安死術
御話の本筋にはいる前に、安死術とは何を意味するかということを一寸申し上げて置こうと思います。といっても、別にむずかしい意味がある訳ではなく、読んで字の如く「安らかに死なせる法」というに過ぎないのでありまして、英語の
さて、私はT医科大学を卒業して二年間、内科教室でB先生の指導を受け、それから郷里なる美濃の山奥のH村で開業することに致しました。元来、都会の空気をあまり好まない私は、是非東京で開業せよという友人たちの勧告を斥けて、気楽な山村生活を始めたのですが、
内科の教室に居ました時分から、私は沢山の患者の臨終に出逢って、安死術ということをしみじみ考えたのであります。決して助からぬ運命を持った患者の死に際に、カンフルを始めその他の強心剤を与えて、弱りつつある心臓を無理に興奮せしめ、患者の苦痛を
そもそも人間が死を怖れる有力な原因は、死ぬときの苦しみ、かの
しかし、現今の医師たるものは、法律によって、如何なる場合にも、患者を死なせる手段を講じてはならぬことになっております。即ち、もし安死術を故意に施したならば、相当の刑罰を受けなければなりません。ですから、医師は誰しも、たとい、無闇に苦痛を増すに過ぎないということがわかっていても、とにかく、カンフル注射を試みて、十分間なり二十分間なり余計に生きさせようと努めるのであります。従って、「臨終といえばカンフル注射」というようにいわば無意識的に試みて、患者の苦痛などを問題にしないのが、現今の医師の通弊なのであります。しかし、これは医師が悪いのではなく、むしろ法律が悪いといった方が至当であるかも知れません。こういうと、中には、カンフル注射を試みて奇蹟的に恢復する例もあるから、絶望だと思ってもカンフル注射を試みるのが医師たるものの義務ではないかと反対せらるる方があるかも知れません。しかしながら、それは病気によります。急性肺炎などの場合にはカンフルが奇蹟的に奏効することがありますが、悪性腫瘍にはその種の奇蹟は起りません。しかも悪性腫瘍に限って、苦痛は甚烈なのであります。で、真実にその苦痛を察したならば、到底、
けれども、内科教室に厄介になっている間、私は一度も安死術を施そうとはしませんでした。法律にそむく行為を敢てして、もし見つかった場合に、私一人ならばとにかく、B先生はじめ、教室全体に迷惑をかけては相済まんと思ったからであります。それ故、不本意ながらも、他の人々の行うとおりに、心を鬼にしながら、多くの患者に無意味な苦痛を与えたのであります。そうして、かようなことが度重なるにつれ、一日も早く都会を去って、自分の良心の命ずるままに、自由に活動の出来る身になりたいものだと思うようになりました。ことに郷里には、母が一人、私の帰るのを寂しく待っていてくれましたので、二年と
いよいよ、郷里の山奥に帰って開業するなり、私は多くの患者に向って、ひそかに安死術を試みました。殆どすべての場合に私はモルヒネの大量を用いましたが、先刻まで非常に苦しみ喘いでいた患者は、注射によって、程なく、すやすやと眠り、そのまま所謂大往生を遂げるのでありました。勿論、私は家族の人々に向って、患者の恢復の絶望である旨を告げ、でも、出来得る限り、苦痛を少なくして、一刻でも余計に生かす方法を講ずるのであるといって、モルヒネを注射したのでありますが、患者がいかにも、安楽な表情をして眠ったまま死んで行く姿を見ると、家族の人々は口を揃えて、患者の臨終が楽であったのは、せめてもの慰めになると言うのでありました。妙なもので、そうしたことが度重なると、「あの先生にかかると、誠に楽な往生が出来る」という評判が立ち、却って玄関が賑かになると云う有様になって参りました。西洋の
さて、そういう評判が立って見ると、決して患者を苦しませてはならぬと思うものですから、一層しばしば安死術を行うことになりました。しかし、私自身の家族のものにも、安死術を行うことは絶対に秘密にしておりましたので、何の支障もなく、
その事件を述べる前に、一応、私の家族について申し上げなければなりません。郷里で開業すると同時に私は同じ村の遠縁に当る家から妻を迎え、翌年
