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憲法調査会報告書の概要/第一章

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第一章 憲法調査会の歩み

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‐その設置から報告書の提出まで‐  

憲法調査会の設置から報告書の提出に至るまでの経過は、報告書の本文の第一編「憲法調査会の設置および構成の経緯」、第二編「憲法調査会の所掌事務ならびに組織および運営」の部分と、第三編「調査審議の経過および内容」のうちの調査審議の経過に関する部分において詳細に述べられているところであるが、その要点はおよそ次のとおりである。

一 調査会の設置と発足の事情

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憲法調査会は、昭和三一年、第二四回国会で成立した憲法調査会法(昭和三一年六月一一日公布法律第一四〇号)によつて設置されたのであるが、その設置の由来は、その以前にまでさかのぼる。すなわち日本国憲法再検討の論議はすでにそのかなり以前から生じていたのである。

すなわち、日本国憲法は、昭和二一年一一月三日公布され、翌二二年五月三日から施行されたのであつたが、当時、この憲法に対する国民各層の態度には、複雑なものがあつた。すなわち、一般的には、この憲法は、国民によつて日本再建の指針として迎えられたことは確かであるが、他面、この憲法が連合国の占領下という特殊な事情のもとに制定をみるにいたつたものであることから、他日、国民の自由な意思によつてこれを再検討すべきであるとする考えも、この憲法の成立の当初から根強い底流として存在していたということもできるのである。

また、このような国内事情とは別に、当時の連合国側の事情も複雑であつた。昭和二一年一〇月、極東委員会は日本国憲法再検討に関する政策決定を行ない、日本国憲法は極東委員会によつても、またその施行後一年以上二年以内の期間に日本の国会においても再検討されるべきことを定めた。この政策決定は総司令部により日本政府に伝えられ、また昭和二三年八月、総司令部から日本政府に対して再検討に関する示唆がなされた。しかし、その後、日本の側では関係部局により若干の研究が行なわれたにとどまり、また極東委員会も日本国憲法の再検討は終了したという趣旨の政策決定を行ない、この時期における再検討問題の動きは、これ以上に発展することはなかつた。

しかし、その後、昭和二五年六月、朝鮮事変が勃発し、ついで、昭和二七年四月、講和条約が発効し、占領の終了・独立の回復が実現する時期に至るや、特に防衛問題を中心として、独立後の課題として日本国憲法の再検討という問題があらためて大きくとりあげられることとなつた。

すなわち、政党の動きとしては、自由党および改進党は、それぞれ、党内に憲法調査会を設け、いずれも、日本国憲法は全面的に改正を要するという結論を得て、党の政策として公表した。他方、左右両派社会党、労農党などの革新政党、総評などの労働組合等の革新勢力は、憲法改正反対・平和憲法擁護のスローガンを掲げ、またそのための国民組織として憲法擁護国民連合を結成し、自由党・改進党の側からの改正論に対して対決する態度を明らかにした。

この情勢は、さらに昭和三〇年、保守合同および両派社会党の統一により、自由民主党と日本社会党との二大政党対立の形勢が明瞭となるにともなつて一層顕著なものとなつた。

すなわち第一次の保守合同により結成された日本民主党は、法律をもつて国会に憲法に関する調査審議機関を設置すべきことを政策大綱の一として提唱し、昭和三〇年六月、憲法調査会法案を国会に提出した。同法案は、審議未了に終わつたが、ついで同年一一月、第二次の保守合同によつて結成をみた自由民主党も、現行憲法の自主的改正をはかることを政綱とし、そのために法律による憲法調査会を設置し改正案を準備する必要があるとし、昭和三一年二月、憲法調査会法案を国会に提出した。またこの期間において、憲法改正の必要と、そのための国民運動組織をとなえた自主憲法期成同盟および自主憲法期成議員同盟が結成され、同法案の成立を推進した。

これに対して、社会党および革新勢力は、改憲阻止の方針のもとに終始激しく反対した。しかし、憲法調査会法案は、昭和三一年五月一六日、ついに成立し、ここにようやく憲法調査会の設置をみることとなつたのである。


