哲学の原理

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第一部 人間認識の諸原理について


 第六十一節  様態的区別について

 様態的区別には二つある。一方の区別は、すなわち、適切に言われた様態と、その様態である実体との間の区別であり、もう一方の区別は、同じ実体の二つの様態の間の区別である。前者の区別は「我々は確かに、実体とは異なると我々が言う様態なくして、実体を明晰に認知することができるが、我々は逆に、実体なくして様態を理解することができない」ことから認められる。例えば、形態と運動が、それらが内在している物体的実体から様態的に区別されるように。また例えば、断言と想起が、精神から様態的に区別されるように。他方、後者の区別は「我々は確かに、ある様態を他の様態なくして見分けることができるし、逆もまた同様であるが、我々はどちらの様態も、やはりそれらが内在している同じ実体なくして見分けることができない」ことから認められる。例えば、石が動かされ、それが四角であれば、私は確かにその四角い形をその運動なくして理解できるし、逆に、私はその運動をその四角い形なくして理解できるが、その運動もその形態も、石の実体なくして理解できないように。しかし、ある実体の様態を他の実体や他の実体の様態と異にする区別、例えば、ある物体の運動を他の物体や精神と異にするような区別、また運動を持続と異にするような区別は、様態的というより、むしろ実在的区別と言うべきであるように思われる。というのも、これらの様態は、その諸様態である実在的に区別された諸実体なくして明晰に理解されないからである。


 第六十三節  思惟と延長は、精神と物体の本性を構成するものとして、どのように判明に知られることができるか。

 思惟と延長は、理解力ある実体と物体的な実体の本性を構成するものとして見なされることができる。その場合、思惟と延長は、思惟する実体と延長された実体自身以外の仕方で、すなわち、精神と物体以外の仕方で受け取られてはならない。このようにして、思惟と延長は、最も明瞭かつ最も判明に理解されるのである。ところが、実体が思惟することや実体が延長されたことを度外視して、ただ実体だけを理解するよりも、延長された実体あるいは思惟する実体を理解する方が、我々とっては容易である。というのも、実体の概念を、思惟や延長の概念から抽象することには、かなりの困難があり、つまり思惟や延長の概念は、実体の概念からただ理性的に区別されているにすぎないからである。そして概念は、我々がより少ない事柄を概念の中に把握することによって、より明確になるのではなく、我々が概念の中に把握することを、他のあらゆるものから入念に区別することによってのみ、より明確になるのである。


 第六十五節  思惟と延長の様態もまた、どのように知られるべきなのか。

 同じく理性的に、思惟の様々な様態(例えば、理解力、想像力、記憶、意志等々)を、同様に、延長や延長に属する様々な諸様態(例えば、あらゆる形態、諸部分の位置と運動)を、もし我々が、それらが内在している事物の様態としか見なさなければ、我々はそれらを最もよく認識するであろう。そして運動に関しては、もし我々がただ場所の運動しか考えず、そして運動を引き起こす力について我々が探究しなければ、我々はそれを最も良く認識するだろう。(しかし、私はその力をしかるべき場所で説明しようと試みるであろう。)


 第六十六節  たとえ我々が諸々の感覚、情動および欲望についてしばしば過って判断するとしても、それらはどのようにして明瞭に知られるのか。

 諸々の感覚、情動および欲望の議論が残っている。もし我々が、これらについて、我々の認知に含まれているもの、そして我々が親密に意識しているもの以上に簡単に判断しないよう入念に警戒するならば、諸々の感覚、情動および欲望もまた、明晰に認知されることができるのである。しかし、これを守るのは、少なくとも諸々の感覚に関しては、非常に困難である。というのも、我々の誰もが、生まれたばかりの頃から、自分が感じるすべてのものは、自分の精神の外部に存在している事物であり、自分の諸感覚(すなわち、自分が事物について持つ諸々の認知)に全く類似した事物であると判断してきたからである。そのため、例えば、色を見るときに、我々は我々の外部に置かれ、そしてその時に我々の中で経験している色の観念に全く類似した何かある物を見ていると思ったほどである。しかも、このように判断する習慣のために、我々は確実で疑う余地の無いものとするほど、我々は明晰かつ判明に見ているように思われたのである。


