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正法眼蔵随聞記 第一
侍者 懐奘
一日示して曰く。續高僧伝の中に、ある禅師の会下に一僧あり。金像の仏とまた仏舎利をあがめ用ゐて、衆寮等にありても常に焼香礼拝し、恭敬供養しき。或る時禅師の云く、汝が崇むる所の仏像舎利は、後には汝がために不是あらんと。其の僧うけがわず。師云く、是れ天魔波旬の作す所なり、早く是れを棄つべし。其の僧憤然として出ぬれば、師すなはち僧の後に云ひ懸けて云く、汝箱を開いて是れを見るべしと。其の僧いかりながら是れを開いてみれば、毒蛇わだかまりて臥せりと。是れを以て思ふに、仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば、恭敬すべしといへども、また偏に是れを仰いで得悟すべしと思はゞ還って邪見なり。天魔毒蛇の所領となる因縁なり。仏説の功徳は定まれる事なれば、人天の福分となること、生身とひとしかるべし。総じて三報の胸懐を恭敬供養すれば、罪滅び功徳を得、また悪趣の業
をも消し、人天の果をも感ずることは實なり。是れによりて法の悟りを得んと思ふは僻見なり。佛子と云ふは佛教に順じて直に佛位に至る爲なれば、只教に隨ひて工夫辯道すべきなり。其の教に順ずる實の行と云ふは即今の叢林の宗とする只管打坐なり。是れを思ふべし。
亦云く。戒行持齋を守護すべければとて、強ひて宗として是れを修行に立て、是れによりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり。唯是れの衲僧の行履、佛子の家風なれば、隨ひ行ふなり。是れを能き事と云へばとて、必ずしも宗とすることなかれ。然あればとて、破戒放逸なれといふには非ず。若しまたかくの如く執せば邪見なり、外道なり。只佛家の儀式、叢林の家風なれば、隨順しゆくなり。是れを宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に、衆僧に見え來らず。實の得道のためには唯座禪工夫、佛祖の相傳なり。是れによりて一門の同學五限房、故葉上僧上の弟子が、唐土の禪院にて持齋をかたく守りて戒經を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり。
懷奘問うて云く。叢林學道の儀式は、百丈の清規を守るべきか。然あれば、彼れはじめに受戒護戒を以て先とすと見えたり。また今の傳來相承は根本戒をさづくとみえたり。當家の口訣面授にも、西來相傳の戒を學人にさづく。是れ便ち今の菩薩戒なり。然あるに、今の戒經に日夜に是れを誦せよと云へり。何ぞ是れを誦するを捨てしむるや。
師云く。しかなり。學人最も百丈の規繩を守るべし。然あるに、其の儀式は受戒護戒座禪等なり。晝夜に戒經を誦し、專ら戒を護持すと云ふは、古人の行履に隨ひて、只管打坐すべきなり。坐禪のとき何れの戒か持たざる、何れの功德か來らざる。古人行じおける所の行履、皆深き心なり。私の意樂を存せずして、衆に隨ひ古人の行履に任せて行じゆくべきなり。
或る時示して云く。佛照禪師の會下に一僧ありて病患のとき肉食を思ふ。照、是れを許して、食せしむ。ある夜自ら延壽堂に行きて見たまへば、燈火幽かにして、病僧亦肉を食す。僧は我が口に入ると思へども、我は食せずして、頭上の鬼が食するなり。然しより後は、病僧の肉食を好むをば、鬼に領せられたりと知りて、是れを許しきと。是れについて思ふに、許すべきか。許さざるべきか。斟酌あるべし。五祖演の會にも肉食のことあり。許すも制するも、古人の心皆其の意趣あるべきなり。
