太平記/巻第四

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巻第四

24 笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事

笠置城被攻落刻、被召捕給し人々の事、去年は歳末の計会に依て、暫く被閣ぬ。新玉の年立回れば、公家の朝拝武家の沙汰始りて後、東使工藤次郎左衛門尉・二階堂信濃入道行珍二人上洛して、可行死罪人々、可処流刑国々、関東評定の趣、六波羅にして被定。山門・南都の諸門跡、月卿・雲客・諸衛の司等に至迄、依罪軽重、禁獄流罪に処すれ共、足助次郎重範をば六条河原に引出し、首を可刎と被定。万里小路大納言宣房卿は、子息藤房・季房二人の罪科に依て、武家に被召捕、是も如召人にてぞ座しける。齢已に七旬に傾て、万乗の聖主は遠嶋に被遷させ給ふべしと聞ゆ。二人の賢息は、死罪にぞ行はれんずらんと覚へて、我身さへ又楚の囚人と成給へば、只今まで命存て、浩る憂事をのみ見聞事の悲しければと、一方ならぬ思ひに、一首の歌をぞ被詠ける。長かれと何思ひけん世中の憂を見するは命なりけり罪科有もあらざるも、先朝拝趨の月卿・雲客、或は被停出仕、尋桃源迹、或被解官職、懐首陽愁、運の通塞、時の否泰、為夢為幻、時遷り事去て哀楽互に相替る。憂を習の世の中に、楽んでも何かせん、歎ても由無るべし。源中納言具行卿をば、佐々木佐渡判官入道道誉、路次を警固仕て鎌倉へ下し奉る。道にて可被失由、兼て告申人や有けん、会坂の関を越給ふとて、帰るべき時しなければ是や此行を限りの会坂の関勢多の橋を渡るとて、けふのみと思我身の夢の世を渡る物かはせたの長橋此卿をば道にて可奉失と、兼て定し事なれば、近江の柏原にて切奉るべき由、探使襲来していらでければ、道誉、中納言殿の御前に参り、「何なる先世の宿習によりてか、多の人の中に入道預進せて、今更加様に申候へば、且は情を不知に相似て候へ共、卦る身には無力次第にて候。今までは随分天下の赦を待て、日数を過し候つれ共、関東より可失進由、堅く被仰候へば、何事も先世のなす所と、思召慰ませ給候へ。」と申もあへず袖を顔に押当しかば、中納言殿も不覚の泪すゝみけるを、推拭はせ給ひて、「誠に其事に候。此間の儀をば後世までも難忘こそ候へ。命の際の事は、万乗の君既に外土遠嶋に御遷幸の由聞へ候上は、其以下の事どもは、中々不及力。殊更此程の情の色、誠存命すとも難謝こそ候へ。」と計にて、其後は言をも被仰ず、硯と紙とを取寄て、御文細々とあそばして、「便に付て相知れる方へ、遣て給はれ。」とぞ被仰ける。角て日已に暮ければ、御輿指寄て乗せ奉り、海道より西なる山際に、松の一村ある下に、御輿を舁居たれば、敷皮の上に居直せ給ひて、又硯を取寄せ、閑々と辞世の頌をぞ被書ける。逍遥生死。四十二年。山河一革。天地洞然。六月十九日某と書て、筆を抛て手を叉、座をなをし給ふとぞ見へし。田児六郎左衛門尉、後へ廻るかと思へば、御首は前にぞ落にける。哀と云も疎なり。入道泣々其遺骸を煙となし、様々の作善を致してぞ菩提を奉祈ける。糸惜哉、此卿は先帝帥宮と申奉りし比より近侍して、朝夕拝礼不怠、昼夜の勤厚異于他。されば次第に昇進も不滞、君の恩寵も深かりき。今かく失給ぬと叡聞に達せば、いかばかり哀にも思食れんずらんと覚へたり。同二十一日殿法印良忠をば大炊御門油小路の篝、小串五郎兵衛秀信召捕て六波羅へ出したりしかば、越後守仲時、斉藤十郎兵衛を使にて被申けるは、「此比一天の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛を、御身なんど思立給はん事、且は無止、且は楚忽にこそ覚て候へ。先帝奪ひ進せん為に、当所の絵図なんどまで持廻られ候ける条、武敵の至り重科無双、隠謀の企罪責有余。計の次第一々に被述候へ。具に関東へ可注進。」とぞ宣ける。法印返事せられけるは、「普天の下無非王土、率土人無非王民。誰か先帝の宸襟を歎き奉らざらん。人たる者是を喜べきや。叡慮に代て玉体を奪奉らんと企事、なじかは可無止。為誅無道、隠謀を企事更に非楚忽儀。始より叡慮の趣を存知、笠置の皇居へ参内せし条無子細。而るを白地に出京の蹤に、城郭無固、官軍敗北の間、無力本意を失へり。其間に具行卿相談して、綸旨を申下、諸国の兵に賦し条勿論なり。有程の事は此等なり。」とぞ返答せられける。依之六波羅の評定様々なりけるを、二階堂信濃入道進で申けるは、「彼罪責勿論の上は、無是非可被誅けれども、与党の人なんど尚尋沙汰有て重て関東へ可被申かとこそ存候へ。」と申ければ、長井右馬助、「此義尤可然候。是程の大事をば関東へ被申てこそ。」と申ければ、面々の意見一同せしかば、法印をば五条京極の篝、加賀前司に預られて禁篭し、重て関東へぞ被注進ける。平宰相成輔をば、河越参河入道円重具足し奉て、是も鎌倉へと聞へしが、鎌倉迄も下し着奉らで相摸の早河尻にて奉失。侍従中納言公明卿・別当実世卿二人をば、赦免の由にて有しかども、猶も心ゆるしや無りけん、波多野上野介宣通・佐々木三郎左衛門尉に被預て、猶も本の宿所へは不帰給。尹大納言師賢卿をば下総国へ流して、千葉介に被預。此人志学の年の昔より、和漢の才を事として、栄辱の中に心を止め不給しかば、今遠流の刑に逢へる事、露計も心に懸て思はれず。盛唐詩人杜少陵、天宝の末の乱に逢て、「路経■■双蓬鬢、天落滄浪一釣舟」と天涯の恨を吟じ尽し、吾朝の歌仙小野篁は隠岐国へ被流て、「海原八十嶋かけて漕出ぬ」と釣する海士に言伝て、旅泊の思を詠ぜらる。是皆時の難易を知て可歎を不歎、運の窮達を見て有悲を不悲。況乎「主憂る則臣辱る。主辱るゝ則臣死」といへり。縦骨を醢にせられ、身を車ざきにせらる共、可傷道に非ずとて、少しも不悲給。只依時触興に、諷詠等閑に日を渡る。今は憂世の望絶ぬれば、有出家志由頻に被申けるを、相摸入道子細候はじと被許ければ、年未満強仕、翠の髪を剃落し、桑門人と成給しが、無幾程元弘の乱出来し始俄に病に被侵、円寂し給ひけるとかや。東宮大進季房をば常陸国へ流して、長沼駿河守に預けらる。中納言藤房をば同国に流して、小田民部大輔にぞ被預ける。左遷遠流の悲は何れも劣らぬ涙なれども、殊に此卿の心中推量るも猶哀也。近来中宮の御方に左衛門佐局とて容色世に勝れたる女房御座しけり。去元享の秋の比かとよ、主上北山殿に行幸成て、御賀の舞の有ける時、堂下の立部袖を翻し、梨園の弟子曲を奏せしむ。繁絃急管何れも金玉の声玲瓏たり。此女房琵琶の役に被召、青海波を弾ぜしに、間関たる鴬の語は花下に滑、幽咽せる泉の流は氷の底に難めり。適怨清和節に随て移る。四絃一声如裂帛。撥ては復挑、一曲の清音梁上に燕飛、水中に魚跳許也。中納言ほのかに是を見給しより、人不知思初ける心の色、日に副て深くのみ成行共、可云知便も無ければ、心に篭て歎明し思暮して、三年を過給けるこそ久しけれ。何なる人目の紛れにや、露のかごとを結ばれけん、一夜の夢の幻、さだかならぬ枕をかはし給にけり。其次の夜の事ぞかし、主上俄に笠置へ落させ給ひければ、藤房衣冠を脱ぎ、戎衣に成て供奉せんとし給ひけるが、此女房に廻り逢ん末の契も難知、一夜の夢の面影も名残有て、今一度見もし見へばやと被思ければ、彼女房の住給ける西の対へ行て見給ふに、時しもこそあれ、今朝中宮の召有て北山殿へ参り給ぬと申ければ、中納言鬢の髪を少し切て、歌を書副てぞ被置ける。黒髪の乱ん世まで存へば是を今はの形見とも見よ此女房立帰り、形見の髪と歌とを見て、読ては泣、々ては読み、千度百廻巻返せ共、心乱てせん方もなし。懸る涙に文字消て、いとゞ思に絶兼たり。せめて其人の在所をだに知たらば、虎伏野辺鯨の寄浦なり共、あこがれぬべき心地しけれ共、其行末何く共不聞定、又逢ん世の憑もいさや知らねば、余りの思に堪かねて、書置し君が玉章身に副て後の世までの形みとやせん先の歌に一首書副て、形見の髪を袖に入、大井河の深き淵に身を投けるこそ哀なれ。「為君一日恩、誤妾百年身」とも、加様の事をや申べき。按察大納言公敏卿は上総国、東南院僧正聖尋は下総国、峯僧正俊雅は対馬国と聞へしが、俄に其議を改て、長門国へ流され給ふ。第四の宮は但馬国へ流奉て、其国の守護大田判官に預らる。


