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歎異抄 (意訳聖典 新漢字)

歎異鈔

ひそかにおろかなるかんがへをめぐらして親鸞しんらん聖人しやうにんざいむかしと、めついまとをかんがへてみるに、当今たうこん聖人しやうにんぢきけう真実まこと信心しんじんちがつたせつてるものゝあるがなげかはしく、また初心しよしんひとをしへ相続さうぞくするうへ疑惑うたがひをいだくかもれぬとあんじられます。

さいはひによくみちびいてくださるしきをしへらなければ、やすとおすくひにあづかるりきもんることが出来できませう。しん独断どくだんまかせてりき宗旨をしへみだしてはなりませぬ。

よつ親鸞しんらん聖人しやうにんおん物語ものがたり聴聞ちやうもんして、いまなほみみそこにのこつてゐることをすこしばかりかきしるします。その目的もくてきひとへおなみちをたどるぎやうじやしんのかどをあかしたいばかりであります。


不思議ふしぎふよりひやうのない、弥陀みだ如来によらいちかひにたすけられてじやううまれさせていたゞくのだとしんじて念仏ねんぶつまうさうと心持こゝろもちになつたときおさとつてないと利益め〔ぐ〕みにあづからしてくださるのであります。

弥陀みだ如来によらいのおちかひは老人らうじん少年せうねん善人ぜんにん悪人あくにん差別しやべつたまはず、ありのまゝにすくうてくだされるから、その善悪ぜんあくをかけず、たゞすくうてくださる願力ぐわんりきにまかせたてまつる信心しんじん一つが肝要かんえうなのであります。そのゆゑは罪悪ざいあくふかおもい、煩悩なやみつよ衆生ものたすけるためのちかひであらせられるからであります。

してみれば、そのちかひをしんずるじやうは、善根ぜんごんをほしいとはおもはぬ。おちかひの成果できあがりである念仏ねんぶつにまさるぜんがないからであります。またわがあくあればとてあんじはしませぬ。ちかひの効果ちからへぎるほどのあくぬからであるとあふせられました。


みなさまは十こく山河やまかはえていのちがけになつて遠方ゑんぱうから、わざたづくださいましたおこゝろもちは、畢竟つまり極楽ごくらく往生わうじやうするみちきたいためでございませう。

それなれば、たゞほとけのおちかひをしんじて念仏ねんぶつするばかりであります。それに念仏ねんぶつぐわいなに往生わうじやう方法みちでもつてり、または学問がくもんろんしようしてりながらかくしだてをしてらさないのであらふとなにとなくこゝろおきせられてらるゝならば大変たいへん見当けんたうちがひであります。もし学問がくもん沙汰さたでもりたいならば、どうかなん〈奈良〉北嶺ほくれい〈叡山〉あたりにすぐれた学者達がくしゃたちおほくおでなされるから、その方々かたがた御遇おあひなされて往生わうじやうするに肝要かんえうだとおもはれることをいてください。

この親鸞しんらんは、「たゞ念仏ねんぶつして弥陀みだにたすけられなさいと」しやう法然ほふねん上人しやうにんあふせをかふむりて如来にょらいほんぐわんを、そのまゝしんじてるだけのことで、べつさいはありませぬ。

念仏ねんぶつはまことにじやうにむまるゝたねやら、またごくにおつるわざであるやら、そのへんのことは一さいぞんじませぬたとひ法然ほふねん上人しやうにんにだまされ、念仏ねんぶつしたによつてごくにおちたからとて、さらこうくわいはいたしませぬ。そのゆゑは、念仏ねんぶつよりほかのぎやうをはげみてほとけにならるゝが、念仏ねんぶつまをしてたゝめにごくにおちたのなら、すかされた、だまされたとこうくわいもしようが、如何いかなるぎやうもたもちえぬなれば、どうしてもごくはきまりきつてわたくしすみであります。

弥陀みだ如来にょらいのおちかひが、まことであらせられるから、それをかれたしやくそん説法せつぽふうそであらせらるゝはずがない。しやくそん説教せつけう真実まことであらせられるから、善導ぜんだうおんしやくうそであらせられるはずがない。善導ぜんだうおんしやく真実まことであらせらるれば、法然ほふねんのおほせが、どうしてうそでありませう。法然ほふねんのおほせが真実まことであらせらるれば、親鸞しんらんのまをすことも、いつはりではありますまい。

所詮しよせんこのおろかわたくし信心しんじんはこれだけであります。このうへ念仏ねんぶつして往生わうじやうするとしんじなさらうと、またしんじなさるまいと、みなさまのおこゝろまかせでありますとあふせられました。


善人ぜんにんでさへじやう往生わうじやうするのだもの、ほんぐわんあて悪人あくにん尚更なほさら往生わうじやうさせていたゞける。それにひとはつねに「悪人あくにんでさへ往生わうじやうするのであるから、それよりすぐれた善人ぜんにん尚更なほさら往生わうじやうするにちがひない」とおもうてるやうです。それは一わう如何いかにもだうのあるやうではあるが、りきほんぐわんこゝろもちとは、まるでちがつてます。

何故なぜかとふに、りき善根ぜんごんをして往生わうじやうしようとするひとは、ひとすぢにほんぐわんのおはからひにまかせるこゝろけてるから弥陀みだ如来によらいほんぐわんこゝろもちにかなはない。けれどもりきこゝろひるがへしてりきほんぐわんに、まかせたてまつるこゝろになれば真実まことはう往生わうじやうさせていたゞかれるのであります。