憲法調査会法の主要規定は次のとおりである。

(設置)
第一条 内閣に、憲法調査会(以下「調査会」という。)を置く。
(所掌事務)
第二条 調査会は、日本国憲法に検討を加え、関係諸問題を調査審議し、その結果を内閣及び内閣を通じて国会に報告する。
(組織)
第三条 調査会は、委員五十人以内で組織する。
2 委員は、次の各号に掲げる者のうちから、それぞれ当該各号に定める数の範囲内において、内閣が任命する。
一 国会議員     三十人
二 学識経験のある者 二十人

右の三か条のほか、同法には、調査会には委員の互選による会長・副会長が置かれること、必要に応じて部会を置くことができること、専門委員・幹事・事務局等が置かれることなどの規定を設けている。


調査会は、このようにして設置をみたのであるが、政府すなわち鳩山内閣は、これを構成する委員の任命を行なうにあたり、調査会の構成を超党派的なものとするため、日本社会党に対し、強くその参加を要望した。しかし、日本社会党は、従来からの態度を変えず、憲法調査会には参加しないとの方針を決定した。そのため、調査会の発足はしばらく見送られることとなつた。

その後、鳩山内閣は総辞職し、石橋内閣を経て、昭和三二年二月、岸内閣が成立したが、岸内閣はできるだけ早く調査会を発足させる方針をとり、重ねて日本社会党の参加を要請したが、同党はこれを拒否した。そこで政府は、なお将来日本社会党の調査会参加の余地を残すため、同党所属の国会議員にあてられるべき席を残したまま調査会を発足させることもやむを得ないとし、昭和三二年七月三〇日、自由民主党に属する国会議員一八人、緑風会に属する国会議員二人、学識経験者一九人、計三九人を任命し、ここに調査会は、社会党不参加のまま、その発足を迎えることとなつた。

このように、調査会が超党派的な構成を得られないままに発足を迎えたことは、きわめて遺憾なことであつた。その後、昭和三四年一〇月、日本社会党が分裂し民主社会党が結成され、また昭和三五年七月には岸内閣にかわり池田内閣が成立したが、この後においても政府および調査会としても、いろいろの時期をとらえて、数回にわたり、日本社会党に対し、また民主社会党に対し、調査会への参加のよびかけを行なつた。しかし、日本社会党および民主社会党は、調査会がその任務を終了する時期に至るまで、終始調査会への参加を拒否し、これに反対する態度をとりつづけた。

すなわち、この間において、日本社会党は「憲法調査会法を廃止する法律案」を国会に提出し、同法案が廃案となつた後においても、憲法擁護国民連合とともに、数回にわたつて、調査会が審議を停止すること、報告書の提出をとりやめ解散すること等を申し入れた。またこのほか、調査会が、昭和三七年二月から同年九月までの間に行なつた地区別公聴会および中央公聴会を開催するにあたり、一部の学生団体らが、実力により、これを阻止しようとする行動に出たこともあつた。

なお、民主社会党の結成に伴い、憲法擁護国民連合とは別個に新たに憲法擁護新国民会議が組織された。新国民会議は、国民連合のように調査会に対して直接の動きをみせることはなかつたが、調査会の公聴会へ参加することなどを決定する等の動きを示し、また、調査会からの要望にこたえて、第七一回総会に、片山哲議長ら三人が出席して憲法擁護論について意見を述べた。

以上のようにして、調査会をめぐる政党の対立については、要するに、調査会は、その設置および発足の時期において、日本社会党の反対を受け、その参加を得ることができず、憲法改正問題がいわゆる保守・革新の両勢力の基本的な対立の状況の下に進展することとなつたのであつたが、この事情はその発足後においても変わるところはなかつた。

その結果、調査会の委員の構成も、終始、変わらず、その総数も、終始、四〇人前後であつた。なお、昭和三七年七月の参議院議員の改選による各派議席数の変動に伴い、公明会所属議員に対しても調査会委員一人の席が割り当てられたが、公明会は委員を出さなかつた。また、国会議員たる委員にあつては、相当数の異動をみたが、学識経験者たる委員にあつては、ほとんど異動をみなかつた。

二 調査会の運営

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憲法調査会法第二条により、調査会は、日本国憲法に検討を加え、関係諸問題を調査審議し、その結果を内閣および内閣を通じて国会に報告することを任務とする。すなわち、調査会は、内閣に置かれている機関であるが、内閣の諮問に応じて答申を行なうものではなく、また内閣の指示を受けて所掌事務を行なうものでもなく、法によつて定められた任務を自主的に遂行することをもつて本旨とした。

