寝言レコード

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寢言レコード

1

『どうだい――その後』

『まあ、やつてるよ、しかし新米だからパツとしない』

『さうさ、はじめつからパツとする仕事なんてあるもんか……、小生を見ろよ、未だに警察廻りだ』

 同級生のくせに、職業戰線の方では先輩だといはぬばかりの顏をした木村が、さういつて河上の、まだぴつたり板につかぬサラリーマン姿を、ニヤしながら見つめた。

『どうも時勢が惡いよ、華々しき特種をやつて、支󠄂那特派員になりたいと思つてゐるんだが……しかし、此處は、なかいゝ應接間があるね』

 木村は、物珍らしさうに二坪ばかりの應接室を見廻し、彈みのいゝクツシヨンの上でわざとお尻を彈ませてから長椅子の腕木に、どさりと片足を上げ、

『矢ツ張り外人のゐる會らしい』と頷いた。

 ドアーの摺硝子には合資會と割り書きして、その下に「太洋商事」と金文󠄁字が貼つてあるのが透けて見えてゐた。

『あの合資󠄁ワリカンつてのは、外人もはいつてゐるのか』

『いーや、資󠄁本關係はないらしいね、たゞ商賣上、顧󠄁問格といつた奴がゐる、ひどく日本語の達󠄁な奴で銀座尾張町といへばいへるくせに、わざとオワイ町なんてバスの中で呶鳴るんだ、ふざけてるよ――、こないだなんて、ナニ古本? 保町ビンボーちやうよろしい。とやつたぜ』

『へえ、――しやれたもんだね――で、どうだい就職の感想は?』

『インタービユーされてるみたいだナ。併し惡くはないね』

 新聞記者である木村はインタービユーといはれて、一寸照れたやうな顏をしたが、

『惡くなければ結構さ、だがこゝでは來客にお茶も出さん主義かい?』

 と、その木村の聲に應ずるやうにドアーをノツクし、ぴつたり身についたワンピースを粧つた、斷髮の美少女が、靜かにお茶を運󠄁んで來た。

 木村は、急󠄁いで泥靴の足を下してちよこんと揃へると、彼女が、その滑らかな指をもつた手でお茶をすゝめ、一輯して去つた後を吸はれるやうに見送󠄁つてゐたが、

『おい……』

『同僚だよ、机を並べてゐる――』

『ふーん、道󠄁理で君がこの會が氣に入つた筈だよ』

『まさに、その通󠄁り――』

『はつきりしてやがる!』

 河上と木村は、學生時代のやうに笑ひ合つた。そして、

『ぢや、時々來るぜ……』

 と、冗談をいひながら歸つた木村を、戶ロまで送󠄁つた河上は、彼女を思ひ出し、

(わざお茶をもつて來てくれたりしたんだから好意をもつてゐてくれるに違󠄁ひない)

 と、知らず知らず微笑のこみ上つて來るのを覺えた。

 ――が、部屋へ歸つて見ると、珍らしく小村美知子の席が空󠄁いてゐた。彼女が勤務時間中に席を空󠄁けるなんて、實に珍らしいことである。しかも、隨分しばらくたつてから、歸つて來た彼女の足取りは、まるで蹌踉としてゐたのである。氣のせゐか、つい先刻󠄂までは艶やかな赤味をもつてゐた兩の頰が、どうしたことか血の氣を失つてゐるばかりか、その黑い大きい瞳󠄂まで、涸れたやうに鈍い色を見せてゐた。

『あ、さつきは濟みません、わざお茶など……、給仕がゐなかつたんですか』

 彼女は、その河上の聲に、びっくりしたやうに線を合せたが、

『あら、いゝのよ……』

 と呟くやうにいつて、俯向いた。

『どうかしたんですか』

『……』

『顏色が惡いやうだけど……』

『……』

『あ、頭が埃りだらけですよ……』

『……』

 彼女は、ものうささうに手許のメモを取ると、何事か走り書きにして寄來した。村上が引よせて見ると、

 ――執務中の私用は御遠󠄁慮下さい。(今日は特に)――

 と書いてあつた。

 途󠄁端に、一日置き出のオワイ町先生が、つい今しがた出し、自分の眞後に嚴然とゐることそして時間から時間までは、この會といふ機械の、一つの齒車であれ、といふのが先生の豫てからの說であつたことを思ひ出し、河上は、憂欝な顏をして帳簿を擴げにかゝつた。


