岡本の手帳

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本文[編集]

左は『牛肉と馬鈴薯』の主人公、岡本誠夫(せいふ)の手帳より抜き書きせしものなり、この主人公に同情ある人には多少の興味あるべし。



わが願(ねがひ)は世のつねの願にあらず。この願の叶(かな)ふ時はいつなるべきか、わが命この世にある間、叶fまじとも覚ゆる。もし然(しか)る時はわれ五十、七十、百歳の寿を保ち得んも、そは空(むな)しき夢の命のみ、われはこの世の人の命をば夢の如きものと観ずることなきにもあらねど、人生は真面目(まじめ)なるもの在(あ)りといふがわれの信念ぞかし、然るにもしこの願叶はずして在らば、わが命はまことに夢より空しいものならん。一生を夢と送る、これに増して哀れのことやあるべき。この願とは何ぞや。げに世の常の願にはあらず。かかる願を懐(いだ)くもの今の世に多くありとしも覚えず、われはこれを悲むものなり、世の人は夢の如くに一生を送るなり、われはこれをあはれむ。この願いだかぬ人は影の如き人ぞかし。これ誇りたる言葉にあらず、われはかく信じて疑はざるなり。
わがこの願の叶ふと叶はざるとは偏(ひとへ)に神のみ心にあることなれど、わがこの願を懐くことはまことに神のめぐみなり、われはかく信じて疑はず、わが幸(さち)をよろこぶものなり。この願を懐くわれをわれみづから幸なりと信ずるものなり。この願もしも叶はば神のみめぐみ幾千万人のものにも増してこのあはれなるわが上に厚きなり。幾千億の人々はこの願を懐くことだにせずしてその命を了(をは)りたり。
全世界の人、悉(ことごと)くこの願を懐く能(あた)はずとも、われはこの願を追ふべし。わがかく言ふはすでにこの願の幾分をとげ得たればならんと思はる。少を見ることなくば、見んことを願はざる人も或る奇(くす)しき物の端をだに垣間(かいま)見んか、かれの願はさらに能(よ)く見んことなるべし。このゆへにわがこの願の叶はんことを切に願ふは、この願の少(すこし)く叶ひをればなり。げに然り、げに然り。
この願とは何ぞや。如何(いか)なる願ぞや。
わが恋は遂げ得て又破れたり。わが妻、これを捨てて走りぬ。このゆへにわが肉と心とのなやみしこそ幾何(いくばく)ぞや、今も今とてわが心はこの傷に苦みつつあり、今もなほをりをり神に祈ることはかの人の心に真の情の泉ふたたび漏(もれ)て流れ、わがこの傷を清め医(いや)さんことなり。されどこれわが切なる「この願」に非ず。詩人たらんことにや、あらず、剛強正大の政府を建立して今の吾国(わがくに)を救はんことにや、あらず、基督(キリスト)教を吾国民唯一(ゆいつ)の宗教となさんことにや、あらず、これらはわが空想のみ、夢想のみ、「この願」には非ず。愛と信と義とを完(まった)ふせんことにや、あらず、君子たらんこと、聖人たらんこと、偉丈夫たらんこと、これ皆「この願」にはあらざるなり。
山林の自由の生涯にや、嗚呼(ああ)われは実に山林の自由を希(ねが)うものなり、わが血はこのために躍(をど)るぞかし。山林に自由存す、われこの句を吟ずる時、わが筋肉の波立つを覚ゆ、言ふ可(べ)からざる誇、まなじりの光となる。されど、これまた、わが切なる「この願」にはあらず。
嗚呼然らば、この願とは何ぞ。
父母いたく老いたまへり、この世に在(おは)す命も長かるべしとも覚へず、一日も長く壮健に在さんことはわが願にぞある。されどこれとてもわが切なる「この願」にはあらず。
宇宙は不思議なり、人生は不思議なりと人も言ひ、われも言ふ。科学と哲学と宗教とはこの不思議を滅さんと力(つと)む。わが願もまた、科学者として、哲学者として、宗教家としてこの不思議を闡明(せんめい)せんことにや。あらず、あらず、これわが「この願」にあらざるなり。
然らば何ぞや、わがこの願とは。
美と真と善と、わが願はこれを求めんことに非ず。もしわが「この願」叶はずんば、美も善も真も、空(くう)のみ、影のみ、まぼろしのみ、題目のみ、称呼のみ。
カライル曰(いは)く、
Awake,poor,troubled sleeper.
Shake off torpid nightmare-dream.
わが切なるこの願とは眠より醒めんことなり夢を振ひをとさんことなり
この不思議なる、美妙なる、無窮無辺なる宇宙と、この宇宙に於(お)けるこの人生とを直視せんことなり。われをこの不思議なる宇宙の中に裸体(はだか)のまま見出(みいだ)さんことなり。
不思議を知らんことに非ず、不思議を痛感せんことなり。死の秘密を悟らんことに非ず、死の事実を驚異せんことなり。
信仰を得んことに非ず、信仰なくんば片時たりとも安んずる能hざる程にこの宇宙人生の有のままの恐ろしき事実を痛感せんことなり。
われはわが心の眼に厚き膜の覆(おお)ひゐることを感じつつあり。われは夢魔の支配のもとにあることを感じつつあり。これを感じ得たるはまことに神のめぐみなり。今はこの膜の破れんこと、夢魔を追ひ払はんこと、を切に願ふにいたりぬ。
この宇宙ほど不思議なるはあらず、はてしなき時間と、はてしなきの空間、凡百の運動、凡百の法則、生死、しかして小さき星の一なるこの地球に於ける人類、その歴史、げにこのわれの生命ほど不思議なるはなかるべし。これ誰(だれ)も知るところなり、しかして千百億人中、殆(ほと)んど一人たりともこの不思議を痛感する能はざるなり。友人の死したる時など、独(ひと)り蒼天(そうてん)の星を仰ぎたる時など、時には驚異の念に打たるる事あるは人々の経験するところなり。されどこはしばしの感情にして永続せず。わが願は絶えずこの強き深き感情のうちにあらんことなり。


