歌日記

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歌日記

明石海人


すでにして〔はふり〕のことも済みぬかと父なる我にかかはりもなく


 子供の死んだ報せを受けたのは紀州〔こかは〕の近くの打田といふ処で田圃のまん中にある家を借りて自炊しながら、S病院へ通つてゐたときの事で、別れて来てから二年余り経つてゐた。炊事から洗濯から風呂をたてるのまで、みんな自分ひとりの手で済ますまつたくの一人暮しで、一日おきに病院へ通ふほかには、一口も口をきかないやうな日も珍らしくはなかつた。

 子供が腸炎で死に、もう葬式も済ませた。あなたには帰へつて貰はない方がよいと云ふ父や母の考へで、わざと今迄報せなかつたといふ意味の妻の手紙を読んでゐるとき、家を取りかこむ一面の紫雲英れんげさう畑には、ひつきりなしに囀る雲雀ひばりの声が続いてゐた。折から農閑期で、西国三十三番の札所詣りの老若男女が、白い手甲に檜笠といふ昔ながらの扮装〔いでたち〕で鈴を振りながら、巡礼唄ものびやかに幾組も家の前を通り過ぎて行つた。

 子供の病気のことは何にも報せて来てなかつたので、急に死んだと云はれても、どうしても本当のやうな気がしなかつた。にも拘らず、私は何となく腹立たしかつた。 父たる自分の知らない中に死んでしまひ、葬式までが済んでゐる。こんな事があつてよいのだらうか。然も、事はすでに行はれてしまつてゐる。何たる事であらう。父や母の気持はよく分りながら、ぢりぢりと湧いて来る忿〔いかり〕をどうしようともなかつた。父も、母も、妻も、自分自身さへもが憎らしかつた。やがて、再び妻の手紙を取り上げて、何度も読み返したが、読んでゐる中に、長い看病とそれに続いての悲しみに打ちひしがれた妻の姿がまざまざと感じられ、はてしのない追憶に、いつか冷たい涙を流してゐた。

 妻に連れられて来て、ここの家でも二三日一緒に暮したことがある。青切りの蜜柑が出る頃で、畳の上にそれを転がしてはよろこんでゐた。すつかり私を見忘れてしまつて少しも馴染まず、片時も妻の傍を離れやうとはしない子供の、静脈の透いた額のあたりを見ながら、私は何か暗い恐れを感じたことがあつた。二三日して帰りを駅迄見送つて行つた。暮れ方の汽車は込み合つてゐて、窓の外に立った私に、車室の灯の下からほほ笑みかけた妻が、背中の子を振りむけるやうにしながら、「お父ちやんにはいちやいをなさい。」と云つたとき、子供は眠たさうにむづかつてゐた。慌しい別れであつた。汽車が動き始め、後尾の赤い灯が陸橋の影に消えて行つたあとには、白いレールだけが冷たく光つてゐた。あれが最後だつたのだ。二三日しかゐなかつた子供の匂ひが、今も壁や畳に沁みついてゐるやうな気がしてじつとしてゐられなくなり、紫雲英の花ざかりの野道を、私は一日中さまよひ歩いた。

 光の礫となつて匂やかな大気を顫はせながら飛び繞る蜂の群、巻貝は川の底の石に、縞の赤いみみずの仔は鉄気〔かなけ〕の浮いた水泥の中に、それぞれの営みに余念もない。玉葱はほの白い坊主頭をふくらせ、遠くの方で家鴨が鳴いてゐる。家畜市場の方から、赤い〔きれ〕を頸に着けた仔牛の群が追はれて来る。物皆が光の微塵にまみれてゐる。けれど私には、それ等を綴り合はせて、私自身の春の感覚を彩る余裕はなかつた。すべてが私に背を向けてゐた。光も、声も、硝子の破片のやうに私の傷口を刺して消えて行つた。私もすべてに背を向けた。道ばたの石くれを、一つ一つ溝川へ蹴りおとしながら、あてもなく歩きつづけた。石で打殺された青い蛇をも見た。砂塵を捲きながら目の前を真黒に〔はし〕り去る貨物列車をも見た。けれど、春の香気にとりのこされた私の魂には、悪魔さへ見むきもしなかつた。

