文学的青春伝

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本文[編集]

親しき者半ば地下に在り、これはもう事実である。こんな年齢にあると、しかし過去はもう私自身にとつて肩の上に負担の軽い荷物のやうで、私といふ旅人はただおほ方昨日今日の雑事茶飯事に気をとられて路を急いでゐる。薄暮の客にまづ近い。回顧も追憶も情趣の上で追々興味の乏しいものとなるのを覚えるのである。いはば視力が衰へるのであらう。私は近頃強度の老眼になやまされて読書に不自由を覚えてゐるが、精神的にはそれとは逆に追々近視的傾向に進んでゆくやうである。遠方の風景には模糊(もこ)たる霧がかかつて見えるから、顧みて頓着することが稀れなのはいつそ身軽で気が楽である。ためにいくらか年頃厄介(やくかい)なセンチメンタリズムからは免がれえたかも知れぬ。やうやくこんな頃になつて、さうしてもしかすると知命といふことの一面がそんなところにあるかも知らぬと考へてみたりする。
さて、このやうな薄暮の行路者がふりかへつて彼方に縹渺(へうべう)たる森の梢を顧みようとするのである、といふのは、いや、話が大袈裟(おおげさ)である。とよりは、課題の「青春伝」は私はろくに話材らしいものもなくて恐縮である。乏しい才能と放埓(ほうらつ)な暮しぶりと醜い失敗の積み重ねと、それらをひつくるめて要するに平凡なただ根気のいい貧乏生活といふ程度のことにしか当らないところの私の半生のその部分、これに青春の名を冠しようとするのはいささか話が無理である。かう書いてきて私はこの簡単な言葉「青春」といふその二つの文字の美しさにしばらく見とれてゐる位のものである。なるほど、私にも人並の「青春」らしいものがあつてもよかつた筈である、とも考へてみる、かう考へてみるのは当然口惜しい感慨をこめてでなければならない筈のところであるが、さて実はさうでもない。殆んどそれほどの思ひを覚えもしないのは、何もここに来て味方を求める訳ではないが、当時私ども文学青年輩はみないづれも似たり寄つたり、仲間は大勢ゐたからであらう。
小説家の外村繁君は当時はアナーキストを標榜してゐた。ある時酔つ払つて交番の前で(彼には若干芝居気があつたに違ひない)突然アナーキスト万歳!……と大声を張り上げた。深夜の街角でお巡りさんを揶揄(からか)ふ傾向のあつたのは何も彼一人のことではなかつたが、彼にもまたそれがあつた。もちろんお巡りさんにもそれ位のことは解るのでさつそく悶着が持上つた。アナーキストの集会検束などしきりに新聞種になつてゐた時分のことである。いかさま小癪(こしやく)な振舞に見えたに違ひない。お巡りさんもむきになつて外村を捕縛にかかつた。形勢は本格的に進行する気合に見えたから私は仲裁に入つた。私は外村の帽子をとつて、彼の帽子の孔(あな)から指を一本つき出して示しながら、
――アナーキストなんですよ、こ奴(いつ)は、つまりこれなんですよ、アナーキスト万歳てのは、こ奴の……
とでたらめの弁解にとりかかつたのは、いつかう仲裁の効果がなくて相手を揶揄ふことに於ては外村の尻馬に乗つた形になつた。
後にこの晩の始末が話柄(わへい)になつたときさつそく萩原朔太郎先生から、
――ぢや三好君はボロシェヴィストだね。
と一本頂戴したのは、どうやらこの話にも目出たく落ちが出来たといふものであつた。
