梶井基次郎(三好達治)

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本文[編集]

(一)[編集]

ものの本では読み知つてゐても、自分らの上に身にひきつめて考へてみることのなかつたやうな、異常な出来事を次から次へと送り迎へしてゐるうちに、この十年ばかりはあわただしく経つてしまつた。遠く汽車にまで乗つて買ひ出しに出かけたり、リュック・サックの重かつたことは、うとましい記憶にまだ鮮やかに残つてゐるが、そんなことでもいつどこへどんな序で出かけたのだつたかしらと思ひかへしてみると、おほかたは記憶がうすぼやけてゐてとりとめがない。追々戦争が激しくなると、書物を読むにも気乗りがせず、友人たちの消息も次第に杜絶え勝ちで、あてのないあわただしい生活にのみ齷齪としてゐたから、気持の晴れ晴れとするやうなこともなく、世間並に私の気持もずゐぶん擦れつからしに荒んでしまつてゐたことを、今日になつて思ひかへす。
立原道造君や中原中也君や、それからまた間もなく津村信夫君や、同じ雑誌に集つてゐた仲間の若い詩人たちが前後して仕事の半ばで世を去つたのは、まだ事変中の比較的世間も穏便な時分のことであつたが、その後の世相がにはかに嶮しくめまぐるしく変転したので、あの人たちの記憶も今では、間に置かれた歳月のせゐばかりでなく、今日に気疎く遠々しくまことに隔世の感を以て思ひかへされるのが、私としては我れながら奇妙な感じがするくらゐである。
「梶井基次郎君の思出」を書いてみないか、といふのがこの雑誌の慫慂である。梶井君は三君よりも更に一昔ばかりも以前、昭和七年になくなつてゐる。あの男とは半年ばかり一つ下宿に暮したこともあつて、その後も生活の上仕事の上で交渉は甚だ密接であつたが、さすがに二十年の余を隔てると、どうやらその梶井基次郎も私にとつてだいぶ遠方の人となつてしまつた、――のをこの度慫慂をうけた何か不意を打たれたやうにまざまざと悟つた。梶井の生涯に就ては、以前は必ず眼を蔽ひたいやうな悲痛な感じを伴つてしか思ひ浮べることができなかつたのが、今日では必ずしもさうではない。――立派な生涯だ、若くて死ぬのも、文学者にとつては必ずしも悪くはないね、と梶井のなくなつた自分にある時岸田國士さんがさういはれたが、それを聞いた時私にはもう一つぴつたりと納得ができなかつた。とまあ今日になつてみるといはざるを得ない。梶井基次郎の終焉記は梶井のお母さんが書かれたのに中谷孝雄君がいくらか手を入れて当時の雑誌にのせられた。私には到底それを読む勇気はなかつたので当時読まないままに過して、今日もまだ読んでゐない。今も読みたくはない。そのお母さんも既に故人になられて久しい。もちろん梶井には兄弟の外遺族はない。そんな事も淋しいが、さつぱりとしてゐてそれも悪くはない。と唯今の私はいくぶんよそよそしくさう考へることができる。御影石に刻んだやうなあの仕事だけはいつまでも残るだらうから。