 いつか、毒蜜のやうな夕闇が土壌からにじみ出し、花々の息吹に睡る野の涯には、遠い〔しあはせ〕のやうに人の世の〔あかり〕が瞬たいてゐた。私は再び、生きものの気配もない紫雲英畑の中の家に帰へつてきてゐた。

昼こそは雲雀もあがれ日も霞め野なかの家の暮れて〔かそ〕けさ



花散るや五層の塔の朱の〔さび〕今日の一日を暮れなづみつつ


 白壁づくりの家並が低い軒をつらねてゐる粉河の町は、何時も蜜柑の匂ひに染みてゐた。アカシヤの木立が白い花房を匂はせてゐる駅の前から、一本の道が真直ぐに、西国三番の札所粉河寺の仁王門へ続いてゐる。その道の両側にこびり付いてゐるのが粉河の町である。

 打田には物を売る店が無かつたので、いつも買出に出掛けて行つた。目つかちの肉屋のおかみさん、リンコルンのやうな髯面の果物屋の亭主、翼のやうに耳朶みみ〔たぶ〕のひらいた本屋の主人公などと、いつか知合になつてゐた。

 子供の死んだ報せを受けてから二三日の後、粉河の町へ買出しに行つたが、私の悲しみ――自分の子供が死んで、いつの間に葬式が済んだのか知らずにゐたなどと云ふ、他人事だつたら馬鹿馬鹿しいやうな繰言を聞いて貰へさうな知合ではなかつた。少しばかりの買物を済ませると、巡礼達の鈴の音に〔つ〕いて粉河寺へ向つた。

 仁王門を這入ると、赤い旗を掲げた甘酒茶屋に金色の釜が光つてゐる。銀杏の老樹の下を過ぎると、奉納者の名を一つ一つに刻んだ石の玉垣の向ふに、僧坊の黄色い土塀が低く連なつてゐる。

 アメリカ移民の多い土地柄だけに、金門湾の写真や眼の碧い人形などが、戦利品の鉄砲や日本刀などと共に奉納されてゐる絵馬堂には、白い手甲に檜笠の巡礼が二三人休んでゐた。彼等の疲れた眼は、折柄の夕陽を浴びながらひとしきり散りまがふ花吹雪の中で、地面に描いた輪の間を跳び跳び石蹴りの遊びをしてゐる子供達の姿を、黙然とうちまもつてゐた。

 大きな紅提灯の吊るされた山門を抜けて、鍵の手に折れた敷石路が、七八階の石段となつて本堂の前に続くあたりに、白衣の一団が、鈴を鳴らしながら御詠歌を歌つてゐた。「父母の恵は深き粉河寺……」暮れるとも無く暮れおちてゆく入相〔いりあひ〕の空に滲み入る哀調は、この幾日かを誰に語ることもなく過してきた私の歎きを、とめどもなく涙にうるほした。

 それにしても、父母の恵のあまりに薄かつた我が子の短かい命――青い岩塊を積上げてところどころに竜舌蘭を植ゑた築山のかげで、絶えては続く鈴の音に、聞くともなく耳を澄ませてゐると、日を経る儘にやうやく実惑となつて迫つて来る我が子の死がまざまざと感じられ、石の肌に冷たい涙をおとしながら、匂やかな宵に移つて行く千金のいつ〔とき〕を、私は声を呑んで〔な〕いた。

 やがて人影のまばらになつた本堂の前に額づいて、あの故郷の墓の下に眠る我が子の瞑福を祈りながら帰つて来ると、夕暮れのしじまに、金鱗をひらめかしながら緋鯉の跳ぶ泉水のかたはらの鬼子母神堂に、墨文字のにじんだ奉納の手拭や赤い足袋などの間に、何処の母親の念願か、一房の黒髪がさむざむと夕闇を吸つてゐた。


  萌えいづる銀杏の大木夕づきて灯ともりたまふ鬼子母観音



  兆しくる熱に堪えつつこれやかの環が声を息つめて聴く


「環女史来る。」の噂が待望となり、待望が愈々現実となつて、三浦環女史をこの島、長島愛生園の礼拝堂にお迎へしたのは、一昨年の紀元節の当日であつた。この日女史は岡山で公演される忙しい日程の中を、態々わざわざお訪ね下すつたのである。ふだんはソプラノなどには怖毛をふるつてゐる老人達までが、続々と礼拝堂へ集つて来て、神妙に膝を正してゐた。

