坂本龍馬の手紙/慶応3年6月24日付坂本乙女・おやべ宛

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今日もいそがしき故、薩州やしきへ参りかけ、
朝六ツ時頃より此ふみしたゝめました。当時私ハ
京都三条通河原町一丁下ル車道酢屋に宿申候。
清二郎ニ御頼の御書同人より受
取拝見仕候。同人も兼而御
申越ニてよろしき人物とて
よろこび候所、色〻咄聞候所
何もをもわくのなき人ニて、
国家の御為命すてるに
くろふハせぬ位なものニて、当
時私ハ諸生五十人斗ハつれて
おり候得ども、皆一稽古
も出来き候ものニて、トモ
国家の咄しが出来候。清二郎
ハたゞつれてあるく位の事ニて、
今すこし人物なれバ
よろしい、又ハまあすこし
何かげいでも出来れバよろ
しいと存じ、此上すいきよふす
れバ、実ニ御蔵のにわとり
とやらにて御座候。今一、二年
もくろふ致し候得バ、すこ
しハやくにたち可申か、
まあ今の所でハ何も
しよふのなき人ニて御座候。
当時他国ニホネおり候人ニ
ハなんぼあほふと云人でも、
お国の並〻の人の及所で
ハこれなく、先日大坂の
おやしきニ行て御用人
やら小役人ニであい候所、
證判役小頭役シヨヲハンヤクコガシラヤク
やら云もののつらがまへ
京都キヨヲト関白クワンパクさんの
心もちにて、きのどくにも
ありおかしくもあり、元より
私ハ用向と申てハなし。ものも
不申候得ども、あまりおか
しく候故、後藤庄次郎
ニも申候所、同人も云にハ
私しハあのよふなものお
つかハねばならぬ、此うるさい
ことおさつして下ダされ、
おまへがたハ実ニうら
やましいと申候て、わらい
申候。坂本清次郎も右
よふのばけものよりハよ
ほどよく候。
○先頃より段〻の御手がみ
被下候。おゝせこされ候文ニ、
私を以て利をむさぼり、
天下国家の事おわす
れ候との御見付のよふ存
ぜられ候。
○又、御国の姦物役人カンブツヤクニン
だまされ候よふ御申こし。
右二ケヂヨヲハありがたき
御心付ニ候得ども、およバず
ながら天下ニ心ざしおのべ
候為とて、御国よりハ
一銭一文のたすけお
うけず、諸生シヨセイの五
十人もやしない候
得バ、一人ニ付一年どふ
しても六十両位ハ
いり申候ものゆへ、利
を求メ申候。○又御国
の為ニ力を尽すとおゝ
せらるゝが、是ハ土佐
で生レ候人が、又外の国
につかへ候てハ、天下の大
義論をするに諸
生ニまで二君ニつかへ候
よふ申され、又女の二夫ニつかへ
候よふ申て、自身の義
論が貫らぬきかね候故
ニ、浪人しつけるに、又ハ
御国をたすけるに致
さねバ、ゆかぬものニて候。
夫で御国よりいで候人〻ハ、
皆私が元トにあつまり
おり申候ゆへ、もふ土佐
からハおかまいハなく、らく
にけいこ致しおり候。此頃
私しも京へ出候て、日〻国家
天下の為、義論ギロン致しまじ
ハり致候。御国の人〻ハ後
藤庄次郎、福岡藤次郎、
佐々木三四郎、毛利荒
次郎、石川清之助 此人ハ私同;よふの人。
又望月清平 これハずいぶん;よきおとこナリ。
中にも後藤ハ実ニ
同志ニて人のたましいも
志も、土佐国中で外
ニハあるまいと存候。その
ほかの人〻は皆少〻づゝ
ハ、人がらがくだり申候。清
二郎が出かけてきたニ付て、
此人ニも早〻に内達致
し、兄さんの家にハ
きずハ付ハすまいかと、
そふだん致し候所、夫レ
ハ清次郎が天下の
為に御国の事ニ付て、一家
の事を忘れしとな
れバ兄さんの家ニハき
ずハ付まいと申事なり、
安心仕候。かれこれの所
御かんがへ被成、姦物役人
にだまされ候事と御笑
被下まじく候。私一人ニて
五百人や七百人の人お
引て、天下の御タメ
るより廿四万石を引
て、天下国家の御為
致すが甚よろしく、おそ
れながらこれらの所ニハ、
乙様の御心ニハ少し
心がおよぶまいかと存候。
○御病気がよくなりたれバ、
おまへさんもたこくに出かけ
候御つもりのよし。
 右ハ私が論があります。
 今出てこられてハ実ニ
 龍馬の名と云ものハ、
 もはや諸国の人〻
 しらぬものもなし。
 そのあねがふじゆう
