梶井基次郎のこと

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本文[編集]

京都時代の梶井については、私も度々書いたし、中谷孝雄も書いた。が、東京へ来てからの梶井については、あまり語られてゐないやうだ。
梶井は初め学校に近い、本郷四丁目の交叉点の近くに住んでゐた。それから目黒に移つたのだが、梶井はそれを「過去」にかう書いてゐる。「碁会所。玉突屋。大弓所。珈琲店。下宿。彼はそのせゝこましい展望を逃れて郊外へ移つた。」さうだつた。梶井の下宿は、碁会所の所を横に入る路地の奥にあつた。大弓所といふのは、大弓を作る店で、数人の職人が端然と坐つて、無愛想な顔をして、弓を作つてゐた。この大弓所だけは、梶井の気に入つたらしく、時々、得意気に弓を作る真似などをして、私達を笑はせた。目黒の生活は「泥濘」「過去」「路上」などに描かれてゐる。
梶井が私や淀野隆三のゐた麻布へ越して来たのは、翌年(大正十四年)の六月であつた。それから私達は毎日のやうに往き来するやうになつたが、この麻布時代の中頃までが、その健康も小康を保つてゐたやうだし、「以前京都にゐた頃は毎年のやうにこの季節に肋膜を悪くしたのですが、此方へ来てからはそんなことはなくなりました。」(橡の花)梶井にとつては一番明るかつた生活だつたやうに思はれる。といふのは、何より、その頃梶井はしつかりと文学に立命してゐたし、またその厳しい情熱を持ち続けてゐた。だから、勿論、梶井は私達と銀座のライオンや、プランタンや、本郷の百万石などで酔ひ痴れ、新橋の橋桁を渡つたり、電車の運転手の名札を奪つて、運転手に追ひかけられたり、相変らず馬鹿気たこともしてゐたが、最早京都時代のやうな、あの大童になつて、苦悩と、自暴と、後悔の間を彷徨するやうなことはなかつた。さうして、例へどんな激しい苦悩も、あの絶望的な病気へも、じつと凝視して動ぜぬ、作家の眼が出来てゐた。
その頃の梶井の生活は、実に豊であつた。花を愛し、樹を眺め、芭蕉を慕ひ、音楽を好み、(音痴な私は、音楽について語ることは出来ない。)雪舟や、セザンヌや、ゴツホを娯んでゐた。また梶井はその室内を自分好みの道具類で飾つた。ある時、梶井は私に西洋皿を見せながら、その思ひつきににこにこしながら言つた。
「これ、エリザベス朝時代の皿だよ。」
梶井の耳には、汽車の車輪の音も、雨の音も、鉛筆の走る音さへも、楽しい音楽に聞えたり、時には我慢出来ない音楽に聞えたりした。また彼の目は、空の色を、雲の色を、椎茜の色を、さうして闇の色さへ見分けられた。さうしていつも楽しさうにそれを話した。私も、そんな梶井の後について、一生懸命勉強した。ある時、私は瀧井さんの「夢幻抱擁」を読み、すつかり感動した。私は早速そのことを梶井に告げた。梶井は非常に喜んでくれた。
「瀧井といふ人は、えらい人やで。君がその人のもの好きになつたの、いゝと思ふな。瀧井さんの本、僕も気つけとくわ。」
それから梶井は「夫の貞操」や、「妹の問題」など、瀧井さんの本を見つけると、直ぐ買つて、梶井の名を署名して持つて来てくれた。私達は「無限抱擁」や、「真一の戀」について話す時、「松子さん」などと、作中の女の人の名を呼んだりした。その頃、中谷は、淺沼嬉實や武田麟太郎と長栄館といふ下宿にゐて、毎日玉を突いたり、花札を引いたりしてゐたが、そんな梶井や私達のことを「麻布派」といつて、揶揄した。私達は早速「本郷派にも困る」といふ風に言ひ返してゐたが、梶井は実際「立派な物」が非常に好きであつた。私達はその頃「青空」といふ同人雑誌を出してゐたが、ある時、梶井はその「青空」を島崎藤村先生の所へ、郵送せずに、持つて行かう、と言ひ出した。藤村先生のお宅は梶井の下宿から直ぐだつたが、梶井は正帽をかぶり、袴を履いて、持つて行つた。藤村先生も閾際に端坐して、受けて下さつた。梶井はまた私が殆ど正帽をかぶらないのが、余程気になつたらしく、古い友人から帽子を貰ひ受けてくれた。が、それを持つて行つて、また私に「甘い」とか、「狸親爺(その頃の梶井の渾名)」とか言はれるのも癪だつた。がまた考へれば折角買つたのだし、私がどんなに素直に受けるかも知れない。あゝ思ひ、かう思ひ、迷ひ迷つて、たうとう帽子を持つたまゝ部屋の中をうろうろしてゐたが、急にそんな自分が、さうしていつも気の強い私が不愉快になつた。もうどうにでもなれ――梶井は激しい舌打をして、仰向に寝転んでしまつた、と言ふ。数日後私はその話を友人から聞き、急いでその帽子を貰ひに行つた。梶井はいかにもほつとしたやうに大きな手で髪を掻き上げた。
そんな梶井が、「青空」の経営にも、急に異常な熱意を持ち出し、広告を取りに、銀座や本郷の街中へ出かけて行くやうになつた。さうして銀座西の広告取扱店で、あるカツフェの広告を貰ふことになつた。ある暑い日、私も一緒にその紙型を貰ひに行つた。が、金とともに受け取つたその紙型には、裸体の女が皿を捧げてゐるやうな画があつた。梶井はその店を出ると、私に言つた。
「な、我慢しようよ、いや、意に介せずとしよう。けど君、鉦をかう撮んで持つて来よつたね。」
しかしそんな無理がいけなかつたのではなからうか。再び血痰が出だしたのはその秋のことであつたのだ。私はいつもそれを思ひ出す度に、心苦しいのである。梶井はあの厳しい顔に、実に人懐しい微笑を浮かべた。今もこの短文を書きながら、その懐しい微笑はまざまざと蘇り、一層の心苦しさは増すのである。

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