 やがて、導かれて這入つて来た女史の面は、さつと沈痛の色が走つた。堂に溢れた今日の聴衆の異様な相貌が、女史の鋭敏な神経をかき乱したのであらう。まことにその通りで、一人前の顔形を具へたものは一人も無い。今日まで華やかな聴衆の前でしか歌つたことのない女史には、怪奇にも無残にも映ったのであらう。

 不自由な手を叩き合す寂しい、けれど、ひたむきな拍手の中に幾つかの唄が歌はれた。私は環女史の肉声を聴くのは今日が始ママめてであつた。人の世を離れたこの島で、ゆくりなく聴くこの人の声は美しくも悲しかつた。殊に、お蝶夫人の最期の唄――床の上に掌を突き、肘を突き、花模様のを惜気もなく曳きながら、短剣を咽喉に擬して歌つたお蝶夫人の最期の唄を、私は何時までも忘れることが出来ない。

 歌が終つてから挨拶をされた言葉の中で、自分は今迄数多あまたの人々の前で歌つて来た。外国の皇帝や、皇后や、大統領などの前で歌つたが、今日程心を打たれて歌つたことはなかつた、と云はれたとき、女史の眼には美しい涙が光つてゐた。次で、患者総代が感激にをののく声で謝辞を述べた頃には、女史を始め一千に近い会衆は、一つに融け合つたよろこびとも悲しみともつかない感激に、或は落涙し、或は嗚咽してゐた。


  沈丁のつぼみ久しき島の院にお蝶夫人の唄をかなしむ



  おぼろかに器の飯の白く見えてをだやむいたみに朝を〔すぐ〕しぬ


 私の眼は一昨年の正月激しい眼神経痛を起して、しばらくの中に失明してしまつたが、それまでの経過は至つて緩慢で、少しづついつとはなしに悪くなつて来たので、 始の間はさう不自由を感じなかつた。

 嘗ては人一倍視力が強く、遠くの方のこまかい物迄他の人よりもずつとよく見え、空気銃の照準なども確で、腕白時代には、雀撃ちでは私の右に出る者はなかつた。ところが、五六年前、ふと、左眼では遠方のこまかいものをはつきりと見ることが出来ないのに気が付いた。私の病気も愈々眼に来たのか、さう思つて、なるべく読書なども控へてゐたが、少しづつ増悪して、それから一年ばかり後の或日、つひに痛みだした。

 ぢつとして居るとさうでもないが、眼球を動かしたり押へたりするとひどく痛む。鏡で見ると真赤に充血してゐる。診察を受けたら虹彩炎だとのことで、アトロピンを注して貰ひ、眼帯を掛けてゐると暫らくして〔よ〕くなつた。この頃から、それまではどうしても掛ける気になれなかつた黒い眼鏡を掛け始めた。痛んでは治り、治つては痛みして居る中に、視力は次第に衰へ、新聞の活字などはもう見えなかつた。その中に右の眼も痛み出して、左右交る交るに痛んだり治つたりしてゐた。身体全部の調子が良くなると眼の痛みも遠のいた。

 この頃、癩予防協会で作つた新薬の沃度大楓子油の注射を受けたところ、割合によく効いて、普通の大楓子油では効果の無かつた、皮膚の〔くろず〕んだ血色が次第によくなり、腫れも退〔ひ〕き、胃腸の下痢症状もなくなり、大変調子がよかつたのであるが、この注射をすると、一時的に局部の皮膚に黒い色素が沈澱するので、普通の人はあまりやりたがらなかつた。その為か、間もなく中止になつてしまつたが、普通の大楓子油のやうに化膿する憂も少なく、効果もまさつてゐると思はれるので、もつと学術的に臨床実験を繰返して見て戴き度いと思ふ。私だけでなく、大楓子油よりよく効くと云つて居る人も相当にあるので、この儘になつてしまふのは惜しい。

 話が少し脱線したが、眼の方は、薬をさしたり、罨法をしたり、吸入をかけたり、いろいろ手をつくしたけれど、病気そのものの進行が止まらない以上、眼だけがよくなる筈もなく、左眼では、どんなに近づいても人の顔を弁ずることが出来なくなり、右眼も九ポイントの活字位迄しか見えなくなつて来た。