 おして出て来たと云
 てハ、天下の人ニたいし
 てもはづかしく、龍馬も
 此三、四年前ニハ、人も
 しらぬヤツコなれバよろし
 く候得ども、今ハどふも
 そふゆうわけニハまいらず、
 もしおまへさん出かけ
 たれバ、どふしても見
 すてゝハおかれぬ。又せ
 わおせんならん。其セ話
 おするくらいなれバ、
 近日私しが国にかへる
 時、後藤庄次郎へも
 申候て、蒸気船より
 長崎へ御つれ申候。兼
 而後藤も老母
 と一子とがあるとやら
ニて、是も長崎へ
つれだすこのへんのことハとて色々
咄合仕候ごくない/\。私しハ妻
一人ニのことなり、て留守の時に
実ニこまり候から、御かんがへ被成べく候。
いやでも乙様お近日私し
直〻に、蒸気船より
御とも致し候。短銃タンボヲ
おこせとのこと御申、是ハ
妻ニも一ツつかハしこれあり。
長サ六寸計五発込懐ハツコミクハイ
剣よりハちいさけれども、
人おうつに五十間位
へたゞりてハ打殺す
ことでき申候。其つれが
今手もとにこれあり候得ども、さしあげ不申
候。其故ハ今御国のこと
お思ふニ、なにぶん
何も、ものしらぬやつらが
やかましくきんのふとやら、
そんのふとやら天下の
事おぬれてゞ粟つかむ
よふいゝちらし、その
ものらが云ことおまことゝ
おもい、池のかゝさんや杉や
のごけさんや、又ハおまへさん
やが、おもいおり候よふす、
又兄さんハ島の真
次郎や佐竹讃次郎やと
つきあい候よふすなり。
おまへさんがたたこく
へでれバどふでもして
世渡りができるよふニ
おもハしやるろふが、なか/\
女一人のよわたりハ、どの
よふくらしても一トとふ
りハ一年中ニ、百二十
両もなけれバ参り不申。
私しハ妻一人のみな
らず、おまへさん位ハ
おやしない致すこと
ハやすいことなれども、
女の天下の為ニ国を
出と云わけにハまいらぬ
ものゆへ、ぜひ兄さんの○しっぽんしたれバ
お家にかゝり申候あいだ、
私しの御国にかへるまで
死でも御まち可被成候。
後藤らとも内〻わ、は
なし合ておきます。
○そして当時ハ戦のは
じまるまへなれバ、実ニ
心せわしく候中ニ、又あね
さんが出かけ候得バ、清
次郎一人でさへ此頃の
しゆつぽんハ、よほどはな
ぐずなれども、おとこであ
るきに、まあをさまりハ
付申べし。前後御
察し可被遣候。
○小高坂ヘンのむす
めまで、きんのふとか国家
の為とか、あわてさがし
夫が為ニ女の道おう
しない、わかき男と
くらがり咄ししたがり、
此頃ハ大坂の百文
でチヨツトねるそふか
と申女郎のよふなも
んぢやと申ことニて
御座候。此ことお小高
坂辺ニて心ある人〻ニハ
御申聞被成べく候。
○私しらの妻ハ日〻
申聞候ニハ、龍馬ハ
国家の為骨身ホネミ
くだき申べし、しかれバ
此龍馬およくいたわりて
くれるが国家の為ニて、
けして天下の国家
のと云ことハいらぬことと
申聞在之候。夫で日
〻ぬいものやはりもの致し
おり候。そのひまニハじぶん
にかけ候ゑりなどのぬい
など致しおり候。そのひまニハ
本よむこといたせと申聞候。
此頃 ピストヲル;たんぽふハ大分よく
ウチ申候。誠ニみよふな
女ニて候得ども、私しの云
ことよく聞込ミ又敵お
見て白刃をおそるゝことふしみのことなどおもいあわせたまふべし。
おしらぬものニて、べつに
りきみハせねども、又いつ
かふへいぜいとかわりし
ことなし。これハおかしき
ものにて御座候。
        かしこ
 六月廿四日
           龍馬
  姉上様
  おやべ様

追白、はるいがかんざし
おこしてくれよと申来
りたれども、おつとの
しゆつぽん致し候時
ニあたりて、かんざし
なにものぞ、清次郎
ニ小遣でもやりてくれ
よとでもいゝそふなもん
なり。たゞきのどく
なるハあにさんなり。
酒がすぎれバ長命ハ
できまい。又あとハよふし
もあるまい。龍馬がかへる
おまてバ清次郎ハつがふ
よくだしてやるものを、
つまらぬでよふおした。
七月頃はたけにはへ
た、おくればへのまうり
や、きうりの如し。
あわれむ人少なし、
   かしこ/\。