2


『河上さん、荷物を開けたいさうですが……』

 給仕が呼びに來た。

 さつきからふさいでゐる彼女と向き合つて、失戀に似た氣持を味はつてゐた河上は、それをいゝことにして傳票を摑み、わざと勢ひよく階段を倉庫の方に駈下りて行つた。

 陽あたりの惡い倉庫には、いつものやうにパツキングや木箱から立騰る倉庫獨特の匂ひが、むーんと罩つてゐた。このは輪入が商賣なので、それらの鐵の帶で締められ、橫文󠄁字のべた書かれた木箱の匂ひこそ「異國の香」であるなどと初めは感傷的なことを思つたのである、が近󠄁頃はもうたゞむせつぽいばかりであつた。

 河上の仕事は、この送󠄁られて来た商品の開封に立合つて、傅票と商品個數とを照合し、それを帳簿につけ上げて整理する、といふのが主なものであつた。

『ぢや、これからやりますからね』

 倉庫係は、さういふと手前󠄁の一箱から手際よく開けはじめた。

『咋日あたり船󠄂がついたのかね』

『いや、これは船󠄂の合で香港上を廻つて來たんですよ、こんなに角がやられて……』

 さういつてゐる中に蓋がはねられ、パツキングが除かれ、雜多な品物が竝べられて行つた。

 それは主に機械の部分品であつた。

 河上は、片ツ端から商品を睨み合せて傳票にチヱツクして行つた。

『よし、OK――、これで全󠄁部だね、ぢやあと賴んだよ』

 ズボンの塵を拂ひながら、二三步かへりかけた時だつた。

『あ、一寸々々こんなとこに、も一つ』

『え、まだあつたのかい』

『もう少しで見落すことろだつた、こんなところに轉がつてましたよ』

 倉庫係は、薄い四角な木箱を拾ひ出すと、塵を拂ひながら河上の前󠄁に差出した。

『何んだらう――』

 思つたより輕いものだつた。河上は、それを小脇に抱えると、不審さうに傳票を初めから見直した。

(全󠄁部照合した筈だが――)

 もう一度品物と引合せて見たが、送󠄁品書と品物とはぴつたり合つてゐる。するとこれだけ餘分なものが出て來たわけだ。

『豫備かな……開けてみてくれよ』

 今まで壞れやすいもので、途󠄁中の破損を見越して餘分に送󠄁つて來るものもあつたのである。

しかしひどく薄い輕いもので見當がつかなかつた。

『あれツ、レコードが二枚――』

 封を切つた倉庫係が珍らしさうにいつた。

『レコード? そんなもん註文󠄁した筈ないぜ――變だね――』

 傳票にないレコードが、なぜ送󠄁られて來たのであらう。しかもその眞中の貼紙にはあんまり見かけない「赤い鴉」のマークがゴム印か何かでペタンと捺され、そしてその下に一方には「Ⅰ」も一つは「Ⅱ」と、たつたそれだけしか書かれてゐなかつた。その上二枚とも裏がへして見るとのつぺりとした片盤なのである。

『妙なレコードだなア、曲目ぐらゐ書いてありさうなもんだのに……』

 倉庫係が不思議さうにいふのを聞き乍ら、

(テスト盤、といふ奴かな)

 河上は、ふとさう思つた。

 それにしても、赤い鴉のマークと番號だけといふのは變である。

『……こんなもんを註文󠄁したのかどうか、持つて行つて聞いてみよう』

 有り合せのハトロン紙に包󠄁んで、その二枚のレコードを事務室に持つてかへつた。

 しかし、美知子は、どうしたことか相變らず誰からの眼もさけるやうに、白々しい、橫顏をしてゐたし、さうかといつて、他のに聞いてみるのも億劫であつた。


3


 午後五時が打つと、ものゝ十分とたゝないうちに、內はひつそりとしてしまふのが例であつた。この點は甚だハツキリしてゐて、氣持がよろしい。齒車共は一齊に開放されてしまふのである。