25 八歳宮御歌事

第九宮は、未御幼稚に御坐ばとて、中御門中納言宣明卿に被預、都の内にぞ御坐有ける。此宮今年は八歳に成せ給けるが、常の人よりも御心様さか/\しく御座ければ、常は、「主上已に人も通はぬ隠岐国とやらんに被流させ給ふ上は、我独都の内に止りても何かせん。哀我をも君の御座あるなる国のあたりへ流し遣せかし。せめては外所ながらも、御行末を承はらん。」と書くどき打しほれて、御涙更にせきあへず。「さても君の被押篭御座ある白河は、京近き所と聞くに、宣明はなど我を具足して御所へは参らぬぞ。」と仰有ければ、宣明卿涙を押へて、「皇居程近き所にてだに候はゞ、御伴仕て参ぜん事子細有まじく候が、白河と申候は都より数百里を経て下る道にて候。されば能因法師が都をば霞と共に出しかど秋風ぞ吹白川の関と読て候し歌にて、道の遠き程、人を通さぬ関ありとは思召知せ給へ。」と被申ければ、宮御泪を押へさせ給て、暫は被仰出事もなし。良有て、「さては宣明我を具足して参らじと思へる故に、加様に申者也。白川関読とたりしは、全く洛陽渭水の白河には非ず、此関奥州の名所也。近来津守国夏が、是を本歌にて読たりし歌に、東路の関迄ゆかぬ白川も日数経ぬれば秋風ぞ吹又最勝寺の懸の桜枯たりしを、植かゆるとて、藤原雅経朝臣、馴々て見しは名残の春ぞともなど白川の花の下陰是皆名は同して、所は替れる証歌也。よしや今は心に篭て云出さじ。」と、宣明を被恨仰、其後よりは書絶恋しとだに不被仰、万づ物憂御気色にて、中門に立せ給へる折節、遠寺の晩鐘幽に聞へければ、つく/゛\と思暮して入逢の鐘を聞にも君ぞ恋しき情動于中言呈於外、御歌のをさ/\しさ哀れに聞へしかば、其比京中の僧俗男女、是を畳紙・扇に書付て、「是こそ八歳の宮の御歌よ。」とて、翫ばぬ人は無りけり。