「俺も愈々盲になるのか。」さう思ひながら、自分をとり囲む色相の世界――庭先の花や、草や、空や、雲に、儚い愛着の思ひを籠めて、訣別の眼差を送つたのもこの頃であつた。縁側にさしてゐる柱の影や、畳を這つてゐる蟻の姿など、何んママでもないものがはてしない深さと美しさをもつて、脳の髄に沁み入つた。アルバムに小さく並んでゐる母や妻や子供の顔に、喰入るやうに見入つたことも幾度であつたか。

 私の周囲の光は、影は、〔かたち〕は、色は、私の眼のくらむのに反比例して、次第に鮮かさと美しさを増してゆくやうであつた。

 晴れ渡つた秋も終りのある日、深く澄んだ蒼い空が次第に夕暮の薔薇色に移つてゆく暫くを、裏山の松の梢越しに瞶めてゐると、嬉しいとも、悲しいとも、楽しいとも、苦しいともつかない、おそらく私が曾つて経験したあらゆる感情が、一瞬に迸つて、脊柱の端から脳の髄までを、ぢーんと貫いた。

 いつか私は涙をさへ浮べてゐた。聖書にも、経典にも、曾つてつひに一度も心からの親しみを感じることの出来なかつた私に、まさに喪はれようとする肉身の明の最後の光に、神は自らを現し給ふたのである――そんなことを思ひながら、蒼然と暮れ落ちてゆく大地に、私の限りない愛着を感じてゐた。


  暮れ蒼む空に見えくる星一つさし翳す手に〔つ〕きてまた一つ



  あらぬ世に生れあはせてをみな子の一〔よ〕の命をくたし捨てしむ


 在るに甲斐ない命、あらゆる望とよろこびから逐ひ〔の〕けられた私の生命を、兎に角この世に繫ぎとめたのは、子供等の笑顔と、母の眼と、妻の言葉であつた。これらのどれか一つが欠けてゐたら、私は、敢て生き永らへてゐようとはしなかつたかもしれない。

 かうして一日一日が暮れて行つた。十余年を過ぎた今では、命のある限りは生恥を曝して居たい程の心持になつてゐる。それにしても、年若い妻を、この儘寡婦にしてしまふのは無惨な気がして、それとなく再婚のことを仄めかしたが、妻は言下に拒否した。両親の隅に何か安からぬものを感じながらも、今では素直に妻の好意を受けてゐる。

 瀬戸の内海に望むある癩療院に、明日は旅立たうといふ日の午後、私達は子供二人と町はづれの野道を歩いた。苗を植ゑるばかりに鋤返へされた水田の面を掠めて、燕の群が飛交ひ、処々の梨畑には、桜桃〔さくらんぼ〕程になつた青い果が鈴なりになつてゐた。いつか大きな鮒を釣り上げた溜池の〔ほとり〕には、白い乳牛が草を食んでゐた。

 子供等の小さい方は乳母車の中で機嫌のよい笑ひ声をたててをり、大きい方は、畦道を駈け廻つて蛙を追ひかけたり、小溝を飛越えて梨の実を拾ひ集めたり、遠くから呼びたてたりしてゐた。すべてが平和に移つて行く初夏のかんばしい昼過ぎの大気の中を、言葉少なに歩きながら私達は、遠い稲妻となつて閃く宿命の敵意を感じてゐた。

 一わたり歩き廻つてから、灯のともり〔そ〕める頃、町に一軒しかない支那蕎麦屋で、父の家に同居してから絶えて久しい水入らずの食事をした。小さい方は乳母車の中で無心な寝顔を仰向け、大きい方も、赤く染らママれた肉の切れや、グリンピースなどをつついてはしやいでゐたが、やがて私の膝の上で小さい寝息を立て始めた。ポケットには青い梨の実が一ぱい詰つてゐる。思はず微笑を見交しながら、私達は、二人の子供の寝顔の上にも、影のやうに忍び寄つてゐる明日の別れを犇々ひしひしと感じた。

「あなたが達者で、こんなにしてゐられるんだつたら……」

 呟くやうに云ふ妻の眼には、抑へきれない涙が光つてゐた。


  梨の実の青き野道にあそびてしその〔あけ〕の日を別れ来にけり



  癩に棲む鳥ママに盲ひて秋ひと日替へし畳をあたらしと嗅ぐ


 この療養所に来てから二度目の畳の表替である。前の度にはまだ眼が見えてゐて、淡緑の面をくぎる黒い縁の直線が、すがすがしく眼にも映つたのであるが、今でも眼には見えなくとも畳のあたらしいのは快い。切味のよい剃刀の手ざはりである。もぎたての果物に歯をあてた感じである。

