歌日記
歌日記
明石海人
すでにして
子供の死んだ報せを受けたのは紀州
子供が腸炎で死に、もう葬式も済ませた。あなたには帰へつて貰はない方がよいと云ふ父や母の考へで、わざと今迄報せなかつたといふ意味の妻の手紙を読んでゐるとき、家を取りかこむ一面の
子供の病気のことは何にも報せて来てなかつたので、急に死んだと云はれても、どうしても本当のやうな気がしなかつた。にも拘らず、私は何となく腹立たしかつた。
父たる自分の知らない中に死んでしまひ、葬式までが済んでゐる。こんな事があつてよいのだらうか。然も、事はすでに行はれてしまつてゐる。何たる事であらう。父や母の気持はよく分りながら、ぢりぢりと湧いて来る
妻に連れられて来て、ここの家でも二三日一緒に暮したことがある。青切りの蜜柑が出る頃で、畳の上にそれを転がしてはよろこんでゐた。すつかり私を見忘れてしまつて少しも馴染まず、片時も妻の傍を離れやうとはしない子供の、静脈の透いた額のあたりを見ながら、私は何か暗い恐れを感じたことがあつた。二三日して帰りを駅迄見送つて行つた。暮れ方の汽車は込み合つてゐて、窓の外に立った私に、車室の灯の下からほほ笑みかけた妻が、背中の子を振りむけるやうにしながら、「お父ちやんにはいちやいをなさい。」と云つたとき、子供は眠たさうにむづかつてゐた。慌しい別れであつた。汽車が動き始め、後尾の赤い灯が陸橋の影に消えて行つたあとには、白いレールだけが冷たく光つてゐた。あれが最後だつたのだ。二三日しかゐなかつた子供の匂ひが、今も壁や畳に沁みついてゐるやうな気がしてじつとしてゐられなくなり、紫雲英の花ざかりの野道を、私は一日中さまよひ歩いた。
光の礫となつて匂やかな大気を顫はせながら飛び繞る蜂の群、巻貝は川の底の石に、縞の赤いみみずの仔は
いつか、毒蜜のやうな夕闇が土壌からにじみ出し、花々の息吹に睡る野の涯には、遠い
昼こそは雲雀もあがれ日も霞め野なかの家の暮れて
◎
花散るや五層の塔の朱の
白壁づくりの家並が低い軒をつらねてゐる粉河の町は、何時も蜜柑の匂ひに染みてゐた。アカシヤの木立が白い花房を匂はせてゐる駅の前から、一本の道が真直ぐに、西国三番の札所粉河寺の仁王門へ続いてゐる。その道の両側にこびり付いてゐるのが粉河の町である。
打田には物を売る店が無かつたので、いつも買出に出掛けて行つた。目つかちの肉屋のおかみさん、リンコルンのやうな髯面の果物屋の亭主、翼のやうに
子供の死んだ報せを受けてから二三日の後、粉河の町へ買出しに行つたが、私の悲しみ――自分の子供が死んで、いつの間に葬式が済んだのか知らずにゐたなどと云ふ、他人事だつたら馬鹿馬鹿しいやうな繰言を聞いて貰へさうな知合ではなかつた。少しばかりの買物を済ませると、巡礼達の鈴の音に
仁王門を這入ると、赤い旗を掲げた甘酒茶屋に金色の釜が光つてゐる。銀杏の老樹の下を過ぎると、奉納者の名を一つ一つに刻んだ石の玉垣の向ふに、僧坊の黄色い土塀が低く連なつてゐる。
アメリカ移民の多い土地柄だけに、金門湾の写真や眼の碧い人形などが、戦利品の鉄砲や日本刀などと共に奉納されてゐる絵馬堂には、白い手甲に檜笠の巡礼が二三人休んでゐた。彼等の疲れた眼は、折柄の夕陽を浴びながらひとしきり散りまがふ花吹雪の中で、地面に描いた輪の間を跳び跳び石蹴りの遊びをしてゐる子供達の姿を、黙然とうちまもつてゐた。