久しぶりに梶井全集のところどころを読みかへして見た。「橡の花」といふのをまづ最初に読んでみたが、とどこほりなくすらすらとある高い澄んだ気持で読みつづけることができて、たいへん素直ないい感銘をうけた。私が読者として近頃気むづかしく注文がましい小言屋になつてゐるのではあるまいかと、つい實はそんな不安もいつからか心に兆してゐたが、それはさうではなかつたと、読み了つて安心をした序でに、近頃の小説はどうも揃ひも揃つて程度が悪い、それは間違ひないと、小言はまづそちらの方にかたふけることにきめた。日附を見ると「橡の花」は一九二五年梶井が二十五歳の作であるからそのそつない行とどいた老成――といふのも少し違ふが、とにかく腰の落ちついた揺ぎのない態度にまづ驚く。この時分梶井は既にもう充分ある精神の深さに達してゐた。見渡したところ私ども仲間の輪をどこまでひろく拡げてみても、この点彼に較べて秤りにかかりうる者はまづあるまい。あの若さと、あの均整のとれた重量感、天分といへばそれは素晴らしい天分であつた。しかしながら梶井の場合、均整のとれてゐたのは、寧ろその作品の上で専らさうであつて、彼自身の人物の方は、さやうにたやすく均整のとれるたちの人柄ではなかつた。その人物と作品とのかねあひは、これは複雑な点でも人並以上どうも複雑であつたやうだから「橡の花」に先だつて、二四年に「檸檬」を書き上げてから、彼は既に「城のある町にて」「泥濘」「路上」等数篇のいづれも今日決して見落ちのしない佳作を連続発表してゐる。彼はもうその頃その程度には充分たしかに成長しきつてゐたのである。彼を早成の才と認めても恐らく間違ではあるまいが、それにも拘らず彼自身には老成とか早熟とかといふ言葉にふさはしい、人物としての感じはまづ殆んど見当らなかつた。思ふにそれが梶井といふ人物の無二の魅力であつて、いつも彼には畑のちがつた大勢の友人があつたから、訪問客が多すぎた。例の病身のこととて、客の散じた後はげんなりと疲れてゐるやうな有様で、仕事の方にも差つかへたに違ひない。それをどうかと思つて、さし出がましく私が忠告を試みると、彼は不機嫌にとり合はなかつたばかりでなく、後にはそれをまた笑ひぐさの一つにして、私の無遠慮を嗜なめ顔の態度であつた。彼には寸蔭を惜むといふ風のところはなかつたし、健康を慮るといふ風のところもなかつた。(――私とて人様のことはいへない義理だが、それは棚に上げて。)その作品の中にも屢々語られてゐるやうに、彼にはひどく自堕落な一面、その点では身のほど知らずといふやうな、どこまでも野放図に大胆な一面があつた。かういふ人物は所詮秀才型ではない。彼は寧ろ耽溺型とでもいふのであつた。思慮分別はずいぶん彼の深いところに匿されてゐるにはゐたが、それは屢々実生活の上で無力であつたし、むろん好奇心は旺盛で、快楽追及に熱心なことも想像並外れの方だつたから、要するに自制心はいつも失敗する方の側のタイプで、破綻百出、支離滅裂、処置なし、といふ風の羽目にもどうかすると立到りかねないたちで、ひと口にいつて放蕩児の素質をまづ彼は我々の間では第一番に多分に備へてゐた。その上彼には、何かロマンティクな冒険心――といふよりは冒険慾とでもいふやうな積極的な旺盛な意慾があつた。彼の繊細な感能とこの無鉄砲な意慾とは、彼の素質のうちでもとり分け異色のあるもののやうに私には見うけられた。(「路上」参照)かういふ困つた天分を背負ひこんでゐたのだから、その青春がめでたく平和に納まりよく品のいい坊ちやんのやうには捗るわけがなかつた。彼は高等学校に五年間も永居をしたが、それにしたつて厄介な病気にとりつかれた不運な結果といふよりは、彼が好んで病気を厄介にこじらかした放埓の結果とでもまあいつた方が、少くとも閻魔の庁では通りがよからうふしがあつた。彼もそれを後には充分認めてゐて、俺の病気は俺が好んでつくり上げたやうなもので、遺伝的な素質でも何でもないんだから、誰に苦情のもつてゆき場所もありはしないと苦笑を洩してゐた。
梶井はだいたいさういふ人物であつたから、殆んど私小説に終始したといつてもいい彼の作品に、自らそれだけの鬼気を孕んだ深み厚み或は凄みのやうなものの影のあるのは、当然のことと聞く人もうなづき易いであらうが、あの端然とした均整の美は、それだけではまだちとその出身がはつきりせぬ。
彼には先ほどから述べ来つたやうな耽溺型の性質が多分であつたが、それと共にまた強烈な正義感や潔癖や従つて敏感な反省癖やがその年齢の若者らしく極めて活潑に働いてゐたこと、これも申すまでもない。それは彼の作品の表裏に行わたつてゐるし、日記や書翰の到るところに溢れ出てゐる。それらを見落す人はあるまいが、彼にはまたその外に無邪気と辛辣とを搗きまぜた自然なユーモラスな一面もあつて、速度はいささかスローモーだが反つてそれが効果的に巧みに人の意表に出るその一種の機知の手加減にも、なかなか風味と愛嬌があつた。この方はよつぽど控へ目に圧し殺されるやうにしてやはり作品の表裏にちよいちよい活用されてゐるのを見る。(「交尾」その他)
こんなことはいくら説いても果しのないことだらうからこれ位でひと切りとして、さて以上のやうなところではまづ梶井文学の背景のその遠景くらゐのところをかい撮んだまでで、秀才型でもなく、儕輩を凌ぐに急な早熟型でもない梶井が、二十四五歳で「檸檬」以下「橡の花」それに続いて同年には「過去」のやうな誌的好短篇を見事なたしかさで書き得たその秘密にはまだどうも触れ得たやうな感じがしない。梶井が五年間高等学校にくすぶつてゐた間は理科に籍を置いてゐた。彼の文学志望は、そのいつ頃から眼ざめたにしても、これも決して早期の方ではあるまい。彼がコースを理科に選んだのは、電気工学の技術者で後に住友電気に勤務された令兄の感化によるもので、中学時代には専ら数学物理に熱心な級友たちとグループなど作つてゐたさうだから、もともと梶井にはさういふ方面の才能も一人前はあつたやうだから、もしかすると理学士梶井基次郎が出来上つてもいつかう不思議でなかつた訳である。