煩悩ぼんなうづくめのわたくしたちは、どんな修行しゆぎやうはげんでも生死まよひはなれられないのをびんおぼしされてほんぐわん御建おたてなされたのであります。してればほんぐわんおこされたほん悪人あくにんすくうてほとけにしたいとおぼしめしでありますからほんぐわんりきのおはからひにすがたてまつ悪人あくにん往生わうじやう格者かくしやであります。

よつてりきこゝろでは〔「〕善人ぜんにんでさへじやう往生わうじやう出来できるのですからほんぐわんあて悪人あくにんは、尚更なほさら往生わうじやうさせていたゞかれます」とあふせられました。


慈悲じひしやう道門だうもん慈悲じひ〈自力〉じやうもん慈悲じひ〈他力〉とのべつがあります。しやう道門だうもん慈悲じひは、このおいぶんちから人々ひとびとあはれ同情どうじやうし、そだてゝくことであります。けれどもおもどほりたすけとげることはめつにありません。

じやうもん慈悲じひといふは、まづ念仏ねんぶつするとなつてはやくじやうまゐり、ほとけとならせていたゞいてだいだいしんをあらはしてのぞみのまゝにまよへる人々ひとびとやくするのであります。

こんむやうぼんぜいで、どれほど、いとし便びんおもうてもおもひのまゝにたすけることが出来できないから、その慈悲じひ徹底てつていであります。

してれば、ほとけのおちかひをしんじて念仏ねんぶつまをすことだけがしん徹底てつていしただいだいしんであるとあふせられました。


親鸞しんらん父母ちゝはゝ追善つゐぜんためおもうて、まだ一遍いつぺんでも念仏ねんぶつまをしたことはありませぬ。なぜかとふに、わたくしたちおやは、こんじやうこの身体からだんでくだされた父母ちゝはゝばかりでは〔な〕く、をん劫来ごふらいうまれかはりママかはりしてあひだには、すべての生類いきものは、いづれ一みなわたくし父母ふぼ兄弟きやうだいであつたでせう。すれば、どれもこれも、このつぎには、わたくしほとけになつてたすけさせていたゞくのであります。

念仏ねんぶつわたくしちからはげ善根ぜんごんでゞもあるならば、それをふりけて父母ちゝはゝたすけもしやうが、さうではありませんからたゞりきをすてゝ、いそぎおじやううまれて、さとりをひらかせていたゞいたなら、そのときこそ神通じんつうざい方便力はうべんりきをもていづくの境界きやうかいに、いかなるくるしみにしづんでをらうとも、えんるものからさいさせてもらひますとあふせられました。


もは念仏ねんぶつをさめるとなかうちで、わが弟子でしひと弟子でしつてあらそふなどはもつてのほかのことであります。

親鸞しんらんには弟子でしふものはひともありませぬ。なぜなれば、親鸞しんらんがはからひでひと念仏ねんぶつまをさせるのならば弟子でしともはれやうが、弥陀みだ如来によらいもよほしによつて念仏ねんぶつまをすひとを、弟子でしなどゝまをすことは大変たいへん遠慮えんりよなことであります。くもはなるゝも、それはみなさうなる因縁いんえんによるのであるから、「しやうにそむき別人べつじんいて念仏ねんぶつしては往生わうじやう出来できない」などゝいはれが、どこにありませう。そのやうなことをふのは、ほとけかたからあたたまうた信心しんじんを、物顏ものがほにとりかへさうといふのであるが、かへすもけしからぬことであります。

ほんぐわんりきおぼしめしにかなふやうになれば、おのづから仏恩ぶつおんをもしり、またおんをもよろこばずにはられぬやうになるのでありますとあふせられました。


南無阿弥陀なもあみだぶつしんじてとなへるひとは、なにものもさはりとならぬ唯一たゞひとつのみちであります。なぜなれば、信心しんじんぎやうじやは、天神てんちの地祇かみもおうやまひなされ、あくたん邪教じやけうもその信心しんじんしやうすることはできません。また罪悪ざいあくがあつてもむくゐをうけず、いかなるぜんもおよばないのであるからですとあふせられました。


念仏ねんぶつほとけしんじて御名みなとなへる行者ぎやうじやのためには、それがぎやうといはるべきものでも、またぜんといはるべきものでもありませぬ。

なぜならば、わがはからひで、つとめてとなへるのでないから、わがぎやうとはいはれませぬ。またわがはからひでとなへるのでないから、わがぜんともいはれませぬ。念仏ねんぶつするのは、まつたりきにもよほされてすることで、りきをはなれたわざであるから、ぎやうじやのためには、わがぎやうでも、ぜんでもないものであるとあふせられました。


わたくしくちにお念仏ねんぶつまをしてますものゝこゝろうちではびたつやうなよろこびのおもひが、かんじられませぬ。またいそぎおじやうへまゐりたいこゝろも、一かうにおこりませぬ。これは如何いかな〔る〕ことで御座ございませう。」と、おもあまつて唯円房ゆゐゑんぼうまうしげたれば、


