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宮城郡誌/卷末

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書宮城郡誌後
宮城郡誌刻󠄂劂成る、一言無かるべからず、乃ち書して曰く、此書の成る實に早川智寬翁󠄁に濫觴す、翁󠄁の仙臺市長たるや、吏󠄁僚を督して仙臺市史󠄁を編󠄁纂せり、之を本縣に於ける市・郡誌の嚆矢と爲す、翁󠄁市長を罷め、尙仙臺市敎育會長たり、其居、宮城郡に籍するを以て、擧げられて宮城郡敎育會長と爲る、翁󠄁其の郡誌を作らんとして編󠄁輯のことを擧げて友部銕軒に委囑せり、銕軒其の囑を受けて博披旁羅殆ど五年の歳月を閱し、郡誌の大半󠄁を完了せり、尋󠄁で銕軒歿す、翁󠄁、其の稿の完璧ならざりしを以て更󠄁に余に囑して之を續成せしむ、余、時に常職󠄃あり、定時其の事に從ふこと能はず、隨時僅暇を以て其の改竄に從事せり、翁󠄁之を督すること甚だ急󠄁、翁󠄁、俄然易簀、事、遂󠄂に停頓す。
宮城郡長淸野喜左衛󠄁門君、一日余を郡役所󠄁に招き、當事者郡視學菅原新兵衛君を郡長室に招き、更󠄁に囑するに郡誌完成のことを以てし、相伴󠄁ふて東岡梅林亭に上り、杯酌の間、郡誌のことに就き、隔意なき協議を爲したりき、余、既に早川翁󠄁に宿諾あり、今又󠄂畏友淸野・菅原・兩君の懇請󠄁あり、疎懶󠄂怯惰の余と雖も、之を荏苒等閑に附するを許さず、稿を銕軒に次󠄁ぎて兎も角一部の郡誌を完成したりしも、銕軒の編󠄁するところ、余の續成したるところ、固より體裁一致せず、文󠄁章用語また異なる所󠄁あり、乃ち菅原君に送󠄁致して之を淸書せんことを請ひ、其上にて更󠄁に體裁文󠄁章を一致すべきことを協定せり、亡󠄁幾、菅原君、角田女學校長に榮轉せられ、萱場柔壽郞君代りて宮城郡視學の職󠄃に就かる、萱場君とも二、三回會見して其の事を相談したりしも、菅原君に委囑したる郡誌の淸書、尙完成せざりしを以て、何れ淸書の出來次󠄁第のことゝして、荏苒經過󠄁せる中、萱場君は縣視學に轉じ、淸野君は高踏勇退󠄁、首腦部は悉く交󠄁迭󠄁し、曩に盡力したる菅原君も亦急󠄁病の爲に溘去せられたる爲、銕軒と余との合著したる郡誌の原稿も如何なりけむ、早川翁󠄁以來、十數年苦心したる事業も、遂󠄂に有耶無耶の間に、葬り去らるゝの果敢なき運󠄁命に終󠄁り了んぬ。
淸野君に次󠄁で、森田專七郞君、宮城郡長に任ぜられしが、同君の時代には郡誌のことは別に話題にも上らざりき、其の後、糟谷哲郞君、宮城郡長たるに迨ひ、郡誌の事再び擡頭し、斯くて郡役所󠄁廢止の期日も近󠄁づきたれば、是非とも此際に完全󠄁なる郡誌を編󠄁纂すべしと、糟谷君の熱心なる唱道󠄁により、急󠄁に斯道󠄁に經驗ある余が友人梅森三郞氏を招聘して、郡誌編󠄁纂のことを囑託して其の衝に當らしめ、爾來、氏は家事一切を抛ちて事に從ひ、一年有半󠄁を費して遂󠄂に之を完成し、茲に完全󠄁なる宮城郡誌の大成を見たること、云はゞ氏は老軀を鞭して銕軒と余とに代り、其の勞に膺りたるものにして、其の辛苦努力、洵に感謝に禁へざる次󠄁第なり。
一卷宮城郡誌、繙き來れば平󠄁々凡々、他人より見れば一擧手一投足の勞にして、敢て力を費したる所󠄁なきものゝ如し、然れども其の濫觴を繹ぬれば其の紆餘曲折、如上の如き面倒あり、敢て讀む人に吿げずんばあらず、一言する所󠄁以なり。
昭和三年七月二十二
篁 洲 今 泉 寅 四 郞 識󠄂