26 一宮並妙法院二品親王御事

三月八日一宮中務卿親王をば、佐々木大夫判官時信を路次の御警固にて、土佐の畑へ流し奉る。今までは縦秋刑の下に死て、竜門原上の苔に埋る共、都のあたりにて、兎も角もせめて成らばやと、仰天伏地御祈念有けれ共、昨日既先帝をも流し奉りぬと、警固の武士共申合ひけるを聞召て、御祈念の御憑もなく、最心細く思召ける処に、武士共数多参りて、中門に御輿を差寄せたれば、押へかねたる御泪の中に、せき留る柵ぞなき泪河いかに流るゝ浮身なるらん同日、妙法院二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて讚岐国へ流し奉る。昨日は主上御遷幸の由を承り、今日は一宮被流させ給ぬと聞召、御心を傷ましめ給けり。憂名も替らぬ同じ道に、而も別て赴き給、御心の中こそ悲けれ。初の程こそ別々にて御下有けるが、十一日の暮程には、一宮も妙法院も諸共に兵庫に着せ給たりければ、一宮は是より御舟にめして、土佐の畑へ可有御下由聞へければ、御文を参せ玉けるに、今までは同じ宿りを尋来て跡無き波と聞ぞ悲き一宮御返事、明日よりは迹無き波に迷共通ふ心よしるべ共なれ配所は共に四国と聞ゆれば、せめては同国にてもあれかし。事問風の便にも、憂を慰む一節とも念じ思召けるも叶はで、一宮はたゆたふ波に漕れ行、身を浮舟に任せつゝ、土佐の畑へ赴かせ給へば、有井三郎左衛門尉が館の傍に、一室を構て置奉る。彼畑と申は、南は山の傍にて高く、北は海辺にて下れり、松の下露扉に懸りて、いとゞ御袖の泪を添、磯打波の音御枕の下に聞へて、是のみ通ふ故郷の、夢路も遠く成にけり。妙法院は是より引別れて、備前国迄は陸地を経て、児嶋の吹上より船に召て、讚岐の詫間に着せ給ふ。是も海辺近き処なれば、毒霧御身を侵して瘴海の気冷じく、漁歌牧笛の夕べの声、嶺雲海月の秋の色、総て触耳遮眼事の、哀を催し、御涙を添る媒とならずと云事なし。先皇をば任承久例に、隠岐国へ流し可進に定まりけり。臣として君を無奉る事、関東もさすが恐有とや思けん、此為に後伏見院の第一の御子を御位に即奉りて、先帝御遷幸の宣旨を可被成とぞ計ひ申ける。於天下事に、今は重祚の御望可有にも非ざれば、遷幸以前に先帝をば法皇に可奉成とて、香染の御衣を武家より調進したりけれ共、御法体の御事は、暫く有まじき由を被仰て、袞竜の御衣をも脱せ給はず。毎朝の御行水をめされ、仮の皇居を浄めて、石灰の壇に準へて、太神宮の御拝有ければ、天に二の日無れども、国に二の王御座心地して、武家も持あつかひてぞ覚へける。是も叡慮に憑思食事有ける故也。


27 俊明極参内事

去元享元年の春の比、元朝より俊明極とて、得智の禅師来朝せり。天子直に異朝の僧に御相看の事は、前々更に無りしか共、此君禅の宗旨に傾かせ給て、諸方参得の御志をはせしかば、御法談の為に此禅師を禁中へぞ被召ける。事の儀式余に微々ならんは、吾朝の可恥とて、三公公卿も出仕の妝ひを刷ひ、蘭台金馬も守禦の備を厳くせり。夜半に蝋燭を伝て禅師被参内。主上紫宸殿に出御成て、玉坐に席を薦め給ふ。禅師三拝礼訖て、香を拈じて万歳を祝す。時に勅問有て曰、「桟山航海得々来。和尚以何度生せん。」禅師答云、「以仏法緊要処度生ん。」重て、曰、「正当恁麼時奈何。」答曰、「天上に有星、皆拱北。人間無水不朝東。」御法談畢て、禅師拝揖して被退出。翌日別当実世卿を勅使にて禅師号を被下る。時に禅師向勅使、「此君雖有亢竜悔、二度帝位を践せ給べき御相有。」とぞ被申ける。今君為武臣囚て亢竜の悔に合せ給ひけれ共、彼禅師の相し申たりし事なれば、二度九五の帝位を践せ給はん事、無疑思食に依て、法体の御事は暫く有まじき由を、強て被仰出けり。


28 中宮御歎事

三月七日、已に先帝隠岐国へ被遷させ給ふと聞へければ、中宮夜に紛れて、六波羅の御所へ行啓成せ給、中門に御車を差寄たれば、主上出御有て、御車の簾を被掲。君は中宮を都に止置奉りて、旅泊の波長汀の月に彷徨給はんずる行末の事を思召し連ね、中宮は又主上を遥々と遠外に想像奉りて、何の憑の有世共なく、明ぬ長夜の心迷ひの心地し、長襟にならんと、共に語り尽させ給はゞ、秋の夜の千夜を一夜に準共、猶詞残て明ぬべければ、御心の中の憂き程は其言の葉も及ばねば、中々云出させ給ふ一節もなし。只御泪にのみかきくれて、強顔見へし晨明も、傾く迄に成にけり。夜已に明なんとしければ、中宮御車を廻らして還御成けるが、御泪の中に、此上の思はあらじつれなさの命よさればいつを限りぞと許聞へて、臥沈ませ給ながら、帰車の別路に、廻り逢世の憑なき、御心の中こそ悲しけれ。


