コンテンツにスキップ

時艱にして偉人を憶ふ

提供: Wikisource

本文

[編集]

「時艱にして偉人を憶ふ」(新島先生と私)

一

『時艱にして偉人を憶ふ』国家多事多難の際に、新島先生の歿後満五十年を迎へまして、今更の如くに思ひ出が多い事を覚えます。

明治二十二年の初の事であったと思ひますが、私は十八歳の一青年、東京で苦学して居りました。自分の属する極めて小さな青年会をどうして盛にしたらいいかと言ふ間題に逢着致しました。

名士を招聘して講演でも伺ったらいいであらうと言ふのが、第一の思ひ付であります。折柄旭日の昇るが如き勢で、名声が次第に高くなりつ.つありました、徳富蘇峯先生をお訪ね申上げ、演説をして下さいと御依頼したのであります。先生快く之を引受けられて、京橋区の新富松づめにありました小さな教会堂においで下さって「品行」と言ふ演説をせられた。

「信仰」ではない「品行」の話をするのである。「信仰のことは始終聞いておいでになる事と思ふので品行の事を話す。英語でキヤラクターと言ふのがそれである」といふやうなお話である。キヤラクターと言ふ英語をはじめて覚えたのであります。段々その品行のお話の説明せられた後、「只今京都に新島襄先生と言ふ方が居らるる」。

二

「この方の前に罷り出て、何でもいいから三十分もお話を申上げて帰つて来ると、あと一週間位は気がすがすがとした事を覚える。斯の如きものが品行のある人の感化である」と言ふ様なお話がありました。

私は非常に感動したのです。さういふ人が一体日本人の中に居るのかしらん。現在でもさういふ人が居らるるものとすれば、何が何でも一度(ひとたび)行つて、その感化を受けたいものだと考へました。

どうやら路用だけ調へまして京へ出掛けて参りましたのが二十二年の夏の初であります。只今でいふ夏期大学とか、夏期講習会とかいふものの初まりの夏期学校!第一回の夏期学校を同志社で催され、それに出席かたがた京都へ参りまして、何とか方法をつけて其の儘留りたいものだ、新島先生の感化の下に留りたいものだと考へたのであります。

第一回の夏期学校に列つて居ります間に、数回先生のお顔を拝しました。お話を承つたのはたつた一週、十五分か二十分ばかりのお話でありました。「維新の改革は主として薩長の青年の手によつて成されたものである。青年が基督のために立たんければならん」と言ふ様な意味の話があつたと覚えて居ります。先生は病気がよつぽど進んでおいでになつた。みるから血色の悪い、カないお姿に拝したのであります。

外の話は略しまして、それが縁となりまして、私は京都へ留る事となりました。私の恩人の吉田清太郎君が、一度新島先生をお訪ね申上けて、「今度入学しました学生の中に、これこれの学生が居りまする」というて私の事を噂して呉れたさうであります。すると先生は吉田君を通じて、「また若いからしつかりやれ」と伝言して呉れとの話であります。

三

新島先生、一寸一度でも私の事を考へて下すつたといふのが有難い、「まだ若いからしつかりやれ、まだ未熟だからしつかりやれ」という意味にとりまして、今日までも折々思ひ出して有難く覚えて居る様な次第であります。

時は明治二十二年の夏から秋にかけての話であります。二十三年の初には先生は帰らぬ客となられましたから、もう此の世で御目にかかる機会が無くなつたのである。それでありますから、私は先生をえらい沢山知つて居る者といふ事は出来ません。其の当時は先生を最も少く知つて居りました者が、今ではどうかすると先生を一番よけいに知つた者の中に数へられる様な機会さへもあるのであります。時の移り変りの速かなるに驚くのであります。

新島先生は如何なる人物であつたらうかといふ事は、両毛地方へ参つて私が申上げるのは遠慮したい位のものであります。私よりくわしい方が幾らもおいでになる。唯御希望に応じまして、感ずるままの二三を申し述べることに致し度いと存ずるのであります。

水師提督ペルリが浦賀に参りました時は、新島先生が十歳の時である。其の年先生が乗馬の稽古を始められ撃剣の稽古を始められて、それから二三年の後には漢学を学び、蘭学を修めなさつた等と言ふ事を聞いて見ますれば、時世が有為多望の一青年であつた新島襄先生の上に、どう言ふ影響を及ぼしつつあつたかを想像する事が出来るのであります。