 嗅覚にしみる特有の匂ひ――畳の上に生れ、畳の上で育つて来た過去のあらゆる経験が、この匂ひに籠つてゐる。我々の一生といふのも、あたらしい畳が古びてゆく過程の幾つかに外ならない。火屋〔ほや〕の真上の天井のひとところだけが円く明るくなつてゐるつり洋灯ランプの下で、ふと目を醒した夜更の静寂の中に、弟の産声を聞いたのも、その弟が七つになつた夏の或日、半夜の熱に急死したのも、そのあくる朝ふと触れた弟の額の、魂ををののかす冷たさに、世の無常を知りそめたのも、棺を閉ぢて泣崩れる母をたしなめた父の眼にも涙が光つてゐるのを見た時、私も声をあげて泣いてしまつたことなども、皆畳の匂ひに染みついた記憶である。

 六畳の部屋を三畳だけ替へて、畳屋は帰つて行つた。今日は生憎茶菓子になるものもなかつたので、明日は何かお茶うけの用意をしておかう、そんな事を云ひながら、 室の中や縁先などを掃いてゐた附添さんは、外した縁の障子をはめ込みながら、「ひどい夕焼だなあ。」と呟いてゐた。その夕焼の空から吹いて来るのであらう。障子の破れを鳴らす風が、室の中を水のやうに流れ去る。

 用事を済まして附添さんも帰つて行つた。あたらしい畳の室には夜の冷気が静寂となつてたちめる。庭先にはまた蟋蟀こほろぎが鳴き出してゐた。


  清畳〔すがむしろ〕にほへる室の壁ぞひに白き衾を展べて長まる



  畳師の〔くや〕むともなく云ひつるは惜みなくすてし薬料のこと


 ――独りで退屈だつしやろ。眼の見えん人は気の毒や。わしかいな、三四年したら本卦ほんけがへりや。この頃病気も落着いて、こない作業も出来て、有難いことだす。畳屋だつか、先祖代々の商売でな、畳を叩いてお〔まんま〕を頂いてましてん。病気が出てから十年ばかりになりまんねん。始め時分顔が腫れて、もうあかん思ひましたが、長いことお医者に通うて、やうやうおさまりましてんやが、身代かたなしだす。〔かか〕は悴と暮してまんが、わしがこない処に来てるさかい、嫁取りも出来しまへん。酒だつか、もう飯より好きだんが、ここぢや呑めまへんよつて、この頃慣れましたけんど、当座は辛うおました。今でも魚の新らしいの見ると、熱爛の味思ひ出しまんな。昨日売店へ烏賊いかが来たさうやが、作業から帰つて買ひに行つたら、もう売れてしもうてあらへんねん。をしい事しました。コレラだつか、この〔ぢぢ〕、こはい事も何もあれしまへん。うまい物喰うてころつと死ねたら極楽往生や。ハハハハ……やれやれ、この辺で一服しまほうか。これはこれは、お茶菓子だすか。遠慮なしよばれます。酒の気が切れたら甘いもん好きになりましてな……社会やつたら表替一枚で三十銭貰うて、六枚したら一人前となつてまんねんが、ここでは三枚十銭だんな。先頃、作業部長 (互選によつて任命される患者の役員で作業の世話をする人) と論して、一本やり込めてやりましたわい。ここでは、社会と違うて、着物〔べべ〕からお〔まんま〕まで皆頂いてますのやさかい、慾なこと云ふたら罰があたりまんが、さあ、作業賃減さう云はれたら、ええ気持せんもんでなあ。人間て慾なもんや……ほう、浄瑠璃がかかつてまんな、日曜の放送だすな。文楽やろか、文楽はええなあ……さ、おほきに御馳走〔ごつそう〕さん。どれ、四時迄にもう一枚仕上げまほうか――。


  永からむ世すぎの〔しろ〕に習ひてしその職にゐて島になじむか



  捜りゆく道は空地にひらけたりこのひろがりの杖にあまるも


 眼が見えなくなつて、始めて杖を突いて出て歩くのは可なりな勇気を要する。人に見られるのが嫌だと云ふよりも、自分自身に対する侘しさに堪え難いものがある。自由自在に出歩いてゐた道を、杖に頼らなければ一歩も歩けないと言ふ、生活能力の低下に対する忌々しさである。