親鸞しんらんもそれをしんおもつてゐたのであつたが、さては、唯円房ゆゐゑんぼうおなこゝろもちでなやんでるのだな。よくかんがへればまことにてんにおどり、におどるほどによろこばねばならぬことを、よろこばうともせぬので、いよ往生わうじやうは一ぢやうおもひなさい。よろこぶべきこゝろおさへてよろこばせぬのは煩悩ぼんなう所為わざであります。しかるにほとけまへから、それをおぬきなされて煩悩ぼんなうづくめのぼんとおびかけくだされたのでありますから、ほとけ御慈悲おじひほんぐわんは、かゝるわたくしたちまさしくおあてであるとなほさらこゝろづよおもはれます。

またいそいでじやうまゐりたいとこゝろもなくて、いさゝかなやまひにでもかゝれば、にはすまいかとこゝろぼそおもふも、煩悩ぼんなう所為わざであります。をん劫来ごふらいうまれかはりにかはりみなれた苦悩くるしみ旧里ふるさとはすてがたく、まだみぬ安養あんやうじやうがこひしうないのは、よく煩悩ぼんなうつよくさかんなことがられます。ごりはつきねど、しやにとゞまるえんがつきて、たよりなくいのちをはるとき、かのじやうへまゐらせていたゞくのであります。いそぎまゐりたいこゝろのないものを、ことにあはれたまふのであります。かくしふぢやくふかきにつけても、いよだいだいぐわんがたよりになり、往生わうじやう決定けつぢやうおもはれます。

よろこびのこゝろもあり、いそぎじやうへまゐりたいこゝろもあらば、かへつわたくしには煩悩ぼんなうがなくてお慈悲じひにはづるゝかとあんぜらるゝことだらうに」と聖人しやうにんあふせられました。


りき念仏ねんぶつは「なきをとした」ものでまつた行者ぎやうじやのはからひをはなれたものであります。そは称説ことば思議はからひおよばぬくわうだい御慈悲おじひであるからだと聖人しやうにんあふせられました。

聖人しやうにんざいのころには、同心どうしん行者ぎやうじやたちははるかにくわんとうより洛陽みやこのぼつておな信仰しんかうつてはう往生わうじやうをねがふ方々かたは、したしく聖人しやうにんけうかうむられたのであつたが、その人々ひといて念仏ねんぶつまをすやうになられた老人らうじんわか人々ひとおほなかに、聖人しやうにんあふせられぬせつ主張しゆちやうするものが近来きんらい往々わうあるやうにうけたまはります。そのいはれなくあやまれるでうげてみませう。


十一

文字もじ学問がくもんもないながら、すなほに念仏ねんぶつまをしてよろこんでゐるひとに、なんぢ念仏ねんぶつするのは、せいぐわん不思議ふしぎしんじてまをしてるのか、また名号みやうがう不思議ふしぎしんじてまをしてるのかと、むつかしうひかけて、せいぐわん名号みやうがう不思議ふしぎといふわけもいはずに、あいをうろたえさすものがあります。このせいぐわん名号みやうがうといふことは、よくこゝろてをかなければならぬことであります。

ほとけが、おちかひの不思議ふしぎによつてわれがたもちやすくとなへやすいやうに、名号みやうがうかんがくだされて、この名字みなをとなふるものを、むかへとらんと約束やくそくなされたことであるから、かゝる弥陀みだ如来によらいだい慈悲じひせいぐわん不思議ふしぎにたすけられて、生死まよひをはなるゝよとしんじて、念仏ねんぶつせずにはをられぬやうになつたのも、如来によらいはからひでありますとおもへば、すこしもわがはからひをまじへぬゆゑに、ほんぐわん相応さうおうして真実まことはう往生わうじやうさせていたゞくのであります。

このせいぐわん不思議ふしぎしんじさせてもらへば名号みやうがう不思議ふしぎしんじたことになるので、せいぐわん名号みやうがうとはひとつの不思議ふしぎべつのことではありません。

この反対はんたいに、みづからのはからひをさしはさみて、ぜんあれば往生わうじやうのたすけとなり、あくあれば往生わうじやうのさはりとなるとおもふは、せいぐわん不思議ふしぎをたのまずして、おのがとなへる念仏ねんぶつを、わがぜんとし、往生わうじやうごふとしてはげむのであります。このひとせいぐわん不思議ふしぎしんぜぬととも名号みやうがう不思議ふしぎしんぜぬのであります。

しんぜずして念仏ねんぶつすれば、へんまんじやう胎宮たいぐうといふ方便はうべんじやう往生わうじやうさせていたゞき、果遂くわすゐぐわんりきによつて、つひに真実まことはう往生わうじやうすることの出来できるのは、やはり名号みやうがう不思議ふしぎちからでありますから、この二つの不思議ふしぎはたゞ一つのいはれでありませう。


十二

経文きやうもんや、その解釈かいしやく書物しよもつまなばないものは、往生わうじやうができぬとひふらすさうなが、これはがふ千万せんばんであります。

りき真実しんじつのいはれを説明せつめいせるもろもろをしへは、ほんぐわんしんじ、念仏ねんぶつをまふさばほとけになるといてあるので、それをこゝろほかなに学問がくもん往生わうじやうのために必要ひつえうであらうぞ。本当ほんたうに、このだうのわからぬひとは、如何いかにも学問がくもんしてほんぐわんのわけをるがよいが、経文きやうもん解釈かいしやくまなびても聖教しやうけうほんこゝろぬことはまこと便びんなことであります。