一日示して云く。人其の家に生まれ、其の道に入らば、先づ其の家業を修すべしと知るべきなり。我が道にあらず、己が分にあらざらんことを知り、修するは即ち非なり。今も出家人として便ち佛家に入り僧侶とならば、須く其の業を習ふべし。其の業を習ひ、其の儀を守ると云ふは、我執をすてゝ、知識の教に隨ふなり。其の大意は貪欲無きなり。貪欲なからんと思はば、先づ須く吾我を離るべきなり。吾我を離るゝには、無常を觀ずる是れ第一の用心なり。世人多く我れはもとより人に良しと’云はれ思はれんと思ふなり。然あれども、よくも云はれ、思はれざるなり。次第に我執を捨て、知識の言に隨ひゆけば、精進するなり。理をば心得たるように云うて、さはさにあれども、我れは其の事を捨てゑぬと云うて執し好み修するは、瀰よ沈淪するなり。禪僧のよくなる第一の用心は、只管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず、坐禪すれば自然によくなるなり。
示して云く。廣學博覽は、かなふべからざることなり。一向に思ひ切りて止むべし。唯一事について、用心故實をも習ひ、先進の行履をも尋ねて、一行をも專らはげみて、人師先達の氣色すまじきなり。
或る時奘問うて云く、如何是不昧因果底道理。師云く、不動因果なり。云く。なんとしてか脫落せん。師云く。因果歷然なり。云く。かくの如くならば、因果を引き起こすや。師云く。總べてかくの如くならば、かの南泉の貓兒を斬るがごとき、大衆既に道ひ得ず。便ち貓兒を斬卻しをはりぬ。後に趙州頭に草鞋を戴きて出たりし。亦一段の儀式なり。亦云く、若し南泉なりせば、即ち云ふべし。道ひ得たりとも便ち斬卻せん。道ひ得ずとも便ち斬卻せん。何人か貓兒をあらそふ。何人か貓兒を救ふと。大衆に代つて云はん。既に道ひ得ず。和尚貓兒を斬卻せよと。亦大衆に代つて云はん。和尚只一刀兩段を知りて、一刀一段を知らずと。奘云く。如何是一刀一段。師云く。貓兒是。亦云く。大衆不對の時、我れ南泉ならば、大衆既に道不得と云うて、便ち貓兒を放下してまじ。古人の云く、大用現前して軌則を存せずと。亦云く。今の斬貓は、是れ便ち佛法の大用現前なり。或は一轉語なり。若し一轉語にあらずば、山河大地妙淨明心と云ふべからず。亦即心即佛とも云ふべからず。便ち此の一轉語の言下にて、貓兒即佛身と見よ。亦此の詞を聽いて、學人も頓に悟入すべし。亦云く。此斬貓兒即是修行なり。喚んで何とか云ふべき。云く。喚んで斬貓と云ふべし。奘云く。是れ罪相なりや。否や。云く。罪相なり。奘云く。なにとしてか脫落せん。云く。別別無見なり。云く。別解脫解とはかくの如きを云ふか。云く。然り。亦云く。たゞしかくの如きの料簡、たとひ好事なりとも無からんにはしかじ。奘問うて云く、犯戒の語は、受戒已後の所犯を云ふか。唯亦未受已然の罪相をも犯戒と云ふべきか。如何。
師答へて云く。犯戒の名は、受後の所犯を云ふべし。未受已然所作の罪相をば、只罪相罪業と云うて犯戒とは云ふべからず。
問うて云く。四十八輕戒の中に、未受戒の所犯を犯と名くと見ゆ。如何。
答へて云く。然らず。彼れは未受戒の者。受戒せんとする時、所造のつみを懺悔するに、今の戒にのぞめて、前に十戒等を授かりて犯し、後亦輕戒を犯ずるをも犯戒と云ふなり。以前所造の罪を犯戒と云ふにはあらず。