私が梶井と親しく交るやうになつたのは、大正十五年匆匆の頃からで、作品の方でいふと「ある心の風景」あたりからであつた。彼につきあつてみて追々と眼を睜つて驚いたのは、第一にその熱心な読書態度であつた。彼は比較的読書範囲も広い方で、それに敬意を払つたが、それよりも彼の集中的な読書法の徹底したやり方には最も敬服せざるを得なかつた。彼はある時かういつた、俺はまあトルストイと夏目漱石だけは読んだといへるだらうな。彼のさういつたのは勿論全部を残る隈なく読んだといふ意味で、「戦争と平和」のやうな長篇を今正確に記えないが少くとも二度は読んでゐたし、「アンナ・カレニナ」はこれが三度目だといひながら、その為喀血の後の臥床の中でも読んでゐたのを記憶する。漱石全集は縦からでも横からでも(――と彼はさういつた)日記書翰のどこを問はれても速答の出来ない箇所はない。それを楽しさうにさういつたが、決して法螺のない印象をうけた。彼はいつたいに動作にも言語にもやや粘着的なところがあつて、軽俊な方ではなかつたが読書はかなり快速な方かとうかがはれた。その上辛抱がよかつたから、案外大部のものおもはかがいつた。辛抱のよかつたのは、努力を楽しむ風でもあつたが、その上彼には異常な没入的なところがあつたからで、惚れこむとどこまでも夢中に追及的に暇と精力と空想力をつぎこむといふやうな、例の耽溺型がここでも顕著であつて、単純な根気のよさよりは、よほど内容に生彩と活力とのあつたのが想像された。彼の読後感には彼特有の創造的なところがあつて、それをまた彼は語るのを楽しみ、その楽しみに於ても同じくまたやや耽溺型であつた。
トルストイ漱石の耽読は高等学校時代の一仕事だつたやうだが、彼の人物と作品との形成にそれが徒労であつた訳がない。相当の誇りと用心深い注意とを以て(――従つてまた謙虚に)それを軽々しく表面的なものとして借用しなかつたのはいふまでもないが、彼の深層に於て充分彼らしく変曲された上でそれがその当座でなく終生彼のものとなつて消失することのなかつたのは、どこを捉へて指摘をすべき筋合のものでもないが、私にはただどうも漠然としてまた歴然たる事実のやうに考へられる。とり立ててこれをいふのは、世の梶井文学読者にこんなことを申上げておいてむだであるまいと思つたまでである。
しかしながら私が梶井を知つた頃には、以上の両者はもうだいぶ遠方に経過された両駅のやうな風で、この機関車はそこばくの平野を走つてその後また新しく第三駅を経過したばかりのやうであつた。その第三駅は志賀直哉、その後梶井自身も何ほどか成長をとげてゐただらうから、この出会と探究と把握とはその上それが身近な目の先の事実でもあつて比較的なだらかに容易に手軽に捗どつたでもあらうか。ただ作品の上への投写の方でいふと、この第三者がその心理的拠点の選びとりと簡潔な切り捨てと倫理的余情の含みとないしは文章用辞の末節等に於て、比較的皮層的に最も影響するところが多かつた。理由はさまざまに考へやうもあらうが、時代の親近性といふごく平凡なことを見落しては迂闊な手落ちとならう。梶井を中心に、白樺派一般の影響は私もその仲間であつた同人雑誌「青空」一般の空気の間にかなり濃厚であつて、私には少し鼻につく位のものであつたのを記憶する。白樺派一般といふのをもう少し詳しく単純にいふと、志賀七分武者三分といふやうな配分のところであつただらうか。
梶井はその「志賀さん」派であつて、もと懐ろの広い彼のことであるからその示唆のうけとり方も単純に一本槍ではなかつたが、第一作「檸檬」を除いて、「城のある町にて」「泥濘」「路上」「過去」「雪後」それから先ほどの「橡の花」等にそれぞれ何がしかづつ多面的に角度をいざらせつつ、つまり努力と工夫とを加へながらうけとつてゐる。殊に「橡の花」と「城のある町にて」に於て、その濃度が著しく、この二作はそれら初期の作品の中の二佳作をなしてゐて、感銘が甚だしい。私は実をいふと志賀文学よりも一層よろこんでこの二作の方をとるだらう。理由は後に少しく説くところがあらう。序でにいふと「檸檬」は梶井にとつては一寸異風の作で、その後につづく数作からはほとんど全く孤立し、「Kの昇天」の如きに到つてもなほその脈絡をそこに見るといつては当らず、まだそのずつと先の「櫻の樹の下には」「器樂的幻覺」等に到つてやうやく初めてその後日の変貌の僅かな片鱗を見るのであるが、「青穹」「筧の話」となるとまたそれからもそれてしまつて、さうしてこの行先は彼の短い生涯に断たれてそのままになつてしまつた。所詮梶井文学中に異色を放ちながら、その小支脈たるにとどまつた程であるが、いはばこの分脈は彼の文学に於ける洒落っ気と遊戯気分との良き面白き現れであつた意味が多分で、正にその意味でまた彼の人柄の一面を語つてゐるのが、面白い。
私は梶井の齢にも似合はぬ見事な均整美を問題にして、つい推尋が枝から枝に分れて余事にかかづらつた。もう一度もとへ戻らう。彼のあの若々しく水々しい一面に簡素美をとくと心得た行文の均整美は、「志賀さん」(――と梶井は常にさう読んで夢寐にも敬称を略さなかつた、ばかりでなく対者がむげにそれを省略するのさへ苦が苦がしげな顔つきだつた、)からの多少の譲りうけは先にもいつたやうにある意味である程度たしかに承認するとしても、(それはまた本質的な幸運な出会ひでもあつた、初期日記の文体など参照。)それにしてもまだそれだけでは腑に落ちかねるある深さが、さうだ近代的な幽玄味とでもいひたいほどのある深さが、そこになほ手づかずに残されるのを私は覚える。この深さ、それは志賀文学にはない。


