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支那時文評釋

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[早稲田大學卅六年度文學教育科一學年講義録] https://dl.ndl.go.jp/pid/1082460

支那時文評釋 青柳篤恒述 早稻田大學出版部藏版完

支那時文評釋目次 上諭 兩江總督劉坤一薨去…一 上諭 甲午之役宣戰…七 上諭 着李鴻章授全權大臣…一五 上諭 北〓事平、論功行賞…一七 國書 北〓擾亂、〓帝致於我皇…二三 國書 我皇復於〓帝…二九 奏摺 外務部選派留學生總監督並頒發關防摺…三五 奏摺 故粤督陶制軍遺摺…四九 奏摺 欽派〓國留學生總監督…五七 照會 丁汝章咨海軍中將伊東祐亨…六二 照會 伊東中將吝覆丁提督…六五 照會 總理衙門照會…六八 照會 〓國進兵於朝鮮…七一 照會 日本不認朝鮮爲〓國藩屬…七八 照會 〓國不以日本出兵爲然…八五 照會 日本數〓國不實誠…八九 吏牘 日本派兵於朝鮮…九三 吏牘 馬關議和、〓國李全權致伊藤陸奥兩全權…九五 吏牘 伊陸兩全權復李全權…九九 吏牘 李全權道謝…一〇三 吏牘 李全權訂期會議…一〇八 吏牘 南洋大臣張香帥力爭和議…一一二 〓示 各國欽差聯衝出示安民…一二七 〓示 上海道出示安民…一三一

支那時文評釋

〓言 邦人の所謂漢文と支那人の所謂漢文なるものとには其意義に廣狹の差あり。我が漢文とは彼の所謂漢文の一部たる古文に當り、彼は此古文に時文なるものを加へたるものを以て漢文とは云ふなり。而して時文なるものに至りては、彼我の間、更に大る意義の相違あるを知らざるべからず。支那の所謂時文とは科擧に應ずるの文換言すれば八股文の謂にして、我の稱して時文となすところのものは支那今用文即はち細別すれば上諭、國書、奏摺、吏牘、照會文、告示文、尺牘等より新聞論說記事雜報等に至る支那現時の通俗文を總稱す。余の諸君と共に講究せむとするもの亦之に外ならず。本講先づ上諭より初め、類に據り門を分ち、逐次講步を進めむとす。客歲夏秋の交、〓廷は其從來唯一無二の人材登用方法として尊重したりし科擧の制、即はち八股文を廢し、爾後孔孟の〓を以て經となし、西洋專門各科の學を以て緯となし、以て人材を養成擧用せむとの上諭を煥發したり。抑も八股文廢止の擧は決して今日に始まりしものにあらず。前年康有爲氏一布衣の身を以て〓帝の信任を荷ひ、草莽の裏に拔擢せられ、一躍して樞要の地位に列し、敢然變法自强の大策を劃し其實行の第一着手段として先づ八股文を廢止したりしも、未だ幾ならずして、反動の時代となり、光〓皇帝幽閉せられ、康氏逐竄せられ、西太后復び垂簾の政を視るに及むでは、又八股文を復舊し、人材を登用するの途、一に祖宗の遺法に賴らざるべからずとせり。然れとも這回の改革は前回の如く革進派の手に企てられたるものに非ずして、自ら保守主義を標榜せる守舊派其人の手に成りしものなれば、少なくとも永續的性質を有するものと解して宜ろしかるべし。扨此八股文廢止の一事の如何に時文の上に影響するやに就ては大に參考を要すべきものありて存す。即はち從來の極めて大躰的、抽象的〓理〓道を以て人に授けむには、古文を以てするも猶且其意思を言表はし得べしと雖ども、旣に日新專門各科の學問を採用せる今日、其實際的、物質的、殊に理化工學の如き最も緻密なる學理を以て人に授け、而かも之をして一目瞭然たらしめむとするは、古文を以てして猶且能くすべきや否や、頗疑なき能はず。然るに時文は文章よりせりと云はんよりも、寧ろ言葉より生れたる者にして、言文一致躰に近し。支那の語言、如何に非科學的なりと云ふも、其運用の妙を究むるに至つては、亦以て現時の諸學理を說明するに足る。時文亦然り。唯其行文の結構配置及新字句新字眼等に至りては、新學輸入の影響を受け現に已に漸次改まりつゝあり。又今日以後に於ても、追々變化なき能はず。即ち 時文は是より支那滿天下に行なはれんとする新らしき學理を解釋說明するに於て、其功能夐に古文の上に出るものと云ふべL彼國近刊の出版物等に徵するも、其多數皆時文に係れるは之が爲めのみ。是れ余が支那時文〓究を以て急務となし、悅こんで本講を擔任する所以にして、而して又支那時文現時の有樣を以て變遷の時代、過渡の時代に在りと言はんと欲する所なり。」支那時文の研究に就て、其必要條件とも云ふべきもの二あり。彼國の語言を解すると其事情ににずると是なり。支那語言に通ずるときは、其意義を解する容易にして、支那の制度風俗に通ぜざるときは、到底完全に其意を解するに由なし。前者は諸君の自由〓究に任せ後者は講義の際、適當なる問題を拉し來りて之を說述し、以て參考に資するところあらむ。

上諭兩江總督劉坤一薨去 上諭、朕欽奉慈·禧端·佑康·願昭-豫莊-誠壽·恭欽·獻崇-無皇太后懿:員、兩江總督劉坤一、秉性公忠、〓猷宏遠由諸生起家軍旅屋建功勳子歷任封圻、克勤厥職嗣簡授兩江總督、兼充南洋大臣、十餘年來、鎭撫〓地方、軍民愛戴、辦理交渉、悉協機宜、前年近畿之亂、該督保障東南、匡十四扶大局、所功尤著老成碩望寔爲國家柱石之臣前因患病、次次賞假、ヲン〓ヲ並組給一復種資調理方盡早知就送反膺倚任遮聞法道虞健良深;劉坤一、著加恩追封一等男爵、晉贈太傅照督總例賜〓、賞銀三千兩だ治理由江害藩庫給發、賜祭一項派習江南將軍細勒登前社治家予と謚忠誠、入祀京師賢良祠並於江甯省城湖南原籍及立功省分、建立て〓專祠。生平事蹟、宣付史館立傳、任內一切處分悉予開復應得 郵典、該%支那時文評釋上諭兩江總督劉坤一薨去柳篤恒述 衙門查例具奏靈柩回籍時、沿途地方官、妥爲照料該故督子孫幾人、ヲ著張之洞迅速查明具奏候候施恩、用篤念盡臣之至意欽此 (上諭)とは皇上又は太后の下したまふ綸旨にして、內閣又は軍機處之を奉じて下に宜るを例とよ則はち本文盲頭によるといひ結末に飲此とかふふ南間處に於て上諭文の前後に附加し、以て下に示仰する所以なり。 (義解)慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻崇〓皇太后太后は先々帝咸豐皇帝の妃嬪なり、帝崩じて、皇后に嫡出の皇子なし、乃はち妃嬪庶出の皇子襲ぎ立つ、之を同治帝となす、然るに〓朝の法妃嬪にして其出たる皇子一たび九五の位を履むときは其生母は皇太后の尊號を上らるゝを例とす、蓋し母以子貴との主義に則とるものなり、是に於て咸豐帝の妃〓は一躍して皇太后となれり、今の西太后是なり、西太后とは咸豐帝の皇后を東太后と稱したるに對して用ひし所なり。