問うて云く、今受戒せんとする時、前に造りし所の罪を懺悔せんが爲めに、未受戒の者に十重四十八輕戒を教へて讀誦せしむべしと見えたり。亦下の文に。未受戒の前にして說戒律すべからずと。此の二處の相違如何。
答へて云く、受戒と誦戒とは別なり。懺悔のために戒經を誦するは猶ほ是れ念經なり。故に未受者戒經を誦せんとす。彼れが爲めに戒經を說かんこと、咎あるべからず。下の文に、利養の爲めのゆゑに未受戒の前にして是れを說くことを制するなり。今受戒の者に懺悔せしめん爲めには、最も是れを教ゆべし。
問うて云く、受戒の時は七逆の受戒を許さず。先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ。如何。
答へて云く。實に懺悔すべし。受戒の時許さゞることは、且く抑止門とて抑ゆる義なり。亦上の文は、破戒なりとも還得受せば、清淨なるべし。懺悔すれば清淨なり、未受に同じからず。
問うて云く、七逆すでに懺悔を許さば、亦受戒すべきか。如何。
答へて云く、然り。故僧正自ら所立の義なり。既に懺悔を許す、亦是受戒すベし。逆罪なりとも、悔いて受戒せば授くべし。況や菩薩はたとひ自身は破戒の罪を受くとも、他の爲には受戒せしむべきなり。
夜話に云く、惡口を以て僧を呵嘖し毀呰すること莫かれ。設ひ惡人不當なりとも左右なく、惡み毀ることなかれ。先づいかにわるしと云とも、四人已上集會しぬれば、これ僧體にて國の重寶なり。最も歸敬すべきものなり。若くは住持長老にてもあれ、若くは師匠知識にてもあれ、弟子不當ならば慈悲心老婆心にて教訓誘引すベし。其の時設ひ打つべきをば打ち、呵嘖すベきをば呵嘖すとも、毀眥謗言の心を發すべからず。先師天童淨和尚住持のとき、僧堂にて衆僧坐禪の時、眠りを誡しむるに、履を以て打ち謗言呵嘖せしかども、衆僧皆打たるるを喜び讃歎しき。或る時亦上堂の次でに云く、我れ既に老後、今は衆を辭し菴に住して老を扶けて居るべけれども、衆の知識として各の迷を破り道を授けんがために住持人たり。是れに依りて、或は呵嘖の詞を出し、竹箆打擲等のことを行ず。是れ頗る怖れあり。然あれども佛に代て化儀を揚る式なり。諸兄弟慈悲を以て是れを許し給へと言ば、衆僧皆流涕しき。此くの如きの心を以てこそ、衆をも接し化をも宣ぶべけれ。住持長老なればとて、亂りに衆を領じ我が物に思ふて呵嘖するは非なり。況や其の人にあらずして人の短處を云ひ他の非を謗るは非なり。能く〳〵用心すべきなり。他の非を見て惡しゝと思ふて慈悲を以て化せんと思はゞ、腹立まじきやうに方便して、傍ら事を云ふやうにてこしらふべきなり。
亦物語に云く、故鎌倉の右大將、始め兵衛佐にて有し時、內裡の邊に一日はれの會に出仕の時、一人の不當人ありき。其の時の大納言おほせて云く、是れを制すべしと。大將の云く、六波羅に仰せらるべし、平家の將軍なりと。大納言の云く、近か近かなればなりと。大將の云く、其の人に非ずと。是れ美言なり。此の心にて後には世をも治められしなり。今の學人も其の心あるべし。其の人にあらずして人を呵すること莫かれ。