29 先帝遷幸事

明れば三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道々誉五百余騎にて、路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て、弓箭帯せる武士共、前後左右に打囲奉りて、七条を西へ、東洞院を下へ御車を輾れば、京中貴賎男女小路に立双て、「正しき一天の主を、下として流し奉る事の浅猿さよ。武家の運命今に尽なん。」と所憚なく云声巷に満て、只赤子の母を慕如く泣悲みければ、聞に哀を催して、警固の武士も諸共に、皆鎧の袖をぞぬらしける。桜井の宿を過させ給ける時、八幡を伏拝御輿を舁居させて、二度帝都還幸の事をぞ御祈念有ける。八幡大菩薩と申は、応神天皇の応化百王鎮護の御誓ひ新なれば、天子行在の外までも、定て擁護の御眸をぞ廻さる覧と、憑敷こそ思召けれ。湊川を過させ給時、福原の京を被御覧ても、平相国清盛が四海を掌に握て、平安城を此卑湿の地に遷したりしかば、無幾程亡しも、偏に上を犯さんとせし侈の末、果して天の為に被罰ぞかしと、思食慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて、須磨の浦を過させ給へば、昔源氏大将の、朧月夜に名を立て此浦に流され、三年の秋を送りしに、波只此もとに立し心地して、涙落共覚ぬに、枕は浮許に成にけりと、旅寝の秋を悲みしも、理なりと被思召。明石の浦の朝霧に遠く成行淡路嶋、寄来る浪も高砂の、尾上の松に吹嵐、迹に幾重の山川を、杉坂越て美作や、久米の佐羅山さら/\に、今は有べき時ならぬに、雲間の山に雪見へて、遥に遠き峯あり。御警固の武士を召て、山の名を御尋あるに、「是は伯耆の大山と申山にて候。」と申ければ、暫く御輿を被止、内証甚深の法施を奉らせ給ふ。或時は鶏唱抹過茅店月、或時は馬蹄踏破板橋霜、行路に日を窮めければ、都を御出有て、十三日と申に、出雲の見尾の湊に着せ給ふ。爰にて御船を艤して、渡海の順風をぞ待れける。