梶井の精神傾向には一種の跪拝癖があつた。彼は一面昂然たる、(――強くきつぱり)両翼を張つた姿勢のやうな精神を保つことを心懸け絶えず念願しただらうが、それと必ずしも矛盾はなく、殆んどそのこと自身がそのまま一種の跪拝癖に不思議と素直につながつてゐた。「ロマンティック・スピリット」といふ語を好んで彼は口にした。さういふ時に彼には一種の英雄崇拝癖が心に働いてゐるのが看取された。美少年崇拝スポーツマン崇拝といふやうなその年齢の者にありがちな傾向を、彼は中学生時代にやや著しく経験した。西田幾多郎博士に途上で出会ふと、彼はそのことを日記に誌した。市河三喜先生に帽子をとつて一揖することに彼は若干愉快を感じてゐるやうだと、皮肉な仲間が指摘をした。先の「志賀さん」もその一つである。以上はつまらぬ引例だが、いささか飛躍していへば、先ほどのトルストイ夏目漱石などへの傾倒、異常なその耽読も、単なる熱心さの上にこの跪拝癖がつけ加へられて初めてあの彼らしい読み方となるのだらうと、私には考へられる。それは彼の読後感の語りぶりにも躍如としてうかがへる、一種うぶな類のない没入の仕方を指していふのである。
彼のその跪拝感がそれでは宗教的な傾向をとつてその領域にまで向つて行くかといふと、それは決してさうではなかつた。そこのところがその頃私にはいささか希妙でもあつたが、彼には郭然と限られた世界があつて、彼の関心はすべて広い意味での人間世界に厳密に限られてゐた。さうしてその限界は彼にあの重厚な濃密な風格雰囲気を与へるかつきりとした仕切りのやうに、――丁度襖をたてきつた一室のやうな具合になつてゐて、それは窮屈といふよりもその場合私にはその明確なのが頼もしく気持がよかつた。
詩人とは褒め讃へる人の意だ、とポール・クローデルはいふ。梶井の跪拝癖にも勿論その褒讃の深い意識が常にたゆみなく働いてゐて、その意味で彼は真の詩人であつた。さうして彼のあの深さは殆んど常にその彼の詩に由来する全く情感的のものであつたし、あらうとした。深く強い情感の支配があの建物の均衡を微妙に与へてゐた。


(二)[編集]

私は私のうちに住みまた同時に私から喪はれようとする梶井の影像に就て前回多少のおしやべりを試みた。けれども私の饒舌は、その途すがら、すばやく飛び去るもの影を手網で掬ひとらうとする人のやうに、ただあやしげな身ぶりを人前に示すのみで、さていつかうに手応へのないもどかしさを先刻以来しきりに覚える。彼の歿後ほとんど二つ昔を隔ててゐるからばかりではない。一箇の詩人、一人の作家は、彼らが上出来であればあるほど、その構造が複雑微妙なばかりでなく、彼等の影像がいつまでも一つの生き生きとした経過、活潑な運動として人の心に働きつづける作用をもつてゐるからであらう。彼らの性格の、犬牙錯綜した矛盾に就てのみではなく、その清澄な力強い統一に就さへも、我々はつひに何ほどのことを語りうるであらうか実は甚だあやしい。


私は先日以来この続稿に筆をとらうとしてしきりに躊めらつてゐた。さうして全集のあちらこちらを読み漁つては、興味と感動の断続するのに身をまかせてゐた。いづれの頁を開いても殆んどそれらは私には二十回目の読直しで、初見の箇所といふのはないが、それでも今度は久しぶりで、以前には見かけなかつたものの影が、やはり眼さきにちらつくやうな感を覚えた。だから私には、作者の影像――私の梶井の影像はそれだけ不安定で、その点いささか心もとなくなくもないのは先にいつた。以前には私の眼に映らなかつたものが、側面を変へたやうに、今さら新らしく眼に映るのは、たしかな足場に定着された一つの作品の周りを廻る、時間のせゐといふものだらう。さうしてそれが作品といふもののその名に価する身許証明といふものだらう。


私はそんな風にして全集のあちこちを読みかへしながら、ある時はある漠とした鋭い感動の一閃に、殆んど耐へることができないで、眼さきの曇つてくるのを覚えた。私は力めて気持をとり直すやうにしながら、そんな後ではきまつて生き生きと甦つてくる、とりとめもない記憶をたよりに、彼の影像をもう一度たしかにはつきりと捉へてみようと試みた。
さて私は、前回の私の饒舌のつづきに、今何を語らうと欲してゐるのだらう。私の語らうと欲するところは、しきりに錯雑し、しきりに断続して、いつかう秩序を得さうにない。それを仮りにやむを得ないこととして、それでは私はここに一つの作品を借りて来よう。それは「冬の日」がとわけいくつかの理由でこの際私の手がかりに恐らく最も都合がよささうだ。