四

先生が二十一二歳の頃の事であります。江戸で、オランダの軍艦の向ふの沖を通るのを御になつて、ああした軍艦が日本に無い、有つても数艘に過ぎないのである。商船が無い、航海術が彼に大いに優れたものがある。なんとかして之をとりこみ度いものであると言ふ様な事を感じられたのであります。私の郷里に近い、岡山県の高梁の町に、私の学生時代である、一夏を過した事がありました。鐘つき堂がありました。その鐘つき堂の鐘をついて居る親爺さんと、物を言ふ機会が有つたのであります。何ぞ計らんそれが新島先生の古い友違であつて、先生はペートル大帝の事に感ずる処があつて、旁々一度アメリカに行つて、向ふの文物を学んで帰り度いものだとお考へになつて御座る。それには、函館に行つて日本を脱奔するに限る。脱奔しないなら、出て行く事が出来ない時代であります。銀座の或るしるこ屋に這入つて、其の加納某と言ふ後の鐘つき堂の親爺と、話を共にせられたのであつた。

加納君は酒を飲んだ。新島先生は善哉を食べられた。心ばかりの暇乞をせられたのださうであります。

新島先生のお認めになつた手紙が加納某の手に残つて居るのを見ました。君と銀座街頭の店にて善哉を喫し、なんて言ふ曾葉が書いてあつた。「善たる哉」といふ言葉が、巧な筆で書いてあつたのを、未だに目に見るが如く思ひ出す事が出来るのであります。

五

一襲弊衣三尺剣 回頭世事思悠々
男児自在篷桑志 不渉五州都不休
(一襲の弊衣、三尺の剣。かうべを回らせば世事思ひ悠々。男児自ら蓬桑の志あり。五州を渉らずんば都(すべ)て休せず。)

といふのが先生が、日本を脱奔せらるる二日前の詩であつたと承知して居ります。函館に行かれて、函館からアメリカの船に乗つて日本を出られた事は、諸君の御承知の通りであります。

摂理なるかな、上海で乗換へなさつた船の所有者といふのが、ハーデイ氏である。ボストンの実業家ハーデイ氏である。ハーデイ氏は基督の心を心とする実業家であつた。伝道したいのである。健康の都合や家事の事情から致しまして、それが思ふ様にいかない。伝道者の心掛けを以て、実業に従事して居る人である。其の人と相知る様な事の縁が付いたのは、摂理と言はなければならぬ。見所のある青年だと思ひましたから、彼に仕送りを致しまして勉強させ、苦学十年、学問が成つて後に、日本に帰つて来られたのであります。

「新島先生は、吉田松陰をクリスチヤンにしたやうな人物であつた」と言うた人がある。おほきに要領を得た話であつたと考へます。先生は何をせられたか、先生のなさつた所の働はと言へば、申すまでもなく教育と伝道とである。「一年の計は穀を植ゆるに在り、十年の計は樹を植ゆるに在り、百年の計は人を植ゆるに在り」と言ひます。新島先生は人を植ゑる必要を感じられたのである。初からさうではない。基督を見出して後に、その事を切に感じられる様になつたのであります。教育に身を委ねられる事となつた。教育の必要を感じて、之に従事した人は幾らもあります。新島先生は基督の宗教を根抵と致しまして、教育の必要を感じられたのであります。先生の言葉を借用して言へば、「良心を手腕に運用する人物を造る」と言ふ事、これが先生の目当であつたのであります。

六

先生は教育に従事せられた、けれども先生の教育は只の教育ちやない、生きた人間を造る教育であつた。人間を造る。従つて伝道せざるを得なかつたのであります。先生は伝道せられた。その天国へ行けばよい人を造るのちやない。御国を地上に打ち樹つるために働く様な人物を作り度いのが、先生の伝道の目当でありました。教育せざるを得ない。先生に於ては教育に非る伝道なく、伝道に非る教育は無かつたと言うても差支えなかつたであらうと思はれます。

