十一月三日

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本文[編集]

私の少年の頃は、十一月三日が天長節であつた。天長節には紅白の饅頭が配られ、式後、運動会が行はれるのが恒例であつた。講堂には、大きな花瓶に菊の花が盛られてゐたし、校庭には、稲の熟する高い香りが漂うてゐたし、運動会には、どこからか楽隊が呼ばれて来て、「美しき天然」を吹奏するのも、また毎年のことだつた。私は長じてからも、ふと「美しき天然」の歌調が口に浮かぶと、美しく澄んだ秋空に、一発二発と炸裂する花火の音が思ひ出されたものである。
紺絣の袷、こはぜつきのシヤツ、括り股引、紺足袋、縞柄の肌襦袢、紐付の腰巻、綿ネルの感触が肌に懐しい季節でもあつた。
鬼ごと、かくれん坊、薪取り、京の街のくぐり戸、蝋燭の芯巻き、お尻捲りはやつた。田舎の子供達といふものは、秋冷の頃ともなると、体ごとぶつけ合うやうな遊びを好むやうでもあつた。
後年、亡くなつた友人の梶井基次郎が、私の家の近くに下宿してゐたことがあつた。梶井の下宿先は若い植木職で、江戸児気質の律儀な人であつたし、その妻はいつも身なりの整つた、淑やかな人であつたが、色は白く、腰のあたりの豊かに張つた、いかにも瑞々しい若妻であつた。ある時、その若い妻にとつて、十一月三日は天長節ではなく、明治節であることを知り、三人一様に驚いたことがあつた。
「ほんとに、さうなるかね。」と、夫である植木職もいかにも信じかねる風であつたし、
「さうですかね、驚いたなあ。」と梶井も、私も、口々に繰り返したものだつた。
殊に、梶井や私が一様にそれほど驚かされたといふのは、その人がいかにも充ち足りた性を感じさせるやうな人妻であつたからかも知れない。このやうに成熟した女性が、既に自分達と時代を異にするかといふ驚きであつたのでもあらう。が、その反面、明治時代に少年期を過した者にとつては、十一月三日といふ日は、その、季節とともに、いかに強い印象を与へられてゐるかといふことも考へられるやうでもある。
が、それから今日まで、あのやうな見事な女性の肉体を成熟させた年月より、更に多くの年月が経つてしまつた。植木職の若かつた妻も、もう五十歳に近いであらう。先日、私はその頃私達の住んでゐた街へ行つてみた。私のゐた家は、唯一軒、辛うじてその面影を残してゐたが、植木職の家は、戦災のため、その跡を尋ねることも難しかつた。
十一月三日は毎年日本晴れで、雨は降らないものと言はれてゐた。が、今はそんなことを知つてゐる人も少いであらうし、戦後は、雨の降った年も何度かあつたやうである。

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