慈禧といひ、端佑といひ、康頤といひ、昭豫といひ、莊誠といひ、壽恭といひ、欽献といひ崇熈といふは、皆是帝室の慶事ある毎に上まつりしところの形容詞的尊號なり、慈禧は最初のものに係り、崇熙は最近西太后寶算六十萬壽節に際し上つりしところなり。○懿旨皇上の旨を諭旨といひ、太后の旨を懿旨といふ。○兩江總督〓國本部十八省を通じて總督八區と稱し八總督を置く、曰く直隷總督(値隷省總督廿)、日く雨江總督(紅保定府に駐建.省に二二)、曰く湖廣總督安徽、江西三省に總督たり、故収入)、曰く園漸總督(福新江二總駐者三江の名あり、江建省江寧府邸り、福建省福州府者す又雨)四川總督(〓川省に總受付けてく日甘陝〓〓〓陝西甘(湖湖南、湖北二省名あり、湖北省武昌府に總たり、故駐に、成都府に(肅二省り甘肅東、腐總督總價南、貴州二省り廣省總督釀、〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓省に蘭州府十に5日11日)兩く兩廣總督(雲貴總督總督たり雲南省雲に駐南す府)是れなり。總督は職文武を兼ね、軍民を統轄し、封疆の大官として一方の保障たり。即はち地方行政權を總握するのみならず、猶且司法權及び或る範圍に於て立法權を行使するを得、軍政權を掌握す。〓朝の法、總督は當然兵部尙書、及び都察院右都御史を兼ねしむ、前者は兵馬の權を後者は司法權を以て之に委する所以なり、若し總督を以て强いて其傳を我國に求めば先づ臺灣總督の如き乎、○秉性公忠品性公正にして忠實なり、○才猷宏遠才謀寬宏にして遠大なり、○諸生一書生なり、劉氏本と武弁、長髪賊の亂、自文正公國藩に從ひ偉勳あり遂に天下に其名を知らる、○歷任封折折は界なり、封折は封疆の臣の意、氏が各地の總督巡撫に歷任せるをいふ、○簡授簡は撰なり、但し皇上又は太后の勅撰に係るに支那時文評釋上諭兩江總督劉坤一薨去三あらざれば此簡字を用ゆるを得ず、例とへば簡派とは皇上、皇太后の撰み派せらるるをいひ、振派とは上官其下官を撰み派するをいふが如し、○南洋大臣南洋通商大臣のこと、北洋通商大臣あり、南洋通商大臣あり、通商事務を綜理す、北洋通商大臣は直隷總督之を兼ね南洋通商大臣は兩江總督之を兼ぬ、○軍民軍屬民屬な○辦理交渉外國交涉の事宜を辦理するなり、○近畿之亂北〓拳匪事件をいふ、○該督保障東南督は總督、東南とは兩江(徵江江蘇酸)の支那帝國東南方に位するを以てなり、○碩望碩は大なり、名望の大なるをいふ、○迭次賞假迭次は屢しばなり、賞は賜ふ、假は暇と通ず休暇の意、屢しば賜暇休養せしめたるなり、○後藥草なり、○調理治療なり、○就痊病癒ゆるなり、○長膺倚任將〓來何時までも國家倚賴の任に當らんことを望めりの意、○著は使なり、令なり、命ずるなり、〇一等男爵〓朝の爵位分つて公、候伯、子、男、及び輕車都尉騎都尉、雲騎尉、恩騎尉の九となす、以上の內、公、侯、伯、子、男爵及び輕車都尉の六は各々一二三の三等に分つ、○晉贈太傅三孤の官とて太師、太傅太保あり、而して又太子太傅、同少傅.及び太子太保、同少保あり、皆社會的榮譽を表示するの虛位に過ぎず、決して之に伴なふ實權あるにあらず、劉氏先きに太子少保たり北〓事變の後、太子太保となり、今又太傅に晋め封ぜらる、○照總督例賜郞郞は祭棄料なり、總督死するときは何千兩と云ふ例規に據り之を賜ふの意、○江寧藩庫江寧は江蘇省江寧府、藩庫とは各省布政使(イ布歓迎即位一省の地丁錢穀を司どるとあり、一省の財務長官及租稅其他金錢一功出入を總掌す總督巡撫次ぐ地方大)を藩台又は藩司と稱するより出づ、即はち布政使衙門をいふ、本文葬儀費官な三千兩は江蘇布政使衙門より支給すべしとの意、○賜祭一壇祭壇一基を下賜するなり、○署江寧將軍額勒春、將軍とは各省駐防八旗を統率する長官にして滿洲人を以て之に補す、署は代理、江寧將軍代理額勒春(人名)○予謚忠誠翰林院出身の大官にして謚を賜ふときは文字を冠するを例とす、曾文正公國藩、李文忠公鴻章の如き是なり○賢良祠歷代の名臣功臣を合祀す國都北京に在り、〇江寧省城各省の首府を省城といふ、總督巡撫は多く此に駐するを例とす、江蘇省城江寧府、○湖南原籍劉氏湖南省新寧縣人○立功省分功業を樹てたる各省地方○專祠專ばら氏を祀る神社、○付史館立傳國史館をして氏の傳記を史籍に列せしむ、○任內一切處分云云任に居るの目、處せられたる譴責責罰等支那時文評釋上諭兩江總督劉坤一薨去五

兵、餅鮮百姓及中國商民、日加驚擾、是以添兵前往保護。合情理、勸令撤兵和平商辦、竟悍然不顧、迄今無成說反更陸續添理職我朝撫級帶服其國內政事向令百理日本輿朝鮮立約係屬與故派兵突入漢城、嗣又增兵萬餘、迫令朝鮮更改國政、種種要挾、難以情詞迫切、當即諭令李鴻章擔兵赴按甫抵牙山、匪徒星報乃倭人無國都城隨時保護、年、該國時多内亂、朝廷字上諭朝鮮爲我大〓藩屬二百餘年歲修職實爲中外所共知近十數義盡、而倭人渝盟肇費無理巳極勢難再予姑容著李鴻章嚴訪派出開白彼公論明然用特布〓天下傅曉然於朝廷辦理此事實已仁情形、殊非意料所及該國不遵條約不守公法、任意鴟張專行詭計、釁突方使船多隻乘我不滿在牙山口外海面〓海國至無以重兵飲整强令平政之理、國國公論書以自本出師無名不支那時文評釋;タル〓上諭·カレ上驗甲午之役宣戰本年四月間、朝鮮又有土匪變亂、該國王請兵援則甲午之役宣戰スルチ以テ·小爲懷、疊次派兵前徃戡定並派員駐紮該十去にサキ一: : :·七七: u記行至中途、:了·: : ;例取調の上奏上せしむ○回籍は之を赦免す、開復とは赦免、む.○張之洞前湖廣總督、劉氏の後任者○郞典云云故山湖南に還る○蓋臣遺族惠郞の方法は當該衙門をして先○要爲照料王之蓋臣とあり、忠臣の意、妥當に斡旋せし 各軍、迅速進剿、厚集雄師、陸續進發、以拯韓民於塗炭、並著沿江沿海: v ;各將軍督撫及。統兵大臣、整筋戎行、過有倭人輪船駛入各口、即行迎頭.痛學。悉數殲除。得稍有退縮致于罪戾、將此通論知之欽.此。