剣について/01-02

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26. 平和の君キリストは(Isa、9:6)、福音を教えられた、いわく:柔和な人は祝福されている、あわれみ深い人は祝福されている、平和を造り出す人は祝福されている、正しいことを求めるために迫害されている人は祝福されている。(Mt 5:5,7,9,10)この追随者たちは、横柄なぶっきらぼうな、その戦争はそれらの口論は祝福ではない、それらの場合の迫害は祝福されない、何故ならば誰でも彼の側に剣を携帯しているのは闘争を造り出すからである。

27. キリストが言うには、:『古い人の言うことに聞いてみると、「あなたがたは殺人さつじんをしてはならない」』(:原注、今この兵士は突撃射撃を含む心の中で殺人をした)。『そして「誰でも殺人をしたなら、裁きを受けることを免れない」、しかしわたしはあなたがたに言う、それは誰でも彼の兄弟を怒る者は裁きを受けることを免れない」;誰でも彼の兄弟を侮辱する者は議会に引き渡されることを免れない、そして誰でも「あなたは馬鹿だ」と言う人は、地獄の火に投げ込まれることを免れない』。(Mt 5:21-22)。今もしクリスチャンが、怒らず彼の兄弟をバカ呼ばわりしないならば、永遠の火にあづかる正当な理由は無い、何故ならばそれは出来るだけ彼によって剣を行使しないからである、彼に殺された人は丁度いない、または少しの人も、体でかまたは魂で互いをそう言うふうに助けなかったか?クリスチャンで無い人はこれは(:殺人を)行うであろう。

 しかしもしあなたがたに言う、その時誰も強奪者や敵から安全に救われるのであれば:答えはこうである:この世界と一緒にあなたとわたしが何かをするなら(1 Cor 5:12)。わたしたちはそうである以上クリスチャンに成りたいか?わたしたちは今まことのクリスチャンのことを話しているのであり、異教徒やユダヤ人についてではない。それはクリスチャンにふさわしく無く、非難され死んでしまうからである。それらはこの節は世界の当局者や異教徒や、ユダヤ人には当てはまらない。しかしまことのクリスチャンだけには当てはまる。キリストの裁きと与えられた戒めとはわたしたちにであり、教会(:原注、(ドイツ語の)ゲマイン(と読むのか?):共同体)の信者では無い外側の人に当てはまるのではなく、何故ならば宗教に関係が無い支配者や、彼らの一人や(:に当てはまることなく)、それはクリスチャンが求めるもので、クリスチャン個人の(:求める)ものであるからである。

28. さらに進んでキリストが仰るには:『あなたがたはこのように聞いて居る「目には目を、歯には歯を。『しかしわたしはあなたがたに言う「(:原注、クリスチャンに向けて)」。「邪悪なものに手向かうな。しかしもし誰かが右の頬を打つならば、またも他のを向けなければならない」』(:原注、むしろ、仕返しよりもあなたがた自身が戻って爆発を忍び平静をもっと保たなければならない);「そして少しの人も外衣を請う人にはマントも与えよ」(Mt 5:38-40)今もしクリスチャンが法律違反訴訟を望まないのであれば、全くそう、法廷で裁判行為かまたは裁きをもは無いであろう。それ自身が向こうに転落しキリスト教世界で続かないのであれば。すべてこの明らかな指し示すものは、世俗の法廷で原因と出来事を彼が向こうへ取られて仕舞うからである、それは彼が破門と行なうことをすべて彼自身が向こうへ遣って仕舞うからである。彼が彼の民を新約聖書の邪悪なものに抵抗せず復讐も持たず。つるぎもそして流血の罪も。彼はかれらに体の罰も法律の請求も造り--これは彼らに明らかに破門された、そこで目には目を腕には腕をかれの教会内ではないであろう。一つ反対に、神の律法を一人は壊れた受けるに値する、一致した内の違反者として取り扱うことを考えなければならない、これは、福音と一致した一緒に、それは破門のみのそして剣無しで、鍵の力であり、そしてこの世界のように(:剣を振るい)実行する者の力は無効であるからである。

 しかし誰かが言うであろう、もしわたしたちすべてがわたしたちの剣を向こうに置いて、そしてあなたが言うことと行うこと、それではトルコ人や敵に誰が立ち向かうか?答えはこうである:もし誰もがまことのクリスチャンであったなら、それは神が敵に立ち向かって下さるであろう、彼がただ一つの小さな彼の教会を保護するのに:さもなければ彼らは敵にパンのように貪り食われてしまうであろう。