私どもはまさにアナーキストでありボロシェヴィストであつた、ところがその私どもの下宿にあるとき現れた武田麟太郎君は、帰りに梶井基次郎君の編上靴と私の外套とを見につけていつたことがあつた。どういう話合であつたかは忘れたが、もちろんかけ替へのないものを進呈する筈もなかつたから、当分拝借の形式であつただらう、武田はその後との点を失念したのであらう。私どもはお蔭でたいへん不自由したのを忘れない。つまらぬことをいつまでも忘れないのは余り外聞のいい話でもないが、つまり要するにでたらめはお互様の鼬(いたち)ごつこであつた点が、一種当時の流行思想であつたかも知れない。
詩壇ではダダイズムが流行猖獗(しやうけつ)を極めてゐた。『ですぺら』といふ奇妙な標題をもつた雑文集はその方の大天狗辻潤さんの著作であつたが、話合つてみると武田も私も高等学校時分にこれを愛読した点で一致してゐた。武田の友人の藤沢桓夫君はシュールレアリズムの走りが出だすといち早く理解と同情を示した。私の交游の範囲ではまづまつ先であつたやうである。この二人は後に左翼文学にいつそうの理解と同情を示して実践的態度をもとつたが、それ以前にはさういふ傾向であつた。私自身はダダイズムは歓迎でも閉口でもあつて、詩壇を風靡した詩品一般にはいつかう同情がもてなかつた。私はそれ以前から萩原朔太郎一辺倒といふこれはもう病みつきであつたから、流行のダダイズムを私はそれを『月に吠える』以下の萩原朔太郎のうちに見出してゐて、さうしてそれで以てもう十分であつた。後に辻潤に会つてみると辻さん自身が萩原ファンであつたのは私の見当が必しも間違つてゐなかつた証拠のやうに思はれた。
その前後私には詩壇にほとんど友人といふものはなかつた。北側冬彦君は、学校の方で私の少し先輩に当る人物であつたが、梶井の旧友であつたから、大連から出てくると間もなく彼とは近づきになつた。北川の『三半規管喪失』はそれより以前に出てゐて、これは御多分にもれぬダダであつたが、次に出た『検温器と花』は一種鮮明な印象主義的短詩が多くを占めてゐた。北川の仲介で雑誌『亜』に私も仲間に加はつたのは、古くから出てゐたその雑誌の終刊間際の暫くであつた。安西冬衛君、滝口武士君らが仲間であつて、尾形亀之助君なども私と前後して仲間に加えはつたかと記憶する。安西冬衛は後の『軍艦茉莉』に収録された作品の制作時代で、その作風は冬至甚だ新鮮でまた見事であつた。後のシュールレアリズムの流行に私が殆んど驚くところがなく殆んど関心するところのなかつたのは、当時私がひそかに安西に傾倒してその作風に眼を瞠(みは)つた後、一種の免疫性(?)を獲得してゐたせゐであつたかも知れぬ。まさしく安西はシュールレアリストの先駆であつたが、それともに彼はまた繊細周到な新時代のレトリシアンでもあつて、それに比べると後のシュール諸君は彼の画家なのに対してやうやく製図工の域を出ない位に見劣りするのがもの足りない。その安西のレトリックは、『軍艦茉莉』の当時から捻(ひね)りすぎに捻り上げる過工の癖をもつてゐたが、詩感の追及はそれだけ念入りでもあり、奇態に捩(ねぢ)れ曲つてもどうやら一線あやふく壺をはづさないたしかな勘どころがあつて繊細と強靱との不思議なかねあひの巧みがそこに常にあつた。ひと頃の私は、それを彼からの挑戦のやうにも、これは私のひとりぎめで受取つてゐたのを忘れない。「青春伝」であるから、おそ蒔(まき)ながら、こんなことを告白しておいていいだらう。