= : (字解)職貢朝貢なり、藩屬國其當然の職務として納むるところの貢物なり、○字か小は小弱なり、字は愛するなり慈しむなり自國より小弱なる國を慈愛するをいふ、〇疊次屢次と通ず、「しばしばなり、○前徃戡定前は進なり、戡は克なり勝なり、前み徃いて克定するをいふ、〇員官員なり、○援剿剿は絕つなり略取するなり、應援して匪徒を討平するをいふ、○情詞迫切兵を請ふの書を見るに、其情迫り其辭切なり、○當即當は當時の當「すなはち」「立どころに」の意○撥兵撥は分つなり、兵員を分派するなり、〇甫一と通ず、「はじめて」と訓す牙山に至るや否や直ちにの意、○星散星の如く散ずるなり、○倭人日本人、○要挾種々の難題を提議して韓廷に要求し之を挾制するなり、〇撫綏藩服藩服は藩屬國、撫は愛撫、綏は安んずるなり、○向令自理向は俗語向來より出づ、從來の意、自理は自治、從來其自治に任せるなり、〇與國友邦なり、〇和平商辦商は「はかる」相談の意、平和に示談して其局を結ぶなり、〇仍「尙ほ」なり「矢張り」なり、○悍然動かざるの貌、○迄今迄は至なり、〇成說纒まりたる談判の意、○中國支那人の自國を稱するところ、支那の意、世間往々我日本人にして支那を稱して中國と書するものあり、誤まれりと謂ふべし、〇記証んぞ料らむと訓して可し、豈に計らむやの意、○牙山口外口は港なり、○任意鴟張任意は「肆まゝに」の意鴟張とは鴟鳥の横行するが如く放肆なるの意、〇予姑容予は與と通ず、姑容は寬恕の意、○飾命ずるなり、令するなり、○拯救助なり、○將軍各省駐防八旗の長官、滿洲人を以て之に充つ、八旗に三種あり、一、滿洲八旗、〓太祖滿洲に興り山海關を越へて西南の方明の社稷を覆へさんとするの時に方り滿洲人にして太祖の軍に歸附せるものを以て組織す、世俗之を從龍進關の兵と云ふ、二、孟古八旗、孟古人にして當時太祖の軍に歸附したるもの、三、漢軍八旗、明人にして當時太祖の軍に歸附したるもの是れなり。八旗に正紅、正白、正黃、正藍、銀紅、銀白、鑲黄、〓藍以上八種の旗別あり、是れ八旗の名ある所以なり。將軍は其位總督の上に在ると共に(ピスティー輝疏ニ品)常に滿洲人を以て之に補するの制なるを以て、其席次總督の上に位すと雖とも、其聲望實權に至りては隻に總督に及ばず、〇支那時文評釋上諭甲午之役宣戰 骨撫總督、巡撫なり、總督の解は前に見へたり、巡撫は十六區と稱し、通じて十六員を置く、江蘇巡撫、安徽巡撫、山東巡撫、山西巡撫、河南巡撫、陝西巡撫、新疆巡撫浙江巡撫、江西巡撫湖北巡撫湖南巡撫、廣東巡撫、廣西巡撫雲南巡撫貴州巡撫臺灣巡撫、是れなBo此內臺灣は我有に歸せるを以て之を除き現に十五員ありと知るべし。而して直隷は直隷總督、四川は四川總督、甘肅は陝甘總督、福建は閩浙總督各其事務を兼管し別に巡撫を置かず(何近來直隷巡撫新設の說るも未定の間題なり而して又河南、山東、山西三省は巡撫のみありて總督を置かず。各巡撫は當然兵部侍郞、都察院右副都御史を兼ぬるものにして、其職權總督に匹敵す、但し其位總督より低きと(遞信省) 第管區ニュ))管管轄區域一省に限れると(總督は二者又は三省を管轄するものリ湖廣總督、兩江總督の如き皆是れなり)を以て、總督巡撫併び立てるの省に於ては(の間下二酸立替の下第二級當地越した。朝南道態あり、浦江總督の下に江蘇巡撫、安徽巡撫、江四巡撫あるが如き巡撫は當然總督の節制を承けざる可からざるものなり、○統兵大臣凡ゆる、兵員を統率する各大官をいふ、○整飭戎行各々兵備を整へて行進するなり、○迎頭痛擊邀擊するなり.○悉數殲除敵の全數を塵殺するなり、○退縮畏縮して退却するなり○致于罪戾刑罰に處せらるゝなり、〇將以てなり、〇通諭遍ねく告諭の意、(文義)朝鮮は我大〓國の藩屬國たること既に二百有餘年の久しきに亘り、年々歲々怠らず貢物を納めて居ることは、中外各國の均しく公認する所であろう。此十五六年と云ふもの、朝鮮には時々內亂續出して斷ゆることがない。我朝廷に於ては固より弱國を愛撫するを以て念となすものから、其度每に軍隊を繰出し往いて事亂を平らげしめ、又公使を派遣して其國都に駐剳せしめ、絕へず保護を與へて居つた。然るに本年四月中のこと、朝鮮には又復土匪の變亂が起り、該國王は我朝廷に向つて兵員を派し應援して此難を拯ふて下されと懇請して寄越した。其狀况が如何にも危機一髪の間に逼追して居る樣見受けられたから、早速李鴻章に申付け、兵隊を分遣して應援せしめた。我軍の牙山に到着するが早いか、匪徒は我威風に怖れて速に解散したが此時日本國では何の謂はれもなく本國より軍隊を繰出し突然京城に侵入した。暫らくすると、又復一萬有餘の大兵を增發に及び、朝鮮に逼つて其國政の改革を强行せしむるやら、其他色々な難題を持掛けて之を挾制する有樣は、殆んと情理以外の振舞で、實に言語同斷の次第と云はねばならぬ。我朝の藩屬國を撫で安んずる、其國內一切の政治は、從來全然之を擧げて其國の自治に支那時文評釋上諭甲午之役宣戰 一任して居つたのである。日本は朝鮮と條約を取結びたる以上、御互に與國友邦の間柄であるから、其國難を袖手旁觀する謂はれはないが、苟くも大兵の威力を以て之に臨み、壓制的に强行して其國政を改革せしむると云ふ道理は、萬々之れないのである。去れば各國の公論に徴しても、皆異口同音に日本が無名の師を興し頗る情理に協はざる擧動であるといふ非を聲らし、早速に軍隊を撒退に及び、平和に協議して此事局を結んだら宜かろうと勸告せられたけれとも彼れ日本國に於ては頑として顧みる所なく、今日に至る迄頓と經まつたる談判の申込なき而己ならず、却つて續々兵隊を增發に及ぶので、今では朝鮮上下及び同國在留の支那商民共は皆夙夜戰々兢々として其堵に安んぜざる有樣である。如上の次第であるから、我國に於ても據所なく兵員を增遣し、朝鮮に渡りて其國土國民保護の路を講ぜしめやうとした所が、有ろう事か有るまい事か計らずも途中に於て突然日本軍艦數艘之を待構へ、我軍の備へなきに乘じて、牙山港外の海上に在て遂に砲門を開いて發砲に及び、我運送船に少からざる損害を被らしめた。日本國にして此の如き奸詐極まりなき暴行にまで出でやうとは、實に夢にも想ひ到らざる所である。同國は條約を遵奉せず、公法をも守らず、肆まゝに鴟張の欲を逞うし專心前顯の如き詭計詐畧を行なひたる以上彼より先づ量端を開きたるは、宇內各國公論の認むる所固より昭々乎たる次第である。依て特に滿天下に布〓し、我朝廷の此事を辨理する上に於て、仁義の道至れり盡せりと謂つべく、復た猶豫するの餘地を存せざるを知らしむると同時に又た日本國の豫ての盟約に背き、彼より先づ釁隙を開き、其非理非道は既に已に其頂點に達し、到底復たび寛宥を與ふる能はざる事の次第を知らしむる所以である。即はち李鴻章に詔し其下に嚴命し、各軍を派出し、速に匪徒を一掃すると共に、尙ほ怠らず、雄師貌貅を招集して續々進軍し以て朝鮮の黎庶を塗炭の苦みに救はしむると同時に、又た一方には長江沿岸及び沿海に駐剳する各將軍督撫及び其他の統兵大臣に下知して武裝を整へ、日本國滊船にして各港に進入せんと企つるものあるに於ては、時を移さず之を逆擊して必らず鏖殺し片甲をも歸らしめざるを務むべく、些さかたりとも敵軍の威勢に畏縮して退陣し、軍法に問はるゝが如きこと萬々無之樣心掛くること專一である。玆に以上の趣旨を以て遍ねく告諭したれば上下威宜しく謹んで承知奉行する所あるべきである。甲牛之役宜戰

