初等科國史/下/第十一 うつりゆく世

第十一 うつりゆく世[編集]

一 海防[編集]

幕府が國を鎖して、およそ百五十年の間に、海外の形勢が、すつかり變りました。まづ、オランダが盛んになり、一時は、世界中の貿易を獨占するのではないかと思はれるほどでしたが、あまりに利益をむさぼつて、各地の人々からきらはれ、かつ海軍が振るはないため、しだいに衰へてしまひました。これに代つて榮えたのが、イギリスであります。

イギリスは、東山天皇の御代、富士に寶永山ができた年に、本國が一だんと大きくなり、勢に乘じて、インドの侵略を進めました。また、北アメリカから、オランダやフランスの勢力を追ひ拂つて、その產物や貿易の利益を占め、やがて、世界でいちばんゆたかな國になりました。ところで、イギリスは、北アメリカへ渡つた移民に對し、いろいろむごい仕打ちをしましたので、それら移民は、つひに反旗をひるがへし、本國から獨立して、新たにアメリカ合衆國といふ國を建てました。光格天皇の天明年間、今から百六十年ばかり前のことであります。

一方ロシヤは、わが天正のころから、シベリヤの侵略を始めてゐました。どしどしと東へ手をのばし、やがて滿州の北境にせまりました。そこから更に南へくだつて、どこかに不凍港を得ようとするのです。そのころ、滿州や支那を治めてゐた淸は、兵を出してたびたびこれを退け、條約を結んで外興安嶺を國境と定めました。ロシヤは、仕方なく進路を東へ轉じて、カムチャッカ半島を占領しました。これもちやうど、わが國では、寶永山のできた年に當ります。ここを根城にして、なほ東の方、アリューシャン列島からアラスカを侵略し、更に南下して、千島列島をうかがひ、イルクーツクに日本語學校を設置するなど、わが國を侵略する準備を整へました。寛政四年、ロシヤの施設が根室へ來たのは、かうした野心の現れであります。

幕府は北方が危いと知つて、急いで海防の手配りをし、近藤重藏に蝦夷地を巡視させ、高田屋嘉兵衞に擇捉島で漁場を開かせ、また伊能忠敬に蝦夷地の測量を命じました。更に、箱館奉行を置き、南部・津輕の二藩にも、北方の警備を命じました。やがて文化元年、またもやロシヤの使節が長崎へ來て通商を求めましたが、千島・樺太に對するロシヤの壓迫は、このころ一だんと加りました。幕府は、沿海の諸藩に命じて、ますます海防をきびしくさせ、亂暴をはたらいた外國船の打ち拂ひを許すことにしました。また、箱館奉行を松前奉行と改め、仙臺・會津二藩の兵を警備に加へて、北方の守りを固めました。間宮林藏が、幕府の命を受けて、樺太や沿海州を探檢したのも、この時のことであります。
北方の警備
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折も折、イギリスの軍艦が、長崎港をおそつて亂暴をはたらき、時
韮山の反射爐
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韮山の反射爐

の長崎奉行松平康英が、責任を感じて切腹するさわぎが起りました。その後英艦は、しきりにわが近海に出沒し、仁孝天皇の文政元年に、シンガポールを占領してから、その亂暴は、いよいよ激しくなりました。國民は、大いにこれを憤り、攘夷の氣勢が、年とともに高まつて行きました。幕府も、つひに決心して、文政八年「わが近海に近よる船は、見つけしだい、これを打ち拂へ。」との命令をくだし、高島四郞太夫・江川太郞左衞門らを用ひて、新しい兵器や戰術を硏究させ、軍備の充實をはかりました。

諸大名の中でも、水戶の德川齊昭を始め、薩摩の島津齊彬、佐賀の鍋島直正、福井・宇和島・津の諸藩主など、盛んに攘夷をとなへ、かつ海防のことにつとめました。わけても齊昭は、光圀の志をついで、尊王の心に厚く、弘道館といふ學校を建てて、大いに文武の道をはげまし、盛んに大砲を造つて、攘夷の準備を整へました。

ところが、このころ、幕府も大名も、いつぱんに費用がとぼしく、十分な軍備を整へることができません。また、長い間の太平になれて、人々の心は、なかなか引きしまらず、一時あがつた攘夷の氣勢も、とかくにぶりがちです。その上、天保年間には、全國に飢饉があり、大鹽平八郞が亂を起し、老中水野忠邦の政治改革も評判がよくないといふ有樣です。しぜん、渡邊崋山や高野長英のやうに、開港をとなへるものも現れました。これらの人々は、洋學をまなんで、ひととほり海外の形勢を知つてゐましたので、しばらく攘夷をひかへて通商を許し、まづ國力を養ふことが大切であると考へたのです。幕府は、人々の心をまどはすものとして、これを罰しました。