私には詩壇に当時友人をもたなかつたことを前にいつたが、私に詩人の友人が絶無であつた訳ではない。詩集『帆・鷗・ランプ』の出たのはそれからずつと後のことだが、その著者のファンテジスト丸山薫君は高等学校の同級で、商船学校から転校してきた彼と、陸軍士官学校からはぐれてきた私とは、さしづめ恰好な相棒であつた。その詩風そつくりの童話的なものづげな夢み勝ちな彼はこそは生来の詩人であつた。さうして事実彼はその頃すでに周りの我々すべてを驚かしめるに十分な、円熟したユニークな詩境を身につけてゐた。私はといふとこれは単なるぽつと出の朴訥人(ぼくとつじん)にすぎなかつたが、その私にもさすがに彼の詩才は紛れもなく輝かしいものとして眼にうつつた。丸山はその名の如く山のやうな巨人で、巨人には似合はず羞(はに)かみやで、白皙(はくせき)の童顔をいつも眩しさうにむつつりしてゐた。動作はもちろんスローモーで笑ふと眼の細くなるのがもうそれだけである大きな動物を彷彿(ほうふつ)せしめた。赤ん坊を望遠鏡で覗いたやうだわといつたのは、後に東京郊外で彼の近隣に住つtゐられた百田宗治夫人の蔭口である。理由もなく茫漠とした一種音楽的な哀感と、気軽な無理のないファンテージーとは、彼に生来の優雅な詩境で、昔も今も変りがない。私は最初に彼によつて漠とした――補足しがたく不明瞭な詩の概念を実地に眼前に示された。もしも私がその後詩に就て多少のものを多少の世界から学んだとしても、その最初の出発を彼に負うてゐる幸運は忘れ難い。また事実私自身その幸運な偶然を今も全く見失つてはゐないつもりである。
私は丸山と共にその後百田宗治さんの『椎の木』に寄稿することになつて、そこで阪本越郎君や伊藤整君らと新しく面識を得た。チャタレイ騒ぎの伊藤君は元来が早熟の詩人で、私が近づきを得た頃には既に『雪明りの路』一巻の著作があつた。十五六歳頃から書きためたその書の内容は分量に於ても豊富であつたし、情感がうひうひしくナイーヴなばかりでなく、彼の郷里の北海道何とか郡とかいふやうな辺土の産物らしい間抜けなところはいつかうになくて、質朴ではあつたが、同時になかなか瀟洒(せうしや)な気の利いた行届いたものであつた。殊に生活感情の豊かな切実なまた清純なその巻中の息づかひでは屢々(しばしば)読者を涙つぽくさせるほどにつきつめた点もあつて、それが質朴ななりに高貴で決して安つぽくなかつたのは最も私を敬服せしめた。どうもこの詩集の読後感は近頃になつていつそうゆかしく懐かしく思ひかへされるので、先日も伊藤に悪ねだりをして彼の手元もとの恐らく僅少な残本の一部を届けてもらつた。再読は二十数年ぶりであつたが、別段色褪(いろあ)せてもの足りなく稚拙に見えるやうなふしは凡(およ)そなくて、久しぶりに見おぼえのその旧道(雪明りの路)をなつかしくさまよひ得た。何とかの冷水をいふつもりはないが近頃の詩壇の水準と比べると当時の我々の方が或はいくらかましであつたかも知れない、と位の感懐も同時に覚えた。いや、迂闊(うくわつ)に嗜(たしな)みもなく口上がすぎたがそれも実感であつた。
当時それに私自身気づいてゐたかどうか今さだかに記(おぼ)えないが、今度読みかへしてみると伊藤のその『雪明りの路』はたしかに萩原朔太郎の『月に吠える』『青猫』――殊に後者の感化の著しいのが眼にとまつた。伊藤自らもいつかそれを語つてゐたやうに、たしかにそれはさうに違ひない。ただ一つ、それにしては伊藤んもリリシスムはあくまで素朴で穏健で、ある意味では日常的で、その環境からもちろん田園的であつて市井(しせい)の廃頽的気分が微塵もなく、その感化者の人工的倒錯的幻覚的病理的等々の虚無的嗜好の類縁から彼の場合はきつぱり絶縁されてゐる。さうしてそれがなほ且つ何かしらはつきりと萩原的だといふことは、萩原伊藤双方を見較べて見て双方の世界に就て私には――そもそも詩的機縁n奇妙な不可思議が感ぜられる。それは確かに問題だが、ここではなほ深入りをして考へてゐる暇はない……
