 もある。 其 容貌 は頭 不格好 に大 きく、眼 は小 さくして鋭 く、顔面 捻 り歪 み醜悪 なり。四肢 は頗 る小 さし。彼等 が狂暴 慓悍 なる事 は、英国 政府 の凡有 る努力 も嘗 て其 征服 に成功 せし例 なきに見 るも知 り得 べし。彼等 は偶々 難船 などの生存者 あれば石頭 の棍棒 を以 て脳 を打砕 き、或 は毒矢 を以 て射殺 すを以 て、航海 業者 が常 に彼等 を懼 るる事 甚 し。』どうじゃ、中沢 君 、素的 な蛮民 じゃないか!若 しあの同類 の奴 が思 うままに振舞 わせたならば、今回 の事件 は一層 惨劇 となったかも知 れぬ。流石 の茂十 さえ、其様 な同類 を頼 んだことを後悔 するくらいな野蛮 な殺 し方 をしたかも知れん。」- 「
茂十 が何 だってそんな同類 を作 ったでしょう。」 - 「それまでは
未 だ俺 にも解 らぬ。が、既 に茂十 が安陀漫 島 から来 たのが解 った以上 、彼 が島民 を同類 とするに至 ったのも深 く訝 むるに足 らぬではないか。それに併 し追々 明瞭 になるだろう。ああ君 は大分 睡 そうだね。好 し、その長椅子 に横 になり給 え、俺 が一番 君 を寝 かしつけてやろう。」 博士 は室 の隅 からヴァイオリンを取出 した。そして自分 が長椅子 に横 わるのを見 ると夫 を弾 き出 したが、夢 のような、低 い、調子 の佳 い曲 である――博士 は仲々 の即興 演奏 に長 じて居 られるから、恐 らく自分 の作曲 であろう。聴 いて居 るうちに、博士 の痩 せぎすの四肢 も、熱心 の顔 も、楽弓 の一高 一低 も次第 に朧 になる。次 には身 は全 く柔 かなる音律 の海 に、安 らかに漂蕩 なしつつ夢 の国 へと進 みゆく。何処 やらか我 が顔 を優 しく覗 く者 がある。瞳 を定 むれば我 が懐 しき丸子 の顔 。
一四、一夜 にして憔悴 枯槁 ――汽艇の捜索悉く無効に終る……
[編集]自分 が再 び心気 爽然 、勇気 満々 として起出 でし頃 は、午後 の日 も早 や長 けていた。博士 は依然 として先程 の如 く椅子 に腰掛 けている。只 ヴァイオリンは傍 に置 き、一冊 の本 に熱中 して居 る。自分 がムクムクと起出 ずるを見 るや、流眄 に此方 を眺 めたが、どうしたものか、其 顔 は暗 く困惑 に満 ちている。- 「
能 く睡 たね。我々 の話声 で眼 が醒 めはせぬかと思 って実 はビクビクしていた。」 - 「いや、一
切 無我夢中 で厶 いました。じゃア何 か新 しく吉報 が。」 - 「
遺憾 ながら否 じゃ。白状 すれば俺 は少々 驚 いた、失望 した。今度 は何 かしら確実 な事 が握 られると期待 して居 ったのに、今 しがた銀公 が報告 に来 たが、汽艇 の行衛 は更 に不明 なようだ。今 は一時間 でも大切 な時 であるのに、実 に焦 れったくて仕方 がない。」 - 「
睡眠 によって、私 も最 うすっかり勇気 を恢復 しましたから、是 から夜 の活動 に着手 致 しましょう。」 - 「いや、
何 も手 を附 けることが出来 ん。ただ徒 らに待 つあるのみじゃ。若 し我々 が出掛 けると其 不在 へ報告 が来 る。すると従 って活動 が遅 れる。君 は好 きな用事 をし給 え。我輩 はもう少 し斯 うして居 らねばならぬ。」 - 「じゃア、
私 は其 間 に築地 の濠田 夫人 のところへ一走 り行 って参 りましょう。昨日 、また訪 ねる約束 をして置 きましたから、」 - 「
濠田 夫人 をかえ。」と博士 は微笑 を浮 めた眼 を瞬 たく。 - 「
