太平記/巻第二十

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巻第二十

177 黒丸城初度軍事付足羽度々軍事

新田左中将義貞朝臣、去二月の始に越前府中の合戦に打勝給し刻、国中の敵の城七十余箇所を暫時に責落して、勢ひ又強大になりぬ。此時山門の大衆、皆旧好を以て内々心を通せしかば、先彼比叡山に取上て、南方の官軍に力を合せ、京都を責られん事は無下に輒かるべかりしを、足利尾張守高経、猶越前の黒丸城に落残てをはしけるを、攻落さで上洛せん事は無念なるべしと、詮なき小事に目を懸て、大儀を次に成れけるこそうたてけれ。五月二日義貞朝臣、自ら六千余騎の勢を率して国府へ打出られ、波羅密・安居・河合・春近・江守五箇所へ、五千余騎の兵をさし向られ、足羽城を攻させらる。先一番に義貞朝臣のこじうと、一条の少将行実朝臣、五百余騎にて江守より押寄て、黒龍明神の前にて相戦ふ。行実の軍利あらずして、又本陣へ引返さる。二番に船田長門守政経、七百余騎にて安居の渡より押寄て、兵半河を渡る時、細河出羽守二百余騎にて河向に馳合せ、高岸の上に相支て、散々に射させける間、漲る浪にをぼれて馬人若干討れにければ、是も又差たる合戦も無して引返す。三番に細屋右馬助、千余騎にて河合の庄より押寄、北の端なる勝虎城を取巻て、即時に攻落さんと、屏につき堀につかりて攻ける処へ、鹿草兵庫助三百余騎にて後攻にまはり、大勢の中へ懸入て面も振らず攻戦ふ。細屋が勢、城中の敵と後攻の敵とに追立られて本陣へ引返す。角て早寄手足羽の合戦に、打負る事三箇度に及り。此三人の大将は、皆天下の人傑、武略の名将たりしかども、余に敵を侮て、■に大早りなりし故に、毎度の軍に負にけり。されば、後漢の光武、々に臨む毎に、「大敵を見ては欺き、小敵を見ては恐よ。」と云けるも、理なりと覚たり。


178 越後勢越々前事

去ば越後の国は、其堺上野に隣て、新田の一族充満たる上、元弘以後義貞朝臣勅恩の国として、拝任已に多年なりしかば、一国の地頭・後家人、其烹鮮に随事日久し。義貞已に北国を平げて京都へ攻上らんとし給ふ由を聞て、大井田弾正少弼・同式部大輔・中条入道・鳥山左京亮・風間信濃守・禰津掃部助・大田滝口を始として、其勢都合二万余騎にて、七月三日越後の府を立て越中国へ打越けるに、其国の守護普門蔵人俊清、国の堺に出合て是を支んとせしか共、俊清無勢なりければ、大半討れて松倉城へ引篭る。越後勢はこゝを打捨て、やがて加賀国へ打通る。富樫介是を聞て、五百余騎の勢を以て、阿多賀・篠原の辺に出合ふ。然共敵に対揚すべき程の勢ならねば、富樫が兵二百余騎討れて、那多城へ引篭る。越後の勢両国二箇度の合戦に打勝て、北国所々の敵恐るゝに足らずと思へり。此まゝにて軈て越前へ打越べかりしが、是より京までの道は、多年の兵乱に、国ついへ民疲れて、兵粮有べからず。加賀国に暫く逗留して行末の兵粮を用意すべしとて、今湊の宿に十余日まで逗留す。其間に軍勢、剣・白山以下所々の神社仏閣に打入て、仏物神物を犯し執り、民屋を追捕し、資財を奪取事法に過たり。嗚呼「霊神為怒則、災害満岐。」といへり。此軍勢の悪行を見に、其罪若一人に帰せば、大将義貞朝臣、此度の大功を立ん事如何あるべからんと、兆前に機を見る人は潜に是を怪めり。


179 宸筆勅書被下於義貞事

日を経て越後勢、已に越前の河合に著ければ、義貞の勢弥強大に成て、足羽城を拉がん事、隻手の中にありと、皆掌をさす思をなせり。げにも尾張守高経の義を守る心は奪がたしといへ共、纔なる平城に三百余騎にて楯篭り、敵三万余騎を四方に受て、篭鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求る如くなれば、何までの命をか此世の中に残すらんと、敵は是を欺て勇み、御方は是に弱て悲めり。既に来二十一日には、黒丸の城を攻らるべしとて、堀溝をうめん為に、うめ草三万余荷を、国中の人夫に持寄させ、持楯三千余帖をはぎ立て、様々の攻支度をせられける処に、芳野殿より勅使を立られて仰られけるは、「義興・顕信敗軍の労兵を率して、八幡山に楯篭る処に、洛中の逆徒数を尽して是を囲む。城中已に食乏して兵皆疲る。然といへ共、北国の上洛近にあるべしと聞て、士卒梅酸の渇を忍ぶ者也。進発若延引せしめば、官軍の没落疑有べからず。天下の安危只此一挙にあり。早其堺の合戦を閣て、京都の征戦を専にすべし。」と仰られて、御宸筆の勅書をぞ下されける。義貞朝臣勅書を拝見して、源平両家の武臣、代々大功ありと云共、直に宸筆の勅書を下されたる例未聞所也。是当家超涯の面目也。此時命を軽ぜずんば、正に何れの時をか期すべきとて、足羽の合戦を閣かれて、先京都の進発をぞいそがれける。


180 義貞牒山門同返牒事

児島備後守高徳、義貞朝臣に向て申けるは、「先年京都の合戦の時、官軍山門を落されて候し事、全く軍の雌雄に非ず、只北国の敵に道をふせがれて兵粮につまりし故也。向後も其時の如に候はゞ、縦ひ山上に御陣を召れ候共、又先年の様なる事決定たるべく候。然れば越前・加賀の宗との城々には、皆御勢を残し置れて兵粮を運送せさせ大将一両人に御勢を六七千騎も差副られ山門に御陣を召れ、京都を日々夜々攻られば、根を深し蔕を堅する謀成て、八幡の官軍に力を付け、九重の凶徒を亡すべき道たるべく候。但小勢にて山門へ御上候はゞ、衆徒案に相違して御方を背く者や候はんずらん。先山門へ牒状を送られて、衆徒の心を伺ひ御覧ぜられ候へかし。」と申ければ、義貞「誠に此義謀濃にして慮り遠し。さらば牒状を山門へ送るべし。」と宣ば、高徳兼て心に草案をやしたりけん。則筆を取て書之。其の詞云、