以上数人の詩人に就て回想に耽(ふけ)つた私は、私と郷里を同じくし、殆んど年齢を同じくし、同じ同人雑誌に加はり、ある時起居を同じくした友人の梶井基次郎に就ても、彼に就てはすでにいく度か回想記風の文章を草した上の又候だが、やはりここでもまたもう一度そのお浚(さら)ひをしておくのが、気持の上では自然なやうに思はれる。麻布狸穴(まみあな)の窪地に一つ家の二階に窓をならべて梶井と起居を共にすることになつたのは、突然ある日私の下宿へ彼がその隣室へ私を招き入れるために懇切な勧誘を試みにきた結果であつた。梶井は笑顔のいい男でその重い言葉つきに一流の説得力があつたから、私は翌日尻を上げた。その日も彼は本郷まで私を出迎へに来て、窓下の路の上から声をかけた。私はトントンと階段を降りて彼と肩を並べて麻布へ引越したその時の光景がいかさま颯爽(さつさう)としてゐたやうな記憶が今もはつきり私にあるのは、考へてみると滑稽なやうだが、そんなつまらぬことをいつまでも大事に記えてゐるのも奇妙である。その上もう一つ、その時、その附近に敷かれたばかりのバラスの上に、梶井がその頑丈な編上靴で兵隊のやうな跫音(あしおと)をたてた、その元気な跫音まで私の耳に残つてゐる。私どもはたいへん機嫌がよかつたに違ひがない。梶井はそれより以前にいく度が喀血してゐたが、相変らず無鉄砲に振舞つてゐた、それをいつかう怪しまうともしなかつた私の無分別を、私自身その後喀血をして病院のベッドに横はつた時分になつて、七八年もたつた跡になつて初めて空怖ろしく回想したのを忘れない。私の無分別はともかく、梶井は強(あなが)ち彼の危険な健康状態に無意識だつた訳ではなかつただらうけれども、仕事に夢中な若者らしく、その方には目を覆ひ覆ひしてゐたに違ひない。さういふ彼ひとりの心中のひそかな努力、悲壮な苦痛は、彼の作品に一貫して漲(みなぎ)てゐるあの異常な深い緊張感と表裏一枚の気分のものであつたに違ひない――と私はただ今となつてこんな感慨に耽(ふけ)りもするが、当時はそれほどの思ひやりで痛々しく彼を眺めてゐた訳ではなかつた。梶井は手強(てごわ)く押しの利く重厚な人柄だつた一面、意外にユーモアに富んだ明るい諧謔家で、彼と対坐の相手をしめつぽく考へこませるやうな風ではなかつたから、彼のまはりにはいつも彼一流の雰囲気があつて彼の不幸な病患はために相手の眼に覆はれた、それも事実であつた。彼は思ひやりや同情でいたはられることのむず痒(がゆ)さ、――それが彼の不安を催促するところのものを、極度に嫌忌して払ひのけようとしてゐたのだらう。自然とさうしないではゐられない強さと弱さ、そのいづれもが彼の性来のうちにあつた。ともかくそのやうな難局をひそかに懐(いだ)きながら、要するに彼はうはべは安閑と落ちついてゐた。書きものの方の仕事ぶりはもちろん丹念で精刻だつたが、それにまたどこか安閑とした余裕があつて、意の如く捗(はかど)りかねても浮き足たつやうな風はなかつた。ともかくまるで大家のやうだと、中谷孝雄君などが舌を巻いたのは、その作品の出来栄えばかりではなかつた、日常の生活態度その勉強ぶりに、のつそり緩慢な彼の流儀に、どこか、頼もしげ風度があつた。