文字もじらず、経文きやうもんやその解釈かいしやくものゝ筋道すぢみちらぬひとでもとなやすいやうにした名号みやうがうでありますから、これをぎやうまをします。学問がくもんしゆとするのは、聖道門しやうだうもんであります。これは聖人しやうにんでなければ出来できませんから難行なんぎやうまをします。「もし学問がくもんして、それをめいとしよくをおこすやうなあやまつたこゝろつものは、つぎ往生わうじやうすることは出来できまい」とふおことばもありますぞ。

近頃ちかごろもは念仏ねんぶつしゆするひとと、りき聖道門しやうだうもんひとろんたゝかはせ、ぶんしうすぐれ、他人ひとしうおとつてると、優劣いうれつあらそふやうになつたから、仏法ぶつぽふかたき出来できまた教法けうほふあやまることにもなるのであります。ひつきやうその結果けつくわは、わがほふやぶりそしることになるのではなからうか。

たとひしうひとが、くちをそろへて、「念仏ねんぶつはつまらぬひとのためのをしへであつて、そのほふはあさはかなくだらないしうぢや」とはうとも、さらにあらそはずに「われらがごとき、こんあさましき、無智むちなものでも、しんずればたすかるといて、しんじてゐるのでありますから、上根じやうこんひとからは、いやしうえても、われがためには最上さいじやうほふであります。たとひ教法けうほふはすぐれてあるにしても、ぶんめにはちからおよばぬから、つとめがたくあります。われもひとも生死まよひをはなれるこそもろもろぶつほんにかなふので御座ございますから、さまたげはようであります」とにくこゝをしなければ、誰人たれびとでも論争ろんさうをおこすはずはありませぬ」「およそ論争あらそひところには、いろ煩悩ぼんなうがおこるから、しやこれけよ」といふことばもあるくらゐであります。

親鸞しんらん聖人しやうにんのおほせには「しや如来によらいは〔『〕りきほふをばしんずるものもあれば、そしるものもある』とおきなされてあることであるから、われはすでにしんじてゐるが、また反対はんたいにそしるひともあるので、仏説ぶつせつのまことであることがられます。仏説ぶつせつにあやまりなければ、往生わうじやうは一ぢやうおもはねばなりませぬ。いかにしんずるひとがあつても、もしもそしるひとかつたら、なぜ仏説ぶつせつとちがふだらうとにならぬでもない。かくへばとて、ぜひひとそしられたいとふのではないが、ほとけがかねてしんずるものもそしるものも、ともにあることをりたまうて、そしりによつうたがひをいだかせぬやうにときをかせられたことをまをすのであります」とのおことばもありました。

それに当世たうせいは、学問がくもんちからそしひとくちをおさへやう、ひとへにろん問答もんだふをしようとかまへてゐるのであらうか。学問がくもんをすれば、いよ如来によらいのおこゝろをだい慈悲じひ誓願おちかひくわうだいなことをあじはひ、もし「かゝるいやしきではとても往生わうじやうのぞまれない」とあやぶむひとがあつたら、「なにのいやしいことがさわりにならう、ほんぐわんにはわれらの善悪ぜんあくや、きよけがらはしいは、さらにかゝはることはない。往生わうじやうはたゞぶつぐわんりきのひとりばたらきであります」とかすが、学者がくしや甲斐かひでありませう。

たまなにごゝろもなく、ほんぐわんにかなうて、念仏ねんぶつしてる人に、「学問がくもんもせずに………」などゝおどかすなら、それは教法けうほふをかきみだす悪魔あくまであり、ぶつ怨敵かたきであります。そんな学者がくしやしんにはりき信心しんじんがないばかりか、のものまでもまよはします。聖人しやうにんこゝろにそむくことをつゝしみおそれねばなりません。また弥陀みだほんぐわんにかなはぬことあはれまねばなりませぬ。


十三

弥陀みだほんぐわん不思議ふしぎにあらせられるからとて、わがあくなにともおもはぬのは、ほんぐわんにあまへて、つけあがるので、そんな根性こんじやうでは往生わうじやうはかなはぬ」といふひとがあるさうであるが、これはほんぐわんをうたがひ、善悪ぜんあく宿業しゆくごふといふことをこゝろぬからのあやまりである。

われらが今生こんじやうこゝろおこるのは、すぎいた業因たねがはえたのであります。またあくおもうたり、おこなうたりするのは、それはしき業因たねがあらはれたのであります。親鸞しんらん聖人しやうにんあふせには「うさぎひつじさきにつく、ちりほどのわづかな、わがつくるつみでも、すぎ業因たねからあらはれたものでないものは、一つもない」と申されました。

また或時あるとき唯円房ゆゐゑんぼうむかひ、「そなたは、親鸞しんらんがいふことをしんずるか」とたづねられましたら、唯円房ゆゐゑんぼうは「はい、しんじます」とおこたへしました。聖人しやうにんたゝみかけて、「そんなら、わしのいふことにはいせぬか」と、だめをおされました。唯円房ゆゐゑんぼうは「はい、けつしておことばはいいたしませぬ」としようまをされましたで、聖人しやうにんは「たとへばひとを千にんころしますか、しからば往生わうじやうはきまります」とあふせられましたとき、唯円房ゆゐゑんぼうは「折角せつかくあふせなれどそのはとてもわたくしにはかなひませぬ。千にんはおろか一でもわたくしりやうではころせさうにはござりませぬ」とまをされたので、聖人しやうにんは「それでは何故なぜわしがいふことにはいせぬといふたぞ。これでさつするがよい、何事なにごとでもわがこゝろまかせて出来できるのであるなら、往生わうじやうのために千にんころせといはれるれば、ころしもするだらう。けれども、一ころせぬといふのは、すぎひところ業縁ごふえんがなかつたからころさぬのであつて、わがこゝろいためにころさぬのではない。また殺害せつがいすまいとおもつても百にんにんころすやうになることもあらう」とあふせられたのは、とかく宿業しゆくごふらずに、われこゝろきときは、わがよしおもひ、しきときは、わがしとおもひ、わが善悪ぜんあくにとらはれて、ほんぐわん不思議ふしぎでおたすけといふことにづかぬのを、ちうしたまうたのであります。