正四位上行左近衛中将兼播磨守源朝臣義貞牒延暦寺衙。請早得山門贔屓一諾、誅罰逆臣尊氏・直義以下党類、致仏法王法光栄状。式窃覿素昔渺聞玄風、桓武皇帝下詔専一基叡山者、以聖化期昌顕密両宗於億載。伝教大師上表九鎮王城者、以法威為護国家太平於無疆之耳也。然則聞山門衰微悼之、見朝庭傾廃悲之。不九五之聖位三千之衆徒為孰乎。去元弘之始、一天革命、四海帰風之後。有源家余裔尊氏直義。無忠貪大禄、不材登高官。自誇超涯之皇沢、不顧欠盈之天真。忽棄君臣之義、猥懐犲狼之心。聿害流于蒸民、禍溢于八極。公議不獲止、将行天誅之日、烟塵暗侵九重之月、翠花再掃四明之雲。此時貴寺忽輔危、庸臣謀退暴。雖然守死於善道者寡、求党於利門者多。因茲官軍戦破、而聖主忝逢■里之囚。氈城食竭而君王自臥戦場之刃。自爾以降逆徒弥恣意、婬刑濫行罰。凶戻残賊無不悪而極。自疑天維云絶、日月無所懸。地軸既摧、山川不得載。側耳奪目。苟不忍待時、呑炭含刃、径欲計近敵之処、忽聴鸞輿幸南山、衆星拱北極。於是蘇恩、発恩、徹憤啓憤。起自嶮溢之中、纔得郡県之衆。然則駆金牛開路、飛火鶏劫城。其戦未半決勝於一挙、退敵於四方訖。疇昔范蠡闘黄地、破呉三万之旅、周郎挑赤壁、虜魏十万之軍。把来何足比。如今挙国量誅朝敵。天慮以臣為爪牙之任。肆不遑卜否泰、振臂将発京師。貴山償若不捐故旧、拉大敵於隻手中必矣。伝聞当山之護持、亘古亘今、卓犖于乾坤。承和修大威徳之法、次君乃坐玉■。承平安四天王之像、将門遂傷鉄身。是以頼佳運於七社之冥応、復旧規於一山之懇祈。熟思量之凡悪在彼与義在我、孰与天下之治乱山上之安危。早聞一諾之群議、而遠合虎竹、速靡三軍之卒伍而為揺竜旗。牒送如件、勒之以状。延元二年七月日とぞ書たりける。山門の大衆は先年春夏両度、山上へ臨幸成たりし時、粉骨の忠功を致すに依て、若干の所領を得たりしが、官軍北国に落行き、主上京都に還幸成しかば、大望一々に相違して、あはれいかなる不思議も有て、先帝の御代になれかしと祈念する処に、此牒状来したりければ、一山挙て悦び合る事限なし。同七月二十三日に、一所住の大衆、大講堂の庭に会合して返牒を送る。其詞云、

延暦寺牒新田左近衛中将家衙。来牒一紙被載朝敵御追罰事。右鎮四夷之擾乱、而致国家之太平者、武将所不失節。祈百王之宝祚、而銷天地之妖■者、吾山所不譲他。途殊帰同。豈其際措一線縷乎。夫尊氏・直義等暴悪、千古未聞其類。是匪啻仏法王法之怨敵。兼又為害国害民之残賊。孟軻有言、出於己者帰己矣。渠若今不亡、以何待之。雖然逆臣益振威、義士恒有困何乎。取類看之、夫差合越之威、遂為勾践所摧、項羽抜山之力、却為沛公見獲。是則所以呉無義而猛、漢有仁而正也。安危所拠無若天命矣。是以山門内重武候之忠烈期佳運、外忝聖主之尊崇、祈皇猷。上下庶幾貪聴之処、儻投青鳥見竭丹心。一山之欣悦底事如之。七社之霊鑒、此時露顕。倩把往昔量吉凶、当山如棄則挙世起而不立。治承之乱、高倉宮聿没外都之塵。吾寺専与則合衆禦而不得。元暦之初、源義仲忽攀中夏之月。是人情起神慮。捨彼取此之故也。満山之群議今如斯。凶徒之誅戮何有疑。時節已到。暫勿遅擬。仍牒送如件。以状。延元二年七月日とぞ書たりける。山門の返牒越前に到来しければ、義貞斜ならず悦で、頓て上洛せんとし給ひけるが、混らに北国を打捨なば、高経如何様跡より起て、北陸道をさし塞ぬと覚れば、二手に分て国をも支へ、又京をも責べしとして、義貞は三千余騎にて越前に留り、義助は二万余騎を率して七月二十九日越前の府を立て、翌日には敦賀の津に著にけり。