「冬の日」は一九二七年三月の発表となつてゐる。作者は二十六歳。この前年の暮れに彼は病に耐へずつひに東京を去つて伊豆の湯ケ島に赴いてゐる。転地と半途退学とをくどく奨めたのはこの私であつた。彼はまだそれまで籍のあつた東大英文学科を卒業するつもりでゐた。私はそれが健康の上からいつても彼のためには殆んど無意味に近いことを説くと、彼はひどく不機嫌になつて口を緘してしまつた。しばらくして彼は、これまで永らく、自分はとり分け母に苦労をかけて学校の方をここまで来たのを、今さらあつさり放擲しては、母はどんなに驚き悲しむだらう、そんなことをしては何とも申訳がない、といつてまた私から眼をそらしてむつつりと口を緘した。そんな夜はそんなことで話は結着しなかつたが、間もなく私が冬休みで郷里に帰つた。その後で彼はやはり伊豆へ転地をしたのであつた。さうしてそのまま、学校の方は、自然半途退学といふ結果になつた。彼が決心にぐづついたのも無理はなかつたが、事情は全くやむを得なかつたのを、お母さんも後には得心されたであらう。「冬の日」はその転地の以前に書き上げられてゐたのか、或は伊豆から原稿が届いたものか、恐らく前者であつただらう、唯今たしかな記憶はない。「冬の日」はさういふ彼の蝕まれた青春、通学に耐へない位の悪い健康状態で書かれた。当時私たちは、麻布の狸穴に、一つ家の二階に、二部屋きりのその二部屋を占領して暮してゐた。ある晩彼が唐紙越しに私を呼んだ。
――葡萄酒を見せてやらうか……美しいだらう……
さう言つて、彼は硝子のコップを片手にささげるやうにして電燈に透して見せた。葡萄酒はコップの七分目ばかりを満して、なるほど鮮明で美しかつた。それがつい今しがた彼がむせんで吐いたばかりの喀血だつたのは、しばらくして種を明かされるまで、ちよつと私には見当がつきかねた。彼にはそんな大胆な嫌がらせをして人をからかつてみる、野放図と茶目つ気の入りまじつた何かがあつた。「冬の日」の環境(ミリュー)は、今日から顧みて何とも名状しがたい空想と夜探しと乱雑な読書と果しのない文学論と、それから素寒貧との、無鉄砲な書生生活であつたが、――その上彼には次第に悪化してゆく不安な病勢がその大きなおまけであつたが、それにも拘らず私たちは必ずしも悲惨な夢ばかりを見てゐた訳ではなかつた。「葡萄酒」は殆んど全く彼の負け惜しみではなかつた。と今も私にはさう思へる。彼にはそんな、半径の大きい諧謔の世界が常にあつた。絶筆「のんきな患者」にも、磨きこまれた後年のその余影はたしかに残つてゐるではないか。この風味は一方で、作品の表面には甚だ認めがたいけれども、彼の文学一般の色でいへばかぐろい沈痛味と、実は分ち難い交渉と常に微妙に案外広い範囲に亘つて保つてゐるので、ためにあの息苦しい作品の一つ一つが、例外なく不思議に甘美ななつかしい詩美で支へられてゐるのを見るのであらう。幸ひに私はどこかでその一端なりともつきとめて見たいものだと考へる……。