30 備後三郎高徳事付呉越軍事

其比備前国に、児嶋備後三郎高徳と云者あり。主上笠置に御座有し時、御方に参じて揚義兵しが、事未成先に、笠置も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失て黙止けるが、主上隠岐国へ被遷させ給と聞て、無弐一族共を集めて評定しけるは、「志士仁人無求生以害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛の懿公が北狄の為に被殺て有しを見て、其臣に弘演と云し者、是を見るに不忍、自腹を掻切て、懿公が肝を己が胸の中に収め、先君の恩を死後に報て失たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸の路次に参り会、君を奪取奉て大軍を起し、縦ひ尸を戦場に曝す共、名を子孫に伝へん。」と申ければ、心ある一族共皆此義に同ず。「さらば路次の難所に相待て、其隙を可伺。」とて、備前と播磨との境なる、舟坂山の嶺に隠れ臥、今や/\とぞ待たりける。臨幸余りに遅かりければ、人を走らかして是を見するに、警固の武士、山陽道を不経、播磨の今宿より山陰道にかゝり、遷幸を成奉りける間、高徳が支度相違してけり。さらば美作の杉坂こそ究竟の深山なれ。此にて待奉んとて、三石の山より直違に、道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ着たりければ、主上早や院庄へ入せ給ぬと申ける間、無力此より散々に成にけるが、せめても此所存を上聞に達せばやと思ける間、微服潛行して時分を伺ひけれ共、可然隙も無りければ、君の御坐ある御宿の庭に、大なる桜木有けるを押削て、大文字に一句の詩をぞ書付たりける。天莫空勾践。時非無范蠡。御警固の武士共、朝に是を見付て、「何事を何なる者が書たるやらん。」とて、読かねて、則上聞に達してけり。主上は軈て詩の心を御覚り有て、竜顔殊に御快く笑せ給へども、武士共は敢て其来歴を不知、思咎る事も無りけり。抑此詩の心は、昔異朝に呉越とてならべる二の国あり。此両国の諸侯皆王道を不行、覇業を務としける間、呉は越を伐て取んとし、越は呉を亡して合せんとす。如此相争事及累年。呉越互に勝負を易へしかば、親の敵となり、子の讎と成て共に天を戴く事を恥。周の季の世に当て、呉国の主をば呉王夫差と云、越国の主をば越王勾践とぞ申ける。或時此越王范蠡と云大臣を召て宣ひけるは、「呉は是父祖の敵也。我是を不討、徒に送年事、嘲を天下の人に取のみに非ず。兼ては父祖の尸を九泉の苔の下に羞しむる恨あり。然れば我今国の兵を召集て、自ら呉国へ打超、呉王夫差を亡して父祖の恨を散ぜんと思也。汝は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌め申けるは、「臣窃に事の子細を計るに、今越の力を以て呉を亡さん事は頗以可難る。其故は先両国の兵を数ふるに呉は二十万騎越は纔に十万騎也。誠に以小を、大に不敵、是呉を難亡其一也。次には以時計るに、春夏は陽の時にて忠賞を行ひ秋冬は陰の時にて刑罰を専にす。時今春の始也。是征伐を可致時に非ず。是呉を難滅其二也。次に賢人所帰則其国強、臣聞呉王夫差の臣下に伍子胥と云者あり。智深して人をなつけ、慮遠くして主を諌む。渠儂呉国に有ん程は呉を亡す事可難。是其三也。麒麟は角に肉有て猛き形を不顕、潛竜は三冬に蟄して一陽来復の天を待。君呉越を合られ、中国に臨で南面にして孤称せんとならば、且く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申ければ、其時越王大に忿て宣けるは、「礼記に、父の讎には共に不戴天いへり、我已に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞むる所に非や。是を以兵を集る処に、汝三の不可を挙て我を留る事、其義一も道に不協。先兵の多少を数へて可致戦ば、越は誠に呉に難対。而れ共軍の勝負必しも不依勢多少、只依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易れり。是汝が皆知処也。今更に何ぞ越の小勢を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略の不足処の其一也。次に以時軍の勝負を計らば天下の人皆時を知れり。誰か軍に不勝。若春夏は陽の時にて罰を不行と云はゞ、殷の湯王の桀を討しも春也。周の武王の紂を討しも春也。されば、「天の時は不如地利に、地利は〔不〕如人和に」といへり。而るに汝今可行征罰時に非ずと我を諌むる、是汝が知慮の浅き処の二也。次に呉国に伍子胥が有ん程は、呉を亡す事不可叶と云はゞ、我遂に父祖の敵を討て恨を泉下に報ぜん事有べからず。只徒に伍子胥が死せん事を待たば死生有命又は老少前後す。伍子胥と我と何れをか先としる。此理を不弁我征罰を可止や。此汝が愚の三也。抑我多日に及で兵を召事呉国へも定て聞へぬらん。事遅怠して却て呉王に被寄なば悔とも不可有益。「先則制人後則被人制」といへり。事已に決せり且も不可止。」とて、越王十一年二月上旬に、勾践自ら十万余騎の兵を率して呉国へぞ被寄ける。呉王夫差是を聞て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎勢を率して、呉と越との境夫枡県と云所に馳向ひ、後に会稽山を当て、前に大河を隔て陣を取る。態と敵を計ん為に三万余騎を出して、十七万騎をば陣の後の山陰に深く隠してぞ置たりける。去程に越王夫枡県に打臨で、呉の兵を見給へば、其勢僅に二三万騎には過じと覚へて所々に磬へたり。越王是を見て、思に不似小勢なりけりと蔑て、十万騎の兵同時に馬を河水に打入させ、馬筏を組で打渡す。比は二月上旬の事なれば、余寒猶烈くして、河水氷に連れり。兵手凍て弓を控に不叶。馬は雪に泥で懸引も不自在。され共越王責鼓を打て進まれける間、越の兵我先にと双轡懸入る。