かつこゝろちがひのひとありて「悪人あくにんをたすけたまふほんぐわんだから、あくつくつて往生わうじやうごふとすべきである」とひだして、わざとあくをこのむものが漸々ぜんぜん出来できたと風評ふうひやうかせられたときの聖人しやうにん消息てがみに、「くすりあればとて、どくをこのんではならぬ」とさとされたのは、そのこゝろちがひをやめさすためであります。けつしてあく往生わうじやうさはりであるといふ意味いみではありません。戒律かいりつたも善人ぜんにんになつてはじめてほんぐわんしんぜらるゝといふなら、われはどうして生死まよひはなれられませうか。かゝるあさましきも、ほんぐわんにあへばこそ、へいになつてらるゝのであります。といつて宿業しゆくごふなければ、われだとてあくはつくられはせぬのですもの。また海川うみかはにすなどり、やまとりけものかりして生活せいかつするものや、商業あきなひをし、農業のうげふをしてせいするのも、みな宿業しゆくごふによるのであります。

しかるべき業縁ごふえんもよほせば、如何いかなる振舞ふるまひでもせずにはれぬのであります」と親鸞しんらん聖人しやうにんあふせられましたのに、此頃このごろはむやみに後世ごせしやめかして、よきひとばかりが念仏ねんぶつまうすべきものだとおもひ、あるひてらけいして「何々なになに行為おこなひあるもの本堂ほんだうるべからず」といふがごときは、内心ないしん真実しんじつだらけでゐながら、ぐわいけいにはもつともらしいやうをするつもりか。ほんぐわん安心あんしんしたあまりにつみをつくるのも、宿業しゆくごふのもよほすからであります、さればきことも、しきことも、業報ごふはうにまかせて、それにはとんぢやくせず、たゞもつぱほんぐわん一つをたのむがりきであります。『唯信鈔ゆゐしんせう』にも「弥陀みだにどれだけのおちからがあるとつて、罪業ざいぎふなればすくはれがたいとおもふか」というてあります。ほんぐわんにもたれるこゝろがあるにつけても、あゝかゝるものをたすけぞと、いよりき信心しんじん決定けつぢやうさせていたゞけるのであります。

およ悪業あくごふ煩悩ぼんなうをなくしてからほんぐわんしんずるなら、ぐわんにあまえるおもひもなからうが、しかし煩悩ぼんなうがなくなつたら、それほとけであります。ほとけになつたものゝためには折角せつかくの五こふゆゐぐわんやくになるではありませんか。

ほんぐわんぼこりになつてはならぬと、いましむる人々ひとびともやはり煩悩ぼんなうじやうそなへてらるゝやうであるから、そのひとしんほんぐわんにほこつてゐるのではありますまいか。いかなるあくほんぐわんにあまえ、いかなるあくほんぐわんにあまえぬといはれやうか。そんなことをこゝろにかけてゐるのは、あまりにほんぐわん無智むちすぎるではありませんか。


十四

こゑ称名しようみやうで、八十億劫おくこふながあひだまよふべきおもつみほろびるとしんぜよと主張しゆちやうするものがあるさうであります。これは『くわんりやう寿じゆきやう』には「十あくぎやくをかしたぢゆう罪人ざいにん、もとよりごろ念仏ねんぶつなどまをさぬものが、臨終りんじゆうにせまつてから、はじめてぜんしきをしへによりて、一こゑ念仏ねんぶつしたならば、八十億劫おくこふくるしみをうくべきつみえ、十こゑ念仏ねんぶつしたなれば、その十ばいおもつみめつして往生わうじやうする」といてあります。この経文きやうもんこゝろは、十あくぎやくつみおもかろいをらせんために、十あく悪人あくにんは一こゑ称名しようみやうによりて八十億劫おくこふ大罪だいざいえてじやう往生わうじやうしまた五ぎやく悪人あくにんは十こゑ称名しようみやうによりて八百億劫おくこふしづまねばならぬ重罪ぢゆうざい念仏ねんぶつによつてめつすると滅罪めつざいやくしめされたのであります。けれども滅罪めつざいやくがあるから念仏ねんぶつするといふのは、われしんじてところとはちがつてゐます。

そのわけ弥陀みだ光明くわうみやうてらしにあづかりまして、一ねん信心しんじんほつしたとき、金剛こんがう不壊ふえ仏心ぶつしんがわれらのこゝろちて信心しんじんとなつてくださる。その信心しんじんいたゞいたときすでにまさしくじやう往生わうじやうしてぶつになるべきさだめられたくらゐにしてくだされて、その生死まよひいのちこゝにきて、すべての煩悩なやみしきさはりみなてんじて、「はんのさとりにいることを決定けつぢやうしたるくらゐ」にらしめたまふのであります。このお慈悲じひ誓願ちかひがなかつたならば、われらのやうなかゝるあさしい罪人ざいにんが、どうしてか生死まよひはなれられやうぞとおもひ、一しやうのあひだまを念仏ねんぶつはたゞ如来によらいだい慈悲じひおん報謝はうしやするとおもふばかりであります。