北〓事變上諭着李鴻章授全權大臣=之際所出원上諭、此次中外啓各國不無誤會中國地方官亦有辦理不善之處、; ;兵連禍結有乖夙好終非全球之福、着授李鴻章爲全權大臣、即電商C :各國外部先行停戰防將應行議結事宜分別妥面請旨遺行鉄此(字解)啓費釁端を開く、○誤會誤解、○乖夙好夙好は舊好、平は背く、○全球全世界、○電商電報を以て商議、○外部外務省、○分別要商夫れ〓〓和衷商議せしむ、妥は妥當の妥、隱やかに」「手落ちなきやう」の意、(文義)此度支那と各國と覺端を開けるは、各國にも誤解あり、又た我地方官にも辨理其法の宜きを得ざるあり、以て今日に及べり兵禍結びて解けず、年來の誼に背:くは、畢竟全世界の不爲である。因て李を全權大臣となし、各國外務省に電商して停戰(せしめ、尙ほ其他議結すべき事柄を以て夫れ〓〓協議の末、一應朕の裁可を經たる上にて奉行せしむるものなり。上諭北〓事平論功行賞上諭、朕欽奉慈-禧端-佑康-願昭-豫莊-誠壽-恭欽-獻崇-熙皇太后懿旨現在大局漸定、回京有期、奕動、李鴻章會同、議議、和局、轉危爲安、榮祿、保護使舘力主勤拳、復能隨時賛襄匡扶大局王文韶、協力同心不避艱險、劉坤一、張之洞、袁世凱共、東東南疆土、盡心籌〓、均屬卓著勳: 2爰白應同府懲賞處親主奏防著資會想王變像天學十業政著貪裁雙眼花翎並加太子太保街、王文韶。著賞戴雙眼花翎〓兩江總督劉坤一、賞賞加太子太保衡、湖廣總督張之洞署直隷總督袁世凱、均、著賞- y加太子少保衡、巳故大學士李鴻章、著再賜祭一壇、伊子李經邁著以三四品京堂候、補、欽此(義解)慈禧(中略)皇太后懿旨前講劉坤一薨逝に就ての上諭に詳らかなり○回京有期當時皇上、皇太后兩宮は尙ほ〓西省西安府に蒙塵せるを以て言此に及ぶものなり。北京への回鑾近きに在りの意○奕動慶親王の諱。今玆に〓朝皇文那時文評釋上驗北〓事平論功行賞 二六族の階級別を略說せむに、凡そ皇族の爵大別して十二等となす、第一和碩親王、第二多羅郡王、第三多羅貝勒、第四固山貝子、第五奉恩鎭國公、第六奉恩輔國公、第七不入八分鎭國公、第八不入八分輔國公、第九鎭國將軍、第十輔國將軍、第十一奉國將軍、第十二奉恩將軍、即是れにして、年所を歷るに随ひ、親疎に因り次第に遞降し、竟に無爵となれる者廣義に之を宗室と稱するものに至つて止まるものなり。而して〓朝國初興業の元勳にして、特に世間醫療に文す所の王公八家あんもれもななる八大王家と掃するめカ俗之を經賴子至ま云云差し区間にして永代速細替り回るを謂ふなり禮親王睿親王豫親王肅親王鄭親王莊親王順承郡王克勒郡王是れなり。此外後世に至り世襲とせられたる王家三あり、是を怡親王恭親王醇親王となす。今の慶親王は、本と貝勒より郡王に進み、前年慈禧皇太后寶算六旬萬壽節の佳辰に際し、更に親王に晋め封ぜられたる人なり○要議和局轉危爲安當時慶親王、李文忠公の二人、朝命を奉じて全權辨理大臣たり、各國使臣と會同して樽俎折衝の局に當り、愼重審議の末和約條欵成り、國運を危殆の中に回らし、社稷を以て安泰の地位に置けり○使館各國公使館○則拳拳匪を播蓋するなり、剿の解は前講甲午之役宣戰に見へたり○賛襄匡扶賛襄共に佐くと訓す、廟: a :誤を其成するなり臣は不速を巴すなり状は不足を扶助するなり○協力同心恊は「合す」と訓す、合和の意○保東南疆土北〓事變の當時、劉坤一氏は兩江總督として江蘇、江西安徽を、張之洞氏は潤廣總督として湖北湖南を袁世凱氏は山東巡撫として山東を保維し、氏等德望聲威の行なはるゝ、所〓國東南の疆土人民、北方變亂の影響を受け、敵愾の氣風を激成し將に動かんとして、遂に事を末然に防ぐことを得たるは一に三氏の効與つて力ありと稱せらる○籌〓籌謀劃策するなり○卓著顯著と通す、卓拔、著大なるをいふ○同膺懸賞同は「倶に」なり、「均しく」なり、膺は「當る」なり「享くる」なり、懋は盛んなるの貌懲賞とは厚賞なり盛典なり○賞食親王雙俸。賞は前にも見へたる如く「賜ふ」の意なり、和碩親王當然の年俸は銀一萬兩.米一萬斛と定められ、雙俸とは之に加倍せる額、即はち銀貳万兩、米貳万斛を云ふなり○大學士今此の解をなすに際し、〓國の中央最高議政衞門たる內閣、辨理軍機處。督辨政務處の權限組織及び變遷の次第沿革を略述せむとす。先づ此等支那時文評釋上驗北〓事平論功行賞モ 議政府殊に內閣及び辨理軍機處の眞相を正當に解釋せむとするに就て、特に注意すべき一事あり、〓は內閣と云ひ又は軍機處と云ふ文字に拘泥す可らざること是れなり、詳言すれば〓國の內閣なる者を視て直ちに我日本帝國の內閣を聯想し軍機處なるものを視て直に軍機にのみ關するものなりと速斷するときは、非常なる誤解に陷り、到底其眞正なる地位權限を知悉するに由なけん、而して此誤解に陷らざらんと欲せば先づ此等議政衙門變遷の歷史沿革を究めざるべからず。內閣は〓朝國初の創設に係る最高議政府にして至大至高なる權限を有せり、其職權を一)一列擧せば頗る多岐なれとも、今便宜上一(國帝を輔弼し庶政を賛襄するの權二(諭旨を承宣し、上書を傳奏するの權に區別することを得べし、即ち内閣は國政に參與して萬機を協賛すると共に、天子旨ありて下に宣するときは必らず內闇を經由せざるべからず、文武長官事ありて陳奏せんとする時は亦必らず內閣を經由せざるべからずとなすものにして、其權實に至大なりと謂ふべし。今其組織の主なる者を述べむに、大學士滿漢各二人共に四人あり。文華殿大學士、武英殿大學士、文淵閣大二殿二閣は本天子蔵書恊辨大學士滿漢各一人共に學士、體仁閣大學士是なり處 大學士四人其事な分類の二人、大學士を輔佐す。大學士は〓朝明代の制度に傚ひ、相國なるものを置かざりしを以て之をして文武官僚の首班として機務を決せしめたるものにして、大學士の別稱を宰相と云ひ、相國と云ひ又中堂と云ふは、蓋し其地位職權の明代の相國に庶幾きを以てなり。然るに雍正十年滿洲事あり、萬機皆內閣の評議に附するときは其事頗る緩慢、往々にして時機を失すること鮮なからざるを以て時の天子雍正帝は內閣以外に臨時に一議政衙門を設け特に親信の大臣を擧げて、軍國の爲め其機密に參せしめたり、是れ即はち辨理軍機處なるものにして、其大臣を軍機大臣と稱す。此軍機處なるものは當時軍務の必要上、臨時に創設せる一時的の者に過ぎざりしかども、兎角に其事の速決にして便利言ふべからざるを以て、終に永續して)今日に至り、其職權とする所は、單に軍機に參するのみならず、從來內閣の有せる一の權限、即はち大政に賛襄し國務を料理するの權を以て、全然軍機處の有に歸するに至り、爾來內閣は、有れども無きが如く、大學士の實權は軍機大臣の隻手に掌握せらるゝ所となり、纔かに顯榮無比の官名として虛器を擁するに過ぎざるに至れり。以上述べたるが如く、軍機處は雍正年間以來內閣に代り國家中樞の議政衙門とし上諭北〓事平論功行賞 て以て今日に至り、其組織の主なるものは即はち軍機大臣にし、て定員なしとあり、然るに前年北〓事件漸く其局を結ぶや、廷は其善後の事宜を議せしめむが爲め、更に督辨政務處なるものを新設し、軍機處以外に獨立して一種の議政府を搆成せしめ、在京大學士軍機大臣等を以て政務大臣となし、且つ地方封疆の大臣中兩江總督副坤一、湖廣總督張之洞二氏をして、各其任地に在て遙に其事に參與せしむとせり、後袁世凱氏山東巡撫より轉じて直隷總督となるに及むで、氏も亦此政務に參せしむるとせり、而して軍機處及び政務處二者權限の比較は未だ詳らかならず。