左様 です、無論 丸子 嬢 も一所 ですが。二人 とも今度 の事件 を大層 心配 して居 りますから。」 - 「
併 し余 り詳 しく話 さん方 が宜 いね。由来 女 という者 ほど信用 にならぬ奴 はないから――尤 も優 れた婦人 は別 だけれども。」 - 「
其 の辺 は心得 て居 ります。では一二時間 の内 には帰 ります。」 - 「
好 いとも好 いとも!行 って来給 え!ああ、序 でにあの呉服町 へ廻 って、トビーを返 して行 って貰 いたい。もう必要 はあるまいと思 うから。」 自分 は犬 を連 れて例 の剝製屋 に至 り、若干 の謝礼 と共 にそれを爺様 に返 し、さて濠田 夫人 の宅 へ到 ると、丸子 は前後 の事件 の疲労 をまだ全 く去 りやらぬ風情 であったが、併 し夫人 と共 に熱心 に予 に物語 を迫 るのであった。予 は事件 の比較的 怖 しき方面 だけを隠蔽 して、昨夜来 の顚末 を残 らず物語 た。山輪 建志 の横死 に就 ても話 したが、其 横死 の状態 は話 さなんだ。其様 に省略 したにも係 らず、予 の物語 は非常 に彼等 を魂消 させたのである。- 「まるでお
伽譚 のようですわね!」と濠田 夫人 が叫 んだ。「貴婦人 が災難 に遭 うたり、五拾万円の宝玉 が出 て来 たり、黒奴 の食人種 や、片脚 の悪漢 なぞが出没 したり、昔 の譚 の中 によく出 て参 る竜 だの、悪 い伯爵 だのの代 りに、今 は其様 なものが跋扈 するのですね。」 - 「そして
二人 に武者修行者 が救助 に見 えたり。」 - と
丸子 が活々 した瞥見 を予 に向 ける。 - 「まア、
丸子 さん、貴女 の運 の開 ける開 けないは、全 く今度 の捜索 の結果 によるのではないの。貴女 は余 り気 に掛 けている様子 もないのね。少 しは想像 えても御覧 なさいよ。お金持 になって、世間 を眼下 に見下 すのは何 うすれば好 いか。」 予 の心 は思 わず喜悦 の情 に顫 えた。丸子 は其 希望 の為 めに少 しも得意 の姿態 がない。耳 ならず彼女 は、宝玉 事件 が何 の興味 もなき世間 普通 の問題 ででもあるかの如 く、昂然 として其 頭 を擡 げているではないか。- 「
私 の気掛 りなのは山輪 周英 様 の御身 の上 で厶 いますわ。」と彼女 は言 った。「他 のことは何 でも厶 いませんの。けれども彼 の方 はほんとに始 めから終 まで、実 に親切 に正 しく仕向 けて下 すったですものね。ですから一日 も早 く恐 しい冤 の罪 からお救 い申 すのは私共 の義務 と思 いますわ。」 濠田 邸 を辞 したのは黄昏時 、高輪 に着 くと全 く暮 れて居 た。博士 の本 とパイプとは椅子 の上 へ放 り出 してあるけれども、主 の姿 がない。何 か書 き残 して行 きはせぬかと見廻 したが、夫 らしいものも見当 らぬ。其処 へ下婢 が鎧戸 をおろしに登 って来 たので、- 「
先生 は出 て行 ったのだね。」 - 「
否 え先生 は、御加減 でも悪 いのじゃないかと思 いますよ!」 - 「なぜ。」
- 「でも、
御様子 が変 なんですよ。貴君 が御出 ましになってから、お室 の中 を彼方 へ行 ったり、此方 へ行 ったり、此方 へ行 ったり、彼方 へ行 ったり、もう其 跫音 を階下 で聞 いていてさえウンザリするくらい御歩 きなすってね。何 かクドクドと独語 をなさるかと思 えば、案内 の鈴 が鳴 る度 びに階段 の下口 へ顔 を御出 しになって、誰 だ、と御訊 きになるんです。そうかと思 うともうお室 の中 へ閉 じ籠 もってお了 いなすったけれど。相変 らず根気 よく歩 き廻 っていらっしゃるんですよ。私 、万一 して御病気 にならねばよいと心配 して居 りますの。」 - 「なに、そんなに