29. さらに進んで、キリストが言うことには、『あなたがたはこう言われるのも聞いた。「あなたがたは同胞を愛し、敵を憎め。然しわたしはあなたがたに言う、『あなたの敵を愛し、あなたがたを虐待する者に優しく話せ。善きことをあなたの憎む者にせよ』」』(Mt 5:43-44)。このように支配者の任務は実力と剣であるが、それ自体反対にそれと逆の働きをキリストの提示はしている。その結果必然的にそこではクリスチャンの支配は無いし、クリスチャンは役人官僚職の役目を掴んではならない。それらは互いに相矛盾した一致調和したことが出来ない、しかしこの世界では神の御意志によらないで生きている、支配政府と日毎の食物はまるでそうだが、わたしたちが栄誉を保つのは、凡ての善きことの中の従属の支配に於いてである。

30. キリストは彼の追随者たちに教え、神に祈り、『わたしたちの負い目をわたしたちがわたしたちに負い目ある人々をゆるしましたように赦して下さい』(Mt 6:12; Lk 11:4)使徒は教える;『一人びとりをキリストによって許したように、あなたがたをも赦す、そうあなたがたは全く許さなければならない』(Col 3:13)。しかし若しわたしたちが剣の損傷で邪悪に報復するとしたら、殺人と一緒に。禁固刑と似たような復讐をするなら、神にわたしたちが赦されるように祈ってもそれらの行動をもって報いられないだろうか。わたしたちが(:邪険に裁き、勝手に人の)死のために祈りをすると、わたしたち自らの上に復讐と刑務所と剣を以って。それはなぜキリストがおっしゃったか:すべて剣を執る者は剣を以って非業の死を遂げると。そして彼は誰かを投獄するなら刑務所に置かれるであろうと。それはそのような人々が問尋ね、そして日毎に祈ることであったのである、主の祈りの中では。それから彼は兄弟や誰をも赦さなくて剣に引き渡すと彼自身の上に無分別な狂気に成って来る。彼は規定された彼自らの死亡を以って、彼自身への判決を可決通過させている。それは黒人か白人かに係わらず罪に一致して居る。

31. 『[:邪険に]裁くな』キリストは追随者に仰った、『あなたがたが邪険に裁かなければ、あなたがたに対しても裁きの宣告がその[:大目に憐れみ見られる]ようだし、あなたがたが[:邪険に]裁けば、あなたがたへの評価も[:邪険に]あなたがたがしたようにされ成るであろう』(Mt 7:1-2)。そこでは剣が裁き、つるぎの復讐が教会と決して交じり合わないであろう、少しのクリスチャンも彼らに裁きを執行しないし、権力を振るわ無いであろう。

32. キリストは仰った、『行って学びなさいこの意味を「わたしは憐れみを欲し、犠牲を[:欲せられ]ない」。わたしは罪人を痛悔つうかい悔恨かいこんに来るよう呼びかけている』(Mt 9:13)。ここからキリストは恵みと恩寵を地上の人々の間に欲せられた、そして激怒と剣をもなかった。それでクリスチャンは怒りの憎しみの地上に対しての誰をもの乳母では無かった。各々を防御する剣に思いを意味することは無かった。天ではそこには妬みや憎しみをも無い、地上では長く死が続いた、海は長くそこから向こうへ放出されるが、地上の流血を落とさせることは無かった。然しそれはなぜならば自然の天が善きことに彼らをそれらで傷つけることが無いのと、そうキリストは彼の人々に自然の優しい手方法を取られることを欲せられた。そこから彼はわたしたちに教え、祈り、『汝の御意志が天と同じく地上にも行われるようになりますように』

33. キリストは神の小羊であった(John 1:29)そして屠殺されるために引かれていった(Isa、53:7)。子羊であって、決して狼に涙一つこぼすこと無かった、それから彼は彼の人々に言われた、『強暴な狼のただ中へ羊を遣わすのです;それ故へびのように賢くなりなさい』(Mt 10:16)、そこからそれ自身小さな留意を挙げて体は切断されても頭が残っているならば万全である。わたしたちもそのように知恵を以って注意深く他の者が無くなることがあっても、わたしたちの体でさえも、わたしたちが信仰を保ってさえいれば、そこで頭が根元なのである。わたしたちはそこから非常に極めて力いっぱいに、無抵抗で、長く耐え忍んだ子羊は、そしてわたしたちは羊と呼ぶことによって、(Jn 10)しかしそれから他は特色あるヤギと呼ばれる者は反骨と一緒の腕があるヤギと呼ぶ(Mt 25)反神的のために武装備能力された角の方の後ろは。

34. 『身を殺す者を恐れるな、そして魂を殺すことの出来ない者を恐れるな』(Mt 10:28)若しそれが支配者が剣を以って誤った世界のキリスト教世界に今日神のクリスチャン教会に権力を振るったのであれば、キリストがそれらの言葉を厳しく言うことを必要とした、クリスチャンが剣の後ろに隠れて敵のそれらを打つ敵よりも素早く敵を打撃から打ち据えるため戦ったことになるだろう。しかし御言葉は現実にクリスチャンの宣言を(:原注、真のクリスチャンをわたしは言っている)は殺人したこと、苦しめたこと、収監したこと、世界におけて迫害した事、しかし彼らはクリスチャンとして全く決して殺人されること、かまたは収監されることかまたは迫害されること、誰一人として[:真のクリスチャン会衆の規範として]そうされる者はいない。どんなに彼らは世俗の支配者によってそうされるだろう?