当時の梶井は凡そ志賀直哉一辺倒といふ風で、夜ふけの文学談に彼が口を極めて悪態ついたのは、川端康成さんを例外としたその頃流行の新感覚派一派の諸子で、彼等の芸当がいづれもみなちやちで子供瞞(だま)しで安手で野暮たいといふのが彼の意見だつた。その間隔に深さも凄さも真実性も、いつか新しさもないではないかといふのが彼の極め手で、彼自身得意げであつた訳ではないが、一種異常感覚者であつた彼自身の口からそれを聞くのは私にとつて聞甲斐(ききがひ)があつた。私はむろん同感賛成で私mおまた彼らの軽躁なのには鼻つまみ以上であつた。そこまではまづともかくとして、私にとつては志賀文学はいつかうに当時風馬牛であつたから、――さうして当時私どものやつてゐた雑誌『青空』の同人仲間にはどうも白樺臭気の鼻につくものが漂つてゐるらしく私には感じられたから、それが私には肌に合はず気障(きざつ)ぽくさへ感じられたから搗(か)てて加へて、梶井の例の一辺倒は私には彼自身と見較べて不可解でもあり、内々いささか不満でもあつた。この考へは私の方が浅薄で踏み外しで事理を弁(わきまへ)ない横車でもあつたが、それを私自身いつのほどにか訂正するに到るまでにはずゐぶんと時間を要したから、梶井はとつくに身まかつてしまつた。こんな事をかう書いたのは、私がひそかに彼に対して先ほどいつた不可解と不満とを懐いてゐたといふだけではなく、その後ある日どうかした話の機(はず)みから、私はにはかに不機嫌の向つ腹をたてて、その数日以前に彼が私に落ついて精読するがよろしからうといつて貸してくれた志賀さんの、忘れもしない彼の手沢(しゆたく)によごれた一冊『雨蛙』を、私は不嗜(ぶたしな)みにも梶井の鼻先に抛(ほふ)り出すやうにして突き返した。梶井は本来が喧嘩早い腕力家でもあつたからさういふ場合に穏便にこらへてゐるのは彼の性分ではなかつただらうが、身体の方が例の状態だつたからでもあらう(――とこの推測もむろんその際にはしなかつた)、ただ彼はむつとして、甚(はなは)だしくむつとした態度で静かにその『雨蛙』を彼の傍らに置き直した。その瞬間から私はどうもしまつたと後悔をしはじめたが、素直にそれを表白するしほをついついその後も失してしまつた。これはさほどの出来事といふほどのことでもなかつたけれども、私としてはどうも香(かん)ばしくない失敗であつたのみか、その上いけないことに(――といふのでもあるまいけれど)私はその後志賀文学をさほど毛嫌ひする傾向からは追々と恢復して、今日ではけつこう人並みそれを愛読してゐるやうなありさまであるから、これは完全に梶井に無条件降服をここでしておかなければならない。
私は梶井に対してその点でそんなに涓介(けんかい)で解らずやであつたのに引きかへ、梶井は私の萩原朔太郎一辺倒に対しては理解と同情と同意とをもつてゐて、この方は話があつた。上田敏白秋露風高村光太郎佐藤春夫あたりの作品を彼は珍らしく相当詳しく熱心に読んでゐたやうでもあつたが、萩原さんには彼は彼なりに特殊な傾倒を示してさへきた。
たとへば、
もうとつくにながい間
だれもこんな波止場を思つて見やしない。
さうして荷揚げ機械のぼうぜんとしてゐる海角から
いろいろさまざまな生物意識が消えて行つた。
そのうへ帆船には綿が積まれて
それが沖の方でむくむくと考へこんでゐるではないか。
(「憂欝な風景」)
といふ風な条(くだ)りのとりわけ最後の二行のやうな何かユーモラスな箇所や、
いくつかの季節はすぎ
もう憂欝の桜も白つぽく腐れてしまつた
馬車はごろごろと遠くをはしり
海も田舎もひつそりとした空気の中に眠つてゐる
なんといふ怠惰な日だらう
運命はあとからあとからとかげつてゆき
きびしい病欝は柳のかげにけむつてゐる     (「怠惰の暦」)