以上を以て內閣、辨理軍機處、督辨政務處大躰の組織、權限等を講述せり、終りに臨み、現任內閣大學士、軍機大臣、及び政務大臣人名を左に錄し以て參考に資せむ。第一、内閣大學士文華殿大學士榮祿武英殿大學士崑崗(以上滿洲人)文淵閣大學士王文部體仁閣大學士孫家〓(以上漢人)第二、軍機大臣榮祿鹿傳霖王文部瞿鴻禮(以上職員錄席次順)第三、政務大臣(二)(一)督辨政務大臣慶親王、榮祿、昆崗、王文韶、鹿傳霖瞿鴻禮參與政務大臣張之洞袁世凱(以上職員錄席次順)第二、軍機大臣第三、政務大臣(以上明治卅五年十一月現在調)○雙眼花翎翎子なるものあり、特に功勳ある者に對して之を官暢の頂きに挿み)榮譽の表となさしむるを許す。翎子に二種あり、一(花翎孔雀のを以て造る羽毛(藍翎鶏の羽毛を以て造是れなり、官僚功あるときは先づ藍翎を賞戴せしめ更に功勳あるときは北翎を賞戴せしむ。花翎の階級三あり、イ三眼花〓雙眼花翎單眼花翎是れなり孔雀( ( (羽毛の先端に劃せられたる圓形金點の數に.因て分つものなり、此內最高の者、即はち三眼花翎を賞戴せられたるもの、實に故李文忠公鴻章あるのみ○太子太保衛衝は「待遇」又は「資格」の意、太子太保等は前講詳らかなる如く其資格を帶ぶるに止まり、其實職あるものに非れば、斯く衝字を附するを例とす○署直隷總督袁世凱氏は事變の當時は山東巡撫たりしも、後轉じて署直隷總督即はち直隷總督代理となれり、此際本文論功行賞あり、後更に進んで直隷總督實缺(即はち本官の意)となり、以て今日に及べり○再賜祭一壇曩に李文忠公の薨ずるや、朝廷より祭祀の郞典あり、今更に又祭壇一基を賜ふとなり○伊「彼れ」なり、其の」なり○以三四品京堂候補〓國中央諸獨立衙門の長官、即はち大常寺卿、大僕寺卿、光祿寺卿、鴻臚支那時文評釋上諭北〓事平論功實行三 寺卿等の類を總稱して京堂又は京卿といふ。候補とは候補官の意缺員あるを待て本官に叙せらるゝものを云ふ。三四品とは京堂に三品なるものあり、四品なるものあり、三品京堂なると四品京堂なるとに論なく、孰れにても缺員の有り次第本官に叙するの意なり○著前に詳らかなり 國書北〓擾亂、〓帝致於我皇大〓國大皇帝、問大日本國大皇帝好、中國與量國相依骨黄〓眩無建月前忽有使館書記被肢之軍正深憐借;一面拿兇懲:辦間。而各國因民〓仇殺致疑朝廷祖民嫉〓竟爾攻〓大活砲百、於是兵對達開大局益形紛擾因恩中外大勢、東M西北峙而東方租我兩國支持其問(彼稱雄西土虎視眈眈者其注意豈獨在中國哉萬一中國不支恐:貴國亦難獨立彼此休戚和關亟應留置小陳北維全局現在中國籌兵禦匪、應接不暇排難解紛、不得不惟同洲是賴爲爲開誠布々.臆、肫切致書、惟望國書-清帝致於我皇 カセラレン〓テセラレン「ラ大皇帝設法籌維執牛耳以挽回時局並希惠示德音、不勝激切翹企之至、光〓二十六年六月初七日(字解)大皇帝我大日本帝國天皇陛下も亦外國に對せらるゝときは皇帝の稱號を用ゐらる、太寶令を按ずるに『天子は祭祀に稱する所天皇は詔書に稱する所、皇帝は華夷に稱する所陛下は上表に稱する所』とある是れなり。支那現時の公私文牘に就て見るに、其自國を稱する塲合なると、他國を稱する塲合なるとを問はず、苟くも事皇室に關する所の文字なるときは、之を記する必らず行を更ため、且つ二字擡頭するを例とす○問好御機嫌を伺ふとなり。請安といふも亦同じ。切りは四令章大人見とか久は諸分等人人ととかいふは開発後僕のミ、ひ申すとの意なるの類○中國此解前講に見へたり○相依唇齒日〓兩國彼我相依り相須つこと唇齒輔車の相關するに似たりとなり○敦睦無嫌敦和親睦して彼此須臾も嫌惡の念の萌せるが如きこと之れあるなしとなり○月前先月の意。過日のことを日前といひ、後日のことを日後と書するが如し○使館書記被我之事北京大日本國公使館書記生杉山彬氏正陽門外に於て〓國官兵の爲めに慘害せられたるをいふ○惋惜惋は駭恨するなり、驚歎するなり。惜は痛惜するなり○拿兒懲辦兇は加害者。加害者を拿捕して其罪を懲治する○民〓仇殺民とは平民、〓とは〓民、換言すれば基督〓を信奉するところ: :の人民をいふ。仇殺とは相讎し、相殺すなり○祖民嫉〓祖は左祖の祖、輔助するなり、庇護するなり。平民を庇助して〓民を嫉惡するをいふ○竟爾竟とはトオ〓〓到頭なり、爾は『しかく』なり如此の意○攻估估は占と同じ、攻擊の末之を占領せるなり○大沽砲臺白河河口にあり、北京天津を扼するの咽喉たり、當時聯合軍包圍攻擊、我大日本軍先登の偉動を奏し、列强軍勢の耳目を聳動せしめたるの地、現シ今砲臺は既に過半瓦解に歸し、僅かに遺壘を存するのみ○兵酔遂開鮮は釁にアラハス、ヨリ、同し。兵端の開始せるをいふ○益形紛擾彌々益々紛紛擾亂の姿を形せりと○東西並峙東西兩洋の相對峙するをいふ○東方東洋の意。〓國現時世俗に東洋の二字を以て日本國と解す、例へは我國人を東洋人、我國人力車を東任車とし又ズ我國入ま愚言すさときの通用語として呼ぶ東京都里な支那時文評釋國書〓帝致於我皇二五 てするが如し〇、祗「只だ」なり○支持其間日〓兩國東西兩洋の間に介在して、彼此の勢力均衡の關係を維持すとなり○彌雄西土〓視耽々者彼の所謂列强、西洋各土に雄視し乃公こそ必らず進むで覇を宇宙に稱ふるの基礎を立てむとするを以て理想とし恰かも虎狼の空漠たる荒野に橫行濶步して羊兎の餌食を我れ獲むと張目刮眼するかの如く比較的小弱國たる亞細亞、亞非利加等に對して爪牙を磨き、隙あらば之に乘じて蠶食併呑の欲を逞うし、必らす甘心して後已まんとする者との意なり○休戚相關体とは慶なり、戚とは憂なり、猶ほ慶吊と云ふが如し。利害關係の相密着緊切なるをいふなり〇四急なり、迅なり、「速かに」と訓して可し○暫置小嫌共維全局小嫌とは些少の嫌惡維とは維持の意。此際一部局の些細なる感情の行違ひなどは置いて問はず、須らく相提携して全局維持の爲めに盡瘁等劃するところあらざる可からずとなり○籌兵禦匪應接不暇今此軍國多事の秋に方り、各種の作戰計劃の爲め、拳匪掃蕩の爲め頗る繁劇を極め、日夜應接是れ暇あらずとなり○排難解紛國難を撥正し、紛擾を解除するをいふ○惟同洲是賴國運の危機、相依賴するに足るもの、共に亞細亞洲に國するの國、即はち貴國日本を措いて、夫れ他に何れにか之を求めむとなり○開誠布臆誠は誠心憶は胸憶なり。誠心を開陳し、隔意なく胸憶の藏して言はむと欲することろを披瀝するなり○肫切懇誠の意○設法籌維冀はくは恰當なる良法を案出せられ、全局維持の策を劃せられむ〓とをとなり○德音何分の御音信をとなに○激切翹企激切とは切實なり、想とは親首なり、金とは金望なり。