初等科國語 五/「あじあ」に乘りて

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「あじあ」に乘りて[編集]

 九時だいれん發の「あじあ」に、ぼくは乘つた。見送りに來た母が、大勢の人にまじつて見える。
「おかあさん、行つてまゐります。」
ぼくが手をあげると、母もあげた。窓を開くことができないので、ぼくのこのことばも通じないらしい。母も何かいつてゐるやうだが、こちらにはわからない。「あじあ」は流れるやうに動きだした。ぼくは、この春休みにハルピンのをぢのところへ行くのである。一度乘つてみたいと思つてゐたこの汽車に乘れて、ほんたうにうれしい。
 やがて金州にさしかかると、車掌さんが説明する。
「右手はだいをしやうざんで、關東州第一の高山、その手前の岡  に、のぎかつすけちゆうゐきねんひがあるので  す。左には、金州城が手に取るやうに見えます。」
 雪の少い南滿洲の畠はよく耕されて、農家がぼつぼつ見える。えんせんやなぎの木に、かささぎがをいくつも掛けてゐる。ぼくがそれを見てゐると、
「何を見てゐるの。」
と、後から聲を掛けた者がある。ロシヤ人の女の子だ。
「あのかささぎの巣を見てゐるのさ。」
しかし、「かささぎ」といふ日本語がわからないらしい。「鳥の巣。」といつたら、すぐわかつた。この子は新京へ母と歸るところで、マルタといふ名ださうだ。
「おかあさんは、あそこ。」
と指さしたところに、みどり色の上着を着たロシヤ婦人が本を讀んでゐる。
 ゆうがくじやうに近づくと、ばうせうざんが見えだした。あの山の傳説を話してあげようといへば、マルタはお晝御飯をたべながら、母といつしよに聞きたいといふ。三人は食堂車へはいつた。ロシヤ少女が、給仕をして働いてゐた。
「昔、母と子と二人暮しの家があつた。むすこは、勉強のため山東へ渡つ  て行つた。何年かたつて、もう歸つて來るころになつたので、年寄つた母  は、毎日毎日望小山へのぼつて待ち續けた。むすこは、一生けんめいに  苦學したかひがあつて、りつぱな身分になり、いよいよ故郷へ歸ることに  なつた。ところが、途中海が荒れて、むすこは船とともに沈んでしまつた。  母は、そんなこととはつゆ知らず、風の日も雪の日も待つてゐたが、とう  とう山の上でなくなつたといふ。」
 大石橋で始めて停車した。ホームへ出ると、風がつめたい。車掌さんが、ボーイに、「もう少し、車内の温度をあげてくれたまへ。」といひつけてゐた。
 北の方では、二三日前に雪が降つたので、遠い山の峯が白くなつてゐる。何だか空がくもつて來た。あんざんの製鋼所から茶色の煙が立ちのぼり、ほのほが勇ましく見える。まもなく、れうやうの白塔が眺められた。落ち着いた、美しい形である。たいしかを渡る。「あじあ」は防音さうちがしてあるので、鐵橋を渡る響きが車内にやかましくは聞えない。
「スタンプを押しませんか。」
ボーイがさういつて來たので、ぼくは、てちやうに「あじあ」のスタンプを二つ押してもらつた。
 奉天に着いた。 ここから安東・きつりんぺきんへ、鐵道が分れるので、列車がいくつも止つてをり、滿人の赤帽がいそがしさうに荷物を運んでゐる。驛前には、馬車や自動車が行つたり來たりしてゐる。ここで、兵隊さんがどやどやと乘つた。奉天はまことに平な大都市で、ただほくりようの松林が小高く見えるだけである。
 雲が切れて、日光がさして來た。雲はしきりに流れて、早春の畠を、野を、そのかげがはつて行く。「あじあ」は、雲のかげを追ひ越したり追ひ越されたりして、滿洲の大平野をまつしぐらに突進す。
 しへいに着く。ここからチチハルへ線が分れる。冬になると、この大きな停車場に、大豆の山が積まれるさうだ。
 やがて、一人の兵隊さんがぼくに、
「あそこの岡を知つてゐるかね。あれはこうしゆれいで、昔、ロシヤのコサック兵は、あそこで敎練したのだが、今は農事しけんぢやうのひつじや牛が、かけつこをしてゐる。」
と、元氣よく話しながら、日にやけた顔で笑つた。向かふの農家に、滿洲國旗がひらめいてゐる。そばで、滿人たちがかうさくの手を休めて、こちらを眺めてゐる。
「汽車のかげが長くなつた。」
と、マルタがいふ。汽車のかげだけではない。電柱のかげも木のかげも、ずつと延びた。「あじあ」は、一氣に國都新京へせまつて行く。遠く國務院や、關東軍司令部の建物が夕日にはえ、新しい住宅があざやかに見える。
 兵隊さんたちは新京で下車した。ぼくがおじぎをすると、みんな元氣よくきよしゆをする。マルタも、おかあさんといつしよにおりて行つた。急に車内がさびしくなる。
「さやうなら。」「さやうなら。」
マルタは、とびあがりながら手を振つた。
 大きな赤い夕日が沈むところだ。夕日とぼくとの間には、さへぎるもの一つない。あすまた、お日樣、ごきげんよう。烏の群が地上から飛びあがつた。薄むらさきの夕空には、ばら色の雲がたなびいた。それを見てゐたら、母を思ひ出した。夕食して、母に手紙を書かうと思つて、食堂車へ行つた。
 しよくたくには、電燈が明かるくついてゐる。ロシヤ少女の給仕が、ぼくの顔を見覺えてゐて、にこにこしながら食事を運んでくれる。どこか知らない驛に停車した。大きな木の上に星が光つてゐる。「あじあ」のしるしのはいつた用紙に手紙を書いて、晝間押してもらつたスタンプを入れて、ボーイに頼んだ。席に歸ると急に眠くなつて來た。
 ふと氣がつくと、「あじあ」はいつのまにか町へはいつてゐた。さうして、時間表通り二十一時三十分に、ハルピン驛にぴたりと停車した。ぼくが急いでおりると、突然、
「やあ、よく來たね。一人でよく來たね。」
と、をぢの聲。ぼくの手は、がつしりとにぎられてゐた。
 眞冬のやうに寒い夜だ。空には、半月がさえかへつてゐた。