181 八幡炎上事

将軍此事を聞召れて、「八幡の城未責落さで、兵攻戦に疲ぬる処に、脇屋右衛門佐義助山門と成し合て、北国より上洛すなるこそゆゝ敷珍事なりけれ。期に臨で引かば、南方の敵勝に乗べし。未事の急にならぬ先に、急八幡の合戦を閣て、京都へ帰て北国の敵を相待べし。」と、高武蔵守の方へぞ下知し給ひける。師直此由を聞て、此城を責かゝりながら、落さで引返しなば、南方の敵に利を得られつべし。さて又京都を閣ば、北国の敵に隙を伺れつべし。彼此如何せんと、進退谷て覚へければ、或夜の雨風の紛に、逸物の忍を八幡山へ入れて、神殿に火をぞ懸たりける。此八幡大菩薩と申奉るは、忝も王城鎮護の宗廟にて、殊更源家崇敬の霊神にて御坐せば、寄手よも社壇を焼く程の悪行はあらじと、官軍油断しけるにや、城中周章騒動して烟の下に迷倒す、是を見て四方の寄手十万余騎、谷々より攻上て、既に一二の木戸口までぞ攻入ける。此城三方は嶮岨にして登がたければ、防に其便あり。西へなだれたる尾崎は平地につゞきたれば、僅に堀切たる乾堀一重を憑で、春日少将顕信朝臣の手の者共、五百余騎にて支たりけるが、敵の火を見て攻上りける勢に心を迷はして、皆引色にぞ成にける。爰に城中の官軍、多田入道が手の者に、高木十郎、松山九郎とて、名を知られたる兵二人あり。高木は其心剛にして力足らず、松山は力世に勝て心臆病也。二人共に同関を堅めて有けるが、一の関を敵にせめ破れて、二の関になを支てぞ居たりける。敵已に逆木を引破て、関を切て落さんとしけれども、例の松山が癖なれば、手足振惶て戦ん共せざりけり。高木十郎是を見て眼を嗔かし、腰の刀に手を懸て云けるは、「敵四方を囲て一人も余さじと攻戦ふ合戦也。こゝを破られては宗との大将達乃至我々に至までも、落て残る者やあるべき。されば爰を先途と戦べき処なるを、御辺以の外に臆して見へ給こそ浅猿けれ。平生百人二百人が力ありと自称せられしは、何の為の力ぞや。所詮御辺爰にて手を摧きたる合戦をし給はずば、我敵の手に懸んよりは、御辺と差違へて死べし。」と忿て、誠に思切たる体にぞ見へたりける。松山其色を見て、覿面の勝負敵よりも猶怖くや思けん、「暫しづまり給へ、公私の大事此時なれば、我命惜むべきにあらず。いで一戦して敵にみせん。」と云侭に、はなゝく/\走り立て、傍にありける大石の、五六人して持あぐる程なるを軽々と提て、敵の群て立たる其中へ、十四五程大山の崩るゝが如に投たりける。寄手数万の兵共、此大石に打れて将碁倒をするが如、一同に谷底へころび落ければ、己が太刀長刀につき貫て、命を堕し疵を蒙る者幾千万と云数を知らず。今夜既に攻落されぬと見へつる八幡の城、思の外にこらへてこそ、松山が力は只高木が身にありけりと、咲はぬ人もなかりけり。去程に敦賀まで著たりける越前の勢共、遥に八幡山の炎上を聞て、いか様せめ落されたりと心得て、実否を聞定ん為に数日逗留して、徒に日数を送る。八幡の官軍は、兵粮を社頭に積で悉焼失しかば、北国の勢を待までのこらへ場もなかりければ、六月二十七日の夜半に、潜に八幡の御山を退落て、又河内国へぞ帰りける。此時若八幡の城今四五日もこらへ、北国の勢逗留もなく上りたらましかば、京都は只一戦の内に攻落すべかりしを、聖運時未至らざりけるにや、両陣の相図相違して、敦賀と八幡との官軍共、互に引て帰りける薄運の程こそあらはれたれ。


182 義貞重黒丸合戦事付平泉寺調伏法事

義貞京都の進発を急れつる事は、八幡の官軍に力をつけ、洛中の隙を伺ん為也。き。而に今其相図相違しぬる上は、心閑に越前の敵を悉く対治して、重て南方に牒合てこそ、京都の合戦をば致さめとて、義貞も義助も河合の庄へ打越て、先足羽の城を責らるべき企也。尾張守高経此事を聞給て、「御方僅に三百騎に足ざる勢を以て、義貞が三万余騎の兵に囲まれなば、千に一つも勝事を得べからず、然といへ共、敵はや諸方の道を差塞ぬと聞ゆれば、落とも何くまでか落延べき。只偏に打死と志て、城を堅くするより外の道やあるべき。」とて、深田に水を懸入て、馬の足も立ぬ様にこしらへ、路を堀切て穽をかまへ、橋をはづし溝を深して、其内に七の城を拵へ、敵せめば互に力を合て後へまはりあふ様にぞ構られたりける。此足羽の城と申は、藤島の庄に相双で、城郭半は彼庄をこめたり。依之平泉寺の衆徒の中より申けるは、「藤島庄は、当寺多年山門と相論する下地にて候。若当庄を平泉寺に付らるべく候はゞ、若輩をば城々にこめをきて合戦を致させ、宿老は惣持の扉を閉て、御祈祷を致すべきにて候。」とぞ云ける。尾張守大に悦で、今度合戦雌雄、■借衆徒合力、憑霊神之擁護之上者、先以藤島庄所付平泉寺也。若得勝軍之利者、重可申行恩賞、仍執達如件。建武四年七月二十七日尾張守平泉寺衆徒御中と、厳密の御教書をぞ成れける。衆徒是に勇て、若輩五百余人は藤島へ下て城に楯篭り、宿老五十人は、炉壇の烟にふすぼり返て、怨敵調伏の法をぞ行はれける。