呉国の兵は兼てより敵を難所にをびき入て、取篭て討んと議したる事なれば、態と一軍もせで夫椒県の陣を引退て会稽山へ引篭る。越の兵勝に乗て北るを追事三十余里、四隊の陣を一陣に合せて、左右を不顧、馬の息も切るゝ程、思々にぞ追たりける。日已に暮なんとする時に、呉兵二十万騎思ふ図に敵を難所へをびき入て、四方の山より打出て、越王勾践を中に取篭、一人も不漏と責戦ふ。越の兵は今朝の軍に遠懸をして人馬共に疲れたる上無勢なりければ、呉の大勢に被囲、一所に打寄て磬へたり。進で前なる敵に蒐らんとすれば、敵は嶮岨に支へて、鏃を調へて待懸たり。引返て後なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越兵疲れたり。進退此に谷て敗亡已に極れり。され共越王勾践は破堅摧利事、項王が勢を呑、樊■勇にも過たりければ、大勢の中へ懸入、十文字に懸破、巴の字に追廻らす。一所に合て三処に別れ、四方を払て八面に当る。頃刻に変化して雖百度戦、越王遂に打負て、七万余騎討れにけり。勾践こらへ兼て会稽山に打上り、越の兵を数るに打残されたる兵僅に三万余騎也。其も半ば手を負て悉箭尽て鋒折たり。勝負を呉越に伺て、未だ何方へも不着つる隣国の諸侯、多く呉王の方に馳加はりければ、呉の兵弥重て三十万騎、会稽山の四面を囲事如稲麻竹葦也。越王帷幕の内に入り、兵を集めて宣ひけるは、「我運命已に尽て今此囲に逢へり。是全く非戦咎、天亡我。然れば我明日士と共に敵の囲を出て呉王の陣に懸入り、尸を軍門に曝し、恨を再生に可報。」とて越の重器を積で、悉焼捨んとし給ふ。又王■与とて、今年八歳に成給ふ最愛の太子、越王に随て、同く此陣に座けるを呼出し奉て、「汝未幼稚なれば、吾死に殿れて、敵に捕れ、憂目を見ん事も可心憂。若又我為敵虜れて、我汝より先立ば、生前の思難忍。不如汝を先立て心安く思切り、明日の軍に討死して、九泉の苔の下、三途の露の底迄も、父子の恩愛を不捨と思ふ也。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧め給ふ時に、越王の左将軍に、大夫種と云臣あり。越王の御前に進出て申けるは、「生を全くして命を待事は遠くして難く、死を軽くして節に随ふ事は近くして安し。君暫く越の重器を焼捨、太子を殺す事を止め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王の死を救ひ、本国に帰て再び大軍を起し、此恥を濯んと思ふ。今此山を囲んで一陣を張しむる呉の上将軍太宰■は臣が古の朋友也。久く相馴て彼が心を察せしに、是誠に血気の勇者なりと云へ共、飽まで其心に欲有て、後の禍を不顧。又彼呉王夫差の行迹を語るを聞しかば、智浅して謀短く、色に婬して道に暗し。君臣共に何れも欺くに安き所也。抑今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡が諌めを用ひ不給故に非ずや。願は君王臣が尺寸の謀を被許、敗軍数万の死を救ひ給へ。」と諌申ければ、越王理に折て、「「敗軍の将は再び不謀」と云へり。自今後の事は然大夫種に可任。」と宣て、重器を被焼事を止、太子の自害をも被止けり。大夫種則君の命を請て、冑を脱ぎ旗を巻て、会稽山より馳下り、「越王勢ひ尽て、呉の軍門に降る。」と呼りければ、呉の兵三十万騎、勝時を作て皆万歳を唱ふ。大夫種は則呉の轅門に入て、「君王の倍臣、越勾践の従者、小臣種慎で呉の上将軍の下執事に属す。」と云て、膝行頓首して、太宰■が前に平伏す。太宰■床の上に坐し、帷幕を揚させて大夫種に謁す。大夫種敢て平視せず。低面流涙申けるは、「寡君勾践運極まり、勢尽て呉の兵に囲れぬ。仍今小臣種をして、越王長く呉王の臣と成、一畝の民と成ん事を請しむ。願は先日の罪を被赦今日の死を助け給へ。将軍若勾践の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其重器を将軍に奉り、美人西施を洒掃の妾たらしめ、一日の歓娯に可備。若夫請、所望不叶遂に勾践を罪せんとならば、越の重器を焼棄、士卒の心を一にして、呉王の堅陣に懸入、軍門に尸を可止。臣平生将軍と交を結ぶ事膠漆よりも堅し。生前の芳恩只此事にあり。将軍早く此事を呉王に奏して、臣が胸中の安否を存命の裏に知しめ給へ。」と一度は忿り一度は歎き、言を尽して申ければ、太宰■顔色誠に解て、「事以不難、我必越王の罪をば可申宥。」とて軈て呉王の陣へぞ参りける。太宰■即呉王の玉座に近付き、事の子細を奏しければ、呉王大に忿て、「抑呉と越と国を争ひ、兵を挙る事今日のみに非ず。然るに勾践運窮て呉の擒となれり。是天の予に与へたるに非や。汝是を乍知勾践が命を助けんと請ふ。敢て非忠烈之臣。」宣ひければ、太宰■重て申けるは、「臣雖不肖、苛も将軍の号を被許、越の兵と戦を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝事を快くせり。是偏に臣が丹心の功と云つべし。為君王の、天下の太平を謀らんに、豈一日も尽忠不傾心や。倩計事是非、越王戦に負て勢尽ぬといへ共、残処の兵猶三万余騎、皆逞兵鉄騎の勇士也。呉の兵雖多昨日の軍に功有て、自今後は身を全して賞を貪ん事を思ふべし。越の兵は小勢なりといへ共志を一にして、而も遁れぬ所を知れり。「窮鼠却噛猫、闘雀不恐人」といへり。呉越重て戦はゞ、呉は必危に可近る。不如先越王の命を助け、一畝の地を与て呉の下臣と成さんには。然らば君王呉越両国を合するのみに非ず。斉・楚・秦・趙も悉く不朝云事有べからず。是根を深くし蔕を固する道也。」と、理を尽て申ければ、呉王即欲に耽る心を逞して、「さらば早会稽山の囲を解て勾践を可助。」宣ひける。太宰■帰て大夫種に此由を語りければ、大夫種大に悦で、会稽山に馳帰り、越王に此旨を申せば、士卒皆色を直して、「出万死逢一生、偏に大夫種が智謀に懸れり。」と、喜ばぬ人も無りけり。越王已に降旗を被建ければ、会稽の囲を解て、呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践即太子王■与をば、大夫種に付て本国へ帰し遣し、我身は白馬素車に乗て越の璽綬を頚に懸、自ら呉の下臣と称して呉の軍門に降り給ふ。