夜話に云く、昔魯仲連と云ふ將軍ありき。平原君が國に在て能く朝敵をたひらぐ。平原君賞して數多の金銀等を與へしかば、魯仲連辭して云く、只だ將軍のみちなれば敵を能く討つのみなり、賞を得て物をとらん爲めに非ずと云て、敢て取らずと云ふ。魯仲連が廉直とて名譽のことなり。俗猶ほ賢なるは我れ其の人として其の道の能をなすばかりなり。かはりを得んと思はず。學人の用心もかくの如くなるべし。佛道に入り、佛法の爲に諸事を行じて代に所得あらんと思ふべからず。內外の諸教に皆無所得なれとのみ勸むるなり。
法談の次に示して云く、設使我れは道理を以て云ふに、人はひがみて僻事を云ふを、理を攻めて云ひ勝はあしきなり。亦我れは現に道理と思へども、吾が非にこそと云うてはやくまけてのくもあればやなり。只人をも云ひ折らず、我が僻ことにも謂はず、無爲にして止みぬるが好きなり。耳に聽入れぬやうにして忘るれば、人も忘れて嗔らざるなり。第一の用心なり。
示して云く、無常迅速なり。生死事大なり。且つ存命の際、業を修し學を好まば、只佛道を行じ佛法を學すべきなり。文筆詩歌等其の詮なき事なれば捨べき道理なり。佛法を學し佛道を修するにも、猶ほ多般を兼學すべからず。況や教家の顯密の聖教、一向にさしおくべきなり。佛祖の言語すら多般を好み學すべからず。一事を專らにせんすら、鈍根劣器の者はかなふべからず。況や多事を兼て心操をとゝのへざらんは不可なり。
示して云く、昔し智覺禪師と云し人の發心出家のこと。此の師は初は官人なり。才幹に富み正直の賢人なり。國司たりし時官錢をぬすみて施行す。傍人是を帝に奏す。帝聞て大に驚怪す。諸臣も皆あやしむ。罪過すでに輕からず、死罪におこなはるべしと定まりぬ。爰に帝議して云く、此臣は才人なり、賢者なり。今ことさらに此の罪を犯す。若し深き心あるか。頸を截らんとき、悲み愁へたる氣色あらば速かに截るべし。若し其の氣色なくんば、定めて深き心あらん、截るべからずと。敕使引き去りて截らんとする時少しも愁ふる氣色なし、還りて喜ぶ氣色あり。自ら云く、今生の命は一切衆生に施すと。敕使驚き怪みて帝に奏聞す。帝云く、然り、定めて深き心有らん、此の事あるべしと兼ねて是れを知ると。依りて其の志を問ふ。師云く、官を辭して命を捨て施を行じて衆生に緣を結び、生を佛家に受けて、一向に佛道を行ぜんと思ふと。帝是れを感じて許して出家せしむ。故に延壽と名を賜ふ。殺すべきをとゞむる故なり。今の納子も是れほどの心を一度發すべきなり。命を輕んじ衆生を憐む心深くして、身を佛制に任せんと思ふ心を發すベし。若し先きより此の心一念も有らば失なはじと保つべし。是れほどの心一度おこさずして佛法を悟ることは有べからざるなり。
夜話に云く、祖席に禪話をこゝろへる故實は、我が本より知り思ふ心、次第次第に知識の詞に隨ひて改めもて行なり。假令佛と云ふは、我が本より知たりつるやうは、相好光明具足し說法利生の德ありし釋迦彌陀等を佛と知りたりとも、知識若し佛と云ふは、蝦蟆蚯蚓ぞと云はゞ、蝦蟆蚯蚓を是れぞ佛と信じて日比の知解を捨つべきなり。此の蚯蚓の上に佛の相好光明、種種の佛の所具の德を求むるも猶ほ情見あらたまらざるなり。只當時の見ゆる處を佛と知るなり。若し此くの如く詞に隨ひて情見本執をあらためもて行かば自ら契ふ處あるべきなり。然あるに近代の學者、自らの情見を執し己見を本として佛とはかうこそあるべけれと思ひ、亦吾が存ずるやうに差へば、さはあるまじいなんどゝ云うて、自らが情量に似たることやあらんと迷ひありくほどに、大方佛道の精進なきなり。亦身を惜まずして百尺の竿頭に上りて、手足を放て一步を進めよと云ふ時は、命ありてこそ佛道も學すべけれと云うて、真實に知識に隨順せざるなり。能く〳〵思量すべきなり。