このため、調査会においては、運営委員会を設け、同委員会において調査会の運営に関する事項を審議することとし、調査会の議事運営の要領、調査審議の方針等については、そこで企画、立案したものを、総会で決定した。

運営の基本方針としては、調査会を、憲法問題を審議するための国民的立場に立つ共通の場たらしめ、調査会における調査審議を、超党派的な、公正なものたらしめることに努力した。調査会が、発足後において、再三にわたり、日本社会党等の参加を呼びかけたのも、この基本方針に基づくものであつたが、なお次に掲げるような措置をとつた。

(一) 調査会における調査審議を国民一般に周知させ、その理解を深めるために、調査会の会議は、原則としてすべて公開することとした。
(二) 調査審議を行なうについて、調査会内部の者だけの発言に限ることなく、憲法の運用にたずさわつている者および憲法研究の専門家等を、その立場のいかんを問わず、参考人として招致し、その説明および所見を聴取することとした。
(三) 調査会における調査審議に、国民の声を反映させるため、全国各地において公聴会を実施した。公聴会においては、とくに公述人の選定を公正に行なうよう留意し、各界の関係団体からその協議によつて推薦された者をそのまま公述人とした。また、一部公募による公述人を加えたが、これらについて、立場のいかんを問わず、公述人として選定した。
(四) ひろく現代世界における憲法の動向と、各国における憲法事情を観察しつつ、広い視野の下に調査審議が行なわれるようにするため、委員、専門委員等を海外諸国に派遣し、これら諸国における憲法運用の実際について調査を行ない、また憲法に関する問題点について、これら諸国の学識者の所見を聴取した。
(五) 最後に、調査会は、その任務にかんがみ調査会において行なつた調査と審議の結果をそのまま内閣、国会および国民に報告し、その判断に役立つ資料たらしめるため、議事規則において、「憲法調査会は、調査審議の結果を内閣及び内閣を通じて国会に報告する場合には、調査審議を終結するにあたつて明らかにされた各委員の意見を公正に表示する」旨を定め、また、その後、日本国憲法の問題点についての審議を行なう段階にはいるにあたり、第五五回総会において、「憲法調査会が、調査審議を終結するにあたつて、慎重な調査審議の結果なおかつ意見の一致をみない場合は、多数決をもつて本調査会の意見を決定することなく、すべての委員の意見を、多数意見と少数意見、改正論と改正反対論等の別なく、その論拠とともに公正に報告し、内閣、国会および国民の政治的判断に役立たしめるものとする」との申し合わせを行なつた。

三 調査審議の基本方針とその経過

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調査会は、その任務を達成するにあたり、公正・慎重な調査審議を行なうことを、その本旨とした。とくに、従来、憲法問題が激しい政治的対立のうちに強い政治的色彩を帯びながら進展してきたことの結果として、憲法改正に関する論議が、ともすれば政治論・感情論に流れるきらいがあつたことにかんがみ、調査会は、あくまでも理性的に調査審議を行ない、内閣、国会および国民に対して憲法問題に関する政治的判断を行なうに役立つ正確な資料を提供することが、最も緊要なことがらであると考えた。

このため、調査会は、調査審議を進めるにあたり、客観的な事実調査から出発することとし、まず、第一の段階として、日本国憲法の制定経過が異常であつて、これが憲法論議の一つの大きな原因となつていることにかんがみ、これについて、綿密な事実調査を行ない、ついで、第二の段階として、日本国憲法が国情にそうかどうかが問題視され、これまた憲法論議の一つの大きな理由とされていることにかんがみ、憲法運用の実際について、広範にわたる詳細な事実調査を行ない、これらに約四年の歳月を投じた。

そして、第三の段階として、これらの調査の結果を基礎に、そこに明らかとなつた問題点について、これを解決するために憲法の改正を要するかどうか、運用の改善を要するかどうかについて、約二年の歳月をかけ、慎重の上にも慎重を期して審議を行なつた。

そして、以上のような調査と、審議の結果を要約してこの報告書に掲げることとしたのである。

すなわち調査会は、昭和三二年八月、第一回総会を開いてから、昭和三九年七月にいたるまで、満七年にわたり、おおむね、次のような段階をふんで、日本国憲法に検討を加え、関係諸問題について調査審議を行なつた。