大きな紅提灯の吊るされた山門を抜けて、鍵の手に折れた敷石路が、七八階の石段となつて本堂の前に続くあたりに、白衣の一団が、鈴を鳴らしながら御詠歌を歌つてゐた。「父母の恵は深き粉河寺……」暮れるとも無く暮れおちてゆく
それにしても、父母の恵のあまりに薄かつた我が子の短かい命――青い岩塊を積上げてところどころに竜舌蘭を植ゑた築山のかげで、絶えては続く鈴の音に、聞くともなく耳を澄ませてゐると、日を経る儘にやうやく実惑となつて迫つて来る我が子の死がまざまざと感じられ、石の肌に冷たい涙をおとしながら、匂やかな宵に移つて行く千金の
萌えいづる銀杏の大木夕づきて灯ともりたまふ鬼子母観音
◎
兆しくる熱に堪えつつこれやかの環が声を息つめて聴く
「環女史来る。」の噂が待望となり、待望が愈々現実となつて、三浦環女史をこの島、長島愛生園の礼拝堂にお迎へしたのは、一昨年の紀元節の当日であつた。この日女史は岡山で公演される忙しい日程の中を、
やがて、導かれて這入つて来た女史の面は、さつと沈痛の色が走つた。堂に溢れた今日の聴衆の異様な相貌が、女史の鋭敏な神経をかき乱したのであらう。まことにその通りで、一人前の顔形を具へたものは一人も無い。今日まで華やかな聴衆の前でしか歌つたことのない女史には、怪奇にも無残にも映ったのであらう。
不自由な手を叩き合す寂しい、けれど、ひたむきな拍手の中に幾つかの唄が歌はれた。私は環女史の肉声を聴くのは今日が始〔ママ〕めてであつた。人の世を離れたこの島で、ゆくりなく聴くこの人の声は美しくも悲しかつた。殊に、お蝶夫人の最期の唄――床の上に掌を突き、肘を突き、花模様の
歌が終つてから挨拶をされた言葉の中で、自分は今迄
沈丁のつぼみ久しき島の院にお蝶夫人の唄をかなしむ
◎
おぼろかに器の飯の白く見えてをだやむいたみに朝を
私の眼は一昨年の正月激しい眼神経痛を起して、しばらくの中に失明してしまつたが、それまでの経過は至つて緩慢で、少しづついつとはなしに悪くなつて来たので、
始の間はさう不自由を感じなかつた。
嘗ては人一倍視力が強く、遠くの方のこまかい物迄他の人よりもずつとよく見え、空気銃の照準なども確で、腕白時代には、雀撃ちでは私の右に出る者はなかつた。ところが、五六年前、ふと、左眼では遠方のこまかいものをはつきりと見ることが出来ないのに気が付いた。私の病気も愈々眼に来たのか、さう思つて、なるべく読書なども控へてゐたが、少しづつ増悪して、それから一年ばかり後の或日、つひに痛みだした。
ぢつとして居るとさうでもないが、眼球を動かしたり押へたりするとひどく痛む。鏡で見ると真赤に充血してゐる。診察を受けたら虹彩炎だとのことで、アトロピンを注して貰ひ、眼帯を掛けてゐると暫らくして
この頃、癩予防協会で作つた新薬の沃度大楓子油の注射を受けたところ、割合によく効いて、普通の大楓子油では効果の無かつた、皮膚の
話が少し脱線したが、眼の方は、薬をさしたり、罨法をしたり、吸入をかけたり、いろいろ手をつくしたけれど、病気そのものの進行が止まらない以上、眼だけがよくなる筈もなく、左眼では、どんなに近づいても人の顔を弁ずることが出来なくなり、右眼も九ポイントの活字位迄しか見えなくなつて来た。
「俺も愈々盲になるのか。」さう思ひながら、自分をとり囲む色相の世界――庭先の花や、草や、空や、雲に、儚い愛着の思ひを籠めて、訣別の眼差を送つたのもこの頃であつた。縁側にさしてゐる柱の影や、畳を這つてゐる蟻の姿など、何ん〔ママ〕でもないものがはてしない深さと美しさをもつて、脳の髄に沁み入つた。アルバムに小さく並んでゐる母や妻や子供の顔に、喰入るやうに見入つたことも幾度であつたか。
