戊戌夢物語

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戊戌夢物語

冬の夜の深ゆくまゝに人語も漸に聞え履の聲も稀に響きつま戶にあたるかせの音凄しくいとものすこきにものおもふ身ハことさらに眠もやらて獨机に靠て燈を揭け書を讀けるに夜いたうふけぬれハいつしか目も疲れ氣も倦て夢となく現となく恍惚たるをりふしあるかたへ招かれいと廣き座敷にいたりけれハ碩學鴻儒とおほしき人々數十人集會しいろものかたりし侍りけるそのうちに甲の人乙の人にむかひて言けるハ近來めつらしきうはさを聞りイキリス國のモリソンといふもの首となりて船を仕出し日本漂流人七箇を乘せ江戶近海に船をよせこれを餌として交易を願ふよし和蘭陀人申いてしとなん抑イキリスといふ邦ハいかなる國に候哉乙の人答けるハイキリスとまうす州ハ和蘭陀の北にあたり候島に候和蘭陀の王都アムステルタムと申所より海上凡百十八里はかりに隔つ順風の時ハ一日一夜くらゐにも船通用いたす所にて國の大さハ日本程も是あるよしにて候へとも寒國ゆゑか人の數ハ日本よりハ寡く總括して人口一千七百七十萬六千人と申候國人敏捷にて諸事に勉强して倦怠せす好て文學を勤め工技を硏究し武術を練磨し民を富し國を强くするを先務と仕候て濱海淺灘暗礁おほく外寇難入候につき近ころ歐邏巴大亂の時に當りてもイキリスハ孤立して國民干戈の災を免れ申候國都ロントンと申ところハ至て繁昌の地にて街房美麗人戶稠密にて人口百萬人許もをり候よし海運都合宜き所にして專ら諸國に交易を致し諸國に航海仕り不毛を開き人民を蕃殖し夷人を敎導して是を服從仕候よし此節にいたり候てハ外國領分の人數ハ七千四百二十萬人と申候左候へハ本國の四倍にもいたり申候其國々の名ハ一ハ北亞墨利加と唱候て南亞墨利加の西側に御座候二つにハ西印度と名け候て南アメリカと北アメリカの間の島にこれあり候三ハ亞弗利加洲の內にて天竺の南西にあたる所に候四ハ新和蘭陀と申て日本の極南に當る所に候內を領しまうし候五ハ南亞墨利加と申候てフランシーイ〈國名〉並にカルホルニア邊にて日本の東にあたる所に御座候六ハ天竺のうちモゴルなと唱候國の內にて雲南暹羅にて天竺の地に御座候七ハ東天竺と申候て日本近海の南洋諸島無人島近所より南の島に御坐候以上國々それ諸役人ともを差むけ支配仕らせ候ゆゑそのものともの乘候船ハ軍艦にて一艘に石火矢四五十つゝも備候ものをつくりさし遣候由に御座候其船かす二萬五千八百六十艘と申候其船に乘候上役人都合十七萬八千六百二十人下役人四十萬六千人水主崑崙奴炊奴等とりあつめ總括百萬人ほとこれあるへく誠にもつて廣大のことに相きこえ申候右故自然に航海の術ならひに水軍ハことの外熟煉仕り候外國出帆の所次第に廣大に相なり交易の道も漸に旺盛に相なり凡五大洲中頭〈落字あるへし原本のまゝに〉これなき樣にあひなり候につき諸國のものともこれを恐れ羨み申候よしに御座候支那にも前々より交易仕候に付廣東の側に地所を給り商舘を營み右へ總督並諸下役人さし出しをき年々南海諸島ならひに亞墨利加の產物を聚め數十艘に積籠み廣東へ輸送し專ら茶と交易仕り本國へ贈り候ことに御座候しかるところイキリス雲南暹羅邊に領分所有之支那の屬國に界を接し候につき邊民ならひに擾亂仕界を越え互に闘爭接戰仕り候こと時々