まず、昭和三二年一〇月から日本国憲法の制定の経過についての、ついで翌三三年三月から日本国憲法の運用の実際についての調査にはいり、昭和三六年九月までこれらの調査を行なつた。これらの調査にあたつては、はじめに総会において調査審議を行なつた後、「憲法制定の経過に関する小委員会」および第一、第二、第三委員会を設け、これらの各委員会は、それぞれ、付託された事項についてさらに詳細な調査を行なつた。

ついで、これらの調査の結果明らかとなつた二〇〇余の問題点を基礎に、調査会において審議すべき問題点一二〇余を掲げる「今後において審議すべき問題点要綱」を決定し、以後昭和三七年一二月までにわたり、同要綱に掲げられた問題点について、憲法改正を要するかどうか、憲法の運用の改善を要するかどうか等の審議を行なつた。

ついで、昭和三八年一月、以上の調査審議の結果を基礎に、今後審議すべき憲法の基本的問題および重要事項一〇項目を掲げる「討議に付する問題点」を決定し、同年五月までにわたつて、これらの問題点について討議を行なつた。これらの審議・討議に当たつても、はじめは総会において審議を行なつた後、特別会および第一、第二、第三部会を設け、これらの各部会は事項ごとに付託された事項についてさらに詳細な審議・討議を行なつた。

そして、昭和三八年六月以降、起草委員会を設け、報告書作成のための審議を行ない、昭和三九年七月の第一三一回総会においてこれを確定した。

これらの調査、審議を行なうにあたつては、のべ四一八名の学識経験者を参考人として招致し、その説明および所見を聴取し、また、五六回の公聴会を開催して、のべ四八七名の公述人からその所見を聴取し、さらにまたひろく海外調査を実施した。この間に開催した総会は一三一回に、委員会・部会等の会議は三一九回にのぼつた。

なお、最終の報告書の作成前の段階においても、これらの調査審議の結果は、その都度、各委員会・各部会ごとの報告書等にとりまとめ、総会の了承を得て確定し、それぞれ一般にも公表・頒布した。この間において、これらの調査審議の状況は、マス・コミにより逐一、広く報道され、またこれら各種の報告書は、学界・言論界その他によつて広くとりあげられ、憲法問題、憲法改正論議に対する国民各層の関心を高め、その理解を深める上にも役立つたということができる。

四 報告書作成の基本方針とその経過

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調査会は、その発足の当初の時期から、将来、その調査審議を終結して最終の報告書を作成、提出するにあたつては、すべての委員の意見を、多数意見と少数意見、改正論と改正反対論等の別なく、その論拠とともに公正に報告して、内閣・国会および国民の判断に役立たしめるものとすることを、基本方針とした。昭和三八年六月以降、それまでの調査審議の結果をとりまとめる最終の報告書の作成に着手するにあたつても、右の基本方針に基づくことに努めた。

すなわち、調査会の調査審議に現われた諸見解および各委員の個別的な意見を掲げるにあたつては、(一)委員の見解には相異なるものが多いが、その間に、全員またはほとんど全員の一致する見解および一定数の委員の共同の見解があること、(二)これらの見解には、立場および論拠の相違があること、(三)改正の要否に関しては、改正論と改正不要論があるが、そこにも、改正論においては改正の時期・方法・前提条件等について、また改正不要論においては憲法を改正しない場合になすべき措置等につき相違があること、等が明らかとなるようにするものとした。 また、全委員の個別的な意見を記述するにあたつても、各委員の意見には、それぞれ、その基本的立場、論拠等において種々の相違があることを明らかにするように記述するものとした。

この間において、昭和三八年一〇月下旬、衆議院の解散が行なわれ、これにより、新たに衆議院議員たる委員の任命をみるにいたるまでの間は、起草委員会および総会における最終報告書の作成、審議は一時停止のやむなきにいたつたため、調査会は、新たに衆議院議員たる委員が任命されるまでの間、起草委員会に起草小委員会を設け、同小委員会において引き続きその作成の準備を進めた。そして、一二月下旬、新たに衆議院議員たる委員の任命をみた後、昭和三九年一月以後、調査会は、起草委員会および総会における最終報告書の作成のための審議を再開し、順次、最終報告書の案の作成を進め、七月三日、第一三一回総会において、最終的にこれを決定し、内閣および国会に提出する運びとなつたのである。


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