心配 する事 はないよ。何 か少 しばかり気 に掛 る事 があって、それであんなにソワソワして居 られるのだ。」 斯 う言 って下婢 を退 けたが、さて予 自身 も多少 心配 でない事 はない。何故 と言 うのに、其夜 は殆 ど終夜 博士 の歩 き廻 る鈍 き跫音 を聞 いた。博士 の鋭 き精神 は、此 不本意 なる活動 の休息 の為 めに如何 に激 していた事 であろう。翌日 の朝飯 の時 に見 ると、一晩 で痩 せ衰 えて憔悴 した顔付 をして居 る。両頰 には熱 ッぽい紅味 が一点 潮 して居 る。- 「
先生 は、昨夜 一晩中 歩 き廻 って居 られたようで厶 いますが、あれじゃ体 がお疲労 れに成 るでしょう。」と言 えば、 - 「でも
睡 られぬのだから仕方 がない。今度 の極悪 の問題 は俺 を喰 い尽 さなくては止 まぬ。他 の事 は大抵 見込 みが付 いたのに、あんな些細 な障害 の為 めに挫 かれるのは耐 まらぬ。曲者 も、汽艇 も、何 もかも解 って居 る、而 も何 の手掛 りも得 られぬ。銀公 等 のほかにも一隊 応援 を頼 んで今 働 かして居 る最中 である。俺 は出来 る限 りの手段 を尽 している。墨田川 は両岸 を隈 なく捜索 させたが、一つとして吉報 は手 に入 らず、また船宿 の隅原 介作 の女房 にも依然 夫 の行衛 が解 らぬそうじゃ。此 形勢 では多分 彼奴等 は艇 を自 ら孔 を穿 けて沈 めて了 うたのかも知 れぬ、とも思 われるが、さりとてその推察 には異論 もある。」 - 「で、なければ、
隅原 の女房 が態 と我々 の方針 を迷 わせて居 るのかも知 れません。」 - 「いや、その
案 じはあるまいと思 う。十分 質問 もしたし、そういう汽艇 もあるのだから。」 - 「
若 しや上流 に行 ったのではないでしょうか。」 - 「「ムム、
俺 も実 はそう気付 いたから、一隊 を其方 に派遣 して鐘ヶ淵 から千住 方面 まで捜索 させてあるのじゃ。で、若 し今日中 に手掛 がつかねば、俺 は明日 は自身 で出掛 ける。そして汽艇 を捜 すよりは寧 そ曲者 を直接 に捜 す決心 をした。が、屹度 、屹度 、何 か吉報 は有 るに違 いあるまい。」 然 れども吉報 は来 なかった。銀公 等 からも他 の応援隊 からも一言 の報告 にだも接 せぬ。砂村 の怪殺人 事件 又 は毒針 事件 、宝玉函 の行衛 などと題 して、新聞 という新聞 には皆 現 われている。何 れも哀 れな周英 君 に対 して不利益 な記事 ばかりであるが、格別 の新事実 も挙 がって居 らぬ。只 審理 が明日 行 われる予定 である事 だけは解 った。予 は其 夕刻 又 も濠田 夫人 邸 に到 り、二人 に結果 の思 わしからぬ由 を告 げて戻 って来 て見 ると、博士 は落胆 した顔付 で鬱憂 として居 る。物 を聴 いてもロクに返事 もせず、一生 懸命 奥妙 なる科学上 の分析 に着手 して居 られる。曲頸瓶 を熱 したり、蒸留水 を取 ったりしていたが、終 には耐 まらぬ悪臭 を立 てて、予 を室外 へ退散 せしめて了 った。暁 近 くまでも試験管 の触合 う音 が聞 える。先生 はまだ悪臭 の実験 に熱中 していると見 える。不図 物 に驚 いて飛 び起 き見 れば、意外 にも予 が枕頭 に立 った博士 は何 うしたものか粗末 な厚 い上衣 の海員服 を着 け、荒 い紅色 の襟巻 を首 に巻 いた異様 の風体 で、- 「
中沢 君 、俺 はこれから隅田河 へ捜索 に出掛 ける。色々 に考 えて見 たが外 に手段 がない。どんな困難 を排 してもこれを一 つ実行 して見 ようと思 う。」 - 「