夜話に云く、世間の人も衆事を兼學して、いづれも能くせざらんよりは、只一事を能くして人前にしてもしつべきほどに學すべきなり。況や出世の佛法は、無始より以來修習せざる法なり。故に今もうとし。我か性も拙なし。高廣なる佛法にことの多般を兼ぬれば、一事をも成すべからず。一事を專らにせんすら、本性昧劣の根器、今生に窮め難し。努力學人一事を專らにすべし。
奘問うて云く、若し然らば何ごといかなる行か、佛法に專ら好み修すべき。師云く、機に隨ひ根に順ふべしと云へども、今祖席に相傳して專らする所は坐禪なり。此の行、能く衆機を兼ね上中下根ひとしく修し得べき法なり。我れ大宋天童先師の會下にして此の道理を聞いて後、晝夜に定坐して極熱極寒には發病しつべしとて、諸僧しばらく放下しき。我れ其の時自ら思はく、設ひ發病して死すべくとも、猶ほ只是れを修すベし。病無うして修せず、此の身をいたはり用ゐてなんの用ぞ。病ひして死せば本意なり。大宋國の善知識の會下にて修し死に死してよき僧にさばくられたらんは、先づ勝緣なり。日本にて死せば、是れほどの人に如法佛家の儀式にて沙汰すべからず。修行していまだ契悟せざらん先に死せば、結緣として生を佛家に受くべし。修行せずして身を久く持ちても詮無きなり。なんの用ぞ。況や身を全うし病ひ起らじと思はんほどに、知らず亦海にも入り橫死にもあはん時は、後悔いかん。此くの如く案じつゞけて、思ひ切て晝夜端坐せしに、一切に病發らず。今各も一向に思ひきりて修して見よ。十人は十人ながら得道すべきなり。先師天童の勸めかくの如し。
示して云く、人は思ひ切りて命をも棄て、身肉手足をも截ることは、中々せらるゝなり。然あれば世間の事を思ふに、名利執心の爲めにも多くかくの如く思ひ切るなり。只依り來る時に事に觸れ物に隨ひて心品を調ふること難きなり。學者身命を捨てると思うて且くおしゝづめて、云ふべきことをも修すべきことをも、道理に順ずるか順ぜざるかと案じて、道理に順ぜば云ひ若くは行じもすべきなり。 示して云く、學道の人衣糧を煩ふこと莫かれ。只佛制を守りて、世事を營むこと莫かれ。佛の言く、衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり。いづれの世にか此の二事の盡くること有らん。無常迅速なるを忘れて徒らに世事に煩ふこと莫かれ。露命の且く存ぜるあひだ、佛道を思うて餘事をことゝすること莫かれ。
有人問うて云く、名利の二道は捨雕し難しといへども、行道の大なる礙りなれば捨てずんばあるべからず。故に是れを捨つ。衣糧の二事は小緣なりと云へども行者の大事なり。糞掃衣常乞食は是れ上根の所行、亦是れ西天の風流なり。神丹の叢林には常住物等あり。故に其の煩ひ無し。我が國の寺院には常住物なし。乞食の儀も即ち絕えて傳はらず。下根不堪の身、いかがせん。然あらば豫が如きは、檀信の信施を貪らんとするも、虛受の罪隨ひ來る。田商土工を營むは是れ邪命食なり。只天運に任せんとすれば果報亦貧道なり。飢寒來らん時、是れを愁ひとして行道を礙へつべし。或人諌めて云く、儞が行儀はなはだし、時を知らず機をかへり見ざるに似たり。下根なり、末世なり。かくの如く修行せば、亦退轉の因緣となりぬべし。或は一檀那をも相かたらひ、若くは一外護をもちぎりて、閑居靜處にして一身をたすけて、衣糧に煩ふこと無く靜に佛道を行ずべし。是れ便ち財物等を貪るに非ず。暫時の活計を具して修行すべしと。此の詞を聞くと云へどもいまだ信用せず。かくの如きの用心いかん。