35. すべての福音筆者たちはキリストの預言でクリスチャンに証しし:『彼らはあなたがたの呼び合いで申し出、彼らの会堂(:シナゴーグ)で鞭打ち、彼らは支配者たちの王やわたしの求める者たちの前で引きずる事をし』(Mt 10:17-18; Mt 24:9; Lk 21:12)『彼らは会堂から追放し;あなたがたを誰でも殺す者が神に神聖な奉仕をしているのだと考える時が来ます』(Jn 16:2)再び注意書き、その支配者たちはクリスチャンに成ることが出来る。このことは今日こんにちと早い時代から起きてきたことである。

36. キリストは使徒たちに彼の教会の中に於ける力の鍵を与えて、ペテロに彼が言うには、『私はあなたに天の王国の鍵を与える』(Mt 16:19)。彼はこのようにすべての彼らに言われて;『「聖霊を受けよ、もしあなたが誰かの一人としても罪を赦すなら、彼らは赦され;もしあなたが誰か一人でも罪をとどめて置くなら、とどめられるであろう」』(Mt 18:15-18;Jn 20:22-23)。この力はキリストが彼の使徒たちにそして彼の教会に与えました。しかし剣の力に就いては少しの使徒たちや弟子たちにも彼の教会の誰にでも与えませんでした。あなたがたが死ぬまで探し続けるなら、新約を見いだすであろう。その破門について、キリストの教会のために任命するであろう剣は世界のために任命された、昼夜まったく違って居るように、それら(鍵と剣)は生命と死とに違っているように混同不可能である。それ故に彼らは混同出来ないのである。

 その鍵の力は、クリスチャンに破門と邪悪なものについて教会から分離され(1 Cor 5:5)。そのこの世的な剣は地上から完全に離れるべきである。クリスチャンは愛に於いて罰せられること、全く兄弟的に叱責し;剣を激怒し冷厳冷酷な者を罰するもののみとする。破門の後にクリスチャン一人びとりは痛悔つうかいし;しかし剣の後と世俗的な正義が、悔い改めから改心の全生命を永遠に切り捨てる;奉仕者の鍵は憐れみの血管であり、この世的な剣の奉仕者の血管は激怒であり(Rom 9:16-18; Hos 13:11)。彼は誰がクリスチャンの兄弟同士の実践の上を支配する鍵の力を保管することと当て嵌めることについて貪欲を追放しまたは個人的に所有するであろうか。彼は誰が剣の力を保管し、貪欲と財産物に就いて(Acts 5:1; 1 Cor 5:1-13)彼自らの国と人々に関し;それでは太古の時代からの剣の力を名前によって同一視して来た、『この世的な政府機構』と呼ぶ。それは何故ならばクリスチャン教会はその役人官僚職を混じりけ無しで取り付けられないからである。互いに自らの道を歩むことをするが;行く道が決して接続連絡することに逆方向をするからである。

37. 毒麦の例え話で、僕は言った:『あなたはわたしたちに彼らから引っ張って出て行って欲するものは?』主は答えられた:『毒麦と一緒に、根が絡まって引き抜いてしまうことが無いためである、収穫の時迄ときまで一緒に成長させなさい』(Mt 13:28-29)キリストはこの故にこうも言われた、彼は戦争や流血の罪を彼の民の間に来無いことを欲せられ、全体的にマタイの書の五つめの章でそれを表わしている。彼は邪悪な毒麦のものを彼の教会から鍵の力で除き去る事、しかし彼らが剣と一緒に殺人を執行する時、彼はそれをするのを禁じておられる、毒麦をそこで切り取る時良き小麦に変質させた。

38. キリストは彼の弟子たちに仰られた;『もし少しもの人がわたしの後に来て、わたしを否認し、十字架を取ることや、わたしに追随することを否認する』(Mt 16:20)彼は言われなかった『剣を取り上げよ』剣は全く本当に十字架の後の場所には無い、そしてキリストはどうしようもないもの(:ベリアル)と一緒に同意されなかった。それでこの世的な剣はキリストの十字架と相比し見えるのはキリストとピラトである。彼らはおおかみと羊が同じ様な部屋で一緒に取ることをする。剣の友たちは少しも可能で無い、しかしキリストの十字架の敵である。そして剣を教えることは十字架を教えることに反対である。それは十字架によって生まれた証人たちはあとうしろの者たちとは戦わない。十字架に生まれた者たちは苦しみの忍びと悲しみを受け入れるであろう、痛悔つうかいの痛みと一緒の迫害はくがいをも。この世の支配者のつるぎは何も苦しみを忍ばないからである、しかし何をもの行くことの終わりをもたらす者は、クリスチャンたちで、羊を引き続き畜殺ちくさつされるために(Ps 44:23; Rom 8:36;2 Cor 4:11 )。この世の支配者のつるぎは彼らをころすものである。