念仏ねんぶつまをすたびごとに、つみしませうとしんずるならば、それはしんつみして往生わうじやうしようとはげんでゐるのであります。しさうしなければならぬものなら、一生涯しやうがいおもひとおもふこと、みな生死まよひ覊絆きづなとならぬものはないから、いのちきるまで念仏ねんぶつやさぬやうにしなければ往生わうじやうはできぬわけであります。されど業報ごふはうによつて寿命じゆみやうかぎりがあるゆゑおもはぬことに出会であうてをはることもあらう、やまひになやみくるしんでしやうとりうしなうてはてることもあらう。そんなときに念仏ねんぶつまをすことはできませぬ。その念仏ねんぶつまうさなんだあひだつみはどうしてえるてせう。それがえずば、往生わうじやうはかなはぬのでせうか。

おさつててないとほんぐわんをたのむじやうは、どんなおもはぬことによつてつみをつくらうとも、また念仏ねんぶつまをさずにをはらうとも、すみやかに往生わうじやうさせていたゞけるのであります。臨終りんじゆう念仏ねんぶつがまうされても、それは、いまにさとりをひらかせていたゞくことがちかづくにしたがひ、いよ弥陀みだをたのみ、おんはうずるおもひからであります。つみめつしてとおもふのは、りきのこゝろで、正念しやうねん臨終りんじゆうしたいといのるひと本意こゝろであつて、それはりき信心しんじんがないのであります。


十五

信心しんじんれば煩悩ぼんなうづくめののまゝで、すでにさとりひらいたのであるとふこと。これはもつてのほかのあやまつた主張しゆちやうであります。

現身げんしんまゝほとけになるとふことは真言しんごん密教みゆけう本意こゝろで、三みつぎやう身密しんみつみつみつ成就じやうじゆしてしようくわであります。また六こんみゝはなしたこゝろ清浄しやうじやう無垢むくになるほふは『法華ほけきやう』に御説おときなされてある四安楽行あんらくぎやうくちこゝろ修行しゆぎやう誓願せいぐわん修行しゆぎやうとくさとるのであります。これみな上根じやうこんひとのみが、つとめらるゝむつかしい修行しゆぎやうで、観念くわんねんらし、智慧ちゑみがくことが成就じやうじゆしてのさとりであります。

来生らいしやうさとりをひらくのは、りきじやうもんしうで、これは信心しんじん決定けつぢやうすることのみによつていたるみちであります。これはいかなるこんでもぎやうやすほふであります。

およそ今生このよにおいて、煩悩なやみ悪障さはり絶滅ぜつめつすることは、ほとん出来できないことでありますから、たとひ今生こんじやうでさとりをひらかんとする真言しんごんほふをしへ実行者じつかうじやでも、なほらい往生わうじやうしてさとることをいのるのであります。いはんや、たゞしい戒行かいぎやうたゞしい智慧ちゑもないものでも、弥陀みだ誓願せいぐわんふねつて、生死まよひかいをわたり、はうのきしにくならば、煩悩ぼんなう黒雲くろぐもそくれ、法性ほふしやうさとりのつきがすみやかにあらはれて、十ぱうかいどこまでもさはりなき光明くわうみやうと一つになり、一さい衆生しゆじやうおもひのまゝにやくするときにさとりをたといふべきであります。

このさとりひらくとはるゝひとは、釈尊しやくそんのごとく衆生しゆじやうおうずる身形すがたあらはし、三十二さう、八十随形好ずゐぎやうかうそなへて、ほふき、ひとやくすることができるのでせうか。さうあつてこそ今生こんじやうにさとりをひらくといはるゝのであります。『さん』に「金剛こんがうけん信心しんじんのさだまるときをまちえてぞ、弥陀みだ心光しんくわうせふして、ながくしやうをへだてける」とあれば、信心しんじんのさだまるとき、そのとき一たびおさられたなら、二てられぬから、もはや六だうごく餓鬼がき畜生ちくしやうしゆ人間にんげん天上てんじやう輪廻めぐることもありません。すれば永久えいきう生死まよひをへだてられたのであります。かくよろこばせていたゞくことを「さとる」とひまぎらしても、いゝものでせうか。そのおろかさを残念ざんねんおもひます。じやう真宗しんしう今生こんじやうほんぐわんしんじて、さとりはうまれてからひらくものとこゝろます」と親鸞しんらん聖人しやうにんあふせられたことでありました。


十六

慈悲じひしんずるものが、ぜんはらてたり、悪行あくぎやうをなしたり、をしへのとも口論こうろんなどすることがあれば、かならこゝろをいれかへてざんしなければならぬとふものがあるさうですが、これはあくをやめ、ぜんをはげまねばならぬといふつもりなのでせうか。

りきしんずるものが、こゝろをいれかへるのは、たゞ一よりないことであります。そのこゝろれかへるとふのは、いままでほとけのおちかひによつてたすけらるゝことをらなんだひとが、弥陀みだ智慧ちゑをたまはりて、わがはからひにては往生わうじやう出来できないとおもうて、りきこゝろをうちすてゝおちかひをたのみたてまつるときが、それであります。