答へて云く、但夫れ衲子の行履、佛祖の家風を學ぶべし。三國ことなりといへども、真實學道の者いまだ此くの如きの事あらず。只心を世事に執着すること莫かれ。一向に道を學すべきなり。佛の言く、衣鉢の外は寸分も貯へざれ、乞食の餘分は飢ゑたる衆生に施せ、設ひ受け來るとも寸分も貯ふべからず。況や馳走あらんや。外典に云く、朝に道を聞いて夕べに死すとも可なりと。設ひ飢ゑ死に寒へ死にすとも、一日一時なりとも佛教に隨ふべし。萬劫千生、幾回か生じ幾度か死せん。皆な是れ世緣妄執の故なり。今生一度佛制に隨ひて餓死せん、是れ永劫の安樂なるべし。いかに況や未だ一大藏教の中にも三國傳來の佛祖、一人も飢ゑ死にし寒へ死にしたる人ありときかず。世間衣糧の資具は生得の命分ありて求めに依りても來らず、求めざれども來らざるにも非ず。只任運にして心に挾むこと莫かれ。末法なりと謂うて今生に道心發さずば、何れの生にか得道せん。設ひ空生迦葉の如くにあらずとも、只隨分に學道すべきなり。外典に云く、西施毛嫡にあらざれども色を好む者は色を好む、飛兔綠耳に非ざれども馬を好む者は馬を好む、龍肝鳳髓にあらざれども味を好む者は味を好む。只隨分の賢を用ゐるのみなり。俗なほ此の儀あり。佛家亦かくの如くなるべし。況や亦佛二十年の福分を以て末法の我らに施す。是れに依りて天下の叢林、人天の供養絕えず。如來神通の福德自在なるも、馬麥を食して夏を過しましましき。末法の弟子、豈に是れを慕はざらんや。
問うて云く、破戒にして虛しく人天の供養を受け、無道心にして徒らに如來の福分を費やさんより、在家人に隨うて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何。
答へて云く、誰か云ひし破戒無道心なれと。只強ひて道心を發し佛法を行ずべきなり。いかに況や持戒破戒を論ぜず、初心後心を分たず、齊しく如來の福分を與ふとは見えたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見えず。誰人か初めより道心ある。只かくの如く發し難きを發し、行じがたきを行ずれば、自然に增進するなり。人々皆佛性あり。徒らに卑下すること莫かれ。亦文選に云、一國爲一人興、先賢爲後愚廢と。言ふこころは、國に賢者一人出來れば其の國興る、愚人ひとり出來れば先賢のあと廢るゝなり。是れを思ふべし。
雜話の次に云く、世間の男女老少、多く交會婬色等の事を談ず。是を以て心を慰むるとし興言とすることあり。一旦意をも遊戲し徒然も慰むるに似たりと云ふとも、僧はもつとも禁斷すべきことなり。俗猶ほよき人、まことしき人の、禮儀をも存じ。げにげにしき談の時、出來らざることなり。只亂醉放逸なる時の談なり。況や僧は專ら佛道を思ふべし。雜語は希有異體の亂僧の云ふことなり。宋土の寺院なんどには、都て雜談をせざれば、其のやうなることをも云はざるなり。吾が國も近ごろ建仁寺の僧正存生の時は、一向あからさまにも此くの如きの言語出來らず。滅後にも在世の時の門弟子等少々殘りとゞまりたりし時は、一切に云はざりき。近ごろ此の七八年より以來、今出の若き人たち時々談ずるなり。存外の次第なり。聖教の中にも、麁強惡業、令大覺悟、無利言說、能障正道とありて、只うち出して云ふところの言葉すら、無利の言說は障道の因緣なり。況やかくの如きの言語はことばに引れて即ち心も起りつべし。最も用心すべきなり。故¥らにかくなん云はじとせずとも、惡しきことゝ知りなば、漸々に對治すべきなり。