 眼が見えなくなつてからはずつと閉ぢ籠つてゐたが、或日美しい小春日和に誘はれて、始めて杖を突いて出掛た。嘗ては、無雑作に歩き廻つてゐた道である。大体の木石の配置は記憶に残つてゐる。にも拘らず、杖の先でさぐるとだいぶん趣が変つて来る。嘗ては気にも止めなかつた極く僅かな路面の凸凹が、ともすれば身体の平衡を脅す。第一、自分の脚からして頗る不確なもので、まつ直ぐに歩いてゐるつもりでも、何時の間にか横へそれてゐる。狭い道の処はまだよかつたが、十字路のやうになつた一寸した空地へ出ると、杖は忽ち方位を失つてしまつた。

 記憶をたよりにあちらこちらと叩き廻つて見たが、思はぬ処に溝が出来てゐたり、物が置いてあつたりして、くるくる廻つてゐる中に、雨水の溜つてゐたらしいぬかるみに吸はれて、片方の靴が脱げてしまつた。よろめく途端に足袋をよごすまいとして、二三度ちんちんをしてから一本足で立ち直つた時には、脱げた靴のありかは見当さへつかなくなつてゐた。仕方がないので、杖を支へにしばらく片足で佇んでゐた。

 それにしても、網膜にものを映す一生理機能の喪失が、我々の生活能力を如何に局限してしまふ事か。今の私には音さへしなければ、命を狙ふ銃口が目の前に擬せられてゐる事をさへ感じる事が出来ない。肉身の支へを失つた精神力の、唯心論が拠つてもつて人間存在の根源なりとする意識とは、何と言ふ哀れな低能児でしかないことか。

 私は自分の立つてゐる所が空地の〔ど〕の辺に当るのか、視覚を借らずに感得出来ないものかと、全精神を集中して天来の啓示を待つた。が、唯心論を侮蔑した祟りか、識閾に影を落して来る何ものも無い。人間の叡智とは、舞ひ上つて方位を悟る鳩の本能に比して、かくも凡庸なのだ。かの論者を今の私の位置に立たせたら、何と言ふであらう。それとも、彼等はこの空白をも、神秘主義の泥絵具で塗潰してしまふであらうか。

 肉身の機能を抹殺して、理性の外縁に直に人格的な神を凝集させたり、個体の経験が肉身を越えて生存すると説く霊魂不滅論などの感傷には、どうも近づき難いが、さりとて、音波のみしか聴き得ない耳や、光波だけしか見得ない眼の行動半径を飛躍することの余りに少ない唯物弁証法の精悍な認識論にも、安んじてしまふことが出来ない。

 彼等の論理は強靭でもあり精緻でもあるが、立論の根底をなす前提に――前提の設定に――前提を設定することそれ自身に対する懐疑がある。けれど、科学も理論も、前提なしには成り立たないとすれば、かう言ふ見解はすでに知性の限界を超えたものである。が、単なる知性にとどまらず、人間性能の総和によつて、側面から照射されるとき、彼等の論理は、始めて複雑微妙な立体感を現はして来るのであらう。

 例へば、科学が分析し尽すことの出来ない微量の物質に、我々の味覚が反応するやうに、論理の網の目にすくひ残された雰囲気が、知性以外の方向から、(例へば感性の如き) を通して、人生や社会に対する我々の見取図に反映し得るものであり、また、さうなければならない――。

「どうした? やあ、靴が脱げてゐるね。ちよつと待つて……よしよし、それでちやんとはけたよ。何処へ行くね、××寮? それなら、この柵を伝はつて行くがいい。真直ぐな道だから……」

 聞き憶えのある声だが、誰だか思ひ出せない。それにしても、私の全精神をつくして窺ひ知ることの出来なかつた私自身の位置を、彼の肉眼は、至つて簡単に指示して呉れた。それが、飽くなき真実究明の過程を、睡魔のやうにまやかしてしまふニイチェの所謂『隣人の愛』に過ぎないにしても、行きずりのささやかな好意は、いつか私の心を明るくしてゐた。


  天国も地獄も見えぬ日のひかり顱頂にしみて酒よりも〔うま〕

出典[編集]

  1. 内田守人『明石海人全歌集』年譜、短歌新聞社、1978年

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この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。