あさにもゆふにも、すべてのことにこゝろをいれかへて、ざんしなければ往生わうじやうができぬならば、ひといのちづるいきはるをまたずして、おはることであるから、悪心あくしんひるがへしもせずにう忍辱にんにくのおもひにもならぬまにいのちきたときは、おさつててぬとちかひは、まにあはぬことになるのでありませうか。

くちでおちかひをたのみたてまつるばかりとうてながら、それでもこゝろそこでは「悪人あくにんたすたまふおちかひは不思議ふしぎちからではあれど、さりとて、どちらかとへば、わるいものより、きものゝのはうがおたすけにあづかれる」とおもんでるので、じやううまれながら、へんうまれて、完全くわんぜんさとりのひらけぬのは、まことなげかはしいことであります。

信心しんじんさだまれば、往生わうじやう弥陀みだはからひでせしめたまふことでありますから、わがはからひによるのではありません。しきにつけても、いよぐわんりきをたよりにいたしますれば、おのづとにう忍辱にんにくこゝろおこるのでありませう。すべてよろづのことにつけて、往生わうじやうのためには、こうぶらず、たゞほれ弥陀みだおん深重じんぢゆうなることをつねよろこんでるがよろしい。さすれば念仏ねんぶつまをさるゝやうになります。それがねんであります。「ねん」といふは、わがはからばぬことで、すなはちりきのことであります。しかるにそのほかべつに「ねん」といふことがあるやうに、ものしりがほにいふ人があるさうですが、なさけないことであります。


十七

りき念仏ねんぶつとなへるひと極楽ごくらくへん往生わうじやうしてもつひにはまたごくちるとひふらすものがあるさうであります。かゝるせついづれのもんしようとしてふのであらうか。しかも学問がくもんをしたといはるゝひとが、そんなせつ主張しゆちやうするとはなさけないことであります。経論きやうろんたゞしきをしへをばどんなふう解釈かいしやくせられたのでせう。

真実まこと信心しんじん行者ぎやうじやはおほからぬゆゑに、化土けどうまれさせてまで、うたがひのはるゝやうにしたまふお慈悲じひであるとかれてあるのに、つひごくするといふがごときはしや如来によらい虚妄いつはりまをされたとすることになります。


十八

仏法ぶつぽふのことに布施ふせしんするせうによつて、ほとけになつたとき大小だいせう出来できるとふものがあるさうですが、これはあまりのことに、ひやうもないつまらぬたはごとであります。

まづほとけ大小だいせう分量ぶんりやうさだめるとふのは、出来できないことです。『くわんりやう寿じゆきやう』に、かの安養あんやうじやう教主けうしゆのお身体からだおほきさをかれてはあるが、それはわれたすくるめにかたちあらはしてくだされた方便はうべん法身ほふしんのおすがたであります。法性ほふしやう法身ほふしんのさとりをひらけば、ながみぢかいとか、かどだちまるいとかのかたちでもなく、あをあかしろくろいろでもないから、そのさとりに、どうして大小だいせう分量ぶんりやうさだめられませう。念仏ねんぶつまうせばぶつたてまつることが出来できるとふことから、大声おほごゑ念仏ねんぶつにはおほいなるほとけごゑ念仏ねんぶつにはちひさなほとけるとふたのでせう。それはりき行者ぎやうじや観念くわんねんによつて、ぶんこゝろぶつのことでありまして、わたくしたちほとけにならせていたゞくのと、まるではなしちがつてるのに、それをこじつけてふのでせうか。

また布施ふせしんほとけになるといふならば、りき修行しゆぎやう布施ふせぎやうのことであります。それならば、いかに宝物たからものほとけそなへ、しやうさゝげたとて、りき信心しんじんがなければ、りきぎやうではほとけにはなれませぬ。一半銭はんせん仏法ぶつぽふかたれずとも、りき本願ほんぐわんにわがこゝろをなげかけて、信心しんじんがふかけれれば、それこそおちかひのほんにかなふのであります。総体そうたい仏法ぶつぽふ看板かんばんにしてけん慾心よくしんをはたらかすから、かゝることもいひてゝ同朋どうぼうをおどかすのではないでせうか。

みぎげた異議いぎ条々でうでうは、信心しんじんちがつてゐるところからおこつたことでありませう。親鸞しんらん聖人しやうにんおん物語ものがたりしやう法然ほふねん聖人しやうにんざいのとき。すう門弟もんていがあらせられたなかで、おな信心しんじんひとすくなかつたゝめに、親鸞しんらん聖人しやうにんおん同胞どうぼうとのなか争論さうろんがもちあがつたことがありました。