183 義貞夢想事付諸葛孔明事

其七日に当りける夜、義貞の朝臣不思議の夢をぞ見給ける。所は今の足羽辺と覚たる河の辺にて、義貞と高経と相対して陣を張る。未戦ずして数日を経る処に、義貞俄にたかさ三十丈計なる大蛇に成て、地上に臥給へり。高経是を見て、兵をひき楯を捨て逃る事数十里にして止と見給て、夢は則覚にけり。義貞夙に起て、此夢を語り給に、「竜は是雲雨の気に乗て、天地を動す物也。高経雷霆の響に驚て、葉公が心を失しが如くにて、去る事候べし、目出き御夢なり。」とぞ合せける。爰に斉藤七郎入道々献、垣を阻て聞けるが、眉をひそめて潜に云けるは、「是全く目出き御夢にあらず。則天の凶を告るにて有べし。其故は昔異朝に呉の孫権・蜀の劉備・魏の曹操と云し人三人、支那四百州を三に分て是を保つ。其志皆二を亡して、一にあはせんと思へり。然共曹操は才智世に勝れたりしかば、謀を帷帳の中に運して、敵を方域の外に防ぐ。孫権は弛張時有て士を労らひ衆を撫でしかば、国を賊し政を掠る者競ひ集て、邪に帝都を侵し奪へり。劉備は王氏を出て遠からざりしかば、其心仁義に近して、利慾を忘るゝ故に、忠臣孝子四方より来て、文教をはかり武徳を行ふ。此三人智仁勇の三徳を以て天下を分て持ちしかば、呉魏蜀の三都相並で、鼎の如く峙てり。其比諸葛孔明と云賢才の人、世を避け身を捨てゝ、蜀の南陽山に在けるが、寂を釣り閑を耕て歌ふ歌をきけば、歩出斉東門。往到蕩陰里。里中有三墳。塁々皆相似。借問誰家塚。田疆古冶子。気能排南山。智方絶地理。一朝見讒言。二桃殺三士。誰能為此謀。国将斉晏子。とぞうたひける。蜀の智臣是を聞て、彼が賢なる所を知ければ、是を召て政を任せ、官を高して世を治め給ふべき由をぞ奏し申ける。劉備則幣を重し、礼を厚して召れけれ共、孔明敢て勅に応ぜず。只澗飲岩栖して、生涯を断送せん事を楽しむ。劉備三度び彼の草庵の中へをはして宣ひけるは、「朕不肖の身を以て、天下の太平を求む。全く身を安じ、欲を恣にせんとには非ず。只道の塗炭にをち、民の溝壑に沈ぬる事をすくはん為のみ也。公若良佐の才を出して、朕が中心を輔られば、残に勝、殺を棄ん事、何ぞ必しも百年を待ん。夫石を枕にし泉に漱で、幽栖を楽むは一身の為也。国を治め民を利して大化を致さんは、万人の為也。」と、誠を尽し理を究て仰られければ、孔明辞するに詞なくして、遂に蜀の丞相と成にけり。劉備是を貴寵して、「朕有孔明如魚有水。」と喜給ふ。遂に公侯の位を与て、其名を武侯と号せられしかば、天下の人是を臥龍の勢ひありと懼あへり。其徳已に天下を朝せしむべしと見へければ、魏の曹操是を愁て、司馬仲達と云将軍に七十万騎の兵を副て蜀の劉備を責んとす。劉備は是を聞て孔明に三十万騎の勢を付て、魏と蜀との堺、五丈原と云処へ差向らる。魏蜀の兵河を阻て相支る事五十余日、仲達曾て戦んとせず。依之魏の兵、漸く馬疲れ食尽て日々に竃を減ぜり。依之魏の兵皆戦んと乞に、仲達不可也と云て是を許さず。或時仲達蜀の芻蕘共をとりこにして、孔明が陣中の成敗をたづね問に、芻蕘共答て云けるは、「蜀の将軍孔明士卒を撫で、礼譲を厚くし給ふ事疎ならず。一豆の食を得ても、衆と共に分て食し、一樽の酒を得ても、流れに濺で士と均く飲す。士卒未炊ざれば大将食せず。官軍雨露にぬるる時は大将油幕を不張。楽は諸侯の後に楽み、愁は万人の先に愁ふ。加之夜は終夜睡を忘て、自城を廻て懈れるを戒め、昼は終日に面を和て交を睦ましくす。未須臾の間も心を恣にし、身を安ずる事を見ず。依之其兵三十万騎、心を一にして死を軽くせり。鼓を打て進むべき時はすゝみ、鐘を敲て退くべき時は退ん事、一歩も大将の命に違事あるべからずと見へたり。其外の事は、我等が知べき処に非。」とぞ語りける。仲達是を聞て、「御方の兵は七十万騎其心一人も不同、孔明が兵三十万騎、其志皆同じといへり。されば戦を致して蜀に勝事は努あるべからず。孔明が病る弊に乗て戦はゞ、必勝事を得つべし。其故は孔明此炎暑に向て昼夜心身を労せしむるに、温気骨に入て、病にふさずと云事有べからず。」と云て、士卒の嘲をもかへりみず、弥陣を遠く取て、徒に数月をぞ送りける。士卒ども是を聞て、「如何なる良医と云共あはひ四十里を阻て、暗に敵の脈を取知る事やあるべき。只孔明が臥龍の勢をきゝをぢしてかゝる狂言をば云人也。」と、掌を拍て笑あへり。或夜両陣のあはひに、客星落て、其光火よりも赤し。仲達是を見て、「七日が中に天下の人傑を失べき星也。孔明必死すべきに当れり。魏必蜀を合せて取ん事余日あるべからず。」と悦べり。果して其朝より孔明病に臥事七日にして、油幕の裏に死にけり。蜀の副将軍等、魏の兵忽に利を得て前まん事を恐て、孔明が死を隠し、大将の命と相触て、旗をすゝめ兵をなびけて魏の陣へ懸入る。仲達は元来戦を以て、蜀に勝事を得じと思ければ一戦にも及ばず、馬に鞭て走事五十里、嶮岨にして留る。今に世俗の諺に、「死せる孔明生る仲達を走しむ。」と云事は、是を欺る詞也。戦散じて後蜀の兵孔明が死せる事を聞て、皆仲達にぞ降ける。其より蜀先亡び呉後に亡て、魏の曹操遂に天下を保ちけり。此故事を以て、今の御夢を料簡するに、事の様、魏呉蜀三国の争に似たり。就中竜は陽気に向ては威を震ひ、陰の時に至ては蟄居を閉づ。時今陰の初め也。而も龍の姿にて水辺に臥たりと見給へるも、孔明を臥龍と云しに不異。されば面々は皆、目出き御夢なりと合られつれ共、道猷は強に甘心せず。」と眉をひそめて云ければ、諸人げにもと思へる気色なれども、心にいみ言ばに憚て、凶とする人なかりけり。