39. 弟子たちがイエスの所に来た時にまた言われた、『誰が天の王国に於いて一番偉いのですか?』、イエスは子供を呼んで彼らの真ん中に立たせて;『本当にわたしはあなたがたに言います、子供のように帰って来て以前の事を忘れるような者でなければ、決して天の王国に入れません』(Mt 18:1-3)これと一緒に彼は、凡ての支配者の主義は制圧すること、暴力、剣、また間違いをすること、は弟子たちの間で禁止され欲せられなかった。小さな子供たちの魂の為には、凡ての誘惑に関して純真なことがある;彼らの欲望は誰かが彼らを傷つけても復讐が無い、しかしまるで何も起きなかったかのように彼らは戻ってきて人々と彼らの友だちに戻って来る、そう、どの子供も彼らよりも威張る人が居ないのか?若し千人の人が共になって、彼らの一人のようにならなければなるなら、彼らは主を知るであろう、主人や、地方長官や、彼らはすべて同じ標準ひょうじゅんで彼ら子供らより長く特殊とくしゅな人はいないのである。

 そこから、わたしたちは神の子供なのですから、無垢になる必要がありそう成らなければならない、復讐無しに、誇り無しに、横柄無しに、復讐に燃えた、勿体もったいぶること無しに--全てそれらの事柄にわたしたちの救いの道に立って居るからである。注意を取ると、世俗の権威者で、しあなたがたがその事に就きクリスチャンに質問するなら、その答えは神の御子によって彼自身;『あなたがたが子供のように成る事をしなければ、あなたがたは決して天の王国に入れない』。それは場所を取るのに;クリスチャンにあなたがたは戻り来て成り保つ論証--証拠立てをしなければならないからである。

40. 主はものすごく怒った人になる[:何時も習わしにしている=犯罪者]人に、追随者を掴むのに、喉(:アダムのリンゴ[:原罪])によって、刑務所に投げ込まれるに、借りている負債に。主は彼に言われた、邪悪な奴隷よそして彼を牢番(:口語訳、獄吏)に申し渡す(Mt 18:23-34)。例え話しと共に彼はそのような事柄を彼の民にキリスト教世界に欲しないことを宣言する。

41. その時、ゼベダイの二人の子供はキリストに懇願して、彼の王国に席に就くことを質問した、一人は彼の右に一人は彼の左に命ぜられる事について(Mt 20:20-21)、このように上のもっとも誉れある席に就くことについて(:原注、それから彼らは現世のこの世界における王国のように何故ならば彼らはなお未熟である)、キリストは彼らを向こうに退けて、それからかれらの欲望と彼らの骨折りと警告して、もがき、そして苦しみの来る事を、それは彼らは彼の杯から飲むことそして彼のバプテスマを受けることをしなければならないことを示した。それでクリスチャンは支配の場所を占有することが出来ないことを示された、しかし杯から飲むことはこの地上で苦しみを忍ぶことを意味し、(Mt 26:39)そして彼のバプテスマを受けるとは彼のバプテスマを切望するということである(Lk 12:50)。

42. イエスは彼の弟子たちを呼んでそして彼らに言うには:『あなたがたは世俗の支配者たちが国民を制する主であり、そして彼らの偉大な人たちは彼らを威圧し、しかしあなたがたの間ではそうであってはなりません』(Mt 20:25-26; Lk 22:25-26)。あなたがたは見る、彼が堅い結びめのこぶによってほどき解決することやこぶを結ぶことを行なわないことが出来ないことを。彼が政府統治機構の意図することと、この世の主たることと、明確に言って、『それはあなたがたの間では。わたしの民よ。その上の主たちは強制力と一緒に進み;それはあなたがたの間ではそうで無いように;誰でもあなたがたの間では大いなる者に成りたいと思う者はあなたがたのしもべにならなければならず、誰でも一番名声を博したい者はあなたがたの奴隷にさえならなければならず、人の子が仕えられるために来たのでさえなく、仕えるために来たのと同様です』(Mk 10:42-43)。そこではいつも地上的豪華さは欠点のあるものであり、そしてすべての相応ふさわしく無いものも、その時キリストは貧しい奴隷として生きており、わたしたちの弟子たちの為にも『恵み深い主』になるように強く願うのである。