 河上は、ハトロン紙包󠄁みを抱󠄁えて、傍目もふらずに步いてゐた。實はアパートに歸つても蓄音󠄁器がないので、この奇妙な貼紙のついてゐるレコードを試聽することが出來ず、ふと晝間寄つて行つた木村のことを思ひ出し、彼ならポータブルを持つてゐた筈だと思ひついたので、務先の東洋每日に急󠄁いだのだ。受付を通󠄁じて見ると、幸ひ木村はすぐ出て來た。

『まだ歸れないの――か』

『うん、これからなんだ、しかし三十分位だつたらいゝぜ』

『實はレコードの珍品を手に入れたんだが、君のとこへ行つて試聽して見たいと思つてね』

『レコード? どれ――』

 包󠄁みから出して、

『變なマークだね、一體なんだいこれは?』

『なんだか判󠄃らんよ、兎に角一遍󠄁聽いて見なけりやね』

『ふーん、さうそこに行きつけの家があるから一寸かけさせて貰はうか――』

『それでもいゝ……』

 木村が行きつけだといふ喫茶店はすぐ傍の露地にあつた。

『やあ――』

 木村は馴れた挨拶をすると、

『珍らしいレコードなんだがね、一寸かけさせてくれないか』

『あら、片盤なの、贅澤なもんね』

 三坪ばかりの店には、時間のせゐか一人も客がなくて、ぼんやりしてゐた少女が、だるさうに立つて來た。

『まあ聽いてろよ、僕がかけてやる』

 木村は、自分でレコードをかけると、

『はじまるぜ……』

 レコードは廻り出した。しかし、一向に音󠄁がしないのである。サーツといふ針が溝の中を走る音󠄁ばかりだ。

 と、しばらくたつて、カチツ、カチツ、といふ音󠄁が、ほゞ一廻轉位の間隔を置いて鳴り出した

『へんだね、罅が入つてゐるのかね』

 河上がいつた。

『それにしても罅の音󠄁だけとは情󠄁けない――、どこでこんなもんを手に入れたんだ』

 さういつてゐる中に、針は、溝を半󠄁分以上も廻つてしまつた。それなのに、相變らずカツチママ、カチツといふたよりない音󠄁が一と廻りごといて來るばかりなのだ。

『駄目だ駄目だ、もう一枚の方をかけて見よう……』

 ところが、あとの一枚も、カチツ、カチツといふ音󠄁きりなのである。

『おーい、揶揄からかふなよこんなのを珍品だなんて――誰もゐないからいいやうなもんの、いゝ恥をかくぜ』

 木村は、腐つたやうな顏をして蓄音器の傍に立つたまゝの河上を見下した。

『ばかしい、もうよさう――』

 さういつた木村が、レコードを止めようとした時だつた。

 溝の後半󠄁を廻つてゐた針先が、ボーンといふ音󠄁を捉へると、それに一寸間を置いて、やつと何かの錄音を再生しはじめた。

 思はず二人は、息をしてそれに聽き入つた――が、しかし、それは實に奇妙きみようれつママな歌とも讀經ともつかぬ變に間伸びのした意味の摑めぬ音󠄁なのだ。音󠄁といふよりは、言葉なのであらうが何處の言葉ともわからぬ、いやあな感じのするきなのだ。

 それが、僅か三十秒ばかりつゞくと、あとは又󠄂、サーツ、サーツといふ人を馬鹿にしたやうな無音󠄁地帶がしばらく續いて、終󠄁つてしまつた。

『なんだい、こりや?』

『うーん……』

『初めのもさうかナ』

 木村は、さういつて先刻󠄂途󠄁中で止めてしまつたレコードをかけた。そしてカチツ、カチツを我慢して聞いてゐると、やがてポーンと鳴つて、同じやうな抑揚の、同じやうに譯のわからぬ寢言が續いてき出した。もう一方のと違󠄁ふことはたしかに違󠄁ふのだが、譯がわからぬといふ點では同様であつた。