斯りけれ共、呉王猶心ゆるしや無りけん、「君子は不近刑人」とて、勾践に面を不見給、剰勾践を典獄の官に被下、日に行事一駅駆して、呉の姑蘇城へ入給ふ。其有様を見る人、涙の懸らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着給へば、即手械足械を入て、土の楼にぞ入奉りける。夜明日暮れ共、月日の光をも見給はねば、一生溟暗の中に向て、歳月の遷易をも知給はねば、泪の浮ぶ床の上、さこそは露も深かりけめ。去程に范蠡越の国に在て此事を聞に、恨骨髄に徹て難忍。哀何なる事をもして越王の命を助け、本国に帰り給へかし。諸共に謀を廻らして、会稽山の恥を雪めんと、肺肝を砕て思ければ、疲身替形、簀に魚を入て自ら是を荷ひ、魚を売商人の真似をして、呉国へぞ行たりける。姑蘇城の辺にやすらひて、勾践のをはする処を問ければ、或人委く教へ知せけり。范蠡嬉しく思て、彼獄の辺に行たりけれ共、禁門警固隙無りければ、一行の書を魚の腹の中に収て、獄の中へぞ擲入ける。勾践奇く覚して、魚の腹を開て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書たりける。筆の勢文章の体、まがふべくもなき范蠡が業ざ也。と見給ひければ、彼れ未だ憂世に存へて、為我肺肝を尽しけりと、其志の程哀にも又憑もしくも覚へけるにこそ、一日片時も生けるを憂しとかこたれし我身ながらの命も、却て惜くは思はれけれ。斯りける処に、呉王夫差俄に石淋と云病を受て、身心鎮に悩乱し、巫覡祈れ共無験、医師治すれ共不痊、露命已に危く見へ給ける処に、侘国より名医来て申けるは、「御病実に雖重医師の術及まじきに非ず。石淋の味を甞て、五味の様を知する人あらば、輒く可奉療治。」とぞ申ける。「さらば誰か此石淋を甞て其味をしらすべき」と問に、左右の近臣相顧て、是を甞る人更になし。勾践是を伝聞て泪を押へて宣く、「我会稽の囲に逢し時已に被罰べかりしを、今に命助置れて天下の赦を待事、偏に君王慈慧の厚恩也。我今是を以て不報其恩何の日をか期せん。」とて潛に石淋を取て是を甞て其味を医師に被知。医師味を聞て加療治、呉王の病忽に平癒してげり。呉王大に悦で、「人有心助我死、我何ぞ是を謝する心無らんや。」とて、越王を自楼出し奉るのみに非ず。剰越の国を返し与へて、「本国へ返り去べし。」とぞ被宣下ける。爰に呉王の臣伍子胥と申者、呉王を諌て申けるは、「「天与不取却て得其咎」云へり。此時越の地を不取勾践を返し被遣事、千里の野辺に虎を放つが如し。禍可在近。」申けれ共呉王是を不聞給、遂に勾践を本国へぞ被返ける。越王已に車の轅を廻して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙其数を不知車前に飛来。勾践是を見給て、是は勇士を得て素懐を可達瑞相也。とて、車より下て是を拝し給ふ。角て越の国へ帰て住来故宮を見給へば、いつしか三年に荒はて、梟鳴松桂枝狐蔵蘭菊叢、無払人閑庭に落葉満て簫々たり。越王免死帰給ぬと聞へしかば、范蠡王子王■与を宮中へ入奉りぬ。越王の后に西施と云美人座けり。容色勝世嬋娟無類しかば、越王殊に寵愛甚しくして暫くも側を放れ給はざりき。越王捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給たりしが、越王帰給ふ由を聞給ひて則後宮に帰り参り玉ふ。年の三年を待わびて堪ぬ思に沈玉ける歎の程も呈れて、鬢疎かに膚消たる御形最わりなくらうたけて、梨花一枝春雨に綻び、喩へん方も無りけり。公卿・大夫・文武百司、此彼より馳集りける間、軽軒馳紫陌塵冠珮鎗丹■月、堂上堂下如再開花。斯りける処に自呉国使者来れり。越王驚て以范蠡事の子細を問給ふに、使者答曰、「我君呉王大王好婬重色尋美人玉ふ事天下に普し。而れ共未だ如西施不見顔色。越王出会稽山囲時有一言約。早く彼西施を呉の後宮へ奉傅入、備后妃位。」使也。越王聞之玉て、「我呉王夫差が陣に降て、忘恥甞石淋助命事、全保国身を栄やかさんとには非ず、只西施に為結偕老契なりき。生前に一度別て死して後期再会、保万乗国何かせん。されば縦ひ呉越の会盟破れて二度我為呉成擒共、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡流涙申けるは、「誠に君展転の思を計るに、臣非不悲云へ共、若今西施を惜給はゞ、呉越の軍再び破て呉王又可発兵。去程ならば、越国を呉に被合のみに非ず、西施をも可奪、社稷をも可被傾。臣倩計るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮に入給ふ程ならば、呉王是に迷て失政事非所疑。国費へ民背ん時に及で、起兵被攻呉勝事を立処に可得つ。是子孫万歳に及で、夫人連理の御契可久道となるべし。」と、一度は泣一度は諌て尽理申ければ、越王折理西施を呉国へぞ被送ける。西施は小鹿の角のつかの間も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼なき太子王■与をも不云知思置、ならはぬ旅に出玉へば、別を慕泪さへ暫しが程も止らで、袂の乾く隙もなし。越王は又是や限の別なる覧と堪ぬ思に臥沈て、其方の空を遥々と詠めやり玉へば、遅々たる暮山の雲いとゞ泪の雨となり、虚しき床に独ねて、夢にも責て逢見ばやと欹枕臥玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉ふもげに理りなり。彼西施と申は天下第一の美人也。妝成て一度笑ば百の媚君が眼を迷して、漸池上に無花歟と疑ふ。艷閉て僅に見れば千態人の心を蕩して忽に雲間に失月歟と奇しまる。されば一度入宮中君王の傍に侍しより、呉王の御心浮れて、夜は終夜ら婬楽をのみ嗜で、世の政をも不聞、昼は尽日遊宴をのみ事として、国の危をも不顧。金殿挿雲、四辺三百里が間、山河を枕の下に直下ても、西施の宴せし夢の中に興を催さん為なりき。