といふ風な条りの何かけだるいねばねばとした感じのところ、或は「馬車はごろごろ」といふ風な変な響きをもつたところを、梶井はとりわけ気に入つてゐるらしい様子であつた。
後に私たちは萩原さんと伊豆の田舎で初めてお眼にかかる機会を得たが、その時も梶井は熱心に彼の諳(そら)んじてゐるそれらの箇所をいくつかあげて、私にむかつてと同じやうに彼の嗜好を作者にむかつて開陳した。
――梶井君はどうも妙なところが面白いんだね……。
といささか意外げにまた萩原さん自身それを面白げに聞きとつてゐられた様子を忘れ難い。私自身は自分の貧しい作品を萩原さんのお眼にかける勇気はちよつと持ちかねたが、その田舎に転地をしてゐて手許に古雑誌を持合はせてゐた梶井は、私の知らぬ間にそれを萩原さんに疲労した。
――僕や室生の影響があるね。
と萩原さんはいつてゐたよと、後ほど梶井からさりげもなく聞かされた私は、それはもとより私自身もかねがね承知をしてゐたことではあつたけれども、さすがに少々辟易(へきえき)した。不平はなかつたけれども、どうもせん方ない仕儀で気落ちを覚えたのも事実であつた。萩原室生両家の作は私はその悉(ことごと)くを殆んど諳んずる位に熟読してゐたから、ひそかに全力を尽してはゐたにしても、到底その廡下(ぶか)からたやすく脱け出せさうに私には思はれなかつた、――その後も永く。これには実はずゐぶん精根をつくすを要したことであつたがここでは語るまい。
萩原さんのお言葉に従つて、東京へ帰ると、間もなく私は麻布から大森へ引越した。私の一辺倒はやうやく一飛躍をとげた形であつて、その後私の親炙(しんしや)しえた萩原さんに就てはいく度か先生の歿後に記事を草した。なほ語り足りないところを語るとなると、それもまたきりがないかも知れない。
一度こんなことがあつた。つまらぬことだが何だか私には思ひ出すたびをかしいからここに記しておかう。
突然萩原さんが私の下宿に見えて、宅に客人があつて書きものができないから暫く君の部屋を貸せといふことであつた。原稿用紙などを携へてゐたれて何だが妙な風であつた。私の部屋はその時刻には西陽(にしび)のさしこむ不都合な部屋であつたが、むろん私は席を譲つてその間戸外で子供と野球なんかをして過した。二三時間もして萩原さんはひよつくりおもてへ出てこられた。「来たまへ」と誘はれるので私はそのまま先生の後に従つた。先生のお宅が近くなると、「散歩の途中で僕と出会つた、さういつてくれ給へ、家内に、聞かれたら」と囁(ささや)かれたのは、日頃の先生らしくなかつた。けれども私たちは諜(しめ)し合はせた。玄関を入ると、しかしさつそく、先生自身が口をきられた。「三好君と、出会つたから、つい散歩、散歩を、してきた……」語気はまさに「桑原々々」と響いて聞えた。けれども奥さんの方は意外に平穏な様子に見えた。「Mさんが見えてよ」どうやら事情は私にもややのみこめた。M女史に先生は辟易してゐられたのに違ひない。――何でもないことではないかと思はれた。先生は書きものがしたかつたのだ、それだけだ、それがいかにも萩原さんらしく思はれた。
「うちは変ね、」と奥さんがまた後にいはれた、「途(みち)で三好さんに合つたといふのに、どうして顔なんか赧(あか)くするんでせう、変ね。」顔を赧くされたかどうか、私には気がつかなかつた。私も間抜けだつた。
「萩原さんの奥さんも間抜けね。」その話を私にとりついで、さう結論を下されたのは、その頃同じく大森にゐられた宇野千代さんだつた。

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