「冬の日」の書き出しは、
「季節は冬至に間もなかつた。尭の窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺に立つてゐる木々の葉が、一日毎剥がれゆく様が見えた。
ごんごん胡麻は老婆の蓬髪のやうになつてしまひ、霜に美しく灼けた桜の最後の葉がなくなり、欅が風にかさかさ身を震はす毎に隠れてゐた風景の部分が現はれて来た。
もう暁刻の百舌鳥も来なくなつた。そして或る日、屏風のやうに立ち並んだ樫の木へ鉛色の椋鳥が何百羽と知れず下りた頃から、段々霜は鋭くなつて来た。」
と筆を起してまづ季節を叙してゐる。季節を叙する節物は誰しも容易に身辺から仮り来るものであるが、梶井の場合は、やや仔細に見るとその仮り物道具立の一つ一つが、極度に吟味されて注意深く排列されてゐるのが、まづ眼を射る。眼を射る、と私のいふのは、吟味と排列のために筆者は甚だ多くの準備を要したであらうと察せられるとことのものが、惜しげもなく肝心要の急所のほか量でふと九分九厘までが綺麗さつぱり切り捨てられて、簡略に要を得てゐるといふ位のことではなく、その程度は、一種象徴的な域にまで迫らうとするかの如き意気組みにさへ見えるのが、一見して即ち眼を射るからである。「季節は冬至に間もなかつた。」はもうこれ以上切りつけやうのない一句で、その煎じつめ方は数学的に厳密ではないか。「尭の窓からは……」以下もこれに同じで、叙事は落葉蕭散たるさまをいふのであるが、同時にその立体的空間のたたずまゐも併せ叙して、緊切明晰ほとんど文章はために寸詰りになりかねない位のぎりぎりのところまで圧しつめられ、最後の土俵際のやうなところでかつきり支へとめられてゐる。「一日毎剥がれてゆくさま」といふのは、単に揺落といふのでなく、襟もと寒い森が連日吹き荒ぶさまをも蔭に寓したのであらう。それなどはちと梶井さんの流儀が度を過したあたりではあるまいか、どうだらう。「ごんごん胡麻」といふのはちと長つたらしい名詞だが、その言葉の念入りな音韻には何がしか面白味があつて、作者はこの際それに無意識でゐるのではない。「老婆の蓬髪のやうになつてしまひ」は寧ろそれに引きずられてゐるのであつて、おつきあひの責ふたげの形。「欅が風にかさかさ身を震はす毎に隠れてゐた風景の部分が現はれて来た。」は例の省語法で、落ち葉の――それも多量の落葉の四散するさま自体にはことさら触れない。といふのは「風景の部分が現れて来た。」の方には実は重点があるので、作者はそこのところに興がつてゐる。その興がりのやや念入りなところが即ち梶井式で、それをまた人に訴へずには気がすまない、のも梶井式、修辞の素朴な上に極めて洒落つ気に富んだあたりも最も梶井式な点といつてよからう。
「もう暁刻の百舌鳥も来なくなつた。」の「暁刻」、先ほどの老婆の「蓬髪」、この作品の第二節に「風景は俄かに統制を失つた。」とあるその統制、「夜が更けて夜番の撃柝の音が……」とあるその撃柝等々簡約を旨としたふりの用語、簡約なだけにやや抽象的の要素が勝つて写実的描写的とはいひ難い語彙の嵌めこみもまた、梶井の文章の一特色といへばいひ得るであらう。しかしながら、これらの場合をなほ仔細に見ると、もはや早朝に百舌鳥の来なくなつたといふこと、ごんごん胡麻の婆娑としたさま、風景に対する心理の動擾、夜番の遠い柝の音、いづれもみな例外なく決して写実的現実的感じの稀薄などころではない最もリアルな素材であつて、作者の意図では、これらを抽象的に手取早く片づけるつもりの微塵もないのは、前後の懸り結びからも察せられるし、また事実上の効果の上でも、作者の意図は見事に筋が通つて生きてもゐるが、しかしながら梶井の慣用するこれらの簡約なやや抽象的な語彙は、その駆使活用に於てやはり特殊な、彼一流の観念的産物とでもいへばいひ得るものであらう。
的確と簡約と、従つて贅沢極まる切り捨てとを旨として一歩も譲る気色のない彼のスタイルは、その平凡な叙述に於ても、切りつめ切りつめ、音韻と心理の抑揚に極度に注意し、虚飾を一切払いのけた素朴な意匠でしかも瀟洒の用意を欠かない、それらに就ては先ほどちよつと触れておいたが、そのやうな用語や修辞の手のこんだ巧みの外に、もう一つ、丹念な事実の積み重ねの後に来るある高まりから、たとへば浪頭に運ばれるやうに、身を翻して、観念的の叙述そのものを、一足飛びに、そのまま現実的な感度にまでもつてゆかうとする。彼には表現上の野心がかねがねつき纏つてゐた。
「暗い冷い石造の官衙の立並んでゐる町の停留所。其処で彼は電車を待つてゐた。家へ帰らうか賑やかな街へ出ようか、彼は迷つてゐた。どちらの決心もつかなかつた。そして電車はいくら待つてもどちらからも来なかつた。圧しつけるやうな暗い建築の陰影、裸の並木、疎らな街頭の透視図。――その遠くの交叉点には時どき過ぎる水族館のやうな電車。風景は俄かに統制を失つた。そのなかで彼は激しい減形を感じた。」
とあつて、叙述は直ちに遠い幼時の思出に移る、このあたりの呼吸は正しくそれであらう。引用はなほ不充分だが、前後を引きつづき読まれる読者には消息はいつそうはつきりしよう。「蓬髪」も「暁刻」も、強ひていへば遠い根源に於て語の発想は凡そ同理に根ざしてゐる。「撃柝の音」はその後の「おやすみなさい、お母さん」の突然なリリシスムとの呼応の上で、かう簡潔にやや概念的にあるのがこの際反つて位の高さをまず所以のやうな具合のところである。