やがて天保十一年、ちやうど紀元二千五百年に、淸と英國との間に阿片戰爭が起り、淸のやぶれたことが、わが國へ傳はりました。幕府は驚いて、天保十三年、前に出した外國船打ち拂ひの命令をゆるめました。英國は、淸と條約を結んで香港を取り、東亞を侵略する根城を、更に加へたのであります。この形勢を見て、佐久間象山や高島四郞太夫は、國防充實の必要をとなへ、佐藤信淵も、國力を養ひ、進んで南方に根城を構へ、淸と結んで西洋諸國の侵略を防がなければならないと說きました。それに、弘化元年には、オランダが使節を來朝させ、淸のやぶれたやうすをくはしく述べて、しきりに開國をすすめますし、米國も東亞へ手をのばし、淸と通商條約を結ぶ有樣です。幕府は、文化・文政から天保にかけての四十年の間に、すつかり衰へました。オランダの申し出をこばんで、海防につとめながらも、鎖國か開國かに迷ひ始めました。
孝明天皇
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孝明天皇

しかもこの間に、御稜威のもと、攘夷の實行を說く尊王攘夷論が、水戶藩を中心に、猛然と起りました。幕府のあいまいな態度を責める聲が、日ごとに高まつて行きます。かうした中に、弘化三年、孝明天皇が、御年十六歲で、御位をおつぎになつたのであります。

二 尊皇攘夷[編集]

 孝明天皇御製
  あさゆふに民やすかれと思ふ身の
      こゝろにかかる異國のふね

かしこくも孝明天皇は、國初以來かつてない困難な時勢に際し、たじろぐ幕府をはげまし、ふみ迷ふ民草をみちびいて、ひたすら難局の打開に、おつとめになりました。特に、外交の事については、日
黑船の來航
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黑船の來航

夜御心を用ひさせられ、わが國威を傷つけないやうにと、つねに幕府をおさとしになりました。

天皇が御位をおつぎになつたころ、わが港灣をうかがふ外夷には、新たにアメリカ合衆國が加りました。アメリカは、獨立後西方へ領土をひろめ、嘉永元年には、つひに太平洋岸に達しました。しかも、太平洋における活動の基地をわが國に求め、嘉永六年、ペリーを使節として、通商をせまつて來ました。

ペリーは、戰艦四隻を率ゐ、途中小笠原諸島や琉球列島の占領をもくろみながらも、ひとまづ浦賀に錨を投じ、盛んに空砲を放つて人々をおびやかし、幕府に國書をさし出しました。その夜、浦賀の山々、海岸一たいに、かがり火がもえさかり、夜通し警鐘が鳴り響いて、ものものしい光景を呈しました。幕府は、事重大と見て、返答を翌年に延し、やつとペリーをかへしたのち、ただちにこの事を朝廷に奏上しました。

一方幕府は、諸大名の意見をききましたが、攘夷論が盛んであるのにかんがみ、攘夷の方針を立て、ひたすら海防につとめ、鎖國以來堅く禁じてゐた大船の建造も、この際に許すことにしました。ペリーが來た翌月、ロシヤの使節もまた長崎へ來て、通商を求めましたが、これも後日を約して、引き取らせました。

早くも年が改つて、安政元年となり、ペリーは、ふたたび神奈川沖へ來て、返答を求めました。ところが幕府は、海防に自信がないので、攘夷の決心もくじけ、とりあへず和親條約を結び、下田・凾舘の二港を開いて、燃料や食料などの供給を約束しました。ついで、イギリス・ロシヤ・オランダとも、ほぼ同樣の條約を結び、ロシヤとの國境問題は、千島を分有、樺太を共有と定めました。

安政三年、和親條約に基づき、米人ハリスが、總領亊として着任し、やがて、將軍家定に謁して、丗界の形勢を說き、たくみに通商をすすめました。幕府もつひにこれを認め、通商條約の草案を作つて、安政五年、勅許を仰ぎました。ところで、諸藩の閒には、かねて攘夷の氣勢が强く、幕府が和親條約を結んだことさへ、非難の的になつてゐる際です。天皇は、國民の意見がまちまちであるのを、たいそう御心配になり、なほよく諸大名との評定をつくすやうにと、おさとしになりました。幕府は、進退きはまり、彥根藩主井伊直弼を大老に擧げて、この難局に當らせました。

このころ、英・佛の聯合軍が、淸を破つて、天津の砲臺をおとしいれ、勝ちに乘じて、わが國をおそふとのうはさが傳はりました。ハリスは、この形勢を說いて、條約の調印をせまります。直弼は、事を長引かせてはかへつて不利と思ひ、つひに勅許を待たずに「安政の假條約」に調印し、ついで、オランダ・ロシヤ・イギリス・フランスとも、ほぼ同樣の條約を結びました。しかも、この條約は、函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の五港を開いて貿易を許したことのほかに、わが國にとつて、ずゐぶん不利な點の少くないものでありました。