輦路に無花春日は、麝臍を埋て履を熏し、行宮に無月夏の夜は、蛍火を集て燭に易ふ。婬乱重日更無止時しかば、上荒下廃るれ共、佞臣は阿て諌せず。呉王万事酔如忘。伍子胥見之呉王を諌て申けるは、「君不見殷紂王妲妃に迷て世を乱り、周の幽王褒■を愛して国を傾事を。君今西施を婬し給へる事過之。国の傾敗非遠に。願は君止之給へ。」と侵言顔諌申けれ共、呉王敢て不聞給。或時又呉王西施に為宴、召群臣南殿の花に酔を勧め給ける処に、伍子胥威儀を正しくして参たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階を登るとて、其裾を高くかゝげたる事恰如渉水時。其怪き故を問に、伍子胥答申けるは、「此姑蘇台越王の為に被亡、草深く露滋き地とならん事非遠。臣若其迄命あらば、住こし昔の迹とて尋見ん時、さこそは袖より余る荊棘の露も、■々として深からんずらめと、行末の秋を思ふ故に身を習はして裙をば揚る也。」とぞ申ける。忠臣諌を納れ共、呉王曾て不用給しかば、余に諌かねて、よしや身を殺して危きを助けんとや思けん、伍子胥又或時、只今新に砥より出たる青蛇の剣を持て参りたり。抜て呉王の御前に拉で申けるは、「臣此剣を磨事、退邪払敵為也。倩国の傾んとする其基を尋ぬれば、皆西施より出たり。是に過たる敵不可有。願は刎西施首、社稷の危を助けん。」と云て、牙を噛て立たりければ、忠言逆耳時君不犯非云事なければ、呉王大に忿て伍子胥を誅せんとす。伍子胥敢て是を不悲。「争い諌めて死節是臣下の則也。我正に越の兵の手に死なんよりは、寧君王の手に死事恨の中の悦也。但し君王臣が忠諌を忿て吾に賜死事、是天已に棄君也。君越王の為に滅れて、刑戮の罪に伏ん事、三年を不可過。願は臣が穿両眼呉の東門に掛られて、其後首を刎給へ。一双の眼未枯前に、君勾践に被亡て死刑に赴き給はんを見て、一笑を快くせん。」と申ければ、呉王弥忿て即伍子胥を被誅、穿其両眼呉の東門幢上にぞ被掛ける。斯りし後は君悪を積ども臣敢て不献諌、只群臣口を噤み万人目を以てす。范蠡聞之、「時已に到りぬ。」と悦で、自二十万騎の兵を率して、呉国へぞ押寄ける。呉王夫差は折節晋国呉を叛と聞て、晋国へ被向たる隙なりければ、防ぐ兵一人もなし。范蠡先西施を取返して越王の宮へ帰し入奉り、姑蘇台を焼掃ふ。斉・楚の両国も越王に志を通ぜしかば、三十万騎を出して范蠡に戮力。呉王聞之先晋国の戦を閣て、呉国へ引返し、越に戦を挑とすれば、前には呉・越・斉・楚の兵如雲霞の、待懸たり。後には又晋国の強敵乗勝追懸たり。呉王大敵に前後を裹れて可遁方も無りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手を入替て不継息攻ける間、呉の兵三万余人討れて僅に百騎に成にけり。呉王自相当る事三十二箇度、夜半に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山に取上り、越王に使者を立て曰、「君王昔会稽山に苦し時臣夫差是を助たり。願は吾今より後越の下臣と成て、君王の玉趾を戴ん。君若会稽の恩を不忘、臣が今日の死を救ひ給へ。」と言を卑し厚礼降せん事をぞ被請ける。越王聞之古の我が思ひに、今人の悲みさこそと哀に思知給ければ、呉王を殺に不忍、救其死思給へり。范蠡聞之、越王の御前に参て犯面申けるは、「伐柯其則不遠。会稽の古は天越を呉に与へたり。而を呉王取事無して忽に此害に逢り。今却て天越に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢べし。君臣共に肺肝を砕て呉を謀る事二十一年、一朝にして棄ん事豈不悲乎。君行非時不顧臣の忠也。」と云て、呉王の使者未帰前に、范蠡自攻鼓を打て兵を勧め、遂に呉王を生捕て軍門の前に引出す。呉王已に被面縛、呉の東門を過給ふに、忠臣伍子胥が諌に依て、被刎首時、幢の上に掛たりし一双の眼、三年まで未枯して有けるが、其眸明に開け、相見て笑へる気色なりければ、呉王是に面を見事さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当て低首過給ふ。数万の兵見之涙を流さぬは無りけり。即呉王を典獄の官に下され、会稽山の麓にて遂に首を刎奉る。古来より俗の諺曰、「会稽の恥を雪むる。」とは此事を云なるべし。自是越王呉を合するのみに非ず、晉・楚・斉・秦を平げ、覇者の盟主と成しかば、其功を賞して范蠡を万戸侯に封ぜんとし給ひしか共、范蠡曾て不受其禄、「大名の下には久く不可居る、功成名遂而身退は天の道也。」とて、遂に姓名を替へ陶朱公と呼れて、五湖と云所に身を隠し、世を遁てぞ居たりける。釣して芦花の岸に宿すれば、半蓑に雪を止め、歌て楓葉の陰を過れば、孤舟に秋を戴たり。一蓬の月万頃の天、紅塵の外に遊で、白頭の翁と成にけり。高徳此事を思准らへて、一句の詩に千般の思を述べ、窃に叡聞にぞ達ける。去程に先帝は、出雲の三尾の湊に十余日御逗留有て、順風に成にければ、舟人纜を解て御艤して、兵船三百余艘、前後左右に漕並べて、万里の雲に沿。時に滄海沈々として日没西北浪、雲山迢々として月出東南天、漁舟の帰る程見へて、一灯柳岸に幽也。暮れば芦岸の煙に繋船、明れば松江の風に揚帆、浪路に日数を重ぬれば、都を御出有て後二十六日と申に、御舟隠岐の国に着にけり。佐々木隠岐判官貞清、府の嶋と云所に、黒木の御所を作て皇居とす。玉■に咫尺して被召仕ける人とては、六条少将忠顕、頭大夫行房、女房には三位殿の御局許也。昔の玉楼金殿に引替て、憂節茂き竹椽、涙隙なき松の墻、一夜を隔る程も可堪忍御心地ならず。■人暁を唱し声、警固の武士の番を催す声許り、御枕の上に近ければ、夜のをとゞに入せ給ても、露まどろませ給はず。萩戸の明るを待し朝政なけれ共、巫山の雲雨御夢に入時も、誠に暁ごとの御勤、北辰の御拝も懈らず、今年何なる年なれば、百官無罪愁の涙を滴配所月、一人易位宸襟を悩他郷風給らん。天地開闢より以来斯る不思議を不聞。されば掛天日月も、為誰明なる事を不恥。無心草木も悲之花開事を忘つべし。