鶴首して御回答の至るを望むとなり(文意)愈御康健奉賀候、我日〓兩國は年來相依り相輔け、平和に國交を持續し來り候處、去月圖らずも公使館書記生殺害事件發生の非運を見るに至り候段何共惋惜之至不堪、不取敢加害者を捕縛し懲罰中、各國は平民對〓民爭鬪を見、直に以て我政府は平民に加擔曲庇し、〓民を虐遇するものと爲し、竟に大沽砲臺を占領したるを以て、開戰は萬不可避事實となり、局面彌々紛擾を釀すに至り候段深く歎惜之至存候、竊に中外の大勢を觀察候に、東西兩洋對峙するの間に立て、能く我東洋の權力關係を支持する者、實に我二國の外有之間敷彼西方の列强、怠たらず著眼する所偏へに我〓國にのみありとは如何にしても不被行知萬々一我〓國維持不相立曉には、支那時文評釋國書〓帝致於我〓 察する所、貴邦の獨立亦危殆ならざるを得ざる者と鄙考被致候前陳の如く我兩國相互の利害關係の極あて密切なるは勿論の義に有之候以上、此際些々たる行違等は不問に措き、專心全局維持の爲に同心協力するは一ににと覺悟致候、然るに目下我〓國は、各種の作戰計〓匪類掃蕩の爲め、是れ日も足らざる間際に有之候は、貴國の萬々御承知の如くに有之、就ては前顯御同樣同洲の奇禍を救濟するに付ては、是非共貴邦の御好誼に御依賴致候より他に途無之.茲に誠心を披瀝し一書進呈仕候次第に】御座候、何分御便宜御劃策、我亞洲の爲め主働力となつて現在の時局展開に御盡力之程懇望仕候、尙何分の御回答鶴首之至御座候、國書我皇復於〓帝大日本國大皇帝、復大〓國大皇帝、杉山書記生被戕之事前已傳聞未得確耗可據、頃接國電始悉其事的確良深悲嘆、通來北方團匪、日益猖獗、妄動亂擧無所不至現駐北京各國飲だ雲各署員等被其圍繼攻擊菲聞基國使臣已被擊殺而貴國所派官兵、不能救護使臣又不能彈壓匪徒、殊不知公法有言:十十六外交官之身尊而不可犯之理如於使臣之身補加冒失。連公法、况於殺害使臣乎、當此時、貴國政府、如果實力勤平匪徒救護現存各使臣、則餘事自應易辦、此乃我皇復於〓常我皇復於〓常 大皇帝日下對中外應盡之言斷不可歸蹟自上月以來各國將大兵·ハサ派社天津日本亦不得不調派兵員該地此係專爲彈壓區類救CH3護使臣起見並無他意、是以:ッ貴國政府如能趁早將各圖使臣等〓出、國繞之中則是見地ヲ貴國政府不願與各國開覽之據自應减少貴國禍端、日本政府與ニカフ:貴國政府素數讓讀如有實爲緊要時日本亦不敢辭其教勞因而:v貴國政府如迅速力爲彈壓以表救護實據〓則日後與各國商議之際、日本自應從中出力擁護貴國利益也、茲、特具專電、霞復、惟大皇帝鑒之明治三十三年七月十三日(字解)杉山書記生被戒之事前講〓帝國書に詳らかなり○未得確耗可據確○未得確耗可據確耗とは確報なり、耗は音信の意、例せば凶耗とは計聞、匪耗とは匪徒狀報を意味するが如き皆此類なり。信憑すべき確報を得ざりきとなり○頃頃日なり、「コノゴロ」と訓むで可ろし○悉知悉せりとなり○的確正確なり、確實なり○良「マコトニ」と訓む○通來通は近なり。近來の意○北方〓匪義和團匪をいふ○猖獗猖は狂妄なり、獗は强暴なり○妄動亂擧亂暴無妄の舉動をい○欽差公使を謂ふなり。〓國駐外公使を欽差出使外洋大臣と總稱し、尙駐駐露、駐佛、割國別に據り欽差出使日本國大臣、欽差出使俄國大臣、公使欽差出使法國大臣公使駐獨、駐米、欽差出使德國大臣公使欽差出使美國大臣、公使等に分稱す。欽差とは欽命即はち勅命を奉じて差遣せらるゝの意なり○曁「オヨビ」なり○某國使臣已被擊殺駐〓獨逸公使、總理各國事務衙門へ出頭の際、匪徒之を路に要して擊殺したるをいふ○彈壓鎭壓なり○公法國際公法をいふ○稍加冒失稍とは「些さかたりとも」の意。冒失は不敬なり○實力勤平實力とは虛聲の反對なり、僅かに匪類を征討せんことを聲言するのみにして、實力の之に伴なはざるものは、所謂實力勤平とは謂ふ能はざるなり。勤平とは勦滅討平するなり○現存各使臣支那時文評釋國書我皇復於清帝三一いふ 當時現に尙ほ北京重圍の中に在りて僅かに生存する各國公使をいふ〇上月〓去月なり○將「以て」なり○調派兵員調兵とは軍隊を甲地より乙地に移すをいふ、即はち所謂動員の意なり○起見我が兵を天津に進めたるは、全たく匪徒鎭壓公使救護の爲めに、此考へを起せるものなりとの意。見とは意見なり、見解○並無他意此塲合に於ける並字は「决して」の意なりと知るべし。並無不=可と言ふが如き亦此類なり○趁早趁とは乘隙の乘字に相當す、趁此機會と言へは「此機會に乘じて」の意なるが如し。趁早とは「早い内に」の意なり○足見足(徵と通ず、知るべし」見るべし」との意なり○不願開覺之據戰端を啓くを欲せざる證據の意。據とは證據なり○素敦睦誼平素親睦和誼を敦うせしとなり○救護實據實據とは確實なる證據の意○日後後日の意。前講〓帝國書の内月前の解參照○從中出力從中とは〓國及各國兩者の間に立ちての意。居中調停など謂ふ居中の意に同じ○具專電專はら此用事に就てのみの電報の意○書翰に專函と云ひ使者に專人と云ふが如き皆此類なり○鑒之諒鑒せられんことをとなり。(文義)返輸進呈仕候、杉山書記生殺害事件、風聞にのみ承り、未だ何等の確報に不接罷在候處、頃日御親電に依り、其事實なるを確かめ、遺憾不尠候、近來團匪日に猖獗、其亂擧暴動至らざる隈なく、現に駐京各國公使始め各公使館員は、皆重圍の中に陷り、剩さへ某國公使の如き、既に殺害せられたりとさへ風聞致候、然るに貴國官兵は公使救護、匪徒鎭定、二たつながら一も能くする所無之、國際公法上當然外交官の享有せる不可侵權をさへ被無視かの如く被見受候は遺憾之至存候、原來外國公使に對し、些さかたりとも不敬の行爲有之に於ては、明かに國際公法違犯と謂はざるべからず、而るを况んや、之を殺害したりと云ふに至ては、是れ洵に由々敷一大國際事件として其罪の輕からざる勿論之儀御座候、此際貴國政府、果して能く匪徒平定、現存各國公使救護の實を擧げらるゝに於ては其餘の些事、刄を迎へて解くべき而已と可謂、是れ陛下の中外に對せられての責任上不可不盡處に屬し、斷じて御躊躇有之間敷儀と存候」客客以降、各國皆兵を天津に進めたるに付、日本も亦不得已出兵致候次第に有之候得其、是れ固より匪徒鎭定公使救護の爲、計の此に出てたる者に有之、决て他意あるに無之候得者、貴國政府に於て、此際早速各國公使救護の途被相立に支那時文評釋國書我皇復於〓帝 