坂本龍馬全集/阪本龍馬の未亡人/二回

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(二)


 お良さんは、寺田屋の危難と、霧島山の逆鉾とを、繰返して、力を入れて語つた。
「あの時、私は、風呂桶の中につかつて居ました。これは大変だと思つたから、急いで風呂を飛び出したが、全く、着物を引掛けて居る間も無かつたのです。実際全裸まるはだかで、恥も外聞も考へては居られない。夢中で裏梯子から駆け上つて、敵が来たと知らせました。その時坂本は、自分の羽織を手早く行燈にかぶせて、光を敵の方に向け、自分と三好さんは暗い方に隠れて、敵が表梯子から上つて来る鼻先へ、鉄砲をつ放しました。私はしばらく様子を見て居ましたが、危険あぶないと思つたので元の裏梯子から湯殿の方へ引返しました」

 此時のお良さんは、沈着な女ではなかつた。半分は無意識に、他動的に、急を坂本に知らせたのである。あとから考へて、どうしてあの時、あんな挙動に出たのか、自分でも不思議な程だつたと言つだ。
 こゝで少しくお良さんの性格を書いて置かう。お良さんは当時の婦人気質かたぎから言うと、御転婆な、京女には似合はない、大酒呑のおしやべりであつた。俗に言ふ侠の方で、随分人を食つた女であつたらしい。
 坂本はぞつこんお良さんに惚れて居たが、坂本を首領かしらと仰ぐ他の同志達は、お良さんを嫌つて居た。第一に生意気な女である、坂本を笠に着て、兎角他の同志を下風に見たがる、かう言つた性格が、坂本の死後、お良さんを孤立させた。坂本の姉のおとめは、誰よりもお良さんが嫌ひであつた。

 だから、坂本の家は、甥の高松太郎が相続してお良さんは坂本家から離縁された。と言つても其当時、戸籍は無かつたので、離縁に就いての面倒な手続きは要らなかつたのだ。
 離縁されたお良さんには、母と、弟と、二人の妹があつた。弟の消息は忘れたが、次の妹光枝は中沢某に嫁ぎ、末の妹君江は、菅野覚兵衛の妻となつた。かうして母と弟妹を抱へたお良さんは、同志達にも見放され、いつ迄も寺田屋に居ることも出来ず、丁度そこへ西村松兵衛といふ候補者が出来たので、松兵衛さんを二度目の良人として、母と弟妹を世話したのである。
 松兵衛さんは、京都の大きな呉服屋の若旦那で、京大阪を往復する時、いつも伏見の寺田屋を定宿として居た、その関係で、寺田屋の女将おかみお登世が、お良さんに同情して二人を結びつけた。
 更に、お良さんの口裏から推察すると、松兵衛さんは、坂本の恋敵であつたらしい。坂本と松兵衛さんと、どちらが早くお良さんに想ひを懸けたかは判らないが、兎も角、松兵衛さんは競争に失敗して、お良さんを諦めて居たのである。それが、刺客に襲はれて、中岡慎太郎と共に、坂本が近江屋ママ助の二階で斃れたので、松兵衛さんには、もつけの幸ひであつた。つまり坂本を殺した刺客は、松兵衛さんから見ると結びの神だ。

 一旦諦めた恋が猛烈に蘇へると、寺田屋の女将に切々の恋情を打明けた。そこへお良さんが同志には見放され、坂本家からは離縁となり、母と弟妹を抱へて、途方に暮れたので松兵衛さんの恋は順調に進行して、遂にお良さんを手に入れたのである。
 一方は天下の俊傑、一方は大道商人のドツコイドツコイ屋、何と奇妙な取合せではないか。