『日本語らしいね』

 聽き終󠄁つた木村は、それだけ言葉短かにいふと、二枚のレコードを靜かに包󠄁みかへした。そして、はじめて思ひ出したやうにコーヒーを賴み、

『どこで手に入れたんだい、こんなもん?』

『どこでつて、それが可怪しいんだ。うちの荷物が長いをしてゐるうちに、こんなもんが迷󠄁ひこんで來たらしいんだよ、何しろ註文󠄁もしなければ送󠄁品書にもないもんが這入つてゐたんだからね……』

 河上は、

(名曲かな――)

 と思つてゐた期待外れに、がつかりしながらぽつ說明󠄁した,

『ふーん、すると』

 木村は、なぜか一寸聲をひそめ、

『若しかすると面白いことになるかも知れないぜ、こゝぢやまづい。僕のアパートに來ないか、ゆつくりこのレコードを硏究してみよう』

『しかし、の方があるんだらう……』

『……いゝさ、一寸電話して、腹が痛いことにして置かう』

 木村は何を思ひついたのか、自分でレコードをもつて先に立つた。


4


 翌日。河上は寢不足の眼をして時間ぎりぎりに出した。昨夜あれから木村のアパートで夜も遲くまで、それも隣室から呶嗚られなかつたら、それこそ徹夜もしかねまじい熱心さで、あの、「寢言レコード」をかけ續ける木村の傍に、不承ふしようぶしようママお附合ママをしてゐたのである。――どうもまだ瞼が腫れぼつたい。

 が、彼は、間もなくその眠氣ねむけを忘れてしまつた。といふのは、いつもならハりのある美しい轚で『オハヨー』といつてくれる向ひの美知子が、珍らママしく二十分ばかりも遲刻󠄂して來たばかりか昨日にも增してその顏色が冴えない。いつもの新鮮な赤味はまつたく無く、寧ろ蒼味がかつてさへ見へるのだ。

(どうしたんですか――)

 と問ひかけようとしたが、昨日のメモのことを思ひ出してやめてしまつた。たゞ、今日は幸ひやかましいオワイ町先生の來ない日なので、彼女の遲刻󠄂が左程󠄁目だたなかつたのを、河上は、自分のことのやうに安心したきりであつた。

 長い午前󠄁が過ぎて、サイレンが鳴つたけれど、彼女は一向食事に立つ氣配もなかった。

『お畫、行かないんですか』

『えゝ』

『何か心配ごとですか――』

『なんでもないのよ……』

 美知子は、やつと河上の顏を見たが、

『どうぞお先きに――』

 さういつたまゝ、向ふを向いてしまつた。まるで取りつく島もない有󠄁樣だつた。しかしそれは彼女も氣がついたと見えて、矢張り向ふを向いた儘だつたが、

『いゝのよ、心配しないでね、一寸頭が痛いだけなの……かへりのお序にミグレニン買つて來て下さらない?』

『そりやいけませんね、すぐ買つて來ますよ――』

 河上は、大急󠄁ぎで晝飯をし、ミグレニンを買つて來ると、入口の所でばつたり木村に會つた。

『やあ、いゝとこだ。話があるんだ、その邊で――』

 木村も、急󠄁いで來たと見え、息を彈ませてゐた。

『うん、けど一寸部屋に用があるんだ、の應接ぢやまづいかい』

『でもいゝが……人に聞かれると困るんだ』

『大丈夫さ、一時過󠄁ぎまで誰もゐない』

『さうか、そんならかへつていゝ』

 木村を應接に待たせて部屋に這入ると、美知子はさつきのまゝの姿󠄁で、椅子に埋れてゐた。

『美知子さん、藥――』

『まあ、ありがと』

『おや?』

(美知子は泣いてゐたのであらうか)