184 義貞馬属強事

潤七月二日、足羽の合戦と触れられたりければ、国中の官軍義貞の陣河合庄へ馳集りけり。其勢宛も雲霞の如し。大将新田左中将義貞朝臣は、赤地錦の直垂に脇立ばかりして、遠侍の座上に坐し給へば、脇屋右衛門佐は、紺地の錦の直垂に、小具足計にて、左の一の座に著給ふ。此外山名・大館・里見・鳥山・一井・細屋・中条・大井田・桃井以下の一族三十余人は、思々の鎧甲に色々の太刀・刀、奇麗を尽して東西二行に座を烈す。外様の人々には、宇都宮美濃将監を始として、禰津・風間・敷地・上木・山岸・瓜生・河島・大田・金子・伊自良・江戸・紀清両党以下著到の軍勢等三万余人、旗竿引そばめ/\、膝を屈し手をつかねて、堂上庭前充満たれば、由良・舟田に大幕をかゝげさせて、大将遥に目礼して一勢々々座敷を起つ。巍々たるよそをひ、堂々たる礼、誠に尊氏卿の天下を奪んずる人は、必義貞朝臣なるべしと、思はぬ者はなかりけり。其日の軍奉行上木平九郎、人夫六千余人に、幕・掻楯・埋草・屏柱・櫓の具足共を持はこばせて参りければ、大将中門にて鎧の上帯しめさせ、水練栗毛とて五尺三寸有ける大馬に、手綱打懸て、門前にて乗んとし給けるに、此馬俄に属強をして、騰跳狂ひけるに、左右に付たる舎人二人蹈れて、半死半生に成にけり。是をこそ不思議と見る処に、旗さしすゝんで足羽河を渡すに、乗たる馬俄に河伏をして、旗さし水に漬にけり。加様の怪共、未然に凶を示しけれ共、已に打臨める戦場を、引返すべきにあらずと思て、人なみ/\に向ひける勢共、心中にあやふまぬはなかりけり。


185 義貞自害事

燈明寺の前にて、三万余騎を七手に分て、七の城を押阻て、先対城をぞ取られける。兼ての廃立には、「前なる兵は城に向ひ逢ふて合戦を致し、後なる足軽は櫓をかき屏を塗て、対城を取すましたらんずる後、漸々に攻落すべし。」と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島の城、以外に色めき渡て、軈て落つべく見へける間、数万の寄手是に機を得て、先対城の沙汰をさしおき、屏に著堀につかつてをめき叫でせめ戦ふ。衆徒も落色に見へけるが、とても遁るべき方のなき程を思ひ知けるにや、身命を捨て是を防ぐ。官軍櫓を覆て入んとすれば、衆徒走木を出て突落す。衆徒橋を渡て打て出れば、寄手に官軍鋒を調て斬て落す。追つ返つ入れ替る戦ひに、時刻押移て日已に西山に沈まんとす。大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負の実検してをはしけるが、藤島の戦強して、官軍やゝもすれば追立らるゝ体に見へける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を著かへて、纔に五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。其時分黒丸の城より、細川出羽守・鹿草彦太郎両大将にて、藤島の城を攻ける寄手共を追払はんとて、三百余騎の勢にて横畷を廻けるに、義貞覿面に行合ひ給ふ。細川が方には、歩立にて楯をついたる射手共多かりければ、深田に走り下り、前に持楯を衝双て鏃を支て散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持せざれば、前なる兵義貞の矢面に立塞て、只的に成てぞ射られける。中野藤内左衛門は義貞に目加して、「千鈞の弩は為■鼠不発機。」と申けるを、義貞きゝもあへず、「失士独免るゝは非我意。」と云て、尚敵の中へ懸入んと、駿馬に一鞭をすゝめらる。此馬名誉の駿足なりければ、一二丈の堀をも前々輒く越けるが、五筋まで射立られたる矢にやよはりけん。小溝一をこへかねて、屏風をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手の足をしかれて、起あがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其首を取て鋒に貫き、鎧・太刀・々同く取持て、黒丸の城へ馳帰る。義貞の前に畷を阻てゝ戦ける結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、此等馬より飛で下り、義貞の死骸の前に跪て、腹かき切て重り臥す。此外四十余騎の兵、皆堀溝の中に射落されて、敵の独をも取得ず。犬死してこそ臥たりけれ。此時左中将の兵三万余騎、皆猛く勇める者共なれば、身にかはり命に代らんと思はぬ者は無りけれ共、小雨まじりの夕霧に、誰を誰とも見分ねば、大将の自ら戦ひ打死し給をも知らざりけるこそ悲けれ。只よそにある郎等が、主の馬に乗替て、河合をさして引けるを、数万の官軍遥に見て、大将の跡に随んと、見定めたる事もなく、心々にぞ落行ける。漢高祖は自ら淮南の黥布を討し時、流矢に当て未央宮の裡にして崩じ給ひ、斉宣王は自楚の短兵と戦て干戈に貫れて、修羅場の下に死し給き。されば「蛟竜は常に保深淵之中。若遊浅渚有漁綱釣者之愁。」と云り。此人君の股肱として、武将の位に備りしかば、身を慎み命を全してこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴て、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極とは云ながら、うたてかりし事共也。軍散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参て、「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候。」とて、血をも未あらはぬ首に、土の著たる金襴の守を副てぞ出したりける。尾張守此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし。」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に鬼丸と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。


186 義助重集敗軍事

脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸の城へ打帰て、義貞の行末をたづね給ふに、始の程は分明に知人もなかりけるが、事の様次第に顕れて、「討れ給ひけり。」と申合ければ、「日を替へず黒丸へ押寄て、大将の討れ給ひつらん所にて、同討死せん。」と宣ひけれども、いつしか兵皆あきれ迷て、只忙然たる外は指たる儀勢もなかりけり。剰へ人の心も頓て替りけるにや、野心の者内にありと覚へて、石丸の城に火を懸んとする事、一夜の内に三箇度也。是を見て斉藤五郎兵衛尉季基、同七郎入道々献二人は、他に異なる左中将の近習にて有しかば、門前の左右の脇に、役所を並べて居たりけるが、幕を捨てゝ夜の間に何地ともなく落にけり。是を始として、或は心も発らぬ出家して、往生院長崎の道場に入り、或は縁に属し罪を謝て、黒丸の城へ降参す。昨日まで三万騎にあまりたりし兵共、一夜の程に落失て、今日は僅に二千騎にだにも足ざりけり。かくては北国を蹈へん事叶ふまじとて、三峯の城に河島を篭め、杣山の城に瓜生を置き、湊の城に畑六郎左衛門尉時能を残されて、潤七月十一日に、義助・義治父子共に、禰津・風間・江戸・宇都宮の勢七百余騎を率して、当国の府へ帰給ふ。