これあり候ゆゑ支那人イキリスを疎み申し候加るにホルトカル〈即日本の南蠻と唱へ候もの〉和蘭人等も廣東へ同樣交易仕候につきイキリスの交易さかんに相なり候へハ自然おの自己の衰微にも相なり候ゆゑいろ讒言を搆へ種々誹謗仕候に付元よりホルトガル喎蘭ハ淸朝革命の比大功もこれありそれ廣く地面を給はりほかならす親愛を受候ものゝ儀に付右讒言を信しなをイキリスハ忌みはゝかられ交易ものハ揃かたよろしからす旣に乾隆年末にハ貸のみ日々まさり多く相なり交易かた立ゆき申さゝるやうにいたり候これにより本國にてもいろ評議致し以來廣東交易休み候かたしかるへく抔申候說もこれあり候所近來イキリスにて茶ことのほか流行仕人々あひもちひ候に付支那交易あひ休み候へハ右缺乏いたし人々めいわくに相なり候且又イキリス領南海諸國天竺及亞墨利加邊茶多くこれあり候へとも其品支那にハはるかに劣りよろしからす其うへ一旦に右間に合候ほと澤山にハとても產し申さす候ことに付交易相休候こともあひなりかたく仍てなをまた評議致候所右交易かたとり揃はさるの儀ハ廣東下役人の所爲にて全く支那帝の意にいてたるにハこれなき樣考られ候に付そのころ嘉慶帝誕生これあり候へハ右誕生を賀し貢物を北京へ呈し候を名として使節をつかはし直に帝へ愁訴仕候かた可然と申ことに一决仕候て本國より人物を擇みロルトマアルラ子イと申ものその撰にあたり正使に仕天文地理醫術物產ハ支那にハ未熟のよしにつき右に熟煉上達仕候もの撰み同船仕らせ右に關係仕候書籍ハ勿論諸器物等にいたるまて一切相整其外支那通譯のものまても相撰み正副使の船各一艘兵糧船案內船都合四艘にて本國より乘出しその序日本朝鮮へも交を結ひたき國王の書簡相添つかはし候よし相聞申候右にて廣東交易のやうすよろしく相なり候近來にてハ廣東にこれある西洋諸國の商舘中イキリス舘尤巨大に相聞申候甲の人問曰モリソンと申もの名のきこえ候ものに御座候哉承たく候乙の人曰隨分承及候者に御座候右ハ元來イキリスにて碩學宏才の者につき彼邦學校の敎授に撰まれ俸祿五六千石に當り候ほとに御座候このものイキリスの支那に嫌忌卑蔑せられ候を歎き右ハ全く言語文字通用し申さゝるゆゑの儀とそんし右相通し候やう仕たく存慮にて二十餘年前より廣東へ態々まかり越え游學つかまつりすてに五車韻瑞なともイキリス語に翻譯いたし開版仕り漢學出精しかなりに文章も書るほとに相なり近年にてハよほと高名にまかりなり候官位も進み職重く用ひられ廣東交易吏の總督とかに相なり南海中の諸軍艦一切支配仕候よしに付少くも水軍二三萬位ハ撫育仕候やう相聞申候左候へハ此方の四五萬石の大名くらゐことにこれあるへくやと存し候甲の人又曰元來漂流人の儀ハ喎蘭人に託し送りつかはし候やう仰わたされをき候ことにてイキリスも和蘭陀隣國の儀につき右も心得をり申へく已に先年備前の回船イキリス領の天竺島へ漂着致し候所イキリス人これを和蘭陀へ渡し送りつかはし候ことこれあり候しかる所此度わさ自國の船に乘且又右漂流人を送りつかはし候まてに候へハ船頭ハなにものにてもしかるへき處右やう高官重職のモリソンと申もの頭取仕り候て送來候こと一向合點ゆき申さす候御高見も候はゝ御腹藏なく御はなしきかせ被下度候乙の人曰何さまこれにハふかき子細もこれあるへく候但しイキリス人に面會うけ給り申さぬことに候へハ其事情確知しかたく候へとも先愚見を以て臆裁仕候にこれまて數十年所々より頻に日本へ交易を願たき趣相聞せめてハ海上通船のみきり薪水缺乏の節ハ右のみも願たて種々工夫仕候よしに候得とももとより言語文字も通し不申かたより申あけ候ことも相なり申さすかつ御宥免もこれなく只イキリスと呼候へハ海賊とのみおほしめされ御取あひこれなく右の船國根へちかより候へハ有無の御沙汰にをよはれす鐵炮又ハ火炮にて御うちはらひに成候凡世界中かくのことく御取り扱これなき方に候いつれこれハ蘭人利己のため申あけ候てイキリスハ海賊とのみ讒奏仕候ゆゑの儀と奉存候て此度漢文會得仕候ものに命しまかりいて立せ候て右の趣巨細に訴訟申あけ候ことく奉存候また直に罷出候ても御とり合もこれなく候へは漂流人を送來候を名目に仕候儀に察しられ候また前以て蘭人へ傳言仕候趣にて考候所ちかきうち江戶近海へ船を寄せ候ものハ乃モリソン船との儀を知らせ申あけ候て凡うちはらゐも免れたく存慮の外他事なきやうに奉存候又長崎へまかりこえすすくに江戶近海へ船をよせ候儀ハ右申あけ候乾隆帝の末年貢船のみきりも貢物ことのほか手重にて廣東より陸地運送相なりかたく仍て北京近海に船を寄せたきたん願候て廣東の諸役人を避け直にその下役人の惡行等穩訴仕候ことゝ一般の心くみにて長崎にまかり在候蘭人の邪魔ならひに讒奏を避候存慮と考られ候甲の人又曰當御代の最初より蠻國交易ハ和蘭陀のみにて他ハ御免これなく鎭國の御政道につきとても御免の儀ハおもひもよらす兎角ちかつき候てハ面倒に候間打拂候こと御定これあり候へハ此度も御打拂にこれあるへくと存候右に候はゝさきかたのものともいかゝ心得申へくや乙の人曰西洋諸國にてハ殊の外人民を愛憐仕り人命すくい候ハ何よりの功德に仕候ことにて旣先年デ子マルカと申國とイキリス爭戰の砌イキリス水軍デ子マルカの討手トヘンハーカと申所へをしよせ候所國都防禦の備煞た嚴重にてイキリス人大に敗北仕候その節一軍艦石火矢の爲大きに破損仕りすてに覆沒溺死に臨み候所イキリス急に一詭計を考出し船中にてデ子マルカ人數十人捕をき候間右さし出し申へきにより暫時炮礟見あはせくれ候やう賴いり候所デ子マルカ王これを承り詭計とも存し候へとも一軍艦を殺つくし候とて始終全の勝利と申ことにもこれなく若又其內一人なりとも自國の者船中にこれ在候へハ骨肉を傷ひ候儀に相當り候間態と見合石火矢を放ち申さす候內イキリス人軍艦を採つくろひ遁去候よし相聞申候右等の振舞にて考見候へハ西洋の風俗ハたとへ敵船に候とも自國のものそのうちにこれあり候へハみたりに放炮仕らさることに御座候然る所イキリス日本へ對し敵國にハこれなく謂ハつき合もこれなき他人に候所今般漂流人を憐み仁義を名としわさ送來候ものをなにこともとりあひ申さす直に打はらひにまかりなり候はゝ日本ハ民を憐まさる不仁國と存し若又萬一その不仁不義を憤りて日本近海にイキリス屬島夥しくこれあり始終通行いたし候へハ後來海上の寇とも相なり候はゝ海運の邪魔に相なり候哉もはかりかたく左候て自然國家の大患にも相なり申へく哉たとへ右等のことこれなく候とも右打はらひに相なり候はゝ理非も分り申さす暴國と存し不義の國と申ふれられ義國の名を失ひこれよりいかやうなる患害萌生仕候やもはかりかたく或ハまたイキリスを懼るゝ樣にも考付候はゝ國內衰弱仕候やうにも推察仕乍