何故(なにゆえ)われはかくも切にこの願を懐きつつ、しかも容易にこの願を達する能はざるか。夢中にありと知りつつ、何故に夢よりさむる能はざるか。


英語にWordlyてふ語あり、訳して世間的とでもいふ可きか。人の一生は殆んど全く世間的なり。世間とは一人称なる吾(われ)、二人称なる爾(なんじ)、三人称なる彼、この三者を以(もっ)て成立せる場所をいふ。人、生れてこの場所に生育し、その感情全くこの場所の支配を受くるに至る。何時(いつ)しか爾なく彼なきこの天地に独(ひと)り吾てふものの俯仰(ふぎょう)して立ちつつあることを感ずる能はざるに至るなり。
蒼天も星宿(せいしゅく)も、太陽も、山河も悉くこの世間を飾る装飾品とのみ感ぜらるるに至るなり。
それ世間ありて天地あるに非ず。天地ありて世間あるなり。この吾は先づ天地の児ならざる可からず。世間に立つ前、先づ天地に立たざる可からず。
何故にわれはかくも切に「この願」を懐きつつ、なほ容易に達する能はざるか、曰く、吾は世間の児なれば也、吾が感情は凡(すべ)て世間的なればなり。
心は熱く願を懐くといへども、感情は絶へ間なく世間的に動き、世間的願望を追求し、「この願」を冷遇すればなり。
怪しきまでに人はこの天地の不思議に慣れて無感覚に安(やすん)じをるなり。墳墓の累々たるを見て平然たるなり。限りなき蒼穹(そうきゅう)仰ぎ見て平然たるなり。