187 義貞首懸獄門事付勾当内侍事

新田左中将の首京都に著ければ、是朝敵の最、武敵の雄なりとて、大路を渡して獄門に懸らる。此人前朝の寵臣にて、武功世に蒙らしめしかば、天下の倚頼として、其芳情を悦び、其恩顧をまつ人、幾千万と云数を知ず、京中に相交りたれば、車馬道に横り、男女岐に立て、是を見に堪へず、泣悲む声■々たり。中にも彼の北の台勾当の内侍の局の悲を伝へ聞こそあはれなれ。此女房は頭の大夫行房の女にて、金屋の内に装を閉ぢ、鶏障の下に媚を深して、二八の春の比より内侍に召れて君王の傍に侍り、羅綺にだも堪ざる貌は、春の風一片の花をふき残すかと疑はる。紅粉を事とせる顔は、秋の雲半江の月をはき出すに似たり。されば椒房の三十六宮、五雲の漸くに遶る事を听、禁漏の二十五声、一夜の正に長き事を恨む。去建武の始、天下又乱れんとせし時、新田左中将常に召れて、内裡の御警固にぞ候はれける。或夜月冷く風秋なるに、此勾当の内侍半簾を巻て、琴を弾じ給ひけり。中将其怨声に心引れて、覚へず禁庭の月に立吟、あやなく心そゞろにあこがれてければ、唐垣の傍に立紛れて伺けるを、内侍みる人ありと物侘しげにて、琴をば引かずなんぬ。夜痛く深て、在明の月のくまなく差入たるに、「類ひまでやはつらからぬ。」と打詠め、しほれ伏たる気色の、折らばをちぬべき萩の露、拾はゞ消なん玉篠の、あられより尚あだなれば、中将行末も知ぬ道にまよひぬる心地して、帰る方もさだかならず、淑景舎の傍にやすらひ兼て立明す。朝より夙に帰りても、風かなりし面影の、なをこゝもとにある心迷に、世の態人の云かはす事も心の外なれば、いつとなくをきもせず寐もせで夜を明し日を暮して、若しるべする海人だにあらば、忘れ草のをふと云浦のあたりにも、尋ねゆきなましと、そゞろに思しづみ給ふ。あまりにせん方なきまゝに、媒すべき人を尋出して、そよとばかりをしらすべき、風の便の下荻の穂に出るまではなくともとて、我袖の泪に宿る影とだにしらで雲井の月やすむらんと読て遣されたりければ、君の聞召れん事も憚ありとて、よにあはれげなる気色に見へながら、手にだに取らずと、使帰て語ければ、中将いとゞ思ひしほれて、云べき方なく、有るを憑の命とも覚へずなりぬべきを、何人か奏しけん、君、等閑ならずと聞召て、夷心のわく方なさに、思そめけるも理也と、哀れなる事に思召れければ、御遊の御次に左中将を召れ、御酒たばせ給ひけるに、「勾当の内侍をば此盃に付て。」とぞ仰出されける。左中将限なく忝と悦て、翌の夜軈て牛車さはやかにしたてゝ、角と案内せさせたるに、内侍もはや此年月の志に、さそふ水あらばと思ひけるにや、さのみ深け過ぬ程に、車のきしる音して、中門にながへを指廻せば、侍児ひとり二人妻戸をさしかくして驚破めきあへり。中将は此幾年を恋忍で相逢ふ今の心の中、優曇花の春まち得たる心地して、珊瑚の樹の上に陽台の夢長くさめ、連理の枝の頭りに驪山の花自濃也。あやなく迷ふ心の道、諌る人もなかりしかば、去ぬる建武のすへに、朝敵西海の波に漂し時も、中将此内侍に暫しの別を悲て征路に滞り、後に山門臨幸の時、寄手大岳より追落されて、其まゝ寄せば京をも落んとせしかども、中将此内侍に迷て、勝に乗疲を攻る戦を事とせず。其弊へ果して敵の為に国を奪れたり。誠に「一たび笑で能く国を傾く。」と、古人の是をいましめしも理也とぞ覚へたる。中将坂本より北国へ落給ひし時は、路次の難儀を顧て、此内侍をば今堅田と云所にぞ留め置れたりける。かゝらぬ時の別れだに、行には跡を顧て、頭を家山の雲に回らし、留まるは末を思ひやりて、泪を天涯の雨に添ふ。況や中将は行末とても憑みなき北狄の国に趣き給へば、生て再び廻りあはん後の契もいさ知らず。又内侍は、都近き海人の礒屋に身をかくし給ひければ、今もやさがし出されて、憂名を人に聞れんずらんと、一方ならずなげき給ふ。翌年の春、父行房朝臣金崎にて打れ給ひぬと聞へしかば、思の上に悲をそへて、明日までの命もよしや何かせんと、歎きしづみ給ひしか共、さすがに消ぬ露の身なれば、をき居に袖をほしわびて、二年あまりに成にけり。中将も越前に下り著し日より、軈て迎をも上せばやと思ひ給ひけれども、道の程も輒からず、又人の云思はんずる所憚あれば、只時々の音信ばかりを互に残る命にて、年月を送り給けるが、其秋の始に、今は道の程も暫く静に成ぬればとて、迎の人を上せられたりければ、内侍は此三年が間、暗き夜のやみに迷へるが、俄に夜の明たる心地して、頓て先杣山まで下著き給ぬ。折節中将は足羽と云所へ向ひ給たりとて、此には人も無りければ、杣山より輿の轅を廻して浅津の橋を渡り給ふ処に、瓜生弾正左衛門尉百騎ばかりにて行合奉りたるが、馬より飛でをり、輿の前にひれ伏て、「是はいづくへとて御渡り候らん。新田殿は昨日の暮に、足羽と申所にて討れさせ給て候。」と申もはてず、涙をはら/\とこぼせば、内侍の局、こは何なる夢のうつゝぞやと、胸ふさがり肝消て、中々泪も落やらず、輿の中にふし沈みて、「せめてはあはれ其人の討れ給ひつらん野原の草の露の底にも、身をすて置て帰れかし。さのみはをくれさきだゝじ、共に消もはてなん。」と、泣悲み給へ共、「早其輿かき返せ。」とて、急で又杣山へぞ返し入れまいらせける。是ぞ此程中将殿の住給ひし所也とて、色紙押散したる障子の内を見給へば、何となき手ずさみの筆の跡までも、只都へいつかと、あらまされたる言の葉をのみ書をき、読すてられたり。かゝる空き形見を見につけても、いとゞ悲のみふかくなり行ば、心少も慰べき方ならね共、中将のすみすて給し跡なれば、爰にて中陰の程をも過して、なき跡をも訪はゞやと覚しけるに、頓て其辺も騒しく成て敵の近付など聞へしかば、城の麓はあしかるべしとて、頓て又京へ上せ奉り、仁和寺のあたり、幽なる宿の、主だにすまずなりぬる蓬生の宿に送り置奉る。都も今は返て旅なれば、住所も定まらず、心うかれ袖しほれて、何くにか身を浮舟のよるべも有べきと、昔見し人の行末を尋て陽明の傍りへ行給ひける路に、人あまた立あひて、あなあはれなんど云音するを、何事にかと立留て見給へば、越路はるかに尋行て、あはで帰し新田左中将義貞の首を、獄門の木に懸られて、眼塞り色変ぜり。内侍の局是を二目とも見給はずして、傍なる築地の陰になき倒れ給ひけり。知も知らぬも是を見て、共に涙を流さぬはなかりけり。日已に暮けれども、立帰るべき心地もなければ、蓬が本の露の下に泣しほれてをはしけるを、其辺なる道場の聖、「余りに御いたはしく見させ給ひ候に。」とて、内へいざなひ入奉れば、其夜やがて翠の髪を刷下し、紅顔を墨染にやつし給ふ。暫しが程はなき面影を身にそへて、泣悲み給しが、会者定離の理に、愛別離苦の夢を覚して、厭離穢土の心は日々にすゝみ、欣求浄土の念時々に勝りければ、嵯峨の奥に往生院のあたりなる柴の扉に、明暮を行ひすましてぞをはしける。