夜話に云く、世人多く善事を作す時は人に知られんと思ひ、惡事を作す時は人に知れじと思ふに依りて、此の心冥衆の心に合はざるに依りて、所作の善事には感應なく、密に作す所の惡事には罰あるなり。是によりて還りて自ら謂く、善事には驗なし、佛法の利益すくなしと思へるなり。是れ即ち邪見なり。最も改むべし。人も知らざる時に密に善事をなして惡事を錯りて、後に發露してとがを悔ゆ。便ち密々になす所の善事には感應あり、露るゝ惡事は懺悔せられて罪滅する故に、自然に現益もあるなり。當果をも亦知るべし。
爰に或る在家人來りて問うて云く、近代在家人衆僧を供養し佛法を歸敬するに、多く不吉のこと出來るに依つて、邪見起り三寶に歸せじと思ふ、いかんと。
答へて云く、是は衆僧佛法の咎にはあらず、便ち在家人自らの錯なり。其の故は、假令人目ばかりに持戒持齋の僧をば貴び供養じ、破戒無慚の飲酒食肉等するをば不當なりと思うて供養せず。此の差別の心、寔に佛意にそむけり。故に歸敬の功もむなしく、感應もなきなり。戒の中にも處々に此の心を誡めたり。僧ならば德の有無を擇らばず只供養すべきなり。殊に其の外相を以て內德の有無を決定すべからず。末世の比丘いさゝか外相尋常ならぬ處見ゆれども、亦是れにまされる惡心も惡事もあるなり。然る間よき僧あしき僧を差別し思ふこと無うして、佛弟子なれば貴びて平等の心にて供養歸敬もせば、必ず佛意に契うて利益もひろかるべし。亦冥機冥應顯機顯應等の四句あることを思ふべし。亦現生後報等の三時業のこともあり。是れらの道理、能く〳〵學すべきなり。
夜話に云く、若し人來て用事を云ふ中に、或は人にものをこひ、或は訴訟等のことをも云はんとて、一通の狀をも所望すること出で來ること有んに、其の時我れは非人なり遁世籠居の身なれば、在家等の人に非分のことを云はんは非なりとて、眼前の人の所望をかなへずば、實に非人の法には似たれども、其の心中をさぐるに、猶ほ我れは遁世非人なり、非分のことを人に云はゞ人定めてわるく思ひけんと云ふ道理を思うて聽かずんば、なほ是れ我執名聞なり。只其の時に臨んで能く〳〵思量して、眼前の人の爲めに一分の利益となるべき事をば、人のあしく思はんことをも顧ずなすべきなり。此のこと非分なり、わるしとて、疎みもし中をもたがはんも、かくの如くの不覺の知音、中たがはん事何か苦るしかるべき。外には非分の僻事をすると人には見ゆるとも、內には我執を破り名聞を捨つる、第一の用心なり。佛菩薩は人の來りて請ふときは身肉手足をも截れり。況や人來りて一通の狀をこはんに、名聞計りを思うて、其の事を聞かぬは、是れ我執深きなり。人人ひじりならず、非分の事を云ふ人かなと、所詮なく思ふとも、我れは名聞を捨てゝ、一分の人の利益とならば、真實の道に相應すべきなり。古人も其の義あるかと見ゆること多し。我も其の義を思うて、少々檀那知音の思ひかけざる事を人に申傳へて給はれと云ふ事をば、文一通遣りて一分の利益を作すは易きことなり。
奘問うて云く。此のこと寔に然り。たゞし善事にて人の利益とならんことを人にも云ひ傳へんは最もなるべし。若し僻事を以て人の所帶を取んと思ひ、或ひは人の爲めにあしき事を云はんをば、云ひ傳ふべきや。如何ん。