於ては、貴國政府各國と和を失するを不被欲の證據判然と相成貴國の禍端を减少すべきは當然の儀と被存候」、我政府と貴國政府とは、平素より和誼敦厚の間柄にも有之候へば、愈々必要不得己時機到來の節は、固より一臂の勞を效すに吝なるものに無之、貴國政府に於て、若し果して能く迅速匪類を平定し、公使救護の實、確然被相立の曉に於ては、他日各國交渉の際、我國に於ても必らず相當の御助勢に加はり、貴國の利益擁護の途に於て御盡力可申は勿論の儀と御承知相成度候」先は右御返電而己如此御座候敬具=外務部〓派留學生總監督〓頒發關防摺奏摺外務部〓派留學生總監督〓頒發關防摺臣奕動等跪奏爲前赴日本游學生人數日衆、請派總監督一員、專司其事、以重責成、而資督率恭摺仰祈聖鑒事、光〓二十八年八月二十一日、准軍機處鈔交專使大臣載振査覆日本游學生聚〓情事摺內、:奏稱「游學一事、實爲當務之急、斷難因噎廢食自遏生機應否筋下管學大臣、遊派總監督、與日本政府商訂章程、妥爲調護之處、出自聖裁』等語、奉殊批、外務部知道欽此欽遼到部、日等奪、近來屢奉明詔、防各省選派、學生出洋肆業、並准自備資斧前往、皆皆競奮於學、〃不憚負笈出游日本地近費省、趨之者尤衆、其官派學生、各省有奏摺外務部奏請避派留學生總監督派總監督一員、專司其事、以 或委員監督、或無委員自費學生則自保送入學後並無約束、情誼旣難聯絡規制亦未整齊、出使大臣、雖有稽察照料之責而交渉事繁、兼顧實難周到該該生等、分疏勢隔、且慮下情無以上達、二渉猜嫌、轉致〓轉自非特設專員總司其事不足以端正趨向策勵通才仰副朝廷作育栽成之至意(奏摺)とは上奏文なり。摺とは折手本の意にして、〓國の制、上は上奏文より、下は下級官衙に於ける公牘文に至るまで、均しく皆折手本、即はち此摺なるものを用ゆるを例とせり。今本文釋解をなさむとするに臨み、聊さか其事の此に至れる所以の次第を尋ね以て參考に資せむ。本文朝奏は多數讀者の知悉せらるゝ處ならむが如く、其因を客夏蔡公使對〓國留學生確執事件に發し、後當時英國皇帝戴冠式參列の爲め同國へ欽派せられたる〓國專使大臣載振貝子、朝命を奉じて歸途本邦へ立寄りての事實取調となり、同貝子歸國後の封奏となり、嗣いで本文外務部朝奏となり結局勅許を得て注大變氏を以て〓國留學生總監督に任じ、〓國政府より我政府此公文は遠一、一一七·一〇二·次の贈に入て、總監督派遣の議此に對し公然の通知となりり木講に於て讀者に見に確定し、以て事の終結を告げたるものなり、是れを本文朝奏に就て前後沿革の梗因み云く、〓國留學生總監督汪大變〓となす。氏は頃日既に來朝し東京に入れり(義解)外務部外務部は總理各國事務衙門の化身なり、總理各國事務衙門は世俗總理

衙門と畧稱す、英佛聯合戰爭和議成るの後、成豐十一年の創設に係る、總理衙門は我國外務省に相當し、即はち外務行政の局に當り、〓國中央行政廳の一に居る。官名、時或は總理にして定其組織の主なる者を擧ぐれば總理各國事務衙門事務各國事務と稱す員なしとあり、親王にして此職に就くものあり、其他軍機大臣等にして此職を兼ぬるものあり。前年北〓戰役漸やく其局を結び、各國政府代表者及〓國外務當局者の間に善後處分の談判開始せらるゝや、各總理各國事務衙門事務は、甲は乙を推し、乙亦丙に讓り、各國政府代表者は殆んど〓國眞正の責任者を見出すに苦しみ、適歸するところを知らざりしより、玆に〓國當時の外務行政廳編制の一大缺陷は判然中外の認むるところとなり、各國代表者の要求は〓國政府に其外務行政廳組織改奏摺外務部奏請選派留學生總監督 革の動機を與へ、此の如くにして新に改設せられたるもの現時の外務部即是なり。今其新組織の主なるものを見るに、大に面目を改めたるものあり、即ち外務行改全體の且つ直接の責に任するものは只だ一人にして總理外務部事務といひ、親王を以て之に補すとあり會辦大臣及び尙書、侍郞等の官之に副たり。終に臨み現任外務當局者人名を左に紹介せむ(明治三十六年一月現在調) ) (イ總總外務部事務和碩慶親王奕動(ロ)會辦大臣王文韶·) (ニ) (ホ)外務部尙書瞿鴻禮同左侍郎那桐同右侍郞聯芳○遊派達とは「愼重に撰擇する」、又は「彼此比較して撰定する」の意なり○留學生在本邦〓國留學生、其數現に己に六百有餘名、內若干の女學生あり、江蘇、浙江兩省より派遣せるもの最も多きに居り、甘肅一省を除くの外、支那本部十八省中派遣せざるものあるなし、同留學生を收容する本邦各學校中成城學校に在學するもの最も多く、弘文書院、東京同文書院等之に亞ぐ○頒發關防關防とは官印なり。〓國中央各官廳北京を京官といふに在る官吏には印といひ地方官廳中地方官吏を外任といふ總督巡撫には關防といひ、其他の官には印といふ、武官にては提督に限り印といひ、其他は皆關防又は鈴記といふ。外國駐剳の公使等には皆關防と稱す。頒發とは給與の意なり○臣奕動等奕動とは慶親王の諱なるは前講すでに詳らかなり。〓國官吏には滿洲人、漢人の別あり、滿人は帝室に對して奴才と自稱し、漢人は臣と稱するを例とす。玆に慶親王は滿人なるに拘はらず、稱して臣と云へるは、葢し此上奏文たる親王一己の上奏にあらずして、總理外務部事務として外務部を代表したるものなればなり○爲○〇〇事本文冐頭に於て、其言はむとする所の要領を摘錄す、ス是れ奏摺及照會文、告示文等冒頭に於けるの格例なり○前赴前み赴くなり○責成責任に同じ○資督率留學生を監督し引率するの資となすの意。恭摺敬むで奏摺を以ての意、故に「恭しく摺を以て」と訓む可し○准軍機處鈔交云云此塲合に於ける准とは接到即ち受取れりの意。軍機處の解は前講上諭論功行賞に詳らかなり。鈔交とは抄寫して交附せるの意○專使大臣載振〓廷解は前より英皇戴冠式參列被仰付たる專使大臣載振貝子殿下(慶親王の子)上諭論功行して貝子位賞の中、皇族階級別を略解せる段に詳らかなり、人或は親王の子のかに居るとは如何との疑をなすものあれとも、是れ葢し亦前記皇族階級別末段に詳る如く、慶親王本とよりの親王にあらずしてな貝勒より累進はせられたる人なるを以てなり○査覆勅錠により取調の上委支那時文評釋奏摺外務部奏請避派留學生總監督三九 曲復奏に及ぶなり○因噎廢食、自遏生機噎とは食物の咽喉に塞がるをいふ。喉につかへたから、も-飯はいやだ、止さうといつて、自分で自分の生息する途を阻むの意○筋下飾は申付くるなり○管學大臣張百熈氏○商訂章程章程は規則、商訂は商議訂結するなり○妥爲調護妥當に留學生を保護するなり○聖裁皇上、皇太后御親裁○游學一事出自聖裁以上、載振貝子復奏の要旨を摘みて轉載せるもの○奉硃批『外務部知道』欽此以上は載振貝子復奏書天覧の上、其奏聞せる主意に對し、兩陛下の下し賜ひたる勅旨を、内閣又は軍機處に於て承宣せるものなり。即はち殊批とは有司の奏議に對し聖旨の在る所を宣下せざる可からざる種の奏摺に在りては、皇上親しく朱筆を以て其後に書さるゝ所の、奏議に對する兩陛下の批語をいふなり。玆に外務部知道せょと言へるは、即ち貝子奏議に對する殊批にして、貝子奏聞の逐一は外務部に於て承知すべしとの御意をいへるものなり知道とは知るといふ俗語。