松下村塾の人々
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松下村塾の人々

德川齊昭らの大名や、吉田松陰らの志士は、幕府が國威を傷つけたことをなげきもし、また憤りもしました。その上、將軍家の世嗣問題もからまつて、直弼を非難する聲は、いよいよ激しくなりました。そこで直弼は、幕府に反對する公家・大名や、松蔭を始め橋本左内・梅田雲濱らの志士數十人をきびしく罰して、このさわぎをしづめようとしました。

尊皇の心にもえる志士たちは、幕府の命によつて、次々にいたましい最期をとげました。

  身はたとひ武藏の野邊にくちぬとも
      とどめおかまし大和だましひ

松蔭は、かう歌つて、國家の前途をうれへながら、まだ三十歲といふ若さで、惜しくもたふれました。しかし、松下村塾で育つた人たちは、よく松蔭の志を受けつぎ、また水戸の弘道館からも、續々尊皇の志士が現れました。

かうして直弼は、攻擊の矢面に立ち、萬延元年三月三日、つひに水戸の浪士におそはれて、櫻田門外でたふれました。昨日は心ならずも志士を斬り、今日は思ひがけなく志士に刺される。わが國にとつてのよくよくの難局でありました。ともあれ、直弼の死によつて、幕府はその威嚴を失ひ、尊皇攘夷をとなへる人々は、やがて幕府を倒さうと考へるやうになりました。

幕府は、朝廷におすがりして、世の信用をとりもどさうとつとめましたが、これがかへつて志士たちを憤らせました。その上、諸外國の居留民は、わうへいにいばります。あれやこれやで、攘夷の氣勢は、わき立つばかりです。

萬延元年、水戸の齊昭がなくなると、尊皇攘夷の中心は、東から西へ移つて、薩摩・長門・土佐諸藩の志士が續々上洛し、京都は、急に活氣づいて來ました。文久二年には、薩摩の島津久光が、大兵を率ゐて入京します。やがて、長門・土佐を始め西國の諸藩主が、次々に上洛する有樣でした。

おそれ多くも孝明天皇は、何とかして幕府に政治を改めさせ、國民の心を一つにしたいものとお考へになり、西國の諸藩も、幕府が
實美が勅を家茂に傳へる
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實美が勅を家茂に傳へる

人材を用ひて、失政をつぐなふやうにと望みました。そこで天皇は、まづ勅使大原重德を江戸へおくだしになつて、政治の立て直しをお命じになり、更に勅使三條實美を以て、攘夷の決行を仰せつけになりました。將軍家茂は、つつしんで仰せに從ひ、德川齊昭の子一橋慶喜らを幕府に入れて政治を改め、松平容保に京都の守護を命じ、文久三年、みづから上洛して、攘夷の日どりなどを奏上しました。

ところが、このころ長州藩と薩摩・會津などの諸︀藩との間に、攘夷に對する意見のへだたりから、不和が起󠄁りました。朝󠄁廷でも、攘夷を一時お見合はせになりましたので、攘夷に熱心な長州藩は、すつかり面目めんもくを失ひ、志士はあせつて、大和や但馬たじまで、尊󠄂皇攘夷の旗あげをする有樣でした。

 元治げんぢ元年、長州の藩兵が、京都で薩摩・會津などの藩兵と衝突しようとつし、勢あまつて、宮門きゆうもんををかしました。朝󠄁廷では、幕府に長州をお討たせになりましたが、藩主らが、ひたすらつみをおわび申しあげましたので、事はおだやかに、をさまりました。やがて朝󠄁廷では、内外の形勢に照らして、慶応けいおう元年、通商條約を勅許あらせられ、薩長の間も、土佐の坂本龍馬さかもとりようまらの努力によつて、もと通り仲よくなりました。

 ところで、幕府は、力もないのに、あくまで、長州藩をこらしめようとして、慶応二年、長州の再征を企てましたが、かへつてさんざんにやぶれ、この形勢不利のうちに、家茂は、大阪城でなくなりました。朝󠄁廷では、戰を中止するやうにお命じになり、やがて慶喜を征夷大将軍せいいたいしやうぐんにお任じになりました。

 慶応二年の暮れ近󠄁󠄁く、孝明天皇は、おん病のため、御年三十六歳で、おかくれになりました。御代は、弘化󠄁・嘉永・安政・萬延・文久・元治・慶応にわたつて二十一年、內外多事の折から、片時も御心をおやすめになるおひまもありませんでした。かしこくも、皇祖︀皇宗の神︀しんれいに、ひたすら國難︀を除くことをお祈︀になり、萬民をいつくしんで、つねに、その進むべき方向をおしめしになりました。朝󠄁廷の威光は、年とともに高まり、諸︀政一新の大御業おほみわざも、まさにらうとする時、にはかに、おかくれになつたのであります。まことに、おそれ多くもまた、悲しいきはみでありました。