私の周囲の光は、影は、
晴れ渡つた秋も終りのある日、深く澄んだ蒼い空が次第に夕暮の薔薇色に移つてゆく暫くを、裏山の松の梢越しに瞶めてゐると、嬉しいとも、悲しいとも、楽しいとも、苦しいともつかない、おそらく私が曾つて経験したあらゆる感情が、一瞬に迸つて、脊柱の端から脳の髄までを、ぢーんと貫いた。
いつか私は涙をさへ浮べてゐた。聖書にも、経典にも、曾つてつひに一度も心からの親しみを感じることの出来なかつた私に、
暮れ蒼む空に見えくる星一つさし翳す手に
◎
あらぬ世に生れあはせてをみな子の一
在るに甲斐ない命、あらゆる望とよろこびから逐ひ
かうして一日一日が暮れて行つた。十余年を過ぎた今では、命のある限りは生恥を曝して居たい程の心持になつてゐる。それにしても、年若い妻を、この儘寡婦にしてしまふのは無惨な気がして、それとなく再婚のことを仄めかしたが、妻は言下に拒否した。両親の隅に何か安からぬものを感じながらも、今では素直に妻の好意を受けてゐる。
瀬戸の内海に望むある癩療院に、明日は旅立たうといふ日の午後、私達は子供二人と町はづれの野道を歩いた。苗を植ゑるばかりに鋤返へされた水田の面を掠めて、燕の群が飛交ひ、処々の梨畑には、
子供等の小さい方は乳母車の中で機嫌のよい笑ひ声をたててをり、大きい方は、畦道を駈け廻つて蛙を追ひかけたり、小溝を飛越えて梨の実を拾ひ集めたり、遠くから呼びたてたりしてゐた。すべてが平和に移つて行く初夏のかんばしい昼過ぎの大気の中を、言葉少なに歩きながら私達は、遠い稲妻となつて閃く宿命の敵意を感じてゐた。
一わたり歩き廻つてから、灯のともり
「あなたが達者で、こんなにしてゐられるんだつたら……」
呟くやうに云ふ妻の眼には、抑へきれない涙が光つてゐた。
梨の実の青き野道にあそびてしその
◎
癩に棲む鳥〔ママ〕に盲ひて秋ひと日替へし畳をあたらしと嗅ぐ
この療養所に来てから二度目の畳の表替である。前の度にはまだ眼が見えてゐて、淡緑の面をくぎる黒い縁の直線が、すがすがしく眼にも映つたのであるが、今でも眼には見えなくとも畳のあたらしいのは快い。切味のよい剃刀の手ざはりである。もぎたての果物に歯をあてた感じである。
嗅覚にしみる特有の匂ひ――畳の上に生れ、畳の上で育つて来た過去のあらゆる経験が、この匂ひに籠つてゐる。我々の一生といふのも、あたらしい畳が古びてゆく過程の幾つかに外ならない。
六畳の部屋を三畳だけ替へて、畳屋は帰つて行つた。今日は生憎茶菓子になるものもなかつたので、明日は何かお茶うけの用意をしておかう、そんな事を云ひながら、 室の中や縁先などを掃いてゐた附添さんは、外した縁の障子をはめ込みながら、「ひどい夕焼だなあ。」と呟いてゐた。その夕焼の空から吹いて来るのであらう。障子の破れを鳴らす風が、室の中を水のやうに流れ去る。
用事を済まして附添さんも帰つて行つた。あたらしい畳の室には夜の冷気が静寂となつてたち
◎
畳師の
――独りで退屈だつしやろ。眼の見えん人は気の毒や。わしかいな、三四年したら
永からむ世すぎの
◎
捜りゆく道は空地にひらけたりこのひろがりの杖にあまるも
眼が見えなくなつて、始めて杖を突いて出て歩くのは可なりな勇気を要する。人に見られるのが嫌だと云ふよりも、自分自身に対する侘しさに堪え難いものがある。自由自在に出歩いてゐた道を、杖に頼らなければ一歩も歩けないと言ふ、生活能力の低下に対する忌々しさである。