 そこからキリスト教世界、御子の王国の中に於いてはこの世の地上で権威ある支配者のようにであってはならず、誰でも他の者の上に在ろうとしてはならず、長たる司令官は他の者の代理司令官でなければならず、他の者の地方長官は他の者の長官でなければならず、他の長官は他の彼でなければならず、『それはあなたがたの間ではそうであってはならない』とキリストが言うのは。このキリストの一緒の声明は時の政府統治機構を撤廃し、しかしそれをこの世に置いて行かねばならない、彼は彼の弟子またクリスチャンの間で地上的政府を撤廃し;彼らは生命と死に関する司法権の用いる力をなくし、そこではそれから小さな世俗の主たることも彼らの間で天であってのことのようになり--それは言うことには、そこではクリスチャンの間では地上では誰一人としてそうであってはならないこと、もしルシファーのために彼が他の者の上に向けて天で行使したいと欲したならば、どんなに地上で行使しているでしょうか。彼はそのような異教徒の行為に於いて有罪なのです、それらはクリスチャンにそう意味し無いでしょうか。

 ルカがそれら彼らを支配する権威者たちを『恵み深い主』と呼ぶのに、しかしあなたがたのあいだではそうであってはならない(Lk 22:25-26)。何も支配しない欲望は何も誇りのように導かない、そして長たることは;これから偉大な嫌悪すべきものはバネの入った、人間の誉れのためにそして名声に導くのはすごく最も恥ずべきものでは無いでしょうか。理不尽な誉れは人を膨れ上がらせ、無責任は冒瀆者と偽善者を造り出す。壮麗さを取り去ることは彼らの開いた目に抑制くつわとして地獄の扉を持って来て、もし暴力的な嵐が彼らの霊に渦巻くなら、彼らの舟を深い水に於いて引っ繰り返すであろう。

 しかしこれらは、時の政府統治機構は廃止されまたはすべての良き適切な事柄が違反されることはわたしたちの意志でも無く意図でも無い。それは地上の人々の間の政府支配機構はどうしてもなくてはならず、正に学校の先生は従順で無い子供たちたちのためにお仕置き棒をどうしても持っていなくてはならず、世界の異教徒の国民はそれから神を恐れねばならない、彼ら自身が神の霊によって支配されようともしないので、またこれ故の神の命令が無いこと。政府支配機構は彼ら神を除外する者たちの為に剣を彼らの間に規定し彼らが恐れる為、子供たちは先生の鞭棒むちぼうを恐れ、この無秩序は完全に妨げられ、地上は徹底的に血の汚点に。それでもこの世はまだなお世俗的敬虔けいけんを保つであろう、馬のような突発事態とっぱつじたいのものを馬房ばぼうくくり付けていなくてはならず、おおかみを穴に入れ、ライオンやクマのためのくさりと同様である。

43. キリストは世俗の政府機構の力を地獄の門(:黄泉の国(ハデス)の力:カトリック版新約)と呼び(Mt 16:18)。キリストに於ける正義は神の王国への扉と門であることを示した(Jn 10:7, 9)。彼らを地獄への門と呼び。一人を見えるようにして、もし王や、君侯や教皇主義者の権威あるものが、その時彼の下臣もまた教皇主義者にならなければならないし;もし彼(:支配者)がルーテル派に成ったら、下臣もまたルーテル派にならなければならない;もし彼(:支配者)がツヴィングリ派に成ったら、下臣もまたツヴィングリ派に成らなければならない;そして何か政府機構が信ずるものは、その国の民も必ずそれを信じなければならない、彼らはこの剣と共に強要する、絞首刑執行人も、火または水そして地下牢もである、そうしてそれは一人の信者がもう一人に群衆と一緒に行くことを命令するなら起こるであろう;誰でも信者が彼の主の希望をだれでもに行なうであろう。従がって支配者に風がどのように吹くとしても、その方向にこの世は取り上げ、そのような地獄の門と反神的な者が通して入り込む、邪悪な生命に。それはまたなぜキリストが闇の力と呼んだのか(Lk 22:53)パウロもその闇の領地と呼び、そしてその支配者の闇のこの世の君臨に対して神を恐れるものは戦わなければならないと(Col 1:13; Eph 6:12)[1]

44. 『もし誰もあなたがたを受け入れることを拒否した時は、この場所から立ち去れ』と言うならキリストは『あなたがたの足の塵を拭い去れ』と応答せよ(Mt 10:14)。見よクリスチャンはその命令を受けていることを。その、彼らに対して剣を一緒にして進め!とは命じられなかった。(:原注、貪欲そうな虚偽預言者は、戦争の先生で、死刑執行人の博士である、i.e.,裁きを学びそしてこの世俗の司祭の欲することを行なう);今ここからキリストの使徒たちのここで誰でも一人も暴力に手をその上に置くことはしない、しかし暴力に手は彼らに置かれた。誰も神の義と信仰を求めて剣を以って戦うことを敢えてする者はいない。もしも神がそれを欲しても、そして暴力や鞭棒が有効であるなら、彼は疑いなしに天使の大軍を天から送り下らせることも可能だったはずである(:エリシャの僕が見たように?列王第二6:15-17; 19:35)。そこからそれら虚偽の企て(:剣)は地上の神の[:御子の]王国に神の命令と実例の実行の反対を行うであろう。それは全てに与えられなかった(2 Thess 3:2)、しかしただ選ばれた者は;わたしたちは民の信者は強制的な信者の呼び方をしたことはなかった。洗礼者のヨハネはその時来て(Jn 3:23)、彼は剣で民をたないでそうして言った、『悔い改めにふさわしい実を結べよ』(Mt 3:8 and elswhere[他の同じような所])。