恐國家の御武威も損し候やうにも相なり候半哉に恐多考られ候甲の人曰しからハいかゝとり扱しかるへき哉尤是ハ御政事に關り候ことにて容易ならさることに候へとも御存入も候はゝ御遠慮なく御はなし被下度候乙の人曰これハ國家御政治の事愚昧の賤民なと申あくへきもおそるへきことに候得とも蒭蕘の言も採る所あるの古意も候へハ恐多くも愚意を申あくへく候先只今イキリス人の底意兎も角も佗の仁義を唱へ漂流人を送り來候とも江戶近海ハ御要害の地にて着岸御免なりかたく長崎なりとも何方なりとも着岸御免おほせつけられ右漂民御うけとり被遣右の御挨拶として厚く御褒美御惠みくたしをかれ先第一愚案ハ當時和蘭陀人ハ外國の耳目官におほせつけられ候へハ彼等ハ支那韃旦天竺そのほか諸州に通商仕りいつかたも俗に申候得意旦那に候へハ彼是も格別利害これなき儀に御注進申あくへく候得ハ支那朝鮮魯西亞そのほか諸邦通商の國の動靜日本に關り候ことなとも申出候へハ大功これあり候とも一方にハ大害これあり候ことにて它日彼か爲よろしからさることゆゑ右等の大事ハ决して申あけす候やうにも考られ候得ハこん度イキリス人まかりこし候こそ幸の時節につき當時淸朝朝鮮魯西亞そのほか近國の事情御尋おほせつけられ候はゝ彼このたひ一廉の功を立候こと交易を願たき存慮十分候へハ定めて的實詳細に言上仕へく左候ハヽ座して當今外國の眞實なる事情を詳にし不勞して蘇武張騫を得か如く願ふてもこれなき國家の御大幸に候而して彼より願上候儀ハ一旦御聞屆け遊はされ候てさて交易といふ所に至候てハ國初より御規定の所嚴しく仰わたされ斷然として御制禁の旨仰つけられ候はゝ我に於て仁義の名を失せす彼に於ても亦いかにとも可致やうこれなく恨も憤りもつかまつるましく萬事穩に相濟申へくと奉存候文化年中魯西亞使節レサノツト日本へまかり越て交易願かなはす本國へまかり歸り候て申わけこれなきを歎き自殺仕候につき其下役人ホーシトウこれを憾み惟一艘の船にて蝦夷の騷動を生し國家幾多の御ものいりをかけ奉り候此度のモリソンハ近く廣東にまかり越え其うへ軍艦を數多支配仕り殊に日本近海に屬島多く魯西亞レサノツトの類にハこれなく非法の御とり扱これあり候てハ將來いかなる患害出來候哉實に可怖と存し奉り候なをまた此たひ漂流人とゝなへ候もの船方蠢愚のものに候や但しまた佳成に文才あるものにも候や審ならす何さま此たひモリソンのまかり越候ことハ尋常のことゝハ存しられす但し右申あけ候儀も方今文明の御代明君賢相上にまし御良策被爲在候へハ申あけ候まてもこれなく候所至愚の我傍はゝからす其職に非らすして國家の御政事を論する樣相聞其罪かろからすことに候强て仰を蒙り候ゆゑ申あけ候ことに御座候尤これハ國を思ふの忠膽に出候儀ゆゑふかく御咎めくたされましくなとゝはなしけるを聞ぬるうち木柝の聲におとろき夢さめて見れハ今まて集會の席とおもひしハ我寢室にて我に對する人もなくともし火のかけいとくらく鷄の聲はるかに聞え夜もあけなんとするありさまなり左思右想するにこれハ醒るに似てまた覺たるにあらす夢に似て眞の夢にもあらす奇怪不思議のことにあれハ筆をとりておほえしことゝもを記しをきぬ  戊戌冬十月夷日の明日  十一月再校了

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。