ことのおこりは、〈親鸞聖人が〉善信ぜんしん信心しんじん法然ほふねん聖人しやうにん信心しんじん同一ひとつである」とあふせられたれば、勢観房せいくわんぼう念仏房ねんぶつぼうなどいふおん同朋達どうぼうたちは、もつてのほかあらそはれて、「それはけしからぬことです。聖人しやうにん信心しんじんと、善信房ぜんしんぼう信心しんじんとが、どうして一つでありませう」となんせられましたので、親鸞しんらん聖人しやうにんは、「聖人しやうにんの、あの広大くわうだい御智慧おちゑ才覚さいかくとわたしのそれとどう一だといふなら、それこそ僻事ひがごとでありませうが、じやう往生わうじやう信心しんじんおいてはまつたかははず御座ございませぬ、たゞ一つで御座ございます」と返答へんだふなされましたが、それでも「どうして、そんなことがあるものか」とうたがなんぜられましたから、結局つまり法然ほふねん聖人しやうにんぜん両方りやうはう是非ぜひはんしていたゞくことゝなりまして、このさいまうしあげますると、法然ほふねん聖人しやうにんあふせには「源空げんくう信心しんじんは、わがはからひで出来できたものでない、如来によらいよりたまはりたる信心しんじんである。善信房ぜんしんぼう信心しんじんも、如来によらいよりいたゞかれた信心しんじんであるから、二信心しんじんはたゞ一つである。めい各別かくべつ信心しんじんであらせられるかたは、源空げんくうがまゐるじやうへはよもおうまれなさることはできまい」とあふせられました。そのだい念仏ねんぶつ行者ぎやうじやなかにも、親鸞しんらん聖人しやうにん信心しんじんとちがつたひとつたとおもはれます。

親鸞しんらん聖人しやうにん入滅にふめつ種々いろいろ異議いぎおこるやうになつたことをかみげましたが、それも繰言くりごとながら、かきつけておいたのであります。枯草かれぐさうへにおくつゆのやうなわたくしのいのちのあるあひだには、道者だうしやしんをもうけたまはつて、聖人しやうにんあふせおかれたおもむきをおつたへすることもできますが、閉眼へいがんのちはみだれがちにもならうかとなげかはしうおもはれて、もしかみつらねたやうなせつをたてゝまどはされでもするあひには、親鸞しんらん聖人しやうにんこのんでもちあそばした聖教しやうけうなどを、熟読じゆくどくしてなんとせらるゝがよろしい。

およ聖教しやうげうには真実しんじつせつと、方便はうべんせつとが随分ずゐぶんまじつてゐます。それを判断はんだんして、方便説はうべんせつをすて、真実しんじつをとるのが、聖人しやうにんほんでございます。聖教しやうげう拝読はいどくしてもけつしてじつをみださぬやうにせねばなりませぬ。けうじやう大切たいせつなるしようもん少々せうせうぬきいだして真実しんじつ標準めやすとして、このしよにかきそへました。

聖人しやうにん平生へいぜい言葉ことばに「弥陀みだが五こふながあひだふかあんふけらせられ、さうしておさだめなされたおちかひは、なにためぞとよくあんずれば、ひとへに親鸞しんらん一人ひとりをたすくるとてのかずでありました。さてはこの悪業あくごふばかりをもてるを、たすけずばとおぼしされた本願ほんぐわんのかたじけなさよ」と述懐じゆつくわいせられてゐたことを、いままたあんずれば、たう善導ぜんだうだいが「しんげん罪悪ざいあくをもち生死まよひにさまよへるぼんであつて、しかもはじめもわか〔ら〕ぬむかしから、つねににしづみ、まよひにてんして、それをしゆつするてかゝりさらになきであるとれ」とのたまひし金言きんげんすこしもたがはぬおかんがへであります。これはかたじけなくも、聖人しやうにんしんにひきよせて、わたくしたち罪悪ざいあくふかきほどをもらず、如来によらいおんたかきことをもらずして、あさましうまよへることをおもらせんがためあふせごとでありませう。

まことにおちかひをくださるまで、わたくしたちあんじてくださるゝ如来によらいのお慈悲じひふことには、ちつともかずに、われひとぶんいのわるいのとふことばかりにこゝろをとられてます。聖人しやうにんあふせには「ぶん善悪よしあしの二つはそうじてぞんじません。それとふは、如来によらいこゝろしとおぼしほどりとほしたらばきをつたともはれよう。また如来によらいしとおぼしほどりとほしたならばしきをつたともはれもしようが、煩悩ぼんなうづくめのぼん火宅くわたくのやうなかいじやうかいは、よろづのこと、みなそらごと、たはごとで真実まことなことがないに、たゞ念仏ねんぶつだけは真実まことであらせられます」とあふせられました。

まことにわれ人共ひとともに、そらごとばかりいつてゐるが、そのなかに一つなげかはしきことがあります。それは念仏ねんぶつまうすについて、信心しんじんのおもむきをたがひ問答もんだふし、またひとかすとき、ひとくちふさぎ、しひろんにかたんがために、まつた聖人しやうにんあふせでないことを、あふせなりといつはることは、あさましくなげか〔は〕しくおもはれます。このおもむきをくのみこんであやまられぬやうにしなければなりませぬ。

じやうきつらねましたことは、さらにぶんかつことではありませぬが、何分なにぶんにも経釈きやうしやくすぢみちもらず、法文ほふもん意義こゝろあさふかいさへこゝろわけないわたくしでありますから、さだめて完全くわんぜんではありませうが、親鸞しんらん聖人しやうにんあふせおかれましたおもむきを、百ぶんの一、片端かたはしだけでも、おもでましてきつけたのであります。

さいはひ念仏ねんぶつするとなりながら、りきのはからひをすてかねて、たゞちにはううまれずして、へんにかりのやどをとるやうなことがあつては、如何いかにもかなしいことであります。さればおなじ一しつにすむ行者ぎやうじやなか信心しんじんことなることのないやうにとて、ふでをそめて、これをしるしました。『たんせう』となづけておきませう。もとよりひろひとせるやうなものではありませぬ。


歎異鈔

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