梶井基次郎の覚書 三

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本文[編集]

中村梅八氏から「錯綜」誌上に亡友梶井基次郎のことを何か書けと言ふお手紙を貰ひ、喜んでペンを執つた。が、梶井のこととなると、次から次へと種種な思ひ出が湧き起つて来て、何から書き出していいか解らなくなる位である。さうして、終にはペンを忘れ、唯ぼんやり机の上に顎肱を突いて、あの優しかつた故人の面影を忍ぶやうな始末である。だから此処では、単に僕達だけが知つてゐる、一つの内緒話をしてみよう。それは唯のお話に終つてしまふだらうが。
それは僕達の三高卒業当時のことであつた。僕達は三高卒業後は伴伴東大に行き、今迄の放埓な生活を改め愈々本気で文学に志を立てようと申合せてゐた。さうして時機をみて同人雑誌出さうと言ふ計画をさへ抱いてゐた。僕達はその計画に対する青年らしい希望と、懐かしい京都の町ともお別れだと言ふ感傷とに酔ひ、毎日愈々放埓な生活を続けてゐた。が、試験の結果、どうも梶井の卒業が危いと言ふことになつた。僕達は心配して毎日梶井の下宿に集つた。さうして梶井が「教師廻り」に出て、例の祗園下のカッフェに集つて梶井を待つてゐるのである。すると夕方梶井は文字通り息を切つて来るのであつた。僕達は梶井の姿を見ると、もう何もかも忘れてしまひ、いつものやうに無茶苦茶に酔払つて、文学を人生を、さうして馬鹿話を語り合つた。が、またその翌日は誰からともなく梶井の下宿に集るのであつた。或る時なぞ梶井は僕達の待つてゐるカッフェへ人力車に乗つて駆け着けて来たことさへあつた。が、梶井は幸ひにも卒業することが出来、大丈夫卒業出来ると思はれてゐた一人の友人が落第してしまつたのであつた。其の夜、僕は何がどうなつたのか何も覚えてゐない。唯、気が附いてみると、僕は梶井と中谷と三人東京行の汽車に乗つてゐた。
所が、僕はその年の夏の休みに京都で面白い話を聞いた。それは校長が入学式の時に梶井のことを美談として新入学生に話したと言ふことである。つまり梶井は病気であることを両親にさへ秘して勉強した孝行者になつてゐたのである。梶井は例の「教師廻り」の時、何故療養しないのかと言ふ先生達の問に対して、両親の心配に耐へられないから、と答へたのであつた。
話は一寸余談になるが、僕は在学中からその校長の芸術の無理解に対して快く思つてゐなかつたので、その話を聞くと早速梶井の前でその話をし、学校教育の馬鹿馬鹿しさを痛罵したのであつた。梶井は僕の話を聞くと瞬時非常に不愉快な顔をしたが、軈てううんと呻るやうに腹で耐へてしまつた。が、実際梶井は先生達の理解することの出来ぬ程、親孝行者であつた。がそれと同時に親不孝者でもあつた。それが梶井の面白い処であり、偉大な所であつた。梶井はいつも此の二つの反面を持つてゐた。彼は狂はしい慾望と、烈しい後悔と、神神しい精神とを持つてゐた。この矛盾、而もこの大きな矛盾こそ、梶井の面白い処であつた。梶井は決して先生達に嘘を言つたのではなかつた。事実は嘘でも、嘘ではない。あの時の梶井の精神は事実以上に神神しいものであつたに相違ない。さうして彼はあのカッフェへ毎夜悪魔を連れて飲みに来たのに相違ないのだ。僕はそれを思ふと、当時「狸俥に乗るの図」などと言つて梶井をひやかしてゐたことに、顔が赤くなるのである。

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