ところが、そのあかるい家庭に、急にいたましい風雨が襲って来たのであります。それは何であるかと申しますと、妻即ち後妻の性質ががらりと変ったことであります。彼女は先ず非常に嫉妬深くなりました。私が看護婦や女中と、少しでも長話しをしていると、私を始め彼女たちに向って、露骨に当り散らすのでありました。次に、義夫に対して、非常につらく当るようになりました。少しの過失に対しても、はげしい雷を落しました。私は、多分、妊娠のために生じた一時的の心情の変化だろうと思い、そのうちには平静に帰る時期もあるにちがいないと、出来得る限り我慢しておりましたが、妻のヒステリックな行動は日毎に募り、遂には義夫に向って、「お前見たような
学校は私の家から五町ほど隔ったところにありますが、途中に十丈ほどの険阻な
ある日のことです。それは
「あなた、義夫は横着じゃありませんか、遊びに行ったきり、まだ帰りませんよ」
「どうしたのだろう、学校に用事でも出来たのでないかしら」
学校に用事のある訳はないと知りながらも、なるべく、妻を怒らすまいと、土間に立ったまま私はやさしく申しました。
「そんなことがあるものですか。わたしの顔を見ともないから、わざと遅く帰るつもりなんですよ」
めったに遊びに行くことのない子でしたから、私の内心は言うに言われぬ不安を覚えましたが、妻の機嫌を損じては悪いと思いましたから、「お清にでも、その辺へ見にやってくれないか」と申しました。
「お清は加藤と使いに出て
その時、門の方に、大勢の人声がしましたので、私は怖しい予感のために、はっと立ちすくみながら、思わず妻と顔を見合せました。妻の眼は火のように輝きました。
「先生、坊ちゃんが……」
戸外に走り出るなり、私の顔を見て、村の男が叫びました。泥にまみれた学校服の義夫が、戸板に載せられて、四五人の村人に運ばれて来たのです。
「……可哀相に、崖の下へ落ちていたんですよ。まだ息はあるようだから、早く手当を……」
それから私がどういう行動を取ったかは、今、はっきり思い出すことが出来ません。とにかく、数分の後、義夫は診察室の一隅にあるベッドの上に仰向きに寝かされ、
私は、機械のように立ち上り、中央のガラス製のテーブルの上に置かれた、強心剤即ちカンフルの罎と注射器とを取り上げました。「あなた、何をなさる? 義夫を苦しめるつもり?」と妻は声顫わせて私を遮りました。
恐らく私はその時一寸躊躇したことでしょう。又恐らく私の理性は、平素、安死術を主張しながら我子の苦痛に対しては同情しないのかと、私の耳許で囁いたことでしょう。しかし、いずれにしても、私の十年来の主義はその瞬間に微塵に砕かれました。人間には、理性による行為の外に反射的の行為があります。今、その反射的行為は、理窟を考えている余裕をさえ私に与えませんでした。
私は妻を押し退けて、義夫の腕に三筒注射しました。妻は
「義夫、わかるか?」と、私はのぞき込んでたずねました。
彼は軽くうなずきました。私の眼からはらはらと涙がこぼれました。すると義夫は口をもがもが動かしかけました。多分何か言おうとするのです。
突然、妻はその右の手をのばして、あたかも窒息させようと思うかのように、義夫の口と鼻とを蔽いながら強く押しつけました。
「何をするッ‼︎〈感嘆符二つ、1-8-75〉」と、私は力任せに妻の肩をつかんで後ろへ引き退けると、その拍子に妻はどたりと尻餅をつき、ガラス製のテーブルを引っくりかえしました。
「……お母さん……堪忍して下さい。……お母さんに突き落されたとき……僕、すぐ、死ねばよかった……」
がんと脳天を斧で打たれた程の激動を私は覚えました。あたりが急に暗くなり、気が遠くなりました。しかし、私は義夫の口から出る臨終の血の泡をかすかに見ました。そうして、
「オホホホホ、だから、強心剤などつかってはいけないというのに……オホホホホ」
脚注
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「西洋の諺に『藪医は殺し、名医は死なせる』とあ」るという部分は虚実と考えられる(編集者注)。
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