私 も同行 致 しますか。」 - 「
否 、君 は俺 の代理 として此処 に残 っていて貰 うた方 が都合 がよい。俺 も実 は行 き度 くはないのだ。銀州 は昨夜 悲観 した事 を言 うて行 き居 ったが、それにしても今日 は何 うしても昼 のうちに何 か報告 が来 なければならぬ筈 だ。で、君 は手紙 でも電報 でも関 わず開 いて見 て、何等 かの報告 でもあったならば君 自身 の判断 で適宜 に処理 してくれ給 え。」 - 「ハア、
承知 致 しました。」 - 「
只 困 るのは、今 の処 まだ何処 へ行 くという事 を断定 出来 ぬのだから、君 が俺 に電話 なり電報 なりを通 ずるに迷 うであろうが、若 し巧 く行 きさえすれば余 り手間 は掛 らぬつもりだ。兎 に角 帰 る迄 には何等 かの吉報 を手 に入 れるだろう。」
一五、常識 警部 の来訪 ――打って変った謙遜な口調
[編集]朝飯 の時 迄 はまだ博士 から何等 の消息 もない。併 し新聞 を開 いて見 れば次 の様 な記事 が載 って居 る。例 の砂村 の宝玉函 事件 の真相 は、吾人 が事件 発生 の当初 に想像 せしよりも一層 複雑 に一層 難解 なりと信 ずるに至 れる理由 あり。最近 の証拠 を照 すに、嫌疑人 山輪 周英 が殺人事件 に関係 ありたるちょうことは絶対 不可能 となれり。よりて周英 と女中 お捨 とは昨夕 放免 せられたり。然 れども警察 当局者 が今 や真 の犯人 に対 する一個 の手掛 を握 りたるは確実 なるが如 し、これ全 く警視庁 の阿瀬田 警部 の独特 の精力 と鋭敏 とによるものにして、真 の犯人 逮捕 の期 も余 り遠 きに非 ざるべし。
- 「
何 にしてもこれだけ運 べば満足 だ。」と予 は考 えた。「周英 君 は何 れにせよ自由 の身 となった。この新 しい証拠 と言 うのは何 だろうな。こんなことを言 うのは、警察 で馬鹿 間違 いをやった時 の紋切形 には違 いがないが。」 - と
新聞 を卓子 の上 に放 り出 したが、偶 と眼 に触 れたのは案内欄 にある次 の如 き広告文 である。
失踪人 広告 。――去 火曜日 朝 三時 頃 汽艇 北光丸 にて自己 の船宿 前 の埠頭 を去 りし隅原 介作 と其 倅 晋一 との所在 を求 む。北光丸 は船体 黒色 二本の赤筋 あり。煙筒 同 じく黒色 、一条 の白筋 を巻 く。右 隅原 介作 父子 及 び北光丸 の所在 を隅原 物揚場 なる隅原 不在 宅 、若 くは高輪町 二十二番地 に報告 せられたる方 には金 拾円 の礼金 を呈上 致 すべし。
正 に呉田 博士 の仕業 である。高輪町 の番地 でそれと知 られる。これは巧 みな遣方 であると思 った。何故 ならばこれを読 む隅原 は、自分 の女房 が自分 の失踪 に対 して心配 して居るという事 よりほかには格別 の意味 をも感ずまいからである。其日 は焦 ったいほど日 が長 かった。扉 を叩 く音 がする度 びに、博士 が帰 って来 たんじゃないかと思 う。慌 しげな街 行 く跫音 を聞 く度 びに、失踪 広告 へ何者 か答 えに来 たんじゃないかと胸 を轟 かす。読書 で紛 らせようとしても、心 は何時 しか散 って、我々 の関係 した奇怪 なる今回 の問題 や我々 が追跡 しつつある二人 の兇悪漢 の上 に彷徨 い出 し、博士 の推理 の上 に何 か根本的 の破隙 があったのではあるまいか。何等 か大 なる自欺 により来 った苦悶 を受 けているのではあるまいか。博士 の敏捷 なる推理的 の心 が、誤 った前提 の上 に斯