要するにこれをもう一度言ひかへると、梶井のスタイル殊にこの「冬の日」の場合の如きを見ると、その散文は殆んどのつけの冒頭からもう散文の埒外にはみ出さうはみ出さうと試み企てつづけてゐるやうな風であつて、のがれる術もない病鬱な肉体を以て絶えず絶望と斬り結び或は戯れあひつつ筋の方は運ばれる、その幾多のエピソードの起伏と屈折の度ごとに、叙述の行文は沈静な散文のままさながらの姿でそのまま直ちに詩に化さうとする野心と冒険とを繰りかへす。野心と冒険とは屢々危きに遊ぶことに成功して、梶井の所謂ロマンチック・スピリットは隠密な成功を収めて、なほいくらか余裕を示してゐる位のものである。その点で私はこの「冬の日」を彼の作品中最も愛するものの一つに数へて憚らない。さてそれではこれを殆んど散文詩と見なすことから離れて、小説として眺めて見るとどうであらうか。いつぞや「のんきな患者」執筆のやや前時分であつた、彼は自ら歎ずるやうな口ぶりで、「俺なんかまだ小説らしいものは一度も書けてゐないんだから……」こんな身体になつてしまつたのではどうにもしやうがないではないかと憮然たる様子であつたのを忘れない。彼の言葉をそのままここに採用するのは無惨で忍びないが、もしもそれを敢て採用するなら、彼のその自己評価は、たとへばこの「冬の日」などのために最もよく嵌つてゐるのではあるまいか。つい迂闊に用語の穿鑿遠く余談にそれた、もう一度もとへ戻らう。


先の冒頭の引用は、そのあとすぐ次のやうに引続く。
「冬になつて尭の肺は疼んだ。落葉が降り溜つてゐる井戸端の漆喰へ、洗面のとき吐く痰は、黄緑色からにぶい血の色を出すやうになり、時にそれは驚くほど鮮かな紅に冴えた。尭が間借二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯は夙つに済んでゐて、漆喰は乾いてしまつてゐる。その上へ落ちた痰は水をかけても離れない。尭は金魚の仔でもつまむやうにしてそれを土管の口へ持つて行くのである。彼は血の痰を見てももうなんの刺戟でもなくなつてゐた。が、冷澄な空気の底に冴え冴えとした一塊の彩りは、何故かいつもぢつと凝視(みつ)めずにはゐられなかつた。」
「冬の日」の主人公尭が、即ち筆者梶井自らでなければならないある必至の筆つきは、もうこのあたりから既にはつきりとしてくるのであるが、その尭は朝の洗面の時に吐く自らの喀痰が、黄緑色から鈍い血の色に変り、さてそれが鮮血になるのを見て、「時にそれは驚くほど鮮かな紅に冴えた。」と叙してゐる。もちろん「冬の日」は小説だから客観的仮託の世界を持つのは当然だが、ここのこの語気にはそれとは別に、尭の眼自身が、自らの吐きだしたものを無意識裏に何かひとごとらくしかづけて見てゐる、見方が感ぜられる。それが驚くほどであり、鮮かに美しく冴えて見えた、とつい筆を下した所以であらう。そこのところにこの筆者独特の、ものの見方観照に当つて一種生来の踏ん張りのあるのが、例の「葡萄酒」の場合のあれが垣間見える。その片鱗はその先の「尭は金魚の仔でもつまむやうにしてそれを土管の口に持つて行くのである。」と発表し、更に、「――が冷澄な空気の底に冴え冴えとした一塊の彩りは、何故かいつも凝視めずにはゐられなかつた。」にも反転しながら脈絡する。要するに、少しとぼけたやうなふりなのが、不思議にものの姿を明瞭にし、心理の(ここでは悲痛な心理の)振幅を大きくする。
抜け眼のない筆者は、それを先刻腹の底では充分承知をしてゐるので、叙述はここで一転して甚だ大胆な抽象的な、――散文的とよりは殆んど詩的なタッチで以て、もう一度前者の効果に上塗りをかけるやうな呼吸でひき継がれる。
「尭は此頃生きる熱意をまるで感じなくなつてゐた。一日一日が彼を引き摺つてゐた。そして裡に住むべきところをなくした魂は、常に外界に逃れようと逃れようと焦慮(あせ)つてゐた。――昼は部屋の窓を展いて盲人のやうにそとの風景を凝視める。夜は部屋の外の物音や鉄瓶の音に聾者のやうな耳を澄ます。」
盲人おやうに凝視する、聾者のやうに耳を澄ます、といふやうなセンテンスは、ここにもいくらか梶井式ゆきすぎのあるのはともかくとして、元来彼が散文的叙述とは申しがたい筆のつけ方ではあるまいか。