先生は如何なる人物として、其の事に当られたであらうか。私が十八歳の春、徳富先生から承つた話によれば、先生は、新島先生は、その前に罷出て、何でもない話を三十分もして帰ると一週間位は気がすがすがとした事を覚える人物たといふ事である。人格の力がそれをして然らしめたのであります。先生はキリストの感化を受けた人である。※「武士(もののふ)の思び立田の山紅葉、錦きずして帰るものかは」といふのが函館を出られる前の歌でありました。けれ共函館を出られてから十年の後、日本に帰つて来られて、郷里の安中に帰つて参られて、久し振に父上と対面して御座る。思ひ違ひの無い様にと思うて、「一寸御免なさい」といひしな、そばにありました硯箱を引寄せて、巻紙にすらすらと書いた一首の歌を、父上にお目に掛けなすつたと承知して居ります。
※「故郷(ふるさと)に飾る錦は筐の中、身に纏ふべきときにあらねば」
先生は国家を愛し、祖国を思ふ人でありました。けれども先生といへども功名心に駆られざるを得ない。肉につける大望を有たざるを得ない。

※註─「武士の思ひ立田乃山紅葉錦きずしてなど帰るべき」(原作)
七

それは有為なる青年にありがちな事であつたと考へられます。けれど先生は基督を信ずる信仰によつて、それをさへも潔められたのである。先生の右腕として、長い間力を尽されましたデビス博士が、かつて私に言はれたのを思ひ出します。「新島先生も晩年に至つては、基教教の聖霊と言ふ教理に段々重きを置きたるやうになつて居られた」と言ふ事であります。

神の御霊と言ふ教理を、先生は晩年に及んで、愈々深く味うて居られたものと、言ふのであります。己に死んでキリストに生きる。それが先生の信仰上の経験であつたのであります。船の中で、ボーイをしながらアメリカに行かるる途中である。船客の一人から「枕を持つて来い」と言はれた。枕と言ふ英語が判らない。まごまごした後に、ようやく用を辧ぜられた。お客が渡しまする枕を受取りしなに、その枕で先生のほつぺたをうんと殴りつけた。

口惜しくてたまらない。「失礼千万な奴だ。斬つて仕舞つてやらう。」狭苦しい船室に帰つて、刀を抜きにかかつたんたけれ共、もとに納め、人を殺せば自分も殺される。こんな所で、大死をして何の役に立つか、国家の為に何もする余地はないではないか、残念なのを忍ばれた。後に、聖書を読むに至られて、ヨハネ伝の第十三章、キリストが第子を列べて坐らせて、一本一本汚れた足を洗うてお遣りになつた所を読むに至りました。先生、かつて船の中で、癇癪を起した事を思ひ出されたのであつた。深い感動を催されたと承知して居ります。先生は第子の足を洗ひ給うたイエスを学ばれたのである。凡ての者の僕たることを修行せられたのであります。

先生は信仰の人である。いつの事であつたかは存じませんが、アメリカで在学中の話に相違ないのであります。

八

夏休に呉服物を借り受けて、それを携へて田舎廻りをして、一軒一軒売つて歩かれた。或る日、暑い最中、汗だく汗だくになつて、幸び、人通りの少い川のほとりに出て来たので、降りて行つて、シヤツを脱いで、水で洗うて岩の上に干して、暑い日の事である、乾く間、水に泳いで御座る。つひ、深い所へ出掛けてしまつた。先生、泳ぎが一向出来ないお方であつたと承知して居ります。沈みさうである。これはと思つて居ると、良い都合に一人のアメリカ人が通りかかつて、飛び込んで来てくれた。先生飛込んで来てくれた人の肩に手を掛けて、其の儘引張り出されなすつたのである。

救うたアメリカ人が驚いた。救はれた日本人があまり落着いて居るのに驚いた。「君は死にさうになつて居つた癖に、馬鹿に落着いて居つたちやないか」と尋ねると、先生答へて、「まさか、こんな処で死ぬる筈とは思はなかつたからだ」といふ意味の返事をせられたと承知して居ります。言つてしまへばそれだけである。けれども、考へて見れば深い意味があつたに相違ない。先生は神から托された使命を帯びて居ることを信じて御座る。自分は日本に対する使命がある、天職がある、その果さるる迄は死ぬる筈はないのである。死にさうだ、けれど助かるよ、それ誰か助けに来たよ、慌てる事はない。肩に手をかけて、難なく外へ引き出されなすつたのであります。