45. パリサイ人が誘惑して彼に税金の貨幣を見せた、主は言われた、『カエサル(:皇帝)の物はカエサルに、神のものは神に』(Mt 22:21)。それ故キリストは彼の民に望まれた、世俗の征服者の権威者は、支払期日の来た申し出の与えること--その職務の為、また神の御命令の為。わたしたちは期日に支払い与える、そして神に属するわたしたちは神に与えなければならない。しかしもし人々が神の言葉と栄光と共にすることを不当に改竄かいざんし、反対に行動するなら、わたしたちは神に忠誠を保たなければならない。政府機構の主人たちは肉体的にしか支配しない、御言葉と聖霊によって支配しない、それは何故ならばパウロがまた同じように言う、『すべての人に彼らの求めに応じよ、税金を求める者には税を、復讐を求める者には復讐を、尊敬を求める者には尊敬を、栄誉を求める者には栄誉を』(Rom 13:7)。しかしもしあなたがたが、聞けあなたがた、皇帝の物を皇帝に与えよ、あなたがたが疑い無しにその事に信仰に泥をつけるようなこと無しにそれらにただ理解するなら、敬虔と宗教や良心に傷をつけること無くば、それは何時も信仰に有害なことをする皇帝に有徳の賛辞を払わないならそうして悪魔に。退治し殺すことを悪魔の自然の働きであるが;彼は最初からの人殺しであり(Jn 8:44)世界を戦争に扇動するなら。これらにクリスチャンは戦いの手伝いを出来ない、わたしたちはクリスチャンと呼ばれる評判を持つ。またキリストの名に於いて生れてから、わたしたちは完全に絶対に何もクリスチャン生活に於いて反対することを、実に何も為し得無い。

46. その時彼の弟子たちはサマリヤの町に入って行って夜を過ごすために宿を求めた。そしてその民は受けいれることを拒んだ、彼の弟子たちヤコブとヨハネは言った、「主よ、あなたはわたしたちの為に天からの火に命じて、エリヤのしたように、彼らを飲み尽くすことをお望みですか?」それでイエスは戻って来て彼らを叱りそして言った、「あなたがたはどう思いますかあなたがたのは聖霊の手方法でしょうか?『人の子が来たのは人々を破壊するためではなく、しかし彼らを救って生き返らせるためです』」(Lk 9:54-55; 2 Kings 1:10)。それで彼の追随者たちは誰をも破壊しない。多くの言葉は必要ない;それは復讐が明らかなことにキリストの王国に於いてそのような場所は無い、そしてどのクリスチャンにも戦争状態に従事させること無く、またそのような活動に与えること無しに、それではどのように彼の支配権は職務を保つのであろうか?それは何時もキリストとクリスチャンの方法を否定し無いことを求めることである。

 それは良くないと言われ、ダビデは王であって信心深く剣の力のために人々を訓練し、そして戦争に行った。その時弟子たちはエリヤの実例を引用したが、キリストは彼らを非難し、それをそのままに断った、そして言うには:『あなたがたは聖霊の方法を知らない、あなたがたは?』それゆえあなたは言うことが出来ないだろう:彼は神の霊を持ちキリストの霊も持ち。ここからキリストは弟子たちに両方の霊についてエリヤと旧約の民について見分けるように忠告する、クリスチャンのこの世に在る霊と両方について(Ps 51:12)。そこからパウロは言う、『わたしたちはこの世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けたのです』(1 Cor 2:12)。キリストは言うこの世は真理の霊を受けられなく、また彼を知ることも無いからです。「彼は言った、『彼を知れ、そして彼とあなたがたが一緒に住み御意志も共に(:知るように)』」(Jn 14:17)。

 ここに一人は神の霊を見分けるであろう:霊の実も(:原注、パウロが言うことの)愛も、喜びも、平和も、辛抱強さも、親切も、善良さも、信仰も、優しさ(:柔和)も、自制も、(Gal 5:22-23)。霊の実はこの世が憎むことである、敵意、闘争、ねたみ、激発的な怒り、戦い、口論、分裂、分派、(そねみ)殺人、(酔酒)大酒飲み、(浮かれ騒ぎ)貪食、それに類すること。聖霊はこの世に気が進まず、飛んで逃げ、偽善の仕業である彼がたかが知恵の規準の振りをしても(Wis1:5)。それで邪悪は上の手を執って、彼らの霊は彼らにおける些細ささいな口論で絶えず出発して拒絶し断るからである。しかしそれらをひどく嫌うこの世の霊は、それらの悪事から引く事をそしてそれらを憎しみを以って無秩序の群衆と一緒に長く属するものである(Gen 6:3)。