 藥を受取ると、顏を外向けたまゝ洗面所󠄁の方に行つてしまつたが、その横顏には見なれぬ固い線が浮󠄁んでゐた。

『ところで——』

 河上の顏を見ると、木村は待ちうけてゐて話しだした。

『ところで君、遂󠄂にあのレコードの謎を解いたよ』

『謎、を――』

『さうさ、容易ならん「謎」だ。どうもいとは思つてゐたんだが、こんな大ものとは思はなかつた。』

『一體なんだい?』

『何つて君あれは蔭にスパイがあるぞ、スパイの命令書だ』

『え――』

『驚いたらう、實に巧妙に出來てゐるんだ、僕も解讀した途󠄁端に愕然としたからね……、とに角あれは暗󠄁號レコードなんだぜ』

『然しあんな寢言からよく判󠄃つたね、さうか逆に廻すのか?』

『違ふ違ふ――ⅠとⅡと二枚あつたらう、そこがクセなんだ、そして二枚とも中ほどまでは例のカチツカチツと鳴るだけだ、それをよく觀察すると、二枚とも同じ所󠄁からポーンと鳴つて始まるんだ……苦心談は割愛するが、其處にヒントがあるんだよ、つまり二臺の蓄音󠄁器で二枚を一度に掛けたらどうか、つてことだ、二枚のレコードを同じ速󠄁さで廻すんだ、とすれば例のカチツ、カチツが廻轉數を調整する目印になるわけで、無意味などころか、非常に重大な音󠄁であるわけだらう、デママ、さうやつて見た、ところがやつぱり想像通󠄁りぴつたり合ふと二つの蓄音󠄁器をかけながらカチツ、カチツが一つの音󠄁に聽えるんだ、そして、ボーンもぴつたり合ふ』

『ふーん、寢言は――?』

『それだよ、君。あの寢言みたいなのは、一つの言葉が二つのレコードに分割して記錄されてゐるから一枚づゝ聞いたんでは、まるで寢言なんだせママ、それを二枚一緒に、ぴつたり速󠄁さを合せてかけると、俄然二つのレコードの寢言が調和して一つ言葉になるんだ……』

『しかし……』

『本當か? といふんだらう。本當さ、現に事實なんだからね……考へやうに依つちやかう考へられるよ、つまり、シンフオニ―は各種の樂器の一大ハーモニイだらう、それを一枚のレコードではなく、例へばピアノはピアノ、ヴアイオリンはヴアイオリン、チヱロはチヱロ、といふ風に、別々にレコードして、こんどはそれを一勢に夫々蓄音󠄁器にかけて見たらどうなると思ふ――。シンフオニーのチヱロならチヱロだけのレコードを一枚だけ聞いたんなら、随分妙なもんになるだらうけど、いまいつたやうに、一齊に同じ速󠄁さでかけたら其處に叉シンフオニーが再生出來るだらうぢやないか――』

『……ふーん、さういへばさうだ、であのレコードはどんなことをいふんだ』

『それだ。あの寢言レコードを調和させて見ると』

 木村は、急󠄁に聲をひそめた。


5


 木村は仔細らしくあたりを見廻すと、

『いゝかね、これはあのレコードの言葉を何度もかけて筆記したもんだ――』

と內ポケツトから小さく疊んだ紙片を出した。擴げて見ると、

 ――命令、かねての指令にもとづき、柬京市及び大阪市に於ける赤外燈の整備を至急󠄁完了すべし。但しその各燈を結ぶ對角線の交󠄁點を目的とし誤󠄁差十米以內とす――

 とあつた。

『なんだい、これは?――』

 河上が讀み終󠄁つた眼を舉げると、

『ニブイね――』

 木村はいかにも歎に堪へぬものゝやうな顏をし、

『怖るべき機密指令だよ、つまり東京及び大阪を敵機が爆撃するらしいナ、そこで燈火管制中でも重耍目的物が爆撃出來るように、その目的物を中心にして肉󠄁眼には見えない赤外線燈をビルか何かにつけて置け、といふ意味だよ――だから參謀本部なら參謀本部を中心にしてABCDの四つの赤外線燈を上空に向けて備へろ、といふんだらう、そしたらAとC、BとDとを直線で結ぶその線の交󠄁叉󠄀が目的の參謀本部、といふ寸法ぢやないか、そんなことをされたなら、君、大變なことになるぞ、赤外線は肉󠄁眼では識別出來ないくせに、設備をもつてゐれば少々の霞や霧を透󠄁しても上空からちやんとわかるんだからなア』