「冬の日」に於ける梶井の詩的精神の躍動は、このやうなぎこちなさをも時に敢てしようとする位、やや露骨な位に直接で、その直接な切羽つまつた詩的衝動は、肉体の危機をこらへて絶望と闘ひ戯れる尭の、しきりに場面と挿話とを交替するこの単調にして変化に富んだ一篇に、一貫した主題となつてゐる。それは先にもいささか触れておいた如くであるが、梶井の詩的衝動は、尭の悲痛を訴へ叙するに熱心である傍ら、また屢々、優雅な余暇を楽しむやうに、しきりに微物への観察を試みるそのいくらか道草めいた点に於ても、副産物的な彼の余情を展開してゐる。
「冬陽は郵便受のなかへまで射しこむ。路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持つてゐて、見てゐると、それがみな埃及のピラミッドのやうな巨大な悲しみを浮べてゐる。――」
「尭は掃除をすました部屋の窓を開け放ち、籐の寝椅子に休んでゐた。とヂユツヂユツといふ啼声がしてかなむぐらの垣の蔭に笹鳴の鶯が見え隠れするのが見えた。(中略)食慾に肥えふとつて、なにか堅いチョッキでも着たやうな恰好をしてゐる。――尭が口まねをやめると、愛想もなく、下枝の間を渡りながら行つてしまつた。」
「穉いときの古ぼけた写真のなかに、残つてゐた日向のやうな弱陽が物象を照してゐた。」
「街のアスファルトは鉛筆で光らせたやうに凍てはじめた。」
等々なほこれらは頻出する条りを指していふのである。一種無邪気な童心めいた詩情が躍動してゐるのでないか。「冬陽は云々」は冬至同人間に評判が好かつた。それにつづく路上のピラミッドの影は、実は私の伝授で、彼は借用人であつたが恰もよく作中に嵌めこまれてゐる手際に見とれた記憶がある。伝授と借用といへば、「古ぼけた写真のなかに云々」といふのもまた私の入れ智慧である。彼はこのやうな比興とも空想ともつかないものを極度に喜ぶたちで、うまくいひあてる、といふことに就ては日頃やや夢中になる方で、些細なことにも相好を崩さんばかりであつたことが屢々だつた。さうして人の分をも拝借して欣然としてゐたのは微罪で甚だ罪がなかつた。拝借も辞さなかつたが、彼自身もその点では甚だ巧者でそれがいささか内心得意であつたかも知れない。鶯が堅いチョッキを着たやうだとか、街のマスファルトが鉛筆で光らせたやうに凍てはじめるなどといふのは、如何ともあの男らしい比興で、なほその興がる足もとがつい迂闊にふらつきさうにも見えるのは、
「例へばカフェー・ライオンの卓子に一人で腰をかけて、白服を着た男がカクテールを振つてゐるのを眺めたり、――その男ははじめカクテールを振つてゐるが、しまひにはカクテールに胸倉をとられて小突きまはされてゐるやうに見えるので滑稽だつた。……」(琴を持つた乞食と舞踏人形)
といふやうな場合にさうであつたが、それが流石に次のやうな場合には、更にもう一層彼らしい本領の領域に於て、出来の手厚い母岩の間に抱きこまれるやうにとり溶れられて生かされてゐるのを見る。この方は「冬の日」の第四章――
「その少女はつつましい微笑を泛べて彼の座席の前で釣革に下がつてゐた。どてらのやうに身体に添つてゐない衣物から『お姉さん』のやうな首が生えてゐた。その美しい顔は一と眼で彼女が何病だかを直感させた。陶器のやうに白い皮膚を翳らせてゐる多いうぶ毛と鼻孔のまはりの垢。『彼女はきつと病床から脱け出して来たものに相違ない』
少女の面を絶えず漣漪のやうに起つては消えるほほえみを眺めながら尭はさう思つた。彼女が鼻をかむやうにして拭きとつてゐるのは何か。灰を落したストーヴのやうに、そんなとき彼女の顔には一時鮮やかな血がのぼつた。」


私は「冬の日」に就て、その枝葉末節に些細な穿鑿を加へ加へしつつここまで来た。私はもとこの一篇を読者と共に通覧するつもりで評価するつもりでもなかつた。ただ私は作者の風貌、私にのこされたその残像をかくしつつその機微の急所で補足しようと試みたのであつたが、捉へるに従つてとり逃がしとり逃がしつつ到頭それも大方失敗したやうである。どてらを着こんだ「お姉さん」のやうな少女は、そのままの姿でその後幾年を隔ててまた「のんきな患者」に姿を見せるのであるが、それをどうひき較べて見たものであらうか、今は考へ及ばない。ただ梶井が詩情を託することを試みた、尭の鼻の先で電車の吊革にぶら下つてゐた少女は、その絶筆に到るまで彼の関心から消え去らうとはしなかつたところのものの影であつたことをここではいつておきたい。灰を落したストーヴのやうに……などといふのは、先の引例のあの際、作者がいささかの比興に興じすぎたきらひの多少は感ぜられる思ひつきであつたが、彼がその興がりとその持続との対比に於て、もう一度彼の興がりを顧みて見ると、或は梶井といふ男の一面が一寸変な側面からいくらかはつきりしないであらうか。
彼のあの長い半径をもつた諧謔の領域、その一端の興がりは、彼が生得の域の長いあの持ちこたへで以て人生を観ようとした、さうしてそれを果した、その間合ひの切り方の一つの手だてであつたかも知れない。先程の「琴を持つた乞食と舞踏人形」(断片)の末尾のところは、尻切れとんぼながら次のやうに終つてゐる。トタンで張つた琴を持つた憐れな乞食は、盛り場から巡査に追ひ立てをくふのである――
「憐れな盲人よ。恐らく彼は鮭を落してゆく熊のやうにその巡査が立ち去つてゆくのを待つてゐたのだらう。しかし巡査はまたその何歩か先で同じやうに立留つて意地悪くそれを見てゐるのだつた。彼は引返して盲人を罵つた。盲人は歩き出した。おう、その恰好!背中へ斜にかけた琴と茣蓙はいかにも大仰に見えた。しかもその大仰さがむつきを股に挟んだ赤ん坊のやう……(欠)」

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