 クリスチャンの霊は断固とした優しさとおだやかな霊である(1 Pet 3:4);この世の霊は気まぐれで、賭博とばくの霊が荒く、悪霊的で、そう、復讐心に燃える霊。しかし、主のはそれらではなく、それの一つでもない;全く主は預言者エリヤに現れ、この指摘は彼の山の頂上にいる時に尋ねられ。「それで主は通り過ぎた、そして『主の前に、大きな強い風が山に於いて間借りした時に岩を破壊し一粒にし、しかし主は風の中にも居られず;風の後の地震にも居られず、;そして地震の後に火がそこに来てしかし主は火の中にも居られず、火の後に小さな(:低い穏やかな)声がまだなおあった』--そこに主は居られた」(1 Kings 19:11-12)。

 クリスチャンは新しい心と新しい霊とを以って神は彼らに心の奥の秘められたことを植え付けられる(Ps 68; Ezek 11:19; 36:26)。そして一つの霊を一つの杯から飲む(1 Cor 12:13)。しかし古い葡萄酒は保存されず、新しい葡萄酒は(Mt 9:17 and elsewhere)そしてキリストの霊でないものは彼のものではない(Rom 8:9)。それからわたしたちは識別することと注意することはそれらの霊はわたしたち子供たちの(Lk 9:55):この世のものではないのは、邪悪の霊が、信じない子供たちの中に今働いているからである、わたしたちすべては全てそのような肉と理由の内に一度は生きていた(Eph 2:3)、しかしキリストの霊は、そう、新約の霊の実行は復讐と破壊行為を人間の魂の、いつも彼らの救いとそれの保存堅持ほぞんけんじを求めることをさせる。

47. 群衆の一人がその時イエスに言った、『主人よ、わたしの兄弟が私と一緒に遺産を分けて呉れるようにお願いします』、イエスは彼に言われた、『人よ、誰がわたしに裁き人また分配人に任命したのか?』それだから彼は意味あることを言うには、『なぜこの世の事柄の口論の道にわたしが関係するのですか?わたしはそのような事、そのような裁きに関連して遣わされるために来たのではないことを』誰でも地上の事柄を求めるためにキリストは来たのではないことを示して、そしてそれから彼から支配者の得ることについてキリストは来たのではないことを、そのような事で弟子か修行者の弟子を彼が欲しクリスチャンも裁判官のような職務かまたはこの世の事の裁きを言い渡すための保持は可能では無いことを。しかし彼は敢えてこのような事のキリストの心と世俗の心(剣裁き)を両方は持てないことを示した。使徒たちもそのことについて言うには、『わたしたちはキリストの内なるものを持っているのです』(1 Cor 2:6)。

48. そのときイエスは人々が彼を持って武力を以って彼を王としようとしていることを知覚し、彼は逃れ脱出された(Jn 6:15)。彼は今までの慣例の部分とわたしたちを実例から、彼のために彼はすべての単純な選びから(1 Cor 1:27-28)--母、家、父の国、食物、着るもの--そうまったくそう、単純な身分が低いこの世俗から;何と身分の高い間の者たちを神は嫌悪しておられるか(Lk 16:15)。そしてそう彼はわたしたちの彼の足跡に従う者たちの欲望を知っておられたのか。その事に関し使徒は言う、それら彼がそう呼ぶものについて運命づけられて適合している印象を彼の子としてそれらを言ったのである(Rom 8:29)。それは何時も行動に就きさえもしなければ、キリストの足跡をののしる(Ps 89:51)。それは明らかにその人が世俗的な支配者でキリストの霊を持ってい無いかを彼のキリストによってどんなにクリスチャンによって意味し得ないことを意味するかを;し彼が霊を持っていたならば、彼は(:聖)職務を捨ててそれからクリスチャンで・な・い・世俗的な支配者になっていただろう。しかしもしあなたが王に成ろうとすれば、わたしはあなたに領域を見せたであろう--統治機構があなた自身ならば、あなたが保ち下で良き制御し、そしてあなたは真の王と成り、彼のために統治機構を大成功し彼自身偉大な最も力ある王と成るであろう。

49. キリストは淫行の理由で死の非難を受け裁きを通っている女に対する群衆をどうしても退けた(Jn 8:11)それにも拘らず、律法をそのような裁きのために支持した(:淫行女はヨハネ福音書に後代の付け加えであると思われるからである--近代の翻訳、新共同訳か新国際訳を参照の事)。彼はクリスチャンの可能な行動する神と共に是認する支配者の職務を通してでさえその両方とも請求しない。そのために『まさに父がわたしを世に送って下さった』、キリストは言う、『わたしはあなたがたのために遣わされた』(Jn 17:18; 20:21)。もしキリストがこの世に遣わされたのは君臨する王の為だとすると、君や主や権威の下に在って力を用いる者に、剣と豪華さをわたしたちより多く。彼が言うには、『僕は彼の主よりは偉大でなく、また遣わされた使者は彼を遣わした者より偉大でも無く』(Jn 13:16);それで彼は主として充分である。