信仰と言ひ、悟道と言ひ、安心と言ふ。されど要するに心理的遊戯ならざるは稀(まれ)なり。何となれば彼等は驚異の感に打たれて天地の間に俯仰介立(かいりつ)し、求めざるを得ずして神と道と安心とを求めたるに非ざればなり。われは已(すで)にこの心理的遊戯に倦(う)みたり。


余もこの願もし叶ふことなく、諸君もまた、かかる願だに有(も)たずとせば、吾等の宗教は遊戯のみ。吾等はただ自個の尤(もっと)もらしき感情を弄(ろう)するに過ぎざる可し。吾等の所謂(いはゆる)信仰なるものは前提をあやまり結論よりもはかなきものなるべし。
政治や美文と並称せらるる限りは宗教も遂(つひ)に睡眠中のぜいたくなり。


「神を信ずるもの」、彼等は白からかく称しをれり。然(しから)ば何故に彼等は世間的の煩(わづらひ)に苦むこと多きや。何を着んと思ひわづらふ勿(なか)れと主は教へたまへどもこれ等を思患(おもひわづら)ふのみに非ず如何(いか)に人に思はれん、如何に世の認めるならんなどをも思ひなやみをるなり。これ何故ぞや。彼等の神は天地の造りぬしならずして、世のものなればなり。彼等は神を称して天地の造り主と讃(たた)ゆ。されど彼等は、この天地に極(きは)めて冷淡なり。余は今、彼等と言へり、されどこの彼等の内には勿論(もちろん)余も加はりをるなり。


人々各追求願望するところあり、善を求め愛を求め義を求む、これ等を称して理想を仰ぐと称す。それより下(くだり)ては功名富貴(ふうき)、様々なり。これ等の願望のために人々焦心苦慮す。されどわが「この願」よりすれば悉く末葉なり幻影を追へるなり、夢を追へるなり。


幻影よ、幻影よ、
人は悉く最大なる事実(フアクト)を見る能はずして幻影を見るなり。幻影を見るが故に事実を見る能はざるなり。幻影よ幻影よ消え失(う)せよ。
吾等は最早(もはや)太陽を見ざるなり。ただ太陽の幻を見るのみ、月を見ることなし。眼底の幻影を見るのみ。
吾等は最早天地を見ることなし。脳底の印象物を見るのみなり。
吾等は遂に事実を全く離れて、ただ幻影のみを見るなり。吾等は死を見る能はず、ただ死体を見るのみ。生を見ることなし、ただ生体を見るのみ。故に生死の不思議に打たれずして生体の死体となりしを見るのみ、否、生体を見しかして死体を見るのみ。
凡(すべ)て人が事実を見ずして幻影を見るの尤も甚だしき例は死の場合なり。ルーテルは曾(かつ)てその友人アキレスの電死を傍に見て、死の事実を見得たり。普通はただ幻を見るのみ。吾等の目さめし時といへども、夢のうちに在る時と五十歩百歩の相違のみ。


明日も来(きた)るべく、今日は過ぎなんとし、昨日は逝(ゆ)きたり、日々同じ夢のみ繰り返へしつつ過ぎゆく。実に憐(あわ)れなるは、この天地を夢にてつつむことなり。
如何にすればこの夢さむべきぞ、この方法もがな。利刃(りじん)を以て肉皮をそぎ取るが如くに痛快にこの心眼の被覆を去りたし。その方法もがな。
深夜、月に対して瞑想(めいそう)したり。薄暮、若王寺(じゃくおうじ)の丘上に立ちて大観したり。されど僅(わづ)かに心のをののきしを感ぜしに過ぎず、忽然(こつぜん)としてさめざる也。
われ何処(いづこ)より来り、何処にゆく。死せし彼は何処にゆきし。これ等の問をこの宇宙に向て心から発し得んことは難(かた)い哉(かな)。されどこの問を発せんことは吾が願(ねが)ひなり。
われはこの願の叶ふまでは如何なる手段をも取ることを辞せざらんと欲す。