188 奥州下向勢逢難風事

吉野には、奥州の国司安部野にて討れ、春日少将八幡の城を落されて、諸卒皆力を失といへども、新田殿北国より責上る由奏聞したりけるを御憑あつて、今や/\と待給ける処に、此人さへ足羽にて討れぬと聞へければ、蜀の後主の孔明を失ひ、唐の太宗の魏徴に哭せしが如く、叡襟更にをだやかならず、諸卒も皆色を失へり。爰に奥州の住人、結城上野入道々忠と申けるもの、参内して奏し申しけるは、「国司顕家卿三年の内に両度まで大軍を動して上洛せられ候し事は、出羽奥州の両国みな国司に従て、凶徒其隙を得ざる故也。国人の心未変ぜざるさきに、宮を一人下し進せて、忠功の輩には直に賞を行はれ、不忠不烈の族をば根をきり葉をからして、御沙汰候はんには、などか攻随へでは候べき。国の差図を見候に、奥州五十四郡恰日本の半国に及べり。若兵数を尽して一方に属せば、四五十万騎も候べし。道忠宮を挟み奉て、老年の首に胄を頂く程ならば、重て京都に攻上り、会稽の恥を雪めん事一年の内をば過し候まじ。」と申ければ、君を始奉て左右の老臣悉く、「此議げにも然るべし。」とぞ同ぜられける。依之第八宮の今年七歳にならせ給ふを、初冠めさせて、春日少将顕信を輔弼とし、結城入道々忠を衛尉として、奥州へぞ下しまいらせられける。是のみならず新田左兵衛義興・相摸次郎時行二人をば、「東八箇国を打平て宮に力を副奉れ。」とて、武蔵相摸の間へぞ下されける。陸地は皆敵強して通りがたしとて、此勢皆伊勢の大湊に集て、船をそろへ風を待けるに、九月十二日の宵より、風やみ雲収て、海上殊に静りたりければ、舟人纜をといて、万里の雲に帆を飛す。兵船五百余艘、宮の御座舟を中に立てゝ、遠江の天竜なだを過ける時に、海風俄に吹あれて、逆浪忽に天を巻翻す。或は檣を吹折られて、弥帆にて馳る舟もあり。或は梶をかき折て廻流に漂船もあり。暮れば弥よ風あらく成て、一方に吹も定らざりければ、伊豆の大島・女良の湊・かめ河・三浦・由居の浜・津々浦々の泊に船の吹寄せられぬはなかりけり。宮の召れたる御舟一艘、漫々たる大洋に放たれて、已に覆らんとしける処に、光明赫奕たる日輪、御舟の舳前に現じて見へけるが、風俄に取て返し、伊勢国神風浜へ吹もどし奉る。若干の舟共行方もしらず成ぬるに、此御舟計日輪の擁護に依て、伊勢国へ吹もどされ給ぬる事たゞ事にあらず。何様此宮継体の君として、九五の天位を践せ給ふべき所を、忝も天照太神の示されける者也とて、忽に奥州の御下向を止られ、則又吉野へ返し入れ進せられけるに、果して先帝崩御の後、南方の天子の御位をつがせ給し吉野の新帝と申奉しは、則此宮の御事也。