 第六十七節  苦痛についての判断自体においてさえ我々がしばしば欺かれること。

 感覚される他のあらゆるものについて、かゆさと苦痛についても全く同様である。というのも、これらの感覚されるものが我々の外部にあるとは考えられないにもかかわらず、これらの感覚されるものはただ精神だけに存在するもの、あるいは我々の認知だけに存在するものと見なされるのではなく、手に、あるいは足に、あるいは我々の身体の他の部分のどこにおいてもあるものとして見なされるのが常であるからだ。例えば、我々が光をあたかも太陽に存在するように見るときに、その光が我々の外部に、太陽に存在することが確実でないのと同様に、痛みがあたかも足にあるように我々が感じるとき、痛みが我々の精神の外部に、足に存在している何かであることは確実ではない。むしろ、それらのものはどちらも、後に明晰になるであろうように、我々の生まれたばかりの頃の先入観である。


 第六十八節  諸々の感覚において、我々が明晰に認識するものは、我々が欺かれる可能性があるものからどのようにして区別されるべきか。

 しかし、ここでは明晰なものを不明瞭なものから区別するために、苦痛と色、およびその種の他のものは、それらがただ単に諸々の感覚として、あるいは諸々の思惟として見られるとき、確かに明瞭かつ判明に認知されるということが、最も入念に注意されるべきである。しかし、苦痛や色やそのような種類のものが我々の精神の外に存在しているある事物であると判断される時に、いったいどんな物事であるかはどんな方法でも全く理解されることができず、そうではなく、ある人が、自分が物体に色を見たり、あるいは身体のある部分に苦痛を感じていると言う時、それは、あたかもそれがいったい何であるかが全く無知である物体を、自分がそこに見たり感じているということを、すなわち、自分が何を見たり感じているのかを知らないということを言う場合と、全く同じであるということが注意されねばならない。というのも、より少なく注意することによって、人は、自分のもとで経験する、色や苦痛というあの感覚によく似た何かが精神の外部にあると想定するということによって、自分がかなりのそれの知識を持っていると、容易に思い込むからである。にもかかわらず、もし、色や苦痛のあの感覚が、あたかも色づいた身体に、あるいは痛んでいる部分に存在するものとして表現しているものが、いったい何であるかを吟味するなら、自分はそれを知らないということを完全に認めるだろう。


 第七十一節  誤謬の原因は幼児期の判断から生じる。

 […]そして千もの他のこの種の先入観に我々の精神は生まれたばかりの頃から浸されており、それから精神は少年期に、自分によってそれらの偏見が十分な吟味なしに受け入れられたことを思い出すのではなく、感覚で知られたもの、あるいは自然によって精神に置かれたもののように、真実明白なものとして容認したのである。


 第七十二節  誤謬の第二の原因は、我々が先入観を忘れることができないということ。

 そしてすでに成熟期になって、どんなに精神が、もはや全く身体に従属することも、あらゆる物事を身体に関係づけもせず、それら自身において考えられた事物の真実をもまた探究するとき、精神が以前このように判断した事物の多くが誤りだと気がついたとしても、だがそれゆえ精神は自分の記憶から以前そのように判断した事物を消すのは容易ではなく、以前そのように判断した事物が記憶に残っている間は、以前そのように判断した事物が様々な誤謬の原因となりうるのである。例えば、我々は生まれたばかりの頃から星を非常に小さく想像してきたのであるから、たとえすでに天文学の理論がいかに星が大きいかをはっきりと我々に示しているとしても、それでも我々にとって星を以前とは別の方法で想像するのが非常に難しいほどに、先入観が持ち込まれた意見は依然として力強いのである。


 第七十三節  第三の原因は、感覚に現われていないものに気をつけることに我々が疲れさせられ、それゆえ我々が感覚に現われていないものについて、現われている認識からではなく、前に思いついた意見から判断する習慣があるのだということ。

 さらに、我々の精神は、ある困難と疲労はしには、どんな物にも気をつけることができない。全てのことのうちで最も難しいのは、感覚に現われるのでも、想像にさえ現われるのでもないものに気をつけることである。[…]しかしここから多数の人々はもはや、想像でき、物体的で、感覚できさえしなければ、何ら実体を理解しないことになる。たしかに、多数の人々は、延長、運動、および形に存するものだけを想像できるということを、たとえ他の多くのものが理解できるとしても、知らないし、どんなものも、物体で無いものは何ら存続できないと思い、最終的に感覚できない物体は無だと思っている。

この著作物は1924年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 

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