『ふーん』

『ふーんなんていつてゐる時ぢやないぜ、君、あのレコード何處で手に入れたんだ』

『だからさ、昨日もいつたやうに、うちの品物の中にまぎれこんでゐたんだが……』

『――すると、その荷物は何處から來たんだ』

 木村は、まるで訊間するやうな激しい調子だ。

『あれは……、さう獨逸󠄁から香港上を廻つて来た球式軸承ボールベアリングの箱だつたかナ』

『え? 香港上廻り――?』

『うん、そんな事を云つてゐた』

『それだ! 途󠄁中で開封されたやうな形跡はなかつたかい』

『別に――、尤も角はだいぶやられてゐたし、日本の稅關でも開けたかも知れないが』

『ふーん……』

 河上自身も、いつか木村の語氣に引こまれて額には竪皺をよせ、頸をすくめて木村を見上げてゐた。

『あの荷物が南支󠄂を廻つて來る途󠄁中で何者かゞこつそりレコードを入れ、密輸入したといふわけだね』

『さうさ、ところが荷物を間違󠄁へて君の所の箱に入れたんぢやないかナ、いや、若しかすると故意にやつてあとで盜出すつもリかも知れない、君の所󠄁の倉庫、注意する必耍があるぜ』

『なるはど、――耍心して置かう』

 河上も、强張つた顏で頷いた。

『二枚のレコードを合成すると一つの言葉になる――とは考へたね、この道󠄁でも斬新な方法に違󠄁ひない、ところ不明󠄁瞭な點はあつたが、これが一枚だつたらテンデ見當もつかんからね』