眼が見えなくなつてからはずつと閉ぢ籠つてゐたが、或日美しい小春日和に誘はれて、始めて杖を突いて出掛た。嘗ては、無雑作に歩き廻つてゐた道である。大体の木石の配置は記憶に残つてゐる。にも拘らず、杖の先でさぐるとだいぶん趣が変つて来る。嘗ては気にも止めなかつた極く僅かな路面の凸凹が、ともすれば身体の平衡を脅す。第一、自分の脚からして頗る不確なもので、まつ直ぐに歩いてゐるつもりでも、何時の間にか横へそれてゐる。狭い道の処はまだよかつたが、十字路のやうになつた一寸した空地へ出ると、杖は忽ち方位を失つてしまつた。
記憶をたよりにあちらこちらと叩き廻つて見たが、思はぬ処に溝が出来てゐたり、物が置いてあつたりして、くるくる廻つてゐる中に、雨水の溜つてゐたらしいぬかるみに吸はれて、片方の靴が脱げてしまつた。よろめく途端に足袋をよごすまいとして、二三度ちんちんをしてから一本足で立ち直つた時には、脱げた靴のありかは見当さへつかなくなつてゐた。仕方がないので、杖を支へにしばらく片足で佇んでゐた。
それにしても、網膜にものを映す一生理機能の喪失が、我々の生活能力を如何に局限してしまふ事か。今の私には音さへしなければ、命を狙ふ銃口が目の前に擬せられてゐる事をさへ感じる事が出来ない。肉身の支へを失つた精神力の、唯心論が拠つてもつて人間存在の根源なりとする意識とは、何と言ふ哀れな低能児でしかないことか。
私は自分の立つてゐる所が空地の
肉身の機能を抹殺して、理性の外縁に直に人格的な神を凝集させたり、個体の経験が肉身を越えて生存すると説く霊魂不滅論などの感傷には、どうも近づき難いが、さりとて、音波のみしか聴き得ない耳や、光波だけしか見得ない眼の行動半径を飛躍することの余りに少ない唯物弁証法の精悍な認識論にも、安んじてしまふことが出来ない。
彼等の論理は強靭でもあり精緻でもあるが、立論の根底をなす前提に――前提の設定に――前提を設定することそれ自身に対する懐疑がある。けれど、科学も理論も、前提なしには成り立たないとすれば、かう言ふ見解はすでに知性の限界を超えたものである。が、単なる知性にとどまらず、人間性能の総和によつて、側面から照射されるとき、彼等の論理は、始めて複雑微妙な立体感を現はして来るのであらう。
例へば、科学が分析し尽すことの出来ない微量の物質に、我々の味覚が反応するやうに、論理の網の目にすくひ残された雰囲気が、知性以外の方向から、(例へば感性の如き) を通して、人生や社会に対する我々の見取図に反映し得るものであり、また、さうなければならない――。
「どうした? やあ、靴が脱げてゐるね。ちよつと待つて……よしよし、それでちやんとはけたよ。何処へ行くね、××寮? それなら、この柵を伝はつて行くがいい。真直ぐな道だから……」
聞き憶えのある声だが、誰だか思ひ出せない。それにしても、私の全精神をつくして窺ひ知ることの出来なかつた私自身の位置を、彼の肉眼は、至つて簡単に指示して呉れた。それが、飽くなき真実究明の過程を、睡魔のやうにまやかしてしまふニイチェの所謂『隣人の愛』に過ぎないにしても、行きずりのささやかな好意は、いつか私の心を明るくしてゐた。
天国も地獄も見えぬ日のひかり顱頂にしみて酒よりも
出典
[編集]- ↑ 内田守人『明石海人全歌集』年譜、短歌新聞社、1978年
この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。