師云く、理非等のことは我が知るべきに非ず。只一通の狀を乞へば與ふれども、理非に任せて沙汰あるべき由をこそ人にも云ひ、狀にも載すべけれ。請け取りて沙汰せん人こそ理非をば明らむべけれ。吾が分上にあらぬ此くの如きのことを、理を枉げてその人に云はんことも亦非なり。亦現の僻事なれども我れを大事にも思ふ人にて、此の人の云はんことは善惡たがへじと思ふほどの知音ありて、檀那の處へ、ひがことを以て不得心の所望をなさば、其れを只今その人より所望のことを一往聞くとも、彼の狀には、去り難く申せば申すばかりなり、道理に任せて沙汰あるべしと書くべきなり。一切に是なれば彼れも是れも遺恨あるべからざるなり。此くの如くのこと、人に對面をもし出來ることにつきて能く〳〵思量すべきなり。所詮は事に觸れて名聞我執を捨つべきなり。
夜話に云く、今世出世間の人、多分は善事をなしてはかまへて人に知られんと思ひ惡事を作しては人に知られじと思ふ。是に依りて內外不相應のこと出來たる。あいかまへて內外相應し、錯りを悔ひ、實德をかくして外相をかざらず、好事をば他人にゆづり惡事をば己れにむかふる志氣あるべきなり。
問うて云く、實德を藏し外相を飾らざらんこと、寔とに然るべし。但し佛菩薩は大悲利生を以て本とす。無智の道俗等、外相の不善を見て是を謗り難ぜば、謗僧の罪を感ぜん。實德を知らずとも外相を見て貴び供養せば、一分の福分たるべし。是れらの斟酌いかなるべきぞ。
答へて云く、外相を飾らずとて、即ち放逸ならば亦是れ道理に差ふ。實德を藏すと云ふて在家等の前にて惡行を現ぜん、亦是れ破戒の甚しきなり。只希有の道心者、道者の由を人に知られんと思ひ、身にある失を人に知られじと思へども、諸天善神及び三寶の冥に知見する處なり。夫れをば愧ぢずして世人に貴びられんと思ふ意を誡むるなり。只時にのぞみ、事に觸て、興法の爲め利生の爲めに諸事を斟酌すべきなり。擬して後に云ひ思て後に行じて、卒暴なること莫かれとなり。一切のことにのぞんで道理を案ずべきなり。念々止まらず、日々遷流して無常迅速なること、眼前の道理なり。知識經卷の教へを待つべからず。只念々に明日を期することなく、當日當時ばかりを思ふて、後日は太だ不定なり。知り難ければ、只今日ばかり存命のほど佛道に隨はんと思ふべきなり。佛道に隨ふと云ふは興法利生の爲に身命を捨てゝ諸事を行じもてゆくなり。
問うて曰く、佛教のすゝめに隨はゞ乞食等を行ずべきか。如何。
答ふ、然あるべし。たゞし是れは土風に隨ひて斟酌あるべし。なにゝても利生も廣く我が行もすゝまんかたにつくべきなり。是れらの作法、道路不淨にして、佛衣を着して經行せばけがれっべし。亦人民貧窮にして、次第乞食もかなふべからず。行道も退きつべく利益も廣からざらんか。只土風をまもり尋常に佛道を行じ居たらば、上下の輩自ら供養を作し、自行化他成就せん。此くの如きの事も、時に望み事に觸れて道理を思量して、人目を思はず自らの益を忘れて、佛道利生の爲に能きやうに計らふべし。
示して云く、學道の人、世情を捨つべきについて、重々の用心あるべし。世をすて家をすて身をすて心を捨つるなり。能く〳〵思量すべきなり。世を遁れて山林に隱居すれども、吾が重代の家を絕やさず家門親族のことを思ふもあり。亦世をものがれ家をもすてゝ親族境界をも遠離すれども、我が身を思うて苦しからんことをばせじ、病起るべからん事は佛道なりとも行ぜじと思ふも、いまだ身を捨ざるなり。亦身をも惜まず難行苦行すれども、心佛道に入らずして我が心に差ふことをば佛道なれどもせじと思ふは、心を捨てざるなり
正法眼藏隨聞記 第一 終