50. その政府機構は律法のそして復讐の外的な奴隷である。『奴隷は家に永遠にいる訳ではない』、キリストが言うには(Jn 8:35)。そして喜びを共に出来ず、主人の継承権が、奴隷は子供のように継承権がない。『女奴隷は投げ出され、彼の息子もだ』聖書が言うには、『奴隷女の子は彼女もまたわたしの子イサクと共に継承に与らない』(Gen 21:10,12; Gal 4:30)。それから彼らは地上の市民権を取ることより自らを誇ってはならない。一緒に富んだ人はかれらは良い物をここで受けた、そして彼らの一部を持つか、彼らの報酬をこの人生で受けるか(Lk 16:25)。そして彼らは律法の奴隷身分を向こうへやること無しには、天での希望を前に見ることが出来ず、世俗のクリスチャンは、光の子供となる福音も見えることが出来ず、そう。二つの天を(:規準は一つ!!Ex 12:49)彼らは持つことが出来ないからである。

51. 『わたしの王国はこの世のものではない』。キリストはピラトに言われた、『そうでなければわたしの僕たちはわたしのために戦ったであろう』(Jn 18:36)。これから、わたしたちの王はイエス・キリストであって、霊的な王であり、霊的な支配領域である。そこから、彼の剣は肉体的なものではなくしかし霊的のものである。霊的王国では肉的な剣は雇用され無く。世俗的な支配者は肉の剣を振るうが、彼らの王国の領域はまたもや肉的である。それからすべて彼に剣や軍隊をもって彼ら自身を守ろうとしたが、キリストの国では確かに疑いなくそうでない。彼の奴隷たちはこれによって彼らの要地に就かなく、全く彼自身もそこで言うことには。そしてこの世に君臨しない、しかし世俗の支配機構は、それら二つのものはどちらも溶け込まないしまたそのようでない。そして彼らに口喧嘩がある、この世の王国で戦いと口喧嘩があり、それは彼らがクリスチャンでは無いことを明らかに指し示す。この世の王国は悪魔の領域であり;この世界の君であるキリストがまったく言う(Jn 12:31)。

52. 彼らがイエスを引っ張られ丘の崖にいる時、故意的に彼を真っ逆さまに投げ落とそうとし、イエスは彼等を通り過ぎられ向こうへ行った(Lk 4:29-30)。そこには彼は彼らに抵抗せよとは言われなかった、しばしばでさえ通り抜けて多くの人々が彼と一緒に居ても五千人も七千人も;彼はその御言葉と一緒に絶滅することさえできたにもかかわらず、彼らをイチジクの木のようにすることも出来たはずである、しかしイエスは抵抗を申し出なかった。パウロも彼がどんなにたくさん忍びそれらの手で、彼を信じる事を断った者が、彼の名前のために、五回も鞭打たれることを受け入れられ、棒鞭で打たれ、石で打たれたか。それは彼が彼自身をさらに一度も防御し無いことを言った、かまたは教会で、幾らかを大きく起こったものとして、彼ら自身が剣と一緒に武装したり、守ったり、おお、いいや!もし使徒たちが大騒ぎをする者を真っ逆さまに落とすとしたら、キリストの敵たちを剣と一緒に暴力的にも真っ逆さまに打つならそしてヱルサレムで使徒たちが征服するなら、誰もが強制的に彼らの信仰を受け入れさせるなら、なんと彼らの魂が(:使徒弟子たちの魂が神の前で)破滅するであろうか。そこには悪魔的な防御武装がクリスチャンらしかねるものであるのである。

53. 聖霊が鳩の形をとって舞い降りた(Mt 3:16 and elsewhere[:ほかの所も見よ])。信者の上に送られたのは鳩であり(Acts 2:4)それは他の動物を捕え、引き裂く猛獣の形では無かった、鳩(:原注、それは厚かましくないしかまたは苦々しくない)[がハヤブサに落ちないかまたは鷹か鷲か。または攻撃するほかの鳥か]。鳩は鳥の間で羊やその仲間に例えられる、それは他の少しの動物も傷つけることを望まないだけでなく、しかし猛禽によって攻撃されるのである--迫害し、攻撃し、そして鷲、鷹、ワタリガラス及び追加された鳥、ハヤブサの家族そして敵意の鳥によって、殺すことをされるのである。

脚注[編集]

  1. "and my son will not rule over you"『そうしてわたしの子はあなたがたの上を支配し無いであろう』was Left out in Friedmann,1967, but is in the original codex.