※「若し我が信をして芥種の如くならしめば、桑畑海となり、海、山とならん」といふ、先生の詩があります。「若し我が信をして、我が信仰をして、芥種の如くならしむるならば、桑畑が海となつて、海が畑となる」。信仰のカである。其の力を信じて起ちなさつたのであります。先生は熱の人であつた。涙の人であつた。
註─休説人事凡険難。公義所存天意関。若使我信如芥子。桑畑為海海為山。

九

「人汝の律法を守らざるにより、我が眼の涙、河の如くに流る」(詩篇一一九・一三六)と昔の詩人は歌ひました。先生はさういふ経験をせられたのである。

学生と教師との間に行違ひが御座いました際、先生が責を自分の一身に負うて、杖を取つて、右の手に杖を取つて、左の手を打たれた。杖が折れて三つになつたと言ふ話は、諸君の悉くが御承知のところであります。

人の罪を我が罪として引受け、仲保者の立場に立たれたのであります。明治二十二年の末に、先生は群馬県にもう一遍やつて来られ病を得られたのであります。病が進んで来たのである。大磯の客舎に行つて、病を癒しなされましたけれども及ばないで、遂に明治二十三年の一月二十三日、五十年前の今日、お喪くなりになつたのであります。私は其の当時、同志社にお世話になつて居りました。最下級生である。それでも幸にして先生の柩を代る代る担ひましたる中の一人として、先生の最後の亡骸(なきがら)の重さのほんの一小部分を、肩に感ずる事が出来た事を、生涯の光栄として居るのであります。先生は喪くなる前に、そばに居る人をして、新約聖書のエペソ書の第三章を枕辺に読ませなさつたと聞いて居ります。「我等の求むるところ、願ふところよりも甚(いた)くまされる事をなしうるものに」云々といふ句に至つて、其処をもう一遍読んで下さいと仰せられた。

十

「凡て思ふ所、求むる所に勝るものを、勝る事をなし得るもの」、その神様がついてお出でになる。その神によつて自分の亡きのちの事を計らつて貰ひ度いものだといふのが、先生の御希望でありました。又御期待でありました。それは今日、五十年後の今日の私共にも亦、あてはまる事でなくちやならん。「我儘の思ふ所に、甚く勝れる事をなし得る者」なる神が生きてゐ給ふ。その神の御カが、先生を起したのであります。同じ先生の、先生に働いたと同じ神の御力が、私共の間に働く事を願ふのであります。

健康を痛めて居りまして思ふ様に物が言へない。如何にも残念であります。けれ共、自分は又、小さいながら先生の、多少感化を頂いて居る者の一人として、先生を辱しめない様に、つくし度いものと考へます。先生を起し給うた神の御心に応へ奉り度いものと願ふものであります。

「古河に流れ絶えす」と言ふ。上毛地方は格別に、両毛地方は格別に、先生に縁故の深い処である。先生の精神がいつ迄も諸君の間に生きて働かんを願ふのであります。

十一

(祈禱)父よ、御助けによりまして、此処に此の集会に列席する事を得まして、有難う存じます。五十年前、召されて御前に帰られました新島先生を想ひ出で、学ぶところが甚だ多い事を感じます。

どうか先生の精神が私共の間に学ばれまする様に助けを与へ給へ。先生を興し、且つ用ひ給うたあたたの御力が、私共の間に同じ働きを続けさせ給はん事を願ひ奉ります。

先生の直接の遺業でありまする同志社を恵んで、あすこから出て、あなたの御旨を行び、同胞を助け、人類の福社に貢献するところ、いやまさん事を願ひ奉ります。

今朝ここに集つて居りまする私共一人々々を顧み給うて、先生の衷に働き給うた、あなたの御カが、私共一人々々と偕に在らん事を願ひ奉ります。

今日は世界の各国、とりわけ日本の各地に於て、先生を憶ひ出して居る者が甚だ多い事と存じます。どうかその一人々々に祝福を添へ給はん事を願ひ奉る。基督の御名によつて聞き入れ給へ。アーメン。


この著作物は、1940年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。