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小酒井不木は小酒井不木にして正木不如丘にあらず

 近頃、正木不如丘と小酒井不木とを同一人だと考える人があるそうである。ベーコンとシェクスピアとが同一人だ、いやちがう、などという議論を読むと、対岸の火災を見るようで頗る面白いが、不如丘と不木とが同一人だといわれてみると、興味を通り越して、少々変な気持ちになる。もし高度の神経衰弱にでも罹っていたなら、或いは自分ながら、「粗忽長屋」流に不如丘と不木とを混同してしまったかも知れない。正木不如丘という文字をよく見ると、その中に不木が逆立をしてくっついている。まさかそういう点から同一人だろうと判断した訳でもあるまいが、新年になって発行された『探偵趣味』第四輯の十九ページを見ると小生の名が小酒井不如木となっているなど、いよいよ以て変である。

 しかし不如丘と不木とはたしかに別人である。その証拠に二人が顔を並べて見ると、不如丘でない方が不木であり、不木でない方が不如丘であることがわかる。ところが不如丘は東京に住み不木は名古屋に住み、二人が顔をならべることは容易でない。最近二人とも二十一日会の同人となり顔を合すべき機会も多くなった訳であるが小生がなかなか上京する気にならぬから、いつ逢えるともわからない。

 思えば不如丘君と小生とが最後に逢ったのは五年前(ぜん)ことだ。それも日本でではなくパリーでだ。不如丘君は小生より一年前に東大医学部を出て内科に入り、小生は生理学教室にはいったので、互に話す機会さえなく、パリーで逢ったのが、言葉を交した始まりである。その頃、小生は宿痾の重いのに悩まされてずっとベッドを離れなかったが、同君はよく見舞ってくれた。病が少し怠って大西洋沿岸のアルカションへ転地するとき、同君は、綺堂氏の『雨月集』を呉れた。転地療養中の徒然に、小生はあの書を幾度となく繰返して読んだものである。小生の転地中、同君はたしかスウィスを旅行したはずである。そうして小生がパリーに帰った頃同君も帰っていて、小生が日本へ旅立った日は停車場まで送って来てくれた。

 それきり今日まで逢わないのである。日本へ帰るなり、小生は重いインフルエンザ肺炎に罹り、それが治ると再び咯血に悩み、丁度不如丘君がパリーで研究室通いをしている間、小生は病床に横たわっていた。そうして不如丘君が帰朝早々『診療簿余白』を発表して天下の読書子をやんやといわせた時も、小生は床の上でうんうんうなっていた。

 パリーの病床生活から引き続いて小生は病床で探偵小説を読むことを唯一の楽しみとした。日本に帰ってからほどなく、博文館の森下雨村氏と相識ることが出来、同氏からどしどし新刊の海外探偵小説を送ってもらって読んだ。探偵小説と共に、犯罪学に関する書物も送ってもらい、それがため犯罪学に対する興味がむらむらと湧き起った。私の専攻は衛生学であったが、嘗て法医学教室の三田先生に師事して血清学を修めたため、法医学に対する興味もかなりに持っていた矢先であって、遂に床の上で犯罪学の研究を始めるようになった。そうして犯罪に関する雑文をぽつぽつ発表した。その間不如丘君は矢つぎ早に各種の名作を発表し、その勢力の絶倫なるに舌を捲かせた。

 全く、日々の忙しい仕事を成した余暇にあれだけの仕事が出来るのだから驚かざるを得ない。小生も一ケ年以来探偵小説の創作に筆を染めるに至って、創作の苦しさを知ったが、その創作をいかにも易々とやって退ける不如丘君の筆の力には頭が下る。「正木不如丘」の中に「不木」が逆立ちしているのはこの点、逆立ちしても及ばないという意味であるかも知れない。

 パリーに居た頃、不如丘君はすでに今日あるを知っていたかも知れぬが、小生は、文筆生活をしようなどとは夢にも思わなかった。もう一度恢復して、東北大学へ行くつもりであったのである。ところが帰朝以来、重病また重病、遂に学究の徒たることを断念せざるを得なくなった。もし小生が東北大学へ行っていたら、恐らく「不木」たるものは存在せず、従って「不如丘」と混同されることもなかったであろう。

 最近不如丘君は探偵小説にも筆を執って、優れた作品を発表した。この点から見ると、不如丘と不木とは大へん接近した訳で、同一人として間違えられる機会が、いよいよ多くなったといってよい。うっかりすると、こうして異同論を発表したそのことが、却って二人の混同される種となるかもしれない。

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