上加茂の丘に登り、松によぢ上りて四方を見渡しぬ。されどわが見たる処(ところ)は遂に幻影の外に出づる能はざりき。美(うる)はしき野辺(のべ)の夕日影、大空をただよふ雲のむれ、はてしなき蒼穹(そうきゅう)、何(いづ)れか「美」ならざらん。されどわれ遂に幻を見たるのみ。われの夢は少しもさめざる也。
ただ世の卑しき空想のみに苦められき。
星みつ空、これ又、幻影としてのみ見らる。われは遂に下寧の外に出づる能はざる乎(か)。


この世の名利の念に苦(くるし)む。肉の事をのみ思ひわづらふ。これ何故ぞや。神を知らざればなり。否、世に住みてのみゐて、天地に住まざればなり。夢にのみ生き幻のみ描きて、この恐ろしき不思議なる宇宙にこの身を見出(みいだ)すこと能はざればなり。
嗚呼(ああ)吾は患難(わづらひなや)めるものなる哉(や)。朝な夕な、夕な朝な、ただただ世の事をのみ思ひわづらふ。徒らにもがき、苦しみ、あせり、いらだつなり。
思へ思へ。伴(ばん)武雄何処(いづこ)にある、古川駒造何処にある、山口行一(かういち)何処にある。有光里子何処にある。藤形何処にある。願(ねがは)くは吾心さめよ、嗚呼希(ねがは)くば吾心めさめよ。
爾(なんじ)の今すむ処何処ぞや。これ旧(ふる)き都に非ざるか。ここには千年の歴史あり。されど平清盛(たいらのきよもり)何処にある。平敦盛(あつもり)何処にある。花の如き平家の公達(きんだち)今何処にある。
陰謀、企図、叛乱(はんらん)の跡ここにあり、その人等何処にかゆきし。足利(あしかが)義政何処にある。その銀閣寺は、十銭の見物料を徴して空(むな)しく明治の代の見世物となりぬ。豊臣(とよとみ)秀吉何処にかある。維新の諸豪何処にある。
ああわれここに在り。われここに立つ。有りしものなし。今あるものも又た無からん。吾何処より来り、吾遂に何処にかゆく。願くは吾心さめよ。希くは吾がにぶれたるこの心さめよ。この世の夢よ、さめよ。わが願は宇宙の不思議を明(あきらか)にせんことに非ず、人生の秘密を明白に解剖せんことに非ず。
たださめんことなり。「秘密」に戦慄(せんりつ)せんことなり、「不思議」に驚魂悸魄(きはく)せんことなり。
知れざるものは如何にしても知れずと。ここに於て賢明なる人々は人生問題や宇宙問題に従事することを以て閑人(かんじん)の閑事業と見做(みな)したまへり。
然り、然り、知れざるものは如何にしても知れざる也。これを知らんことをつとむるは実に閑人の事なるべし。されどこれを以て宗教の人を嘲(あざけ)るに足らざる也。宗教とは宇宙人生の不思議を解釈せんがために起りしにはあらず。不思議を不思議と痛感して後起るところの信仰に由つて成るものなり。
有神無神の争論に先だち人は先づめさめざる可からず。爾の宗教的信仰なきは、爾の心の麻痺(まひ)を証明するなり。
神の人は言ふも畏(かしこ)し、ポーロルーテルや皆(み)な「不思議」にめさめてこの幽遠宏大(こうだい)なる宇宙に於ける人の命運につき心をののき感あふれしなり。その火の如き信仰は止(や)むことを得ずして起りし結果なり。
多くの科学者は不思議を感ぜずして「不思議」に弄(もてあそ)ばるる愚者なり。多くの哲学者は不思議を感ぜずして「不思議」を退治せんと欲する夢想家のみ。

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