189 結城入道堕地獄事

中にも結城上野入道が乗たる舟、悪風に放されて渺渺たる海上にゆられたゞよふ事、七日七夜也。既に大海の底に沈か、羅刹国に堕かと覚しが、風少し静りて、是も伊勢の安野津へぞ吹著られける。こゝにて十余日を経て後猶奥州へ下らんと、渡海の順風を待ける処に、俄に重病を受て起居も更に叶はず、定業極りぬと見へければ、善知識の聖枕に寄て、「此程まではさり共とこそ存候つるに、御労り日に随て重らせ給候へば、今は御臨終の日遠からじと覚へて候。相構て後生善所の御望惰たる事無して、称名の声の内に、三尊の来迎を御待候べし。さても今生には、何事をか思召をかれ候。御心に懸る事候はゞ仰置れ候へ。御子息の御方様へも伝へ申候はん。」と云ければ、此入道已に目を塞んとしけるが、ゝつぱと跂起て、から/\と打笑ひ、戦たる声にて云けるは、「我已に齢七旬に及で、栄花身にあまりぬれば、今生に於ては一事も思残事候はず。只今度罷上て、遂に朝敵を亡し得ずして、空く黄泉のたびにをもむきぬる事、多生広劫までの妄念となりぬと覚へ候。されば愚息にて候大蔵権少輔にも、我後生を弔はんと思はゞ、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁をも成すべからず。只朝敵の首を取て、我墓の前に懸双て見すべしと云置ける由伝て給り候へ。」と、是を最後の詞にて、刀を抜て逆手に持ち、断歯をしてぞ死にける。罪障深重の人多しといへ共、終焉に是程の悪相を現ずる事は、古今未聞の所也。げにも此道忠が平生の振舞をきけば、十悪五逆重障過極の悪人也。鹿をかり鷹を使ふ事は、せめて世俗の態なれば言ふにたらず。咎なき者を殴ち縛り、僧尼を殺す事数を知ず。常に死人の頚を目に見ねば、心地の蒙気するとて、僧俗男女を云ず、日毎に二三人が首を切て、態目の前に懸させけり。されば彼が暫も居たるあたりは、死骨満て屠所の如く、尸骸積で九原の如し。此入道が伊勢にて死たる事、道遠ければ故郷の妻子未知る事無りけるに、其比所縁なりける律僧、武蔵国より下総へ下る事あり。日暮野遠して留るべき宿を尋ぬる処に、山伏一人出来て、「いざ、ゝせ給へ。此辺に接待所の候ぞ。其所へつれ進せん。」と云ける間、行脚の僧悦て、山伏の引導に相順ひ、遥に行て見に、鉄の築地をついて、金銀の楼門を立たり。其額を見れば、「大放火寺」と書たり。門より入て内を見るに、奇麗にして、美を尽せる仏殿あり。其額をば「理非断」とぞ書たりける。僧をば旦過に置て、山伏は内へ入ぬ。暫く有て、前の山伏、内より螺鈿の匣に法花経を入たるを持来て、「只今是に不思議の事あるべきにて候。いかに恐しく思召候共、息をもあらくせず、三業を静めて此経を読誦候べし。」と云て、己は六の巻の紐を解て寿量品をよみ、僧には八の巻を与て、普門品をぞ読せける。僧何事にやとあやしく思ひながら山伏の云に任て、口には経を誦し、心に妄想を払て、寂々としてぞ居たりける。夜半過る程に、月俄にかき陰り、雨あらく電して、牛頭馬頭の阿放羅刹共、其数を知らず、大庭に群集せり。天地須臾に換尽して、鉄城高く峙ち、鉄綱四方に張れり。烈々たる猛火燃て一由旬が間に盛なるに、毒蛇舌をのべて焔を吐き、鉄の犬牙をといで吠いかる。僧是を見て、あな恐ろし、是は無間地獄にてぞあるらんと恐怖して見居たる処に、火車に罪人を独りのせて、牛頭馬頭の鬼共、ながへを引て虚空より来れり。待て忿れる悪鬼共、鉄の俎の盤石の如なるを庭に置て、其上に此罪人を取てあをのけにふせ、其上に又鉄の俎を重て、諸の鬼共膝を屈し肱をのべて、ゑいや声を出、「ゑいや/\。」と推すに、俎のはづれより血の流るゝ事油をしたづるが如し。是を受て大なる鉄の桶に入れあつめたれば、程なく十分に湛へて滔々たる事夕陽を浸せる江水の如也。其後二の俎を取のけて、紙の如に推しひらめたる罪人を、鉄の串にさしつらぬき、炎の上に是を立てゝ、打返々々炮る事、只庖人の肉味を調するに不異。至極あぶり乾して後、又俎の上に推ひらめて、臠刀に鉄の魚箸を取副て、寸分に是を切割て、銅の箕の中へ投入たるを、牛頭馬頭の鬼共箕を持て、「活々。」と唱へて是を簸けるに、罪人忽に蘇て又もとの形になる。時に阿放羅刹鉄の■を取て、罪人にむかひ、忿れる言を出して、罪人を責て曰、「地獄非地獄、汝が罪責汝。」と、罪人此苦に責られて、泣んとすれども涙落ず。猛火眼を焦す故に、叫ばんとすれ共声出ず。鉄丸喉を塞故に、若一時の苦患を語るとも、聞人は地に倒れつべし。客位の僧是を見て、魂も浮れ骨髄も砕ぬる心地して、恐しく覚へければ、主人の山伏に向て、「是は如何なる罪人を、加様に呵責し候やらん。」と問ければ、山伏の云、「是こそ奥州の住人結城上野入道と申者、伊勢国にて死して候が、阿鼻地獄へ落て呵責せらるゝにて候へ。若其方様の御縁にて御渡候はゞ、跡の妻子共に、「一日経を書供養して、此苦患を救ひ候へ。」と仰られ候へ。我は彼入道今度上洛せし時、鎧の袖に名を書て候し、六道能化の地蔵薩■にて候也。」と、委く是を教へけるに、其言未終、暁をつぐる野寺の鐘、松吹く風に響て、一声幽に聞へければ、地獄の鉄城も忽にかきけす様にうせ、彼山伏も見へず成て、旦過に坐せる僧ばかり野原の草の露の上に惘然として居たりけり。夢幻の境も未覚へね共夜已に明ければ、此僧現化の不思議に驚て、いそぎ奥州へ下り、結城上野入道が子大蔵権少輔に此事を語に、「父の入道が伊勢にて死たる事、未聞及ばざる前なれば、是皆夢中の妄想か、幻の間の怪異か。」と、真しからず思へり。其後三四日あつて、伊勢より飛脚下て、父の上野入道が遺言の様、臨終の悪相共委く語りけるにこそ、僧の云所一も偽らざりけりと信を取て、七々の忌日に当る毎に、一日経を書供養して、追孝の作善をぞ致しける。「「若有聞法者無一不成仏。」は、如来の金言、此経の大意なれば、八寒八熱の底までも、悪業の猛火忽に消て、清冷の池水正に湛ん。」と、導師称揚の舌をのべて玉を吐給へば、聴衆随喜の涙を流して袂を沾しけり。是然地蔵菩薩の善巧方便にして、彼有様を見せしめて追善を致さしめんが為也。結縁の多少に依て、利生の厚薄はあり共、仏前仏後の導師、大慈大悲の薩■に値遇し奉らばゝ真諦俗諦善願の望を達せん。今世後世能引導の御誓たのもしかるべき御事也。