欽此とは如上の殊批を承宣せる衙門、即はち內閣又は軍機處に於て敬み承はれりとの意を言表はせるものなること上諭文の末尾に於て記する所のものと同意義なり○欽遵到部內閣又は軍機處本のなること本文示す所に文奏摺に就ては軍機處を經由せるもより明白:なリににて、欽しみて外務部知道せよとの旨を遵奉し、貝子復奏寫本を移牒して我外務部に送到せりと○各省〓國南北の各省をいふ○出洋肄業出洋とは外國に渡航するなり、我が俗語に所謂洋行の意。肆業とは學業を修習せしむ、肄は「ならふ」と訓む○准自備資斧前往此塲合に於ける准とは許可の意なり。資斧とは資は金子、斧は護身用武器、共に旅行用缺く可からざる必要品として、昔時旅客の必らず携帶したるものなり、即はち現時にては廣義に經費の意に解し、文章にも語言にも普通に使用する通用字眼となす、資斧の二字易旅卦に見へたり前往とは外國に前み往むくなり。地近費省日本は〓國を距る甚だ遠からず、要する所の經費亦隨て他國に比して少なしとなり○保送入學東京駐割の〓國公使に於て自費學生身元保證を與へ、各種學校へ入學せしむるなり○並無約東此塲合に於ける並は前講國書に詳らかなるに同じく、「决して」と訓む。約束とは取締るなり監督するなり○情誼既難聯絡規制亦未整齊自費學生に對して統一監督するの實なきを以て、學生各自の情誼相互聯絡するに途なく、其規距言動亦隨て整齊一樣なる能はずとなり支那時文評釋奏摺外務部奏請違派留學生總監督四一

○出使大臣欽差出使日本國大臣、即はち日本駐剳の〓國公使をいふ、直隷省順天府の人二品頂戴內閣侍讀學士蔡鈞字は和甫、現に此職を奉じ東京に駐剳す○稽察照料稽察とは監査する〓と照料とは照拂又は照應など相通じ、周旋世話する意○交涉事繁外國との交渉事件頗る繁多なりとなり○兼顧公使としての本務の傍はら、兼ねて留學生監督の事を顧慮するなり○分疏勢隔上下の勢、日に疎隔するをいふ○猜嫌〓國政府は、自國學生の萬里の外に苦辛留學するものに對し、毫も之を保護する途を講ぜざるにやとの猜疑心○輕轉葛藤なり、確執なり○專員留學生監督專務の官員○端正趨向趨向とは方向なり。彼の革命を絕叫するの流、此に所謂趨向端正なる者に非るなり○策勵通才時務に通達せる人才を鞭策奬勵するなり○作育栽成刻下有爲之材を栽培し養成此次載振過日本時見其外務部大臣小村壽太郞即即選派博學愛才之人充總監督駐紮是邦爲言、臣等屢晤日本駐京使臣內田康哉、及其高等師範學校長嘉納治五郞來京、所述遊學生各節博尊中國派員監督、公訂帝程傳各學生免誤方向學業有ヘン〓ヲ子成以備將來任用其詞意倶甚切擊、聯友邦維持之誼、慰多多士仰天ニ案之心、責成尤在得入造就方有實效臣等公同達選、査有四品=衛円。部自外郎汪大。品品端學館噐識安通隆使出洋辦事安治於日本遊學生情形九爲稔悉。擬請派爲總監督、前往駐扎、所有官泒白費各學生統歸管轄會商日本外務部文部參謀謹要定章程、隨時認眞經理通事。徑達百部、應請將該員추人二賞給卿衝、由臣。部判給、木質關防一顆、支日二六大〓管理杜東洋游學生總監督之關防以昭信守雅其酌常臨辨文牘、及翻譯共二三員所需薪水用項每歲支銀二萬兩由出使經費內提發、三年期滿再行奏請更換隨帶人員、屆時照出使章程請獎、如蒙;セン〓ヲ命允、即由 日部欽遵辦理、所有臣等請派總監督綠由、理合恭摺具支那時文評釋奏摺外務部奏請避派留學生總監者 陳、伏乞皇太后皇上聖鑒訓示、謹奏、』奉殊批「另有旨」此此ジ(義解)博學愛才學問該博に、且つ人才を愛憐するの心あるもの○駐紮是邦是邦とは日本をいふ○日本駐京使臣北京駐割日本公使○高等師範學校長嘉納治五郞氏は客夏北〓及南〓地方に遊歷して各地〓育制度の現况を視察したり、氏曩に一黌舍を東都江戶川端に創立し、弘文書院と名づけ專ばら〓國留學生を收容して之を〓育す、門に遊ぶもの最も多し○遊學生各節各節とは遊學生に就ての種々の事柄をいふ○博望切望又は懇望など相通ず○要訂妥當に、完全に制定する〓と○切摯擊は至と通ず、其切實至れり盡せりとなり○友邦維持之誼友邦とは日本を指す、日本より〓國を維持せんとの好誼をいふ〇多士仰望之心多士とは留學生を指す、笈を萬里の外に負ひ、備さに辛酸を甞め、苦學力行する留學生等一日も早く本國政府より總監督を特派し、官私各學生を統轄して監督保護の責に當り、以て彼等をして安心して學業に從事することを得せしむるの道を講ぜられん〓とを熱望するの心をいふ○責成尤在得人云云責成は責任、造就とは有爲の人材を造り就す〓と、即はち養成の意、方と 始と通じ、「はじめて」と訓uo學生監督の任に當る者其人の宜しきを得てこそ、人材養成の道始めて效驗あるを得むとなり○四品衝臣部員外郞汪大變四品官待遇、外務部員外郎汪。街の解は前講上諭北〓事平論功行賞に詳らかなり就て見るべし。員外郞とは官名、〓國中央行政廳、吏、戶、禮兵、刑、工の六部、及外務部等、皆尙書、侍郞なる官あり堂官と稱す、長官の意なり、以下郞中、員外郎、主事等の官あり、司官と稱す、司とは〓國の制、別ちて司となすものにして、我邦の省を別ちて部局となすに同じ、例へば外務部には和會司、考工司、権算司、庶務司の四部局あるがごとし、即はち郞中、員外郎、及び主事を以て一司局部を構成するものなり。氏は外務部員外郞として和會司に在り第三席を占めたり、浙江錢塘人、字伯唐、擧人出身たり○品端學裕裕は「ゆたか」と訓む、品行端正、學識豊富○器識宏通器量識見、衆に優ぐれ寛宏にして通達なり支那時文評釋奏摺外務部奏請選派留學生總監督 ○隨使出洋氏、前年〓國政府の獨逸駐〓公使被害事件に對し其罪を謝せむが爲め、醇親王を以て專使大臣となし獨逸に使ひせしむるや、之に隨行せり○要治要當にして和治なり○稔念熟知するなり○擬欲するにおなじ○統「すべて」と訓む○參謀部參謀本部、從來〓國武學生の留學に關しては同部の管轄に屬せり○隨時認眞經理通事隨時は「常に」なり「絕へず」なり、認眞は「本氣に」なり、「眞面目に」なり、經理は監督事務を掌理するなり、通事は學生の下情を上達する也○徑達臣部徑は直接の意、「たゞちに」と訓む、外務部に直隷せしむる者にして、公使の節制干渉を享くる者に非る也○卿街卿とは北京獨立衙門長官、前講上諭論功行賞に詳し○刋給彫刻して給與する也○東洋日本なり、前講〓帝國書の解參照○隨辨文牘翻譯隨行員、書記牛、翻譯生○薪水用項薪水とは俸給○支銀二萬兩支は支給、因みに云ふ在日本公使館經費は年額六萬兩、此等皆請負制度にして各種費目に就て定額なし〇三年期滿云云三年を以て任期となす○屆時届は「いたる」と調む、三年の後はとなり○請獎任期滿了の後、陛進せ○兪允御批准なり○緣由理由なり、始末、〓末なり○理合理應又は理當相通ず、合は「まさに「ゝゝすべし」と訓む○謹奏迄にて上奏文終る、以下内閣又は軍機處旨を承けて宣下する所○另有旨本文外務部奏摺に對し、下し玉ひし殊批なり、月別相通ず、追て何分の御沙汰可有之事といふに同じ外務部奏請避派留學生總監督