『二枚一緒にあつた、といふのは敵の大失敗だつたな』

『と同時に、こつちにとつては天祐でもあつたよ、……あのマーク「赤い鴉」とはなんの意味かこれから手繰つて行かなきやならん――いよいよ、君、待望の特種だ……』

 木村は、はじめてにやりとした――彼がはりきる譯である。

『うゝん、「赤い鴉」……ネ」

 と同時に然河上の兩頰にポ―ッと血が上つた、が、次の瞬間こんどは一時に血の氣が引いて、紙のやうに白けてしまつた。

『おい、どうした』

『……いゝや、なんでも……』

 丁度その時、晝休みが終󠄁つたと見えて、急󠄁に廊下が騒がしくなつて來た。

『……新事實があつたら電話してくれたまへ、あ、さうだ、今晩󠄁念のためあのレコードを聽きに來ないか』

 木村のかへるのを、ドアーのところまで送󠄁つた河上は、まるでよろめくやうな足取りであつた。


6

 河上は、席に戾つても、眼の眩暈くらむ思ひだつた。はじめから、どうも見たやうな――といふ氣がしたゐた「赤い鴉」が木村と話してゐる中に、フト思ひ當つたのだ。

 いつであつたかい日、上衣を脫いでワイシヤツ姿󠄁だつたオワイ町先生の胸ポケツトに、さういへば「赤い鴉」が刺繍してあつたやうである。

 喧し屋で、お天氣屋で猶󠄁太系の鷲鼻が目障りなオツレル。これと謎のレコードを結ぶ「赤い鴉」……。

 ――河上は、息苦しさを覺えて眼を舉げた、と、その線の中に、向ふ側の美知子が、不審さうな顏を向けてゐるのに氣がついた。

 彼女の顏色も相變らずだが、河上のはもつと惡かつたのかも知れない。彼女はミグレニンを、(みますか?) といふやうに示した。

 河上は、(いや――) と首を振り、彼女ならオツレルのワイシヤツの刺繍もよく觀察してゐるであらうと氣づいて、

『オツレルのワイシヤツに刺繍がありましたね、何でしたかね』

『あら、どうしたの――』

 今日はオツレルが來ない日である。彼女はメモではなく口で返󠄁事をしてくれた。

『一寸、聞きたいんです』

『あれ……「赤い鴉」よ』

『やつぱり――』

 河上は、深く頷いた。

『まあ、それがどうか……』

『いや、なんでもありません』

『あの……、あの、若しやレコードのことぢや……』

『えツ――』

 河上は、急󠄁所をかれたやうに美知子の顏を見詰めた。彼女は笑つたつもりなのか、片頰を歪めると、

『……さつき來られた方とレコードの話をされてゐるのが聞えたものですから……』

と眼を伏せた。河上は乾いた唇を二三度動かしてゐたが、

『さうですよ、さうです「赤い鴉」のレコードのことです』

『……!」

 聲はなかつたけれど、その時擧げた、眞正面に河上に向けられた顏には、きのふからの彼女の憂はし氣な色は全󠄁く消󠄁えて、泌み透󠄁るやうな生氣が光つてゐた。

『そのレコード、何處にありまして?』

『――僕が、持つてゐます』

『まあ、よかつた。心配したわ……ありがたう、ずゐぶん探しましたわ、たしかに倉庫の棚に置いたんですのに、塵と一緒に捨てられたかと思つて……』

『……』

『きのふオツレルさんが明後日來るまでに出して置いて下さい、つていふんでしよ、すぐ倉庫に行ったのにないの、それから心配で心配で……今朝󠄁も探したんですけど』

『さうですか、それで顏色が悪かつたんですね、で、あのレコードの意味、知つてますか』

『意味――?』

『さうですよ、――たゞのレコ—ドぢやありませんよ』

(恐ろしいレコードですよ)

 といひかけて河上は、彼女の顏を注した。

『たゞのぢやない――つて』

 美知子は小首をかしげたが、やがて、くツくツと笑つて、

『さう、河上さんははいられたばかりでまだご存知ないのね、あのレコードの騒ぎ――』

 彼女は、もうすつかり顏色を取戾してゐた。

『……あれが有名なオツレルさんの發明試作品よ、なんでも今までの錄音󠄁機は一枚の原盤しか取れないので色々不自由だつたけど「こんど私は二枚の原盤に一時吹込󠄁めるのを考へました」なんてご自慢だつたのに、出來たのはあれでせう、なんでもマイクロホンの故障とかで二枚の盤に、半󠄁分づゝ分れてレコーデイングされてしまつたらしいのよ』

『……』

『でもねえラジオの放送󠄁を吹込󠄁んでみせたんですけど、カチツ、カチツ、ボーンといふ「時報」はまあいゝんですけど、その後のラジオドラマは』

『え、ラジオドラマ?』

『えゝ、ずゐぶん前に放送󠄁したでせう、防空󠄁ドラマで敵機が空󠄁襲に來たり、スパイが出たりするドラマ――、あの一節を錄音󠄁したんですけど、そら、機械の故障で二枚のレコードに半󠄁分づゝですもん……、聽いてご覧なさい、おかしいわよ。河上さんの來られるまで、しばらくあのレコードのことで持ちきりだつたわ……』

(さういへば、そんなラジオを聞いたやうな氣がする――)

『でも、オツレルさんらしいわ、あんなレコードでも自分のマーク (日󠄂本でいへば紋かしら) を捺してラベルを貼つて、私に仕舞つて置けだの、急󠄁に出して置けだのつて……。倉庫に行つたらそんな箱は知らんだの、掃󠄁き捨てたらしいな、なんていふんですもの、心配で心配で……』

『……』

 思はず眼をつぶつて頭を振り、溜息をついた河上は、無言でメモを引よせると、

――私用は御遠󠄁慮下さい。

 と書きなぐつてから、一寸考へてそれを丹󠄁念に消󠄁し、

 ――差支󠄂へなかつたら退󠄁後ゆつくりと伺ひたいと思ひますが――

 一瞥した美知子は、すぐ何かそれに書き添へ、美しい手をさし伸べて、かへして寄來した。

 ――差支󠄂へなど、ずーつとありません。

 恥かしさうに横を向いた美知子の、すつきりと伸べられ、刈上げられた襟足は、靑々として幼ない皮膚のやうに透󠄁きとほつて見えた。

 河上は、木村へ早く電話しなければ、とそれだけが、今氣がかりであつた。

この著作物は、1944年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


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